孤笛

 車は細管の集合帯をひどくゆっくりとした速度で通り抜けていった。
「大鳴まで、もうあまり時間がないね。」
 御者は奇妙な抑揚で話した。きっとこれが<管>訛というやつなのだろう。背丈は私の半分ほど、ガスマスク越しの顔は煤でくすみ、よく見えない。
 管の中は完全に外界から遮蔽されているため(そうでなくては我々は即座に凍死してしまうだろう)ひどく薄暗かった。点在するアーク灯の橙赤色の光のなかを、あいもかわらず御者はゆっくりと進んでいく。私は私の下でのろのろと歩く灰色の生き物に目をやった。
 体長は私よりも二周りほど大きい。手足は細長く、やけに人間に似ている。ちょうど両手で握れるぐらいの角がついていて、御者はそれを労るようにそっと握っていた。もしかしたら、死滅した偶蹄目の生き残りというやつなのかもしれなかった。我々のものよりもずいぶんと細長い頭には、ちゃんと専用のガスマスクが装着されていた。

「こいつにもちゃんとマスクをつけるんだな」
「当たり前だ。これがなけりゃ、煤ですぐに死ぬ」
 御者はこともなげに答えた。
「もう少し、早く進めないのか」
「もう年なんだ。昔はよくこいつと煤煙帯の向こう側にまで遠出したもんだが」

 やがて足下の管が合流をはじめ、我々がいる管も左右のいくつかの管とつながった。道の傾斜は徐々にきつくなり、道幅はより広くなっていく。年来の目標がとうとう叶いつつあるのだと思うと、私は高鳴る胸を押さえることができなかった。
 無限に上へと延びるかに思える細管の向こう側には、いくつかの管内集落の放つ光が小さく瞬いているのが見えた。熱源のあるところにコロニーが生まれる。海底火山の硫化水素に生物が群がるように、この一帯の人間は<管>を駆動する気圧弁からガスを抜き取って暮らしている。煤煙にくすみ、膝を立てて眠るような居住区画のなかで、ひたすらに今日を生き抜くことを考えながら。私は懐かしさに疼く胸を押さえ込み、ひたすら目の前の暗闇を、まだ見ぬ上へ、上へと続く管の行く先に目を凝らした。
 遙か下、私がその中の一つを出てから、もう数え切れぬほどの時が経った。私は老いたし、きっと私の家族は死に絶えたことだろう。しかし私はなんとしても上へと上らねばならないのだ。
 前方へと続く管が途切れた。目の前の暗闇の向こう側に、我々の前方に広がる管へとつながるいくつもの管のアーク灯の光が見えた。放射状に広がっていた無数の管が一つの、上へ上へと延びる太い管へと集約されているのが分かった。いよいよ、外界がすぐそこに迫っているのだ。御者はものなれた様子で、彼の生き物を促した。それは長く変形した蹄を錆の浮いた階梯に一段一段引っかけ、上へと上っていった。
 集約管に入ると、急に温度が下がるのが分かった。吐く息が白くなる。おそらく、管の熱源効果が薄れているのだろう。もう数百メートルも上れば、我々は生きてゆけなくなるに違いない。我々を運ぶ生き物も、明らかにふるえているのが分かった。
「で、どこまで行くのだ」
 御者がぶっきらぼうに聞いた。
「行けるところまで行ってくれ」
「こいつは、そろそろ無理だと言ってる。もう数十メートルで小さな待避区画がある。そろそろ時間も、本当にまずい。大鳴に巻き込まれたらおしまいだ。俺たちに行けるのはそこまでだな」
 約束通り、我々はその待避区画で別れた。私は約束の金額を払い、彼はまた下の居住区画へ、煤煙と暗闇の世界へと戻っていく。
「無事、帰れることを祈っている。そいつも、達者でな」
 別れ際、私はその生き物の頭をなでてやった。
「早まるなよ」
 御者は何かを悟ったかのようにそう呟いた。私は笑って答えた。どのみち、もう永くはないのだ。

 寒さは耐えがたいものになっていた。かなりの重装備で来ているにもかかわらず、梯子を一段上るたびに全身の皮膚がきりきりと痛む。限界が来ていることは明らかだった。ふと頭上に目をやると、視界の中央、はるか向こうにぽっかりとした空白が開いているのに私は気付いた。それがあれほど追い求めていた空、そのために人生を擲った空なのだと気づくのには、かなりの時間がかかった。しかしそれはまさしく空というべきものだった。

 集約管の梯子の最後の一段を踏み越えたとき、地響きのような音がかすかに聞こえた気がした。少しの間があって、ガスマスクでは防ぎ切れぬほどの大量の煤煙が下から吹き上げてきた。視界が煤で煙り、まともに前が見えなくなる。どうやら、大鳴が始まったらしい。掴まっている梯子が音に呼応するようにぶるぶると震えた。この一帯の全ての管に煤煙が通じ、それぞれの周波数で共鳴しているのだ。私の聞いているこの音は、きっとあらゆる階層の人々の耳に届いていることだろう。私は御者の集落のことを考えた。村人は中央の大広間にすし詰めにされ、長老が代わり映えもせぬ、世界の終焉の歴史を何百回目かに繰り返していることだろう。その中にはきっと、御者とあの生き物の姿もあるに違いない。そう言えば、あの生き物が鳴くのを、私はついぞ聞くことがなかった。だがもし鳴くとしたらきっとこんな声で鳴くに違いない。
 慎重に梯子を上りきり、煙突の縁に手を掛け、懸垂の要領で体を持ち上げる。目の前には、かつてあれほど恋い焦がれた真の世界がその荒涼とした姿を晒していた。煙突のへりに腰を降ろし、私は顔を覆っていたガスマスクを放り投げた。私はマスクが弧を描き、無限に広がる滅亡した世界の中に吸い込まれていくのを見た。それが、私の目に映った最後だった。
 薄れていく意識の中で、私は滅亡した世界に佇む、無数の煙突の咆哮を聞いた。それは終焉する世界を悼むように、人一人としていない世界の中で、いつまでも哀切に響きわたっていた。<終>

孤笛

孤笛

三題噺:煙突/角/御者

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted