藤吉の夢

青椒

 籐吉は海に生きていた。
 彼はひどく老いていた。日に灼けた体には無数のしわが刻まれ、皮膚ガンを思わせる黒いしみが体のあちこちに浮き上がっている。手や足は針金のようにやせ細っていたが、網をたぐることや、櫂を操作することに関しては、まだ完璧にその役目を果たしていた。
 皺に埋もれた小さな目は異様なまでに鋭く、見る人を何かぎょっとさせるような力があった。偶に彼に話しかけようとする者もいたが、彼の猛禽のような鋭い目に見つめられると、決まってそのまま黙り込んでしまうのだった。実際、お互いに話す内容など無かったのだ。籐吉は村の生活などに興味はなかったし、村の人間にしても彼に興味をもつ理由はなかった。そんな様子だから、彼に寄りつく人間は皆無と言ってよかった。彼は海辺のあばら屋に一人で住んでいた。かつては妻子がいたという噂もあったが、その当時のことを直接知っている人間は、みな呆けてしまったか、数年前の疫病でとうに死に絶えてしまっていた。

 籐吉は村の漁師の中で一番早く船を出した。かといって特別漁に熱心だったわけでもなく、何とか生活できる程度しか魚を捕らなかった。籐吉はただ海に出たかったのだろう。毎日、雨の日も風の日も、漁に出ることが出来るぎりぎりの天気まで、彼は海に行こうとした。それが叶わない日は、堤防の上から、あの鋭い目で荒れ狂う海をじっと見つめていた。

 その日も、籐吉は真夜中過ぎに家を出て、少し離れた船着き場へと向かった。
 人気のない真夜中の港は、もう夏だというのに少し肌寒い。雲間からは、やせ細った月の光が覗いている。彼は船着き場の端まで行ってもやい綱をほどき、小さな手漕ぎの船で海に出た。
 海は凪いでいた。波が船に当たる音と、籐吉の櫂が立てる水音の他に、物音は一切聞こえない。つめたい潮風が、籐吉の頬をなぜた。はるか向こうに、灯台の光と、陸の明かりがかすかに見えている。籐吉は何かを探すように暗闇の中に目をこらした。こんな時間にこの海域をうろついているような船はまず居ない。居たとしても、海軍の巡視船ぐらいのものだろう。籐吉にしてもそんなことはよく分かっていた。だがそれでも彼は探すことをやめなかった。
 やがて、夜明けの赤黒い朝日が登り始めると、彼は追い立てるようにして網を畳んだ。夜が終わる度に、彼は一回り小さくなったように見えた。希望が失われていくのだ。見上げると、鰯や飛魚を狙う鳥が飛んでいるのが見える。辺りには鳥の鳴き声だけが響いていた。うら寂しい声だった。彼は仕掛けが海の中で見えなくなるあたりをじっと眺めた。出てきたばかりの太陽が、海面をさまざまな色で照らす。空は複雑な色に染まり、刻々と変化していく。海の中にうっすらと光の筋が走る。仕掛けを持ったまま、彼はじっとそれを眺めた。しばらくして日が完全に昇ってしまうと、彼はまたゆっくりと舟を漕ぎ始めるのだった。
***
 漁が終わると、藤吉はいつものようにまっすぐ家に帰った。あばら屋の戸をあけると、見慣れた部屋の風景が目に入った。濃密な孤独の香り。昨日のままの欠けた器に、米粒が一つ残っている。食事をとらなくてはいけないと思った。後で市場にでも行けば何か分けてもらえるだろう。年をとれば、まあ、そんなものだ。
 明日の朝まで、特にやることもない。彼は縁側に腰を据えて、いつものように網の手入れを始めた。あちこちが擦り切れかけ、色あせてはいたが、新しいものに変える気はなかった。蓋し、長く生きるというのはこういうことなのだ。継ぎ目を直し、ほつれを解き、そうやってあれこれ世話をしているうちに、気づいてみれば網は元とは変わり果てた姿になっている。あるいは彼の人生がそうだったというだけかもしれない。ほつれを直す人生。もう不満も感じなかった。網と違って、人生は換えが利かないのだ。
 ぼんやりと空を見上げると、幾重にも重なった入道雲が見えた。夏が来たのだと思った。村のほうの林から、蝉の鳴く声が聞こえていた。
 藤吉は縁側でキセルを吸いながら、直らないほつれを直そうとし続けた。庭先の照り返しの光にまどろんだ頭に、浜辺で騒ぐ子どもたちの声がぼんやりと響く。たぶん貝を掘っているのだろう。
 軒下に吊ってある風鈴が涼しげな音を立てた。外はうだるような暑さだ。藤吉は諦めて横になった。彼はふと、父親と凧を上げた日のことを思い出した。遠い昔、まだ彼の背が父親の半分もなかったころ、彼はよく凧で遊んだものだった。場所はどこだっただろう? あれもたしか夏だった。芝生の上、木の下に風呂敷を広げて、二人で黙々と弁当を食べたのを思い出す。蚊帳の中の夜、夏祭りの夜、夜の村の、どこかほっとするような感じ……。
 いつしか彼は眠ってしまった。

