9月のひまわり

9月のひまわり

 電話、メール、LINE…。
 通信技術がいかに発達しようとも、コミュニケーションの本質は変わらない。
 私たちが血が通った人間でいられるうちは。

第一話

7月3日

2:00 
おひさ~ 
半年ぶりだねっ 
元気してる? 

2:05 
失礼ですけど 
どなたか分かりません 

2:07 
えー 
名前出てるでしょ? 

2:10 
すいません 
名前に絵文字しか入ってないので分かりません

2:24 
ごめんなさい!
伊東唯です
半年くらい前にオールして 
ダーツバーで 
10人いたとき 
憶えてる? 

2:29 
あー唯ちゃん 
思い出した 
朝までコースだったね 
ボウリングじゃなかったっけ 

2:33 
よかったぁ 
名前言ってもわかんなかったら 
チョーショックとか思った(笑) 
最初に会ったのダーツバーだよ 
うちら4人で ヒデくんたち6人で 
いつのまにか一緒に遊んでて(笑) 
盛り上がってボウリングいって 
カラオケいって 
居酒屋いって 
帰るとき お昼すぎてた日あったじゃん 

2:37 
完璧思い出した 
思い出したけど思い出せない 
居酒屋のときとか全然記憶ない 
LINE登録してたんだ 
唯ちゃんが面白かったのは憶えてる(笑) 

2:39  
いちばん面白いのヒデくんだったんだぞ(笑) 
みんなのLINE教えてよとかいって~ 
ヒデくんさ うちとだけやって 
また飲み入るし 

2:41 
俺やりそー 
偉いぞ俺(笑) 
唯ちゃんとまた会いたいと思ってたんだよね 

2:43 
うそっぽ~い 
でも嬉しい 
なんか急に思い出してさ 
連絡してみた 
夜中にごめんなさい 
返信ありがとう

2:49 
いつも起きてる時間だから 
気にしないでいいよ 
ありがとう 
また遊びに行こうよ 

2:50 
やったぁ!
いく 
遊びにいく 
スケジュール確認するねっ 
また連絡する!

第二話

7月4日

2:00 
起きてる?
夏ね、チョー忙しくて 
9月になんないとムリ 
あぁぁうちの夏が~ 
海が~バカンスが~ 
もーサイテー(笑) 

2:04 
起きてるよ 
2ヶ月くらい休みなし? 
大変なんだね 
看護師だっけ? 

2:07 
おしぃ 
おいしゃさまだぞ 
チョー一流なんだぞ 
2ヶ月ってゆーか 
春からずぅぅぅぅっと 
9月はゼッタイ暇 
ヒデくんを9月予約します 

2:13 
医者なんだ!
忙しそうだな 
9月のご予約ありがとうございます(笑) 
土曜日でいい? 
曜日関係ないかw

2:15 
最初の土曜日がいい
空き室ありますか?

2:17 
空き室ご用意いたします(笑) 

2:18 
やったぁ!!
チョー楽しみ♪
ありがとう

2:20 
こちらこそ〜
ありがとう

第三話

7月4日

20:34 
9月の予定だけど、何しようか?
またみんな呼んでパーっといく? 

7月5日

2:00
返信遅くなってゴメン 
ん~~~ 
2人じゃダメ? 

2:09 
大丈夫だよ 
気にしないで 
ぜんぜん2人でOK 
彼氏は平気? 

2:11 
うちカレシいないよ~ 
ヒデくんはカノジョ何人いるの? 

2:13 
何人もいるかw
そもそも1人もいないよ!

2:15 
なんだぁ 
お互いさみしーもん同士じゃん(笑) 
堂々デートだねっ 

2:22 
デートだな 
デートって何するんだろう…
ディズニーランド行く? 

2:25 
買い物行きたい!
ぜんぜん買い物してなくて 
チョーストレス気狂いそ〜
買い物して映画見ておいしい料理食べて 
フツーのことしたい

2:29 
買い物する暇もないのか 
医者ってほんと大変なんだね 
よし!すっごい普通のことしよう 

2:32 
きゃー♡嬉しい 
ありがとう
フツーがサイコー贅沢

2:34 
絶対行きたいところとかある? 

2:39  
おまかせコースでお願いします♪
あ、でも、ひまわり見たい!
いちばん最初、ひまわり見に行っていい? 

2:45 
ぜんぜんOK 
ひまわり好きなんだ 
9月って咲いてる? 

2:48 
ありがとう
ひまわりチョー好き!
家の庭もひまわり畑にしてるんだよ 
うちのキャラじゃない?(笑) 
9月は終わりかけなんだけど、まだ大丈夫だと思う

2:53 
ひまわりは俺も好きだよ 
庭があるんだね〜
あ、分かった!
だから9月最初の土曜日か 

2:56 
正解w
夢みたい
ほんとに見れるかなぁ 
庭のひまわりは実家なんだけど 
夏は見に行けない 

3:14 
今ちょっと調べてみた 
9月も咲いてるね 
余裕だよ 

3:33 
そーだね!
ゼッタイ見れる 
ゼッタイ見にいくぞ~ 
おー!

第四話

8月14日

2:00 
お疲れさま
今日もお仕事がんばってる? 
おじいちゃん来ててね 
グチったら怒られた(笑) 
凹む~ 

2:09 
お疲れ〜
今日はあとちょっとで終わるよ 
肩こった…
愚痴って、次の22日のやつ? 

2:13 
肩もんであげたぁい♡
そーそー、不安だよ~ 
ひまわりデートがかかってるんだから!

2:15
おじいちゃん何て? 

2:17
まだまだこれからなんだから、しっかりしろだって 

2:19 
落ち着いてやれば大丈夫!
平常心だよ 

2:22 
ありがとう 
へーじょーしんへーじょーしん 
チョー難しいけど、やるだけやってみる 

2:41 
そんなに難しいの? 
交代してもらえないの? 

2:55 
かなーりキツイw
交代かぁ、それいいね!
ムリムリ(笑) 
でもゼッタイ成功するねっ 

2:59 
唯ちゃんならゼッタイ成功だよ 
間違いない

第五話

8月22日

0:14
いよいよ明日だね 
がんばれよ 

2:00
うん、ありがと 
がんばる 

2:22 
ね、聞いてもいい?
あのねヒデくん 
うちのこと好き?

2:49
唯ちゃん、今電話してもいい? 

2:51
ゴメンなさい
何回か試したけど、電話はムリだった。泣

3:07 
おかしいな、こっちから掛けても繋がらないよ
今から行ってもいい?
1分でも会えるなら 

3:13 
きゃー!
嬉しいこと言われそぉ 
聞きたい聞きたぁい 
声聞きたーい 
ね、うちはLINEでガマンする♡
ダメ? 

3:33 
唯ちゃん
好きです 
僕と付き合ってください 

3:35
はい。
私でよかったら 
私も英明さんが好きです 

3:37 
これからよろしくお願いします
LINEでゴメンね

3:41
こちらこそよろしくお願いします
ヒデくん、ちゃんと声聞こえたよ 
ありがとう
最後にいっぱい勇気もらっちゃった!

4:16
最後って何?

第六話

8月22日

22:35 
長引いてる? 
大丈夫? 

8月23日

0:45
終わったら連絡してね

2:00 
終わったー!ふぅ。。。
心配かけてゴメンなさい
終わってたんだけど、ちょっと連絡できなくて
うまくいったよ
ありがと 

2:03 
よかったー!
おめでとう
よくがんばったね
9月は大丈夫だね 

2:14
うん!
楽しみ♪
今日は疲れちゃった 
ねむ~い 
おやすみっ 

2:16
お疲れさま
おやすみ〜

2:29 
あ、ヒデくんも、毎日夜遅くまでお仕事お疲れさまです♡
じゃ 
おやすみっ☆

2:31 
ありがとう 
早く寝ろよ~w

3:47 
よふか

4:03 
よふか?
何だそれw

第七話

8月24日

2:00 
途中で寝落ちして送信しちゃったみたい。笑
てへぺろ

2:04
だと思ったw
何て書き途中だったの?

2:06
夜更かし、、うーん、忘れたw

2:16 
仕事中? 

2:18
しごとちゅ~ 
朝までねっ 

2:23
夜勤ばっかりだよね 
大変だね 
体調気をつけてね 

2:29
ありがと 
キヲツケマス 
でもね 
今日チョー体かる~い 
ふわっふわっ 
昨日すっっっっごい寝たの 
チョースッキリ 

2:35
よかったね~ 
やっと終わったし、緊張取れたんじゃない? 

2:39
そーかも!
生まれて初めて 
こんな!気分爽快!!!!!!!

2:41
テンション高っ(笑) 

2:43
早くあいた~い 

2:45
俺も!
電話もできないしな 

2:50
なんかムリなんだぁ 
LINEはできるのに 
休み入ったら機種変しよ 

2:53
電話できなかったのって、ケータイ調子悪いからだったの? 

2:55 
チョーだるくなって、ケッキョク電話できない。泣

2:57
ワケわかんないよw

3:00
うちも(笑)

第八話

8月28日

2:00
久々に実家帰ってきたよっ 
うちのカワイイ子たちまだ咲いてた!
和むわぁ~♪

2:05
ひまわり咲いてたんだね!
よかったね~ 
休み早くとれたの? 

2:07
そーそー、もー休みっ 
いぇーい!

2:09
デートまでに朝型に直しといてね(笑) 

2:12
そんなのお互いさまじゃん(笑) 
ってゆーかさ、うちくる?
もー休みだし 
いつでもオッケー 

2:15
いきなり実家?
ハードル高いな〜

2:18
いいのいいの♪
ヒデくんいい人だから 
ぜんぜんオッケー 
怖いのおじいちゃんだけだし大丈夫(笑) 

2:21
全然大丈夫な気がしない!
何故か俺も怒られそーw
今実家にいるんだ? 

