2G

2G

When you notice the corps, corps witness you as well, remember.
(死骸を認めたとき、奴らもお前を見ているのだ)

1-1:Arrival

よく晴れた空は全てを包み込むようにして柔らかで鮮やかだ。薄くたなびく雲は、水彩絵の具を引いたかのように散り散りになっているが、その欠片でさえも空に必要不可欠なものだった。芸術家のような繊細さ、大胆さは持ち合わせてはいないが、この大空を見た者の中には、心惹かれ、この美しさを表現する者もいるのかもしれない。人は翼を持たない。持たないが故に、何もかもが遠く高い世界に憧れを抱き、情景を心とキャンバスに描き続けるのだろう。…生憎、そこまでセンシティヴになることも出来ず、己の身はただただ、囂々と蠢く輸送機の胎内で小さな窓から、視界いっぱいに広がる蒼穹と、眼下に広がる赤茶けた大地を見続けているだけだった。客室も設けていない、ただの小さな民間軍事企業が有するごく一般的な輸送機だ。ハイテクノロジーも機密も特に積んでいない、言うならば格安で人間を送迎出来るボロい旅客機だ。出費を考えたら、こういう手段を取るのが妥当だろう、と頭で納得はしたがどうにも居心地は悪かった。貨物置き場を簡易的に人間が座れるようにこしらえたとは言え、ケツはずっと痛いしサービスの水さえ出ないクソな空間だ、これがまともな人間の輸送手段かと言われたら答えはNOだ。だが、そう上が決めてこういう手段で目的地に行けと言われたら、従わざるを得なかった。それが我々傭兵の職務であった。
変わらない景色を見ていた視線をふと落とし、俺は少しよれてしまった茶封筒の中から、資料を取り出す。何十年も前から、この地域近隣を勢力下に治めている民間軍事企業の「新規テストパイロット募集要項」だった。少し前に、歳の離れた兄から連絡があり、良かったら受けてみないか、と誘われ貰ったものだ。中身を見てすぐに受けようと思った。法外な報酬、先進システム導入済みの最新鋭機体――特殊精製燃料によるジェット戦闘機である。今どこの民間軍事企業を見ても、これだけのスペックのものは乗ることはおろか、開発すら始まっていない。これだけのものを作れる科学者や開発者がいないのと、「あまり進歩したものを作ってはいけない」という嫌な風潮のせいだった。人間は進歩する生き物であり、そしてその進歩は人間が成長する過程で必要不可欠な要素であるのは間違いないのだが、約三十年前に突如として出現し始めた「害獣」の存在により、進化の過程は強制的なストップをかけられたのだ。観測不能、対処方法が現段階においてまだ解明されていない上、我々人間の進捗が停滞している中、奴らはどんどん変容している。つまり、技術革新が全て好転になるとは限らないということ――害獣どもは我々の行動や技術を全て「真似てきている」からだ。…が、そこまで世界的に技術革新へ消極的になっているのにも関わらず、飛行型の害獣が出始めて以降、現状対処出来うる機体を作る企業は多々あれど、ここまでのスペックのものを出したところは、今回が初めてだったのだ。
手のひらにあった資料をじっと見つめた。文字は既に頭に入っている。「陸軍第一拠点」――軍だなんて旧式な上大層な呼び名を使っているが、中身は他のPMCとそう変わらないだろう。だが、階級としての軍人扱いをされ、大尉だとか中尉だとかの名称で呼ばれるのはここ最近なかったため、どこか久しい気分だった。無論、もし採用されたら、の話だが。
『間もなく着陸態勢に入ります』
輸送機パイロットからの無機質なアナウンスが入る。おまけ程度の耐衝撃シートベルトを確認すると、とりあえずないよりかはマシだと考え装着しておいた。ふと視線を向けた眼下には、森林地帯が遠くに広がる以外、ほぼほぼ荒野になった地上が見えた。剥き出しの大地に小規模な街のような小さな民家が少しだけあり、鉄線と壁で覆われている。街のほとんどがPMCの庇護下に置かれているようだった。まるで檻のようだと遠く思う。街を覆う鉄線の奥に、古めかしい滑走路が二本と、敷地面積の大半を占めるコンクリートで出来た要塞が見えた。兄も働く、あれが陸軍第一拠点か。
どんなものが待ち受けているかは勿論予測は出来ないし、あれだけの法外な報酬を提示してきているのならば、何かしらこちらへのデメリットも考えられる。だが、それを覆したくなるほどの魅力的な機体を動かせるのならば――話に乗らない方が愚かだった。狭く堅苦しく、そして息が詰まる地上などより、俺は何よりも空にありたかった。その願いを昇華するに値するものがあるかもしれないのならば、賭けるしかない。
知らずうちに口角が上がっていた。これは歓喜だ。この青い空を、広い空を、駆け巡れるという喜びの感情だ。輸送機は見る見るうちに高度を下げ、雲の筋を切って鈍い音を立てて着陸した。

1-2:Meeting Again

荷物は最小に留めた。むしろ荷物らしい荷物を普段から持ち合わせていない性分だったのが幸いして、航空力学の愛読書数冊と財布と煙草とジッポ、それからずっと愛用しているサングラスしか持ってこなかった。随分軽装ですね、と輸送機パイロットに言われたが、それほど要るものなどありやしなかった。いつ死ぬか分からない、という安直な答えではなく、不必要なものは余計な要因にしかなり得ないからだった。人間が暮らしているところに行けば衣服も住居も食事もありつける、それだけ文明がある程度発達している場所しか俺は行かない。何故かというと、文明がなければ機械の歯車、つまりは戦闘機が機能しないからだ。戦闘機乗りというのは厄介な生き物で、自分一人では飯を食っていくのは到底容易なことではない。エンジニア、システム開発者、アビエイター、科学者など、周りの支援と協力があって初めて実現出来る職業だ。俺自身が戦うときは確かに一人だが、その戦支度をするのは他の人間の仕事だ。要は周りが相応に出来る者でないと、うまく飛べないときですらあるのだ。新たな巣として候補になったここ陸軍第一拠点には、俺を呼び寄せた歯車の一つ――実兄であるキリコがいた。汎用型一般兵器開発を他地域の研究所で行っていたが、資金繰りの問題でこちらに移動してきたと聞いていた。素質は充分だが、研究を行うには不十分な施設だったためにあいつも不満が出たのだろう。ここに来るには、奴も妥当な理由を持っていた。…が、それにしても、兄をここの研究職付けにさせるだけの豊富な資金があるとは、なかなか驚きだった。無論、最新型戦闘機を作り出す予算もだが。
日差しが強い中、輸送機から離れてサングラスをかけた。だだっぴろい滑走路近くはあまり整備されておらず、むしろ雑草が認められるぐらいに放置されている印象があった。エプロンからハンガーに入った輸送機を見送る。こんなところであれだけのスペックの戦闘機が作られているとは、どうにも考えにくい。考えにくいが、兄は嘘はつかない性分のはずだ、一応信用してもいいのだろう。煙草をくわえて火をつけて、拠点本部へと足を向ける。滑走路は裏手側に当たるらしく、輸送機パイロット曰く「正門からお願いします」とのことだった。面倒だが半周して正門から入る他ない、今はまだここのパイロットではなく、試験飛行をしに来ただけなのだ。正門側へ回ろうと滑走路近くから離れると、拠点本部の裏門らしきところから白衣姿の男が出てきた。抜群の視力で視認した男は、見覚えのある顔だった。俺とかなり似た顔ながら、小柄で如何にも科学者らしい体躯の黒髪が、大きく手を振りながらこちらに走り寄ってきた。
「久しぶり、だな、キリヤ!」
俺の眼前に着いた途端、走り慣れていないせいか肩で息をつくキリコに、肩を竦めた。元気にしているか、痩せたな、そんな気遣いをかけてやろうと思っていたのだが、何の変わりもない実兄の姿にそれしか行動出来なかったのだ。くわえた煙草はそのままに、己の視線より随分小さい兄の姿を認めて、ああ、と返事をした。
「何も変わっていないな」
「お前が、大きく、なっただけでしょうが!…ふーっ、疲れた。久々にこんなに走ったよ」
そう言って肩を叩かれ、無事着いて良かったよと笑われた。研究しているときと良く似た笑顔だった。久方ぶりに見た兄の笑顔でようやく、このキリコという人物像が再合致するような気がした。それぐらい長い期間会っていなかったらしい、とどこか他人事のように思った。
「久々にゆっくり話もしたいんだけれど、申し訳ないがすぐに大将執務室へと案内させるように言われていてさ」
「無論そのつもりだ、構わん」
そう言って煙草を一息吸うと、地面へ放り踏み消した。ここ禁煙エリアなんだけど、という兄の言葉は聞かなかった振りをして、兄に連れ立って正門へと向かった。
道中兄から聞いた話によると、今回の新規テストパイロット任用募集は、急遽決まったものらしい。元々ここ陸軍第一拠点――何度でも繰り返すが、軍とついてもここはただのPMC、傭兵部隊にほど近い組織だ――は地上型の対害獣戦に特化した軍事組織だったそうだ。四、五十年前から対人戦を繰り広げ、害獣が出てからは専ら陸上戦での対処だけで済んでいたそうだ。地域性による害獣分布も変わっているのは既に学会などで公表された事実だが、その害獣の地域性による種類差、個体差がこの地域でも確認されたらしい。無人機は既に開発され、登用自体も始まっているのだが、やはり機械では到底追いつけない「人間自身の思考回路」を研究するために、有人機による検証実験が必要になったそうだ。要は、無人機でも対害獣戦に用いることが出来るレベルにするため、テストパイロットによる飛行訓練とデータが即座に要りようになった、ということだ。
「捨て駒にも聞こえる言い方だな」
大将執務室へ向かう中、天鵞絨の絨毯を踏み締めながらそう兄に言い放った。人間の脳味噌が結局無人機のために使われるという事実を、兄も理解はしているらしい。キリコはと言うと、渋い顔をしつつも、腐ってもそういう言葉を大将の前で言うんじゃないぞ、とやや早口気味に言ってきた。俺は事実を言ったまでなのだが、どうやらここでの事情は少しばかり複雑なようだった。大体何が「大将」だ。軍事企業ならばCEOとでも名前を変えたらいいだろうに、企業の名前もそうだが何故そこまで軍の名称に拘るのだろうか。いまいち理解出来ないここの組織の成り立ちに疑問を覚えつつも、大きな樫づくりの立派な戸を前にして俺はとりあえず押し黙った。
「いいかキリヤ。普通の面接としてやってくれ。何か言われてもそつのないように、」
「言われなくても理解している。何をそんなに警戒しているんだ兄貴は」
「その兄貴って呼び方も駄目だからな。…全く、昔は可愛く兄さんって呼んでくれたのに…」
ぶつぶつと何かを呟いている兄は最早捨て置き、俺は今所属している軍事企業の制服の襟元を少し正した。ネクタイが窮屈でたまらなかったが、緊張による冷や汗も出ないまま扉を二つノックした。

