ぼくがここにいるよ《前編》

《本文中の漢字の読み方》
豆生田/まみゅうだ 火文/ひふみ 隠神/いぬがみ


  
魂よばう
玉よばう
磐の石から玉よばう


 今でも不思議に思うのは、この歌だ

 一人でいると聞こえて来る
 誰もいないのに、歌が聞こえる
 大勢の子供たちが歌っていたと、彼女は言う
  
 どうしてこんな歌が聞こえたのだろう
 可奈ちゃんが来る前の冬の東京で、誰が歌っていたのだろう
 何故漣の患者さんだけに聞こえたのだろう

 今は正気に返った彼女に尋ねても、分からないと答えるばかりだ

  四月二十三日 月曜日  

『こっ、これは、本当に人魂なんですか!?』 
 テレビから裏返った声が響く、冥王星の待合室。
「人魂がどうしたって? 稲川淳二でも出てるのか?」
 窓辺で水晶玉を磨いていた占い師が振り返る。銀色のレーシングスーツに、サングラスの衣装。仕事上の通称は、霊界探偵。
「年老いたコメンテーターが変な顔で並んでるだけ。稲川淳二は夏が来ないと出ないわよ」
 派手なカードシャッフルの手を止めて、アリシアがテロップを読む。
「野音ロックフェスで大パニック! ののなのか!?」
「のの? 何だののって」
「さあ。後は読めない・・・」
「驚愕の超常現象! 謎の発光体大量飛来! 人魂なのか!? だよ。酷い文章だな。タロットさんは読めなくて幸いだ」
 後半部分を読み上げて、手相見が眉をひそめる。
「水無瀬氏、ワイドショー嫌いだもんな」
「好きな人なんか、いないだろう」
「そりゃそうだ」
「えっ、本当?」
 来日三年のアリシアの怪訝な表情。
「口では低俗って罵倒しても、少しは好きなんでしょ?」
「それはどうかな」
 そう言うと水無瀬氏は、自分専用の占い部屋に入って行く。
「俺たちは、そこまで変態じゃない」
 探偵も窓の方を向き、水晶玉を光にかざす。
 テレビの音だけが流れる中、事務所へ続く隠し扉が開いた。サリー姿で現れたのは、占い師で、占い館冥王星の経営者で、私の叔母の藍さん。叔母さんはアリシアに声をかける。
「どうかした? ポカンとして。幽霊でも出た?」
「ええと、幽霊じゃなくて。人魂が集団で現れたって」
 アリシアがテレビを指す。
「人魂。そう言えば、最近見ないわね。昔はよく目撃談を聞いたけど。で、どこに出たって?」
「日比谷、野外音楽堂」
「あらま。野音なら見ておかないと。地元ネタだし」
 叔母さんは開店支度を中断して、テレビの真向かいの席に座る。
「俺もチェックしとこう。オカルト話が好きなお客さん、結構いるんだ」
 探偵もブーツの足音を響かせて歩いて来た。
 アリシアはテーブルの上に愛用のカードを揃えて置く。
 水無瀬氏も戻って来て、手近な席に落ち着いた。
 私も叔母さんの隣に座る。冥王星の看板占い師全員が待合室のソファに集まった。
『もう一度、見せて貰えます? さっきの、ボーカルがおかしくなる辺りから・・・』 
 画面がスタジオから野音に変わる。カクテルライトが降り注ぐ、まばゆいステージ。ちょうど能天気バンド、スピンドルVが演奏を終えたところだ。フロントマンの明がトランペット片手に、客席へラブコールを送っている。
『じゃあな、愛しの貧乏人ども。マツオしろ、発光しろよ!』
 何が貧乏だ! 意味分かんねえよ! 客席から声が返る。 
『いいんだよ、これには深ーい訳があんだよ!』
 待合室では、バンドの衣装に話題が集まる。
「本庄は、とうとう着物でステージに立ったんだな。そんなに変に見えないのが変だ」
「だって着物より、もっと変なのが後ろにいるわ。角の生えたライオンキングよ」
「ドラマーの衣装の事か? あれ多分、マグマ大使だよ」
「ダンボールマグマ大使・・・。これのどこが真面目なライブなんだ」
「お坊ちゃまだけは、まともな格好で手を振ってるわね」
「騙されるな。一見まともに見えるが、あのシャツはシースルーだ」
 明は学生の頃、ここで裏方のバイトをしていた。占い師たちは、メンバー全員と顔見知りだ。
『これは別のバンドですね。今映ってるのは、去年デビューしたスピンドルVです。キャッチコピーは"アホ毛降臨!"だそうです』
『何ですか、アホ毛とは』
『頭のてっぺんで、ぴょこんとハネてる、あれでしょう』
 コメントとは関係なく画面は変わる。あ、これ。これですよ、問題のバンドは、と司会が煽る。
『登場の時点で、すでにオカルトっぽい。何ですかね、この顔は。黒魔術でもやる気でしょうか!?』
 イベントの最終バンドが登場する。黒ずくめの三人編成。白塗りに、唇と目の周りだけが黒いホラーメイク。しかし、デスメタルだから変でもない。ポップスター風のスタイルで、にこにこ現れる方がオカルトだ。
 繊細なピアノ曲のSEの中、三人は無言で位置に着く。何の合図もなく、爆音を響かせて演奏に入る。
『普通はまず、客席に呼びかけるよね。イエーイとか、みんな元気ーとか。何で黙ってんだ?』
『格好つけですよ』
『寒ーいギャグしか言えないのかも』
『こんな顔して、みんな便器ーとか?』
 寒いやり取りの最中、再び映像が切り替わる。
『あっ、この曲だよ。このうるさい間奏の途中で!』
 純白のライトの下、音楽と騒音の境界を暴走するような演奏が続いている。
 突然、照明が落ちた。急な暗転。目が慣れないのか、三人の手が次々止まる。
 月のない夜。周囲のビル群の明かりが逆光になって、野音は一段と暗い。
 黒い影になったボーカルが片手を上げる。無言で西の方角を指差す。
 何を差しているのかと振り返った観客が、異変に気づく。
 彼の指し示す先に、ぼんやりとした怪しい光。
 西の空に、青白い光が浮かんでいる。光はゆらゆらと尾を引きながら、野音に近づく。客席の上を通り、ステージまで来ると、意思があるかのようにボーカルに纏わり付いた。そして彼の胸の辺りに吸い込まれ消えて行った。
 ボーカルの眼がギラリと光る。
 小声で何か呟き出した。
『暗い・・・』
 呻くような声で喋っている。
『・・・暗い夜だなあ・・・。お前たちが、俺の子供を殺しに来たのも、こんな、暗い、夜だったな・・・』
 急に大声で叫び出した。
『子供はどこだー! 俺の子供はどこだー! 子供はどこだー!』
 同じ言葉だけを、繰り返し叫び続けた。絶叫するボーカルを、他のメンバーとスタッフがステージから引きずり降ろす。ステージから人が消えた。
 観客は息を詰めて待った。照明の復旧か、アナウンスを。
 その内に客席に明かりが灯る。ぼんやりとした光が、あちこちに浮かんでいる。でも何かおかしい。その光は移動している。ゆらゆらと揺れながら通路を行き交う。
 こんな照明は、この世に存在するはずがない。
 気づいた誰かの悲鳴が上がる。
『人魂!』
 一人が叫び出すと、連鎖的に誰もが叫んだ。
 野音は今や、パニック状態だった。
 叫んでも人魂は消えなかった。叫び声が上がり続けた。悲鳴の中で、破裂音らしきものが聞こえた。
 画像が乱れ、雷のような亀裂が走る。映像も音声も、全て途絶えた。
「何か爆発したの?」
 砂嵐になった画面を見たまま、アリシアが訊ねる。
「いや、カメラが倒れたんだろう」
 画面はスタジオに切り変わる。出演者がポカンとしている。 
『どうです。今の映像を見て・・・』
『どうと言われても、ねえ・・・』
『あの光、何ですか? 人魂に見えました?』
『人魂と言えばそのような』
『でも、数が多過ぎよね。数十個? もっとなかった?』
『多いと問題でも?』
『だって、ほら、UFO大襲来のお馬鹿映像みたい』
『すると今の人魂も?』
『今はこのくらいやらないと話題にもならないから』
『音楽業界も焦ってるな~』
 じゃ、ヤラセって事で。流れが決まると、出演者の口が軽くなる。トリック談義に花が咲く。
 あれは一斉に蛍を放したんじゃないか、レーザーポインターか何かを、それらしく動かしたんだろう。新型投影機の宣伝とか。いやいや、意外に照明弾かも。
「ちょっと待て! 蛍がこの気温で飛ぶと思うか? 照明弾が通路に沿ってふわふわ飛ぶのか!? その前に、そんな物を客席に打ち込む馬鹿がどこにいる! 怪我人が出るぞ!」
 探偵が突っ込むが、テレビのボケは止まらない。
 スターウォーズまで持ち出して、あさっての方向に転がり続ける。
「ライトセーバーだと!? 映画と衆人環視の野外イベントを同列に語ってどうする。こいつら、まだまだボケる気だな。しかも笑えないボケ限定だ。テレビでまともな事を言うと、ペナルティーでも課せられるのか?」
 探偵の隣で、アリシアと叔母さんが囁き合う。
「トランスフォーマー?」
「いつもより早いわね」
 まだ開店前だが、探偵はトランスフォームしたらしい。仕事用の別人格になって突っ込み続ける。
「出たな、お約束の集団ヒステリー説。しかし、ヒステリーが起きると人魂が来て飛び回るのか? 少しは考えて物を・・・いや、言うな。むしろ黙れ。これはもう、電力と時間の壮大な無駄使いだ。何がエコだ。節電しろだ。ボケまくりの電波垂れ流し集団にエコとか言われても。いい加減にしないと、人魂だけじゃなく、もったいないオバケが出現するぞ。リアル妖怪大戦争だ。もしそうなれば、それはそれで見物だが」
 些細な事から大本まで、突っ込みどころは何一つ見逃さない。全方位型突っ込み大魔人。それが探偵の作り出した仕事用キャラクターだ。
「しかしどう考えても、毒電波に明日はないな」
 一応突っ込みのアップを終えると、探偵は手相見をチラ見した。
 水無瀬氏は、さっきから無言で考え込んでいる。
「ちょっといいか? 俺にはあの人魂、ヤラセには見えないんだが、理数系の見解は?」
「見解は・・・、そうだな。しばし、保留で」 
「と言うと、トリックの可能性もあるのか?」
「いや、人魂は人魂だろうが・・・」
「言い切りましたな」
「それはだから、便宜上だよ。人魂と言ったって、それが人の魂だとは限らない。取り合えずそう呼んだだけだ」
「つまりさっきの怪しい光は、水無瀬氏にも説明出来ないのか?」
「多分、プラズマの発光現象だとは思うが・・・」
「プラズマ? 世間ではよく、燐の仕業とか言わないか?」
「燐の自然発火は、場所柄を考えれば多分ない。そうなると、放電の可能性の方が高い。昨日は、東京中で雷が鳴ってたし」
「水無瀬氏はそう見たか。しかしなあ、さっきのは蝋燭の火に似てないか? ゆらゆらして、何かが燃えてるみたいだった」
「見た目で言えばそうなんだが・・・。人魂で有名な場所ってあるだろう。沼だの、墓地だの。そう言う場所は、条件が整ってるんだ。燐が多いとか、風向きとか。それが野音となると・・・。あの辺りは元は大名屋敷で、人も多かったはずだが、そんな話は全く聞かない。少なくともここ数百年、人魂とは無縁の場所なんだ」
「江戸時代の人は怪談好きだもんな。そんな逸話があったら広まるはずだ。あ! ひょっとして樹木の肥料に、庭師がうっかり燐酸を多く撒いたとか?」
「探偵・・・。そんな事で人魂が出るなら、とっくにプリンセス天功か稲川淳二がやってると思わないか」
「そりゃそうだ」
「それに、最後カメラが倒れたのは・・・」
「ちょっと、これ見て! オカルト専門BBS」
 携帯を見ていたアリシアが話を遮る。
「昨日の野音のスレッド、エンドレスの魔法にかかってる。読んでも読んでも終わらないから数えてみたら、二十秒ごとにレスが増えてる」
「本当だ。新着音が引っ切りなしに」
「ひょっとすると、祭りになりかけてるのか?」
 キラキラ光るデコレーション携帯を、探偵が横から見る。
「しかも集まってるの、ほとんどが目撃者だ」
「みんなヤラセじゃないって、怒ってるでしょ」
「そうだな、本物の人魂だって言ってるな」
「タロットさん、漢字読めるの?」
 叔母さんに聞かれて、アリシアは緑の瞳をこっちに向ける。
「心眼を使えば何とか」
「出た。ケルト・ジョーク!」
 怪訝そうな叔母さんに、探偵が言う。
「だってここのレス、ほぼ仮名だよ。こりゃタロットさんでも読めるわ」
 自分の携帯で速読していた水無瀬氏が呟く。
「動画サイトに人魂の映像がアップされてる」
「ワイドショーのコピー?」
「いや。会場でファンが撮ったらしい」
「カメラチェックを潜り抜けて?」
「みたいだな」
「じゃ、すぐ見なきゃ。見ないと消されちゃうかも。マダム! お店のパソコン使っていい?」
「いいけど、開店時間を忘れないでね」
「やった! 流石美人店長!」
 占い師たちは、一瞬で奥の事務所に消えて行く。
「人魂の数を数えた人がいるわよ。映ってるだけで百以上ですって」
「明のブログも、カウンターがえらい勢いで回転してるぞ」
 動画だけでなく、手分けしてあちこち見ている。
 叔母さんは待合室に残り、来週分の携帯占いをチェックする。最近はいつ来ても忙しそうだ。
 そろそろ帰ろうかな。立とうとすると、叔母さんがこっちを見た。
「弓は、昨日野音に行ったのよね?」
「行ったよ」
「どうだったの、実際のところ」
「実際も何も、あのまま。さっき見た通り」
「もっと詳しく説明しなさい」
「詳しくって。人魂が千人ほど来て野音中飛び回った、としか・・・」
「トリックじゃないのね?」
「違う。大体、客席で火を燃やしたりしたら、消防法違反でつまみ出されてるよ」
「こんな事なら、私も見に行けばよかったわ」
「だけど、夜は無理でしょ。お店が込んでて」
 好きなだけふらふら出来る私と違って、叔母さんは忙しい。
「そう言えば、昨日はハンターの相手で大変だったわ。あの人、最近、毎晩来るから」
「ハンターが毎晩? 何しに?」
「北海道に埋蔵金を探しに行く、今度こそ見つかる気がする。占い的には、どの山がお勧めかって、そればっかりよ」
「えー、何で北海道なの? 今までずっと六甲山に執着してたのに」
「その六甲山で、猪に襲われかけて嫌になったとか」
「でも、何で一気に北に飛ぶの? 山ならもっと近くにあるじゃん」
「さあ。聞いても理由は言わないから。とにかく北海道やの一点張りよ」
「北海道に行ったって、多分何も見つからないよ。はっきりそう言った?」
「言ったわよ。六十回は言ったわね。でも、全然耳に入らないみたい。翌日また来て、同じ話を始めるのよ」
「・・・のんたん、人の話、聞かないからね」
「そうなのよ。しかも、それが年々酷くなるような・・・」
 本人に悪気はないのだ。しかし、マイペース過ぎるせいか話すと疲れる。それが休日トレジャーハンター凪野冬樹氏の特徴だ。
 ハンター、凪野ん、のんたん。長い付き合いの間に、呼び名も増えた。本人の前で使うのはハンターだけだが。 
「叔母さん、きっとここが頑張りどころだよ。このゴタゴタが片づいたら、温泉でも行ってゆっくりしよう」
「温泉で思い出した・・・」
 叔母さんは、携帯の操作を止めた。
「あなたがお酒飲めるようになったら、一緒に行こうって言ってたのよ。彩ちゃんと。ほら、前に言ったでしょ、高松に、元杜氏がやってる温泉宿があるって」
「それ、聞いてない」
「そう? あそこはいいわよー。下手な飲み屋よりお酒の種類が多くて。料理は美味しい、宿の人は面白い、景色もよくて酒飲みには天国みたいなところ」
「そうなんだ。元杜氏って、狸?」
「杜氏じゃなくて、女将さんが狸」
「じゃあ、安心して酔っぱらえるね」
「そうなのよ。あー、失敗した。あんなに約束してたのに」
「今からだっていいじゃん。行こうよ。私もう二十三だし」
「二十三か。・・・どうして二十歳の時に思い出さなかったのかしら」
「その頃はここ、バタバタしてたから。水無瀬氏は入院してたし。夏さんのいとこは、海辺に住みたいって小笠原に行っちゃうし。うちも漣が勤め始めてヨレヨレだったし、私も大学とか、免許取ったりで忙しかった」
「記憶力いいわね」
「うん。自分でも驚くほど何でも覚えてる」
「私は駄目だわ。忙しいと余計駄目だわ。・・・でも、まあ、そんな時こそ温泉よね。ふやけるまで温泉に浸かって、フローズン梅酒に柚子サワー。お寿司にお蕎麦に東京ケーキ。どうせならクルージングもしたいねって、言ってたのよ。本当に何で忘れてたのかしら」
「クルージングより、バレーは? フルメイクで、サトリー・レックのユニフォーム着て、ビーチバレー」
「どうして旅先でアタック・ナンバーハーフの真似しなきゃいけないの」
「見て笑いたいだけだけど。だって叔母さん、そのメイクだと本当にそっくりだよ。ピアに。あはは」
「あなたがジュン子をやるなら、やってもいいわ」
「やらない。やっても似ないし。じゃあさ、桂浜で例のイケメンに踊おどりを舞って貰おう」
「優貴くん? あの子、来るかしら?」
「分かんないけど、もし日本にいたら誘ってみようよ。あんなに頑張ってくれたんだから」
「そうね。まさか、あそこまでやるとはね。エクトプラズムまで出してたわよ、血飛沫で。暗くて誰にも見えなかったと思うけど」
 少し黙ってから、叔母さんは言った。
「じゃあ、まあ、温泉旅行を楽しみに、当分はせっせと働きましょうかね」
「そうしよう。じゃ、また明日来るかも」
 開店時間が迫っている。私は冥王星を後にした。

 

 ラビリンス・ハイツへ続く小道で、輝くばかりの美少年が立ち話をしている。明のお仲間の優貴くん。
 話相手は二歳くらいの男の子。スナフキンのぬいぐるみを抱えている。
「今日は、何で一人なの?」
「明くんはお昼寝してるんだ。だから一人でお買物」
 優しい顔立ちに似合わない、ハスキーボイス。男の子は不思議そうに首をかしげる。
 青山の外れにあって、森の中にでも迷い込んだ気がする。樹々に囲まれた緑の歩道。風が吹く度、ローズマリーの香りがする。
「それ、ジューシュ?」
「そう。ジュースとか果物とか、色々買って来たんだよ」
「ぼくもママとお買い物に行くの」 
 道の先で彼の母が呼んでいる。子供はもっと喋りたい。人と喋るのが楽しくて仕方ない。
「お手伝いか、えらいな。あ、ママ、行っちゃうよ」
 幼児は振り返ってハッとする。待ちかねて歩いて行く母に気づく。
「ママ先に行っちゃった」
 言いながら走り出す。通りに出るところで彼の母は待っているのに、この世の終りのように必死で走る。
 背中のリュックから、ムーミンとスノークが顔を出している。ぬいぐるみをおんぶしているみたいだ。
「小さい子は面白いね」
 思わず呟くと、優貴くんは隣にいる私に気づいた。
「ハイツの子ですよ。プレゼントまで貰いました」
 手に持った猫じゃらしを上げて見せる。
「明くんも子供の頃は、ここで遊んだんですか?」
「千葉の海辺で遊んでたんじゃない? 中二で転校するまで、南総にいたから」
「そうなんですか。近所の人たちと親しいから、相当長いのかと」
「ここに来たのは大学の時だよ。この道が分かり辛くて迷うから、ラビリンス・ハイツって自分で名前つけてた」
「僕もさっき、一度通り過ぎて戻って来ました。ローズマリーがなければ、まだ迷っていたかも」
 ハーブの香りがこの道のガイド役だ。来る度に迷うので、私たちが内緒で植えた。心配していた苦情もなく、小さかった苗は今、道端で一メートルを越えるほど育っている。
「突然来たりして、何かあったんですか?」
「特にないけど。明がうなされてないかと思って」
「元気にしてますよ。ずっと鼻歌歌ってます」
「妖怪人間ベムとか?」
「いえ、ドラクエのテーマとか、ベイ・シティ・ローラーズ」
 よく分からない選曲だった。これで精神状態は押し測れない。
「彼、怖がりなんですか?」 
「怖がりって言うか、アホを自称する割りに、勘は鋭いから」
「ああ、そうですね。でも、昨晩はむしろご機嫌で、朝方までゲームをやってましたよ」
「昨日、泊ったんだ」
「僕は先週からずっと連泊です。昨日はヘルくんも泊って、朝方二人で揉めてました。電気を点けて寝る、寝ないって。明くんは明るいと駄目で、ヘルボーイは暗いのが嫌だって」
「ギターの子、災難だよね。可哀想に」
「でも、すぐに夜が明けて解決しました。太陽の光は平気みたいですね、明くん」
「あ、ネットで何か見た?」
「ゲームばっかりで全然。何かありましたか?」
「うん。あのライブ、結構話題になってる。テレビでもやってた。君のバンドも明のバンドも、サイトのカウンターがフル回転だよ」
「よかったじゃないですか。このまま行けば・・・」
 どこまでも穏やかな優貴くんに、棘のある釘を刺した。
「でも君たち、ワイドショーで黒魔術かぶれの変人扱いされてた。人魂もヤラセ認定だし。野音に来てた人たちは、何がヤラセだって怒ってたけど」
「・・・黒魔術って、何です?」
「さあ? 私もその辺は専門外」
「そうですか。でも、どのみち僕たちは当分、活動休止なんです。学生バンドですから。夏休みに復活する頃には、全部過去の話になってますよ」
「そうなるといいけどね。・・・声、大丈夫なの?」
「のどスプレーも買って来たし、すぐ治りますよ」
 さらっと言うが、声はさらにかすれている。
「あんまり喋らない方がいいんじゃない?・・・こっちから話しかけといて何だけど」
 私たちは立ち止まった。
 すでにラビリンスハイツ三階の一番奥、明の部屋の前まで来ていた。
 見慣れたドア。でも、入るのはためらわれる。
 鍵を開ける優貴くんから、ちょっと離れた。  
「じゃ、もう帰るね」
「えっ、彼に会いに来たんじゃ・・・」
「そうなんだけど、大丈夫みたいだから。もし何かあったら、すぐ叔母さんか探偵に相談して」
 それだけ言うと、立ち去った。もう彼を喋らせたくなかったし、自分の行動にも疑問を感じた。
 一年も前に別れた相手に会いに来るって、どうなのか。しかも先週、冥王星で会ったばかりだ。これでは別れる前と大して変わっていない。あんなに大騒ぎして別れたのに。無理にさよならを言わせたのに。
 エレベーターの手前で振り返ると、優貴くんはまだドアの前でこっちを見ていた。
 さらさらの髪。歪みのない華奢な体型。上品な春物セーター。
 芝生の庭で育てられたコリー犬みたいな子だ。それがどうして、ベース片手にデスメタルなんだろう。フルートかバイオリンならぴったりなのに。不思議な気分で私は言った。
「明にメッセージをお願い。何があってもアホのふりを通してって。君も、何にも知らないふりをしてね」
 頷く様子がちらっと見えた。彼が一緒なら安心だ。そう思ってラビリンスハイツを後にした。
 大通りの電気屋の前で足を止める。店頭で、黒魔術バンド、スノーホワイトのプロモーションビデオが流れている。
 エクステを振り乱して優貴くんがベースを壁に打ちつける。彼の友人、フェルナンデスくんが極悪ペイントのギターを蝙蝠の羽で弾いている。二人とも死霊メイクで幽鬼だのヘルボーイだの名乗るから、もう人種すら分からない。
 通りかかった学生たちが話を始めた。
「これだろ、人魂が見に来たっていう」
「あー。野音の人魂ライブな」
 人魂ライブ。もう名前がついたらしい。
「歌詞、英語だな」
「お前留学してたろ、さくっと訳してみろや」
「・・・俺は楽園を追われた。煉獄へ投げ込まれた。獣の群れに捕われた。マンジロウにされるのか。マンジロウにされるのか」
 わっと笑いが起きる。
「マンジロウって、ジョン万次郎か?」
「他に誰かいたっけ?」
「このサビ聞いてると、あれ思い出さねえ? 高木ブー伝説!」
 彼らが去ってもしばらく留まり、人々の反応を確かめた。
 演奏は上手いよね。
 でも顔は盛り過ぎじゃね? 
 KISSのファンなのかも。
 KISSより、デトロイト・メタル・シティーだといいな。
 いや、どっちでも変わらんだろう。
 みんな好き勝手言っているが、怖いとかキモいとかの感想はなかった。テレビで怪しいバンド扱いされても、世間の受け取り方は違っていた。少し心が軽くなった。
 こうなると、残る問題はハンターだけだ。何とか彼に協力して欲しい。
 ふと、神頼みする気になった。時間はまだある。ハンターの決断と安全を祈願しに、近くの神社に行って来よう。
 最後はベースを叩き壊した優貴くんと別れて、山手通りを駆け出した。