 藤吉は夢を見ていた。
 夢の中で彼はまだ若く、一人で船を漕いでいた。ものすごい嵐の晩で、手元さえはっきり見えない。明かりはとうに消えてしまっていた。暗闇の中で藤吉は必死だった。大きな波が何度も何度も打ち付けてきて、小さな船の中には徐徐に水が溜まってきていた。水をかきだすことは随分前に諦めていた。彼はただ船を転覆させないことだけに全力を注いでいた。知らないうちに随分と流されてしまったらしく、岸の明かりも見えなくなってしまっていた。藤吉はもう自分がどちらを向いているのか分からなかった。彼はどこかに星が見えないものかと懸命に目を凝らした。
 ふと、視界の隅に妙なものが見えたような気がして、彼は横を向いた。目を凝らすと、ほのかな明かりがこちらに近づいてくるのが確かに見える。藤吉は無性に怖くなってきた。そういえば、こういう晩は妖怪が出るんだっけ。
 なすすべもなく波にもまれているうちに、明かりの全体像が見えてきた。
 それは丁度、屋形船を大きくしたような構造をしていた。両脇には吊り灯籠のようなものが並んでついており、暗闇の中にぼんやりとした光を投げかけている。ひどい嵐にもかかわらず、船はほとんど揺れていなかった。内側は部屋になっているらしく、話し声らしきものも聞こえる。甲板の扉から、細い光が漏れていた。藤吉は舵をとるのも忘れて、その船に見入った。海の音が遠くなった。灯篭の火が風で揺らぐ。何度目を擦っても、目の前の船が消えることはなかった。船の中から聞こえるざわめきも止むことがない。明らかに人のものではないなと藤吉は思った。不思議と怖さは感じなくなっていた。
 がたがたと音がして甲板の扉が開き、五十がらみの小柄な男が甲板に出てきた。どこかで見たような顔だ。こちらに向かって、しきりに何か叫んでいる。
 藤吉は吸い寄せられるように船を寄せていった。近づくにつれて男の声が聞こえてくる。
「藤吉ぃ!大きくなりよって。みんな元気にしとるか」
「長さん…!」
 藤吉は驚いて声も出せなかった。彼は藤吉の伯父だった。小さい頃、経験の浅かった藤吉に漁師としての技術を教えてくれたのは彼だった。やに臭く、ごつごつした彼の手はまだ少年だった藤吉には何処か羨ましく見えたものだ。だが、彼は何年も前に嵐で行方不明になっていたはずだ。
「お前も立派な漁師になった」
 長さんはしみじみと、どこか寂しそうに言った。
「そんなことより、早くこっちに」
 藤吉は急いで叫んだ。でも長さんは首をふるだけだった。お前はまだここに来るべきではないとでも言うかのように。
 籐吉は流され始めた。必死に追いつこうとしたが、差は広まるばかりだ。諦めて戻ろうとしたところで、彼は自分の船がもうどこにもないことに気づく。彼は落ちていった。落ちて、落ちて、落ちて……