2:24
おじいちゃん? 
お盆だけいる予定だったみたいだけど、まだいるしw
なんか最近監視されてる気がするっ 

2:30
孫が激務じゃ心配なのかもね 
よし、じゃ唯の家いくよ 

2:32 
やったぁ!
ほんと?
いつくる? 

2:40
今日ちょうど仕事区切りいいから、明日午前中打合せ行ってから、午後そのまま行くよ 

2:45
嬉しい♪
実家のんびりなんだけど…
タイクツ!ツマンナイ!
お母さんもお父さんもハルミもぜんっぜん喋ってくんないし、ご飯食べててもチョー暗いし信じらんない!
ヒデくん明るくしてw
早くきてねっ

2:49
ハードル上げたな(笑) 
仕方ない 
全部俺にまかせろ!

2:51 
もぉ♡
今のキュンときたぞ
全部俺にまかせろ、だって〜w

2:54
恥ずかしいよ!
今のは無かったことにw

2:56 
カッコイイよw
大好き!
ハルミにジマンしよっ 
明日まってる♪

2:58
よかったー。かっこよくてー。(笑) 
仕事終わったら電話するね

2:59
うん!

第九話

 「………」 
 「もしもし?唯?」 
 佐藤英明は携帯電話の通話相手に呼びかけた。 
 予定通りに仕事が片付き、これから伊東家へ向かうことを伝えるために、伊東唯へ電話をかけていた。 
 一度目は繋がらず、三分おきに電話をかけ続けて、四度目の発信でやっと繋がった。 
 感覚的に十秒ほど、相手が話し出す様子がないので、英明は自分から呼びかけてみたのだ。
 更に十秒、受話器から声は聞こえてこない。 
 英明はもう一度呼びかけた。 
 「もしもし?英明だけど。唯、聞こえてる?もしもーし」 
 「………」 
 「―あ、携帯調子悪いんだったっけ?参ったな。もしもーし、ゆーい」 
 「―――!」 
 受話器から、かすかに息をのむ声が聞こえた。 
 「唯?聞こえて―」 
 「佐藤さんですか?」 
 受話器の声は唐突だった。
 英明は混乱した。
 半年以上前に会ったときの記憶ではあるが、声の印象は唯のようで、しかしどこか違和感がある。
 久しぶりの声の会話ということで、改めて苗字を呼んだにしても、他人行儀で事務的な固さが妙だ。
 そして何より、声に警戒心が混じっているのだ。
 「あの、唯ちゃん?」 
 「………」 
 「あの―」 
 「佐藤さんなんですね」
 どうも会話が噛み合わない。 
 そして多分間違いない。唯以外の誰かが携帯電話に出たのだ。
 英明は相手の正体を確認することにした。 
 「失礼ですけど…」 
 「佐藤、英明さん、なんですよね?」 
 相手は英明の問いかけを無視して質問を被せてきた。
 英明は一瞬鼻白んだが、すぐに気を取り直した。 
 「そうです、けど」 
 受話器から大きなため息が聞こえてきた。 
 (いぶか)しむ間もなく、相手は早口で切り出した。
 「ごめんなさい、あの、私、お姉ちゃ…唯の妹の、陽美(はるみ)っていいます。携帯鳴ってて、勝手に出ちゃって、着信で名前出てたので、…なので、あの、私はお姉ちゃんじゃないです」
 「あ、妹のハルミさんですね。唯さんから聞いてます。初めまして」 
 「はい、初めまして、私も、お姉ちゃんから、聞いてます。佐藤さんのこと」 
 「それはどうも、えーと、よろしくお願いします」 
 「いえ、こちらこそ、です」 
 陽美の息遣いが受話器越しにハッキリと聞こえる。
 全速力で階段を駆け上がった時のような、荒い息遣い。 
 「あの、大丈夫ですよ。落ち着いて」 
 英明はそっと声をかけた。 
 「はい…、ごめんなさい。…落ち着きました」 
 陽美は何度か深呼吸して、平常心を取り戻したようだ。
 「お姉ちゃんの携帯に出たのはいいけど、焦ってしまって…」 
 「いやいや、まあ、びっくりしましたけど」 
 「えっと、お姉ちゃんですよね、お姉ちゃん電話出られなくて、あとで―」 
 「いや、あの、電話したのは住所聞こうと思って、今から行くので。ちょっと教えてもらっていいですか」 
 「住所…はい、住所ですね。いいですか?」 
 陽美は英明がメモを取る準備ができているか確認して、自宅の住所を伝えた。 
 「ありがとうございます。―なんだ、結構近かった」 
 英明は唯の住まいが郊外にあるものだと思い込んでいたが、陽美から聞いた住所は二十三区の中心寄りだった。 
 「今有楽町なので、すぐ着くって唯さんに伝えてもらえますか?」 
 一瞬間があった。 
 「分かりました」 
 英明は礼を言って通話を切った。 
 有楽町駅前。 
 一番気温が高くなる時間帯だ。 
 雑踏の中は日傘が目立つ。 
 残暑はまだこれからである。 
 マルイ前の広場に(たたず)んでいた英明は、携帯電話を胸ポケットに放り込むと、狭い空を見上げた。 
 雲ひとつない天気だが、青くもない空だ。くすんでいる。 
 べったりとした暑さの中、英明は思った。 
 やっと逢えるな、唯。

第十話

 「初めまして。どうぞ」 
 玄関の引き戸をそろそろと開けて、伊東陽美は佐藤英明を招き入れた。 
 「あ、どうも、初めまして。お邪魔します」 
 英明は多少気後れしながらも、伊東家の玄関をまたいだ。 
 英明が玄関に入ると、陽美は玄関の引き戸を閉じた。 
 陽美がサンダルを脱いで玄関を上がり、来客用のスリッパを用意している間、英明はキョロキョロと周りを見ていた。 
 ――旅館みたいだな、これは。 
 玄関だけで十分人が住めそうだった。 
 庭があることを知っていたので、庭付き一戸建てを想像してはいたが、伊東家はそれが四軒分はありそうだ。 
 家というより、屋敷といった方がいいだろうか。 
 門をくぐってから玄関へたどり着くまでの間の敷地にも、二軒くらい家が建てられそうだ。
 屋敷とそれを取り囲む塀はすべて瓦屋根でできており、由緒正しい日本家屋という佇まいだ。
 門にインターホンが付いてなかったら、危うく江戸時代に迷い込むところだ。 
 「あの、こちらどうぞ」 
 玄関へ入ってから動かない英明に、陽美は声をかけた。 
 手でスリッパを履くように促す。 
 「あ、はい、どうも。失礼します」 
 周りに気を取られていた英明は、慌てて陽美に視線を戻した。 
 「こんなすごいお屋敷は予想してなくて、びっくりしました」 
 英明は取り繕うように言った。 
 「古クサイ家ですよね」 
 陽美の声には、羞恥心が混じっていた。 
 「立派な家じゃないですか」 
 英明はスリッパに履き替えながら言った。 
 英明は緊張していた。気の利いた台詞は何も浮かばなかった。 
 陽美もそれ以上口を開かず、英明がスリッパに履き替えたのを確認すると、渡り廊下を歩きだした。 
 英明も後をついて歩き出す。 
 渡り廊下の左側は庭に面しており、日本庭園の様相だ。 
 大きな池があり、どうやら鯉もいるようだ。手入れも行き届いている様子で、午後の日差しが落ち着いた空気を漂わせている。 
 いい眺めだった。 
 廊下を突き当たりまで進むと、右に廊下が続いていた。 
 陽美は立ち止まらずに少し振り返り、廊下の先へ促した。 
 陽美と英明は、廊下を右へ曲がった。 
 その渡り廊下も、左側は庭園に面していた。 
 ふと、庭の一角に目がとまった。 
 そこは、スポットライトを浴びているかのように、ひときわ輝いていた。 
 ――ひまわりだ。 
 陽だまりのようなひまわり畑だった。 
 屈託の無い無邪気な笑顔で花びらをいっぱいに伸ばし、英明を出迎えているようだった。 
 ひまわりに釘付けになっていた英明は、陽美がこちらを向いて立ち止まっていたのに気付かず、衝突しそうになった。 
 「わ!ごめんなさい」 
 英明は驚いて、一歩下がった。 
 陽美は動じた様子はなく、ただ真っすぐ英明の目を見ていた。 
 英明も何となく陽美を見つめ返す。 
 陽美は部屋の障子に振り向くと、そのまま中へ声をかけた。 
 「お姉ちゃん、佐藤さんが来たよ」 
 陽美は英明の方へ向き直り、軽く部屋の障子を促して、一歩下がった。 
 英明は少しためらいながら、ゆっくりと障子を開けた。 
 「お邪魔します」

第十一話

 七月六日 

 「いい天気だね。梅雨もう少しで明けるらしいよ」 
 伊東陽美は花瓶を持ち上げながら、言った。 
 白い日差し、白い壁、白い天井、白いベッド。 
 白いベッドには、伊東唯が(おだ)やかな寝息を立てていた。 
 唯が勤務中に倒れてから、三か月が経っていた。 
 四月初旬、都内の総合病院で医師を務める唯は、夜勤の最中に吐血して倒れているところを同僚の医師に発見された。 
 すぐに同病院に緊急入院することになり、それ以来昏睡状態が続いている。 
 陽美は見舞いに来たとき、眠ったままの唯に努めて話しかけるようにしていた。 
 「花の水、換えてくるね」 
 唯は相変わらず眠ったままだが、心なしかいつもより表情が穏やかに見えた。 
 陽美が花瓶を持って病室を出ようとした時、軽いノックの後、病室のドアが開いた。 
 「あ、陽美、来てたのね」 
 母の伊東百合(ゆり)だった。 
 「うん、水換えに行くとこ」 
 「ありがとう。お願いね」 
 「はい」 
 百合と入れ違いに、陽美は病室を出て行った。 
 百合は丸椅子を引き寄せて、唯のベッドの脇に座った。 
 しばらく、唯の寝顔を見つめていた。 
 「ほんと、少しいいみたいね」 
 百合は、唯の額を優しく撫でた。 
 「さっきお医者様から話を聞いてきてね、ここ二~三日は特に元気だって。起きてないのに元気って、何だかおかしいね。今の体力だったら、手術に臨めるだろうって、おっしゃってたわ」 
 百合はそのまましばらく、唯の顔を撫でていた。 
 突然、百合はビクッとして、唯の顔から手を離した。 
 おそるおそる唯の顔を(のぞ)き込む。 
 理由は分からないが、百合の直感が、あることを告げていた。 
 「唯。あなた、恋してるの?」 
  