 

  四月二十四日 火曜日

 曇天の午前十時。
 いつもより大分早く、叔母さんは冥王星にやって来た。
 続いて探偵も出勤して来る。挨拶を交わし、慌しく支度に入る。
 トレジャーハンター凪野氏は、今日の十二時に北海道へ飛ぶ予定だ。方角が悪いと叔母さんが止めても、どこ吹く風。水無瀬氏の卦も、探偵の説教も聞き流した。
 アリシアが頼むと妙な方向に軟化して、旅の前に冥王星に寄ると約束した。
 んじゃ、十時半に寄るわ。自分でそう言ったのに、彼は四十分遅れて現れた。何だか顔がむくんでいる。いつもより目が細い。髪も一筋、はねている。
 登頂部の見事なアホ毛を見ながら、私は最近の定位置、自販機コーナーに納まった。
「遅れた、寝過ぎや、起きたら出かける時間やった! いや驚いたの何の」
 それだけ言うと、ハンターはすぐに出て行こうとした。
「超ヤバイ、もう行くわ。じゃ!」
 大荷物を背に向きを変えると、閉まりかけの自動ドアに頭から突っ込んだ。ごつっ。鈍い音が響き渡る。
「しっかりしろ。まだ脳が起きてないんじゃないか?」
 頭を抱えるハンターを、探偵が待合室の椅子に座らせた。
「ちょっと落ち着いた方がいい。とにかく、荷物は下ろして」
 叔母さんが紅茶を出す。
「そうよ。また車と接触でもしたら、宝探しどころじゃないわ」
「しかし、時間が」
 立ち上がろうとする彼の肩に手を置き、探偵が言う。
「飛行機は飛ぶかどうか、微妙らしい」
「えっ、まじ!?」
 糸のようだった目を丸くして、交通情報を確認する。苫小牧行きは今のところ、濃霧のため全便欠航だ。
「霧かあ。しかし霧なら晴れるかも。やっぱ空港まで行っとくわ」
「その前に、天気図チェック」
 ハンターの肩を押さえたまま、探偵が天気予報にチャンネルを変える。巨大な低気圧が日本列島全域を覆っている。北海道には雨雲が近づいている。
「えー、雨~? せっかく休み取ったのに・・・」
 文句を言いながら紅茶を飲むハンターに、叔母さんがパンを勧める。焼きたてのメロンパンに、フロマージュデニッシュ。ベーグルのサンドイッチ。
 食事抜きで来た凪野んは、何の疑いもなく手を伸ばす。
 これ、美味いんよ。買うのすんげー面倒やけど。そう言って食べ始める。
 叔母さんたちも、お茶に付き合い、世間話で間を持たせる。
 いつの間にか苺のロールケーキに和栗のモンブラン、オリーブオイルで揚げたバジル風味のポテトチップまで並んでいる。全てハンターの好物だ。
「今日は何でこんなに食物があるんだ?」
「たまには自販機以外の物もいいんじゃないか? そうだ。食べ頃のマンゴーもあったんだ」
 今度はフルーツを勧める探偵。
 凪野氏はグルメな割りに、待合室のハッピードリンクを贔屓にしている。お菓子の自販機で、メロンアイスや、あんず棒を大人買いしたりする。
 キャンディー、マシュマロ、チョコ、ラムネ。レアアイテムとして、スーパーカー消しゴムやフィギュアが隠れているクレーンゲームも、気が向くとやっている。
 その甘党のんたんに、探偵がまた勧める。
「デザートにアイスは?」
「もう、無理。食べれん。マデイラ酒・・・」
「マデイラ酒? ハンターって、アルコールは駄目なんじゃ?」
「あれ、あんた、そんな顔してたんか」
 相手の話はお構いなしで、探偵をじっと見る。
「そうだよ。普段はサングラスかけてるからな」
「ふーん。初めて見たが、何の驚きもない」
「至って普通の人相だから」
「だけど、何でいつもサングラスなんだ? 前科でもあるのか?」
「前科はないが、ちょっと訳ありでね」
「食べたら少し、休まないとね・・・」
 叔母さんが、独り言のように言い聞かせる。
 テレビに映るのは、マデイラ島の海の景色。ハンターに時報を見せないよう、チャンネルを変えている。抜けるような青空の下、輝く海原をヨットが走る。
 一方、低気圧に包まれた待合室は、満腹で眠気が来そうだ。それでも叔母さんは説得を続ける。
「そう言えば、最近不思議な夢を見たんですって?」
「そうなんだよ。何だか妙に気になってさ。いつもは夢なんて、すぐ忘れるのに」
「へー、どんな夢?」
 食べれんと言ったバニラアイスに手を出しながら、ハンターが尋ねる。
「そうだな。かいつまんで言うとだな」
 探偵は話し出す。
「俺は盗賊だったが、訳あって一味を抜けた。そして山奥に逃げ込み、持っていた宝物を石の下に埋めて隠した。ほとぼりが冷めたら掘り出すつもりが、邪魔が入って上手く行かない。その内に、雪が降り出す。こんなところで冬は越せない。俺は山を降りて、身元を偽り、麓の村で働いた。いつか宝を取りに行こうと思いながら、機会がないまま時が過ぎ、村で死んだ。死ぬ間際、看取ってくれた村人に宝の場所を言おうとしたが、話し終わる前に命が尽きた。俺は一体何のために危険を冒して逃げたのか、強力に悩みながら死んだんだ。で、宝は今も山の中・・・。大体、こんな感じだよ。一晩かけて人の人生をなぞってるみたいだった」
「へー。僕の夢とは、大分違うな・・・」
「ハンターも、気になる夢を見たのか?」
「ふーむ。盗賊ねぇ・・・」
 会話は全く噛み合わない。探偵はアタックを続ける。
「それが妙にリアルな夢で、目が覚めても、山の名前も石の名前も覚えてるんだぜ」
「へえー。今も覚えてるん?」
 そう尋ねる彼の目は、膝の上に広げた北海道の地図上を彷徨っている。
「もちろんさ。黒い流れの山、コクリュウザン。石の方は、磐の石」
「バンの石? 寝ずの番とかのバンやろか。あ、そこさ、北海道っぽかった?」
「気候から言うと違うな。四方を山に囲まれてたし、たまに見かける侍の家紋も、武田っぽかった気がする」
「そうすると、甲州かしらね」
「かもな。夏は相当暑かったし」
「甲州ワインか・・・。マデイラ酒をかけたケーキはまあ好きだが、ワインケーキ・・・」
 ぶらぶら足を揺らしながら天井を眺めていたハンターが、ふと探偵に目を戻す。
「あんた、宝探しとか、やらないんか?」
「そんなワイルドな趣味はないよ」
「格好はそんななのに。夢だって、正夢かも知れんよ」
「・・・どうなんだろうな。夢占いの専門家としては?」
 探偵は、叔母さんに話を向ける。
「ほえ? マダムは姓名判断じゃないんか?」
「基本はそうだけど、色々ね。手相、人相、筆跡占い。ハンターの手相は、まだ観た事なかったわね」
「手は水無瀬氏に観て貰った。とにかく長生きしそうだから、何事も長期戦でとか言われたな」
「あの人がそう言うなら、長寿は確定ね。百年計画でも立てないと」
 叔母さんは、携帯を操作していた手を止める。
「でも、手相はともかく、夢占いはね・・・。言わせて貰えば、限りなく百パーセントに近い確率で、夢は単なる記憶の残像なのよ。ただ・・・」
「ただ?」
 ハンターが興味を示さないので、探偵が聞き役をやっている。
「ごく稀にその限りではない、不思議な夢があるのよね。私は霊夢って呼んでるけど。無意識からのメッセージみたいなものね」
「で、この夢はどっちなんだ? ただの夢? それとも霊夢?」
「私も気になったんで、調べてたのよ。見て、これ」
 叔母さんは携帯を示す。画面には山梨の地図。
「黒流山っていう山、確かにあるでしょ。そんなに開けたところじゃないわ。麓の村も小さくて、旧街道からは外れてる。身を隠すには、持って来いの場所よ」
 凪野んはちらっと地図を見ただけで、天井に目を戻す。叔母さんは話を変えた。
「探偵、出身はどこ?」
「あ、俺、東京。調布・・・」
「江戸時代から、ずっと東京?」
「そうだけど、先祖は木材を扱ってたから、岐阜だか山梨の山にはよく行ってたらしい」
「やっ、山!?」
 突然ハンターが反応した。
「そうなると、今のはやっぱ正夢なんじゃ。盗賊が命がけで隠す物って言ったら何だ、魔鏡か!? 運慶か!? マダムはどう思う? けっ、結論として、れ、霊夢? 単なる夢?」
「すぐには判断しかねるわ・・・。でも、こう言う時って、身近にヒントがある物なのよ。探偵、目の前にあるのなんか、どう?」
 叔母さんはテーブル上のおみくじを示す。
 順番待ちのお客さんが暇な時に、百円で引いてみる卓上おみくじ。それが三台並んでいる。
 探偵は右側の一台を選ぶと、コインを入れてスイッチを押す。電子音で雅楽が鳴り、スノードーム風おみくじ器の中の祠から、小さな鳥が現れる。小鳥は持っていたおみくじをポストに投函する。探偵はドーム下の受け取り口から、それを取り出す。
 出て来たおみくじを開いた探偵は、息を飲んだ。隣から覗き込んだ叔母さんも驚いている。
「これは・・・!」
「まあ・・・!」
 向い側にいるハンターは、じりじりして立ち上がる。
「は、早く教えてくれ! 何て書いてあった?」
 渡された託宣を、ハンターは声に出して読み上げる。
「今日の一言おみくじ。せをはやみ・・・。うわっ、和歌や。う、歌はいいわ、さっぱり分からん。えーと、おまけの一言は、失せ物きっと見つかる。諦めない事。今日の開運スポット、山。今日のお勧めフード、あずきほうとう。・・・あずきほうとう?」
「ほうとうのあずきバージョンだよ。甘党にはぴったりじゃないか。しかし、開運スポットが山って・・・」
「私も、これにはびっくりだわ」
「あずきほうとう・・・」
 凪野んは山梨名物を気にしている。
「ほうとう、放蕩。宝刀。宝塔。あずきほうすけ・・・」
 占い師にも拾い切れない謎の台詞だ。
「それにしても不思議ね。本当に、石の下に何かあるんじゃない?」
「確かにな。だけど、その山に俺が行くのはよくない気がする」
「どうして?」
「もし行ったら、未だに石の番をしてる盗賊と鉢合わせしそうで・・・」
「死んだ盗賊に?」
「そう。しかもその男、俺と同じ顔してそうだ」
「まるで前世の記憶みたいな夢だものね」
「前世ねえ。そんなもん、本当にあるんだろうか」
 上の空で呟き、テレビに映る青い海に見入る凪野ん。手にはおみくじを握ったままだ。
―どうする、次の手に行くか?
―仕方ないわね。そうしましょう
 アイコンタクトが飛び交う中、のんたんは唐突に向き直る。
「じゃあ、この山さー、黒流山。僕が行っても問題ないんか?」
「ないよ」
 あっさり答える探偵に、ハンターは念を押す。
「何が見つかっても、渡さなくていいんか?」
「渡すって誰に? 俺? 何でそんな。何が出たって俺の物じゃないよ」
「行くなら早い方がいいかも。惜しいところで人に横取りされてもね」
「善は急げか。じゃあ、北海道は後にして、まず甲州に行くかな」
 凪野んの発言に、二人は黙って、そうだ、そうしろ、もう迷うなと念じている。
 ハンターは決して意志の固い人ではない。一度の発言で油断は出来ない。
 しかし強く押しつけると、面倒がって逃げる恐れがある。
―どうする、ここはもう一押しするべきか?
 アイスの残りを平らげるハンターを見ながら、敏腕占い師の悩みは深い。
 その時、入り口のドアが開いた。
「おはようございまーす!」
 オレンジ色のワンピースを着たアリシアが入って来る。
「あ、凪野さん。本当に来てくれたんだ。でも、飛行機、飛ぶのかしら」
「北海道は延期です。休み中に、山梨に行く事に決定しました」
 銀のスプーンを置くと、ハンターは宣言した。そうと決まればすぐ支度や。そう言って、勢いよくリュックを背負うと、占い師たちに目もくれず、横向きのカニ走りでアリシアの前をすり抜ける。バタバタと足音を響かせて、冥王星から去って行った。
「振り向きもせずに行っちゃったわ」 
 廊下に出て見送っていたアリシアが戻ると、叔母さんと探偵はどっと椅子に倒れ込んだ。
「・・・何なのかしら、この疲労感は」
「すでに一日終わった気がする・・・」
「二人とも、大丈夫? これから開店でしょ」
「・・・こんな事言うと何だが、今日だけは閑古鳥を祈るよ」
「全く同感ね・・・。従業員の前で何だけど」
「そんな時に限って、難題を抱えた人が来る物よ。この前の、山梨のお客さんみたいに」
 アリシアの言葉に、ぐにゃりとしていた探偵がはね起きた。
「ロックは? 開店までしっかりロックしといてくれよ」
「あはは、鍵ならちゃんとかけたわよ。・・・可奈ちゃんの相手、そんなに大変だった?」
「大変も何も・・・。タロットさんだって、いたじゃないか」
「私は大丈夫だったわ。ついに私が日本人を助ける番が来たんだと思ったら、ドキドキしたわ」
「こっちはそれどころじゃなかったよ。もし今度あんな目で睨まれたら、現実逃避で自分の指と話し出すかも。レッドラムレッドラムとか言って・・・」
「ふふっ、シャイニングね。でも、滅多にあんなお客さんは来ないわよ。しょっちゅう来るなら、この国はもう終りよ。・・・そう言えば、可奈ちゃんって、何してるの?」
「今頃は、漣の勤め先にいるはずよ」
「漣くんて、弓ちゃんのお兄さんの・・・。そうか。まともな病院なら安全よね」
「アリシア、朝食は済ませたの? 色々残ってるけど、手伝ってくれない?」
 テーブルにはまだブランチが並んでいる。
「・・・何これ、物凄く美味しいんだけど」
 手近なパンを一口頬張り、驚くアリシア。
「これ、メロンパン? 中にクリームが入ってる。上の生地も下手なパイよりサクサクしてて、とんでもなく美味しいんだけど」
「すぐに売れちゃう人気商品らしいから、開店前に探偵に並んで貰ったの。ハンターって、味覚だけは確かだから」
「のんたんって、美味しい物ハンターになった方がよくない? あれだけ山に行って、何も見つけてないんでしょ?」
「そこが彼の微妙さで、道に迷った登山者だの天然トリュフだの、不思議な物は見つけるんだよ。山道で携帯拾って、いたく感謝されたりとか」
「あの人、目のつけどころが独特だものね。でも、それより・・・」
 メロンパンを持ったまま、アリシアは笑い出す。
「開店前のベーカリーに並ぶ突っ込み大魔人って。想像すると、オモシロス」
「別にこの格好で並んだ訳じゃ・・・。しかし周り、上品な主婦ばっかで、えらく浮いてた」
「そうでしょ。浮いてる様子が目に浮かんで超ワロスよ。私、代わりに行けばよかった。大魔人、チャンネル変えていい?」
 喋りながらリモコンに手を伸ばす。
「ワロスって。今日のテンション変だぞ。ヤバイきのこでも食ったのか?」
「きのこじゃなくて、寝ないでネットサーフィンしちゃいましたー」
「それで突然ネット用語か。で、何か見つかったか?」
「あったわよ。水無瀬氏が来てから話すけど、もう、一晩中人魂祭りに参加して、それからウェブマガジンで、千葉の子の料理動画をハケーンしたの。適当三分クッキング。なんちゃって焼きそばパンに、リリパットクラゲそうめん。幸せのシュガーポット。もっとあったけど、忘れちゃった」
「明か。相変わらず奇跡の頭脳線で笑いを取ってんだな。あれ? こっちにも出てるぞ」
 テレビにスピンドルVが映っていた。能天気にゴールデンウイークの思い出話をしている。画面下には新曲の告知。
「人魂話じゃない。ただの宣伝だ。野音前に撮ったんだな」
 何のつもりか、探偵がちらっとこっちを見る。やだ。何かやだ。私は探偵を睨みつけた。
 テレビも見たくなかった。バンドのメンバーは全員、昔から知っている。連休の思い出なんか、聞かなくても想像出来た。
 凪野んも帰ったし、冥王星では週に一度のミーティングの始まる時間だ。私も帰る事にした。



 冥王星から病院へ来ると、別の惑星に来たような気がする。雰囲気が違い過ぎる。
「クロさん、お昼の時間だって」
 静かな病院ロビーに、可奈ちゃんが入って来て、入院患者に声をかける。
 窓越しに庭を見ていたクロさんは、ゆっくりと振り返り、不思議な答えを口にする。
「かぶと虫?」
「えっ?」
「ご飯、かぶと虫の幼虫?」
「虫はいないよ。山本さん、今日のお昼は何?」
 可奈ちゃんは、通りかかった看護師に聞いてみる。
「胃カメラ」
 若い看護師は、自分の答えに自分で受ける。ケラケラ笑いながら歩いて行く。可奈ちゃんはくすりとも笑わない。
「山本さんのセンスって、変だよね。でも思い出した。さっき漣くんに聞いたんだ。シーフードピラフだって」
「ピラフに虫が入ってる?」
「入ってないよ」
「じゃあ、これから、入るのね」
 食べる気のないクロさんを見て、可奈ちゃんはポケットからグミを取り出す。
「お菓子は? これ、結構美味しいよ」
 オレンジや桃やマスカットのグミ。クロさんの目の前で開封して、個包装のまま一つ渡す。自分でも一つ口に入れる。
「あ、これレモンだ。うわ、あごがキューンってなる」
 可奈ちゃんが耳の下を手で押さえる。
「あご?」
「うん。食べてみれば分かる」
 そう言われて小さな包装を開けようとするが、手が滑って上手く行かない。可奈ちゃんが代わりに開封する。
「はい、あ、これクランベリーだ」 
「本当だ、あごの辺が、痛い。耳のつけ根が・・・」
 クロさんも可奈ちゃんと同じ事を言う。
「ねっ、すっぱいし甘いし、キューンってなるでしょ」
 二人して耳の辺りを押さえて笑っている。
 何事もない光景に見えるが、クロさんの細さは尋常ではなかった。見ていると怖いくらいだ。
 だからと言って、無闇に側にいてもしょうがない。私は仲のいい美人さんたちから離れて、窓の外を眺めた。広くもない病院の庭は、土を掘り返されて、工事中みたいな状態だ。錆びかけたフェンスと雨ざらしのベンチの他、見る物もない。
 これから草木を植えて、潤いのある庭に変える予定らしいが、長い事荒れていた場所だ。土作りに手間取っている。騒音や振動に敏感な患者さんのため、重機なしの手作業だから尚更だった。それを漣に頼まれて、可奈ちゃんが一人でやっている。
 何が気に入ったのか、クロさんはその作業をよく見に来る。
 彼女の言動は、驚きの連続だった。

「あなたは、いつ死んだの?」
 初めて会った時、クロさんはそう言った。
 作業初日、堅い土を掘り返す可奈ちゃんの前に現れて、不思議な質問を投げかけた。
「あなたのお母さんは、いつ死んだの?」 
 可奈ちゃんはぞっとしたようだが、すぐに相手は単なる患者さんで、悪意はない事に気づいた。
「仕事中は、話しないように言われてるから・・・」
 背を向けて作業を続けると、クロさんは更に言った。
「あなたの友達は、いつ死んだの?」
 いつまでも答えを待つクロさんに、可奈ちゃんは聞き返す。
「友達って、誰の事?」
「そこにいる、青い着物の・・・。あなたの背後霊? あの人、どうして死んだの?」
 誰もいない可奈ちゃんの隣を指して、そう言った。
「悪いけど、そんな人いないから」
「今はいないけど、さっきいたでしょ?」
 可奈ちゃんは作業の手を止めた。深くかぶったキャップの下から、クロさんの顔を見た。
 ふざけている訳ではなかった。真剣に背後霊の死因を尋ねていた。
 困った可奈ちゃんが、こっちを見る。付き添いで来ていた私は側へ行って、クロさんを追い立てた。はい、質問はそこまで。話は作業が終わってからね。見物ならロビーからどうぞ。 
 クロさんは大人しく病院の中に入った。そしてロビーから窓越しに庭を見ていた。
 
「あの人、どう言う人なの?」
 その夜、可奈ちゃんは、漣の帰宅を玄関先で待っていた。
「モデルみたいに細い人。茶髪で巻き髪の、クロさんって呼ばれてる・・・。漣くんの親戚か何か?」
「ああ、黒崎さんね。親戚じゃなくて、ただの患者さんだよ」
「何で入院してるの?」
「えーと、多分拒食症・・・」
「そんなに悪くないんでしょう?」
 あちこちにぶつかりながら、漣と可奈ちゃんは狭い廊下を歩いた。
「いや。悪い。冬に転院して来てから、ほとんど食事らしい食事は摂れてない」
「・・・」 
「でも、痩せてるとか体重なんか気にすんなとか、言っちゃいかんよ。逆効果だから」
「食べないと、眼がよくなったりする?」
 最後の質問は、漣には理解不能だった。 
 それはない、むしろ栄養不良で見えなくなる。普通に答えた。
 腑に落ちない可奈ちゃんは、母に助言を求めた。最近よく鬼と化す、私の母。その答えは簡単だった。
「その人に何が見えているか、知りたい訳? そんな事したら、あなたまでおかしくなるわよ。その場その場で適当に話を合わせるだけにしなさい。返事に困る時は、今忙しいとか頭が痛いってごまかすのね」
 翌日も、クロさんは作業を見に来た。そして言った。
「今日は友達と一緒なのね」
「そう。でも、青い着物の背後霊は、秘密の友達だから。他の人には内緒ね」
「人に言うと祟ったりする?」
「それはないけど、驚くと思う。彼、人には見えないつもりだから」
 適当方式は上手く行った。可奈ちゃんは庭仕事の合間に、多少の幻覚もあるクロさんと、不思議な会話を積み重ねた。
 話してみると、クロさんには腹黒いところが皆無だった。入院が長くても、ひがんだりしない。嘘もつかず嫌味も言わない。生身の人間とは思えないほど清浄だった。
 静かにロビーに来て、窓越しに可奈ちゃんの仕事を見守った。腐葉土の大袋を運ぶ時は、出て来て手伝おうとした。手が滑るばかりで、何の役にも立たなかったが、二人とも楽しそうだった。
 雨が降り出すと、可奈ちゃんはロビーに駆け込む。晴れ間を待って、クロさんと一緒に過ごした。天候のせいで、話す時間は度々あった。
 お昼になると、可奈ちゃんは職員用休憩室で昼食を取った。クロさんも食堂には行かずに、可奈ちゃんに付き合った。時間通り昼休みを取れる日は、漣も顔を出した。
 クロさんは食事の代わりに、医療用のゼリー飲料を摂っていた。小さなパウチを空にするのに、三十分は必要だった。
「これどうかな、ミルクプリン。顕微鏡で見てもいいよ」
 一度、漣がお菓子を勧めると、こう言った。
「それは、今は食物だけど、食べようとすると、違う物に変わっちゃうから」
 今なら行けそうだったのに。平気な顔の裏で悔しがる漣の隣で、可奈ちゃんが聞いている。
「じゃあ食べようと思わないで、何気に食べたら? 何か別の事しながら」
 食べる話すら嫌そうで、クロさんは席を立つ。ゆっくりと窓辺へ行き、しばらく外を見た後で、静かに尋ねた。
「あの庭に、何を植えるの?」
「フェンス沿いに常緑のクレマチス、グランドカバーにレンゲ草、多年生の花も植える予定だけど。何か希望はある?」
 クロさんは壁に寄りかかり、黙って外を眺めている。
 はかない後姿と二重写しに、彼女の記憶が読み取れた。
 異形の子供が遊んでいる。地面にいくつも線を引き、歌いながらその上を飛び跳ねている。
 彼らは一見人間のようだが、どの子の顔も、びっしりと褐色の毛で覆われていた。真っ黒な複眼に、細く尖った口。その口を奇妙に動かし、声だけは子供の声で、不思議な歌を歌っていた。

 よ・も・つ・ひ・ら・さ・か
 ど・ち・ら・に・い・く・の

 クロさんは現実の庭と二重写しに、こんな光景を見ていた。
 この子たちは何なのだろう。彼女が過去に見た幻覚だろうか。
「立ってると疲れない? こっちに来て、座ったら」
 側に行って声をかけたが、彼女の耳には入らないようだった。
 
 クロさんがグミを受け取った日の夜。帰宅した漣が可奈ちゃんを褒めちぎった。
「クロさんに、何か食べさせたって? 凄いじゃん」
 テレビを見ていた可奈ちゃんは、漣の言葉に顔色を変えた。
「別に凄くないけど・・・」
「いや凄いって。今まで固形物は受けつけなかったのに。水分だけで保ってたんだよ」
 黙り込む可奈ちゃん。オカルト番組の大音声がリビングに響いた。
『海を渡ってやって来た無数の光が、東の島に集まって光り輝く。大昔にノストラダムスがこんな詩を書いているんですよ! これは野音の人魂騒ぎを予言した物なんでしょうか。不思議です!』
 漣は続ける。
「山本さん、言ってたよ。可奈ちゃんと一緒に、クロさんにお菓子食べさせたって」
「山本さんに聞いたの?」
「そうだよ」
「・・・あの人、あんまり信用しない方がいいよ」
「何で? まあ、多少自意識があれな人ではあるけど」
 黙り込む可奈ちゃんの横で、母が口を出す。
「自意識って何よ」
「私は天才だ、世界一有能な看護師だって、よく自分で言うんだよ」
「そんなに有能なの?」
「でもない。まだ二年目だし」
「下っ端がそんなだと、職場全体が白けるのよね」
「あの人、クロさんを敵視してるよ」
 可奈ちゃんの言葉に、漣が動きを止める。
「えっ」
「よく意地の悪い冗談言うし、今日だって漣くんに嘘教えてるし」
「嘘って?」
「食べたって言うけど。確かに、食べようとはしたけど・・・。グミを一個、口に入れただけで、噛みもしないのに。あれでも、食べたって言うのかな」
 漣が喋らないので、母が口を出す。
「じゃあ結局、食べてないの?」
「分からない。無理なら捨てていいよって言って、先に休憩室に行ったから分からない」
 気まずい雰囲気の中、オカルト番組は流れ続ける。
『えー、ここですね。"四の月、空に太陽が幾つも現れる"。これこそ今回の人魂事件の予言ですよ』
『凄い! そんな記述があるんですか?』
『まだあります。"五の月、再び光が降り注ぐ"。これです。五月にも異変が起きると思われます』
『来月も人魂が現れるんですか!? また野音ですか!?』 
「ノストラダムス?」
 可奈ちゃんが尋ねる。
「これは別の、国産物ね。火文神示ですって」
「火文って言うと、千葉の神社に伝わる神示か。あれ面白いよな。賊が盗もうとしたら、自然に発火して燃えたらしい。今読めるのは、燃え残った部分だけだって」
 苺大福に手を伸ばしながら、漣が言う。
「何であんたがそんな事に詳しいのよ」
「前に病院で、患者さんに言われてさ。もうじきみんな死ぬんだ。火文にもそう書いてある。なのに何で生きなきゃならんって。それで急遽調べた」
「みんな死ぬのが面白い訳?」
「そうじゃなくて、二百年も前に書かれたのに、現代をばっちり言い当ててんだよ。自殺者が増える、奇病が増える。狂牛病もサーズも新型インフルも、当時なかったはずだけど」
「ふーん。他には?」
「今の日本人は、ほぼ腑抜けの蒟蒻妖怪になってるって。魂ぐにゃぐにゃ、体もぐにゃぐにゃ。生血を吸われても、殺されても気づかないって」
「殺されても気づかないって、腑抜けじゃなくて馬鹿でしょ。でも、馬鹿は増えた気がするわね」
 テレビがまた騒がしくなった。
『ここ、注目です。"五の月、再び光が降り注ぐ。空から火の粉が降って来る。この世の終りが近づいた証拠である"』
『この世の終りですか、こわー』
「何がこわーよ。何て馬鹿っぽい会話なの」
 母が微妙に暗黒オーラを醸している。
「光が降るって、そんなの当たり前じゃないの。一体どこの地下都市の話をしてるのよ。終末論で脅すにしても、もう少し上手く出来ないのかしら。この手の話って、どうしようもないわね。全部後からのこじつけで。たまに自分で予言を出せば、百発百中で外すし。きっと頭が悪いのね。自覚もなさそうなところを見ると、頭の悪さだけは本物よ。見てなさい、明日には他の自称研究家が、更に下らない別の予言を持って来るから。そして大外しした挙句、恥知らずにも、その予言はなかった事にするのよ」
 毒舌の堤防が崩壊中だ。漣の目が泳いでいる。母の様子をチラ見して、怒鳴られている。
「何よ、うるさいわね!」
「えっ。何も言ってないけど・・・」
「言わなくても、いるだけでうるさいのよ!」
「・・・すみません」
「すみませんって、何がすまないの。少しは言い返しなさいよ。あんたって、何てつまんないの。息子なんてつまんないわね、体ばかり無意味に馬鹿でかくなって。話し甲斐のかけらもないわ。何でそんなに育ったのよ。何で可愛くなくなったの。ちょっと可奈ちゃん、見てあれ。文句言われながら、しれーっとして何か食べてるわよ。どう言う神経なのかしら。信じられないわ」
 危うくむせそうになる漣に、可奈ちゃんがお茶を勧める。
「それ、美味しい? 漣くん」
「うっ・・・。美味しい」
「彩さんも食べないと、全部漣くんに食べられちゃうよ」 
 母は鬼の目で、可奈ちゃんの今日のお土産の苺大福を一瞥する。
「不味い物を平気で売る店もあるのに、あなたよく引っかからないわね。漣なんか昔、初めてのバイト代で物凄く微妙な物買って来たわよ。何だと思う?」
 お茶をガブガブ飲む漣の横で、母は文句を言い続ける。
 お茶菓子とオカルトテレビと母の毒舌。これが最近の我が家の定番だ。昨夜も一昨日も、そうだった。明日もきっと同じだろう。
 いや、違った。
 明日は、単身赴任中の父が帰る日だ。文句を言われるために帰宅するようで、気の毒だ。
 大体、うちがこんな状態になったのは、私のせいだし。
『うぅぅ・・・。破あーっ!』
 テレビから奇声が響く。修験者風衣装の自称霊能者が、意味不明の気合を発している。ほら貝を首にかけたその変人は言う。見えたぞ、野音に現れた光の正体! あれはな、未成仏の霊魂じゃ。東京大空襲で焼け死んだ者たちの魂じゃ。死んだ事に気づかず、楽しそうな音楽につられて、つい出て来たのじゃ。
 どこかで聞いたような話だった。ベタで古くて、証拠もない。しかもこの団塊は、去年の夏、また地震が来るぞ、今度は静岡の原発が崩壊じゃ、などと言って騒いでいた。
 その予言が外れて叩かれてから、しばらく見なかったが、全く懲りていないようだ。
 相変わらずの妄想に、司会者が相槌を打っている。
「ちょっと、一体何なのよ、このだらしない顔の司会者は。そっくりよね。アニメだか漫画だかの、ダメおやじに。何でこんな馬鹿話にヘラヘラ笑って頷いてるのかしら。成仏出来ないのはお前の方だって、はっきり言ってやるべきよね。無理だろうけど。大体、楽しそうな場所に人魂が集まるなら、テレビ局には楽しさなんて、微塵もないのね。長年営業して、人魂の一つも来ないんだから。たまに来るのは、ハエだけじゃないの」
 春とは思えない、冷たい夜だった。魔窟のようなリビングで、鬼の文句を聞きながら、オカルトテレビを見続けた。
 


  四月二十八日 土曜日
 
 冷たい風の吹く中、単身赴任先の宮城から父が一時帰宅した。
 靴だけでなく、チラシや領収書や何かの空き箱が散乱する玄関で、可奈ちゃんと顔を合わせる。
 二人して神妙に挨拶している。そこへ母が割り込んだ。
「ちょっと、堅苦しいのは止めてくれない? 見るだけで疲れるから。可奈ちゃん、お茶淹れて。この人、いっつも微妙なお茶請け買って来るのよ。漣に遺伝してるのよ。見て、あの袋。そこの駅前で買ったのよ。何で宮城じゃなくて、地元で買うのかしら。面白くもない。がっかりよね」
 器用な足取りで可奈ちゃんがキッチンへ向かうと、靴を片づけながら父は言う。
「お客さんにお茶を淹れろって・・・」
「あの子は他人じゃないの。親戚も同然だし、あんまり暇だとろくな事考えないから、これでいいのよ」
 父は片づけを途中で諦めた。下手に動かしたせいで、足の踏み場もなくなっている。靴の山を越えて、どうにか家に上がった。
「・・・それで、どこに泊めるんだ?」
「家出娘の部屋よ」
「弓の・・・? いいのか?」
「誰からも、文句はないわよ」
 さっさと会話を打ち切り、母は廊下を歩き出す。
 可奈ちゃんはもう二週間、うちにいる。それを昨日連れて来たかのような口振りだった。漣の病院でバイトまでしているのに、それも言わない。
 連休だから遊びに来ているのだと、父は信じ込んでいる。不登校の中学生を無期限で預かっていると知ったら驚くだろう。
 獣道をそろそろ進む父の後ろを、私も歩いた。
 魔窟と化したリビングで、家族揃ってお茶を飲んだ。テーブルの上一杯に、食べ物が並んでいる。山菜おこわ。サンドイッチ。春野菜のサラダ。カリフラワーのオーブン焼き。菜の花と卵の炒め物。それにミニサイズのコロッケが山ほど。お茶というより食事だった。時間もちょうどお昼時だ。
 溢れるほどの手土産を見て、母が呟く。
「きっとうちには、食べ物が何もないと思ったのね」
 過去にはそんな時期もあった気がする。
 しかし最近は、可奈ちゃんが買物から料理までやってくれる。部屋はともかく、テーブルの上はいつも綺麗だ。今までは、どこがテーブルなのかも判然としなかった。何もかもがゴミに埋もれかけていた。
「七味持って来ようかな」
「もう、あるよ。はい」
 抜かりない可奈ちゃんの隣に、仔犬丸がいた。水浅葱の着物に青い袴。家族の一員のようにソファに座っている。
 天狗小僧仔犬丸。彼の事をどう説明すればいいのだろう。
 江戸時代に生きた人。
 山で育ち、天狗と呼ばれた少年。
 うちの先祖と縁のあった人。
 可奈ちゃんの背後霊、クロさんはそう言ったが、背後霊より、普通に知人と言った方が近い気がする。
 きっと今日も、うちの父を見に来たのだ。涼しい顔で同席しているから、問題ないと判断したのだろう。
 そもそも、鬼の母に対しても、仔犬は嫌な顔をしなかった。
「うちに来たって、何一つ手助けは出来ないわ」
 可奈ちゃんが初めて来た時、母は言い放った。血で汚れたブラウスを目にしても、何があったか聞こうとしない。付き添って来た仔犬の存在は、頭から無視してかかった。
「ご覧の通りよ。この家には足の踏み場もないし、片づける気力もない。食事だって出せるかどうか。馬鹿に眷属を売るような真似だけはしないけど、約束出来るのはそれだけよ。他には何も出来ないわ。それでよければ勝手に上がって、勝手にしてて」
 初対面でこんな態度の母に、仔犬は言った。
「では、世話になるとしよう」
 可奈ちゃんを連れて、元は廊下だった獣道に踏み込んだ。可奈ちゃんも、こんな汚いうちは嫌だと言わなかった。
 母はさっさと自分の部屋に引き上げたから、一緒に来ていた叔母さんが、ここがリビングここがキッチンと説明した。言わなきゃ分からないぐらいの惨状だった。
 父のお土産を端から味見しながら、どうにも不思議だった。
 母と違って、父の視力は普通だ。仔犬丸の姿は見えていない。
 漣も似たような物だろう。医者のくせに、感受性だって大した事はない。私の話なんて、半分くらいしか理解していない気がする。ちょっと込み入った事を言うとポカンとしている。今も仔犬の真向かいにいて、彼に全く気づかない。
 けれど私たちは、彼の伝説を聞いて育った。
 天狗小僧仔犬丸の物語は、今でも細部まで覚えている。
 桃太郎や酒呑童子と同じくらい、お馴染みの話だった。小さい頃は天狗小僧になり切って、漣と遊んだ。
 その仔犬丸と、お茶を飲む日が来るとは思わなかった。うちがこんなゴミ屋敷になるとも思わなかった。
 不思議な気分でコロッケを食べると、コロッケも変だった。戸惑っていると、母もコロッケに手を出した。食べると見る間に顔色が変わって行く。
「ちょっと、何よこれ・・・」
「珍しいだろう。ひよこ豆のコロッケだ」
「これ全部豆じゃないの。どうして変なのばっかり沢山買うのよ。不味かったらどうしようとか思わないの?」
「でも、ひよこ豆、弓が好きだし・・・」
 母の目がきりきりと釣り上がった。
「あなた何言ってるの。そんな事どうだっていいのよ。家出娘の好みなんて、どうでもいいのよ」
 コロッケのせいか私の好みのせいか、今日もダムは崩壊しつつあった。
「ひよこ豆を見ると、たまらなく不愉快になるわ。家出したあの子のために料理を作って、馬鹿みたいに帰りを待っていた頃を思い出すのかしら。心底馬鹿らしくて、嫌になるわ」
 確かに一度は家を出て遠くへ行ったが、今は戻っているのに、まだ私を家出娘と呼んでいる。みんな母から目を逸らし、無言で食べ続ける。まるで何かの修行のようだ。
 今日も可奈ちゃんは、母の暴言を浴びても平気な顔で、父にお茶のお代わりを注いでいる。仔犬丸も平然とそれを見ている。
 今までは、いたたまれないと叔母さんの家に逃げていた私も、コロッケを食べ続けた。中身を分かって食べてみれば、不味くはなかった。味より名前が可愛くて好きだったひよこ豆だが、これはこれで美味しかった。
 今日は人数も多いし、私がいなくても問題はないだろう。
―ちょっと出かけたいんだけど
 一通り味見したところで、仔犬と可奈ちゃんに身振りで訴えた。二人が止めないので、母の隙を見て外へ出た。


 
 ゴールデンウィークだし、面白いお客さんが来るかも知れない。期待して来た冥王星は、閑散としていた。中学生がぽつんと座り、待合室でテレビを見ている。
 近づいてハッとした。黒流村の住民だ。名前も知っている。望月紗依ちゃん。一人で山梨から来たのだろうか。他に連れらしい人はいない。
 テレビは怪しいデスメタルバンド、スノーホワイトの歌詞をフリップにしてこき下ろしている。番組で適当に訳した歌詞に、せっせとケチを付けている。

