「嫌い」

 彼は雨が嫌いだと言った。彼は鴉が嫌いだと言った。彼は煙草が嫌いだと言った。
 雨は僕を濡らすし、傘を持つのが面倒くさいから嫌いだ。鴉はゴミを漁る汚い生き物だから嫌いだ。煙草は臭いし、体に悪いから嫌い。そしてそれを吸っている奴は頭がおかしいからもっと嫌いだ。彼はそう言って私を見つめた。
 ――君も、そう思うでしょ?
 私は少し躊躇いながらも頷いた。本当は雨も鴉も煙草も嫌いではなかった。むしろ好きな方であった。しかし彼に「私は違う」と反論することによって嫌われてしまうのではないかと思うと、嘘をつくしか選択肢はなかった。恋というものは人に度々嘘をつかせる。そう思いながら私は笑う彼をじっと見ていた。
 彼のことは好きであった。しかし、嫌いなものを淡々と語る彼に、嫌いなことを押しつけようとする彼に、心の奥底で冷めた感情を抱いてしまったのは隠しきれない事実であった。私はそれを見て見ぬふりをして、繋がれていた彼の手をもう一度握り返した。



 閉められたカーテンの隙間から微かに月の光りが射す。なんとなく眠れず、隣の彼を見ると規則正しい寝息を立てていた。寝顔はこんなに子どものようなのに、最中は獣のようだから困る。私はさっきの出来事を思い出し、トイレに立とうとベッドに手をついた。
「ん……」
 あっと思ったときには彼に腕を掴まれていた。しかし目は開けられていない。寝ぼけているのかと顔を覗き込んだとき、彼の鋭い目が私を見つめた。
「どこ、いくの」
 不機嫌な声色に思わず笑うと、彼は体を起こし、私を後ろから包み込むように抱きしめた。そのまま首元に唇を押し当てられる。彼の熱が徐々に私に移っていくのを感じ、心臓の音が耳につく。暖かかった。
「トイレ、行ってきていい?」
「……はやくかえってきてよ」
 ゆっくりとした眠そうな声が背中から聞こえると、彼が私から離れ、ベッドに倒れ込む。見るともう寝ていた。なんだか少し離れがたくなり、顔を近づけまじまじと寝顔を見つめる。本当に綺麗な顔をしている。以前、彼は自分の鼻が好きだと言っていたが、確かにこの整った高い鼻は自分で惚れるのも無理ない。
 触れたい衝動を抑え、私は足音を立てないようトイレに向かった。暗闇から急に明るい光りに包まれ、私は思わず目を細めた。ふっと息をつき、便器に腰を下ろすと、私は今日のことを思い出した。毎回そうなのだが、こういうときどうしても頭の中で回想を巡らせてしまう。仕方ない。顔を緩められる場所はトイレと、一人の部屋とお風呂場くらいしかないのだから。
 今日は、久々のデートだった。前から私が行きたがっていたパスタのお店に連れて行ってもらい、お互いの近況をたくさん話した。彼はとてもニコニコしていて、珍しくワインも開け、二人で結構な量を飲んだ。今日はやけにご機嫌だなあと思いながらも、私も嬉しくてずっと笑っていたが、今考えればそれは彼の仕事が上手くいっているからというただ一つの理由によるものであった。
「それがさあ、」
 なにかあったの? と聞いた私に「よくぞ聞いてくれた」とでも言いたげな顔をして彼はそう切り出した。どうやら自分の任された仕事が順調で、上司たちからも太鼓判を押される存在になっているらしく、彼は得意げにそれを話すと、私の顔を窺った。その姿はまるで先生に褒められたことを親に報告する子供のようで、私はその可愛さに笑うのを必死で堪えた。すごいねと言い笑った私に、彼がワインを飲んで誇らしげな笑みを浮かべたのを覚えている。