 八月十三日 
  
 夕方、唯の病室。 
 陽美が唯のベッドの脇に座っていた。 
 陽美は、唯の耳元に話しかけた。 
 「今日ね、おじいちゃんのお墓参り行ってきたよ。お姉ちゃんの手術成功するように頼んできた。おじいちゃん名医だったしね、これで絶対うまくいくよ」 
 陽美は座り直して、唯の顔を眺めた。 
 気のせいか、いつもより暗い寝顔に見えた。 
  
 八月二十二日 
  
 陽美は、深夜にふと目が覚めて、携帯電話のランプが光っているのに気付いた。 
 情報通知のランプだ。 
 陽美はベッドの中から手を伸ばして携帯電話を掴むと、眠い目をこすりながら画面を見た。
 LINEが一件受信していた。 
 陽美は布団を跳ね上げて飛び起きた。 
 急いで部屋の明りを点ける。 
 部屋の中央に立ったまま両手で携帯電話を押さえつけるように持ち、画面を凝視した。 
  
 3:45 
 ハルミ!
 聞いてビックリするなw
 なんと…
 カレシができたのだっ 
 きゃー♡
 憶えてる?前話したヒデくん
 さっき告られたー♪
 手術終わったら休み取れるし
 来月デートするんだっ 
 応援よろぴく

 ――何これ!? 
 陽美はパニックに陥った。 
 興奮で唇の端が震えていた。 
 LINEの相手は姉の唯だった。 
 お姉ちゃん、入院してるし、意識戻ってないし、カレシ?ヒデくん?ヒデくん…、あ、言ってた。夜遊びしてきた時のだ。告られた!?会ってる?デート?来月?昏睡なのに?休み取るって?なんで手術のこと知ってるの?
 陽美の思考がグルグルと回転した。 
 いつの間にか部屋の中をグルグルと歩いていた。 
 ピタッと立ち止まり、画面から目を離した。 
 ――意識が戻った!? 
 陽美は部屋を飛び出し、両親の部屋へ向かって駆け出した。 
 陽美の部屋は二階、両親の寝室は一階だ。 
 バタバタと廊下を駆け抜け、ドタドタと階段を駆け降りる。 
 両親の寝室に辿り着く頃には、百合が起きだして廊下に出てきていた。 
 「お母さん!」 
 陽美は百合に抱きついて、ようやく止まった。 
 「陽美…」 
 百合は目を丸くして陽美を抱き止めた。 
 陽美は肩で大きく息を切っていた。 
 百合は陽美の呼吸が落ち着くのを待って、ゆっくりと体を離した。 
 「どうしたの?」 
 そう聞きながら、百合は陽美が握りしめている携帯電話をちらりと見た。 
 「ねえ、これ、見て」 
 陽美は、おそるおそる携帯電話の画面を百合に向けて見せた。 
 百合は向けられた画面をそのまま(しばら)く見ていたが、ハッと息を飲んで携帯電話を陽美の手から抜き取った。 
 百合は画面を凝視した。 
 目が何度も左右に往復した。 
 やがてゆっくりと陽美へ視線を向けると、百合は低い声で言った。 
 「唯…」 
 「お姉ちゃん、起きたの?」 
 間髪入れず、陽美は訊いた。 
 「分からない」 
 百合の声は無表情だった。 
 「だってこのLINE、お姉ちゃんだよ!」 
 陽美は百合の手から携帯電話を取り戻して、断言した。 
 「落ち着いて、陽美」 
 百合は静かに陽美を見つめた。 
 「唯の携帯は、家にあるでしょ」

第十二話

 八月二十二日 
  
 伊東一家は、総合病院のロビーに待機していた。 
 時刻は夜の十時を回っていた。 
 ロビーの照明は必要最低限に抑えられており、薄暗かった。 
 父の伊東健司は長椅子に座り、拳を握り締めて膝の上に置き、微動だにしない。 
 唯の手術が始まってから十二時間、ずっと身動きせずに座り続けている。 
 その隣に、母の百合が寄り添っている。 
 そこへ、陽美が飲み物のカップを持ってやって来た。 
 「買ってきたよ」 
 「ありがとう、陽美。――ほら、あなた。いい加減に何か口にしないと、体に悪いわ」 
 百合は飲み物のカップを受け取ると、健司に差し出した。 
 健司は正面を向いたまま、無反応だ。 
 「お父さん、いい加減にお母さんの言うこと聞いて」 
 陽美は、少し強い口調で健司に注意した。 
 健司は目をパチクリさせて、百合と陽美を交互に見た。 
 まるで、今初めて自分がどこにいるか気付いたかのようだ。 
 「ああ、ごめん。もらうよ」 
 健司は百合から飲み物のカップを受け取り、そっと口を付けた。 
 その時、静寂の中にカツコツと足音が響いてきた。
 三人とも足音のする方へ顔を向けた。 
 手術衣の男性がこちらへ歩いて来ていた。
 唯の執刀医だ。 
 健司は飲み物を一気にあおり、クシャッとカップを握り潰すと、勢いよく立ち上がった。 
 百合もその隣に、ゆっくりと立ち上がる。 
 陽美は緊張の面持ちで執刀医の到着を待った。 
 執刀医は三人の前で立ち止まると、鼻の脇をちょっと掻いた。 
 「手術は終わりました。容体は安定しています」 
 彼は簡潔に報告した。 
 「成功したんですか!」 
 健司は彼に詰め寄って、訊いた。 
 「手術は成功しました。体力が落ちていますので、注意が必要です」 
 彼は冷静に答えた。 
 「意識は、戻るんでしょうか」 
 陽美は遠慮がちに訊いた。 
 「何とも言えません。すぐに戻る可能性もありますが、仮に意識が戻ったとしても、あまり話しかけないように。消耗が激しいので、会話は負担になります。長期の昏睡状態から覚めると、記憶も混乱している筈です」 
 彼は淡々と答えた。 
 「会えますか?」 
 百合が小声で訊いた。 
 「会えます。病室は同じです。後三十分程お待ちください。本日の面会時間はお気になさらずに。準備が出来ましたらご案内します。では」 
 「ありがとうございます」 
 健司は礼を言った。 
 百合と陽美もそれぞれ礼を言うと、彼はまたカツコツと音をたてて、廊下の奥へ消えていった。 
  
 暫くして、伊東一家は唯の病室へ通された。 
 医療機器と点滴(てんてき)の確認をしていた看護師が、心電図とナースコールについてテキパキと説明した。 
 「……こちらでもモニターしておりますが、何かありましたら、こちらのボタンを押してください。では、失礼します」 
 そう言い残して、看護師は退室した。 
 三人は、唯が寝ているベッドを囲んでいた。
 心音計の規則正しいリズムが、病室を満たしていた。 
 「よく頑張ったね、唯」 
 百合は唯の顔に近づいて、そっと声をかけた。 
 呼吸器を装着した唯は、規則正しいポンプの音をたてて静かに眠っている。 
 三人は顔を見合わせると、それぞれに安堵の表情を浮かべた。 
 三人とも朝まで付き添うことに決めて、交代で食事を取ることにした。 
 昼も夜も何も口にしていない健司を、百合が食事に連れ出した。 
 一人残った陽美は、ベッドの脇に丸椅子を引き寄せて座った。 
 陽美は、複雑な表情で唯を見つめた。 
 ベッドサイドのテーブルへ置いたバッグに手を突っ込み、携帯電話を取り出す。 
 唯の携帯電話だ。 
 陽美は唯と携帯電話を見比べて、そっと呟いた。 
 「お姉ちゃん。…やっぱり、信じらんない」 
 おもむろに携帯電話のボタンを押す。
 画面は真っ暗のまま何も映し出さない。
 唯の入院の手続きのときに、彼女の携帯電話は他の荷物とともに実家へ持ち帰っており、そのまま電池が切れて以来一度も充電していない。 
 ――どうやって…。 
 陽美は心の中で唯に問いかけながら、あれこれと考えていた。 
 その時。 
 陽美は息を飲んだ。 
 ガタンと椅子を鳴らして立ち上がり、唯の顔を覗き込んだ。 
 唯の目が、開いていた。 