 籐吉ははね起きた。あたりはもう真暗だ。子供の姿はもうない。あばら家の隙間から、生暖かい海風が吹き込んでくる。彼は震えていた。今日は長さんだった。明日は誰だろう。

 徐々に笑いがこみ上げてくるのがわかった。こんなものが存在しないことなど最初から分かっていたのに。頭の中の幻想を信じるようになってもう何年たっただろう。
 藤吉は死ぬのが怖かった。高波に持ち上げられた時など、あまりの高さに気を失いそうになったことも一度や二度ではない。その度に、彼は生きていると感じた。ヒリヒリとした生の実感が彼の体を満たしたものだった。
 彼は這うようにして寝床に入った。悪寒が止まらなかった。彼は絶えがたいまでに一人だった。どこで間違えたのだろう。人恋しさが耐えがたくなると、きまって船を出したものだった。本当は陸になど帰りたくなかった。彼を気にかける人も、彼が気にかけていた人もみな死んでしまっていた。父親も、母親も、四人いた兄弟も友達も嫁も息子も。
 俺ももうすぐ死ぬだろうと藤吉は思った。死ねばどこに行けるのだろう。どこにも行けはしないと彼は思った。死後の世界など彼は信じていなかった。死んでしまえば、魚の餌になるだけだ。長さんだって魚の餌になったのだ。彼は小さな寝床の中で耳を澄ました。外は不気味な沈黙を保っている。部屋に充満した虚無に押しつぶされそうだった。彼はまた起き上がって漁の準備をした。何かをしていないと耐えられそうになかった。
 海は静かに凪いでいた。夏とは思えないほどの寒さだった。暗く非情な海。海は情けをかけてはくれない。彼は祈るような心地で船を進める。櫂を握る手が白くなっていた。彼は暗い海を明かりも付けずにひたすら進み、かつてあれほど恐れた、やがて来るはずの大波が彼を殺すのを待った。

 だがいつまで経ってもそんなものは来なかった。

 彼は死ぬ思いで櫂を動かし続けた。村の明かりが遠くなって、やがて見えなくなった。いつしか風は弱まり、止まっていた。彼の立てる波音ばかりが浮いて聞こえた。藤吉はやけになって、漕いで漕いで漕ぎ続けたが、そのうちに馬鹿らしくなってやめた。櫂を放すと、静かになった。空には雲一つなかった。綺麗な三日月が出ていた。
 藤吉ははっとした。これぐらいの刻の凪いだ海を、彼は久しく見ていなかった。漁に出るには早すぎ、漁から帰るにはあまりに遅すぎる時間。彼は孤独を忘れて海に見入った。海が彼を包み込んでいるように彼には感じられた。もう、どこにも行けなくていいのだと思った。海は、海だけは、最期まで彼のそばにいてくれるだろう。いつしか船が沈み、彼がその循環の一部になるまで。
 彼は船の上に大の字に寝転がって、空を眺めた。数え切れない程の星が、藤吉の真上で輝いている。村の明かりはもうどこにも見えない。自分がどこにいるのか忘れてしまいそうだった。だがそんなことは全く些細なことに思われた。彼は体内を駆け巡る多幸感に身を任せた。
 藤吉はゆっくりと息を吐いた。
 今の彼には、それで十分だった。 <了>

藤吉の夢

当初は老人と海的なアレを目指していたはずなのだが、執筆期間が長くなりすぎてよくわからなくなってしまった。

藤吉の夢

ありもしない救いを求めて彼は海に出続け、そしていつか死ぬ。

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-30

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