青椒

 壁は、もうその街の一キロ近くまで迫っていた。
 海辺の街だった。壁は海の向こう側の国にも迫ってきていて、すくない残りの土地をめぐって無益な争いがつづいているらしかった。鈍色の海と、赤く燃え上がる対岸の街の火を眺めながら、彼は育った。

 窓の外を眺める。もう何の希望もなくなった街の灰色の海辺で、幾人かの子供がボールを蹴っているのが見えた。不思議と白々しさは感じられず、彼は久しぶりに安らかな気分になった。やがて終わりがくるという事実は、日常の営みを止める理由にはならない。

 子供の頃は、ヒーローの話が嫌いだった。彼らが華麗に悪を倒すのを見るたびに、やがて傷つき、倒れ行くみじめな姿が目に浮かび、嫌な気分になった。彼は惨めさを、弱さを、やがて来る崩落の瞬間を憎んだが、自分がそこから逃れられないことも知っていた。
 街はその日常性を必死に維持しようとしていた。狭苦しい公営住宅も、海沿いの高級住宅街も、彼が生まれたころと殆ど見た目は変わっていなかった。潮風に痛んだ剥き出しのコンクリート。金のない、共産国じみた街並み。色あせた原色の映画のポスター。人生に疲れた労働者たちが、小さな背中を窮屈そうに丸めてぞろぞろと歩いていく。だが団地は耐火性能と高射砲を備えていたし、家々の地下にはシェルターがあった。それでいて人々は壁の存在にまつわる全てのことを忘れ去ろうと努めていた。
 無骨なオフィスに座りながら、彼は地下に広がる工場と、いずれ操縦することになる兵器のことを考えた。死にゆく街の、最期の公共事業。おそらくは何の役にも立たぬ巨大な鉄塊が生産されようとしていた。
 彼はブラウン管に向き直り、コクピットを模した貧弱なコンソールと、位置取りを示す赤い輝点を見つめる。ここで訓練を始めて、一年以上の時が経った。まだ知らないその機械の操縦について、彼は誰よりも精通するようになっていた。だがその間にも「壁」は着実に成長を続け、全世界で二百五十の都市と、数千万の人々を飲み込んでいた。審判の日が近づいているのは明らかだった。

 直通の電話が耳障りな音を立て、彼はコンソールから身を離した。深呼吸をして、電話に向かう。目を瞑り、ゆっくりと子機を取ると、長官の低い声がした。
「機械が組みあがった。もう時間がない」
 彼は深く息を吐いた。

 はじまりは例によって、小型の隕石だった。何の前触れも留保もなくそれは某国の都市部に落下し、一瞬にして街をのっぺりとしたクレーターへと葬り去った。混乱のなかで、犯行を自称するテロ組織が現れ、敵国の戦術核ではないかという説が流れ、否定され、果てはタングステン製弾体を用いた軌道兵器ではないかという説が流れた。あらゆる疑惑が水泡に帰し、何らかの隕石であったという説が有力視されるようになったところで、それは始まった。
 爆心地が奇妙な隆起を見せはじめた。岩は塔となり、塔は周囲のあらゆるものを取り込みながら、灰色の鈍い光沢を放つ構造体――壁――へと姿を変えていった。それは丁度、培地に放たれた粘菌を思わせた。壁の成長を押しとどめようとするあらゆる努力は水泡に帰し、皮肉にもそのたびに壁は少しずつ成長した。ありふれた山、森、都市、逃げ惑う動物、陣形を組んだ戦車隊、放たれたミサイルまでが吸収され、壁の一部として再構成された。
 それから何十年もの歳月が流れたが、壁について詳しいことは未だわかっていなかった。それはある一定以上の接近を一切阻み、疎通のための努力はすべて水泡に帰していたからだ。検証が不可能である以上、あらゆる仮説は無意味だった。宇宙人のコロニーを建設するための一種の機械なのではないかという説が流れ、何らかの生命体なのではないかという説が流れた。ずいぶん前に、彼は上空から見た壁の写真を見たことがある。それはどこか迷路か、平らにのばした脳を思わせた。それは壁の成長パターンについての知識を与えてくれこそすれ、その意図については何の知見も得られなかった。