1-3:General and Engineer

樫の扉の向こうは、よく映画やドラマで見る光景に良く似ていた。豪奢な絨毯とデスク、チェア。広い窓からは先に見かけた広い滑走路の端が見えている。そして古めかしい本棚には意味の分からない蔵書が揃えられ、大体水槽の中に魚が優雅に泳いでいるものだが、残念ながらこの部屋にそれらしき水槽は見あたらなかった。その代わり、と言ってはなんだが、椅子に座る金髪の男と、もう一人眼鏡をかけた白衣姿の男が認められた。連れてきました、と隣にいるキリコが一声添えたのを合図に、俺は軍人らしく(ここではそういう習わしらしい、面倒なこと極まりない)小さく敬礼をした。
「テストパイロット試験飛行にやって参りました。ジール・K・ウールフェードです。よろしくお願い致します」
台詞が終わると同時に、椅子にかけた金髪の男の視線がすっとこちらを向いてきた。
「長旅、ご苦労様でした。陸軍大将のジャガーです」
そう言うと、ジャガーと名乗った「大将」は立ち上がり、どうぞ席へ、と手のひらを差し出した。立ち上がるととてつもなく上背のある男だと感じたが、毛皮の襟巻つきのきてれつな軍服らしき制服を身に纏っている以外は、特筆すべきところはなかった。貫禄よりかは制服や襟足の長い金髪などといった派手さが目に付くと言えば妥当だろう。俺はジャガーの言葉に頷いて、中央に誂えられた長椅子に席にかけると、ジャガーと隣の眼鏡とともに向かいの席へと腰をついた。キリコは黙ったまま立っていたが、眼鏡の男が同席して構いませんよ、と声をかけたあと、俺の隣へと座った。
すぐに配られる資料は、事前に配られた資料の他に目新しいものがいくつかあった。その中に同意書を見つけるが、とりあえず見なかったことにした。そうこうしているうちに眼鏡の男がとんとんと資料をまとめると、テストパイロット選定総括をしている田中です、と名乗った。黒い短髪で、こちらも背の高い男だった。科学者の一人なのか、キリコに良く似た雰囲気ながらどこかルーズな空気を感じた。それよりも、タナカ、という珍しい響きは、俺の脳内へとすぐに染み着いていった。
「すぐに概要説明に入らせて貰いますが、いいですか」
「構いません」
そう言うと資料を目に通しながら、田中の淀みない説明が始まった。何故このような選定が始まったか、について。先にキリコから説明があった通り、無人機自体のスペック上げを目的にした人間の思考回路研究のためということが述べられた。そして俺が搭乗する機体スペック。試作機「YFー004」。前進翼機、推力偏向ノズル、特殊カナード、そして特殊精製燃料による爆発的な火力、最大12G、マッハ2.5に至るアホのような推力。エンジンも改良に改良を重ねたものだ。現時点でこのタイプの戦闘機を駆る傭兵、軍事企業はおそらくいない。この機体が出来ると仮定して論理自体は組み上がっていたが、実装に至るまでのところは、予算管理費、及び科学者の質の低さから成し得なかったのだ。よって、現段階における航空戦では最強クラスの試験機になるということが、スペックから理解出来た。事前に貰っていた資料以上の情報を知り得て、心臓が少し早鐘を打った。早く乗りたいという焦燥感と、震えるほどの歓喜を覚えていたからだ。
「以上です。質問がなければ、こちらの同意書にサインしてもらえますか」
事務的な作業のように連なった言葉の最後に、田中はそう言ってペンを渡してきた。同意書。先ほどちらりと見えたものだ。目を通す。内容としては、この試験飛行で何かしらの事故が起きたとしても、公表せず黙認し全て自己責任として処理すること、賠償金等は一切支払われないということだった。この辺りはキリコから何も聞かされていなかったため予想外であった、が、最悪の事態としては想定内ではあった。うまい話には必ず裏があるということだ。小さく喉奥で笑うと、俺は金髪の男――ジャガーへと向いて、煙草いいですか、と訊いた。微かながら煙草の香りが残る部屋だと分かっていた。ジャガーは薄赤い目を一つ瞬かせてから、己のデスク上の灰皿を取ると、どうぞ、と俺の眼前に置いた。足下でキリコが俺の足を蹴ってきていたが、放っておく。どうも、と謝辞を表したのち、胸ポケットから煙草を取り出してジッポで火をつけた。無言のままの室内に、俺が煙草を吸う音だけが響いた。一口吸ったあと、煙草の先についた灰をとん、と落として、同意書の紙面を指先でつついた。
「一つ質問が」
「どうぞ」
田中は表情筋を一切動かさないまま機械的に頷いた。
「これを書いた人間は何人か訊きたいんですが」
その言葉を聞いた途端、キリコの視線とジャガーの視線を同時に感じた。何を意味しているのか、言わずとも分かる空気感だった。田中はと言うと、一瞬だけ空を見つめてから貴方で二人目です、と端的に述べた。俺は続けざまに、では俺が乗る機体に搭乗した人員数は、と訊くと、四人目です、と正直な答えが返ってきた。つまりは、そういうことだ。甘く香しい果実ほど、毒を持つ。その香りに騙されて死んでいった人間も数知れず、ということか。なるほど、ますます面白い話だ。最新型戦闘機の試験飛行が、メディアに報道されないわけだ。普通大抵の軍事企業であれば、メディアを通してプロパガンダ的な広告をするはずだ。広告、アドバタイズメントというものは、広告を出した側への利益追求のために行われる。広告を知った人間からのオファーがあれば、スポンサーになってもらい新たな技術革新や進展が見込まれるからである。が、この軍事企業が先進的な兵器をここまで秘匿しているのには、こういうわけがあったからだ。死人に口なしとはよく言うが、まさにこのことだろう。今までこいつ(戦闘機)に乗って帰還した者が誰一人として残らず――物言わぬ死骸となったわけだ。広告に出したくとも、ただの悪名売りになってしまう現状がこの軍事企業が抱える問題のようだ。そこまでを理解したあと、俺は短くなった煙草を灰皿に押しつけると、左手にペンを持ってフルネームでサインをした。お誂え向きというか、その程度のことで空から降りるわけもない。サインをしたあと、俺はジャガーと田中へ視線を向けて微かに笑ってやった。
「了解しました。ご説明ありがとうございます。喜んで試験飛行に携わらせてもらいます」
「快諾して頂けて助かりました。今後の予定は追って連絡致しますので、今日はひとまず身体を休ませて下さい」
俺が断らないとは全く思っていなかっただろう言動で田中は言い切った。そして話は終わりだとでも言うように、ジャガーと田中は立ち上がった。俺も腰を上げると、キリコと連れ立って退室した。兄弟水入らずの話でもして下さい、と田中に言われた本部の宿舎棟、おそらく部外者のVIP専用の客室に通された。広々とした豪奢な部屋に二人きりになった瞬間、キリコはキリヤ、お前な、と呆れた視線を投げてきた。
「普通にしろって言っただろう?」
「至って普通だったと俺は思うが」
「いや、普通じゃないだろうどう考えても...」
頭を抱えてソファで丸くなるキリコを見ながら、夕暮れに差し掛かった陽を浴びて、大きな窓辺から基地を眺めた。見晴らしのいい滑走路奥に、俺が明日乗るであろう化け物がおそらく息を潜めている。静かに淡々と息をしている――だがその吐息は四人の人間の命を刈り取ってきた。まさしく死に神なのだろう。…いや、その死に神に選ばれなかった人間の腕が悪かっただけなのか、それは分からない。兵器を扱いきれる者だけが勝者となる世界なのは、重々承知しているはずだろう。ただ、害獣を殺すための兵器が、人間を殺している。その面白い事実に、俺は肩を揺らすしかなかった。
「果たしてどちらが害獣だろうな」
俺の放った独り言は、兄には聞こえていないようだった。ただ静かに、赤く染まった夕焼け空に煙草の白煙が混ざっていくだけだった。

1-4:Family Gathering

どこから用意したかは知らないが兄は用意周到で缶ビール各種と酒のつまみを調達してきていた。一度研究棟に戻るからと言って帰ってきたときには胸に抱えたスーパーの袋を重そうに持ってきた。兄弟水入らずの話をしよう、と笑っていたが、この歳になって兄とここまで話す時間を設けたのは今回で初めてだった。兄は多忙な人間だった。研究者として卓越した知識を持ち学会でも多くの発表をしている。父親が研究職だったのもあってか、兄は幼い頃から何かを学び吸収し研究することに没頭していた。大人になってもその癖は抜けず、結局父親と同じ轍を歩むことになっていた。専門は汎用兵器――つまりはファイアアームズの開発だった。工学系に特化した兄だったが、趣味で物理学も学んでいるため、その面差しは父親のものに良く似ていた。キリヤも研究職になれば、と誘われたが、自分自身は兄のように没頭して研究し、解明されていない事象を探求していくより、もっと単純で簡素化された作業の方が好きだった。戦闘機パイロットは、その点では自分自身が学んだ航空力学などを生かして就ける職としては最適だった。IFFで確認した害獣を、ミサイル発射ボタンを押して殺す、シンプライズされた説明で戦闘機パイロットを表すとしたらこの言葉で済む。幾度となく兄には勿体ない、それで満足なのか、と言われたが、むしろこの世界を知ってしまったら地上には戻れなくなった。重力を感じながら目標を撃滅していく狭くも広い空は、肉体的な息苦しさはあっても、精神的には開放感に満ち溢れた楽園だったのだ。
「じゃあ、しばらくPMCに勤めているわけ?」
キリコは缶ビールを開けて一口飲むと、少し赤らんだ顔で聞いてきた。パイロットでいることを糾弾されることもなく、もう奴は俺が空にあることを納得した様子だった。俺は頷くと、もう何本目になるか分からない缶ビールを空にしてから煙草に火をつけた。
「軍という媒体がほぼ意味をなくしたこの世の中で、戦闘機に乗るには自ら戦場に飛び込む他ない」
「害獣が出てからは世界秩序みたいなルールも消えたようなものだものな。傭兵稼業が昔から盛んだったのも関係あるのかもしれないけど」
人間対人間の極普通な闘争社会が終焉を迎えたのはそう昔の話ではない。俺やキリコが生まれてすぐくらいから害獣という突飛な、言わば”化け物”が現れたせいだった。それまでは軍という社会システム上武力行使が可能な組織が多くあったが、害獣への対処を考える民間企業の財力や開発力に負けて衰退していった。対人戦をして小競り合いをしている暇などなく、今現に最大の脅威として出現した対害獣戦へのシフトチェンジがされていったのだ。無論今でも歴とした軍体制を敷いているところもあるだろうが、忠誠心や規則などで対応し切れる問題ではなくなった。人類の存亡をかけての戦いになると人間というものは素直なもので、自らの命を賭してでも勝利するという目的よりも、より長く生き残ることが出来、なおかつ報酬が莫大なところを選んだのだ。民間軍事企業が栄える原因としては、充分な理由だった。
「好きなこと出来て金儲け出来るんなら、キリヤはPMCが向いているよ」
兄は感慨深げにそう言う。煙草の白煙を見つめながら、俺は無論だ、と相槌を打った。
「でもさ、歳には勝てないんじゃないのか?」
「現時点においてパイロットに明確な年齢制限は設けられていない」
「そういうことじゃなくてさ、もし飛べなくなったときが来たらどうするんだ?」
キリコは身体的な話をしているらしい。俺はとっぷりと日が暮れて、闇に包まれた窓辺からそっと空を覗いてみた。もし飛べなくなるときが来るとしたら、というのは頭の片隅に問題点としてしっかり居着いている。三十路手前のこの身体は不老ではない。いずれ飛べなくなるときが肉体面に出てきたら、そのとき俺はどうするのだろうか。あまり考えたくはないが、降りる他ないだろう、と真顔のまま答えた。
「降りたあとは?」
「何だ、科学者になれとでも」
「まあそういう答えを期待したんだけれども」
「神の采配に任せる」
「無神論者が何を言うんだか…」
上気した頬で、キリコはやれやれと肩を竦めた。もしくは、という答えは言わずまま、俺は心の中に留めておいた。身体は不老でもなく、不死でもない。もしかすると、この身は空で散るべきなのだろうか。酒が入ったままの頭はいつものような考えとは全く違うものを思い浮かべる。酩酊してはいないが、こういったことを思考するのも良いのかもしれない。そんなことを考えていると、キリヤ、と呼ばれ視線を兄に移す。ふかふかのソファの上に、立派な酔っぱらいがいた。
「…酔ったみたいだ」
「だろうな」
「介抱してくれ可愛い弟よ…」
「可愛い弟という言葉の解釈に困る」
事実可愛いという言葉は、生物学上男性である俺自身に使う意味合いを持っていない筈ながら、キリコは俺の言葉を聞いていないらしい。そういう言葉はいいからさあ、とキリコはソファで寝ころんだ。どうやらこの基地に来ての最初の任務は、この馬鹿たれの世話らしい。夜はまだまだ長く終わりそうにない。