第十三話

 八月二十三日 
  
 「あなた、夜中なのよ、もう少し静かに…」 
 百合の制止が聞こえているのかいないのか、健司は唯の病室のドアを開け放つと、ズカズカと唯のベッドへ詰め寄った。
 後から入った百合が、そっとドアを閉じる。 
 「唯!」 
 取る物も取り敢えず、健司は大声で唯に呼びかけた。 
 幸い病室は唯専用だったので、彼を(とが)める者はいなかった。 
 唯は目を閉じていた。眠っている。 
 時刻は夜の十二時を過ぎていた。 
 「さっきちょっと起きたんだけど、また寝ちゃって」 
 ベッドの脇の丸椅子に座っていた陽美は、健司の様子に目を丸くしながら説明した。 
 健司は陽美に視線を向けた。 
 「唯は、起きたんじゃないのか?」 
 健司は動揺していた。 
 陽美の言葉は耳に届いていなかった。 
 「だから――」 
 陽美はもう一度説明しようとしたが、追いついた百合が健司の背中を優しく叩いた。 
 「あなた、陽美がびっくりしてる」 
 健司は振り向きざま、百合の手を握った。 
 彼は、それ以上言葉が出なかった。 
 「唯は、寝てるのね」 
 百合は健司に身を任せたまま、陽美に問いかけた。 
 「うん、寝ちゃった」 
 陽美は唯に目を向けて、言った。 
 「何か話した?」 
 百合は穏やかに訊いた。 
 「何か言ったみたいだけど、よく聞こえなくて」 
 そう言って、陽美はうつむいた。 
 「そう…」 
 百合は、健司を見つめた。 
 健司は、じっと唯を凝視していた。 
 次に目を覚ます時は、絶対に見逃さない。健司に握られた手から、そんな思いが伝わってくるようだった。 
  
 陽美は、少し嘘をついた。 
 唯が目覚めた時、陽美は彼女の言葉を聞き取っていたのだ。 
 ――でも、あの時。 
 陽美は、唯とのやり取りを思い返していた。 
 唯の目を覗き込んで……。 
 「お姉ちゃん」 
 唯は陽美を見返した。瞳には意識が宿っていた。 
 ただ目が開いているのではない。目覚めているのだ。 
 「お姉ちゃん!」 
 呼吸器のリズムが乱れた。 
 唯の口が動いている。 
 何か話している。 
 くぐもってよく分からない。 
 陽美は慎重に呼吸器を持ち上げ、唯の口が見える所までずらした。 
 唯の唇が動いた。 
 小さな小さな声だ。 
 カサカサした言葉は、受信状態の悪いラジオの雑音(ノイズ)のようだ。 
 数か月ぶりに振るわせる喉の筋肉は、音量も音質も上げられない。 
 陽美は、唯の顔にくっつけんばかりに顔を近づけた。 
 唯は顔を歪めながら、一言一言、言葉を積み上げた。 
 唯の吐息が、頬に跳ね返る。 
 「つか、れた?疲れたの?」 
 唯が微かに肯いたように見えた。 
 「お姉ちゃん、頑張ったんだよ」 
 唯の唇がまた動く。 
 「きゅうか?休暇ね。そうだね、ずっと寝てたもんね」 
 唯の目が、否定の色に変わった気がした。 
 「違うの?」 
 唯はそれから何も言わず、天井を眺めた。 
 陽美は唯からそっと離れた。 
 バッグを引き寄せ、携帯電話を取り出す。 
 看護師から、この病院の医療機器は携帯電話の電波の影響を受けないという説明を受けていた。
 百合の電話番号を呼び出し、発信ボタンを押した。 
 百合はすぐに電話に出た。 
 陽美は唯の意識が戻ったことを知らせた。 
 「……。うん、そう。……。まだ起きてる。……。うん、わかった」 
 陽美は電話を切ると、また唯に顔を近づけた。 
 唯の目はまだ開いている。 
 唯は陽美を見た。 
 陽美も唯を見つめ返す。 
 しばらくそのまま。 
 やがて、唯の唇が動きだす。 
 陽美の顔に、少しずつ驚きの表情が広がっていく。 
 陽美は、唯の言葉に、ただ(うなず)いていた。 
 ヒデくん。 
 9月。 
 ひまわり。 
 デート。 
 陽美は、震える声を抑えて、言葉を絞り出した。 
 「お姉ちゃん、昨日の夜、私にLINEした?」 
 唯が怒ったように見えた。 
 唇の動きが、若干速くなった。 
 したよ。 
 既読スルー。
 冷たい。 
 陽美は呆然として唯から離れると、ストンと丸椅子に腰を落とした。 
 ――ほんとに、お姉ちゃん…。 
 それきり唯は何も話さず、ゆっくりと目を閉じた。 
 陽美は我に返ると、恐々と唯に近づき呼吸器を元に戻した。 
 規則正しいポンプの音だけとなった。
 両親が戻ってきた頃には、唯は完全に眠りに落ちていた。 
  
 陽美は唯の携帯電話を握り締めて額に押しつけ、(うつむ)いて目を閉じていた。 
 健司は少し離れて丸椅子に座り、腕を組んでいる。 
 百合は他の空いているベッドに荷物を広げて、整理していた。
 ――そうか! 
 陽美はパッと顔を上げ、立ち上がった。 
 健司は腕を組んだまま、陽美を見上げた。 
 陽美はくるりと健司に振り向くと、ハキハキと彼に言った。 
 「お父さん、車のキー貸して!」 
 「どこへ行く」 
 「買い物!休憩、私の番!」 
 「あら、外へ出るの?私もついでにいい?洗濯物を持って行かなくちゃ」 
 百合は荷物を片付ける手を休めず、のんびりと割り込んだ。 
 「うん、分かった。早く――あ、私手伝う!」 
 陽美は百合の元へ駆け寄り、荷物へ手を突っ込んだ。 
 ――何で思い付かなかったんだ! 

第十四話

 八月二十三日 
  
 「乱暴は嫌よ、陽美」 
 助手席の百合は、運転席の陽美にやんわりと忠告した。 
 深夜一時を半分ほど過ぎようとする頃、街中はタクシーで(あふ)れ始めていた。 
 右も左もタクシーの中、陽美の飛ばすベンツはひときわ目を引く。 
 赤信号で停止した時、百合は静かに言った。 
 「唯、何か言ったのね」 
 陽美は、正面の赤信号を(にら)みつけたまま、目を見開いた。 
 百合に嘘は通用しない。小さい頃から、すぐ見破られる。 
 陽美は純粋で分かりやすいのだそうだ。 
 陽美は深呼吸してから、言った。 
 「昨日のLINEに返信してくれないって、()ねてた」 
 百合は笑いを(こら)えながら、 
 「お返事はしなくちゃね」 
 と、口許(くちもと)を押さえた。 
 「そういう問題じゃなくて!」 
 陽美は苛々(いらいら)と百合に一瞥(いちべつ)を投げた。 
 「唯が拗ねたから、お買い物するの?」 
 百合は、悪戯(いたずら)っぽい笑みを浮かべた。 
 「それじゃ私が拗ねた子供みたい!」 
 「だったら、何をそんなに怒ってるの?」 
 「怒ってない!」 
 と、信号が青に変わった。陽美は一気にアクセルを踏み込む。乱暴な扱いにも、高級車は滑らかに反応した。 
 「まあ!優しい運転」 
 百合の皮肉である。 
 「はい、ごめんなさい。まったく……」 
 陽美はブツブツと呟きながら、ハンドルを(さば)いた。
 「陽美にもカレシができたら、少しはおしとやかになるのかな」 
 百合は、独り言のように言った。 
 言い慣れていない”カレシ”という発音が、お茶目である。 
 「カレシってゆーのも確かめる」 
 「お買い物で?」 
 「そうよ!充電器買いに行くの!携帯の!」 
 「どうして?」 
 「どうしてって、昨日あんなLINE来て、見たでしょ!お姉ちゃんの携帯充電して、確かめるの!」 
 「姉妹でも、人の携帯覗くのは感心しないわ」 
 「それは…」 
 陽美は口ごもったが、すぐに威勢を取り戻した。 
 「あんなLINE、ありえない。絶対イタズラ!信じてないの?」 
 「信じてる。唯も、陽美もね」 
 「だから、お姉ちゃんの携帯見る、一回だけ」 
 「そうね、私もカレシに会ってみたいな。唯のカレシ、どんな人かな。でもLINE見るのは可哀そう。連絡先だけでいいかな」 
 百合は(たの)しそうに微笑んだ。 
 陽美の背中に電気が走った。唐突に「母」を理解した。 
 母は、娘を信じているのだ。 
 あのLINEは唯から届いた。他人が(いつわ)った文章なら、百合は確実に見抜く。 
 百合は、唯の母なのだ。 
 そして百合は、陽美も信じているし、理解している。 
 だから隣で、穏やかに微笑んでいる。 
 陽美の中の苛立ちの高波は急速に引いていき、母の穏やかな(なぎ)に満たされた。 
 「ありがとう、母上」 
 陽美は照れ臭そうに、言った。 
 「どうしたの、娘」 
 百合は、悪戯っぽい笑みを覗かせた。 
 二人は一瞬視線を合わせると、どちらからともなく声を上げて笑い出した。 
 「お母さんって、ずるい」 
 「あら、誠実に生きてるわ」 
 二人の笑い声が車内を満たす。 
 ひとしきり笑った後、百合がコンビニエンスストアを見つけた。 
 「あそこ、ほら、コンビニ。売ってるんじゃない?」 
 「うん、寄ってみる」 
 陽美はコンビニエンスストア前の路肩に車を停めた。 
 都内のコンビニエンスストアには、駐車場はほぼ無い。仕方なく路肩に横付けとなる。 
 百合はサッサとドアを開けて外に出た。
 「ほら、陽美。お買い物、お買い物」 
 百合はウキウキと歩き出す。 
 ――やっぱり、お母さんって、ずるい。

第十五話

 八月二十三日 
  
 伊東唯の病室。 
 午前二時を数分過ぎた頃。 
 伊東健司は、丸椅子に座って腕を組んだまま、舟を()いでいた。 
 時折ガクッと首が落ちるが、んーっと唸って持ち直し、起きる様子はない。
 辺りの物音は、医療機器の小さな電子音と呼吸器のポンプの音。 
 たまに、健司の大きな(いびき)。 
 唯の顔は、眠っているのにもかかわらず、満面の笑みだ。 
 誰も気づく者はいない。 
  