 アパートまでの人気のない通りを、彼はゆっくりと時間をかけて歩いた。暗い顔をした雑貨屋の店主が、暗い店の奥で一瞬訝しげに顔を上げ、また俯く。何をする気も起きないのに、何もしないのはあまりに惜しい気がした。さりとて、何かできるというわけでもなかった。

「すみません、庭木鋏が欲しいんですが」
 雑貨屋が怪訝そうな顔で彼を見た。
「……」
「庭の木が伸びて困ってるんです」
「……五リアム。兌換紙幣で」
「どうも」

 塵紙。ろうそく。庭木鋏。使うことのないがらくたを彼は買い漁った。ただ、自分と何の関係もない人と、自分と何の関係もない話がしたかった。
 あらためて見れば、緑ばかりが鮮やかな街だった。アパートの窓から、生い茂る蔦と、いつ建てられたとも知れぬ建物の崩れかかった装飾が覗いていた。彼は微笑んだ。貧困が保存する景観。かつては、出ていくことしか考えていなかった。だが諸々のすべても今日で終わりなのだと考えると、それも愛しかった。

「なあ」
 彼は声をかける。ベッドの向こう側で、女が身じろぎをする気配がする。
「俺は農家になりたかったんだ」
「……」
「北のほうでさ。夏のあいだじゅう、ビートと向日葵を育てるのさ。一面、半径百キロメートル以内には、もう畑と農家しかない。きみも、一度見てみるといい。見渡す限りどこまで進んでも、黄色ばかりなんだ。何度も上空を飛んだが、あれはすごい光景だぜ。あの中で暮らす。夏が来れば、花が咲く。いつだって同じだ。もっとも、奴らは花を育ててたわけじゃない。種から油をとるんだ……」
 彼は水軍時代のことを思い出していた。水軍にいた頃には、飛行機も飛んでいたし、壁の侵攻は大陸を抜けてはいなかったし、未来は希望に満ち溢れているように思えた。国境付近の巡視は、結果的にいつも向日葵畑の上を飛ぶことになった。かつては同僚と、いつ果てるともしれない畑の上を飛んだものだった……。
「でも、あなたは農家にはならなかった」
 彼女は穏やかに言った。眠たげな声だった。
「ああ」
「それでよかったのよ。あなたは。それで……」

 彼ははっとした。結局のところ、そうした言葉さえあれば、もうそれだけでよかったのかもしれないと彼は思った。
 彼は起き上がる。彼には、律動する壁の存在がひしひしと感じられた。対”壁”用の城壁も、長くは保たない。やがてこの街は跡形もなく消えてしまうだろう。女も、自分のことを覚えている人間も。何も遺せはしない。後には、灰色の壁だけが残る。

 まだ九月だというのに、夜風は刺すように冷たい。士官は背中を丸め、官給のコートの内に身を縮めた。夜警の仕事が忙しかったのはもう昔のことで、街は一時的な落ち着きを取り戻したらしかった。何もない時には、気楽な仕事だ。平穏な夜の街を、ゆっくり見て回るだけ。引退した身にはちょうどいい仕事量だ。ランプを詰所の壁に掛け、窓際の椅子に腰かけると、彼は交代の人員が来るのを待った。
 耳を澄ますと、壁の成長する音がかすかに聞こえた。街の向こうの何千キロメートルに亘る平原で、迷路のような壁が毎晩少しずつ、少しずつ伸びる。微かな、何かが砕けるような音が連鎖し、積み重なり、低い音となって響く。
 狭窄した南側の補給路が寸断されるところから、破滅は始まるだろう。陸側にはもう逃げ場がない。対岸への移住は不可能だ。終わりは手を触れられそうなほど近くに迫っていた。

 ふいに地面が揺れ、足の下を轟音とともに何かが通り過ぎていった。どうやら地下の軌道が動いているらしい。いよいよ始まるのだと思った。電源を落とした詰所の中で、彼は祈りを捧げた。静かな街と、かすかな壁の音だけが残った。

 軌道の終点は、壁を目前に控えた緩衝地帯に設けられた。廃墟と化した市街地の中、倉庫を模したプラットフォームで、ディーゼル車で牽引された巨大な鉄塊がゆっくりと身をもたげる。
 それは、機械と呼ぶにはあまりに巨大すぎた。
 機動性は必要なかった。必要とされたのはただただ巨大で、頑丈で、重厚であること。まっすぐに、何の迷いもなく、危惧もなく、壁面にむけてそれは歩みをすすめる。四千四百万馬力のエンジンに駆動された右腕が灰色の整形された壁面に激突し、一瞬、内部の血管めいた配管が露わになった。だが、それがその機械にできる全てだった。数秒のあいだに壁は外敵の存在を認識し、対処を開始したらしかった。すぐに壁との接点から熱が伝導し、機械は飴細工のように熔解していった。右手、左手、メインカメラ、未展開の脚部、エトセトラ、エトセトラ。