《トロフィー》
  言葉の通じない奴は死ね
  武器を持たない奴は死ね
  耳を切り取り持ち帰れ
  骨を盗んで持ち帰れ
  頭蓋骨なら上等だ

  盗んだ骨を自慢しろ
  ルールはない
  俺がルール

『変態の歌ですか』
『そのようですね』
『おぞましいだけで、全く意味が分からない』
『大体、バンド名ダサ過ぎです。雪が白いのは当たり前。こんな名前じゃ、売れませんよ』
『駄目な物は駄目式の駄目ネーミングか』
『その路線なら、こんなのは? バンド名"頭が痛い"』
『・・・えっ?』
『違うか。"頭痛が痛い"だ』
 今日も無意味に電波を飛ばすが、突っ込む人はいない。占い師は仕事中だし、紗依ちゃんは黙って見ているだけだ。
 と思ったら、銀色のドアが勢いよく開いた。占い終わったお客さんが出て来る。絵に描いたような女子高生。茶色の髪に金のカチューシャ。ネイルもゴールド。ベストとショートブーツは豹柄で、金色成分がかなり高い。
「ちょっと聞いてくれる? あっしって、物凄い凡人なんだってー」
 彼女は紗依ちゃんに話しかける。あたしって言っているのだろうが、あっしに聞こえる。
「待て待て、他のお客さんに愚痴るんじゃない」
 彼女を追って、探偵も部屋から出て来る。
 いつものレーシングスーツとサングラスの他に、ラメの手袋まで着けている。
「だってこんなしょぼい前世、初めて聞いたよ。占い番組で、よくやってるじゃん。あなたの前世は有名な貴族です。芸術家ですって。何であっしはこんなにしょぼいの。もっと強力なのにしてよ。軍人とか格闘家とか、色々あるじゃん」
 女子高生は、前世占いに不満らしい。
「だからテレビでやってるあれはなー、占いじゃなくて見世物なんだよ」
「じゃあ、あっしはまじで主婦な訳? 超地味なんだけど」
 やっぱりあっしに聞こえる。時代劇だ。遠山の金さんだ。
「そんな事はない。紫式部にキリストの母、モサドを越えたと言われる鬼女だって主婦だ。主婦を軽く見るな」
「ふーん。じゃあさー。このバンドマンの前世は分かる?」
 金さんは、画面を指す。スノーホワイトのベース兼ボーカルになり切って歌う優貴くんを、探偵がちらっと見る。
「彼の前世は、狸だな」 
「狸って言うと、信太の森の葛の葉狐・・・? あ、これは狐か」
「そうだな。狸は日露戦争で活躍した方だ」
「じゃあさ、この子は? この子の前世は分かる?」
 今度は紗依ちゃんを指して言う。
「こらこら、人を指差すんじゃない」 
 振り向いた紗依ちゃんに、探偵の目が釘づけになる。
 無理に平静を装い、話しかけた。
「お客さんは、地元の人じゃないね。遠くから来たのかな」
「えっ。ああ、そうですけど」
「深い山のイメージが見えたけど。山に関係ある場所とか?」
「あ、そう。山梨・・・」
「何それ。何でそんな事が分かるの?」
「何でって、分かるから分かるんだよ」
「それ、あっしもやってみたい、つか、やってみる」
「ちょっと待て。まだお客さんに絡む気か?」
「だって他に誰もいないし。この子の名前、当ててみる。今は個人情報何たらでうるさいから、渾名で。この子の渾名は、そうだな、ともっち。じゃなきゃ、ともぴょん」
 金さんの推理に、紗依ちゃんは笑い出す。
「全然違う。正解は、さえぼーとか、小野田さんでした」
「あ、本名分かっちゃった、さえちゃんでしょ。でも、小野田さんってそのままじゃん。小野田さえちゃんじゃないの?」
「小野田さんって、ジェームス小野田の事だよ。何でもやり出すと止まらないからって付けられたの。"どうにも止まらない"とか言う曲をカバーしてたとか、そんな理由で」
「ああ、米米の人ね。バイト先の専務がファンなんだ。昔、何千人クラスのホールでマイクなしで歌ってたって。凄い人だよ、一番後ろの席まで声が響いたって、二、三回言ってた。だけど、米とか聞いたら、まーたさっきの話思い出して来た」
「さっきの話って?」
「前世占い。小野田さえちゃんは前世なんか聞かない方がいいよ。がっかりだから。あっしなんて、小商いやってる家の主婦だって。多分団子屋だって。何かなーって感じだよ。団子屋の人には悪いけど。別に団子、嫌いじゃないけど。あっ、やっと終わった。先に始めたのに遅いじゃん」
「おっ待たせー」
 アリシアの部屋から出て来たお客さんが、金さんに手を振っている。変わった子だ。日本鬼子のコスプレ姿で占いなんて。そう思ってよく見たら、その子は私のいとこだった。
「紺ちゃん!」
 思わず呼ぶと、向こうも気づいてウインクする。ついでに探偵にキスを投げて、露骨に無視されている。
「何でそんな変装してるの?」
「僕にも色々事情があるんだぜ?」 
 叔母さんの一人息子は、にこにこしながら歩いて来る。アリシアも出て来て、金さんに声をかけた。
「話が長くなって。待たせちゃったわね」
「あ、全然。こっちはこっちで面白かったし。今ね、探偵がこの子の地元、当てたんだ」
「へー。探偵、やるじゃん。で、お客さん、誰に占って貰うの?」
「まだ決めてない・・・」
「恋愛、家族、人間関係なら私のカード。仕事やオカルト関係なら、探偵の水晶占いがお勧めよ」
「オカルト関係?」
「やたら金縛りになる、ラップ音が聞こえるとか。厄年に起業していいかとか。知り合いのカルト信者が迷惑だとか、そんな事だよ」
「じゃあ相談はオカルト関係だけど・・・。私はこっちの人がいい」
 紗依ちゃんはアリシアを指名した。
「えっ、私でいいの?」
 油断してテレビを見ていたアリシアが振り返る。先客二人も、口を揃えた。
「何でー? 普通に探偵にしなよ」
「でも・・・、金縛りがオカルトとは思わないし」
「それは俺も同感だな。科学的に説明可能な現象だと思うよ」
 探偵が感情を出さずに淡々と説明する。
「ただ、世間には金縛りをオカルトだと信じ込んでる人もいる。そう言う人にも分かりやすいようオカルト担当を名乗ってはいるが、俺はオカルト馬鹿じゃない。誰かに喋って楽になるなら、その方がいいと思ってるだけだ」
「じゃあラップ音は? あれはオカルト?」
 紗依ちゃんの口調はきつい。友達乗りの金さんも、コスプレ紺ちゃんも受け入れたのに、探偵には反感があるようだ。
「ラップ音か・・・」
 探偵は考え込む。
 バキッ。
 待合室の壁から、物が壊れるような音が響いた。
「大抵のラップ音は、こんなもんだと思うね」
「え、何? 今の音って、何なの?」
 辺りを見回す金さんと紗依ちゃん。探偵が片手を上げて、種を明かす。
「今のは、関節の音だよ。手首の骨を鳴らしたんだ」
「ええーっ、探偵がやったの!? 凄い音だったよ」
「そうだな。結構響いた。でも、骨の音だよ」
「だけど、そっちの壁の方から聞こえたような・・・」
「反響でそう聞こえたんだろう。音は間違いなくここからだ」
 そう言って、再び手首をゆっくりと曲げる。
 バキッ。
 さっきと同じような音が鳴り響いた。
「こういう音を、手と言わず足と言わず、あちこちの関節で出す人は珍しくない。木の家具や家電、建物だって鳴る時は鳴る。隣や地下から物音が伝わる事もある。ついでに言うと、今はトリックに使える便利グッズも色々売ってる」
「何それ。じゃあ、ラップ音なんて、ただの雑音じゃん」
「心霊現象と思ってたか? 考えてもみてくれ。幽霊がそう簡単に物音を立てるなら、死人に口なしなんて言葉は成立しない。コミュニケーションし放題だよ。遺言だって必要ないさ」
「それはそうかも」
 あっさり言う金さんと違い、紗依ちゃんは簡単には納得しない。
「でも、さっき、前世がどうとか。それは科学的な話なの? 狸の生まれ変わりだって、証拠はあるの?」
 探偵は言葉につまる。俺が嫌われた理由は、それだったか。
 しかし前世占いは、常時やっている訳じゃない。しつこくせがまれた時だけだ。よそで騙されるよりはと、次善の策でやるだけなんだ。
 そう言いたそうだが、金さんの前で手の内は明かせない。
 アリシアが話に入った。
「あなたは理系の人、理論的に納得したい人なのね」
「あ、そうかも。オカルトネタで大騒ぎとか、痛いと思うんだけど・・・」
「だけど?」
「私の周りって、そんな子ばっかり。中学では、こっくりさんが流行ってるし・・・」
「こっくりさん!? 何で今頃そんな物が流行ってんの?」
「何でって・・・」 
 紗依ちゃんは言い淀む。
「こっくりさんって、明治の頃アメリカの船乗りが持ち込んだお遊びよね。まだ残ってたのね」
「遊びでやるなら別にいいけど。でもみんな、信じてるみたいだし・・・」
「続きがあるのね。全部聞くわ」
「それにクラス中で、なんちゃって心霊写真とか撮って来て、コンテストやってるし・・・」
 心底嫌そうな紗依ちゃん。眉間にシワまで寄っている。 
「最悪だったのは、誰に死相が出てるとか、もうすぐ死ぬ、自殺する、崖から飛び降りる。こっくりさんがそう言ったから間違いないとかって、一人を名指しして大騒ぎしたり・・・」
「自殺するって、そんな事を? 酷いわね」
「酷かった。いくら止めても、次の日また始めるし」
「凄いな、田舎の学校は」
「ネットいじめより新しい、オカルトいじめだよ」
 東京の高校生がざわめいた。
「嫌な事聞くけど・・・」
 向き直ったアリシアにつられて、みんな姿勢を正す。気づくと全員が、待合室のテーブルを囲んで座っていた。
「そのいじめのターゲットは、あなた?」
 紗依ちゃんは黙って首を横に振る。しばらく沈黙してから、声を振り絞るようにして答えた。
「私じゃなくて、私の、友達だった子・・・」
「それじゃ、相談したいのは、その友達の事なのね?」
 紗依ちゃんが頷いた。そして急いでつけ足す。
「その子の事もあるんだけど・・・。あの・・・」
「まだ何かあるのね?」
「あるけど、上手く説明出来るか・・・」
 アリシアは持っていたカードを差し出す。市販品ではない。彼女が特別に作ったカードだ。グラフィックな"義"の文字がプリントされた側を上にして、一列に並べて置いた。
「困った時は、このタロットが助けてくれるわ。一枚引いてみて」
 紗依ちゃんが選んだのは、霧のカードだった。
「THE MIST。妙なカードね。何も示さないわ。あなたの友達は、今どこにいるの?」
「・・・分からない。その子、ずっと登校拒否してて、会ってなかったし・・・」
「えー。会ってないって、いつから?」
「もう一年ぐらい・・・。だけど、その子この前、急に学校に現れたの。その時は別人みたいに変わってて・・・。言う事も変だし・・・」
「整形?」
 金さんに聞かれて、紗依ちゃんは考え込む。
「整形じゃないと思う。でも、それくらい変わってた」
「とにかく話を続けて。分かりにくくてもいいわ。あなたの見たままでいいから、話してみて」
 自分でも変だと思うけど。もしかしたら見間違いかも。そう繰り返しながら、紗依ちゃんは語って行く。
「そもそもおかしいのが、その子が来た時、昼間で、日食でもないのに辺りが真っ暗になったの」
「うそー、何で!?」
「それ、いつの話!?」
「十八日、水曜日。台風だったけど、だからって何も見えないほど暗くなるって、変だよね・・・」
「そんなの聞いた事ないよねー。それで?」
「担任が、電気を点けようとしたけど、点かなかった」
「停電?」
「そうかも。でも、違うかも。どっちにしても、学校中の電気が点かなくて、暗い中で、変な鐘の音が聞こえてた・・・」
「鐘って、お寺の鐘?」
「ううん、西洋風の、教会の弔いの鐘みたいな暗い感じの・・・。もしあれが校内放送とかだったら、停電じゃないし・・・」
「何で弔いの鐘なんか放送すんのよ!?」
「分かんないけど・・・、あの辺に教会なんてないし・・・。でも、スピーカーじゃなくて、遠くから聞こえてたような気もするし・・・」
「こえー。まじ怪奇現象や」
 紺ちゃんと金さんが手を取り合う。
「それで、暗い中ずっと鐘の音聞いてたの? やだー、そんなの、気が狂う」
「うん、みんな、怖がってた。そしたら、今度は変な声が聞こえて・・・」
「変な声!?」
「そう。やっと鐘が止んだら、今度は、凄く低い男の声で、何かブツブツ・・・」
「何て、何て言ったの!?」
「暗い・・・。暗い夜だなぁ・・・。お前たちが、俺の子供を殺しに来たのも、こんな、暗い夜だったなって・・・」
「ちょ、それさ、同じ台詞、あの狸の人も言ってなかった?」
「言ってた。気になったんで、動画探して確認したら、全く同じだった。あんな田舎の学校と東京と、何の関係もないのに・・・」
「ねえねえ、その変な声の後って、どうなった? やっぱり人魂出た?」
 紗依ちゃんは黙って首を振る。
「それ、超ラッキーだよ。あっし、野音にいて、この目で見たから。すぐ側を、人魂がいくつもいくつも通って、真っ暗なのに、自分の服の模様がはっきり見えた。人魂の光で。あんな目に遭うとさ、人生観変わるよね」
「あの日、日比谷にいたんだ・・・」
「いたよ。だからさー、簡単にヤラセ扱いする人って、馬鹿じゃないかと。だって、映像に映ってるのって、ほんの一部なんだよ。人魂、本当は何十どころか、千近かったのに。トリックでどうこう出来るレベルじゃないよ」
「千!? そんなにいたんだ」
「いたよ。あっし、日本野鳥の会だから。あんま見間違いとか、ないと思う」
「人魂がそんなに現れたら、さぞ圧巻だろうな」
「そりゃピンクペリカンとか、空飛ぶ宝石ケツァールの群れなら圧巻だけどさー。人魂だよ。冗談じゃなく、地獄の蓋が壊れたかと。ハルマゲドンかと。世界の終りかと」
「で、あれ以来、人類滅亡の心配してんだよね。大丈夫だって言ってるのに」
「それで何度も自分の寿命と地球の寿命を聞いてたのか。紺の言う通りだよ。世界の終りは、まだ先だ」
「だけどさー。UMAも妖怪も、そんなに暇じゃないと思うんだよね。人魂だってそうだよ。意味もなくあんなに来ないって。今までそんな大量に現れた事ないんだから。絶対何かあるよ。何かあるから来たんだよ」
「だからそれ、後でゆっくり話そうって」
「あ、そうだった。とにかくさ、そっちには人魂出なかったんだ」
 金さんは、紗依ちゃんに話を戻す。
「うん。人魂じゃなくて、ずっと登校拒否してた子が廊下に立ってた・・・」
「よかったじゃん。友達なら怖くなくて」
「それがそうでも・・・。その子、前とは別人になってたし、整形とかじゃないけど、目つきも変だったし・・・」
「目つきって?」
 紗依ちゃんは考えながら、話を続けた。
 十日前の四月十八日。台風が近づいていた。朝から湿った強風が吹いていた。授業中に、突然暗くなった。黒雲が吹き寄せられ、日差しを完全に遮った。闇夜のように暗かった。担任がスイッチを入れたが、電気は点かない。暗い中で鐘が鳴る。どこからともなく声が響く。
 暗い、暗い夜だなぁ・・・。お前たちが俺の子供を殺しに来たのも、こんな暗い夜だったな・・・
 校内が騒然となる中、唐突に電気が灯る。
 明るくなった教室の入り口に、登校拒否だった生徒が立っていた。
 異様な風体だった。真っ白な着物を着ていた。風で長い髪が逆立ち、メデューサのようだった。
 静まり返る教室を見渡して、その子が言った。
―私の席はどこ・・・
 彼女の机と椅子は、新学期の初めにクラスメイトに燃やされていた。焦げた机は担任が倉庫の奥に隠してしまった。
―なあに、長壁さん、その格好・・・
 そう言う担任を、冷たい瞳で彼女は見た。
―あの子は、もう、死んだの
―変な事言わないで。そこにいるじゃないの。早く座りなさい
 担任は、ない席に座れと言う。事態が理解出来ないのかも知れない。
―あの子は、もう死んだの。誰もまともな事をしないから、とても生きていられなかった
 彼女は生徒に向かって告げた。
―腐った心の持ち主に伝言です。あなたたちは、呪われてる。もうすぐ迎えが来るわ。逃げる場所は、どこにもない。みんな地獄に行けばいい
―長壁さん、冗談はいい加減にして!
 担任の言葉をかき消すように、雷鳴が響く。黒雲が内部から光っている。今にも雷が落ちそうだ。
 冗談とは思えなかった。紗依の幼馴染だった頃とは、別人だった。人間とも思えなかった。魔界から来たようだった。
 ドーンという音と振動。近くに雷が落ちた。思わず窓の外を見た。
 目を戻すと、彼女の姿は消えていた。
「消えたって、どういう事?」
 紺ちゃんが聞いている。
「分からない。急にいなくなったの。あんまり変なんで、帰りにその子の家に寄ったけど、誰もいなかった。ポストに郵便が溜まってた」
「うわー。今度はミステリーや」
「ねえ、その子って、ちゃんと生きてた? まじで幽霊だったんじゃ。足あった?」
「足はあったと思うけど・・・。とにかく目が光ってて、怖かった・・・」
「あなたはその、消えた友達の行方を知りたいのかしら?」
 アリシアが尋ねると、しばらく考えてから紗依ちゃんは答えた。
「私はもう、あの子には会えない気がする。会ってもしょうがないし・・・。だから、そうじゃなくて、聞きたいのは・・・」
 紗依ちゃんは、言いにくそうに続ける。
「担任が地獄に落ちたのかどうか・・・」
「あなたの担任が、地獄に?」
「担任、どうかしたの?」
「行方不明。先週の金曜から学校に来ない。家にもいないし、電話も出ない」
「金曜から? いなくなってもう九日じゃん」
「そんなに帰らないって、変だよね」
「だから、どこにいるか、占いで分かるかと思って・・・」
「え? それ、警察の仕事でしょ?」
「うん・・・。都会ではそうだろうけど・・・」
「田舎だと違うの?」
「うちの村って、とんでもない田舎なの。駐在は一人いるけど、村って言うより、急カーブで事故が多い国道ドライバーのために出来た交番で・・・」
「そんなの関係ないじゃん」
「だけど、駐在がそれを言い訳にして動こうとしないの。暇そうな過疎地だから来てやったのに、そんな話持ち込むな。まだ事件と決まった訳じゃない。そのうちふらっと帰って来るだろって」
「はあ!? 何なのそいつ。仕事したくないだけじゃないの?」
「その駐在の息子が、私の友達をいじめてたせいもあると思う。下手に調べると、息子のいじめがバレるから。階段から突き落とそうとしたり、色々やってたから」
「それ、普通に傷害じゃん。訴えてやればいいんだよ」
「うん・・・。ただ、その時は、相手の方が怪我したから」
「え? どう言う事?」
「私と友達が学校の階段を降りてたら、後ろから駐在の息子が、奇声を上げて飛び蹴りして来て」
「ちょっと。何なのその馬鹿。聞いてるだけでイライラすんだけど」
「とにかく最後まで聞こうよ。で、蹴られてどうなったの?」
「蹴られたって言うか、その前に気づいてよけたから、駐在の息子が階段を転げ落ちて骨折・・・」
「やっぱ馬鹿だ」
「そうなんだけど、自分が悪いくせに、怪我させられた、治療費よこせとかって騒いで。そんな話が山ほど出て来るからか、担任が消えても駐在は何もしない」
「あなたは、担任が帰って来ないと思ってるのね?」
「だってあの人、ゴールデンウィークは遊び倒すんだって、物凄くはしゃいでたんだよ。自分の生徒が丑の刻参りみたいな格好で現れたのに、そんなの無視して浮かれてたのに、その予定を放り出すって・・・」
「その人、空気読まない人なのかしら」
「空気読まないって言うか・・・。とにかくヘラヘラして、面倒な事からは逃げるタイプ。それで私たち、へら田って呼んでた」
「そんな人がさー、公務員の立場を捨てるかな。天職じゃん」
「うん・・・」
「ちょっと待ってくれ」
 探偵が軽く手を上げる。
「さっき地獄がどうとか言ってたけど、そのへら田は呪われて当然の悪人なのか?」
「・・・あの人は、いじめをずっと放置してたの。いくら言っても、止めてくれなかった。三年になる時、せめていじめの主犯の二人を別のクラスにするよう、職員会議で発言してって頼んだけど、それも、ごめーん忘れちゃったーって。それで今も、去年と同じクラスでへら田が担任。ずいぶんしつこく言ったのに」
「教育委員会に訴えるって、脅かしてやればよかったのに」
「それ、言った・・・。でも、うちの方、とにかく田舎だから。親分子分とか地縁血縁、組合、講の付き合いで、絡まった蛇みたいにグダグダだから・・・。何をしても、いつも途中で誰かに邪魔される・・・」
「分かったわ。あなたは、へら田の行方が知りたいのね。タロットに聞いてみましょう」
 アリシアがシャッフルしたカードをテーブルに広げる。
 そこから三枚のカードを選んで手に取った。最初のカードを返して見ると一面の花畑の絵柄だった。
「一枚目は過去。へら田の過去は、SPRING FIELD。普通に大事にされて育った人みたいね」
 順番に、選んだカードをゆっくりとめくって行く。
「二枚目は現在。へら田の現在は・・・」
 現在のカードを見たアリシアの声が止まる。二枚目に出て来たのは死神だった。
「えー。これまじヤバいんじゃ」
 金さんが黒いローブを纏った骸骨のカードを見て、紺ちゃんの腕を掴む。
「ちょっとー。怖いから早く次行って次ー。三枚目は何なの?」
 最後のカードをめくるアリシアの指が震えていた。
「三枚目は未来・・・。へら田の未来は・・・」
 一瞬絵柄を確認すると、アリシアはカードを伏せてしまった。
「何? 何のカードだった? 隠さないで早く教えてよー」
 紺ちゃんと金さんが急き立てる。アリシアは言いにくそうだ。
「希望のあるカードじゃないわ」
「じゃあ聞きたくない・・・」
 紗依ちゃんが拒否した。
「何でよー、わざわざ山梨から来たんでしょ。いいの、それで」
「じゃあ聞く・・・」
 アリシアは伏せていた一枚を返した。
 THE WATER。水の逆位置。
「水のカード。水は生命の源・・・」
「じゃ、悪くないじゃん」
「逆の方向で出て来たから、意味も逆になるのよ・・・」
 アリシアは詳しい説明の代わりに、質問する。
「へら田は、家出するような素振りもなかったのよね」
「うん。ディズニーランドに泊って遊び倒すって。パーマかけて、ピアス買って、もう大はしゃぎ」
「それは誰と?」
「学生時代の友達と・・・」
「その人は何か知らないのかしら」
「約束の場所に来ないから連絡取ろうとしたけど、へら田の携帯、通じなかったって。だから何も分からないって」
「あなたは、どうしてそれを知ってるの?」
「電話して聞いたから。へら田のお母さんに、その友達の連絡先を聞いて。それで、もしかしたら、へら田と友達の待ち合わせ場所だった、新宿に行けば何か分かるかもって。来てみたら全然だったけど・・・」
「で、困って駅近の冥王星に入ったと。でもここの入り口、分かり辛かったでしょ。冷やかしの客が来ないように、わざとなんだ。そこを軽々と突破して来るんだから、あなたは頭も勘もいいし、行動力もあるし、小野田さんと言われるだけの事はありますね」
 紺ちゃんが冗談めかして褒めると、紗依ちゃんの眉間には、またシワが浮かぶ。
「だって、誰も何もしないんだよ。へら田とは言え、人が消えたのに」
「実家から、捜索願は出したのかしら」
「へら田の両親が出しに行ったけど、もう少し待ってみろとか言って、受理しないって・・・」
 待合室に嫌な空気が立ち込めた。
 事件か事故に巻き込まれたんじゃ。口にはしないが、誰もがそう思っている。
 紗依ちゃんがぽつりと呟く。
「私も、呪われてるかも・・・」
「どうしてそんな。呪われる理由なんて、ないでしょう?」
「でも私、友達を助けられなかったし・・・。あの子、台風の日に、クラス中を呪ってたし・・・。それに私、へら田と血が繋がってるんだ・・・。特に仲がいいって訳じゃないけど、親同士がいとこだから」
 紺ちゃんが口を挟んだ。
「仮定の話だけどさ、もしその子が怒り狂って怨霊化しても、日本の怨霊でしょ。関係ない親戚まで呪わないよ。よっぽど怒ったって、怒らせた本人と、せいぜい子々孫々限定だよ」
「でも・・・」
「でも何?」
 紗依ちゃんは考え込む。
「この際だから、何でも言っちゃいなよ」
「そうだよ、せっかく遠くから来たんだから」 
「犬が・・・」
「犬?」
「うちで飼ってる犬が、首を切られて」
「殺されたの?」
「ううん、頑丈な首輪してたから、怪我で済んで・・・。今、入院してる。それに・・・」
「それに?」
「うちだけじゃなくて、近所の犬、ほとんど被害に遭ってるし。村全体が呪われてる気がする・・・」
「あ、それはない。怪談研究家として断言出来るよ。それは呪いじゃない。変質者がうろついてんだよ」
 軽く言い切る紺ちゃんを、アリシアがたしなめた。
「あなたのやってる怪談研究って、学校のクラブ活動の事でしょ。それに、犬殺しの変質者がうろうろしてたら、安心して暮らせないわよ」
「そうだよ。犬の身にもなってみなよ。どうすんの。可哀想に」
 金さんは、紺ちゃんの腕をようやく放した。
「ねえねえ、そのケガした子ってさ、大型犬?」
「ううん、パピヨン」
「パピヨンかー。あんな小っちゃいの襲って喜ぶなんて、馬っ鹿じゃないの」
「馬鹿・・・」
「そうだよ。素手で野生のコモドドラゴンでも襲えば、馬鹿として一応筋は通るけどさー。人の小型犬を・・・。あれ、怒ってる?」
「ううん・・・」
「山梨に帰ったらさ、防犯カメラつけたら? 安いフェイクでも、犯人、馬鹿だから騙されるよ」
「・・・」
「絶対気に障ってるよね? あっし、何かまずい事言った?」
「そうじゃなくて、・・・最近、おかしい人扱いだったから」
「おかしい人って、誰が?」
「私。・・・でも、おかしいのは、犬殺しの方でいいんだよね」
「そりゃそうだよ。何でそんな事言うの」
「だって、みんな、変なんだよ。村中で犬が殺されても、ボーっとするばっかりで。同じクラスの子なんて、自分が飼ってるビーグルが死んだのに、背中にバカスとか切りつけられて用水路に捨てられてたのに、ボケーっとした顔で、犬の霊がまだうちにいるんだーとか、ネタにしてるし。その子、妹もいるんだけど、妹も死んだビーグルが写真に映ったとか、自慢してるし。姉妹揃ってボケてるから、親の方に、何で訴えないのか聞いたら、この程度で騒ぐ方がおかしいって。いいから子供は黙っとけって。全然よくないのに。よそ者も来ない過疎村だから、犯人だって、みんな薄々分かってるはずなのに。そこの家だけじゃなくて、どこもそう。犬ぐらいで騒ぐ方がおかしいって。最初腹が立ってしょうがなかったけど、村中がそんなだから、最近はもしかしたら、自分の頭がおかしいのかもって・・・」
「つまりボケキティの中に普通人が一人みたいな、怖ろしい状況だったんだね」
「でもさー、それって何なの。おかしいじゃん。被害者に黙ってろって」
「同調化圧力だよ。面倒だからお前も見ないふりをしろ、丸め込まれろって空気なんだろう。まあ、こう言う圧力が発生した時点で、変な状況だってのが知れる訳だが」
「空気に名前までついてんだ」
「よくある事だからな」
「じゃさ、対策は? 同調化対策。丸め込まれたボケ集団を、正気に返す方法は?」
「更に悪いのが出て来て、脅しつければ一発だよ」
 探偵の発言に、周囲は引く。
「犬殺しの上を行く悪さって・・・」
「更に馬鹿で凶暴・・・。そんなのと、付き合いたくない・・・」
「そうなると、地道に対処するしかないな。手間でも、へら田の捜索願を受理させる。犬の怪我も、証拠を揃えて、被害届けを出す。同時に自分の安全も確保する・・・」
 細かい注意事項に耳を傾ける紗依ちゃん。長かった相談も、終りに近づいたようだ。
「みんな、のど乾かない? お茶でも淹れましょうか」
「あー、ちょっと待って」
 立とうとするアリシアを、紺ちゃんが引き止めた。
「僕たちこの後、いっぷく亭に行くんだ」
 金さんが紗依ちゃんに話しかける。
「あのさー。さっきも言ったけど、あっし野音に行ってたじゃん」
「あ、うん」
「でさ、これからあのライブの参加者だけでオフ会なんだけど、一緒に来ない? 地元でそんな事件があったら、誰も文句言わんと思うよ」
「今日これから?」
「そう。最初ネットでやってたんだけど、際限なく盛り上がっちゃって。ねー、おにこちゃん」 
「ねー、スナドリちゃん。で、どうせなら会って話そうって」
「一緒に行こうよ。気晴らしになるかも。場所もここのビルの一階だし」
 熱心に誘う金さんの背後で、入り口のドアが開いた。
「マダムー! ちょっと相談ー!」
 大声で叔母さんを呼びながら、ハンターが入って来る。
「あれ? ここにみんないると思ったら、マダムと水無瀬氏は、いないんか」
「ハンター、こちら、山梨からのお客さんだよ」
 紗依ちゃんを紹介されると、挨拶抜きで質問する。
「あ、山梨県民? でもバンの石なんか知らんよね?」
「知ってる」
「へー。でも、見た事はないやろ?」
「あるよ。前はよく石の周りで遊んでたし」
「遊んだって? あそ、遊んだって?」
「昔ね。磐の石をテーブルにして、ポットとお菓子持ってってお茶したり」
「こっ、子供の足でも行ける場所なんか?」
「行けるよ。でも、よその人には無理かも。目印を知らないと」
「その目印、教えてくれ!」
「いいけど、地図でもないと・・・」
「地図なら、ある」
 凪野んは、リュックのポケットから甲信地方の地図を出す。
 紗依ちゃんは蛍光ペンで、黒流村から磐の石へのルートを書き込んだ。目印と注意点を的確に教えている。
「おお。これなら楽に行けそうや」
 上機嫌で地図を見るハンター。対照的に、紗依ちゃんの表情は暗い。
「大事な事忘れてた・・・。黒流山に行くつもりじゃないよね?」
「もちろん行くさ。何で?」
「・・・止めた方がいいよ」
「だから何で」
「山の麓で、よく地元の馬鹿がたむろしてるの。あんなのに会って、何かあったら悪いじゃん」
「何かあるとは限らんよ」
 相変わらず人の意見は全く聞かない。横から紺ちゃんが口を出す。
「地元の馬鹿って?」
「植田と吉良っていう馬鹿コンビ。私の友達をいじめたのも、この二人。その上、親同士も腐れ縁で、植田の親は駐在だし、吉良の親は農家だけど、元田舎ヤンキーで、ガラが悪いの」
―どう考えても、この馬鹿集団が犬殺しの犯人だよ
 こんな声が聞こえた。口には出さない紗依ちゃんの心の声が、隣にいる私には、はっきりと伝わった。
 証拠のない推論は、軽々しく言わない子なのだ。一方、三十男のハンターは、考えをそのまま口にする。
「マダム、まだかな」
「凪野さん、昨日も来てたでしょ? まだ何か問題が?」
 アリシアに聞かれて、振り返りもせずに答える。
「夢を見たんよ」
「今度はどんな夢を見たんだ?」
「あんたの見たって言う、あの夢の続きだよ。あんたによく似た盗賊が夢に出て来て言ったんだよ。早く来いって。邪魔が入るが、切り抜けて早く山に来いって」
「邪魔が入るって?」
「それそれ、それだよ。一応どんな邪魔が入りそうか、聞いておこうと思ってさ。マダムは?」
「今のお客さんが終わるまで、後二十分位かかりそう」
 予約リストをチェックしてアリシアが言う。
「二十分かー。これからちょっと用事があるんよ。待つのは勘弁・・・。そうだ、水無瀬氏は?」
「今日は休みなの。今頃献血に行ってるはずよ」
「何てこったい! こんな大事な時に」
 大袈裟に嘆く凪野んを、紗依ちゃんがじっと見ている。
「まあ、そう言わずに。タロットさんはともかく、俺ならちょうど空いている」
「アリシアだってそこにいるじゃん」
「私には、山梨のお客さんがいるから」
「ほえー、ここで占ってたんか? それはまた珍しいっつうか、あんた、山梨の人、よっぽどの目に遭ったんやな。若いのに、難儀な事や」
 紗依ちゃんの眉間に、小さな三日月型のシワが寄る。この人、さっきから何言ってるの、そんな目つきだ。
 アリシアが気づいて説明した。
「普通はそっちの個室で占うのよ。何かある時だけ、こっちで総合的に占うの。智力を出し合うために」
「智力ったって、マダムがいないんじゃ」
「マダムって?」
 凪野んは、藍色のドアをちらちら見ながら紗依ちゃんに答える。
「マダム・サトリーだよ。あのドアの向こうにいる、冥王星のラスボス」
「ラスボス!?」
「いや、違うか。ど、どう言えばいいんだ? とにかくあの人は、ただ者じゃない」
 普段は宝探ししか頭にないハンター。それが今日に限って、思い出を語っている。
「初めてマダムに会った時の事やけどな、あの人、いきなり言ったんよ。こっちは転職の相談としか伝えてないのに、会ってすぐに、言ったんよ。―あなたは家族を亡くしてがっかりしているのね。悲し過ぎて何も考えられないのね。気持ちは分かるけど、天国のご家族にしてみたら、あなたが宝物なのよ。あなたが生き残って、この世界にいる事が希望なのよ。どんなに悲しくても、自分の生活は大事にしなきゃ」
「家族を亡くしたって?」
 金さんの問いかけが聞こえないかのように、スルーして話を進める。
「そんでずっと親戚と暮らしてたんやけどな、今考えると、訳分からんマルチまがいのインチキ商法に入れ込んだその親戚に、家も保険金もむしられるとこやった。ああなるともう、ライフなんてゼロよ。けど、人の金にたかるだけの親戚ならいらん。一人でいいわ。そう思って転職して、東京に来たんで、まだ生きとるけどな。もしもあの時、マダムに会わんやったら。言われるまま、あのマルチかぶれと養子縁組しとったら。そう考えると、怖ろしいわ」
「他にまともな親戚、いないの?」
 金さんの質問に、今度は答えた。
「おらんな。何故かまともなのは、みんな死んだ。しかもそのマルチ集団、銭ゲバだか内ゲバだか起こしよって、ついでに脱税までバレたから大変よ。しかしあの親戚夫婦も、流石にインチキに気づいて脱会するやろと思ったが、それもないしな。まだマルチ再建とかほざいとるらしいわ」
 ハンターは、バッグの中を漁り始めた。あー、やっぱ携帯ない。忘れて来たかと呟いている。
 みんな同情的な目で、探し物を続ける彼を見守る。
「底の方に、こんなん入っとった」
 そう言って、家族写真を取り出した。金さんが受け取って、紺ちゃんと一緒に見ている。
 彼の両親と妹。揃って登山スタイルだ。
 中学生だったハンターが、自宅前で撮った写真。晩秋の日差しの中、家族で出かけようとしている。玄関脇では、黄色い薔薇が満開だ。
 山が好きだった凪野家の、最後の家族旅行。
「いい写真じゃん。よく撮れてる。これから山登りに行くとこ?」
 紺ちゃんは、凪野んの妹を見ている。ポニーテールにピンクのシュシュ。カメラを構えるハンターに手を伸ばしている。ハンターに、キャラメルを渡そうとしている。
「山登りっていうか、まあ、ハイキングに近い。妹、小学生やったし」
「ハイキングかー。楽しそう」
 紺ちゃんの言葉に、ハンターは短く、そやね、と答えた。