 午前二時三十一分。 
 それまで笑顔だった唯の表情が歪んだ。 
 ――「早く寝ろよ〜w」って言われてもな。 
 ――イビキうるさくて寝らんない。 
 唯は、再び目覚めていた。 
 目だけを動かし、寝起きでぼやけた視界の中に、健司の姿を見とめる。 
 ――お父さーん。イビキうるさいんですけどぉ。 
 ――ってゆーか、いつまでここにいる気? 
 ――職場にいつまでもいられると、やりにくいんですけど。 
 ――早く大学病院帰って、ウィルスでも何でも研究して!うち寝たーい。
 ぐごーっ、ふごっ、んー、むにゃむにゃ…。 
 ――いやぁ!もぉ、発狂する! 
 唯はしばらく、不規則に襲い来る父の鼾と格闘していた。 
 どれくらい経ったろう。 
 不意に室内の照明が暗くなった。 
 いや、違う。 
 健司が唯の顔を覗き込んでいた。 
 思わず目が合う。 
 健司の顔が驚愕(きょうがく)に揺れた。 
 「唯!唯!」 
 健司は更に(おお)い被さってきた。 
 「唯!分かるのか?私だ!」 
 唯は小刻みに何度も頷いた。 
 ――分かる、分かる、分かったから。顔近い、近い。もー!助けて! 
 いきなり健司の姿が遠のいた。 
 彼は、一定の距離を置いて唯を眺めていた。 
 ――あー、助かった!…けど、急にどうしたの? 
 よく見ると、健司の背後にもう一人、人影が見えた。 
 その姿はぼんやりしていてよく分からないが、唯には誰だかすぐに分かった。 
 ――ありがと、おじいちゃん。 
 唯の祖父が、背後から健司の肩を支えて持ち上げていた。 
 健司は、不意に大粒の涙をぼろぼろこぼし始めた。 
 「ごめんよ、唯。ごめんよ」 
 ――え、なに?どしたの、お父さん。 
 唯は虚を突かれた。 
 「やっぱりあの時、医者になるって言った時、私は反対するべきだった」 
 「代々医者の家系だからって、何も皆医者になることなんてないんだ」 
 「しかし、あの時私は…」 
 「唯、私はあまのじゃくだよ。いつも本心とは逆のことを言ってしまう」 
 「そのせいで、こんなことに」 
 「辛かったな、唯。血を吐いてまで働かなきゃいけない職場って、一体何なんだ!」 
 「私のせいだ。私の…」 
 健司の涙は止まらなかった。 
 両手の拳を握り締め、その涙を拭おうとしない。 
 唯は、静かに健司の言葉を聞いていた。 
 初めて聞く、彼の本心。 
 初めて聞く、彼の溢れ出る思い。 
 ――お父さんのせいじゃ、ないよ。 
 ――うちが自分で選んだ道なの。 
 「……花嫁姿なんか見たくないって、いつも言ってしまってたね。あれはね、唯が誰か他の男のところへ行ってしまうのが嫌で、ただ、()きもちで」 
 ――そんなの、世の中のお父さんはだいたいそーだよ。 
 「本当は、花嫁姿が見たいんだ。百合が着た花嫁衣装……唯が着て結婚式を挙げるのを見るのが、夢なんだ」 
 ――それ、うちがいつも言って……。 
 「分かってる。いつも、そんなもの見たくないと言ってた。でも、見たい。唯の幸せな結婚式を見たい」 
 ――そうだったの。 
 唯の瞳から、涙が一筋流れ落ちた。 
 「聞こえてるんだね」 
 小さい頃に見て以来、久しぶりに見る健司の優しい笑顔。 
 大きくなってからは、厳格(げんかく)な父、研究者としての父。 
 唯の心に、温かいものが広がっていく。 
 「いいかい、唯。生きるんだ。生き続けるんだ。生き抜くんだ。唯が生き続けられるなら、私は何だってする」 
 ――大袈裟(おおげさ)だなー。そりゃ一回倒れたけど、あれはマジびびった。さっきも大手術成功させた、おいしゃさまだぞ。 
 ――もっと誉めてよ。いつも言ってたじゃん。なったよ、立派な医者だよ。まだダメ? 
 唯はいつしか、とめどなく大粒の涙を流していた。 
 無性に「父」の手を握りたくなった。 
 腕を動かすために、神経にどうやって命令を伝えればいいのか分からない。 
 唯の腕が、シーツの中からだらんと落ちた。 
 健司はハッとそれを見やると、両手で唯の手を包み込んだ。 
 ――お父さんの手、今でもおっきぃね。 
 唯は泣きながら微笑んだ。 
 健司は、包み込んだ唯の手を自分の頬に(こす)り寄せ、嗚咽(おえつ)を漏らした。 
 唯の手は、長い昏睡状態ですっかり痩せ細っていた。
 いつの間にか、健司の隣に立っていた祖父が両手を差し出し、健司と唯の手を更に上から包み込んだ。 
 ――でもさ、お父さん。今カレシいるって言ったら、やっぱ面白くないでしょ。 
 「そんなことはない」 
 ――ほんとに?今度紹介してもいい? 
 「ああ、いいとも。唯が認めた男なら、間違いはない」 
 ――………。 
 「どうした、自信がないのか」 
 ――ムリしちゃって、もー。 
 「会いたいね、その人に。その人が、唯の花嫁姿を見せてくれるんだろう?」 
 ――まだ付き合ったばっかだよ。 
 「どんな人なんだ」 
 ――優しい人。ふんわり雲みたいな人。ヒデくんってゆーの。佐藤、英明って名前。 
 ――9月にデートの約束してるんだよ。一緒にひまわり畑に行くの。 

第十六話

 八月二十三日 
  
 午前二時過ぎ。 
 伊東陽美はベンツを飛ばしていた。 
 コンビニエンスストアを数軒巡り、携帯電話の充電器を探し回った。 
 どの店舗も種類は豊富なのだが、何処(どこ)へ行っても対応機種が無い。 
 在庫が無かったり、取り扱いが無かったり、たかだか充電器一個の入手がとてつもなく困難を極めた。 
 どうしても欲しい物がある時に限って、欲しい物だけが売ってない、と陽美は理不尽な思いだった。 
 伊東百合がポツリと(こぼ)した助言に、陽美はプリプリと不機嫌になりながら、進路を自宅へ向けたのだ。 
 コンビニで買わなくたって、唯の部屋にあるでしょ? 
 車を自宅の敷地へ無造作に駐車し、百合は荷物の整理へ、陽美は唯の部屋へ駆け込んだ。 
 確かに、伊東唯の部屋であれば携帯電話の充電器くらいどこかにある可能性がある。 
 しかし、唯は一人暮らしをしており、まだ部屋を引き払っていない。 
 唯の入院後、百合が冷蔵庫の中身などを片付けに唯のマンションへ行ったときに、必要な衣服などを持ち帰っていたが、携帯電話の充電器まで気が回っていたかどうか。 
 頼みの綱は、唯が通勤に使用していたバッグだ。 
 あのバッグには、もしかしたら外出先で充電するために予備の充電器が突っ込んであるかもしれない。 
 何とも頼りない予想だった。 
 唯の携帯電話は、家族の誰とも機種が違い、充電器のプラグが合わない。バッグの中に入っていなければ、後からであればいくらでも何とかなるが、今この瞬間は諦めるしかない。 
 唯のマンションまで寄っていたら、病院へ戻る時間が遅くなってしまう。 
 陽美は唯のバッグを引っ掴むと、ベッドの上に中身をぶちまけた。 
 小物がバラバラと飛び出す。小物が山になった。すかさず小物の山を両手で崩す。 
 ――あった! 
 電池式の充電器を発見した。電池さえあれば使用可能である。 
 陽美は百合を手伝い、急いで用事を済ませ、再び陽美の運転で病院へ向かう。 
 午前三時が近付いていた。 
 助手席の百合はバッグから携帯電話を取り出した。
 画面は同じ登録名の着信履歴で埋め尽くされていた。 
 「あら、健司さんから」 
 と、百合の声はのんびりとしていたが、ただならぬ空気を含んでいた。 
 陽美は嫌な予感がした。 
 「お父さん?」 
 父に間違いはないが、陽美はそう訊いていた。 
 百合はそれには答えず、リダイヤルを操作して耳へ当てた。 
 「私よ」 
 百合が話し始めた。 
 おそらく伊東健司であろう通話相手は、すぐに電話に出たようだ。 
 「……。ごめんなさい。私も陽美も、バッグを車に置きっぱなしにしててね」 
 百合が何に謝罪しているか、陽美には何となく分かった。 
 健司は百合に何度か電話したが、百合が電話に出なかったことを咎めている。そんなところだろう。 
 おそらく陽美の携帯電話の着信履歴も酷いことになっているに違いない。 
 しかし、陽美にとってそんなことはどうでもよかった。 
 陽美の気がかりは、健司が何度も電話をかけてきた理由だ。 
 今の伊東家を取り巻く状況の中、唯が無関係である筈がなかった。 
 陽美はハンドルを切りながらも、百合の電話の内容が気になって仕方がない。 
 百合は三十秒もかからず、電話を切った。 
 陽美は、百合が何か喋り出すのを待った。 
 百合は、正面を向いたまま、おもむろに言った。 
 「全速力でお願いね」 
 それ以上の説明は、陽美には不要だった。百合が言い終わらないうちに、陽美はアクセルを踏みこんでいた。 
 タクシーの混雑もまばらになってきた街中を、陽美のベンツが唸りを上げて加速した。 
 「健司さんの車、こんなに遅くなかったはずだけど」 
 百合は涼しげに言った。 
 陽美はニヤリと笑みを浮かべた。 
 「よくご存じで。こんなものではございません!」 