 すべてが終わったとき、そこに何かがあったのだということすら、もう覚えている人はいないだろう。忘れ去られ、吸収され、宇宙の塵となって霧消する。だが、それが何だというのだ? 死は、蓋し今よりも大きな循環に取り込まれることでしかない。どのみち、死んで五十年もすれば、もう誰も覚えていないのだ。今さら、誰がそんなことを気にするだろう?

 空は赤黒く染まっていた。圧倒的な壁の前で、赤熱し、どろどろに溶けた鉄塊が動こうともがくのを、死んでいないあらゆる人々が見守っていた。路上から、あるいは嘗ての集合住宅を模した防空壕の中から、あるいは白々しいまでに平和な風を装った、戸建てのシェルターの中から。

 機械は背伸びをするかのように、その人に似た巨体をもたげた。脚部を展開しようとしているのだ。今のままでは、何をするにも絶望的にリーチが足りない。垂直方向にあと百メートルは稼がなくては、あの壁の向こう側に行くことはできない。

「だが、それでも」
 コクピットの中で、破壊され、溶解し、最早何の攻撃手段も持たず、赤熱した無用の鉄屑と成り果てた物体の最深部で、彼は操縦桿を握るのを止めない。左フット・レバー。足周りのブレーキシステムをオン。損傷状況を確認しようとして、止める。左変速を最速に入れようとして、もうそんな物はとっくの昔に前に蒸発していたのだと気づき、彼は舌打ちする。

 それは立ち上がろうともがく。だが立ち上がったところで、上腕はどろどろに溶解し、もはや何を掴むこともできそうになかった。右手に至ってはもうどこにも見あたらなかった。向こう側へ行けるはずがないことなど、彼にしろ、彼らにしろ最初からわかっていたのだ。壁は、永遠にその鈍色のなめらかさを保ったまま彼らを飲み込むことになるだろう。最初にあの金属体がやってきたときから、そんなものは死ぬほどはっきりしたことだった。それでも、これは彼らにとって必要な物だったのだ。そしてそのために、そのためだけにそれは作られたのだ。

 巨人は辛うじて無傷だった左足を一歩踏み出し、未だ遙か彼方に輝く向こう側の空に向かって左手を伸ばした。彼が守れなかった数千の目が、祈るようにその手を見つめていた。

 死んだような静寂の中、光速の十パーセントまで加速された船体は、船体を破滅に追いやる微細な振動を制御しながら、星系を横断する過程にあった。
 好きで入った稼業でも、今回ばかりは退屈な操業と言わざるを得ない。となりのメルキア星人はまったくもって詰まらないやつで、口を開けばメルキア星のことばかり。思考は乱れがちで、その原因が彼(あるいは彼女)が常用している何らかの薬物にあるのは明らかだった。
 せめてひと眠りしようと目を閉じたとき、副操縦席から奴が顔を出し、私の頭をつついた。六十四個の眼体が、いぶかしむように細められている。
 ”おい、地表のあたりを見ろよ”
 身を乗り出して、サブモニタに投影された地表を眺める。だが、目的地でも何でもない数千リーグ先の星の地表の映像に、純粋な暇つぶし以上の意図があるとは思えなかった。このあたりならどこでも同じ、鈍色に輝く迷路のような遺構。用途は今もって分かっていない。迷路のあるじはとうの昔にこのあたりを引き払ったらしく、今となってはもう何の反応もなかった。見慣れてしまえば代わり映えのしない、つまらない光景だ。機能的、精巧で無駄がなく、何者も必要とせず何者をも拒絶する、完成された完全。
 ”完璧だ”
 ”否そうじゃない、今何か--”
 メルキア星人は眼体をしばたかせた。星はもう遙かかなたに遠ざかっていた。 〈了〉

何の希望もない街で、それでも彼は戦うのを止めない。なめらかな鈍色の壁に、自らの痕跡を残すために――。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • アクション
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-30

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