「クロさん」
 脅かさないように呼びかけると、彼女はゆっくりと振り向いた。緩慢な目の動きが私を捉える。目が合うと、ほんの微かに微笑んだ。
 よかった。まだ笑うだけの体力が残っている。無理にそう思って、私も微笑む。
 クロさんは、病院の庭にいた。
 土日は可奈ちゃんのバイトも休みで、他には誰もいない。作業は大分進んでいる。土も綺麗に均されて、フェンス際にはクレマチスが植えてある。
 クロさんが座っているベンチも、深い緑に塗られている。
「何持ってるの?」
 分かっているのに、聞いて見た。膝掛けの上に、高カロリー飲料のパウチが乗っている。
「三十分以内に飲まないと、死にますよって。呪いのパウチですよって」
「誰がそんな事・・・」
「・・・」
「山本さんでしょ」
「何でも知ってるのね」
「何でもは知らないけど、あの人の冗談がどうしようもないのは知ってる」
 風が吹いて、クロさんの髪が揺れる。風に当たるだけでも、細い体がぽきりと折れそうで、風上に座った。しばらく二人で、クレマチスを眺めていた。
 昨日可奈ちゃんが植えた、常緑の三つの苗。
 この苗が育つと、錆びかけたフェンスが緑で覆われる。春から秋にかけて、小さな桃色の花が咲くはずだ。
 でも今は、花の苗はまだ小さい。人間で言うと小学校低学年くらい。
 ちょうどその年頃の子供の姿をしたクレマチスの魂が、庭の片隅でくっつき合っている。あそこに人間がいるぞ、と言う顔でこっちを見ている。
 クロさんはあの子たちを眺めていたのだ。
「君たち、三人とも、元気に育つんだよ」
 話しかけると、彼らはわーっと声を上げて、建物の陰に隠れた。ちょこんと顔だけ出して、好奇心一杯でこっちを見る。元気だし、賢そうだ。可奈ちゃんが、この木を選んだ訳が分かった。
「あなたは、不思議な眼を持ってるのね・・・」
 クロさんが呟く。私も同じ事を考えていた。思い切って質問した。
「こんな話聞いた事ない? 昔、四国に狸がいました」
「・・・昔話?」
「そう。狸は隠神とも呼ばれていました。知らない?」
「・・・?」
「山寺の住職の天堂とか、お城の鈴彦とか、聞いてない?」
 いくら言っても、クロさんには通じない。
「同じ眼を持ってるから、もしかしたら遠い親戚かと思ったけど」
「同じ眼、って?」
「今見てたでしょ、植物の化身」
「ああ、この子たち・・・」
 木魂は、私たちのすぐ近くまで来ていた。目が合うと、きゃーっと言いながら駆けて行く。
「また隠れちゃった。でも元気そう。きっと大きく育つよ」
「可奈ちゃんが植えたから・・・」
「あの子、先祖もとんでもない人たちなんだよ。色々逸話があって、地元では長壁姫とか、大荒れ大明神とか呼ばれてた。聞いた事ない?」
 クロさんは不思議そうに私を見ている。やはり眷属ではないのだ。何だかとても残念だった。
 しかし、木霊にしても仔犬丸にしても、クロさんの視力は確かだった。それなのに、自分の心の中は見えないらしい。そこが一番不思議だった。
「もう、三十分、経った・・・?」
 しばらくして、彼女は言う。 
「・・・死んだ?」
「誰が?」
「私・・・」
「全然。死んでないし、死にそうに見えない。山本さんの冗談は、まともに聞いちゃ駄目だよ」
 そうは言ってもクロさんは、骨が浮き出て痛々しいほど痩せていた。
 こんな状態の人に、死にますよって暗示をかけるなんて。冗談で済む話ではない。山本さんをクロさんに近づけないよう、漣に言わなければ。家に帰ったら、すぐに頼もう。焦る横から、クロさんの声が聞こえる。
「あなたは、いつ死んだの?」
 罪のない瞳で私を見ている。どうしよう。一瞬悩んで、話を合わせた。
「えーとね、割と最近・・・」
「どうして死んだの?」
「・・・寿命だと思ってる」
「若いのに・・・」
「寿命だから、しょうがないよ」
「あなたのお母さんは、いつ死んだの?」
「うちの母? あの人は、まだ一応生きてるよ」
「そう。強いのね・・・。漣くんも、生きてるのね」
「生きてる。仕事が忙しいって、こぼしながら生きてる」
「私も、仕事、したかった。就職も、決まりかけてた・・・」
「・・・そうなんだ」
「旅行会社にね。出来るだけ遠くに、行きたかった。海外赴任とか、夢だった」
「私もそれに近いかも。何年か仕事して社会を見て、それから占い師になるつもりだった。でも色々あって、全部駄目になっちゃった」
 クロさんはしばらく黙ってから、ぽつりと言う。
「歌が聞こえる」
「本当? 何の歌?」
 私には、道路を走る車の音しか聞こえない。
 クロさんは、木霊の子供たちを見ている。
「あの子たちが歌ってるのかしら」
―僕たち、歌ってない
―ねえ、歌ってないよね
―歌ってない。知らないよ
 木霊は無邪気に笑い合う。
「あなたには聞こえる?」
「ごめん。聞こえない。・・・どんな歌?」
 クロさんは答えない。身動きもしない。今にも消えてしまいそうな弱々しい気配だ。いつまでも外にいて、大丈夫だろうか。もう夕方で、風が冷たい。
 嫌がるクロさんを、無理に病室に戻した。寒いから幻聴が現れたのかも知れない。あの細さでは、いくら着たって足りないはずだ。膝掛けだけで外に座らせておく神経が分からない。早く漣に注意しないと。
 帰宅して家中見て回ったが、漣はいない。漣だけでなく、誰もいない。
 みんなで出かけたのだろうか。一人でソファに座り込む。
 さっきここにいた時は気楽だった。あんなに色々並んでいたテーブルの上に、今は七味どころか、包装紙さえ見当たらない。
「ひよこ豆、どこ行ったのー!」
 意味もなく言ってみた。
「一人で何言ってるのよ」
 誰もいないと思ったら、母がいた。庭にいて、窓越しにこっちを見ている。
「さっきあんなに食べてたのに、もうお腹空いたの?」
「違う。・・・ちょっと悲しかっただけ」
「あんたって昔から、悲しいと訳分かんない事言うのよね。コロッケはもうないから、それでも食べてなさい」
 母の指差す先に、物に埋もれた煎餅の袋があった。銚子産ぬれ煎餅の袋。
「これ、いつの・・・」
 埋もれ具合から言って、半年は経っていそうだ。
「珍相くんが持って来たのよ。復活した銚電土産ですって。漣に食べられないよう隠したら、ころっと忘れてたわ」
「だからそれ、いつの話・・・」
「先月くらいじゃない? よく覚えてないけど」
 珍相くん・・・。明が来たのか。知らなかった。その頃は母が今より怖かったから、叔母さんの家にいたし。
 鬼に変わる気配がないので、普通に言った。
「どうせなら細工寿司がいい」
「私はやらないわよ。料理なら可奈ちゃんに頼むのね」
「可奈ちゃん、いないけど。どこ?」
「紺から電話があって、夏さんの店に出かけたわよ。漣の車で」
「そうか、紗依ちゃんに会いに行ったんだ。いっぷく亭でオフ会って言ってたから」
「紗依ちゃんって?」
「可奈ちゃんの幼馴染。冥王星に来て、ハンターに磐の石へ行く道を教えてた」
 紺ちゃんたちが熱心に、オフ会に誘っていた。黒流村には頭の痛いオカルト姉妹しかいないと知っていたから。
 それで私もクロさんに会いに行った。今日もきっと面会もなく、一人でいると思ったから。
 しかし事態は深刻だった。病院からの帰り際、嫌な話を小耳に挟んだ。ぼっちがどうとか言うレベルではなかった。
 私は窓辺に行くと、庭にいる母に頼んだ。こんな話を持ち出すと、暗黒面が顔を出すかも。でも仕方ない。時間がない。
「漣が帰ったら、クロさんに手を出さないように説得してくれない? 余計な手術は逆効果だって」
「クロさんって、食べないで解脱しかけてる・・・? あの子がどうかしたの?」
「病院で、クロさんの胃に栄養チューブを取りつけようとしてるの。そんな事したら、多分神経が持たない。栄養剤には虫が入ってると思い込んでるから。それから、山本さんって看護師をクロさんに近づけないでって、そう言って。あの人かなり、問題だよ」
 漣の説得なら、やっぱり私より母だ。
 今ならまだ無謀な手術を止められる。そう思った。

 

  四月二十九日 日曜日

 世間は休日。病院も外来は休みだが、入院患者が待っている。出勤する漣の車に、可奈ちゃんと一緒に乗り込んだ。
 病院では、クロさんの胃に穴を開ける計画が進行中だ。見当外れの胃瘻計画。
 直接胃に栄養剤を流し込んで救命するつもりらしいが、それは無意味だ。
 そんな事より幻覚を何とかしなさい。虫の幻覚がある内は、何をしたって無駄よ。昨夜、母は漣に忠告した。
 漣は反論しなかった。やっぱりそうだよなと、それまでの経緯を語った。どうにも気が進まなかったんだよ。大体、前の病院で、無理な治療が祟ったみたいだしね。よっぽど嫌だったんだろうな、よく自分で点滴引き抜いて、血だらけになったって。手を焼いた病院が睡眠導入剤を使ったら、胃腸障害起こして余計食べなくなって、弱り切ったところで、うちの病院に押し付けた。
「何よそれ。気味の悪い医者ね」
「内科医なんか、はっきりブラック病院って言ってた」
「で、あんたも薬で大人しくさせてたの?」
「そんな事しませんよ。大体、転院して来た時はもう、点滴の針すら入らなかったし。血管まで痩せてて」
「じゃあ何をしたのよ」
 漣を問い詰めると、空恐ろしい状況が見えて来た。
 クロさんは、真冬の冷たい雨の中、救急車で運ばれて来た。家族ではなく、家政婦が付き添っていた。怪我をして、元の病院では手に負えないと移されて来た。漣の病院は、外科と内科も併設してある。
「大分酷いよ。胃が荒れて、潰瘍が出来てる。しかもびっくり、肩まで脱臼してたんだぜ。さっき外科医が治したけどな」
 内科の医師は、漣を呼んで言った。
「脱臼って、どうして・・・」
「下手に拘束したからじゃないか?」 
「今時、拘束?」
「そう思うだろ、しかし縛った後がまだ残ってた」
 内科医は、ざっと説明してから漣をクロさんの病室に連れて行った。
「意識はあるが、ぼーっとして、話しかけても返事もない。潰瘍はどうにかするがな。後はもう、そっちの仕事だ」
 クロさんを一目見て、これはもう手遅れではないのかと漣は思った。生存可能な体重を切っている。こうなったら、嫌がる事はしないのが一番ではないのかと。
 しかしクロさんは持ち堪えた。
 今なら麻酔に耐えられるかも知れない。胃瘻で栄養補給をしてみよう。そんな話が持ち上がった。漣は反対したが、今しかない。そんな雰囲気が出来ていた。クロさんの親の差し金だった。
 可奈ちゃんが庭造りのバイトを始めたのは、なし崩しに手術が決まった直後だった。手術の待ち時間だった。
 このまま行くと、連休明けに胃に穴を開けられそうだ。
 点滴を引き抜いた状況の再現が予想された。虫を体内に入れるなんて、誰だって嫌だろう。
 本人が拒絶すればいいのだろうが、クロさんの不思議な言葉を、辛うじて理解出来るのは漣だけだ。その漣は一番の若輩で、発言力も弱い。
 どうにも悪い予感がする。心配のあまり、私は診察室に忍び込んだ。
 朝一の診察をいい事に、忙しそうな看護師の間をすり抜けて、衝立の陰に隠れた。
 クロさんは、師長の古屋さんに連れられて来た。
「おはようございます。気分はどうです」
 のんびりした漣の問いかけ。クロさんの返事は途切れがちだ。
「昨日はしっかり眠れましたか?」
「・・・」
 話は続かない。声に全く力がない。
「歌は、今でも聞こえますか?」
「歌・・・?」
「前に言ってた、子供の遊び歌みたいな。あの歌は今も聞こえますか?」
 黙って頷く気配。
「どんな歌でしたっけ」
「・・・磐の石・・・」
「磐の石!?」
 思わず言ってしまった。
 漣が驚いてこっちを見ている。構うものか。衝立から出て、クロさんに詰め寄った。
「磐の石って何? その歌、全部教えてくれる?」
 クロさんは黙って私の顔を眺めてから、耳を澄ますように目を伏せた。
 しばらくすると、消え入りそうな声で歌い出した。

 魂よばう  玉よばう    
 磐の石から玉よばう
 
 磐の石退けろ 石退けろ
 石の下から玉よばう
 
 魂よばう  玉よばう

 歌い終えるとクロさんは、病室に戻って行った。
 もっと話を聞きたかったが、引き止められなかった。たかだか二十分の診察で、気の毒なほど疲れていた。漣も本人に断って貰うつもりだった、胃瘻の話を持ち出せなかった。
 私はロビーで悩む。あの歌は何なのか。転院して来た当初から、クロさんには聞こえていたと言う。信じられなくてカルテを見た。本当だった。二月のページに記録があった。
 四年前から入院しているのに、どこであんな歌を聞いたのだろう。自称親戚の家政婦、玉木さんが着替えを持って来る他は、見舞客もない。
 可奈ちゃんでないのは確かだ。弱った人にわざわざ酷い話をして、ストレスを与えて喜ぶ性格ではない。
 しかも、カルテには幻覚と記載されている。一人でいる時に限って聞こえる幻聴だと。
 いくら考えても訳が分からなかった。
 窓の外では、可奈ちゃんが働いている。クレマチスの根元に球根を植えたところだ。
 後はグランドカバーを敷き詰めて、庭師の仕事はおしまいだ。多分今日中に終わるだろう。
 大して広くない庭だが、手作業でというからどんなに大変かと思ったら、一週間で何とかなった。
 今日は木魂は隠れていて出て来ない。でもクレマチスは元気に風に揺れている。景色を見ていると、ふいに背後から名前を呼ばれた。
 驚いて振り向くと、クロさんが立っている。しかも、何だかおしゃれしている。
「暇だったら、外出に付き合ってくれない?」
 私に向かって、そう言った。
「もちろん暇だけど、今、これから?」
 にっこり笑って頷くクロさん。さっきより元気になっている。
 あんなに疲れ果てて病室に戻ったのに、二時間ちょっとで復活して来た。
 服装も、いつものパジャマっぽい部屋着ではない。ふんわりしたピンクのブラウスに水色デニム。病院仕様の上履きから、春物のサンダルに替えている。
「そんなよそ行き、どこに隠してたの?」
「退院する時、着ようと思って・・・」
「そっか。でも、外出するって誰かに言った?」
「いいのよ。時間だから、行きましょう」
 細い手で、庭に出るドアを開けた。ちょうど可奈ちゃんが水を汲みに行って、外には誰もいない。
「ここ、通れるから」
 澄んだ声で言うと、庭から外へ出るドアを押し開ける。長い事使われていない非常口の蝶番は錆びて、押せば隙間が開く。クロさんは、その細い隙間を風のように通り抜けた。
「えっ、ちょっと待って」
 私は慌てて後を追った。



 クロさんが行きたかったのは、街中にあるレストランだった。病院からさほど遠くない、家族経営のお食事処、キッチン岡山。
「誰かと思ったら、久美ちゃんじゃないの! 急に来るんだもの、びっくりしたわ!」
 エプロン姿のおばさんは、クロさんを見つけると猛烈な勢いで喋り出した。
「久し振りね。いくつになったのって、聞かなくても分かるわね。うちの亜樹と同じだから。まあ、びっくりだわ。今の季節、あなたたち来る度、かき氷まだーって騒いでたじゃない。それを思い出してたところなのよ。虫の知らせかしらね。で、お昼は何にする? かき氷はまだだけど、桃とマスカットのスムージーなんか最近評判いいのよ。メインはまたパスタ三兄弟? あれ、今じゃ一番人気の看板メニューよ」
 止まらないお喋りを、クロさんはにこにこして聞いている。
 学生時代はお店の常連だったのだ。側で聞いていると、当時の様子が見えるようだった。
 おばさんの娘の亜樹さんとクロさん、それにラクロス部の女子たちが、しょっちゅうお店にやって来た。
 バジルのパスタとトマトのペンネ、揚げたピザが大人気で、この盛り合わせがメニューに入った。
 食事の後にはジェラートやパフェ。その上、それぞれ帰宅して家でも夕食を食べていた。それを聞いたおばさんは驚愕したが、考えてみたら自分の娘も同じ事をしていた。
 クロさん、ラクロスやってたのか・・・。この近くの大学に通ってたんだ・・・。妙にぼんやりした気分で、二人の話を聞いていた。何だかとても眠かった。
「あら、久美ちゃんは・・・?」
 飲食店は忙しい時間帯だ。都内は閑散とするこの時期でも、この店は賑わっている。おばさんは、他のオーダーをさばきつつ、特盛りの大皿を手に、話を続けようとクロさんのテーブルにやって来た。
 湯気の立つパスタを無人の席に置きながら、不思議そうに辺りを見る。
「あの子、どこ行っちゃったのかしらね・・・」
 私も、周りを見渡した。今まで目の前にいたクロさんの姿がなかった。
 店内を隅から隅まで見ても、どこにもいない。彼女が座っていた席は、最初から誰もいなかったように乱れもない。
 狐につままれたような顔で、おばさんが私の方を見る。私も同じように、おばさんの顔を見た。
 どこに消えたんだろう。席を立った気配もないのに・・・。
 不思議としか言いようがなかった。無意識に店内のテレビに目を移すと、クロさんが映っていた。
「あんなところに!」
 立ち上がって指差すと、おばさんも振り返った。
 クロさんは灰色の建物の屋上に立っている。強風で、髪や服が激しく波打っている。
「そんなとこで何してるの!」
 おばさんがテレビを見て悲鳴を上げる。
「何、どしたん?」
 近くの席から声がかかる。
「娘の友達が、あんなところに・・・」
「ええっ、あれ、亜樹ちゃんの友達か!?」
「まずいだろ、早く止めなきゃ」
 店内が騒然とする。
 さっきまで行楽情報をやっていたお昼の番組。それが臨時ニュースに切り替わり、強風の中、屋上に立つクロさんを映している。
『ええと、今現在、赤坂警察署の屋上で、飛び降りのようです』
 画面下のの中でアナウンサーが、メモを読む。
「飛び降りって何なのよ。冗談じゃないわ。さっきまでここにいたのよ!」
 騒ぎに気づいて、おじさんも厨房から出て来た。
「危ねえ、風でふらふらしてるじゃねえか! 何なんだこいつらは。ぼけっと見てねえで、近くから布団でもダンボールでも借りて来て敷き詰めろ! 大体警察は何やってんだ!」
「警察署って、ここから近いの?」
 後ろの席でお客さんの声がする。他のお客さんが答えている。
「道は入り組んでるけど、近いっちゃ近い。ここからだと、走れば数分・・・」
 そこまで聞いて、私は店を飛び出した。走れば数分。火事場の馬鹿力を発動すれば、もっと早く着けるかも知れない。
 映像では、まだ屋上の縁までは行っていない。飛び降りるはずがない。元々、自傷癖も自殺願望もないのだ。むしろ、生きたがっていた。働ける人は幸せね。ロビーから可奈ちゃんを見て、そう言った。食べられないグミを食べようとした。隠神の端くれの漣が無理だと思ったのに、今まで生きた。それが自殺なんて、あり得ない。
 人の群がる警察署に辿り着くと、人だかりをかき分けて前に出た。ストッパーもないのに野次馬は、巻き込まれない程度の距離を保って建物を取り巻いている。最前列は綺麗に弧を描いている。
 クロさんは、今にも落ちそうな屋上の縁に立っていた。人が入る事を想定していない屋上には、柵がない。風が強い。クロさんのブラウスが、ビル風に煽られて暴れている。
「下がって! クロさん、もう少し前に行って!」
 大声で怒鳴ったが、クロさんはこっちを見ない。屋上にいる誰かに向かって喋っている。
 目を凝らすと、屋上には数人の男が立っていた。ぬりかべを思わせる体格、よれて不潔感の漂うスーツで、クロさんを取り囲み、じりじりと近寄っている。最悪だ。きっと警官で、説得しているつもりかも知れないが、逆効果だ。
 急いで屋上に行こうとすると、風の切れ間に声が聞こえた。
「いつまで・・・」
 クロさんの声だ。何か訴えている。何を言っているのだろう。聞き取れない。分からない。焦る私の目に、怖ろしい物が見えた。
 クロさんの周りに人が集まっていた。生きている人ではない。幽霊だ。何人もの幽霊が、ぬりかべ集団を押し留めようとしている。この子を追い詰めるな。下がれ。そう怒鳴って、クロさんと警官の間に立ちはだかっている。
 彼らはクロさんの眷属だ。あの人たちが激怒して止めに入るという事は、屋上で何が起きているのか。
「歌い骸骨・・・」 
 一瞬風が止み、はっきり声が聞こえた。集まった人たちにも聞こえたようだ。
 何だって? 今何て言った? 歌い骸骨とか。何だそれ? 妖怪だよ。何でこの状況で妖怪が出るんだ? 野次馬がざわめいた。
 クロさんは、ゆっくりと手を上げる。西の方角を指差した。遠くを指差し、しきりに訴える。また声が聞こえた。
「ほら、言ってる。どうして・・・」
 何の話なのか。雑音が邪魔で上手く聞き取れない。聴覚に神経を集中させた途端、周囲から悲鳴が上がった。
 ハッとして見上げると、クロさんが屋上から宙に一歩踏み出したところだった。
 まるで突き飛ばされたみたいに、立っていた場所からほぼ水平に移動して、宙に浮いている。
 華奢な彼女の体は、ふわりと風に乗って、空中を歩けそうに見えた。あるいは、やっぱり怖い。そう言ってスタスタ屋上に戻りそうだった。
 けれどそれは錯覚で、すぐに落下を始めた。
 沸き上がる悲鳴の中、彼女を受け止めようと走り出した。
 タイミング的には、間に合った。
 物理的には、無理過ぎた。何の役にも立たなかった。クロさんの体は、私の腕をすり抜けて、駐車場のコンクリートに激突した。
 私は止まる事も出来ず、そのまま建物手前の植え込みの中に飛び込んだ。
 柊の棘に体中を引っかかれながら、冷たい緑の匂いと土の匂いを感じた。次の瞬間、背後から血の匂いが追って来た。
 飛び散った血飛沫が、目の前の壁を赤く染めた。バラバラと雨のように、細かく砕けた体の一部が降って来た。
 血の雨が止むまで、目と耳を塞いでいた。
 しばらくしてから、まだらに染まった枝につかまり、立ち上がる。振り返って探したが、クロさんの姿は見えなかった。駐車場に広がる血溜まりだけが目に映った。
 カシャカシャと音がする。音のする方に目をやると、腕だけの妖怪が何百本も集まって蠢いていた。野次馬がデジカメや携帯を高く掲げて血溜まりを撮る様がそう見えた。
「わあ、こっちに耳が落ちてる~」
 歩道から、声が響く。声に嬉しさが混じっている。人垣が声の方へ群れをなして動き、写真を撮る。際限なくシャッター音が聞こえる。血の匂いに混じって、死臭がしていた。
「下がって! この線から下がって!」
 やっと警官が出て来て、駐車場に黄色いテープを貼り出した。
「危ないから溜まらないで!」
 乱暴に押し戻された野次馬から、悲鳴と文句が上がる。
「遺体に触らないで! ここに溜まらない! 通行の邪魔!」
「触ってねえしー。大体、歩道に溜まろうが歩こうが、勝手だろー」
 小競り合いが始まる。
 後始末に来た警官が喋っている。
「何の嫌がらせかね、世間では三連休だってのに・・・」
「わざと迷惑かけて喜ぶ手合いだろ。飛び散り方も、嫌がらせとしか思えん」
「何だってここまでバラバラに砕けるんだ」
「いや、むしろ楽だろ。お前掃除機かけとけ」
「目隠し目隠し。まず隠せ」
 歩道と駐車スペースの間に、銀色のシートが張り巡らされた。 
 屋上を見上げると、ぬりかべがこっちを見物していた。クロさんの親戚は誰もいない。きっと彼女を連れて帰ったのだ。私も帰ろう。ここにいてもしょうがない。重い足取りで歩き出すと、矢のような声が飛んで来た。
―クロさんはどこ!?
 人垣の間から、駆けて来る可奈ちゃんが見えた。ニュースを見て、走って来たのだ。仔犬も一緒だ。私の前に、二人が立った。
 可奈ちゃんの目が聞いている。クロさんはどこかと聞いている。
 答えようがなかった。黙って首を振った。
 可奈ちゃんの視線が辺りを走る。張り巡らせた銀色のシートを見つけると、声に出して言った。
「助けてあげて」
 仔犬丸は答えない。
「早く! 今すぐ生き返らせて!」
「この状態で呼び戻すのは・・・」
「じゃあ、せめて、もう苦しまなくていいようにしてあげて」
 重い沈黙の後、仔犬は姿を消した。
「一緒に行ってくれるって」
 可奈ちゃんは何も言わない。こんなの認めない。許さないと全身で言っている。
 見物人がさらに増えた。車道にまで人があふれ、車が渋滞している。シャッター音、クラクション、小競り合いの声、飛び降りに関する豆知識。
 可奈ちゃんの神経が心配だ。切れて暴れるようならまだよかった。けれどこの子は怒りを深く、内面に閉じ込めてしまった。
 最初に会った時みたいには、させたくなかった。抱え込んだ怒りが暴発し、血管を破る様子など見たくなかった。
 とにかく病院へ帰ろう。そう思った途端、可奈ちゃんは駆け出した。突然身を翻すと、物も言わず、青山通りを走り出した。
 私も後を追う。暴走する可奈ちゃんを追ってひたすら走る。
 散々走って辿り着いたのは、明のマンションだった。
 インターホンの部屋番号を叩くように押す可奈ちゃんを、息を切らせて見守った。
『新聞なら断る』
 明は部屋にいた。冗談なのか本当に勧誘と思ったのか、いきなり言った。
 ここのインターホンにモニターはない。可奈ちゃんが名乗ると、すぐにロックは解除された。
 ハイツの入り口で、可奈ちゃんは振り返る。あんなに走ったのに涼しい顔だ。涼しいどころか、氷みたいだ。早く行こうと、冷たい瞳で呼んでいる。
 私は手でバツ印を出して後ずさった。
 明に何の用があるのか知らないが、ここにいるなら安全だろう。優貴くんもいるかも知れない。
「ごめん。先に帰ってる」
 そう言って更に後ずさった。私にはもう一人、心配な人がいるから。
 可奈ちゃんは何か言いたそうだったが、くるりと向きを変えるとマンションに入って行った。
 それを見届け病院に帰ると、心配な兄はやはり取り乱していた。事務所の電話で、立ち上がりかけたような妙な姿勢で話している。勝手に中に入り込み、受話器に耳を近づけた。
「でも、さっきまで病院にいたんで。いや、今は見当たりませんけど、大体いつも病室じゃなくてロビーや休憩室にいるんで。とにかく静かな人で、いてもいないと思われるような人なんで、もうちょっと探してみないと」 
 ディスプレイには赤坂警察の表示。きっとクロさんの事だろう。
「だからですね、身元を証明する物もなくて、どうしてうちの患者だって分かるんです。えっ、連絡が? 黒崎さんのご家族からですか? 黒崎さんの友人の実家のレストラン? 何でそんなややこしいところから・・・」
 師長の古屋さんが病院中の見回りを終えて帰って来た。期待する漣に、簡潔に報告した。
「クロさん、どこにもいません」
 漣は暗い目をして私を見る。私は兄の背中を叩いて言った。
「しっかりしなよ」