1-5:Briefing

酒は飲んでも飲まれるなという言葉を思い出していた。昨晩久方ぶりに再会した兄キリコと飲み始めたことからおそらくその慣用句を頭に思い浮かべていたのだろう。兄は思っていた以上に酒に弱かったため、開けてしまった缶ビールの処理を任されたのは言うまでもなく俺だった。明日テストフライトがあるというのにも関わらずやらかしてしまったのだ、だが罪は俺だけでなく「久々に飲もう」と笑顔で誘ってきたキリコにもあるはずだった。お互い酒臭いのは理解していた、正体をなくす直前まで飲んだことはそれぞれ秘密のまま臨んだ。無論、身体的にキリコよりも俺の方がアルコール分解能力は高く、起きたときには昨晩のだるさは吹き飛んでいたのだが。
0400、起き出した俺は熱いシャワーを浴びた。招待客用の専用ルームは簡単に熱い湯が出て正直驚いたものだ。あの歓迎っぷりを見る限りでは、どうやら俺は「今まで試験機に乗って物言わぬ屍になった奴ら」と同じ穴の狢だと思われているらしい。故にここまでのVIP待遇を受けていると自分自身が何をしに来たのか分からなくなってしまいそうだった。短髪がシャワーの滴を受け止めきれずにしなっている。そう言えば、どこかの国のおとぎ話にあったか。あたたかいもてなしを受けた旅人二人が、実は食われるためだけに身体の垢を落として湯を浴びたというものだ。何事にも贄という存在がなければ対価は支払われないという教訓だ。ならば俺は、試作機に乗るという目的のために自らの命を犠牲にするということなのだろうか。馬鹿馬鹿しい話だ、元々人間があっての機械だ、命を対価にするなど不貞不貞しいにも程がある。湯気の中、少し曇った鏡へと視線を移した。見慣れた己の顔と身体が映っていた。シャワーを止めると、青黒い髪から水滴がひとつふたつと滴った。あのおとぎ話のように、贄になるような人間はどこにもいない、そう断言出来るような顔だった。
風呂から上がり、2リットルのペットボトルの水を一気に飲み干すと支給されたパイロットスーツに袖を通した。テスト機パイロット用だと言われた濃い灰色のそれを眺めて、いつもの色とは着慣れないせいか違和感があった。0445、ブリーフィングルームへと足を運ぶ。先に到着していたジャガー、田中、そしてキリコに挨拶をすると席に着く。
「全員揃ったので、始めさせて頂きます」
田中の一声でジャガーは端末を使って部屋の照明を消した。すると、楕円型のテーブルにジオラマのようにホログラムが形成された。緑色のホログラムが煌々と明るく照らす中、田中は早速テストフライトの航路について述べ始めた。
「0600、試作機YFー004が離陸したのち、航路はこの方角、北東へと針路を取って頂きます。今の時期ならば日が出るのはやや遅い。なので安定高度に入った頃には眩しさは抑えられると思います」
ホログラムが機体の形をして雲の隙間へとすり抜けていく。雲間からでも眩しいときは眩しいが、試作機用に製作されたフライトヘルメットは特殊サンバイザー付きだと聞いた。おそらくそいつの精度も試したいのだろう。
「その後、機体のGメーターを測定しつつ、最大12Gに至るまで機動、及び旋回を続けて貰います。無理そうならエマージェンシーコールを出して頂いて構いません。その時点で試験飛行は中止となります」
緑色のホロがぐるぐると旋回機動をしたり、上下に機首を振って高度試行ACMを行ったりしている。俺はそれを眺めながら、12Gという言葉を頭の中で繰り返していた。通常の人間の身体では、血液の流れ、仕組み、つまりは自己保存という観点から6~7Gまでの重力負荷がかかると失神する。それを幾度と無く訓練で鍛えた者だけが、それ以上の重力の世界へと足を踏み入れることが出来る。だが、急激な重力変動は人間の身体構造はおろか脳味噌の方へも多大な負荷となる。次にどんな機動をすれば良いのか、速度は、高度は、敵はとひっきりなしに考え事をしている脳への追撃をするようなものだ。ただでさえきつい重力の中でもがいていると言うのに、田中は12Gという未踏のものへと突き進めと言っているのだ。今まで生きてきた中で一番滅茶苦茶な話だった。
俺は田中の視線を感じながら、ホログラムの機体を手のひらで捕まえた。瞬時に光の粒となって消えてしまったが、すぐに再生された。先程と変わらず、緑色の光が明滅して機体の形を縁取って、空中を舞い始める。
「要は耐え切れた者の勝ち、というわけだ」
誰へ向けた言葉ではないが、事実その通りだった。その12Gという凶悪な重力に勝てなかった、つまりは試作機に飲み込まれた者たちが死んでいっただけの話だ。己の力を過信したか、はたまた誤差が生じて泣く泣く命を落としたか。この試験飛行で死んでいった者たちのことは知り得ないが、自分自身が同じ道を歩むわけがない。耐え切れた者の勝ちという一言は、そういう自信とも取れる言葉だった。キリコや田中からの返答はなく、いち早くジャガーからその通り、と返事が返ってきた。
「こちらの方でもGの数値は計測しているから、君は好きなように飛んで貰って構わない」
「そのつもりです」
ジャガーの言葉に淡々と返すと、俺は席を立った。早めに機体の状態をチェックしておきたかった。キリコは押し黙ったままだったが、おそらくただ単にこいつは二日酔いしているだけだろう。ううんと今にも唸りそうな顔をしている。では解散、ハンガーにて、と田中が言って部屋の照明を再び点けた。踵を返し部屋をあとにしようとした矢先、ああそう言えば、とジャガーから声がかかる。振り向くと、端正な顔のまま口端だけ上げてジャガーは笑んでいた。その名の通り、肉食獣の雰囲気を感じたが敵意は向けられていない。ただし少々の威圧感を感じ、何か、と俺は返した。
「昨日は随分お楽しみだったみたいだけど、二日酔いのエマージェンシーは受け付けないからね」
顔が少し青かったキリコの表情が、更に曇ったように見えた。まあ知っているのだろうという予測はしていたし、キリコのこの様子を見れば一目瞭然か。俺は素知らぬ振りをして肩を竦めた。
「酔っているように見えますか」
自分の平坦な声はいつものものと変わりない。少し見上げるジャガーの面をじっと見つめた。派手なピンク色の虹彩は何の感情も読み取れない、人間以外の動物のようだと思った。が、すぐにジャガーは肩を少しだけ竦めた。
「いや、別に」
そう言うと、すいと奴は俺から視線を外した。俺も同じように今度こそ踵を返すと、ブリーフィングルームの扉に手をかけた。

1-6:Take off

ブリーフィングルームから直結の裏口を使って外へ出た。まだ明け切らない空模様は好天とは言えない、もしかしたら雨が振るかもしれなかった。広い滑走路を横断して、昨日降り立ったエプロンへと向かう。エプロン近くのハンガーには灯りがつき、何人かの作業員――整備員が忙しなく動いていた。オーライ、と声がかかり牽引されてきた戦闘機がエプロンへと運び出される。
躍り出た試作機を見て喉が鳴った。通常スペックの機体に比べるとかなり大きい。全長24m全幅14.4mという大型の機体だ。生で見るとその圧倒的な大きさに唖然とする。試作機というに相応しいカラーリングで、青みがかったグレー一色に染められていた。そして特徴的な前進翼が基地の誘導灯に照らされ、その存在感を醸し出す。失速を防ぐ分運動能力が著しく低いということで採用に至らず、おまけに不安定な機体性能のせいで乗り手自体も稀少になりなおかつ高燃費という、正直あまり人気のない翼型である。また双発エンジンと推力偏向ノズルを搭載し、爆発的な推力を生み出す言わば心臓部が後部から見えた。フライトヘルメットを右手に持ちながら、隣に立つ田中へと振り向いた。
「ロール機能が正直心配なところがあるが、その辺りの構造は」
前進翼機がどれだけ悪名高いのかを認知し、また実際の前進翼機への搭乗自体が初体験だった己の言葉を配慮しての反応かは知らないが、田中は淡々とした声で返答した。
「FLCSを導入しているのは勿論、CCVによる制御システムを強化しています。逆にRSS性能は殆ど機能していません」
淀みないその言葉は、意味を理解できる者にしか通じない言葉の羅列だったが、それで充分だった。要はパイロットの思うように動くが、機体の不安定性は自分でどうにかしろということだ。なるほど横暴なものだ。これで人が死なないわけがない。ひどい話だとは思うが魅力に抗うことは出来ない。逸る心を抑えつつ得たように頷くと、整備員に離陸前の飛行前点検シートを貰い、目を通す。オールグリーン。問題なさそうだ。田中へと視線を移して頷くと、整備員へと指示を出す。
「油圧チェックが済み次第エンジンスタート。暖気を始めろ」
「了解しました!」
機体へと、持ち場へと慌ただしく走り去って行く整備員を見つめた。その先にある灰色に染まった空の棺桶は、キャノピーを開けて獲物を待ち構えているようにも見えた。ブービートラップにしては随分大がかりで金がかかったものだと薄ら笑いたくなったが、生半可な罠ではないことは頭が理解していた。
「怖くないのか?」
唐突に聞こえた声は、キリコのものだった。俺が思案しているように見えたのだろうか。振り返ると奴は若干青い顔をしていたが、だいぶ持ち直したようだ。問いに対して俺は眉を顰めて物思いに耽ったが、奴が何を言いたいのか正直なところ全てを理解するのは難しかった。怖くないのか、という問いは大義的過ぎたのだ。もっと的を絞って欲しい、そう思い俺はキリコへと言葉を返した。
「何に恐怖を抱くのか、ということか」
「そういう返事を返すと思ったよ、お前は」
空への恐怖心は一片たりともないんだろうな、とキリコは続けた。その言葉に俺は思案した。普通ならば今まで何人も命を吸い取られている機体に対して恐怖を覚えることはあるだろうが、残念ながら己の頭は恐怖という原始的な本能よりも好奇という探求心が勝っているようだった。探求心は本能的な欲求にも似ているが、何故か、という疑問点が出ている辺りで本能とは違う。疑問を抱くのは動物として当たり前の行動だが、自らの命が風前の灯火という瀬戸際で「死に直結しないであろう好奇心」が勝るというのも、考えてみればおかしな話だった。そうだ、まるで子供のようだ。死を恐れずに(死ぬことを予期せずに)行動し己の疑問点を解消したい、数式で分からないところがあるのならばそこをとことん突き詰めていくだけの子供の姿に似ているのだ。幼心に戻ったかのように、俺は空に魅せられているのかもしれない。空を恐怖の象徴として見ることができないのは、内在的な探求心が勝っているだけなのだ。
轟音が大きくなる中、機体の暖気は済んだようだ。視線の先では整備員とマーシャラーが合図を送り返している。俺はキリコの視線を受けながら背を向けた。片手でひらひらと別れの挨拶を済ませた。今生の別れになる筈もないことを、自分自身理解しているからだ。まさかこんなところで死ぬわけがないのだ。機械が如何に優秀であっても人間の頭に勝ることもなく、人間が作り出したものによって潰されることもないのだ。キリコが俺の脳内を理解しているかどうかは知らないが、背中にかかる声は特筆することもなく「いってらっしゃい」という一言だけだった。ジャガーと田中からは何の言葉もかけられなかったが、試験飛行というのは元来そういうものだ。生きて帰ってきたときに、何かしらの労いがあったらそれで良かった。
囂々とターボファンエンジンが唸る音が耳にうるさい。誘導の元、タラップへと足をかけて上る。キャノピーは広く、コックピットもゆとりがあった。座席に収まると、ヘルメットリリースコネクターを接続してショルダーハーネスと自動膨張式ライフジャケットを確認する。問題ない。耐Gスーツが上半身と下半身を覆い、圧がかかる。キャノピーを閉じる。タラップは外され、コンソールを操作、フラップ・エルロン・スラット動作を確認。オールクリア。ヘルメットに表示されたHMDが起動、航法モードへと切り替わる。フライトパスマーカーを中心に高度計や気圧計などの計器が表示される。操縦桿を握り、HOTASが作動しているのを確認した。囂々と響くエンジン音を聞きながら、マーシャラーの合図を受けた。離陸良し。
「YF-004、離陸する」
スロットルを上げる。唸り声が一層騒がしくなる。キャノピー越しに、キリコが遠く手を振っているのが見えた。視線だけで答えたがおそらくあいつには分からないだろう。すぐにエプロンを抜け、ランウェイへと出る。徐々に速度を上げる機体ががたがたと揺れ始め、エンジンが低く鳴る。まるで化け物が起き出したかのような音に心臓が早鐘を打った。これは期待以上かもしれない。今まで乗りこなしてきた機体とはまるで違う、それこそ人の身にやけに馴染むこの感触は、己の身体を操るに近いような錯覚さえ起こした。操縦桿を握り込む手が、少し湿っている。意識をしっかり保つための酸素が、薄く感じた。まさか、まだ離陸しようとしているだけだぞ。乾いてきた唇を舐めて、時速が乗った瞬間に操縦桿を引いた。シートに背中が沈んでいく。空飛ぶ棺桶は、簡単に大地を離れた。かかる重力負荷がぐっと大きくなる。がたがたと唸っていた機体は、静かな航行音に変わった。5000、8650、11520ft、どんどん高度が上がるに連れて、地表が見えなくなる。18000ftになったとき、ふとキャノピーから眺めた。眼下には来たときと変わらない赤茶けた荒野が広がるだけだった。

