桃花物怪怪異奇譚 裸足童子とたぬきの姫君15
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桃花物怪怪異奇譚 裸足童子とたぬきの姫君15
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夜のけもの道をひた走っていた。生い茂る木々の葉が幾重にも重なって月明かりを遮り、山に真の闇を作っていた。通い慣れた道程とはいえ、ほぼ視界の効かない山道を、鷹雄は転がるようにして駆け上がる。幾度か足を滑らせ沢に落ち、藪に頭から突っ込んでは、体中に擦り傷を作った。しかし、そんなことなど意に介さず、鷹雄はひたすら走り続ける。息が乱れる。顎が上がり、肺が焼けるように痛んだ。こめかみに響く自分の脈動すら煩わしく、鷹雄は獣のような唸り声を上げた。一目散に石の階段を駆けあがり、見慣れた鳥居の付近で巨大な狛犬に出会った。狛犬は警告するように低く唸る。威嚇する声だった。それでも無理に鳥居を潜ろうとすると、ついに阿形の狛犬が、太く鋭い牙を剥いて、鷹雄に躍りかかってきた。寸分たがわず首の急所を狙う、無駄のない動きだった。鷹雄は、狛犬の体当たりに遭い、鳥居の太い柱に倒れ込む。
「やめよっ。阿狛、やめよ!!」
山神姫の悲鳴が森に響く。たたき起こされた鳥たちが、驚いて一斉に夜空へとびたった。首筋に、熱い獣の息を感じ、鷹雄は身体を固くする。鷹雄の首に、今にも突き刺さろうとしていた牙が、すんでのところでぴたりと止まった。
「鷹雄、いかがした。暫く来ぬと思うたらこんな時刻に、一体何事じゃ」
夜着が汚れることも厭わず、山神姫が倒れ込んだ鷹雄の傍に膝をつく。
ああ、と鷹雄は満足げに嘆息した。
「姫、大事ないか」
「馬鹿者、自分の心配をしろ。傷だらけではないか」
涙声で罵られ、初めて自分の惨状に気付く。
「はは、確かにこれは酷いな」
「笑い事ではない。よいから社に入れ」
「姫様!なりませぬ。そやつは人間ですぞ」
目を剥いて吠えたのは、先ほど襲ってきた阿狛だった。
「構わぬ。傷だらけなのじゃ」
「いいえ、なりませぬ。人と神、境を破ることになりまする」
「では捨ておけというのか。阿狛、お主は酷い狛犬じゃ。お前など、嫌いじゃ」
「なんと!」
嫌いと言われ、阿狛はしゅんと項垂れた。そこへ、吽狛が、のんびりとした声で割って入った。
「まあまあ、阿狛、よいではないか。みればその男、酷く疲弊しきっておる。山に捨て置けば命を落すやもしれん。ヒトを見殺しにしたとなっては我々も寝覚めが悪かろう。何より山神姫様の威信に関わる」
吽狛の取りなしに、阿狛は、むうと唸って黙った。
「吽狛、ありがとう。大好きじゃ」
はしゃいだ山神姫の声に、大好きと言われた吽狛は相好を崩し、阿狛は不満げにそっぷをむく。
「すまぬ、阿狛、そう拗ねるでない。嫌いと言うたが嘘じゃ。阿狛も大好きじゃ。阿狛も吽狛もどちらも妾の大切な家族じゃ。鷹雄を社まで運んではくれぬか。妾では重とうて運べそうにない」
山神姫にそう言われながら、顎のあたりを撫でられると、拗ねながらも阿狛のふさふさとした立派な尾が嬉しげに左右に揺れた。
自分で歩けると口を開こうとした鷹雄だったが、なぜか体に力が入らない。疲れているせいだろうか。山神姫と狛犬達ののどかなやり取りが遠く近く湾曲して聞こえ、背筋に泡立つような寒気を感じた。
これはもしや、いやまさか。
言うことを聞かない身体を投げ出し自問自答を続けるうちに、鷹雄の意識は闇に溶けた。
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次に目を覚ました時、初めに目に入ったのは、視界いっぱいに広がる分厚く赤い舌だった。驚いて跳ね起きると、酷い頭痛がしてくらりと再び意識が遠のく。がくりと傾いだ身体を何とか腕で支えた。ぐらぐらと地面がゆれているようだった。
辺りを見回すと、くにゃくにゃ揺れる部屋は十本の丸い柱で仕切られているようだ。両脇の金地の襖には、緑の木々が茂り、鳥がさえずり、鹿が跳ねる豊かな御山の四季が彩鮮やかに描かれていた。足元の簾の向こう側からは、やわらかな光が差し込んでいる。どうやら既に朝日が昇っているようだ。