 二十分後、漣と私は赤坂署のよこしたヤニ臭い車に乗っていた。
 これから遺体の身元を確認するのだ。
「衝動的な自殺ですよ。最近やたら多い。しかし、何だってあんなところに。病人の考えは分かりませんね。最上階の窓からよじ登ったんですよ。わざわざ非常用の梯子を出して。それしか屋上に行く手段はないんだから」
 迎えに来た若い署員は、聞かない事までよく喋る。
「高い所に行きたがるニワトリみたいな患者だったんすか? たまにいるでしょ。用もないのに鉄塔に登ったりする困ったちゃんが」
 仕方なく漣も喋る。
「ニワトリって言うより、物静かな美人でしたね。上村松園が存命なら、モデルにしたがったかも知れない」
「上村松園? 誰です?」
「さあ、誰でしょう。僕もあまり物を知らないから」
 珍しく漣が嫌味を口にする。それはそうだろう。自分の患者を鳥頭扱いされたのだ。
 死んだ人を無条件に憐れめとは言わないが。
 この署員にしたら傍迷惑な病人だろうが。
 それにしたって事情も知らずに何を言うのか。
 普段怒らない兄が、腹の底でブツブツ呟いている。
 最終回、いや、延長で逆転って事もあるしな。もう一回院長にかけ合ってみるよ。そう言って出勤したのが今日の朝だ。漣は目を閉じて黙り込んでしまった。
 嫌味を言われた当の署員はポカンとしている。何故こんな雰囲気になるのか、分からない。
 白けた空気の中、赤坂署が見えて来た。まだちらほらと、野次馬の姿が見える。シートはもう外されているが、地面は相変わらず赤い。それなのに私の目は、クロさんを探している。寒そうに一人でぽつんと佇んでいないか、探さずにはいられなかった。
 
 漣と一緒に、モニターのある狭い部屋に通された。そこでニュース映像のビデオをほんの数秒、見せられた。
 遺体の身元確認と言うから心配でついて来たのに、ビデオを見るだけだった。
 漣は映像を見て、この人は黒崎久美さん、うちの患者ですと、仕事用の声で言った。電話では病状の説明も頼まれたのに、そんな事は聞かれなかった。出された書類にサインしていると、廊下からドカドカと足音がする。ノックもなくドアが開き、定年間近と思しき男性が顔を出した。手下みたいな若手を従えて部屋に入ると、いきなり漣に粘着した。
「君が久美の担当医か! 何故あの子から目を離した! どうしてこんな事になったんだ!」
 言い分からクロさんの父と思われたので、立ち上がると漣は言った。
「この度はご愁傷様です」
 深々と頭を下げる漣を、クロさんの父は怒鳴りつけた。
「ご愁傷様? 人事みたいだな。いいから説明しろ。親の私に分かるように、ちゃんとした説明だ。どうして入院患者が自由に外を歩いていたんだ。歩くだけならまだしも、あんな高い場所によじ登るとはどう言う訳だ。病院の管理体制は一体、どうなっている!」
 娘さんがどうやって病院を抜け出したかは、今調べている。出入り口のビデオを職員がチェックしているから、分かり次第お伝えする。何度そう言っても、クロさんの父は納得しない。病院がわざと外出させたかのように、際限なく非難した。  
 ショックで喚くならまだ分かるが、そうではない。脅しているのだ。一人娘が死んだのに、まず最初に脅迫している。漣が大人しく聞いているのをいい事に、喚き続けた。
 その上、クロさんの父は臭かった。全身から腐臭が噴き出していた。臭過ぎて、我慢出来ない。私は鼻を押さえて部屋の一番奥、空調の真下へ逃げた。
「お気持ちは分かりますが・・・」
 漣が何か言っている。耐え難い臭気の中で喋っている。
「病院では手をつくしたつもりです。二月に久美さんが転院して来た時、胃が荒れて何も受けつけない状況でした。拒食のせいと言うよりも、薬の副作用でしょう。ですから根本的な治療より、内科の治療を優先するしかなかった。すでに徐脈の症状が出ていました。バイタルは最悪でした。綱渡りの状況でした。それをここまで持ち堪えて、やっと本来の治療に入ろうとした矢先でした。今回の事は、私としても甚だ残念です」
「だから早くPEGをやれと言ったろう。十日以上も前に、わざわざ電話をかけてそう言ったはずだぞ! とっとと胃瘻の手術をしておけば、昼時にふらふら外出する事もなかったんだ! そうだろう!」
「胃瘻ですか。そう言った重要な治療方針の相談も、電話で済まされましたね。久美さんが明らかに嫌がっていたので、そこは是非ともご家族で話し合って頂きたかった」
「何を今更・・・。毎週面会には行っただろう」
「家政婦の人が来ていましたね。玉木さんでしたか」
「あの家政婦は久美が子供の頃からうちで使っている。家族も同然だ。娘が親の顔を見ても喜ばないから、家政婦に頼んだまでだ。それの何が悪い。病人の意向を尊重したんだ。本心では行きたかったさ、当たり前だろう! 大体、着替えを持って行くだけなら、誰が行ったって同じ事だ。人を雇って悪いのか!」
「悪いとは申しません。ですが久美さんから目を離したのは、私たちではないはずです。それに、どうにも腑に落ちないのが・・・」
 傍らの机で喫煙していた警官に、漣は尋ねた。
「どうして久美さんはここに来たんでしょう。屋上へは、誰でも行ける物なんですか?」
 書類を持って来たこの警官は、さっきから我関せずの態度で、ひたすら煙を吐いていた。恫喝を止めないとサインも出来ないのに、ずっと素知らぬ顔だった。急に話を振られて、ポカンと開けた口と鼻から、意味もなく煙が上がる。
「あの子はな、子供の頃、署内を遊び場にしてたんだ。それで覚えていたんだろう」
 クロさんの父が苛立たし気に、口を出した。
「遊び場?」
「私が急な仕事の時は、ここで久美を遊ばせてたんだ。うちは父子家庭だったからな。子供一人、家に残す訳に行かんだろう」
「黒崎先生には、長い事うちの監察医をやって頂いているんだ」
 横から手下が口を出す。うちの、と言うからこの男も署員だろう。喫煙警官より年は若いが、態度は横柄だ。
 クロさんの父は、どうだ俺は警察と親密なんだ、恐れ入ったかと言う風にそっくり返った。動く度に臭さが増す。
「久美さんに、屋上へ行く方法を教えた警官がいるって事ですね?」
 漣が確認すると、クロさんの父は机を蹴って怒鳴った。
「一体何の話をしている! 屋上云々の話じゃない。PEGをやらなかったからこうなったんだろう。何故早くやらなかったと聞いているんだ!」
 話が粘着特有の無限ループに入り込んだ。臭い。部屋中が臭くて息が出来ない。赤坂中のハエや毒虫が寄って来ないのが不思議なほどの臭気だった。



 仕事を終えた漣の車で帰宅した。可奈ちゃんはまだ帰らない。
 家では父が巻き寿司を山ほど作っていた。華やかな模様を巻き込んだ細工寿司。別名、祝い寿司。
 全然、おめでたくないのに・・・。口に出す気力もなかった。テーブルを囲み、父以外の全員が微妙な顔だった。
 何だか知らないが、お前たちよく、祭りだキティだって騒いでるからな。景気よく多目に作ったぞ。あの子の分は取ってあるから。父はそう言って、桜湯まで用意していた。
 あまりの間の悪さに、毒を吐く気も失せたのか、チューリップや菜の花や小ネコ模様の巻き寿司を無言で見る母。
 今日はとても、オカルト番組を見る気になれない。録画だけして、一家団欒は早々に解散した。
 ネット上では、新たな祭りが始まっていた。今度は動画祭りだ。
 ニュースで流れた、飛び降りる寸前のクロさんの映像。それに、音楽や台詞をつけたものが、大量に出回っている。漣のマックでそれらを見た。
 漣も手で顔を覆い、指の隙間から動画を見ている。呻きながら見ている。
 病院では、いるかいないか分からないとまで言われた彼女が、ネットの中で不思議な磁力を放っていた。
 重く垂れ込めた雲の下、華奢な体で強風に煽られながら、何を伝えたかったのかと、世間の好奇心が集まった。容貌の可憐さも味方した。くみたんカワユス、カワイソスなどの発言を至るところで見た。
 動画の台詞は、ほとんどが拾って来た物だった。
"いい子は真似しちゃいけないよ"
"ちょっと吊って・・・、いや飛んで来るわ"が特に多い。
 後は、西を指す動作に合わせて、あちらに見えますのが実物大のガンダムですとか。伊藤公が建てた東洋一のボードビルですとか。梵雲庵です。楳図邸です。ウルトラマン商店街です。江東区です。えとう区って読まないでね。
 ほぼネタだ。意味はない。そう思いながらも見続けた。中には目を引く物があったから。
 その一つ、PV風の動画で、クロさんは歌っていた。
 
 抱いてあやした子 何もねだらない 小さな男の子 
 お前のためなら命もあげるよ

 ミス・サイゴン、一幕最後の曲、"命をあげよう"。
 明るめに加工された空をバックに、歌い続ける。ただそれだけで、歌も下手なのに、妙に引かれた。
 曲の最後にクロさんは、歌いながら背中に白い羽根を生やして行く。その翼で空を飛ぶ。一度フレームアウトすると、可愛らしい赤ちゃんを両手に抱いて戻って来た。そして二人は天へと登る。雲間から射し込む光を背景に、エンドロールまで流れた。二行だけの短いエンドロールだ。
 
 出演 KUROSAKI KUMI
    SAKURAI TATSUYA
 
 最後まで見て、漣は呟く。
「この赤ん坊は、誰なんだ?」
 もう一つは、さらに悩ましかった。その動画は、"彼女の遺言を解読します"の文章で始まった。口元の動きから、台詞を推察したらしい。
「この短時間で読唇術・・・。そんな有能な人材を、暇にさせといていいのか?」
 ブツブツ言いながら、指の間から動画を見る漣。
 拡大した粗い映像。風向きによって、髪がかぶさる。判別不能な箇所は伏せてあるが、分かった部分は、こうだった。

 ほら、うたってる。いつまでXXXXのっていってる。
 あれは、うたいがいこつXXXX。
 XXXXがうたってるのよ。きこえるでしょう。おやXX、こしね、みんなしね。XXXどけて。はやくどけて。XXXXXXXXっていってるわ。

 今一つ意味が通らない。続いて、遠くを指して言った言葉。

 みて。あそこからこっちをみてる。みんなでこっちをみてる。
 はやくXXXてあげて。XXXXXXるのよ。XXXXXXXX。
 あなたがころしたの。
 あなたがXXXXのね。
 だからたすけてあげないのね。

 動画の他に、ニュース系のサイトも賑わっていたが、読む気力がつきた。
 漣を残して外に出ると、低い空に見た事もないような赤い月が浮かんでいた。ひんやりした風の中に、血の匂いが混じっている。
 可奈ちゃんはまだ帰らない。家で待つ気になれなかった。月明かりの道を駅まで歩き、行き先も見ずに電車に乗った。車窓から夜景を眺めた。
 スーパーマンが現れて、時間を昨日に戻してくれたら。車型のタイムマシンは、いつ完成するんだっけ。秋葉原で安価なレジャーシート型タイムマシンを売り出すのは、まだ先なのか。そんな事ばかり考えた。
 適当に電車を降りた。足の向くまま歩き、辿り着いたのは日比谷公園だった。無人の野外音楽堂に入って、舞台に立った。
 ステージ中央には、まだ優貴くんの気配が残っていて、彼の心が読み取れた。
―待ってな、赤ちゃん。もうすぐそこから、出してあげるよ
 重なる雲の隙間から、微かに射し込む月の光。
 何を見ても赤く感じる。どこへ行っても血の匂いがする。
 赤い月光の中、あの日の優貴くんと同じように左舷前方を指差した。この指の先にあるのは、黒流山、磐の石。
 今夜は人魂は見えないけれど、巨大ビルの谷間から、遠い世界に呼びかけた。
「先日は遠いところ、ご足労願い、ありがとうございました!」 
 赤く濁った雲の下、大声で叫んだ。
「クロさんは、今日、そっちに帰りました! 拒食に苦しんだけど、今まで何とか頑張りましたー!」 
「可奈ちゃんは、今もこっちで頑張ってます! 引き続き、見守って下さいねー!」
 息の続く限り叫び続けた。
 こんな官公庁街にも住む人がいて、犬がいるのだ。野音の四方から、私の声に応えるように犬の鳴き声が響き渡った。


  
  四月三十日 月曜日
 
 何をする気も起こらない。
 父も宮城へ旅立った。可奈ちゃんのバイトも終り、付き添いの必要もない。魔窟に籠もり、ぼんやりした。
 テレビでは朝から薄幸のメンヘラー、黒崎久美の人生劇場をやっている。
 東京生まれ。一人っ子。父は開業医。子供の頃の夢は通訳。明るい性格だったが、大学時代、拒食になり、治療も空しく、昨日自殺。
 再現VTRまで使ったプロフィールだが、肝心なところが抜けている。クロさんの母はどうしているとか。拒食に至る原因とか。そもそも何故自殺したとか。
 核心の代わりに、どこで拾ったのか、元気だった頃の写真が大量に流れた。
『黒崎さん、美人ですよね』
『ねえ。全然太ってない。これはモテたでしょう』
『この写真なんか見てよ、ケーキバイキングだよ』
 誰が死のうと、常にあさってのワイドショー。
 昼の番組に、クロさんの幼馴染だと言うRさんが電話で登場した。
『久美ちゃんは可愛いし、勉強もスポーツも出来て人気者でした。でも中学の頃、お母さんが自殺してからは、ずっと悩んでたんです。二人でいる時によく、何で生きなきゃいけないんだろう、誰でもいつか死ぬのにって呟いてました。元々少食だったけど、まさか拒食になるなんて・・・』
 声を加工したRさんの話を聞きながら、本当にクロさんの知人か疑問に思った。コメントが整い過ぎている。台詞を読んでいるようだった。それにキッチン岡山のおばさんは、彼女が少食だったなんて言わなかった。当然のように大盛りパスタを運んで来た。
 しかし、突き詰めて考える気が起こらない。ゴロゴロしていると、窓の外に気味の悪い物が見えた。小汚い灰色の何かが、庭をうろついている。
 それが窓辺に近寄って来た。室内を覗いている。どうやら人のようだ。
 灰色にくすんだ風采、卑屈な態度。目ばかりギョロギョロさせて窓に張りつき、こっちを見ている。コソコソ人の家を覗く、馬鹿幽霊だ。
 私は飛び起きると、物の山を飛び越えて窓辺に走った。窓を開け、みっともない幽霊を睨みつけた。ここは馬鹿の来る場所じゃない! そう怒鳴ると、小汚い幽霊は一目散に逃げ出した。走り方までヘナヘナしている。
 裸足で庭に飛び出し、幽霊が出て行った通りに向かって罵った。
「馬鹿! 死んだら死んだでしゃんとしろ!」
 自分でも不思議なくらい感情が激した。
 幽霊が視界から消えても、怒りは収まらない。
「何騒いでるの?」
 二階から母が降りて来た。今日は普通だ。鬼ではない。むしろ私が鬼だった。
「死んだ蛇が来てたから」
 説明するのも不快で、説話的に短く言った。それで母には通じた。
「うちに来るなんて、間抜けな蛇ね」
 間抜けどころか、底抜けの馬鹿だよ。ヘナヘナして、近づくと馬鹿が移りそう。見たくなかった。気分が悪い。心の中でブツブツ言った。
『久美さん、私の病院に来ていたら。一人の医者として、無力感を感じますね』
 点けっ放しのテレビから、病院よりメディアで活動している精神科医の声がする。
「踊る何とかは見たくないわね」
 母は自室に帰ろうとして足を止めた。
「あんたがそんなに怒るなんて、阪神大震災以来じゃない?」
 言われて私も思い出した。記憶の隅に追いやっていたが、母の言う通りだ。
 あの地震の日も、私はこの部屋でテレビを見ていた。被災地上空からの生中継。飛び回るヘリの座席で、マイクを持ったアナウンサーが喋っていた。酷い。まるで戦後の焼け跡のようです。悪夢の再来です。これは酷い。あちこちで火が燻って、地獄のような光景です!
 それを見て私は怒った。自分でも何に怒っているのか分からないまま、手近にあった少年ジャンプをテレビに向かって投げつけた。
「あっ、まだ読んでないのに。何で投げるんだよ」
 何でと言われても、説明出来なかった。返事の代わりに漣をクッションで殴り、喧嘩になった。夜になって、少し落ち着いてから母に尋ねた。
「地震が起こって喜んでるね、マスコミの人たち」
「そうね」
「何で人が死んでるのに喜ぶの?」
「何でだと思う?」
「視聴率が取れるから?」
「甘いわね、子狸ちゃん」
「違うの?」
「違うわ」
「じゃあ何」
「自分で考えなさい」
 八歳だった私に、母は怖ろしい謎をかけた。当時から鬼の片鱗はあった訳だ。
 しかし、漣はもっと前から母を鬼婆呼ばわりしていた。ママは鬼婆だと叫ぶ姿を覚えている。
「そんな事言っちゃ駄目」
 私が小さい頃、母はうるさかった。あれは駄目これも駄目と言い続けた。
「いい、弓。あの人たちに会っても、見ないふりをしなきゃ。話しかけるのも駄目。人に言うのも駄目。分かった?」
 あの人たち。亡くなった人たち。幽霊になって戻って来た人たち。彼らは普通に街中に存在した。
「でも、今日も公園にいたよ。ハト見てた」
「だから、そう言う話をしちゃ駄目なの。ママと藍ちゃんには言ってもいいけど、他の人には絶対駄目。分かった?」
「分かんなーい」
 私には、母の必死な様子が面白かった。それでわざと反抗した。
「そんな子はね、サトリだ妖怪だっていじめられるの。それはママ嫌だから、そうなる前に、弓を四国の山に捨てて来ます。弓は山で仔犬丸と暮らしなさい」
 そんな脅しを言ったりした。学校から帰った漣がその様子を目撃した。子供を捨てるなんて酷い、ママは鬼だ。鬼婆だ! そう言って、大泣きした。私がいじめられていると思ったようだ。しばらくは、母を鬼婆鬼婆と非難していた。漣がそう思うのも無理ないほど、私と漣では、扱いが違っていた。
 どんなにゴネても、私に対しては母が折れる事はなかった。
 幼稚園にも行かせて貰えなかった。占いの仕事をセーブして、母が自分で私を見ていた。
 いとこたちが遊んでいる夏休みに、私だけお寺に入れられた。座禅や読経だけでなく、山の中を走り回って修験道の修行をさせられた。
 しきりに昔を思い出していると、可奈ちゃんが入って来た。
「彩さん、お昼、いらないって・・・」
「また飲み過ぎでしょ。部屋でお酒ばっかり飲んでるんだから」
「あ、テレビ、何やってた?」
「クロさん情報。神経症的に思い悩む家系だって、軽く情報操作があった」
 父方は元気に人を恫喝出来る家系だが、それはどの局も取り上げない。
「可奈ちゃんは好きな物を食べて、たまにはのんびり、好きにしてたら?」
「・・・好きにしていいの?」
「もちろん」
「じゃ、これ使っちゃおうかな」
 可奈ちゃんは、ポケットから見覚えのある携帯を取り出した。
 ここ数日、行方不明だった私の携帯だ。
「それ、どうしたの?」
「彩さんが、持ってなさいって。悪いから一度も使わなかったけど・・・。使っていい?」
「いいけど・・・」
 可奈ちゃんは集中して、何やら検索する。
 私はまたゴロゴロしてテレビを見る。今度は、野音関連をやっている。人魂の謎も解けないままでは、ネタとしてもう限界だろう。
 今日はスピンドルVの曲、真夏のマミューダ伝説を持ち出して、このバンドも実は怪しいと主張している。
 見て下さい。彼らは能天気な仮面の裏で、こんな奇妙な楽曲を発表している。そう言って曲名だけを取り沙汰する、変な髪型のオカルト研究家。
 真夏のマミューダ伝説。この曲は、中三の夏休み明けに十センチ背が伸びていた豆生田渡に驚いたクラスメイトの呟きが、そのまま歌詩になっている。だから短い。全部で三十秒ぐらいで終わってしまう。そのふざけた曲を、ワイドショーは呪いの歌として紹介している。
『これはバミューダ・トライアングルの歌ではないか。最近大人しかったバミューダの魔物は、そろそろ次なる生贄を呼んでいるのではないか。僕はそう解釈しますね』
 おかっぱ頭の研究家が熱苦しく説く。
『これは全世界に向けた招待状です。この曲を聴いて、バミューダ海域に行きたくなる人がいるはずです。気をつけて下さい、今年の夏はバミューダ・トライアングルに要注意です!』
 馬鹿電波を浴びて、ソファから落ちかけた。マとバは違う字だけどと突っ込む人すら、テレビの中にはいないのだ。
「弓さん、これ、どう思う?」
 可奈ちゃんが携帯画面をこっちに向ける。体勢を立て直して見てみると、黒地に紫の字で書かれた悪趣味な個人ブログだった。
 タイトルは"今日のKさん" ブログ主は自称天才ナース。
 ざっと目を通して、確信した。
「これ書いたの、山本さんだよ。何考えてんだろう」
 天才ナースは、勤務先の入院患者の言動を日記にしている。この患者は、どう見てもクロさんだ。冒頭に説明がある。
 