 健司は携帯電話の画面を消した。
 唯のベッドは白衣の集団が取り囲んでいる。病室は緊迫(きんぱく)した空気が支配していた。 
 唯の容体が急変したのだ。 
 健司がナースコールを使用する間もなく、白衣の集団は病室へやって来た。 
 それから健司は百合へ電話をかけたが繋がらず、陽美も電話に出ない。 
 やきもきしているところへ、今、百合から電話がかかって来たところだった。 
 「伊東さん、電話は構いませんが、お静かに」 
 看護師の一人が、やんわりと健司に注意した。 
 百合との電話の最中、健司は何度か大声で怒鳴ってしまっていた。 
 「申し訳ない」 
 健司は謝りながらも、それどころじゃないだろう、と心の中で八つ当たりしていた。
 健司は心電図を睨みつけた。 
 医師達が駆け付ける前よりも、心音計の音の間隔が長くなったような気がする。 
 ――何としても助けるからな。 
 健司は拳を握りしめた。 
 ふと、健司は後ろを振り返った。 
 誰かに見られているような気がした。 
 白衣の集団は皆、唯のベッドの周りで作業に追われている。 
 離れたところにいる医師や看護師はいない。 
 でも、誰かがいた。 
 ここの病院関係者では無い、よく知っている親しい人間がいた。漠然とそんな気がした。 
 しかし、今ここには親しい人間どころか、外来者は健司だけだった。 
 健司はフンと鼻を鳴らすと、唯のベッドに視線を戻した。

第十七話

 八月二十三日 
  
 ――うー、息が苦しい。体おもーい。 
 ――うち、こんな体弱かったかな。 
 ――こないだ倒れたばっかなのに。 
 ――これしきの手術、これから何度もあるぞ。 
 ――まだまだこれから!しっかりしないと! 
 ――別に、おじいちゃんに言われたからとかじゃないし。 
 ――よし、休暇の間に体力つけるぞ! 
 伊東唯は、目の前の人影に気付いた。 
 ――おじいちゃん! 
 人影は、黙って唯を見ている。 
 ――おじいちゃん、今の聞いてた? 
 唯はおどけて見せた。 
  
 「お姉ちゃん!――何か言ってる!」 
 伊東陽美は思わず叫んだ。 
 午前三時半を過ぎていた。 
 総合病院。唯の病室。唯のベッド。家族が(そろ)って見守っている。 
 唯の容体が落ち着き、医師、看護師が一名ずつ残っている。 
 伊東百合は、医師達と唯の呼吸器を交互に見て、何か言いかけた。 
 百合の意図を察した医師は、看護師に頷く。 
 看護師は、唯の呼吸器をゆっくりと外した。 
 陽美は、唯の口許に耳を寄せた。 
 「……ちゃん」 
 唯のかすれた声を聞き取ろうと、陽美は全神経を耳にした。 
 「おじいちゃ……、……聞いて……」 
 陽美は両親を振り返った。 
 「おじいちゃん、って言ってる」 
 伊東健司の顔が青ざめた。 
 ――そうか!そういうことか! 
 健司は内心吠えると、室内のあちこちに鋭い視線を向けた。 
  
 人影は(おごそ)かに口を開いた。 
 「唯、よく聞きなさい」 
 唯は、祖父の改まった態度に、居住まいを正した。 
 「はい」 
 と、唯は祖父の目を真っ直ぐに見た。 
 「人は、それぞれ役割を持って生まれてくる」 
 唯はキョトンとした。 
 祖父は続けた。 
 「どうやら、唯は今生の役割を立派に果たしたようだ」 
 「急に何の話?」 
 祖父はしばらく黙っていた。 
 唯は、祖父の返答を待った。 
 やがて、祖父は優しく微笑んだ。 
 「家族と話しなさい。みんな来ているよ」 
  
 知ってる匂いがする、と唯は思った。 
 ――何だろう、陽美の好きな香水? 
 唯の視界が、ぼんやりと開けてくる。 
 目の前に、陽美の顔があった。 
 「わっ、陽美!」 
 唯は驚いて目を丸くした。 
 「きゃっ」 
 陽美は、唯のしっかりとした発声に驚き、ベッドから飛びのいた。 
 唯は辺りを見渡した。 
 妹の陽美がいる。唯を見て驚いている。 
 母の百合も、父の健司もいる。 
 白衣を着た人がいる。 
 病室だ。ベッドに寝ている。体が動かない。重い。 
 「どうなってるの?」 
 唯の声ははっきりとしていた。 
 その場にいた誰もが虚を突かれ、唯の言葉に反応できずにいた。 
 陽美、そして百合が、唯にそっと近付いた。 
 百合が話しかけた。 
 「おはよう、唯」 
 「お母さん……。おはようって……。うち、寝てたの?」 
 「そうね。寝てた。ずっとね」 
 「変だなー。さっきまでおじいちゃんがいて――」 
 「父と話したのか!」 
 健司が鋭く割り込んだ。 
 唯は健司に目を向けた。 
 「うん。最近よく来るんだ」 
 陽美と百合は、健司と唯の会話に眉根を寄せて、顔を見合わせた。 
 他界している祖父と会い、会話しているという。
 「父は、何しに来る?」 
 健司は、声を低くして訊いた。 
 「うーん……。仕事の応援してくれたり、ってゆーかお説教ばっかだけど。さっき、なんか、家族と話しなさいって。そしたら急にこんなで」 
 唯は小首を(かし)げた。 
 健司は、天井を睨みつけて拳を握りしめた。 
 「何故なんだ、お父さん」 
 と、健司は声を絞り出した。 
 陽美と百合は目を白黒させていた。陽美は、気を取り直して唯に話しかけた。 
 「お姉ちゃん、気分どう?」 
 「体重い」 
 「そっか。寝起きだしね……。あのね、聞いてもいい?」 
 「キモいんだけど。……何?」 
 唯は、むず痒そうな顔をした。 
 陽美は、唯の目を覗き込んで、言った。 
 「佐藤さんと、付き合ってるの?」 
 唯は、照れ臭そうに視線を外した。 
 「うん。やっと告られた。長かったよー」 
 「佐藤さんと、LINEしてる?」 
 唯は嬉しそうに笑って、 
 「毎日してる」 
 と、小声で言った。 
 「昨日、返信しなくてごめんね」 
 「いいよ、そんなこと。うちもごめん、夜中に」 
 陽美は小さく首を振った。目尻が熱かった。小指で目尻を拭った。 
 唯は家族の顔をひとりひとり見て、言った。 
 「手術、応援しに来てくれたの?」 
 「そうなの、みんなでね」 
 百合がニッコリと答えた。 
 「すごい仕事だったけど、家族みんな来るとは……。どんだけ過保護なんだか」 
 唯は誰に言うともなく言ってから、笑った。 
 「ありがとう」 
 唯は、そう言って目を閉じた。 
 室内に、冷たい緊張が足元から上って来ていた。 
 ゆっくりと(せま)って来ていたそれに、もはや誰もが気付いていた。 
 心音計の間隔が、だんだんと長くなっていたのだ。 
 「さすがに、もう、眠い」 
 目を閉じたまま、唯は呟いた。 
 「お母さん」 
 唯の声は小さくなっていた。 
 百合は唯のそばへ寄って、耳をすませた。 
 「お父さんね、花嫁姿見たいって、ほんとは、見たいって。さっきね。嬉しかった」 
 百合は咄嗟(とっさ)に手で自分の口を押さえた。急激に込み上げて来た嗚咽を堪えた。 
 唯は、息継ぎしながら、少しずつ言った。 
 「お母さん、の、ドレス、借りて、いい?」 
 「うん……。うん……」 
 百合は、頷くのが精一杯だった。目がしらが揺れていた。 
 「ありがとう……」 
 と、唯は息を吐き出しながら、言った。 
 看護師が、そっと呼吸器を元に戻した。 
 健司は、怒りで顔を真っ赤にしていた。 
 ――お父さん、この子はこれからなんだ! 
 ――わざわざ、唯の未来を奪いに来たのか! 
 ――お願いだ。私はどうなってもいい!唯を、助けてくれ。 
  
 「唯」 
 唯は、祖父の声に振り向いた。 
 「あれ、おじいちゃん。どこにいたの?……もう限界、眠い」 
 「ゆっくりお休み」 
 「どこ行くの?」 
 「聞きわけの悪い息子がいるからね、骨が折れそうだ」 
 「ふーん?……喧嘩しないでね」 
 祖父が、笑ったように見えた。 
 唯は大きな欠伸(あくび)をした。 
 ――結局こんな時間だ。ヒデくんに連絡しよ。 
 ――夜更かししちゃったー、ご免なさい、なんてね。まだ起きてるかな?
 ――………。 
 ――あー、ダメ!眠過ぎだ。あ!ヤバッ!送信しちゃってる……。 
 ――………。 
 ――………。 
 ――………。 
  