 私に久しぶりに会えたからご機嫌だったなんて、そんなわけないよねと思いながらも少しだけ期待していた自分に、その真実は重くのし掛かった。ただその後「ホテル行こうか」と誘われ、ベッドの上で軀を重ねたら、やっぱり私がいる価値はあるのよねと満足してしまう辺り、私も単純な女だなと思う。
 トイレから戻り、布団の中にそっと入る。起こさないように静かに彼の横で身を縮こませると、私は目を瞑った。



 凝り固まった肩を自分の手でほぐしながら、淹れてもらったばかりの珈琲に口をつける。苦い。でも今の私にはこれくらいがちょうど良かった。
 彼に急用が入ったというので、待ち合わせの場所であった喫茶店で私一人残っていた。もう外に用はないのだが、なんとなくすぐに家に帰る気になれず、その場でいつもは飲まないブラックを頼んで、彼に貸すために持ってきていた本を開いていた。しかし、文字を追っても追っても頭に入らない。諦めて本を閉じ携帯を見ると、「本当にゴメン」というメッセージが届いていた。髪に指を絡ませ、引っ張る。痛んでいるせいでするりと抜けなく、私は少し苛ついた。
 こういうとき、私はいつも所謂「いい女」を演じてしまう。本当はその急用が何なのか聞きたいし、楽しみにしてたのに、なんていう憎まれ口の一つや二つ言ってやりたかった。でも、私にはできないのだ。その言葉でもし取り返しのつかないことになったら、そう考えると何も言えなくなってしまうのだ。
 返信をし、私は苦味を口の中いっぱいに含んだ。胸の奥がもやもやして、無意識のうちに舌打ちが出る。なに。仕方ないじゃない。きっと仕事で忙しいのよ。そのうちまたすぐ会える。なにをそんなに苛立っているのだ。
「……まるで子どもみたい」
 ため息を吐いてから、席を立ちお会計を済ませる。小銭を数えることも億劫になり、目に留まった五千円札を出した。かろうじておつりを渡してくれた店員さんに微笑んで外に出ると、鴉が一羽突っ立っていた。彼の嫌いな鴉。
「カァ」
 そう鳴いた鴉を私はじっと見つめた。よく見ると、綺麗な黒い艶である。よく濡れ羽色の髪は美しいと言われるが、なるほど、確かに鴉の黒は美しい。どこを見ても真っ黒だが、どこを見ても惹かれた。彼の言うよう鴉はずる賢くて汚い生き物かもしれないが、私にはそこを含めてもあまり嫌いにはなれなかった。
「バイバイ、鴉さん」
 そう小声で告げ、私は家に向かうことにした。あの鴉のおかげで気が晴れたようで、私の足取りは予想よりも軽かった。伸びをして鞄をしょい直し、左手で刻まれている時間を確認した。せっかく休日に外に出たのに、そうそう家に帰るのはなんだかもったいなく感じ、私は見慣れない道を歩いてみることにした。
 今日はひんやりとした空気が漂ってはいたが、とても晴れていた。雨の予報であったのが嘘のようだ。こんないい天気に彼と一緒じゃないなんて。そう思い隣に目を向ける。当たり前だが、誰もいなくやっぱり悲しい気持ちになった。仕方のないことではあるのは充分承知だ。しかし、この満たされない心をどうしてくれる、と言いたい気分であった。実際、そんな我が儘なことは言えるわけがないのだけれど。
「あれ、」
 しばらく辺りを見渡しながら進んでいると、可愛らしい外装のお店を発見した。窓から雑貨が売られているのが見える。周りは草木が手入れされずのびのびと生えていて、如何にも人の目から隠されているようだ。不思議な、どこか違和感のある雰囲気を前に、私は思わずバッグを持ち直し、姿勢を正した。こういう店には珍しいものが売っているかもしれない。わくわくしながら店に入ろうと近づいたとき、中からカップルらしき二人組が出てきた。
 その人物が誰か分かってしまった瞬間、私は草木の方に逃げていた。
 ……なんで?