  《 Kさん概要 》
  ・25才のくせに年より若く見える (むかつく)
  ・摂食障害でモデルより細い (しかも美人)
  ・染めてないのに髪も茶髪 (何かイヤ)
  
  病院では薄幸の美人あつかいだが
  どう見ても薄幸のデムパである
  デムパは妙な事を口走る
  ウザイのでこの場に晒す事にした
 
  2月3日
  今日は節分
  病院食も豆ご飯
  ご飯を見た今日のKさんの一言
  「この虫は、何の虫なの?」
 
  豆が虫に見えるらしい
  大真面目に聞いている
  「きっとお菊虫だよ気にしないで食べなさい」
  そう言ったが食べない
  イラッとしたのでにらんでおいた
  
  2月6日
  今日のKさん
  隣の部屋から歌が聞こえると言う
  しかーし! 
  重篤患者専用ルームの隣ってナースセンターだよ
  誰も仕事中に歌なんか歌わねえ
  キモい事言うなっ
 
  キモさにたえて聞いてみた
  「え~どういう歌?」
  Kさんはか細い声で歌ってくれた 
  大体こんな歌詞だった

  ♪山梨の山は毛深い毛が深い

  何とこんな名曲が聞こえるらしい
  デムパってエコだよiPODイラズだよ!

 全部この調子だった。
「山本さんに、このサイト閉じるように注意する?」
「本物はもう消えてる。それ、他の人が保存してるページだよ」
「そんなの誰が作ったの?」 
「誰かは知らないけど。あんな気の毒な人を笑って楽しいのかって、逆に天才ナースの個人情報を追跡して晒してる人たちがいるみたい。ネット上では、Kさんがクロさんだってもう知れ渡ってるし、天才ナースの本名も、病院名もバレてる。クロさんのお父さんが気づいたら・・・」
「漣の病院、大迷惑だね。でも、今からこのページ潰しても、またすぐ次が出て来るんじゃない? もう、なるようにしかならない気がする」
 可奈ちゃんは、膝を抱えて考え込む。
 それにしても酷いブログだった。見たくないのに、全部見てしまった。どこかで方向転換するのを期待していた。無駄だった。最後まで病人をあざ笑っていた。クロさんの体重が減る度、ダイエット成功です、おめでとうと茶化していた。昨日の分は最悪だった。
 
 4月29日
 みなさんぬーすです!!!
 Kさんは警察からダイブしますた!
 さすがデムパクイーン!
 リアルデムパの花道!
 見事な最後ですた!
 ぬーす見てうけたのなんの
 もー腹筋崩壊!
 うひゃひゃひゃ

 夜、帰宅した漣が妙な話を口にした。病院に電話があったらしい。入院患者の家族からだ。
 師長の古屋さんによると、その一家は昨日の昼前、病院の廊下でクロさんに会ったと言う。
 普通の格好だし、まさか患者と思わなかった。見舞い客だと思い、話しながら一緒に病院を出てしまった。職員にも止められなかった。
 車で青山通りまで送り届けた。クロさんは、この近くに用があると言っていた。お互い無理しない程度にがんばりましょうと言って、笑顔で別れた。さっきテレビで見て、三人で絶句した。えらい事をしてしまった。どうしようと、心底慌てた様子だった。
「クロさん、見舞い客に紛れて外へ出たの・・・?」
 可奈ちゃんが漣に聞く。
「そうらしいんだけどさ、不思議な事にビデオには映ってないんだよ。その家族は三人とも映ってたけど」
 ちょっと待ってて。コーヒー淹れて来る。そう言って席を立つ漣。障害物を乗り越えながら、キッチンへ向かう。
 可奈ちゃんは、怪訝な顔だ。
「でも、弓さんと一緒だったんじゃ・・・?」
「そうだよ。クレマチスの横の錆びた通用口を通って、キッチン岡山まで歩いて行った」
「じゃあ、その家族が嘘の電話をかけて来たの?」
「何にでも便乗して騒ぐ人はいるけどね。三人揃って、わざわざ困った状態に自分を追い込むかな。しかも家族が入院して、充分大変な時に」
 今の世の中、虚言癖は珍しくない。でも、話を聞いた限りでは、まともそうな家族に思えた。
「どっちにしても、この話は伏せないと。下手すると、その家族も脅されるわよ」
 コーヒーを運んで来た漣に、母が言う。
「あ、それ、もう言っといた。その話は口外しないように。何しろ、凄かったんだ。朝から三十分おきに電話があって、娘を返せ、早く返せってそればっかり。その内誰も電話に出たがらなくなって、大変だよ」
「仕事にならないわね」
「ああ、事務員が一人、ぶち切れてた」
「そうじゃなくて、クロさんの親の方よ。開業医なんでしょ?」
「今は監察医の仕事が主みたいだよ。病院の方は人に任せているらしい。あ、これ、今日のお土産」
 漣はテーブルでドーナツの箱を開く。可奈ちゃんが毎日バイト帰りに色々買って来たので、お菓子とオカルトが夜の定番になっている。
「それにお葬式の準備って、一人じゃ間に合わないくらい忙しいわよね」
「手下みたいな警官が手伝ってんじゃないか? それに家政婦も。あの家政婦はまともな感じなのに、何であんな医者の家に長くいるのかね?」
「そんなの知らないわよ」
「私、明日から何しよう・・・」
 テーブルに並んだドーナツを前に、可奈ちゃんが呟く。
「暇な時は、裏の豆生田家に行って、お爺ちゃんと囲碁でもしたら? じゃなきゃ、お婆ちゃんとお琴か俳句。本人がいたら、テニスとか。でも豆生田って、女子が相手だとわざと負けるから、全然面白くないけど。後は駅前の本庄呉服店に頼んで、和小物の内職とか」
 パッとしない話のついでに頼んだ。
「明日は私が出かける日だから、ビデオ撮っといてくれると助かるけど」
 可奈ちゃんの顔がさっと曇る。
「上手く行くかな・・・」
 私と母が、ほぼ同時に言った。
「ばっちりだよ。ハンターも乗り気だしね」
「冥王星の占い師が、全員一致で決めた事でしょ。相当変な真似しなきゃ大丈夫よ」
「カレードーナツ、食べていい?」
 空気も読まずに漣が言う。
 そして今日もダラダラと、テレビを囲む夜が始まる。
 日付が変わる頃、短いニュースが流れた。
『たった今入った情報です。都内で自殺のようです』
 耳を疑うニュースだった。
『警察の発表によると、黒崎健二さん。五十九歳。昨日投身自殺した黒崎久美さんの父親です。自宅から、娘に会いに行くと書かれた遺書が見つかりました。』
 可奈ちゃんの険しい目が、局アナをじっと見る。 
『娘さんの死にショックを受けたんでしょうか』
『しかし、自殺はよくありません。どんなに大変でも、生きなければ』
 短い掛け合いが終わると、誰も見ないCМが流れる。
 漣も母も、自分の部屋に引き上げて、もういない。
 さっきまで眠そうだった可奈ちゃんが、難しい顔をしている。
 クロさんの父が自殺。一日精力的に病院を脅していたのに、その夜、自殺。そんなのって、おかしくない? 可奈ちゃんの心の呟きが聞こえる。
 クロさんの父は、後生を頼むようなタイプではない。それが突然、死んだ娘に会うなどと言うだろうか。世の中は金だ、恥ずかし気もなくそう主張した人だ。娘の命を金銭に換算し、精神的苦痛を上乗せして、親である俺に寄こせ。誠意とは責任とは、そう言う物だろう。違うか、としつこく漣に粘着した。手に入るはずのその金を楽しみに、一日中恫喝を続けていたのに、その夜に自殺なんて。
「あり得ない・・・」
 可奈ちゃんと二人、ほとんど同時に呟いた。
 チャンネルを変えても、どこも同じ情報を流している。
 都内の開業医、黒崎健二氏、自宅でビニール袋をかぶり自殺。
 遺書から、投身自殺した娘の後追いと見られる。
 故人の写真は出ない。自宅の映像もない。度々裁判を起こされた経歴も報じない。判で押したような横並びインフォメーション。
 この報道が事実なら、明日行くからな、逃げるなよと恫喝電話を切り、それからすぐ遺書を用意して、ビニール袋をかぶった事になる。
「あり得ない・・・」
 もう一度、二人同時に呟いた。 



  五月一日 火曜日
 
 曇りがどうした。雨さえ降らなきゃ上等や。ハンターは意気揚々と車を飛ばす。オペラのアリアの調べに乗って、黒流村に辿り着いた。
 山と畑に囲まれた村道を走っていると、蝶の群れに飲み込まれた。どこからともなく沸いて出た、茶色に黒い縁取りのある蝶の大群。その中に入り込み、ハンターは悲鳴を上げる。
「うわっ、何やこの蝶は! どこも茶色で、前が見えん」
 ワイパーを作動させたが、蝶は後から後から飛んで来て窓に当たる。バタバタ羽ばたき、視界を遮る。暗褐色の竜巻に巻き込まれたようだった。
 ハイビームで脅かし、クラクションを鳴らすが、どうにもならない。道を外れて畑に落ちないよう、徐行運転でそろそろ進んだ。
 ようやく蝶の群れから抜けると、一人の老村人が胡散臭そうにこっちを見ていた。日光浴でもさせているのか、家の前で柴犬を抱いている。犬の体には、包帯が巻いてあった。
 凪野んはガラス越しに、村人に会釈する。老人は渋面で彼を無視した。
「あのおっちゃん、平気で外におるな。って事は、この辺じゃ蝶の大群は珍しくないんかね? 道も蝶の死骸だらけだし。誰も掃除せんのか?」
 蝶にこだわる凪野んの隣で、私は老人が気になった。通り過ぎる時、呟いていた。馬鹿め。口の動きでそう読めた。言葉の真意は不明だが、幸せな人ではなさそうだ。
 ハンターは、前を見ていて呟きに気づかない。
「おお、例のコンビニもどき発見!」
 薄汚れた小さな店を見つけると、空色の軽を停めた。コンビニとは名ばかりの、何でも屋。村で唯一の商店だ。
「この辺りって、キャベツの産地なんですか?」 
 店内でお茶を手に取り、ハンターは言う。店主の顔はカエルに似ていた。その顔で面倒臭そうに聞き返す。
「何でそんな事聞くんじゃ」
「蝶の多さにびっくりして。さっきそこで、茶色い蝶の群れに囲まれて、前が見えんかった。ここ、高原だし、キャベツ畑でもあるんですか」
「へえ、高原か? 山じゃろ、ここは」
 濁った灰色の目で、店主は言った。
「四百円」
「えっ、百二十円のペットボトルが四百円!?」
 驚いて、手に持った緑茶をまじまじと見る。普段百円前後で買う普通のお茶だ。
「山だからな。都会じゃ百二十円でも、ほっちは山奥だから四百円じゃ」
「がめつー・・・」
 客の批判に、返事もしない。嫌なら帰れと言う態度。
 山間部での買物の不便さには慣れている凪野んも、こんな店は初めてだった。ここは、日本か? 首をひねりながら財布を取り出すと、店の親父はニタッと笑った。ハンターは、使えないのを承知で聞いた。
「あ、現金ない。イコカ使える?」
 結局、何も買わずに車に戻った。
 飲み物は車内にあるから、買う必要はないのだ。店には情報収集に入っただけだ。
「この村は感じが悪いって事が、これではっきりしたわ」
 エンジンをかけながら、凪野んは言う。さっき見かけた村人も陰気だったが、コンビニ店主は輪をかけて酷かった。
「ま、こっちとしてはその方が気楽やけどね。ハンティング成功の暁にゴタゴタするといけんから。善人とは揉めとうないわ」
 ラ・ボエーム、別れの曲を聞きながら、車は走る。
 助手席の窓から振り返ると、カエル親父が店の前まで出て来ていた。走り去る私たちの車を、気味の悪い目つきで見ている。車のナンバーをブツブツと、口の中で読み上げている。
 可奈ちゃんの言った通りだ。コンビニ親父はあさっての人。やる事為す事気持ちが悪い。
 悲し気な歌に乗り、ゆるいカーブの村道をさらに走る。すぐに目当ての望月家を見つけた。
 うちの目印はね、門の脇に桃があって、今ちょうど花盛り。表札は同じ名前が多くて紛らわしいけど、桃があるのはうちだけだから。聞いていた通りの紗依ちゃんの家だ。ハンターも、桃の木発見と呟いて、門前に車を止めた。
 紗依ちゃんには、すでに協力を取り付けてある。打ち合わせ通り、凪野んは荷物を抱えて車を降りた。勝手に門を潜ると、呼び鈴を押す前に、紗依ちゃんがドアを開けた。
「早かったね。じゃ、こっちから裏に回って」
 家から出て来ると、手招きして歩き出す。私たちは庭伝いに、家の裏側に出た。自宅裏のガレージで、紗依ちゃんの祖母の軽に乗り込む。
 この家のお母さんとお祖母さんは今、隣町へ出かけている。パピヨンが退院する日なのだ。紗依ちゃんは、凪野んのために残ってくれた。
「裏の道を、左だから。左に真っ直ぐ行くと、突き当りが黒流山の入り口。車だとすぐだよ。一本道だし標識もあるけど、何かあったら電話して」
 キウイグリーンの軽の横で、紗依ちゃんが念を押す。
「合点承知よ。サンキューな」
 ハンターは借りた車で走り出す。
 紗依ちゃんが裏道まで出て見送っている。心配そうだ。
 しかし、裏からそっと出たのだから、植田がハンターの車を見つけても、望月家へ客が来たように見えるだろう。山に行っているとは思うまい。
 黒流山の曲がりくねった山道を、行けるところまで車で登った。
 山道の入り口付近に、空き缶やペットボトル、菓子の空袋が散乱している場所があった。見張り役の馬鹿がたむろする定位置らしいが、今は無人だ。田舎ヤンキーの朝は遅いらしい。
 早くに出発して正解だ。道も空いていて、思ったより早く着いた。まだ十時。上出来過ぎる。
 坂の途中、鬱蒼とした木々のすき間から、古い家が見えた。人はいない。林業で暮らしていた人たちの廃村だ。
 その前を過ぎると、唐突に道が途絶えた。行き止まりは駐車場になっている。バスなら五、六台停められる広さだが、周囲から樹木が迫って狭く感じる。舗装もあちこち、ひび割れている。
 凪野んは駐車場で車を降りると、声に出して確認を始めた。
「えーと、ビデオは持ったし携帯もある、と。予備のバッテリーに、スコップやろ、シャベルやろ。車のキーも持ったし、非常事態セットもあるし。よし、完璧や。じゃあ、ぼちぼち、行きますか」
「うん、行こう」
 しかし彼は、すぐには山道に入らない。荷物満載のリュックを背に、細い登山道の前で手を合わせる。
 山の神に挨拶しているのだ。ようやく歩き出したハンターの後を、私も追った。
 ハンターは、竹の杖を持っている。背丈に近いその杖で、張り出した木の枝や蜘蛛の巣を払いながら進んで行く。
 道順は紗依ちゃんから聞いている。まずは元の林道である、この道を登って行く。今は使われない林道だから荒れているが、とにかく大木のないルートを選び、道らしいところを行けばいい。
 凪野ん、変な事考えないでね。聞いた通りに行けばいいんだよ。そう念じながら、少し離れて彼を追った。ハンターは、意外に素早く山道を登って行く。街中にいる時とは別人のようだ。
 そう思った途端、彼は足を滑らせた。雨後の斜面は滑りやすい。すぐさま立ち上がると、わらじが解けたと唱えている。護身用の、古いおまじない。最新の装備を身に着けながら、こんな呪文を口にする。
 一人で何度山に入っても事故に遭わず、猪に襲われても怪我もせず、時々不思議なお土産まで持って帰る理由が、少し分かった。
「あった。これやろ目印。あ、あれ?」
 声と同時に、ふっと凪野んの姿が消える。
「ハンター、どこ!?」
 急いで追うと、彼はしゃがんで地蔵石の写真を撮っていた。
「何かおかしいと思ったら、この石、寝てるんよ。雨で倒れたんかね?」
 そう言って、石を元通りに直した。
 寝ている時はただの石だったが、立てるとちゃんと地蔵風に見える。
 林道を登ると、左手にお地蔵さんっぽい灰色の石があって、地蔵石って呼ばれてる。聞いていた通りの目印だ。
 立てた地蔵石の写真も撮ると、凪野んは説明通り、横道に入って行く。絶対迷うと思って一緒に来たのに、拍子抜けするほど順調だ。
 そのまま道なりに二十メートル。両側に熊笹の生い茂る細い道を進んで行く。
「おー。盤の石発見! やりました! パチパチパチ」
 藪の向こうで、凪野んの歓声が上がる。
 彼の足元に、半ば雑草に埋もれた黒い石があった。
 ハンターは荷物を下ろし、ビデオや携帯を取り出す。コードを繋ぎ、手近な枝にビデオをセットした。
「さて、これから石を除けます。石の下に何が埋まってるんでしょうか。あ、あれ。この石、そんなに重くない・・・。いや、やっぱ重いか・・・」
 撮影用に喋りつつ、スコップを梃子にして石の端を浮かす。重いと言いつつ、あっさりと石を脇へ退けた。
「割れ物だといけないので、慎重に、と・・・」
 石の下の湿った土をシャベルでかき出す。
 サク、サク、サク。土を掘る音と、風の音だけが響く。
 ハンター、しっかり。気をしっかり持って。ビデオに映らないよう、少し離れた場所から彼の仕事を見守った。
「あ、この下に何かある。何だろう・・・。青っぽい色が見える・・・」
 ハンターはシャベルで慎重に土を退ける。埋まっていた宝物が、少しずつ見えて来る。
「どうも布っぽい。服っぽいな・・・。何だ? これは」
 実況がぴたりと止まった。ハンターはまじまじと自分が発掘した物を見ている。
 出て来たのは、埋蔵金などではない。人の子だ。空色のベビー服を着た赤ん坊が、静かに目を閉じて横たわっている。
 赤ちゃんを掘り出したと分かると、凪野んは全身全霊で驚愕した。
 キャーッと裏声で叫びながら、バネのように飛び上がった。
 驚き過ぎて着地も出来ず、見事なまでに転倒し、リュージュのように山の斜面を滑り落ちた。
 数メートル先で茂みに突っ込み滑落が止まっても、まだ固まっている。しばらく呆然と空を見てから、赤ちゃんが赤ちゃんがと呟きながら動き出す。這うように坂を登り、自分の掘った穴を、そろそろと覗き込んだ。
 見間違いではない。本当に人の子だ。しばらく穴の底を見つめて、やっと理解が追いつくと、手袋を外して赤ちゃんの呼吸を確かめた。頬をさわり体温を確認した。
 着ていたジャケットを脱ぐと、赤ちゃんの体にかけた。
「ちょっと待っててな。すっすっすぐ戻るからな」
 泥だらけの小さな頭をなでて声をかけると、火がついたように駆け出した。
 助けを求めて走り出したのだ。
 待って、携帯があるでしょう。叫んだ時には、ハンターは藪の向こうに消えつつあった。パニック状態の彼を、一人に出来ない。すぐに私も後を追った。
 しかし荷物を置いて身軽になった凪野んの動きは早い。追いつく前に、彼は足を踏み外し、細い獣道から転落した。そこで待っててと呼びかけたが、落ちた場所から、また走る。彼を追って崖を滑り下りると、遥か彼方でハンターは足を取られて転倒していた。起き上がって、キョロキョロする。方向を見失ったようだ。それでも止まるどころか、逆にスピードを上げて暴走する。いくら追っても、追いつけない。すぐに駐車場に戻るはずが、走っても走っても、山の中。
 いつの間にか私たちは、別のルートに入り込み、迷走していた。何度呼んでも、ハンターは止まってくれない。半ば朽ちかけたような、古いトンネルに向かって走って行く。待って! どこに続いてるか、確認しないと! 後姿に叫んだが、彼はそのまま暗い穴の中に吸い込まれて見えなくなった。足音が遠ざかる。追わなければ。気は焦るが、体力は限界だった。もう一歩も走れなかった。
 足を引きずるように、暗いトンネルを少しずつ進んだ。トンネルの出口近くに、お地蔵さんが立っていた。似たような大きさのお地蔵さんを、さっきも見た。山の中で何体も見た。それらは風雨に晒され判然としなかったが、このお地蔵さんにははっきりと残っていた。手に酒瓶を持っている。お酒を持った地蔵、狸地蔵だ。
 我が家に伝わる昔話によく出て来る、狸の目印そのままだった。