 3:47 
 よふか

第十八話

 伊東陽美が話し終える頃、外には夕闇が迫っていた。 
 残暑の(せみ)が、やけくそに鳴き(わめ)いている。 
 佐藤英明は、話の内容に理解が追いつかず、思考が停止していた。 
 そこは十二畳の畳張りの部屋だった。 
 開け放った障子が、畳に西日の影を切り取っている。 
 英明は陽美と向かい合い、座布団の上に座っていた。 
 調度品の類はなく、ただ仏壇があるのみ。 
 仏壇に()かれている線香がゆらゆらと部屋を漂い、その香りが辺りを満たしている。 
 そこから、庭のひまわり畑がよく見えた。 
 「すいません。もう、何が何だか」 
 英明は、そう言うのがやっとだった。 
 「私も、姉の携帯が鳴りだした時には、心臓が止まるかと思いました」 
 そう言って、陽美は持っていた携帯電話を英明との間に置いた。
 「いいですか?」 
 英明は断ってそれを手に取った。 
 幾つかボタンを押してみる。 
 画面は真っ暗なままだった。 
 英明は、裏面の手触りに違和感を感じて、ひっくり返してみた。
 「―――!」 
 英明は息を飲んだ。 
 その携帯電話の裏面には、プリクラが一枚貼り付けてあった。 
 たった一度会ったあの時に撮ったのだろうか、写っているのは、英明と唯だった。 
 「……結局、それから一回も充電してないんです。」 
 陽美は、畳に目を落として、言った。 
 「さっき電話に出てもらったのは……」 
 英明の問いかけは、途中から言葉にならなかった。 
 「その携帯です。さすがに、最初はびっくりして出ませんでしたけど。着信の名前が佐藤さんだったので、頑張って出ました」 
 陽美は、英明の目を真っ直ぐ見ていた。 
 英明は陽美を見て、また唯の携帯電話に目を落とした。 
 「電池の切れた携帯は、鳴りませんよね」 
 「そうですね」 
 「鳴ったんですね」 
 「鳴りました」 
 英明は、フーッと溜め息をついた。 
 唯の携帯電話を陽美との間に置き、礼を述べた。 
 今、唯に電話をかけて試してみる、というのは簡単な話だ。あるいは、またLINEしてみるのもいい。 
 しかし、そんなことをして何の意味があるだろう、と英明は感じた。 
 きっと、陽美も同じ思いなのではないか。 
 陽美は、置かれた携帯電話をそのままに、仏壇へ顔を向けた。 
 「お姉ちゃんに、会っていただけますか?」 
 英明も、仏壇に顔を向けた。 
 そこには、真新しい遺影があった。唯だった。 
 英明には、唯の遺影を前にしても、およそ現実味がなかった。 
 昨日まで、毎日連絡を取り合っていたのだ。 
 あまりにも突拍子(とっぴょうし)の無い話だった。手の込んだ冗談に思えた。 
 今にも、あの渡り廊下を駆けて来て、「うっそー」と唯が飛び出してきそうな気がした。 
 英明は、ふと思いついて、胸ポケットから自分の携帯電話を取り出し、LINEを開いた。
 「唯に怒られるかも知れないけど……」 
 そう言って、英明は携帯電話を陽美に差し出した。 
 「唯さんとのLINEです。見てみてください」 
 陽美は、半分口を開けたまま、黙って英明の携帯電話を受け取った。 
 英明は、仏壇の前に進み、居住まいを正した。 
 新しい線香に火を点ける。 
 遺影の中の唯は、笑顔だった。 
 陽美が嗚咽を漏らすのを背中に感じながら、英明は目を閉じて、唯に向かい合掌した。 
 英明は、心の中で、のんびりと唯に話しかけた。 
 長い長い、合掌だった。 
 陽美は、堪え切れずに畳に突っ伏し、泣き出していた。 
 合掌を終えた英明は、陽美の傍に寄り、彼女の肩にそっと手を置いて、言った。 
 「お父さんとお母さんにも、是非ご挨拶させてください」 
 陽美は英明を見上げ、泣き腫らした目を向けて、はい、とだけ言った。 

第十九話

 「必ず来てください。とても大事なことなんです。お願いします」 
 英明は数日前、そんな約束を伊東家に取りつけていた。 
 今日がその約束の日。 
 英明にとって衝撃の出来事の日から十数日が経っていた。 
 九月初旬、最初の土曜日である。 
 今年何度目かの台風が接近してきており、首都圏は豪雨だった。 
 晴天であれば、のどかな田園風景が広がっているのだが、雨に(けぶ)る視界の悪い道を、英明は車を走らせていた。 
 伊東家が家族揃って同乗している。 
 助手席に陽美、後部座席に健司、百合が乗っていた。 
 打ちつける雨粒にワイパーがまるで役に立たず、運転には緊張を強いられたが、幸いなことにすれ違う車は皆無だった。 
 英明が伊東家へ迎えに来て、出発してから三時間が経つが、車中は無言だった。 
 雨粒が車のボディを打ち、ワイパーがせわしなく働き、ラジオが台風情報を流している。 
 音はそれだけだった。 
 何もこんな日に行かなくても、と伊東家の誰もが思ったが、迎えに来た英明からただならぬ決意を感じ、皆黙ってついてきた。 
 英明は、ある人物に出会った時のことを思い返していた。 
  
 「君が佐藤英明君だね」 
 そう話しかけて来た人物に英明が出会ったのは、つい数日前のことである。 
 「あなたは――」 
 言いかけて、英明はその人物が誰かピンときた。 
 「唯さんの祖父ですね」 
 「今さら驚きもせず、か」 
 祖父は、笑いを含みながら言った。 
 「唯さんから聞いてます。大変厳しい方だとか」 
 英明も、口許に笑みを浮かべて見せた。 
 「どうやら、私の評判はあまり良くないようだ」 
 祖父は顔をくしゃっと崩して笑った。 
 唯は説教ばかりされると言い、健司は父が娘を奪ったと信じて疑わない。 
 英明には祖父の良い印象の材料があまり無かった。 
 「君に折り入って頼みがあってね」 
 祖父は、滔々(とうとう)と話し始めた。 
 「唯のことなんだがね……」 
  
 沈黙を破ったのは、陽美だった。 
 「ちょっと見て、ね、ほら、あれ!」 
 陽美は空を指差して興奮していた。 
 全員、指差す方向の空に注目した。 
 「おー」 
 と、健司は息を漏らした。 
 空の一角が切り取ったように晴れていた。 
 「綺麗ね」 
 百合が手を合わせて、言った。 
 ――そうこなくちゃ。 
 と、英明は内心快哉(かいさい)を叫んだ。 
 雲の切れ間から射した陽の光がスポットライトとなって、ある地域を照らし出していた。 
 そこは、今から向かう目的地だったのだ。 
 英明の車は、スポットライトを目指して、豪雨の中を突き進んで行った。 
  
 雨上がりの農地。 
 鳥の声、蝉の声。 
 土の匂い、草いきれ。
 英明と伊東家の三人は、係りの者に案内されて歩いていた。 
 「いやー、台風の目でも無いだろうに、どうしたもんかね。ま、運がいいというか。シーズンオフだからね、なんもないけど、のんびりしてってください」 
 係りの者はそう言って、この状況を楽しんでいた。 
 やがて、一同は目的地に辿り着いた。 
 「うわー」 
 誰からともなく、感嘆の声が漏れた。 
 辺り一面、遥か向こうまで続く、広大なひまわり畑だった。 
 全てが鮮やかな黄色に塗りつくされ、雨上がりの水滴(すいてき)がキラキラと光沢(こうたく)を放っている。 
 ひまわり畑を包むように、空は丸く切り取られ、スポットライトを浴びている。 
 壮大な景色だった。 
 係りの者でさえ、しばらく声を失って立ち尽くしていた程だ。 
 そこにいる誰もが経験したことのない、大迫力な光景だった。 
 思わぬ大興奮に、伊東家の家族の表情には、久々に笑顔が零れた。 
 英明が礼を告げて、係りの者が立ち去ると、一同はお弁当を広げることにした。 
 人心地(ひとごこち)がついたところで、英明は皆から少し離れ、倉庫の壁に寄りかかり、ひまわりを眺めていた。 
 「よく来てくれたね」 
 いつの間にか隣に並んでいた人影が、そう話しかけて来た。 
 英明は、特に驚かなかった。
 そろそろ現れる頃だと思っていた。
 人影は、唯の祖父だ。
 「天気も変えられるなんて、驚いた。何でもありですね」 
 と、英明は振り向きもせずに(うそぶ)いた。 
 「私にそんなことができると思うかね」 
 祖父は愉しそうに笑った。 
 「午前二時から携帯を使えるようにするのがやっとですか?」 
 英明も笑顔を浮かべて、挑戦的な視線を祖父に送った。 
 「携帯電話か……。いつの間にか使えるようになってたようだよ」 
 祖父は、やれやれと肩を落とした。 
 英明は、真剣な顔つきになり、言った。 
 「約束、憶えてますか?」 
 「憶えてるとも。英明君はどうかな?」 
 祖父は、試すような口調で、言った。 
 「もちろん、憶えてます」 
 英明は、きっぱりと言った。 
 「いいかね、馬鹿な考えを起こしちゃいけないよ」 
 祖父は念を押した。 
 「分かってます」 
 英明は即座に答えた。 
 遠くから、英明を呼ぶ声がした。 
 「英明さーん!こっち来て、写真撮りましょうよ!」 
 陽美の声だ。 
 英明は隣を見た。 
 祖父は、もういなかった。 

最終話

 「きゃーっ!」 
 三脚を片付け、カメラの画像を確認していた陽美は、出し抜けに悲鳴を上げた。 
 全員ビクッとして陽美を振り向いた。 
 陽美の顔は青ざめていた。手からカメラが滑り落ち、土の上でガシャッと音を立てた。 
 英明は落ちたカメラを拾い上げ、画像を見た。 
 「―――!」 
 英明の視線は、ある一点に釘付けになった。 
 健司と百合も英明の元に集まり、カメラを覗き込んだ。 
 二人とも息を飲んだ。 
 ひまわり畑を背景に、英明、陽美、健司、百合が並んで写っている。 
 人物が一人、多かった。 
 英明の隣にもう一人、寄り添うように写っている人物がいた。
 唯だった。 
 「何よー、陽美。うちが一緒に写ったら、きゃーって。傷つくー」 
 全員、声のする方向へ一斉に振り返った。 
 皆、目を丸くしたまま声が出せなかった。 
 ただ一人、英明だけが平常心を保っていた。 
 「唯、元気そうだね」 
 英明は、声の主に呼びかけて、微笑んだ。 
 その声の主は、まぎれもなく唯だった。 
 唯の顔がパッと明るくなり、英明の胸に飛び込んだ。 
 「ヒデくーん!ヒデくん!ヒデくん!逢いたかった」 
 英明は、唯を抱きしめて、頭を撫でた。 
 「どうなってるの……」 
 陽美は、口をパクパクさせた。 
 唯は英明から体を離すと、今度は英明の腕に巻きついて並んで立った。 
 「ヒデくんがね、おじいちゃんに頼んでくれたの」 
 と、唯はピースサインを突きだした。 
 健司が唯に近づき、頬に触れた。 
 「唯なんだな……」 
 健司の声は震えていた。 
 「うん、お父さん」 
 唯は健司の手を握って、にっこりと微笑んだ。 
 百合も唯に近付いて来て、頭を抱きしめた。 
 「唯……」 
 百合は唯の匂いを感じていた。間違いなく娘の匂いだ。 
 気を取り直した陽美は、自分だけ取り残されていることに気付いた。 
 「あー!なんかもー、みんなズルイ!」 
 陽美は唯に飛びつき、仲間に加わった。 
  