 混乱する頭の中に女の声が響く。カワイイ。アリガトウ。ダイスキ。
「いいよ。久々にこっち来たんだもんな」
 私のときとは違う優しい声。その先の言葉を私はすでに予測してしまっていて、咄嗟に耳を塞いだ。でも、
「僕も大好きだよ」
 意味がなかった。聞こえた。聞きたくなかったのに。その言葉は私に向けられたものしか、聞きたくなかったのに。
 しゃがみ込み、必死で声が漏れるのを我慢した。ただただ目から溢れてくるものがスカートに染み込んだ。草木から虫の羽音が聞こえる。私は狂ったように頭を振った。なにもかもが気持ち悪く感じた。
 一番気持ち悪いのは彼が浮気していたことよりも、私がそれに対して案外あっさり納得をしてしまっているところであった。心の奥底でもう彼は私に対しての愛情がないことも、私が彼に対して冷めた感情を抱いていることも、分かってた。分かっていたのにお互い手放そうとしなかった。手放す勇気がなかった。
 胸の内で様々な感情が入り交じり、吐きそうになる。悲しい。寂しい。でも悔しくて、ムカつく。他人から見れば、なんで別れないのかと思って当然な状態だったのだろう。甘い夢に溺れてたんだ。煌めく理想を勝手に押しつけていたんだ。それがどんなに間抜けなことかも分からずに。
 馬鹿なだけだった。甘くも煌めいてもいなかった。ただ手放せなかった。
 涙をふき取った腕にマスカラがつく。それを見て私はふっと笑った。自分は今どんなにひどい顔をしているのだろう。虚しさと苛立ちをため息に変えて吐き出す。痺れた足を立たせ、膝についた土と草を払っていると、首元に冷たいものが落ちてきた。慌てて見上げた空は大きな灰色の雲に覆われていて、雨が微かに降っていた。そこを黒い何かが飛んでいく。
「鴉……」
 彼の嫌いな雨と、彼の嫌いな鴉。
 私は鼻を啜った。そして鴉を追いかけるように、濡れたコンクリートの上を急いで走った。



「この間はごめんな。急に上司に呼び出されちゃって。まったく休日なのに忙しいよ」
 大きな手が私の頭に触れる。目だけ上に向けて彼を見ると、苦笑いをしながら「そんな怒んないで。今日は大丈夫だから」と言った。何が上司だ。何が忙しいだ。問いつめたい気持ちを抑えて、私はまるで拗ねたかのように頬を膨らました。まだ、我慢だ。
 駅から出ると傘を開く音が周りで聞こえ、反射的に彼を見る。案の定機嫌が悪そうに目を細め、薄暗い空を睨んでいた。私が慌てて傘を差してあげると「最悪だな」と一言呟き、ため息を吐く。あなた、雨嫌いだもんね。その言葉を飲み込み、私は黙ったまま歩き出した。あっと声を上げ、慌てて彼が付いてくる。
 ――そうだ。私はもう彼に歩調を合わせるのは止めなければいけないのだ。
 追いついた彼が傘を奪い、空いた私の手を握る。低い声で「先行くなよ」と言われて、私は思わずゴメンと呟くように言った。握る手の力が強くなる。彼の手はこの寒い気温に似合わず暖かく、それがなんだか嫌だった。冷たければ離れやすいのに、都合の悪い手である。
「あのさ、ホテル行こうよ。寒いし、すぐそこだからさ」
 思わずえっと声が出る。驚く私に彼は片方の眉を下げて応えた。
「もう?」
「コンビニでなんかあったかいもん買ってさ。たまにはいいだろ」
 たまには、って。彼がこの間の約束をなしにしたことに対する罪悪感がもうなくなっていたことは明確であった。いや、最初から罪悪感なんて存在しなかったのかもしれない。それにコンビニで済ませようとするあたり、お金を私にあまり遣いたくないという示しであるように見える。だめだ。細かいところからどんどんネガティブな考えが浮かんでくる。まるで複雑に絡み合っていた糸が解れて下に落ちていくように。