1-7:Gravity

視界良好、感度良好。対流圏の上層部へと突っ切っていった機体は安定性を保ちながら航行をしていた。空気の質が異なる成層圏上部では、安定した気温ながら若干空気が薄い。つまり取り込む酸素が少ない分推力出力が異なってくる。今回は対流圏における旋回・機動と成層圏における旋回・機動を目的としていた。対流圏での旋回性能は他の航空機でも多く試され、実証されてきたものは残っている。この機体での対流圏における記録では、俺以外のパイロットによる実証で一名だけ最大重力12Gに到達しているという。その後の成層圏における試験飛行中に失速、機内でGロックの症状を訴えた、とのことだ。それ以降の記録は検索をかけても軍内データベースにヒットしなかった。つまりは「知らない方がいいこともある」ということなのだろう。生き残る身からしたら知ったことでもないが、どうせならその試験飛行をしたパイロットの委細について後学のために知りたかったものだ。この機体の中でどう死んでいったのか、何を見て、何を感じて、この聖域で散ったのか。死を意識しても死にきれない俺には、戻って来られない世界に向かった人間の思考を理解してもきっと共有することは出来ないのだろうが。そんなことを思いつつ、乾いた機内でぼんやりと薄青い外を見つめていた。ともかく今は、目前の任務に集中するしかなかった。
高度約30000ft、対流圏の真っ直中。航行モードのまま推力を上げた。ブリーフィングにて説明があった通り、まずここで耐G実験を始めなくてはならない。俺は一息つくと、実際の機動戦への移行として、HOTAS伝いに宣言をとる。燃料の燃焼時間、残燃料と成層圏での機動、そして帰投用の燃料を考えたらそう時間は多く取れない。一度のオーグメンターで速度を出すしかない。スロットルの出力を上げて、ノット数がどんどん上がるのを確認する。ノータム通りの時刻になった。オーグメンター燃焼確認。燃料計がぐっと変動する。FCCによる制御機能のおかげで機体の運動性は格段に高いのが分かるが、速度を上げた瞬間途端操縦桿がぶれ始めた。両足のペダルでヨーを取りつつ、エルロンを制御するため操縦桿を真ん中にしたまま機体の水平加減を保つ。なるほど、運動機能は高いが不安定であるという意味が身に染みた。唐突に速度を上げれば操縦桿のぶれ幅が大きくなり、迎え角を取って最悪揚力を失い失速する。通常の機体であればRSS性能を大幅に向上させて機体の安定性を保つのだが、こいつは運動機能のために安定性を捨てているのだ。それだけ機動特化している分、パイロットがうまく使ってやれば光るものだろうが――。俺はラダーペダルをやや放し、恐れずに操縦桿を傾けた。旋回角度を一定にする。ぐ、と身体が座席に埋まっていく。この高さでマッハ1以下であれば、通常のジェットエンジンを持った機体であれば問題なく旋回出来る。が、著しく安定性を欠いたこの機体では思うようにいかない。速度を上げる分旋回半径が狭まる。酸素マスクの中で呼吸をしながら、安定した角度を腕が保っているのをじっと見た。この操縦桿を離しても、制御機能が作動して問題はないが、それでもこれだけ「重い」機動は初めてだった。Gメーターを確認すると、5~6Gを行ったり来たりを繰り返している。旋回角度を強め、更に鋭角にしてやった。その瞬間、荷重が一気に全身へと降りかかる。う、と呻きが漏れた。ふざけた設計だ、と思いながら速度を少しずつ上げていく。9、10Gを越えた辺りで耐Gスーツが締め付けを強くしてきた。苦しい。11、そして規定の12Gになった瞬間、メーターがピー、と高い音を鳴らした。一気に肩の力が抜けた。第一関門はこれでクリアだ。旋回から水平へと機体を戻していく。速度を下げる。現在、約43000ft。まだ対流圏内にいる。航行に切り替えた途端汗が吹き出てきた。今思えば、旋回して12Gを瞬間的に感じた瞬間、音が何も聞こえなくなっていた。最大瞬間荷重を感じた一瞬だったが、何もかもが無音だったのだ。航行している機体の風切り音も、エンジンが起動して熱を生み出している音も、己の呼吸でさえも。息を止めていたわけではなかったのだが、高山の高みでセックスをしているのだと考えたら死にそうになるわけだ。息をついて深呼吸を繰り返した。ここで終わりではないのは知っていた。次は前人未踏の成層圏内である。高度を上げて、機首を上げた。
成層圏内に到達した時点で、残燃料は約60%を切っていた。兵装は最低限の24mm機銃と短距離射程ミサイルDGFしかついていない、増槽は短時間任務故に最低限の分しか燃料を投入されてない。つまり残りの60%でどうにか成層圏での機動試験を終わらせて帰投しなければならないということだ。オーグメンターの燃焼はあと二回ほど出来るだろうか。この空気の薄い高高度で旋回出来るのだろうかという疑問が出たが、ここまで来たらやるしかない。ノット数を再度上げて、操縦桿を右に倒す。身体が傾くが、先ほどの空気とは違う重みを感じた。推力が下がっている。オーグメンターの燃焼を行っても推力比が話にならない。脳の意思伝達が四肢に通っていないような、そんな感覚だった。フレームアウトを起こしたか。エンジン系統に異常はないようだったが、極端に薄い酸素状態にエンジンが反応し切れていないのだ。キャノピー外、73000ftという成層圏の中はうっすらと白い世界が広がっている。傾いたまま重力へと抵抗する。速度が乗ってくる。その度に燃料数値計のメーターが下がっていく。それを眺めていると、息が詰まってきた。極端に負荷となってかかる持続荷重、そして最大旋回時にかかる瞬間荷重の重さだった。下半身のスーツが再度締め付けをしてきた。マイナスGが強い。呼吸が重たくなり、少しだけ瞼が下がってきた。Gメーターが10を表示しているのを微かに確認出来た。あと少しだ、あと少しで規定重力に差し掛かるというのに。世界が灰色になっていく。意識が混濁してきているのは間違いなかった、操縦桿を握っている右手が力なく離れようとしていた。人間が飛んではいけない領域なのか――いや、そんなことがあるわけがない。飛ぶ方法を生み出したのは人間の頭だ、その翼を自らへし折るなど、許されるわけがない。俺は唇を噛んだ。意識を持って行かれないようにと強く噛み、ぶつりと皮膚が破けた。音は聞こえず視界はグレー一色に染まっていたが、スロットルレバーを持ったままだった左手を操縦桿に添えて、旋回を続けた。機体の揺れが激しくなり、Gメーターは11から12Gへと一瞬だけ変化した。再度、甲高い電子音が鳴った。スタビライザーを作動させ、HOTASを使ってオートパイロットモードへと切り替えた。乱暴な制御システムが作動して、旋回からすぐに水平航行モードへとなった。がたん、と座席に叩きつけられ、息を吹き返すように大きくせき込んだ。一瞬だけだったが、瞬間重力は計測した。メーターも記録している。肩で大きく息をつきながら、俺は座席にもたれ掛かった。死を意識したことはないが、あれが死への扉だったとしたら何と心地が良いのだろうか。全てが無音になり、呼吸も止まり、まるで眠るように全てを持って行かれる。これが死ならば何と甘美なものなのだろうか。航行モードにした機体情報に、RTBの文字が躍る。HMD上にも表示されたその文字を追いながら、小さく笑った。死んでいったパイロットたちが見たくて仕方がなかったその文字は、案外呆気なく出るものだったから。人間が来るのを拒んだ成層圏から、機体は段々高度を下げていった。青く広がる空の色は、母なる海にも似てやさしい色だが、その実包容するものは冷たい死だけだったのだ。

1-8:Landing

相対速度を確認しながら着陸態勢に入った。空の下に出ると、曇り空からやや雨がぱらつき始めていた。キャノピーに細かな水滴が幾つかついている。高度を確かめ、徐々に地表に近づく機体を制御する。ランディングギアを確認。速度を落としていく。距離がどんどん縮まっていく。ざらついたノイズ混じりの管制が聞こえてきた。着陸許可が出ているのは知っていた。HMD越しの世界はまだ少しだけモノクロの色だった。グレイアウトに正直冷や汗をかいたのだ。レッドアウトしなかっただけマシだと思いたいが、最高Gにまで達したあとの身体は全力疾走したあとの疲労感に包まれていた。頭が少しくらくらするのは気のせいではない。そんなことを考えながら、滑走路へと降下していく。熱されたエンジンが轟音を響かせている中、制御装置を作動させた。フラップを降ろしてスロットルを絞り込む。最低速度を保つ。車輪が地表に着いた瞬間エンジンを切る。機首上げ。がたがたと音がうるさくなる。滑走路を滑るようにして地面につくと、足下のブレーキを踏み込んだ。ごう、と風を切る音がうるさくなる。あれだけの推力を持ったエンジン性能では止まるのも一苦労だった。ギアがガリガリと滑走路を削り取っている音を耳にして、足の踏み込みを強くした。完全停止した途端、機体の周りに整備員らが集まってきた。タラップがかけられる音がした。俺はキャノピーを解放してタラップへと足をかけた。身体が重たいが、倒れ込むほどではない。くらくらする頭は未だ復帰出来ていない気がするが、意識は明瞭だ。地上に降り立つと、フライトヘルメットを無理矢理取り去る。周りを囲むようにして整備員たち、それから駆け寄ってきたキリコに続き、田中とジャガーが見えた。
「おかえりキリヤ!」
突然ハグを強要してきたキリコを放っておき、俺はああ、と言ってキリコの手を払い、ジャガーと田中の前へと歩み寄った。ぱたぱたと雨足が強くなる中、俺は以前やったものと変わらない敬礼を行い、帰還しました、と端的に述べた。
「そちらの計測器でお分かりでしょうが、最高瞬間Gは規定値である12Gに乗せました。報告書はまた追って書かせてもらいます」
冷たい雨の音がどこか遠くに聞こえるようだった。ジャガーの口が動いているのが見える。随分スローモーションだった。何故そこまでゆっくり話すのだろうか、と思った瞬間、鼻の辺りに違和感があった。ぬるい体液が鼻の穴から唇に伝っていく。切れた唇はかさついていた。が、漏れ出た体液、つまりは鼻血が唇まで伝い、拭うとぬめる感触があった。灰色のパイロットスーツの袖口がじっとりと湿ってしまった。
田中の口が緩やかに言葉を象ったが、俺には断片的にも口の動きを読むことが出来なかった。田中のすぐ後ろに待機していた、腕に赤十字の腕章をした数人の兵員に取り囲まれた。担架へと乗せられ、それから意識は途切れかけた。薄ぼんやりと仰いだ空は、対流圏とも成層圏とも違う、雨をもたらすどんよりとした曇り空。飛びやすい飛びにくい関係なく、人間をたたき落とす世界だった。俺は担架で揺れながら最後の力で、まだ滑走路でぽつねんといる試作機を眺めた。恐ろしい機体だったが、それ以上に俺は「あいつ」に魅了されて仕方がなかった。しかしながら、無意識で伸ばした腕は何も掴むことはなく、空を切っただけだった。

2-0:Ground to Ground

湿った土の臭いがしていた。腐葉土と土壌そのものの豊かな自然の香りと言えばまるでワインの紹介でもしている気分になれるだろうが、そんな簡単な言葉で片付くような気配はなかった。硝煙の臭いも混じり、ここが戦場なのだとはっきりと頭が理解出来る状況だったからだ。伏せたままの身体はじっと動かずに何かを待ちわびているようだった。さっきから視界に入る大きな狙撃銃は自分の腕が支えている。握把を持つ手のひらはやけに馴染み深く、どこかで見たことがあった。これは、何だったか。いつだったかに見た映画のワンシーンに良く似ている。こういう枯れ木だらけの煤けた戦場で、一人の狙撃兵がただひたすらに獲物を待ち構えているという在り来たりなものだ。どれだけ待ったとしても来ないものは来ないのだが、忠犬にも似た不屈の耐久心はそれを無視して銃口を見つめ続けいる。こんな無駄な時間があるならば、自ら赴いて額に風穴を開けてやればいいのに、と思う。空ならばそれが出来る。追いつめて、追いやって、恐れをなして逃げ惑う敵のケツ穴に一発見舞ってやることなど容易だった。じれったさに腕を上げて、握把を握り込んだ手のひらから指先へ、つまりは引き金に力をかけた。目標は近くにいるのだろうと思ったのだ。照準を覗き込み、殺すべき相手を見つけようとする。が、その瞬間胸に激痛が走る。思わず狙撃銃を取り落とす。腐葉土の中に転がる狙撃銃を眺めつつ、眉を寄せた。この痛みは何だ、撃たれたときとは違う痛みだ。締め付けられ、寒気がし、視界がどんどん灰色に変わっていく。息が苦しくなり思わず伏射姿勢からごろりと仰向けになった。今狙われたら俺は一撃で死ぬに違いないが、その痛みの方がまだマシなのではないのだろうか。肺が潰され呼吸が出来なくなる。は、は、と息が漏れ出た。力なく仰ぎ見た世界は、枯れ木ですらモノクローム一色だった。なのに、突き抜けるように高い空だけは、青白く染まっていた。雲一つない。静謐さを兼ねたその色味は、見覚えがある。高高度、人が在ってはならないところ――あれは、俺が飛んだ空だ。