 「うちね、今日、結婚します」 
 皆が落ち着いた頃、唯は改まってそう言い、ペコリとお辞儀をした。 
 「唯!俺まだご両親に言ってない!」 
 英明は慌てて唯に手を振った。 
 冷静に考えると、そういう次元の問題ではないのだが。 
 「うん、だから、今言った」 
 唯は、ペロッと舌を出した。 
 「ね、お父さん、いいでしょ?この人だよ。私の結婚式見せてくれる人」 
 唯は、両手を握り合わせて、健司に懇願(こんがん)した。 
 「まったく、まったく、おまえは……」 
 健司は俯いて、急激に溢れた涙を地面に零した。 
 英明は、今さらと思いながらも、健司に向き直り、改まって言った。 
 「お父さん。お嬢さんを、唯さんを僕に下さい」 
 「英明君。あんたって人は、本当に……。ありがとう」 
 健司は英明の手を取ると、感極まってワッと泣きだした。 
 百合も、陽美も、泣いていた。 
 唯は、英明を見上げて、言った。 
 「みんな泣き過ぎ。花嫁より先に……」 
 そう言って笑う唯の頬に、一筋、涙が流れた。 
  
 英明は、数日前の唯の祖父との会話を思い出していた……。 
 「なんですって!」 
 英明は声を張り上げた。 
 「意識不明の間に、君との関わりが長過ぎたんだ」 
 祖父は、そう説明した。 
 「僕の口から……」 
 英明は言葉にならなかった。 
 「そうしないと、あの子は成仏できん」 
 祖父は断言した。 
 「死んだ、と言えばいいんですか」 
 英明は声を絞り出した。 
 「そうだ。英明君、君の口から、唯は死んだということを本人に伝えてやってほしい」 
 祖父は肯いた。 
 英明は暫く考えていた。 
 熟考の末、英明は(おもむろ)に口を開いた。 
 「唯さんは、天国へ行けますか?」 
 「行けるとも」 
 「条件があります」 
 「言ってみなさい」 
 「ひまわり畑を見せること。そして結婚式を挙げること」 
 「結婚式とは!もうプロポーズしたのかね?」 
 「これからします!携帯は、まだ使えるんでしょう?」 
 「以前のように頻繁にはいかんがね」 
 「ほんの少し話せれば十分です」 
 「……いいだろう。ひまわり畑は骨が折れそうだがね。では、やってくれるね」 
 「分かりました。あと一つ……」 
  
 健司、百合、陽美が見守る中、英明は唯の手を取り、ひまわり畑の小道に足を踏み入れた。
 ひまわり畑全体が、教会なのだ。 
 小道はバージンロードだった。 
 陽美は泣き腫らした目を擦りながら、ポツリと言った。 
 「ねー、花嫁と花婿って、一緒にバージンロード歩くんだっけ」 
 「幸せなら、形なんていいの」 
 百合は英明と唯を見つめながら、そう言った。 
 気のせいか、二人の周りだけ特に明るく光が降り注いでいるように見えた。 
 二人の後を追うように、何処からかたくさんの蝶が現れて、ヒラヒラと舞っていた。 
 「おい……」 
 健司は、二人を指差して、言った。 
  
 英明は唯とバージンロードを歩きながら、約束について考えていた。 
 「なかなか欲張りだね。私は神ではないよ」 
 祖父は豪快に笑った。 
 「できるんですか?」 
 英明は真剣だった。 
 「できるとも」 
 祖父は力強く請け負った。 
 「ありがとうございます」 
 「礼は、お互いに終わった後にしよう」 
 「はい」 
 「最後に、ひとつ忠告するよ。いつまでも一緒にいよう、などと絶対に言ってはいけない。もし口にしてしまえば――」 
 「分かってます」 
 「よろしい」 
  
 陽美は、ほーっと息を吐いた。 
 「……!お姉ちゃん……。綺麗……」 
 唯は純白のウェディングドレス姿になっていた。 
 英明も純白のタキシードだ。 
 「あれは……」 
 健司は喉を詰まらせた。 
 家族全員が分かっていた。 
 唯が身に(まと)っているウェディングドレスは、百合が結婚式の時に着た衣裳だ。 
 自宅にずっと飾ってある筈のウェディングドレスを、唯は着ていた。 
 うちね、お母さんのドレス着て、結婚式挙げるの。 
 唯がいつも言っていた言葉を、皆思い出していた。 
 百合は顔を覆って泣きだした。 
 陽美は百合の肩を支えて声をかけた。 
 「お母さん、ちゃんと見てあげようよ」 
 「そうね、そうね」 
 「ほら、あれ!」 
 陽美は感嘆の声を上げて、百合の肩を揺さぶった。 
 百合は溢れる涙を拭いながら、二人の姿を見た。 
 二人の周りを舞っていた蝶が、羽の生えた子供の姿に変わり、ウェディングドレスの(すそ)を持ち上げた。 
 「天使が裾持ちしてる。可愛い」 
 陽美はうっとりとした。 
 「夢みたい」 
 百合は涙が止まらず、そう言うのがやっとだった。 
 健司は、感無量の思いで唇を噛みしめていた。
 陽美は、胸の前でそっと手を握りあわせた。
 「おめでとう。お姉ちゃん」
  
 英明は唯の姿を見て、最後に付け加えた約束も聞き届けられたのだと、ほっと胸を撫で下ろした。
 ――ありがとう、お祖父さん。
 「ヒデくん。うち、今チョー幸せ」 
 唯は、言いながら鼻をすすった。 
 「こんなに綺麗なひまわり畑、生まれて初めて見た。……ありがとう」 
 「今日のは、特に凄いんだと思う」 
 「うん……。ここで結婚式もできて、これ、お母さんのドレスだし。うち、こんな幸せでいいのかな」 
 英明は、心の底から唯のことが愛おしいと思った。 
 ずっと一緒に……。 
 「いいかね、馬鹿な考えを起こしちゃいけないよ」 
 祖父の言葉が、英明の脳裏(のうり)をよぎった。 
 英明と唯は立ち止まり、向かい合った。
 役目を終えた天使たちが、ころころと笑いながら二人の周りを舞い踊る。 
 英明は唯のベールを持ち上げた。 
 唯は、はにかんで英明を見上げた。 
 英明の心臓が高鳴った。なんて美しい……。 
 ベールが取り払われ、唯はハッキリと英明を見ることができた。 
 唯の心は、溶けて流れて行きそうだった。ヒデくん。優しいヒデくん。今日は一番カッコイイ……。 
 このまま、ずっと……。 
 「やっと、逢えたね、唯」 
 「逢いたかった、ヒデくん」 
 約束を果たす時だった。 
 「唯。よく聞いて……」 
  
 ひまわり畑の真上には、大きな大きな虹がかかっていた。 
 バージンロードで向かい合った真っ白な男女の影が、いつしか重なり合った。 
 二人の頭上から、ひときわ明るい光が筋となり降り注いできた。
 ひまわりの花びらに付いた(しずく)が、キラキラと照り返す。
 天使が一人、また一人と、柱となった光の筋をゆっくりと登り始める。
 光の柱は段々と輝きを増し、(まばゆ)いばかりの光の奔流に包まれた男女の影は、純白の輝きに溶けていった。

9月のひまわり

 本作品の裏テーマは携帯端末のコミュニケーションである。
 日本はまだガラケーが主流で、チャットといえばパソコンでやるもので、携帯電話からは精々メールのやり取りがやっとという時代に書いた作品を、二〇十五年現在に最適化して加筆訂正を行った。
 二十一世紀も十年以上の年月を刻み、携帯電話からチャットもお手の物になった。
facebookメッセンジャーやLINEの登場である。
 携帯電話とスマートフォン(スマホ)という差別化も出てきたが、本作品では総じて携帯電話と表現することにした。
 SF作品などでは現実の科学技術の進歩で風化してしまわないよう、ただ単に端末と表現することもあるが、あまりにも味気ないのと、今回は時代のガラパゴス感を優先して、携帯電話やLINEをそのまま登場させている。
 ちなみに、当時は有楽町のマルイがまだ絶賛建築中であったが、既に完成して風景として馴染んでいるため、マルイの描写をそっと修正していることは、どうでもいい話である。
 それではまた、お会いできる日を楽しみに。
 ごきげんよう。

9月のひまわり

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-30

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第一話
  2. 第二話
  3. 第三話
  4. 第四話
  5. 第五話
  6. 第六話
  7. 第七話
  8. 第八話
  9. 第九話
  10. 第十話
  11. 第十一話
  12. 第十二話
  13. 第十三話
  14. 第十四話
  15. 第十五話
  16. 第十六話
  17. 第十七話
  18. 第十八話
  19. 第十九話
  20. 最終話