 彼は私の返事も聞かず、近くのコンビニに寄った。すぐ買ってくるからと言われたので、仕方なく私は外で待つことにし、傘を畳んで壁に寄りかかった。寒い。手を合わせて息を吐くと白い煙となって空へ登っていく。まるで父の煙草のようだ。
 空から降ってくる雨を何も考えずに見つめる。どんよりとした暗い空。そこから黒い何かが降りてくる。ああ、鴉。また君か。バサバサと羽音を立てながら私の前に鴉はやってきた。雨に濡れてしっとりとした羽がとても綺麗で、思わず見とれる。
 ドアが開く音にはっとなり、隣を見る。財布をジーンズの後ろポケットにしまいながら彼が出てきた。しまったと思ったのも遅く、私の前にいる鴉に目を向けると彼は顔をしかめ、しっしっと手で追い払ってしまった。飛ばずに跳ねるように向こうに行ってしまった鴉に心の中で謝り、私は彼と向き合う。彼はちょっと高揚した様子で袋を広げて私に見せるとにっこり笑った。
「やっぱ冬はおでんだよな。セール中だし。それと肉まん。ピザまんと悩んだけど、お前肉まんの方が好きだろ。あと缶ビール買ってきた」
 予想通りの品々ではあったが、私はいいね、といつものように同意の姿勢を見せた。こうするのが一番楽なのだと思う。そして、一番ずるい。私はそういう人間なのだと無意識のうちに開き直って生きてきたが、なんだかそれにも疲れてきていたのかもしれない。とてもだるく感じた。
「あ、待って。ちょっと私買いたいものあるんだった」
 傘を彼に預け、急いでコンビニに入る。彼が文句の一つも言えないくらいそのときの私は素早かった。
 彼から、離れよう。そう思いながら私は適当な番号を店員に告げた。
  
 そのままホテルに着くと、彼はさっさとベッドに行きあくびを一つした。私は横目で彼を見ながら小さな丸いテーブルに袋を置き、中から肉まんを出して彼に渡してやる。にっこりと笑ってから受け取り頬張る姿を見て、私は何かがすーっと醒めていく感覚を味わった。以前ならこの姿が愛おしくてたまらなかった。彼の見せる子どもっぽい一面が好きであった。なのに今、私は愛おしいどころか苛つくようなもやもやするような気持ちでいっぱいになっている。
 おかしな話だ。人間という生き物はこうも冷酷になるものなのかと少しショックを受けた。つい何日か前の私とはまるで別人のようで。それに私自身戸惑いを隠せなかった。怖い。その感情が一番大きかった。
「おいで」
 優しい声。でも、あの女とはまた違う。どうしても演技をしているようにしか思えなかった。彼が私の頭に触れようとしたとき、反射的に目を瞑り仰け反った。手が震える。目を開けると不思議そうな顔をした彼が手を浮かせたままでいた。
「なに。どーしたの」
 いきなり低く、苛立ちを含んだ声に変わる。何も答えずにいると彼の方から近づいてきて、私の腕を掴んだ。そのままぐいっと引っ張られ、彼に寄りかかる形になる。
「いたっ」
 肩に痛みを感じ、横に目を向けると彼が私のセーターをずらし、歯を立てていた。そんなことは初めてで、私は驚いて抵抗した。彼の胸を必死に叩き、離れようとする。しかし彼は全く動じず、私の手首を掴んだまま離そうとしない。
「なんで、まだ私に」
「なに?」
 少し怒ったような声で彼が聞く。思わず涙目になる私を見て、また不思議そうな顔をする。
「なんで、なんでまだ私を手放さないの」
 ――他に女がいるくせに。
 肝心な言葉が消えて、喉の奥に引っ込んでしまった。なぜか頬にひやりと何かが伝わる感覚がした。え、という彼の驚いた顔を見て、私は頭が真っ白になる。ただただ掴まれた手首が熱くて、腕に落ちてくる水滴が冷たい。
 もう一度、伝えなければ。唾を飲み込んで口を開いたとき、彼が慌てて遮るように声を出した。
「い、痛かった? なんかあった?」
 熱が逃げていった。「手放さない」の意味を「掴んだ手首を離さない」だと勘違いしたのか、はたまた分かっているくせに誤魔化しているのか、彼は私から少し離れた。