2-1:Awaking

空の景色は一瞬で消え去った。開けた視界には白い壁が真っ先に入った。木目調の入り隅が微かに見える。静かな空間には規則的な電子音が響いていた。目だけでぐるりと周りを確認すると、俺の身体はスプリングの効いたベッドの上に横たわり、剥き出しの腕には細い点滴が繋がっていた。その先の点滴筒の中で定期的に滴が落ちていた。ゆっくりとした速度で落ちるそれをぼんやりと眺めていると、人の気配に気付いた。
「意識は戻ったかい?」
落ち着いた声の主は、俺のベッドの横にいた。背もたれのついた椅子に座り、広いデスク上で書き物をしていたらしい。田中やキリコとは違う白衣姿の人物。長い黒髪をまとめた、年相応の中年だ。上の縁が妙に太い眼鏡をかけている。どうもこういう科学者系によく遭遇する。あんたは、と自らの喉から掠れた声が出た。俺の言葉に、男は毒気のない微笑みを浮かべ、エトウ、と名乗った。
「ここメディカルセンターの主治医をしている。試験機パイロットの、ウールフェードくんだね?自分自身のことは分かるかな」
「理解している。…が、何故俺はここに」
俺の応答を聞きながらエトウは「点滴受けるようなことがあったからでしょ」と言って、デスク上のペンを走らせている。何を書いているかは見えない。おそらく俺の言葉を綴っている可能性が高い。真摯な眼差しは嘘をついていないように見える。俺は身体を起こそうとしたが、下半身の辺りの掛け布団が引っ張られ上手いように起き上がれない。視線をやると、見慣れた兄の姿があった。俺のベッドへ凭れるようにして眠りこけている。
「ああ、キリコくんか。心配してここにいてくれたんだけど、疲れて寝てしまったみたいでね。身体を起こすのなら、」
「構わない。二日酔いを起こすと厄介なことになる」
まだきっと昨晩の酒でダウンしている上に、今の状態でキリコが起きたら面倒だった。ハグを強要されたらさすがの俺も殴り飛ばす。俺はそう思い言葉を返して、今の状態を確認した。点滴とバイタルサインモニタ、そして検査衣に包まれているところを見ると、あのあと担架に乗せられて失神でもしてしまったようだ。俺の前任のパイロットたちの惨事を考えると生きているだけマシなのだろうが、あの程度の機動でこうも醜態を晒すとは。エトウは立ち上がると、点滴側に周り、滴が落ちる時間を見ている。少し早めるよ、と言われ調節された。
「その調子だったらすぐに快復するだろう。身体の不調、記憶の混濁。特に異常はないと思う。運び込まれたときはちょっとびっくりしたんだけれどね」
聞くと、鼻血を盛大に出して意識もない状態だったらしい。フライト終了後すぐ、つまり午前中に運び込まれて今の時間までずっと眠ったまま――失神したままだったということだ。もしも脳鬱血だったら怖かったよ、とエトウは微笑んで肩を揺らした。
「あの機体からの生還者は初めてだったから、僕自身もどうしたらいいのか少し焦ったのもあるんだけれど」
エトウはそう言って、再び椅子へと腰掛けた。今まで人間の命を食うだけ食っていった化け物機体。それから戻ることが出来た、というだけで随分大袈裟な話だと感じたが、死人が続けばこういう反応になるしかないのだろう。人間の死が恒常化していくと、遠い存在だった生死という一線が曖昧になる。故に戦場で死に絶える兵士は、データ上で管理される数字になるしかない。俺の前に搭乗していったパイロットたちもそういった数字になるのだとしたら、それはそれで俺が試験飛行を成功したことへの成果にはなる。無意味ではなく、有益だと思えばそれでいいのだ。俺が仮にこの飛行で死んでいたとしても、きっと俺は何も悔いはしない、ただもう二度と飛べなくなることだけが勘に障るだけだ。俺は何も発さないまま、己の手のひらをふと開いて見つめた。旋回、機動。己の身体を食い尽くして潰そうとする空の重力を、まだ明確に記憶している。今まで感じたことのない重力の重み、そして気圧のプレッシャー。その癖機体の操縦桿は、ひどく手に馴染んだ。まるでどこかで経験したことがあるかのように。基本構造は同じだったとしても、機体それぞれに個性という壁が必ずある。その壁を感じなかったのは、何故なのだろうか。
「きみは怖くなかったのかい?」
唐突にエトウの言葉が白く静かな医務室に響く。離陸前、キリコに同じことを聞かれた。何に対しての恐怖なのか、空へか、重力へか、気圧へか、それとも死へなのか。その意味を問うても、きっと彼らには答えられないのだろう。俺はエトウへと視線を向けた。黒々とした瞳は、疑問と、少しの恐怖の色があった。今まで腕利きの戦闘機乗りたちを散々食ってきた化け物からの初の生還者、というラベリングが、そこには垣間見えていた。俺は素直に自分自身の感想を吐露した。
「怖くないと言えばきっと嘘になる。だが空で俺が抱いた感情は恐れというよりもむしろ喜びに近い」
開放感を得られる場所は、誰も届くことのない空の高みだけだと続けた。何よりも死に近しい場所なのに生きている実感と自由になれる世界だと思っていたからだった。重力の重み、息苦しさはあれど、魚が水中でしか呼吸が出来ないように、俺には空という空間が同義であったのだ。エトウはその言葉を聞いて、どこか諦めたように笑い、まるで鳥だ、と詩的な発言を返した。人間に対して鳥という言葉は不可思議なものだった。俺には思いつかない比喩表現だ。翼を持たない筈の人間に、まさか翼があるとでも思っているのだろうか。真顔だったのかもしれない、俺の反応にエトウはくすくすと微かに笑って、きみには分からないかもしれないね、と小さく呟いた。
丁度そのとき、布団がごそごそと動いた。動いた主は微動だにしていなかった俺ではなく、キリコだった。眠たそうな目を擦りながら、キリコは俺の顔を見ると子供のように笑った。病人の上で眠りこけるとはいい度胸だな、と言ってやると、照れたようにキリコは頭を掻いた。
「おはようキリヤ。ごめんな、どうも眠たくてしょうがなくて…」
二日酔いのせいだろうと言いたかったが、俺が返事をするよりも早くエトウが口を開く。
「キリコくん、起きて早々悪いんだけれど、田中くんを呼んできて貰ってもいいかな?彼が目覚めたら教えてくれと言われていてね」
エトウのその言葉に、キリコは一つ伸びをする。未だ目を擦ったままだったが、起きてからの行動は早い。分かった、と言って奴はぱたぱたと医務室をあとにした。キリコが出ていった先の廊下は薄暗く、蛍光灯が小さな明かりを灯していた。右手についたパイロットウォッチを見ると、1700を少し過ぎた辺りだった。半日意識がなかったらしい。そう言えば医務室の外はもう既に日が暮れていた。滑走路の誘導灯が赤と緑の色を交互につける時間帯だった。しかしだ、半日ほど意識がないという体験は初めてだったが、これほど時間の経過が早いものなのか。あの空での感覚はまざまざと身体と頭に残っているというのに。そう言えば機体は無事なのだろうか。あの機動でどこかに不具合が出ていなければ良いが。意のままに動く柔軟性があった故に、俺の乱暴な操縦で「彼女」がエラーを起こしていたら、すぐさま整備に駆けつけてやりたかった。俺はエトウに向き合って、機体は、とだけ言葉を紡ぐ。マグカップを片手に、エトウは安心していいよ、と穏やかな声で返事をした。
「きみと変わらず頑丈な造りらしいから、特に問題ないそうだよ」
「そうか。それなら良い」
エトウの真摯な目つきを受け止めた。機体が正常ならば問題ない。俺の身体が快復すればすぐにでもまた飛んでやろう。そんなことを思っていると、再度医務室の扉がスライドした。乗り込んできたのは田中と、キリコだった。随分早い、とエトウが驚く。二人とも肩で息をしている。田中はつかつかと俺に歩み寄ると、ふー、と大きく息をついた。冷静な様子を取り戻しつつ、切れ長の目がこちらに向く。
「身体に問題はないですか」
「ああ。すぐにでももう一度飛べる。問題ない」
「田中くん、それは嘘だからね。もう少し安静にしていて欲しいから、本人の言葉は鵜呑みにしないでくれ」
エトウが茶々を入れてくる。本人の言葉を信用しないなんてとんだ藪医者め。田中は無論分かっています、と言って小脇に抱えた封筒を抱え直して「歩けそうならすぐに大将執務室へ」と言ってきた。どうやらジャガーがお呼びらしい。
「検査衣のままだと場にそぐわないだろう。着替える」
「お願いします」
点滴はもう終わっていたため、エトウに管を外してもらうと服を着替えた。ここの野戦服らしいゆるい上下の制服(おそらく軍服と呼ぶのだろうが)に袖を通す。ふと、扉の前で俺を待っている田中へと視線が集中した。後ろに控えているキリコと同じ白衣姿だが、何かがおかしい。余所余所しい態度は依然として変わらないのだが、どこか違和感があった。凝視の目はすぐに気付かれた。キリコと視線が合う。何故か奴は顔を横に振り、口元で指を一本立てた。黙っておけ。何のことだ。何が言いたいのか皆目検討がつかなかったのだが、下げた目線の先でようやく意を介した。田中の股間が、勃起している。生理現象故に男なら誰でもあり得ることだが、何故今なのか。俺は眉を寄せていると、田中は気がついたように、ああ、と呟く。
「気にしなくて結構ですので。貴方に勃起しているわけではないので」
「それは理解出来るが、便所に行くなら待つが」
至極普通の声色で返され、俺は当たり障りのない返事をした。俺に勃起されても困るのだが、何が彼をこうしたのかは分からなかった。俺はベッドから離れると、後ろからエトウに笑われた。いつものことなんだけど、久々に見たよ、とエトウに付け加えられた。
「田中くんのは病気みたいなものだからね」
「まあそんなところです」
エトウの台詞に田中は頷く。病気持ちとは知らなかったが、どんな病状なのかは理解出来ない。突然勃起するようなことと言えば、性病の類であるのだろうか。思案している俺に、田中は一息つくと、「見事な機動だったので」と小さく付け加えた。その言葉を理解するのに時間がかかった。つまり、俺の戦闘機動で――今回の試験飛行で勃起したとでも言いたいのか。俺は言葉に詰まった。指折りの変態らしい、この田中という男は。人それぞれ趣味嗜好は様々だろうが、機械性愛とでも言うのだろうか、田中のこの病は。それをとやかく言うこともないし必要以上に干渉することもない為、俺は黙るだけにしておいた。田中は踵を返す。
「あの機体あの機動で、勃起しない方がおかしな話というものですよ」
…実際に乗った身からすれば分からない気がしないでもないその一言に、俺は後頭部を掻いた。エトウがくすくすと小さく笑っているが最早何も言うまい。俺は先に出た田中とキリコに倣って、医務室のドアを横滑りさせた。丁度そのタイミングで、背中にエトウから声がかかった。顔だけ少し振り向かせた。
「もしもまた具合が悪くなったら、またいつでも気軽においで。きみ、偏頭痛持ちだろう?血圧正常なのに珍しいケースだけれど、薬は出せるから」
カルテらしきものを眺めつつエトウはにこやかに笑った。随分と好待遇で気持ちが悪いにも程があるが、害はなさそうなその顔に俺は頷いた。そうして今度こそ、医務室をあとにした。

2-2:Agreement

向かった大将執務室は、昨日見た光景と変わらないままだった。大きなデスクの向こうでジャガーが何かしらの書き物をしていた。入室した俺の姿を認めると、疲れているところすまないな、と労いの声がかけられた。俺は直立したままその声に頷く。特に疲弊しているわけではなかった為、そのような言葉をかけられると思っていなかった。いや、試験飛行を終えた者へのせめてもの感謝を表すとしたら、ジャガーの言葉は妥当なのだろう。その台詞の真意を求めるとなったら話は違うのだろうが。
「目覚めはどうだい?」
「変わらず。至って問題ないです」
俺は答えて、ジャガーが示すまま前の面接時と同じように長椅子に腰掛けた。キリコは機体整備の応援で席を外していたが、田中は前回と同じように対面へと座った。執務用デスクの向こうからやってきたジャガーが腰掛け、これを渡したくてね、と切り出す。
「今回の試験飛行の報告書、明後日までにまとめて欲しい。機体の委細を含め、どのような改善点があるか、などね。内容はこの概要書通りに書いてもらったらいいから」
いくつか資料を渡され、白紙の報告書の束を渡される。ジャガーは続けた。
「あと、これが契約書。君を正式にうちのパイロットとして採用させてもらいたい」
契約書がペンとともに机の上へと並べられた。俺は無言のままそれを受け取ると、報奨金額に目を通しながらすぐにサインをした。前の企業には話を通してあるのだろう。そうでなければここまで順序よく事は進まない。署名を書き終わると、視線を感じた。俺はふと顔を上げると、人工的な色をしたジャガーの瞳とかち合った。何か、と真顔で答える。ジャガーは小さく笑って正直想定外でね、と続けた。
「人間が乗るような機体じゃないのかと、本当に思っていたんだよ」
「これだけ死人が出ていればそうもなるとは思いますが」
死者を出しても試験飛行を続けていたのは、おそらく一抹の希望に縋るというよりかは、探求心に近い。どこまで人間が耐えきれるかを実験していたようなものだ。しかしそれが功を奏した、ようやく耐えきれる人間を数多の中から探し出せたのだ。むしろ闇雲にやるしかない中で早かった方なのではないのだろうか。
「それに君のプロファイルでも、適正があるのかどうかも悩ましかった」
言葉とともに差し出されたプロファイル。見慣れた自分の顔の下に、細かな情報が並んでいる。対人意志疎通がランクE、つまりどんけつだとはっきりと書かれている上に今までの素行がそっくりそのまま並んでいた。筒抜けだろうことは分かっていたが、随分と事細かに調べられたものだった。
「Dr.キリコの弟という時点で怪しんでましたけどね」
田中が一言添える。なるほど、兄のここでの素行もなかなかどうしてひどいものなのか。とんだ風評被害だ。俺は足を組み換えてそれはどうも、と素っ気ない返事をした。
「兄に比べたらまともな方だと思います」
「比べるベクトルが違うよ」
ジャガーは小さく笑って、机の上に並んだ報告書を取りまとめた。話は終わりらしい。
「ここでの衣食住や給与については、経理の方からまた係の者を呼んでおく。とりあえず夕食を取れそうなら食堂に向かってくれ。場所は分かるかい?」
「いえ。…歩いていたらきっと辿り着くかと」
「そうだな。その辺の兵士に聞いてくれたら教えてくれると思う」
ジャガーの言葉に頷く。素っ気ないぐらいの態度の方がやりやすいのは知っていたし、この”陸軍大将”殿がやや毒のある人間だろうことも何となく理解していた。ドクター田中はどうなのか、俺が乗ったあの化け物機体の生みの親ということはやはり凡人ではなく常軌を逸した人材なのは明らかだが。とにもかくにも、腹の音がややうるさくなってきていた。半日食っていないだけなのに、あの機体を乗りこなしたという運動量はおそらく計り知れないものなのだろう。とてつもなく腹が減っていた。空腹状態であることを今になって思い出したらしい。俺は失礼します、と頭を下げた。ジャガーと田中は何か口に出すことはしなかったが、視線が背中に集まっていることは嫌でも分かった。分かっていたが、何か仕損じたことは何一つ身に覚えがなかった。蔑視、好奇、どちらでもないこの視線は監視に近いものなのだろうか。どこか刺さるようなそれに気付かない振りをして、俺は執務室から廊下へと出た。
「これからよろしく頼むよ、大尉」
背中に呼びかけられた新しい「首輪」の名称を耳にしながらも、俺は振り返らなかった。