 
「仔犬丸ー! 天狗小僧ー! 時間があったら助けに来てー!」
 人がいないのを幸い、彼のいるはずの東京に向かって、大声で呼びかけた。可奈ちゃんの背後霊、天狗小僧ならこの辺にも詳しいはずだ。
「俺を呼んだか? 隠神の娘」
 すぐに声がして、トンネルの中に仔犬丸が現れた。
「磐の石に戻りたいんだけど、黒流山はどっち? 道も分からないし、足も動かない。大体、ここはどこなの?」
「都育ちが山で迷子になったのか。由霊山でも似たような事があったな」
「そうだっけ? ・・・記憶がないけど」
「昔の話だ。慣れない山で崖から落ちて、高山数馬が今のお前と同じように俺を呼んだ」 
 意外な名前が飛び出した。仔犬と高山が知り合いなんて、初耳だった。
「それ、楽しい話? 怖い話?」
 仔犬は腕を組み、山の彼方に目をやる。さらさらと高地の風が、トンネルを通り抜けた。
「どうだろう。いなげな話か」
 いなげ。昔の高山は変人だったのか。がっかりする横で、仔犬が続けた。
「四国の監察使と言えば、江戸中の役人から忌み嫌われた難職だった。それをどうにかこなしたのは、あれが馬鹿正直だったからだろう」
 高山は、いなげから馬鹿正直になった。
「その話、詳しく聞いてみようかな」
 聞きながら、体力が戻るのを待とうと思った。疲れてすぐに動けそうにない。
 仔犬は腕をほどいて、話し始めた。行けば必ず狐憑きになると噂された四国の地。そこへ送り込まれた、馬鹿正直な監察使。
「あの年は、雨が少なかった。凶作だった。幕府から大金を借り入れた。その金で米を買うはずだった。しかし、千両箱を積んで江戸を出た船は、空になって帰って来た。金も水夫もすっかり消えて、幽霊船になって港に着いた」
「その話なら聞いた事ある。仔犬は実際に船を見たの?」
「見たどころか、鈴彦たちと船内を探索した。確かに船には、人影がなかった。しかも突然消えたと見えて、朝茶の支度が残っていた」
「そのお茶を鈴彦が飲んで、おかしくなったんだっけ?」
「そうではない。飲んだのは天堂だ。喉が渇いたのか何なのか、止める間もなく茶を飲むと、茶葉がどうの、温度がこうのと、延々講釈を垂れていた」
「で、最後はおかしくなって神社で暴れたと」
「それも違う。お前たちは、何を子孫に伝えているのだ」
 恥ずかしくなって、黙って聞く事にした。
「役人たちは、これは神隠しに違いないと騒いだが、天堂や鈴彦が騙される訳もない。そんな風に思うのが、すでに敵の術中にはまっておるのよ。落ち着いて周りをよく見ろ。天堂はそう言うと、手元にあった茶を飲んだ。そして妙な顔をした。何ぞこれは。まだ冷め切っておらん。船から人が消えて間もないと見えるわい。となると、事が起きたのは、志摩や紀州の海ではない。このすぐ近くじゃ」
「ごくごくと茶を飲み干すと、天堂は話を続けた。これは大方、神隠しと見せかけた、盗人の仕業じゃろう。何しろ、人と金と武器だけがのうなって、水夫どもの持ち物やら鍋釜の類は残っておる。ほんなん都合のいい神隠しがどこにある。後でしっかり探してみろ、航海記録も多分ないぞ。しかし気になるのが、隠れて難を逃れた小者の一人もおらん事じゃ。見張り役が何人も付いておるのに、争った跡すらない。この船には、引き込み役がおったかもしれん。そうでなければ、ここまで上手くは行かぬもの。天堂は二杯目を茶碗に注ぐと喋り続けた。しかし、その引き込み役が問題じゃ。よそ者がそう簡単に紛れ込むとは思えんからのう。ここらの言葉は独特じゃし、地元の衆らは耳聡い。わしが昔、しばらく京におって帰った折も、ちいと京言葉が出ただけで、鬼の首でも取ったように騒ぎよった。全く、この衆らの妙な団結力は侮れん。江戸詰めの連中にしても、怪しいよそ者に大金を運ばせるほど馬鹿ではない・・・。二杯目を飲み干すと、天堂は唸るように言った。分かった! 分かったぞ。海賊じゃ。これは地元瀬戸内の海賊どもの仕業じゃ。船員の中に、海賊が紛れ込んだに違いない。いや、船員どころか、船頭役に納まっておったかも知れん。何しろこの茶葉。お前たちには分からんじゃろうが、これは宇治の一級品ぞ。藩の船で飲むような代物と違う。うまいこと神隠しを装うても、こげなところから足がつく。宇治茶なんぞを置いて去ったが命取りよ。しかし海賊どもめ、何故今頃になって、こんな真似を。何を考えておる。しかし、こんな茶葉まで持ち込むからには、頭領直々に乗り込んだ可能性が高い。となると、向こうも本気じゃ。遊びでお前たち小役人をからかいよる訳ではないぞ。すぐに動かんと、金は返らん。お前たちは日干しじゃ。天堂は三杯目の茶を飲み干すと、立ち上がった。ああ忌々しい、嫌な仕事を押し付けおって。しかし、こうなったら仕方がない、金を隠される前に、捕まえに行くぞ」
「俺たちは、そのまま海賊の根城に踏み込んだ。しかし、そこはすでに、もぬけの殻だった。海賊たちは、行方をくらませた後だった」
「二日後、また別の船が港に着いた。九州に能の修行に出ていた桂男が、食料を積んだ船に乗り戻ったのだ。比較的豊作だった黒田藩から、直接米を運んで来た。その代金を借入れ金で支払うはずが、幽霊船騒ぎで払えない。同乗して来た黒田藩の役人を城内に留め、国中の狸が金と海賊の行方を探し回った」
「監察使の高山とその添役が、狸たちの邪魔をした。殊に添役はしつこかった。自分は山で育った、江戸育ちとは人間が違うなどと言って、鈴彦たち、城の狸に取り入ろうと付き纏った」
「監察使は藩の監査だけでなく、長宗我部の残党を見つける役も兼ねていた。俺の周りもかぎ回った。山に隠れて住んでいる、それだけの理由で疑った」
「長宗我部って。もう表舞台から去ったんだから、放っといてあげればいいのに」
「当時の幕府には、敵が必要だったのかも知れん。こちらに取っては迷惑な話だ。高山にしても、俺を着け回した挙句、慣れない山で崖から落ちて、這い上がれなくなる始末だ。狼も出ると言うのに・・・。仕方なく引き上げてやると、あの男は、礼を言うどころか俺を睨んだ。そして文句を言い始めた。いわく、どうして助けた。恩を売ろうと思ったのか。残念だが、そんな事で手心を加えたりはしないぞ。そもそもお前の動きが怪しいからこんな事になったのだ。お前たち、揃いも揃って、何を一日中走り回っている。何を企んでいる。天狗小僧、お前は一体、何者で、こんな山奥で何をしている。城では家老までがお前の事を、山犬の仔だ、小天狗だと言うが、冗談ではない。本当に天狗ならば空も飛ぼう、術も使おう。しかし、お前は今、蔦を使い、力で俺を引き上げた。何が天狗だ。単なる怪力小僧ではないか。何故天狗などと名乗る。正直なところを言え。監察使はぺらぺらと喋り続けた。何を企むと力まれても、盗まれた金の行方を捜しているだけ。夜になって山に帰ろうと言う時に、うるさいうるさい。あまり絡むので、いっそもう一度、崖下に落としてやろうかと思ったぞ。思ったとたんにあの男は何を察したか、急に口を噤んだが。そしてつまらん捨て台詞を吐いて走り去ったが」
「やだー。何それ。いなげって言うより、嫌な奴じゃん」
「それがどうしてあの晩以来、俺を着け回す事はなくなった」
「その頃海賊たちは、船で東へ向かっていた。駿河に上陸するつもりだった。しかし駿河と思って船を泊めれば、そこは元の四国であった。海賊船は、散々走って、自分の根城に戻って来た。さては狸の幻術にかかったかと騒いでいると、天堂の娘が現れた。長壁神社からだと言って、文を届けにやって来た。桂男の修行の成果を見に来いと、神社からの招待だった。今更逃げても仕方がない。海賊総出で出かけて行った」
「能楽とお茶の宴の後で、長壁姫は海賊の頭領と談判した。お前たちが公金を盗んだ事は分かっている。密貿易で儲ける分には、何も言わん。だが、非常時に人の物を盗むとは何事か。あれはただの金ではない。この一年の国人の命である。知っての上なら許さんが、そうではあるまい。金を返せばよし、役人にも黙っていよう。返さないなら、お前も手下も、生きてここから帰さない」
「海賊は言った。面白い話だが、俺が盗んだ証拠はあるか」
「お前はいつも仕事の前に、必ず神社にやって来る。幽霊船の現れる一月前にも、参拝に訪れた」
「見込み違いだ。あれは女房の安産祈願。お蔭で無事に子供が生まれた。お礼参りに来なきゃならんと思っていたところだ」
「嘘をつくな。長壁神社は海運神社、安産の神はここにはいない。一月前の夜遅く、確かにお前は、無事仕事が済むよう祈っていた。その仕事を終えたら、他国に移る算段をしていた。もう海賊の世ではない。それを分かっての事だろう。お礼参りに来るつもりなら、船で駿河へ向かうのもおかしな話だ。船には女房子供も乗っていた。家財道具も積んでいた。四国に戻る気なぞ、なかったろう」
「・・・」
「文句を言うのではない。お前たちの仕事はあざやかだった。一人の死人も出さなかった。その手際で金を返し、藩に恩を売っておけばよい。きっと損にはなるまいぞ」
「金を返せと度々言うが、そもそもあれは誰の金だ? 俺たちは元々ここで暮らして来た。道を開き田畑を耕し国を造った。戦の後で、よそから来た馬の骨が城に収まり、税を取った。その金は誰の金だ? 俺たちは、突然立ち退けと言われたのだ。城を出ても、食わなきゃならん。家族を養わねばならん。長宗我部の家臣であれば、他国で仕官も叶わない。そうでなければ、誰が好き好んで海賊などやるものか」
「それはそうだと言って引き下がっては、国の者が飢え死にするだけだ。今度ばかりは言わせて貰おう。去年も米は不作だった。今年は更に酷い。二年続きの天災だ。あの金が返らぬとなれば、百姓、町人のほとんどが死に絶える。国中が空き家になれば、更に性質の悪いよそ者が押し寄せる。性質のよくない馬鹿を笑って見守る神はあるまい。更に国が荒れる。再び乱世が訪れる。お前はそれを望んでいるのか。今一度戦でもするつもりか。そのような神託は降りておらんぞ」
「頭領は笑い出した。ここの太夫は、揃いも揃ってよく喋る。先代の巫女も相当口が達者だったが、あんたも負けず劣らずだな。まあいい。今回だけは言う通りにしてやろう。桂男なぞ見たのが間違いだ。あの綺麗な顔を見ると、悪心が起こらなくて困る。笛まで聞けば、尚更だ」
「そこへ突然、添役が入って来た。添役は言った。賊は捕まえなきゃならん。見逃す訳にはいかん。巫女さんもそのつもりで、こいつらを罠にかけた。いや、見事に引っかかったな。大漁大漁。さて、海賊に聞こう、金はどこだ? どこに隠した?」
「頭領の眼光が鋭くなった。俺を騙したのか長壁姫。最初から捕まえる気で呼んだのか」
「長壁姫は答えた。騙し討ちなどするものか。今のは全部、この男の出まかせだ」
「どっちにしても、お前たちが捕まるのは事実だ。賊を見逃そうとした奴も、首を刎ねなきゃならん。いや、女だから島流しで済むのかな。添役は上機嫌だった」
「頭領が懐刀で斬りかかると、添役は逃げた。太刀打ちもせず、そこらにあった花瓶やら何やらを、手当たり次第に投げつけながら逃げ出した。よほど頭領が怖かったのか、海老のように腰を曲げ、妙な姿勢で走って行った。逃げ足だけは早かった」
「逃げ込んだ境内では、海賊たちが勢揃いで、頭領を待っていた。その頭領が刀を抜いて、背後から追って来る。添役は大慌てだ」
「添役の計画では、買収し丸め込んだ地元の侍が、海賊を一網打尽にしているはずだった。しかし侍の姿はない。天堂たちが近くの祠に閉じ込めて見張っていたから、侍は一人も神社へ来ない」
「追い詰められた添役は喚いた。海賊ども、いいかよく聞け。もうすぐここに走って来るお前らの頭領は、長宗我部の縁の者だ。逆賊だ。こいつを差し出せば、お前たちは無罪放免にしてやろう。いや、放免どころか、士族に取り立ててもいい。ここが思案のしどころだ。一生海賊の下っ端として暮らすのか、身分制度の天辺で生きるのか。どうするのが得か、よく考えろ」
「海賊は口々に言った。何なんぞこいつは。うんだらくんだら、よもだな事を喚きおって。東国武士とは、みっともない物よのう」
「みっともないとは何だ。侍になりたくないのか」
「馬鹿め。わしらは全員、長宗我部の家臣じゃ。元侍じゃ。昨日今日士族になった青瓢箪が、偉そうに何を抜かすか」
「添役は唖然とした。全員? 全員、長宗我部だと?」
「ほうじゃ。何度も言わすな」
「お前は今日まで何を調べておった。みっともない上に仕事も出来ぬ、のふぞう者めが」
「海賊は添役を取り囲むと、相談を始めた。こいつはどうする? 生かしておけば害になるぞ。二つに斬って海に捨てるか?」
「元よりそのつもりの頭領も追い付いて、すぐ近くで睨んでいる。添役は必死で言った。待て。自分が消えれば騒ぎになるぞ。お前たちにも嫌疑がかかる。このまま開放すれば、今日の事はなかった事にしよう。無闇に揉め事を起こすものではない」
「つかましいわい。おどれは黙っておれ!」
「しかし、いねば問題じゃと言うて、この売僧こきを捨て置けるかや。いずれ騒動の元となろうぞ」
「あらいじゃい。こがいな面の奴は、目を離せばよいよ悪巧みをしよるけんのう」
「決まりかけた話に、長壁姫が加わった。ここは神域、神に聞こう。添役を生かすも殺すも、破魔矢によって決めればいい。添役、矢に当たらずに逃げてみよ。鳥居の外までは追うまいぞ。長壁姫はそう言うと、持っていた弓を構えた。海賊たちが道を開けた。添役は走り出した。添役の背を、長壁姫の射かけた破魔矢が追う。命中するかに見えた矢は、わずかに逸れて浮き上がり、添役の体には当たらなかった」
「意外や意外、加護はこちらにあったようだ。添役は有頂天で鳥居をくぐった。ふと足元の影に目が行った。自分の頭に、矢が刺さっていた。元結に深々と矢が刺さり、抜こうとしても抜けなかった。血の気が引き、足が震えた。蒟蒻のようになった足で、鳥居の下をひょろひょろ進んだ。ちょうど通りかかった農夫に馬を借りた。乗ろうとすると、元気だった馬の足がくにゃりと萎えて、道に倒れた。添役も道端に投げ出された。その様子を見て、農夫が言った。おやおやこれは、神社で何かなさったな。よほど罪業が深いと見える。お遍路でもして心を入れ替えん事には、とてもこの先の人生は歩まれん。鳥居の前で、頭に破魔矢を乗せた添役は、土地の農夫に説教された」
「次の朝、海岸で漁師たちが集まって騒いでいた。砂浜に妙な箱が幾つも流れ着いていた。一体何なんぞ、この箱は。蓋を開けた漁師が驚いた。金子がぎっしり詰まっていた」
「何ぞこれ!」
「何ぞこれ!」
「何ぞこれ!」
「一つ開けるごとに海岸中がどよめいた。すぐに役人が呼ばれ、金は無事、米に変わった。領民は飢えずに済んだ」
「添役はどうなったの? また何かした?」
「あれは半死半生の態で帰宅すると、しばらく寝込んだ。破魔矢が破魔矢がと、うわ言を言い続けた。仕事には復帰せず、任期半ばで四国を去ったが、江戸に帰ると、そのまま仏門に入ったらしい」
「高山数馬はどうしたの?」
「高山か。添役はおかしくなる。城内の侍は一晩に何人も姿を消す。幽霊船の船員は、離れ小島で発見される。何があったか取り調べても、竜宮城へ行っていた、鯛やヒラメと舞っていた。踊おどりじゃ、極楽じゃったと、とぼけている。監察使はどう出るか、俺たちも気を揉んだ。都から応援を呼ぶかとも思ったが、あの男は、特に何もしなかった。何事もないかのように報告も取り繕った。城主が無能で覇気もないので、追い落とす必要もないと思ったのか、そこは分からん」
「無能な城主って。仔犬の双子のお兄さんでしょ。本当は頭がよかったって聞いてるけど」
「そうかも知れんが、俺の目には未だに、趣味にかまけて無能のふりをする姿しか浮かばんのだ」
「ふーん。で、長壁姫はどうして神社からいなくなったの?」
「長宗我部の残党と付き合いがあると知られたからな。万一を考えた」
 万一のために、こんな遠くに引っ越すなんて、ずいぶん思い切った事だ。引っ越すだけでなく、原野を開いて村まで作った。しかも、二つも。 
 その内の一つが、トンネルから一望出来た。山裾に広がる、今では約三千人が住む竹脇村。
「四国から来て、あの村を作ったの?」
 仔犬が頷く。
 村の中央を、国道が通っている。あの道を北に進めば、黒流村。
「そうか。竹脇村は門前町なんだ。あの国道は参道みたいに、黒流村の長壁神社に続いてる。裏の山は非常用の早道。お地蔵さんや磐の石は、狸の目印」
 仔犬は無言で肯定する。
「長壁姫が一人で住むにしては、大がかりだね。村を二つも作るなんて」
「一人ではない。長壁一族はあらかた一緒に来たし、何人か、狸も来た。俺の育ての親の狸も一緒に来て、黒流山に住み着いた。廃村がその跡地だ。竹脇村には海賊たちが住んだのだから、特に大がかりでもあるまい」
「天堂は?」
「天堂は村が完成すると、四国に帰った。まだ帰らんと言う桂男を引き立てて、連れて帰った」
「優貴くんの先祖、ここが気に入ったんだ」
「そうだな。しかしあの男は、甲斐に来れば甲斐、江戸に行けば江戸を気に入り、その場所に留まろうとする。性格でもあろう」
「どこにでも馴染んじゃうんだ。あ、じゃあ、それでか。優貴くん、今も明のワンルームにいるから、何であんな狭いところにって思ってたけど、あれ、遺伝だ」
「だろうな。桂男もここを去る時、狭い仮暮らしから開放されて喜ぶかと思ったら、いつまでも名残惜しそうにぐずくずしていた。しまいには天堂に、仕事があるじゃろうと怒られて、無理に連れて行かれていたぞ」
「そんなに詳しく知ってるって事は、仔犬もここにいたんでしょ? 天堂と四国に帰ったの? それとも村に残ったの?」
 仔犬の記憶の中で、あざやかに花火が上がる。現実の風景と二重写しに、私の目にも花火が見えた。
「こっちの村も、お祭り騒ぎだったんだ」
 花火を上げたり、踊ったり。
 遠い時代の出来事が、目の前に蘇る。
 やっと少し元気が出た。ゆっくりと立ち上がる。ガクガクしていた膝も大分収まった。もう歩けるだろう。
「そろそろ仕事に戻ろうかな。ハンターを追いかけないと。まだ竹脇村にいるはずだから」
 トンネルから出ると、明るさに目が眩む。さっきこの場所で目をやられ、凪野んが転んでいた。
 彼は倒れながら、かすかに見える人影に叫んだ。助けてくれー!
 きのこ採りに来ていた竹脇村の老人会が、声に気づいて集まった。助けてくれ助けてくれ。そればかりを繰り返す凪野んから話を聞き出し、携帯を貸してくれた。
 ハンターが赤ちゃんの画像を見せると、一斉に役場や家族に連絡した。行方不明の赤ちゃんがいないか、問い合わせた。
 ハンターは言った。山で困ってたら、まともな人はそうやって助けてくれる。けど、黒流村は全然違う。コンビニなんか、平気でぼったくるし。何なんやあの村は。虫だらけやし。臭いし。根拠のない勘やけど、あの村に赤ちゃんの誘拐犯がおるかも知れん。いなくても、あの村はどっかおかしい。気味が悪い。とにかく黒流村には連絡しないでくれ。
 必死に訴える凪野んに、ほんなら、おらんとこに言っとくけんと、110番ではなく竹脇村の交番に電話をかけた。
 私はトンネルの中から、それを見ていた。
 山を降りて行く、凪野んと九人の村人たちを見送った。
 人影が樹々の向こうに消えてから、心細くなって仔犬を呼んだ。ほんの少し前の出来事だ。急げば追いつけるかも知れない。
 仔犬と二人、一気に山を駆け下りた。老人会が来るくらいだから、大した距離ではない。一瞬で村に着いた。竹脇村の交番の前に、人々が集っている。ハンターの姿もあった。人垣をかき分けて、側に行った。
 凪野んは村人に挨拶している。
「竹の子美味しかったです。ありがとうございました」
「山奥だから、あんなもんしかなくて、悪かったな」
「いえ、竹の子のおやき、美味しくてびっくりでした」
 今までご馳走になっていたのだ。お蔭で何とか間に合った。
「じゃあ、そろそろ行くかの」
 交番から、定年近い感じの駐在が出て来て言う。
「おう、ちっと行ってくら」
「おめえたちは、子供らをちゃーんと見てろし。何が起きてっか分からんで、用心するさ」
 老人たちは、停めてあった車に乗り込む。きのこ採りの九人全員が、黒流山まで来るらしい。
 見送る村人が、口々に喋っている。
「だから、おかしいと思ってたのよ。獣医しとる倅が、最近犬の怪我がやたら多いって言っとったしね。それも刃物の傷。誰か人間がやってんのよ。気味悪いねえって言ってたら、今度は犬じゃなくて人の子だって」
「嫌な話だよねぇ。一体どうなってんのかねぇ」
「これで全員車に乗ったか?」
「あ、一緒に行きます。彼の付き添いですから」
 そう言って、空いていたパトカーの後部座席に滑り込んだ。隣席のハンターは、何故か標準語で駐在に言う。
「これで全員揃いました」
 軽くクラクションを鳴らし、車を出す。駐在は窓の外の人垣を見て、呆れている。
「えらい集まったもんやね」
「みんな心配しちょるんよ。何しろ長壁長者の末裔が登校拒否で、担任が行方不明。こりゃ何かあると、誰しも思うさ」
「長壁長者って何です?」
 凪野んが助手席の老人に尋ねる。
「昔な、長壁一族が一日でこの辺りを切り開いて村を作ったっちう伝説があるんよ。大勢の坊さんを引き連れてな。若い衆は知らんと思うけんど、戦後の農地開放まで、黒流村は一村丸ごと長者の土地だったさ」
「へえ、そうなんですか」
 ハンターは微妙な標準語で話を聞く。
 サイレンなしのパトカーに乗り、車を三台連ねて、山奥の国道を走って行った。
 パトカーは地元のローカルラジオを流している。時々警察の無線も入るが、赤ちゃんの事件には触れない。追突事故、窃盗、コンビニ強盗。そんな情報ばかりだ。
 ラジオからは、威勢のいい方言で地域情報が流れる。
『ご当地情報その一でごいす! 今年はきのこが大豊作! 見た事もない大きさのジャンボ舞茸やらしめじやらが、県内あっちこっちで見つかっとう!』
「やっぱほうか。駐在よ、今日も山で、きのこがよう採れたぞ。後でちょっくら、分けてやろうかの」
『寒い寒い言うても、もう春なんやね。きのこシーズン到来らい。きのこちゅうもんは、軽くソテーしただけでも充分うまいからねぇ。天麩羅もいけるし、定番の炊き込みご飯とか、もう堪らんじゃんねー。なーんか、早めに昼を食べたせいか、もう腹減って来たな。でもまだ一時だよ。こりゃ、一体何の時差ボケやろね』
「赤ちゃん発見のニュースは、やらないんですかね」
 凪野んが駐在に尋ねる。
「ニュースになるのは、警察から記者クラブに情報が行ってからだよ。さっき署に連絡したから、現場に署員が来て、検証が済んで、その後だから、早くても夕方だね」
「記者クラブ? 自分らで取材とか、しないんですか?」
「昔はそんな記者もいたかも知れんが、最近じゃそんな話、とんと聞かんね」
「そうなんや・・・。あ、望月さん、また携帯貸して貰えます? 度々すみません」
 紗依ちゃんと同じ名前の村人に、凪野んは携帯を借りる。自分のサイトでライブ映像を見ている。誰かがこの子を連れ去らないか、心配なのだ。
「ちゃんとここにいたわ」
「ほうだな。ほしたら、わしにも見せてくれ」
 望月老人は、眼鏡をかけて動画に見入る。
 小さな画面の中で、赤ちゃんは静かに眠っている。
「何ちゅう可愛い顔や。見てみい、この丸い頬ぺた。こりゃあ、一歳になるかならんかやね。うちのひ孫も、去年辺りはこんなやった。その内歩き出すと、顔もほっそりしちもうし、小うるさい口もきくようになるが、こん頃言うたらもう、可愛いだけじゃ」
 老人が携帯を畳むと、後はもう喋る人もない。
 この先カーブ。黒流村まで後二キロ。国道沿いの案内を、ただ黙って見続けた。   

《続く》

ぼくがここにいるよ《前編》

後編に続きます

ぼくがここにいるよ《前編》

日比谷に現れる千の人魂。憑依されて叫ぶ少年。新宿から特急で90分、そこはオカスポの聖地だった。後から後から死体が出て来る。カルト蠢くかの地は死体ホイホイなのか?麩菓子を持ったコスプレ集団が謎を暴きにやって来る!

  • 小説
  • 中編
  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日
2012-04-21

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