「違う。そうじゃないの。ちゃんと聞いて」
 首を横に振りながらなるべく声を張り上げる。弱いところを見せちゃだめだ。きっとすぐ飲み込まれてしまう。涙を拭い、垂れてくる鼻水を啜って戻す。ベッドのシーツを握りしめてから思い切って顔を上げ、彼をじっと見つめた。半開きだった彼の唇がきゅっと締まる。
「他に、彼女がいるんでしょ?」
 沈黙が降りてきた。外の風の音だけがする。一旦目を落としたが、すぐに私を見て「は?」と声を漏らし少し引きつった笑みを浮かべた。
「なんで」
 威圧感のある声が私の胸に響く。この声は、弱い立場になりそうになったとき、彼が自分を守るためによく使う。そうやって脅せばその場を凌げるという安易な考え方が、とても幼稚で醜く思えた。そして、今私の方が優位に立っているのだと分かると気持ちが楽になった。
 先ほどの混乱はもうなく、私は嘘のように落ち着いていた。シーツを握る手を緩め、冷静に話し始める。
「この間……私と会う約束してた日。その日あなた、女の人と会ってたでしょ。その人、」
「誰に聞いたの」
 また、遮る。私は眉間に皺を寄せ、目線を下げた。ベッドの下にあるゴミ箱に、彼の食べた肉まんの紙が一つ捨ててあるのが見える。なんだか悲しいような虚しいような感情に襲われ、私はそのままぼうっとしながら口を再び開いた。
「見たのよ。あなたと女の人が一緒にお店から出てきたの」
 言いにくかったはずの言葉が不思議なくらいすらすらと出てきて、自分でも驚く。しかし、もっと驚いたのは彼の乾いた笑い声が耳に入ったことであった。
「やだなあ。あいつはただの友達だよ」
 そんなドラマの台詞みたいな言葉が聞きたいわけじゃない。
 すっと手が伸びてきて、私の頬に触れる。親指で涙の跡をなぞられる。猛烈な嫌悪感に私は彼を睨んだ。その視線にまるで気付かない奴は私の肩に顎を乗せ、嫉妬しちゃったんだ、と耳元で低く囁いた。
 鼻で笑いそうになるのを堪え、あえて否定もせず抵抗もしないまま、なんとなく彼の細く長い指を見つめる。
「じゃあなんで嘘吐いたの? なんで私より友達の方を取ったの?」
「それはさ、」
「なんで、その人に大好きなんて言ったの?」
 体を離し、ばつの悪そうな顔を私に向ける。今、彼の心の中ではどんな感情が渦巻いているのだろう。
「ゴメン。嘘吐いたのは、お前に心配されたくなくて。そんで、大好きって、そういう意味じゃなくてさ、友達としてだし、僕は君の方が好きだから、だから、許してよ」
 歯切れの悪い、とても間抜けな言い訳。そして、肝心なところは説明しない。呆れて言葉が出なかった。こんな男のどこに惚れていたのだろう。どこにあんなに夢中になっていたのだろう。自分の淋しさを必死に彼で埋めようとしていただけで、実際彼じゃなくたって良かったのかもしれない。その役に回ってくれたのが、彼しかいなかっただけで。
 自分も充分間抜けな人間だ。
「じゃあ、もうあの人と会うのはやめてね」
 にこりと笑みを浮かべながら私はそう告げた。彼がなんと言うかは予想がついていた。嘘を突き通し続けて、けじめをつけようとしない彼に、あの女を手放すことなんて出来るはずがない。そう分かっているのに、もし了承したとしても関係を続ける気はないのに、私は意地悪にもそんな言葉を吐いたのだ。
「は? なんで会っちゃだめなんだよ。友達だって言ってるだろ?」
 案の定反論する彼に、口元を緩ませながら「だって」と続けた。
「私、あの人嫌いだもん」
 これが、私の最初で最後の我が儘だ。あなたに従い、同意し続けてきた私の、唯一の我が儘。
「嫌いだから会うのをやめろって、お前それはちょっと我が儘がすぎるだろ」