2-3:First Meeting

日が暮れて夜の空気に包まれた基地内は昼間とはまるで違う雰囲気だった。執務室から食堂へ向かう道中、棟の長い廊下を歩きながらそう感じた。皆揃いの軍服らしきユニフォームを纏い、忙しなく廊下を行き来している。暇そうな兵士に聞いて、食堂までは一本道だと教えてもらった。簡素な造りでやや古臭さが目立つ様式の建物内は、ここの歴史を物語っているようだった。害獣が出始める前から、人間と人間が己の利益追求のために血で血を洗う戦いをしていたときからあるというのだ、老朽化もするだろう。だがその一方で、行き交う兵員の顔は年若い者から相応の者、俺とさして変わらないだろう面構えの者、老兵まで様々だ。総じて女の姿がないのは、完全なホモソーシャルとして確立しているからだろうか。経理に女性のスタッフがいてもおかしくはないが。そんなことを思いながら、食堂へとたどり着いた。混雑している様子だったが、かなり広々とした場所だ。100人ぐらい簡単に収容出来るスペース、テラス席らしきテーブルが設けられたバルコニー、大きな厨房にドリンクサーバー、ビュッフェ形式にも出来そうなテーブル、そして並んだ兵員へと配るコックの数がその大きさを物語っていた。俺は列に並ぶ。かなりの行列が出来ていた。がやがやと人の会話がノイズとして耳に入ってくる。前に並んだ兵員は、大きな皿にこれでもかと言うぐらい大量のミニトマトを入れていた。大盛りにしても構わないぐらい大量の飯を作っているのだろう、忙しなく動き回る厨房は慌ただしい。トレーを手に取ると野菜類のゾーンを通り過ぎてメインディッシュにあたる肉類のところへと辿り着いた。ローストビーフ、チキンソテー、マカロニグラタン、ミートパイが今日の献立らしい。それぞれをトレーの小分けした部分に盛っていく。すると、視線に気付いた。凝視されている。俺はトングでローストビーフを掴んだまま、視線を上げた。山盛りの肉類の向こう、つまりビュッフェの対岸である厨房から上背のある大男が俺を見つめていた。髭を生やし、丁度ジャガーより少し大きいぐらいのコックだ。俺が何だ、と声を出すよりも早く、「野菜食べなさいよ貴方!」と低い声がした。
「野菜嫌いなの?!」
女のような口調でまくし立てられ、俺は一瞬何と答えるか逡巡した。どう見ても男だが、何故こうも女口調なのだろうか。深く考えていると、男は一度俺の眼前から移動して野菜コーナーからありったけの野菜を小皿に盛り、戻ってくると俺のトレーへと置いた。
「新兵さんか何か知らないけど、ここのビュッフェは基本的に好き嫌いしちゃダメなのよ!サラダ食べなさいね!」
そう言われ、盛られた野菜の山を見ていると、男は大きな溜息をついた。溜息をつきたくなるのは俺の方なのだが。そう思いつつ俺は男に「体質的に野菜を受け付けられない」と言った。咄嗟に出てきた大嘘だが、食いたくないものは食いたくないという主張をしたところで無駄な意志疎通になりそうだった故に仕方がない。
「アレルギーを持っている。盛られても無駄になるだけだが」
「だったら仕方がないわね、そのサラダは後ろの子にあげて。勿体ないからね」
ごめんなさいね、と男は謝辞を口にした。素直に受け入れてもらえて幸運だった。案外物わかりは良いらしい。俺は後ろを振り返ると、小さな兵士にサラダを渡した。整備兵のワッペンをつけた彼はあたふたとしながら俺のサラダを受け取った。俺が男に向き合うと、男はにこりと笑みを浮かべた。
「次からは覚えておくわ。貴方、お名前は?」
「ウールフェード」
「ウールフェード…階級は大尉ね、分かったわ。教えてくれてありがとうね」
男は手を振って、慌ただしく厨房に戻っていった。俺の名前を名乗らせておいて、こちらは奴を知らんままか。あれは誰だ、と後ろにいた整備兵にぼそりと訊くと、整備兵は訊かれるとは思っていなかったのか少しだけ驚いて「フレディさんです、厨房責任者の」と答えた。
「兵たちの健康管理任されているんで、ちょっと口うるさいんですけど。良い人ですよ」
その言葉に俺は頷いて、「フレディ」という名前を記憶に留める。いつアレルギーという嘘がバレるか分からないという危惧もあり、この男にあまり出くわしたくはなかった。俺は整備兵に、感謝する、と言って主菜を盛り終えると、パンとライス両方をよそって席を探した。多くの兵たちが食堂で団欒している。ガラス張りの向こうのテラス席はどうやら喫煙も出来るらしい。少し寒いのかもしれないが、一服したかった。俺はガラス扉を開けると、広々としたテラス席の端っこを陣取った。俺以外にも煙草を吸いつつ飯を食う兵士は何組か見受けられた。視線を受けながらトレーを置く。ウエットナプキンで手を拭いフォークでローストビーフを掬い、口に入れた。なるほど、確かにうまい。健康管理された食事というものは基本的に薄味が多いが、まともな味をしている。兵たちの信用を得られる飯を作っているのが、さっきの「男女(おとこおんな)」なのだろうが、腕は確かみたいだった。前の職場は犬の餌のようなものばかりだったが、ここは期待して良さそうだ。咀嚼しながら灰皿を掴んで煙草の用意をしていると、俺が座っている四人掛けの席の眼前の椅子ががらりと動いた。今日は色んな奴に絡まれるな。俺は再度視線を上げると、先のフレディとはまた違うタイプの男と視線がかち合った。プラチナブロンドというのだろうか、短い白金の髪の兵士だ。静かな目の色をしている。
「相席しても?」
男はふと柔らかく笑む。その辺に空いている席などたくさんある。意図的にここへ座りたいというのはすぐに理解出来た。俺は小さく頷くと、どうぞ、と言って着席を促した。ドナルドベルクと書かれたワッペンの下に”ハウンド”というコードネームがついている。階級章は、中佐。俺の大尉より上である。その申し出を断ることは出来ない。中佐は柔らかく微笑むと席についた。トレーの上は俺のものと違って緑黄色野菜で溢れ返っていた。
「話は伺っているよ。新しいパイロットだろう?」
「ええ。…ウールフェード大尉です」
「ドナルドベルク中佐だ。戦車(ハンヴィー)隊の総隊長を務めている」
そう言って右手を差し出してきたドナルドベルク中佐の手を取る。固い手のひらだ。砲弾や機銃を扱う傭兵の手だった。男の雰囲気としてはどちらかと言えば軍人気質に近いようなものだったが、聡明そうな目を見ればその辺にいる輩とは一線を画していることぐらいすぐに分かった。ひどく面倒な部類の人間ではないだろうが深入りするとややこしいことになりそうだとは感じた。食えない男、と言えば妥当だろう。
「失神してかつぎ込まれたと聞いていたんだが、もう身体の調子は良いのかい?」
「飯を食える程度には元気です」
「ついでに軽口も叩けそうな雰囲気だね」
ライスを咀嚼しながらチキンソテーを切り分けていると、そんな言葉を吐かれた。俺はちらりと相手を見やる。どこからどう見ても人の良さそうな兵士だが、それだけではない雰囲気だ。なにかと察するのは不得意故に、あまり好ましいタイプではない 。おまけにこの男は俺の上官の階級に当たる。連れ合いたくないものだが、チキンソテーの欠片を口に放り込んで俺は「そんなことは恐れ多くて出来ません」と呟いた。
「ただでさえここでは新兵なので」
「だが一端の兵より階級としては上の方じゃないか。いきなり大尉の階級章を胸につけるのは、相当な実力がないと出来ない」
中佐はそう言って小首を傾げた。俺としては階級などあってもなくても同じようなものだった。こういう旧式の軍体制を敷いているところにありがちな「上下関係」という厄介なものが生まれるだけで、統率は取れるかもしれないがいざこざも同時に作り出される温床としか思えなかった。分かりやすいことは時に面倒な実状を生成する、ということだ。だがしかしここに配属となってからはその伝統に慣れていく他ないのだろう。俺はマカロニグラタンをつつきながら、適当な相槌を打った。
「パイロットという職が一般職よりも希少価値が高いせいだと思いますよ」
「それを理解している人間は多いが、上り詰めることの出来る人間はきみの想像以上に少ないよ」
くすりと笑む中佐の言葉は毒を持っているように感じた。今までこの試験飛行で死んでいった者たちのことを知っているかのような口振りだ。この男が何を意図して言っているかは別段興味ないが、それこそ歓迎されているようには感じない。別にそれで構わない。大地と空域が交わることはない。俺は中佐の言葉に何も返さず、視線を合わせたままにした。薄情なペールグリーンの瞳だ。食えない男だと感じた直感を、信じても良さそうだ。
「中佐」
唐突に聞こえてきた声に、呼ばれた本人共々俺は顔を上げた。テラス席への玄関口となる食堂のガラス扉から、背の高い一人の兵士がこちらを見ていた。兵士の胸にある階級章は少尉。コードネームは”ジャッカル”とある。ハンヴィー隊の一員らしい。そう遠くない故に彼の声は良く通る。
「席取って先に着いてますんで」
ぶっきらぼうな言い方だったが、中佐は「ああ、すまない」と一言言ってからすぐに席を立った。
「すまないね、先約があって」
「別に構いません」
「また今度、一緒に夕飯でも行こう。きみの話は興味深そうだ」
狸親父の妙な誘いは鬱陶しかった。とっとと行けと言いたかったが、これ以上目をつけられては適わない。俺は当たり障りもなく「是非に」と一言付け加えると、煙草をくわえた。ジッポで火をつけて、白煙を吐き出す。トレーを持ってではまたの機会に、と去り際に微笑んでいった中佐の背中と連れ立つ上背のある兵の背中を眺めながら、冷えてしまったミートパイをフォークで刺した。

2-4:Rest Time

飯を食い終わり、経理からの連絡で通された新しい住まいへと足を運んだ。大尉という階級に相応しい、共同棟である。佐官クラスは隣の棟で、ベースキャンプから徒歩二分もかからないところだ。基地敷地内にあるといえども、民間人居住区に一番近い。塀で囲われた息苦しさはあるが、少し歩けば娼館やスーパーもある。息抜きをするには丁度良いらしい。前の職場は監獄そのものだったが故にここはマシだった。傭兵は自由に生きなければ死んでしまう生き物だが、これだけ放任されているというのはここ最近のPMCにしては珍しい。あんな大将ではこうもなるのか、と思いながらぼうっとしていると、小さな電子音とともに共同棟の指定階にエレベーターが着く。6階立て、俺は最上階の角部屋を充てがわれた。2階ごとに少尉、中尉、大尉と変わっていくそうだ。5~6階は同じ階級の者たちのねぐらか。馴れ合いは好き好んで行わない。出くわしたくものだと思いつつ、角部屋へと辿り着く。スライド式の扉には指紋認証式の小さな画面端末が付いている。そこに親指を滑らせると、赤のランプが緑に変わった。もう登録は済んでいるようだ。仕事が早い、と思いつつ夕闇の中蛍光灯に照らされた廊下から室内へと歩む。
広々とした1LDKだ。通常ならば尉官クラスは2LDKの部屋を割り当てられるらしいが、角部屋は壁をぶち抜いてかなり広くしたのだろう。こんなに大きな部屋があっても使い道に困るのだが、二部屋あったところで同じだった。照明や家具、調度品などはすべて支給だ。インテリアに困ることもないし、眠る為のベッドと熱いシャワーが出れば何だって良かった。リビングルームには窓際に間接照明、そして大きな二人~三人掛けのソファ、デスクを用意されている。キッチンには冷蔵庫、何故か知らないがワインセラー、オーブンレンジなども置かれている。俺は野戦服のままソファに沈み込んだ。薄く引かれたカーテンの隙間から、基地の明かりが見え隠れしている。滑走路の誘導灯が遠くに霞んで見えた。ソファ前のローテーブルに置かれたラップトップを引っ掴んで起動させた。こいつも支給品ながら、俺のIDを入力すればある程度の情報は引き出せるようになっていた。ここのマザーネットワークシステムへアクセスし、今日のフライトについての簡易報告を読み進めた。ご丁寧に顔写真を載せられている、明日からはもしかしたら有名人かもしれない。また面倒なことになりそうだった。目頭を押さえた。疲労からくるのか、頭痛がする。飯をあれだけ食って点滴も受けた。明日からまた飛ぶことは可能だ、だがやけに痛い。今までフライトの後にこれだけ疲弊したことはなかった。あの機体のせいなのか。無理な飛び方をして身体にガタがきているとでも言うのだろうか。俺はソファの上で丸くなった。ローテーブルにラップトップを戻すと、フローリングに転がったままのリモコンを操作して照明を全部落とした。すぐに暗闇と静寂が部屋に満ちる。今はただ眠りたかった。泥のようにくたびれた身体を、休ませる他なかったのだ。

2-4.5:Ground to Ground

枯れ葉を踏み締める。駆ける足は止まることを知らず泥濘を越える。無線の声が聞こえる。重たい銃を抱えたまま、呼吸を乱すことなくひたすら走っている。安全装置を外し、二脚を立てて大地に伏せる。伏射の姿勢。照準を合わせる。引き金を絞る。照準の先にいるのは、人間だ。害獣ではなく、人間だ。目が、こちらを見つめる。薄青い目が、こちらを。――あの瞳は、誰が見たものだったのだろうか。迷うことなく引かれた引き金は、乾いた音を立てて空薬莢を排出させた。命中し、人間の頭が散り散りになる。弾け飛んだ肉と脂肪と、それから大量の血を吹き出して死んでいったのだ。

2-5:No "Men's" Land

甲高い電子音で飛び起きた。機体のGメーターの計測音にそっくりだったのか、頭はまだ上(空)にいるような感覚だった。昨日のどろどろの格好のまま眠りこけていたらしく、ソファの周りは散らかっている。また夢を見た。ラップトップと携帯端末から発せられたらしい電子音に、ケツのポケットを漁る。携帯端末がちかちかと青く光る。ただの起床時間の知らせだった。フライトの翌日はさすがに休みになっていたが、昨日の起床時刻のアラームを解除し忘れていたのだ。0400。オフの日に起きるには早すぎた。が、昨日は2000ぐらいにこの寮にやってきて眠りこけてしまったのだ、このくらいの時間に目を覚ますのは妥当と言えば妥当なのだろう。べたべたする顔に気付いて、これから二度寝をするにも気持ち悪いなと思い、俺はシャワールームへと足を運んだ。
熱いシャワーを浴びたあと、慣習のように冷蔵庫を開けた。が、中にはゲストルームのように水などは入っていない。舌打ちをしたが、ミネラルウォーターが湧いて出てくることもなく、俺は仕方なしに支給された野戦服(と言っても今日は休日だ、階級章は外しておく)に袖を通すと、食堂へと向かうことにした。早朝・夜間出撃があることもあり、24時間開いている。下手に食材を買い込むより効率が良いのと、俺自身料理などしたくもなかった。部屋にロックをかけ、エレベーターで一階に降りる。白んだ朝焼けの光が、コンクリート造りの共同棟に跳ね返されている。眩しさに目を細めた。時刻はもうすぐ0500になる。煙草を口にして歩きながら火をつける。何の変哲もないここでの生活が始まろうとしているが、朝イチで煙草を吸う日課は変わらなかった。ハードパッケージの青い箱を眺めつつ、嗅ぎ慣れた葉の臭いが空気中に霧散していく。舗装された基地までの道は広く、多くの兵士たちが既に行き交っている。教練なのか、掛け声を発しながら走っている新兵の集団、警邏用の警備犬を連れ立つMP、基地本部の射撃訓練場に出入りする狙撃兵の小隊など、くそ早い時間にも関わらず以前の勤め先よりも活動している人間が多い。俺はそんな男たちの傍らを素通りするようにして煙草を足下で踏み消すと、本棟へと足を踏み入れた。昨日訪れたばかりの食堂は、案外空いている。ぽつぽつと人はいるが、昨日の夕飯時に比べたらかなり少ない。列もなく、俺はトレーを手に取ると今日の献立を確認した。スクランブルエッグ、ソーセージ、ゆで卵、シリアルなど、朝食メニューに切り替わっていた。ライスを盛り、スクランブルエッグを大きな皿に流し込んでその上にソーセージを乗せる。更にケチャップ、マスタード、マヨネーズを大量にかけて進む。サラダバーは見なかった。ドリンクサーバーでコーヒーを淹れようとしたとき、おい、と声がかかった。昨日から何度となく声をかけられているからもう慣れたことだが、あまりここでは聞き慣れていない声――女の声に少し驚いたのもあってか、俺は反射的に振り向いた。そこには俺の肩ぐらいの背丈の女兵士が立っていた。小さい、とは言えない。185cmある俺の肩までの背丈だ、女にしてはでかい。習慣になりつつある階級章のチェックをすると、俺と同じ大尉だ。ツェルニー大尉、コードネームは”レオネッサ”とある。派手な金髪美女と言えば聞こえは良いが、PMCにいる以上間違いなくメスゴリラだ。何か用か、と問うよりも早く、メスゴリラは「集合時間に遅れているぞ、何をしている?」と威圧的な声色で問いつめてきた。
「何のことだ」
「新兵教練だ。カリキュラム表は配布してある筈だぞ。それにお前、階級章はどうした?忘れてくるなど言語道断、減棒だぞ」
話がまるで噛み合っていないのだが、察するに俺はここの新兵と間違われているらしい。階級章もなく、おまけに見覚えのない顔だったらそうなることもあり得る話だった。メスゴリラは怒っているわけではないが、とっとと行けとでも言いたそうな顔つきである。俺は新兵ではない、と言ったところで効力がなさそうだった。ケツのポケットをまさぐって、ストラップつきのID証を取り出した。持っていなかったら強制連行で教練にぶちこまれるところだった。お前と同じ階級だ、と付け加えると、メスゴリラはきょとんとした顔に変わった。
「何だややこしい。階級章を着けろよ」
「今日は非番だ」
「だったら野戦服なんぞ着るな。お前は…」
「ウールフェードだ」
名前を言った瞬間、メスゴリラは合点がいったようにああ、と頷いた。噂の新任パイロットか、と納得したらしい。
「とにかく、次からは気をつけろ。無駄な時間になる」
「俺の非番にとやかく言われる必要はないと思うが」
「あたしの時間の話をしている」
随分勝手な話をしているように感じるが、このメスゴリラは頓着せずにじろりと睨みつけてきた。背は低いが随分と威圧的な態度だ。この基地にも女がいたのかと一瞬でも淡い希望を抱きそうになった自分を律した。メスゴリラはかつりと踵を返すと、話は終わりだとでも言いたげに足早に俺の前から去っていった。嵐が去ったかのように、食堂は静まり返っている。
「レオちゃんに目つけられたらおしまいよぉ?」
ひょこりと出てきた顔は昨日見たものだ。ちょび髭ハゲ頭のフレディはお玉を片手に持ちつつ厨房から半分顔を出してきている。
「あの女のことか」
「そうそう。新兵教練の教官してるのよ。怒ると怖いわよ、カノジョ!」
大尉も気をつけなさいね、と言ってふふふと笑うフレディに頷いた。怒らせるようなことは何一つしていないのだが、と思ったが言葉にはしないまま、俺は昨日と同じようにテラス席へと向かった。肌寒いがそのぐらいの方が良い。灰皿を置いて、煙草を吸う。朝の静けさの中、湯気を放つスクランブルエッグを咀嚼した。ケチャップとマヨネーズの味がしたあとにマスタードのつんとした辛みがくる。兵士の掛け声と無人機の離陸音を耳にしながら、質素な朝飯で腹を満たした。

2-6:Panther Lied

満腹中枢が満たされたあと時間を持て余していた俺は、機体の様子を見に行くことにした。時刻は0615、整備兵たちもフル稼働しているに違いない。無人機は四六時中警戒任務等の人間がカバーし切れない部分を担っている。つまり俺が眠っている間も任務を続行しているということ――つまり、そのバックを補佐しているメカニックも山ほどいるということを意味している。交代制で整備をしている者が24時間缶詰めになっているのは、どこのPMCも変わりはしない。ここもそうだ、本棟の裏手側に回ると滑走路が二本目に付き、雑草が少し生えたエプロン(駐機場)周りから続いて大きなハンガー(格納庫)が二つある。メインである無人機用ハンガーと、前は物置小屋同然だった有人機用ハンガーである。用があるのは後者の方だ。慌ただしく整備兵たちが行き来する無人機用ハンガーの前を通り過ぎると、有人機用ハンガーへと立ち入る。シャッターは開かれていた。何だ、閑散としているかと思ったら人がいるのか。ひんやりとしたハンガー内は工具が鳴る音と、小さなものだが話し声が聞こえてきていた。グレー一色の個性的な前進翼機の右主翼下を、少し背を屈めて通り抜けると、その声も段々近づいてきた。二人の年若い整備兵がいた。一人は眼鏡をかけ、一人は特筆することもない青年だ。眼鏡より背丈が小さいだけ故にチビ、としか表しようがない。俺は機体のチタン合金で作られた増槽をゴンゴンと拳で叩いた。ヒッ、と声を上げた整備兵の視線がこちらを向いた。
「パイロットのウールフェードだ。管理責任者はどこだ」
俺の言葉に口をぱくぱくしているのはチビの方だ。眼鏡は逡巡しているように見えたが、すぐに俺へ略式敬礼を返すと、今すぐに呼んできます、と一言加えるとぱっと走り出した。昨日の今日でいきなりパイロットが来るなど、知らされていない様子だった。眼前のもう一人の整備兵の様子を見れば一目瞭然だった。俺は背を機体の横っ面、エアインテーク辺りに預けながら責任者を待った。チビの整備兵は固まったまま、直立不動で俺の隣にいる。視線が泳ぎ、どうしたら良いのか分からないといった雰囲気だ。しかしだ、こんな早朝から有人機整備を任されているということは、俺の機体の担当はこのチビと眼鏡の可能性が高い。ぱっと見たところ二十代にもなっていなさそうな子供だ。腕が良いのだろうか。
「こいつは難しいだろう」
何が、という主語はなかったが、再度機体を叩けばチビははっと目を見開いた。あの、と震えた声が続く。
「む、難しい、ですけど…」
そう言ってチビはやや言葉を濁す。その後は続かなかった。俺はそうか、と言った後黙るだけにした。沈黙を嫌う者は多いが、別段困ることはなかった。もしかしたらこの整備兵は沈黙が息苦しいのかもしれないが。
ぱたぱたと走る音が近付いてきた。足音が増えている。三人分。機体の反対側から見えたのは、先程の眼鏡、そしてもう一人年若い整備兵(ソバカスが目立つためそう呼称する)、そして四十路を越えたであろう責任者らしきドレッドヘアの浅黒い大男だった。大男は「今日は非番だと聞きましたが」と第一声でそう言ってきた。
「非番だが来てはいけないわけではないだろう」
「はは、確かにそうですね」
男は人の良さそうな笑みを浮かべると、YF-004の整備責任統括のアントニ・アーウィンと言います、と挨拶をした。階級は少尉。コードネームは”ユキヒョウ”だそうだ。胸のワッペンから視線を移し、差し出された手を握った。隣に立つのっぽのソバカスがわくわくと何かに期待した目を輝かせているが、その視線を見なかったことにして俺は機体の様子は、と言い放つ。
「メンテナンス自体はあらかた終了しているんですが、どうも主翼の外殻が若干歪んでいるんですよ。随分乱暴な――失礼、無茶な飛び方をされたみたいですな!」
ユキヒョウは大きく笑うと、こつんと右主翼を叩いた。前進翼機は風の抵抗を受けやすい。普通のテーパー翼、デルタ翼に比べると翼面積が少し少ない癖に、前に飛び出た特徴的な形のせいで脆いという評価を下されるのだ。加えて、あの飛び方を――無論ジャガーと田中の指示ながら、対流圏と成層圏という異なる空域でやらねばならなかったのだ。俺が飛ぶ以前から、何人ものパイロットを積んで飛行した分を含めても、ガタがきたのだと判断しても仕方がなかった。俺は前進翼のざらついた表面を撫でて、どうにかしてすぐに飛べるように手配してくれ、と呟いた。
「飛行型害獣の出現も報告にあったんだろう。早いに越したことはない」
「そのためにこいつらがいるんでね、その辺は安心して下さいよ」
そう言うとユキヒョウは突っ立っている三人を自らの前に押し出す。背の順で言うと、ソバカス、眼鏡、チビの順だ。名前をそれぞれ名乗られたが、随分と長い名前は覚える気がない。俺は曖昧に頷くと、顔を見れば俺の機体の担当員だと分かる、と区切りをつけた。
「TACネーム――コードネームはないのか、お前ら」
聞くと、ソバカスがあの!と一歩前に出てくる。
「うちは基本的に尉官クラス以上じゃないとつかないんス!俺たちみんな一等兵なんで、」
「だからファミリーネームで呼んで頂けると助かります」
ソバカスの続きを眼鏡が引き継ぐ。なるほど、ソバカスがバカ、眼鏡はもの分かりが良く、チビは引っ込み思案か。俺は三人の顔を見比べたのち、それぞれの渾名を呼んだ。
「ソバカス、眼鏡、チビ。それでいいな」
ユキヒョウの黒々としたでかい瞳が俺の発言を聞いて更に大きくなる。かっかっと表現していいぐらい大きく笑うと、「こいつらがいいんならそれで!」とにんまりと笑った。
「良かったなあお前ら、棺桶の生還者から直々に渾名貰えて!」
「オレソバカスっていやッスよー!これコンプレックスなんで!」
「あのさ、耳元で大きい声出さないでくれる?」
「お前だって眼鏡ってやだろ、なあ?!」
わいわいとうるさいソバカスと眼鏡を余所に、チビは黙ったまま頬を掻いている。不服そうな顔はおそらくしていない――俺の視線からでは表情はあまり見えなかった。ユキヒョウはそんな三人をまとめると、挨拶も終わったことだし、と言って持ち場へと着かせた。難しい主翼整備は主にユキヒョウが指示を出すらしいが、これから別の仕事させるんですよ、と機体を眺めた。俺は男の視線に釣られて、流線的なフォルムを描く試作機のキャノピーへと目をやる。
「システムチェックか」
「それは大尉にもやって頂きますけど、もっと大仕事があるんでね」
そう言い、ユキヒョウは大きな手のひらをざっと機体に滑らせた。色をつけないと、と言葉を付け加えつつ、俺はYFのグレーカラーを意識した。そう言えば、試作機という名前がついている限り、こいつはあくまで実験段階のままだ。害獣からの視認性、この地域の特徴に合わせた迷彩を含めたカラーリングを行わなければならない。おそらくカラーリングの指示は田中から来るのだろうが、その作業自体はこの子供らにさせるということか。ユキヒョウの言葉を受け止めながらも、吐く言葉は決まっていた。
「俺はどんな色でも構わない」
赤にしろ青にしろ、害獣と対峙したら落とすだけだからだ。奴らに見つかったところで撃墜してやるのが俺の仕事だ。その意味を介してかは知らないが、ユキヒョウは黙ったまま小さく笑んだだけだった。