 呆れたようにそう言う彼に背を向け、ベッドから降りる。おい、と投げかけられた声を無視して、自分の鞄から煙草とライターを取り出す。口にくわえると僅かに煙草独特の匂いがした。カチッという音が静かな部屋に響く。先端が赤く燃え、白い煙がゆらゆらと上がっていくのを見ながら、私は口の中に溜めていた息をふーっと吐き出した。心臓が鳴っている。振り向くと彼が驚いた顔でこちらを見ていた。
「なに、なに煙草なんか吸ってんだよ!」私から煙草を奪い取り、近くに置いてあった灰皿に押しつける。「僕が煙草嫌いなの知ってるだろ!」
 知ってるよ。あなたは雨と鴉と煙草が大嫌いで、私はそれに随分振り回された。雨の日はすこぶる機嫌が悪くて、そんなとき私はその日会うことに決めたのを後悔して、自分をなぜか責めた。機嫌が直るよう、彼に従った。鴉が現れたときには離れろと言われた。言うとおりにした。煙草があるところには行くなと言われた。だから居酒屋には行かなかった。考えると、なぜあんなに彼の言うとおりに動いていたのだろうと思う。今更気付いたんだ。
「嫌いだから吸うのやめろって、あなたそれはちょっと我が儘がすぎるんじゃないの?」
 彼が私を睨む。両手を握りしめて、ただただじっと睨んでいた。私は目を細めて彼を見つめた。なぜかくらくらしてきて、私は額に手の甲を当てた。
「違う。煙草は体を害するって何度も言ったじゃないか。僕は君の体を心配してるんだよ。でもあの女に僕が会ったって、僕も君もどこも悪くならないじゃな、」
 痛々しい音が、私の手から生まれた。もう、限界だった。
「心がないの? あなたは」
 赤くなった頬を押さえてわなわなしながら、彼が私の手に視線を向ける。鼻の奥がつうんとして、私は下唇を噛みしめた。血が出そうなほど強く、強く噛んだ。鼻の横を涙が通っていく。
「確かに煙草は体を害する。でもあなたは咄嗟に嫌いだからという理由を私にぶつけたわよね。煙草だけじゃない。雨。鴉。あなたは自分の嫌いなものをさんざん私に押しつけてきた。結局、あなたは『自分の理想に反する私』が許せないだけでしょう? それと、あなたがあの女の人に会ったところで体が傷つくことはないけれど、私の心はとても傷つくと思う。それを分かってくれないなら、もう……終わりにしましょう」
 堰を切ったように言葉が出てきた。まるで別人のような私がそこにはいて、こんな私が私の中にいたことに驚いた。いや、こんな私も彼が引き出してしまったのだ。なんと悲しく、虚しい話なのだろう。私はひりひりと痛い右手を握った。
 分かったから、と彼が慌てて言う。その続きを言われる前に、私は口を開いた。
「たとえ分かってもらえたとしても、終わりにしましょう? あなたが私に固執する理由なんてない。私も、あなたに固執する理由はない。あなたがあの女とどういう関係かという話の前に、もうあなたに対する愛情が、私には、ないの」
 呆然と立ち尽くす彼に小さく微笑んだ。煙草をもう一本取り出し、火をつける。ゆらゆらと、白い煙が彼の方へ向かっていく。もう、彼はそれを奪おうとはしなかった。ただ、そっか、という沈んだ小さな声が聞こえた。
「さようなら」
 つけたばかりでまだ長い煙草を消し、自分の鞄を右肩にかける。彼は何も言わなかった。私のことを見ようともしなかった。それで良かった。
 橙色の明かりに照らされたドアを開けて部屋を出ると、私はケホッと咽せるように咳をした。

「嫌い」

「嫌い」

手放すことは、勇気がいる。でも、人はそれを必ずしなければいけない。

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登録日
2015-12-02

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