2-7:Shopping

昼頃まで整備の話を聞き、そのあとは完全なフリーになった。こちらに来てからあっという間に三日目が過ぎている。腹ごしらえをしたかったが、また食堂に行くのも気が進まない。あのメスゴリラに再度遭遇する危険性があるからだ。だったら気兼ねなく腹を満たすことが出来る、街に出ようとなるのは当然のことだった。俺は守衛の外出許可表を記入した後、財布と煙草だけという至って軽装で基地から出た。野戦服のままなのは致し方ないのと、手持ちの私服を一切持っていなかった。もし万が一あのメスゴリラにエンカウントしてしまった時にまたいちゃもんをつけられることのないよう、何かしらの服を買っておくのは得策だ。守衛に聞いた通り、この街には大きなショッピングモールがない。個人の経営するショップが大通りに面している以外、スーパーがひとつふたつ、そしてバーやインビス、娼館が並ぶだけという、どちらかと言うとアウトロー向けの小さな街だった。傭兵稼業が盛んになると、経済はこういう風に消費よりも供給へと傾きやすい。消費はするのだが割と酒、煙草、売春、麻薬取引など所謂「裏側」のものばかりが求められる。そうして、それを売買する者たちも一般市民といえども、暗黙の了解のように、当たり前だと言わんばかりに白昼堂々と売りさばいている。これを管轄しているのが民間軍事企業、もしくは軍産複合体と言う大きな塊というわけだ。この基地が市民の「安全」を守る代わりに、「娯楽」を提供する、というwin-winの関係が出来上がる。どの地域でもそうだ。こんなことが普遍的な事になっているのだ。無論中には違う地域もあるだろうが、結局は武力を行使出来る強者が上に立つ――娯楽もない、武器もない理想的な平和など、すぐに崩れ去る。そういう造りになっているのだ。
街はどこか閑散とした雰囲気があり、昼間にも関わらずバーは開店して飲んだくれが多い。学校に行っていなさそうな子供もちらほらと見受けられる。教育をする側がくその寄せ集めだったらこうもなるか。俺はそんな光景を目にしながら、大通りの一角にあるセレクトショップへと足を踏み入れた。いらっしゃいませ、と若い女の声が響く。小綺麗な女だ、おそらく店主だろう。俺の様相を見た瞬間に、「久々の軍人さんだわ」と小さく微笑んだ。思っていた通り、この地域の住民にとって兵士は軍人、という扱いらしい。傭兵というならず者集団だが、余程手厚い庇護下にいるのだろう。
「何かお探しですか?」
「こちらに来たばかりで服の持ち合わせがない。適当な服を見繕ってもらいたい」
「ご予算はございますか?」
「特には。一週間分、上下セットであれば何でも構わない」
あんたのチョイスに任せる、そう言って俺は小さな店内に設けられた臙脂色のヴィンテージソファに腰掛けた。店主は困ったような顔をしたが、しばし考えた後、少々お待ち下さいね、と店内を見て回った。俺を見た瞬間にサイズは理解したのだろう。大柄の男、かと言ってウエスト周りがそこまで太いわけでもないパイロット体型に合わせるのは些か難しいだろうに、合うサイズの服をいくつかすぐに持ってきた。ご試着どうぞ、とにこりと笑顔で言われ、野戦服のジャケットを脱ぐと俺はジャンパー、ムートンコート、薄手のシャツ、Tシャツなどを次々に着てみた。
「ジーンズやスキニーパンツもありますけど…」
そう言って渡されたパンツ類を手に、その場で脱ごうとして頭が固まった。軍に長く身を置きすぎた弊害だった。店主はくすくすと笑うと、試着室へと案内してくれた。サイズも問題ない。俺は試着室から出ると、全部くれ、と言って服を彼女に手渡した。
「あまり色とか生地とか、こだわりないんですか?」
「あったら人生楽しかったのかもしれないな」
興味深げに訊いてきた店主にそう返した。俺の興味は、ただひとえに空の世界だけだった。彼女が店を構え服を扱うのと同じで、人それぞれ好みや興味は違う。人間が個人という枠に収まっている限り、その事実は変わりようがなかった。
会計を済ませて大荷物を抱え、店を出た。近場のインビスでホットドッグを購入し、腹を満たしながら街を後にした。大通りは昼過ぎになっても人影がなく、酔っぱらいの老人が虚ろな目で空を眺めているだけだった。

2-8:At the Dusk

街から戻ると、午後の訓練を行っている兵士の群と遭遇した。基礎体力云々はこの基地に入る前の適正検査である程度絞られているため、ここで訓練を受ける新兵どもの大凡の基礎づくりはしっかりしている。大柄な男以外にも、電子戦のノウハウがある所謂頭脳派の兵士も、ここは必ず通らねばならない。俺のように半分スカウト状態で着任する者以外の、云わば登竜門と言える。そうして、そんな男どもをしごき倒すのが訓練教官の役目だ。無論しごき倒す、と言うと聞こえは悪いが、要は死なない兵士――戦闘から帰還出来る兵士を作り上げるのが仕事だ。その役割を担っているのが、今朝出会ったメスゴリラなのだろう。女だからと言って甘く見ない方が良いのだろうなと遠く思いながら、一団を眺めた。指揮している金髪の女が檄を飛ばしている。地上戦で生き残るには、体力だけでは上手く行かない。害獣は進化する、という実態が明らかになって以降、自身で思考し先手を取る力が求心されていた。思いも寄らない攻撃に対する対策を打つ力、迅速に判断し行動する力など、今まで人間と人間の「ある程度予測出来うる」戦いに比べると、未知のものが多すぎたのだ。必死になって食らいつかなければ自分が屍になる、それを自覚してからの傭兵稼業は随分変わったものだった。莫大な給与が与えられる代わりに、命を賭すことを余儀なくされた。それは空も地上も変わりない。違うのは、戦う手段だけだった。操縦桿を握るか、小銃の握把を握るか、それだけだ。
「何だそんなものか!とっとと起きろ!戦場ならば貴様死んでいるぞ!立て!走れ!」
メスゴリラが怒号をあげていた。古臭い慣習と言えばそこまでだが、ああして使える駒を育てるのだとしたら、意味を持つに違いない。
俺は教練集団を遠巻きにしながら、住まう寮へと戻った。エレベーターで6階まで上がり、指紋認証を滑らせた。大量の荷物を置いてとりあえずソファに身体を沈めた。午後の日が暮れるのは早い。傾き始めた太陽を窓から眺めつつ、少しだけ目を閉じた。疲れではないが、何も考えずにいる時間も必要だった。
ピピ、と携帯端末が音を放った瞬間目を開けた。時刻を確認すると、夕方になっていた。いつの間にか眠っていたらしい。大きく肩を回しながら身体を起こし伸びをする。音の元であった端末を確認すると、整備担当のユキヒョウから連絡が入っていた。主翼の外殻修理がある程度完了した、とのことだった。また時間に余裕がある内に様子を見に行ってやろう。機体の面倒を見るのは彼ら整備兵の役目だが、搭乗するのは俺だ。システム管理の進捗もどこまでいっているか、確認せねばならなかった。端末をケツポケットに突っ込むと、外出の準備をした。上着だけ、また何か言われないようにと着替えておく。
外に出ると夕焼けに照らされて基地全体が仄赤く染まっていた。警備のMP、訓練に勤しむ兵士の姿、書類を抱えて本棟へと赴く経理員、何も変わらないここの日常のようだった。鬼の居ぬ間に――害獣出現報告がない間は暇を持て余しているようにも見えた。実のところそういうわけでもないのだろうが、平和な時間というものがひどく退屈にも感じられた。
滑走路奥に佇むハンガーに再度赴いた。朝ぶりだったが、特徴的な整備兵三人の姿はなく、ユキヒョウだけが作業に没頭していた。足音と気配に気付いたユキヒョウは、煤のような汚れを頬につけたままにかりと歯を見せて笑った。お早い到着で、と付け加えられ略式敬礼をされる。広々としたハンガーの中を占領するように鎮座する試作機を眺めつつ、修理ご苦労だった、と一言労った。
「仕事が早いものだな。感心する」
「明日にも出るだろう機体を今修理しないで、いつ直すんですか」
全く以てその通りだと思う。変容する害獣は、今この瞬間にももしかすると襲いかかって来るかもしれないのだ。そのための下準備という土台は、作っておかなければならない、云わば布石のようなものなのだろう。ありったけの短距離・中距離ミサイルが積まれた状態で、いつでも殺す準備が出来た自機を視界に入れた。空にいる間は退屈な時間を忘却出来る。地上での時間の経過がまるで嘘のように感じられる、あの極限世界。全てが一瞬で終わる空域は、昨日経験したばかりだと言うのに、ひどく懐かしく思えた。
「明日から通常任務に入られるんですよね」
機体を眺めていると隣から声がかかる。そちらを見ずに、ああ、とだけ相槌を打つ。
「機体に慣れるがてら哨戒任務に着かせるたぁ、なかなかない話ですけどね」
「どこのPMCも最低でも30回程は飛行訓練を重ねてから出撃させるが、そうもいかないということだろう」
どんなに腕利きのパイロットでも、一度乗った機体に即応的に慣れるということはない。徐々に慣れてコツを掴み、その機体の特徴を身体に染み込ませるのが定石だ。だがここの地域ではその話も通らない、すぐさま実戦で慣れて害獣を屠れということを暗に示しているのだろう。別に迷惑な話だとは思わなかったし、自分自身の操縦技術を省みても問題ないと言い切れる自信があった。つまりそれだけのスキルを持っている者しか、この機体に乗ることは許されないのだ。
「大尉自身、どうなんです?飛行訓練、やっぱりした方がいいんですか?」
ユキヒョウが興味深げに訊いてきた言葉に、俺はポケットに手を突っ込んだまま答える。
「仮に必要があったとして、行う猶予があるのか」
「…仰る通りで」
猶予などない、そう断言する他ない返答にユキヒョウは頭を掻いた。最早飛ぶしかないのだ。例え身体が重力に押し潰されて血反吐を吐いたとしても、脅威から身を守るにはその方法しか残されていないのだ。
物言わぬ試作機が、夕暮れの色を跳ね返す。ただひたすらその光景を見つめ、冷たくなってきた夜風を頬に受けた。

2G

(続)

2G

約30年前から人に危害を加える存在として認識された”害獣”。 これを観測し、居住区への侵攻を阻止すべく、民間戦闘組織〈陸軍第一拠点〉は戦闘を続けていた。 飛行型害獣への対抗策として、傭兵ジール・K・ウールフェードは次世代型ジェット戦闘機パイロットとして試験飛行に臨む。

  • 小説
  • 中編
  • アクション
  • SF
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-12-01

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 1-1:Arrival
  2. 1-2:Meeting Again
  3. 1-3:General and Engineer
  4. 1-4:Family Gathering
  5. 1-5:Briefing
  6. 1-6:Take off
  7. 1-7:Gravity
  8. 1-8:Landing
  9. 2-0:Ground to Ground
  10. 2-1:Awaking
  11. 2-2:Agreement
  12. 2-3:First Meeting
  13. 2-4:Rest Time
  14. 2-4.5:Ground to Ground
  15. 2-5:No "Men's" Land
  16. 2-6:Panther Lied
  17. 2-7:Shopping
  18. 2-8:At the Dusk