どれくらい寝ていたのだろう
「姫様、山神姫様、人間が起きましたぞ」
阿狛が雷のような遠吠えで山神姫を呼ぶ。どうやら鷹雄の傍らにずっと鎮座していたらしく、鬼瓦のような厳つい顔つきの狛犬が行儀よく前足をそろえて座るさまはどこかユーモラスだった。
「世話をかけて申し訳ない」
頭痛と吐き気に耐えながら、何とか上半身を起こすと、まったくだとでも言いたげ気に、阿狛は荒い鼻息を返す。
目を動かすたびに眼球の奥が酷く疼いた。節々も痛い。脈動に合わせて頭の奥が強弱の痛みに見舞われる。恐らく熱も相当あるだろう。
ついにか。
鷹雄は小さく笑った。ついに自分の番がきてしまった。しかし、そうと分かればぐずぐずしている暇はない。何より自分がここにいるだけで最愛の姫を危険に晒すことになる。鷹雄は残った力を振り絞って、立ち上がった。
「おい、何処へ行く。今、姫様がここに」
「狛犬殿、お願いがある」
鷹雄の常にない気迫に圧され、阿狛が動揺を見せる。
「俺は今すぐここを出る。俺がでたらこの敷物をすぐに焼いていただきたい。そして、この部屋すべてを一度拭き清められよ。必ずそうして欲しい」
「何を急に」
「必ずそうすると約束してくれ」
鷹雄の余りの必死さに、阿狛は何かを察して声を落した。
「貴様、質の悪い病を患っておるのか」
「すまぬ。昨夜は姫が心配でいてもたってもおれず、ここへ来てしまった。己が病にかかっているとは思いもしなかったのだ。しかし、姫を危険に晒したくない。頼む、必ずそうしてくれ。そうでなければ死んでも死に切れぬ」
鷹雄の口から出た死という言葉に、阿狛は一瞬大きく目を剥きその後小さく唸った。
「是、である」
「ああ、ありがとう。私などが言うことではないが、姫を幾久しく守ってくれ」
「貴様に言われるまでもないわ」
「ああ、そうだな」
やけに、さっぱりと笑う鷹雄を気味悪げに眺め、阿狛はぼそりと呟いた。
「貴様、死ぬのか」
「やもしれぬ」
「馬鹿を申すでない!どういうことじゃ、鷹雄。死ぬとは、焼くとは何の話じゃ姫様が悲しまれる。しかも、姫様に挨拶もせずに出ていくつもりか」
「最後に健やかな姿をみられた。それで十分。私がもし下山できずに途中で力尽きていたら、すまぬが姫が見つける前に俺の身体を焼いてくれ。どんな障りがでるかわからないから」
今度は阿狛が是と答えなかった。
「姫を頼んだぞ」
「無論じゃ!貴様に言われるまでもない!」
「ああ、そうだろうな。余計なことを言ってしまった」
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まったくだとでも言うように、阿狛はまた、横に大きく広がった鼻腔から、大きく鼻息を吐き出す。
「では、私はこれで」
「おい、ちょ、ちょっと待て!」
鷹雄が、萎えた足に無理やり力を込めて廂へ向かうと、急に脇に遭った几帳が激しい音を立てて、倒れた。
目に涙を浮かべた山神姫が立っていた。その後ろには、まずいことになったと渋面を作る吽狛が控えている。山神姫に払われた几帳が無残に簀子に転がっていた。
「姫、あなたは気にしなくていい」
鷹雄はなるべく穏やかな声で諭すように言うが、山神姫はそんなものには惑わされなかった。
「鷹雄、お前は病を患っておるのだな。それで妾を頼ってやってきたのか」
「違う!断じて違う」
今度は鷹雄が声を荒げた。
「私はただ、あなたに会いに来ただけだ。願いが叶ったから、これで山を下りる」
言いながら、鷹雄は狩衣の袖で口元を覆う。飛沫による感染を防ぐためだった。
「嘘を申すな。お前は重篤な病を患っておる。この山神姫に隠せるとでも思うておるのか」
山神姫は一歩も引く気はないらしい。珍しく乱暴な足取りで鷹雄に近づき、その袖をぐいぐいと引っ張って、母屋に戻そうと躍起になる。しかし、病み衰えているとはいえ鷹雄は男。動かすには山神姫はあまりに非力だった。ついに、疲れた山神姫はぺたんと簀子の床にへたり込んでしまった。それでも、逃すまいと小さな手で鷹雄の袖をしっかりと握りしめている。鷹雄は男らしい太い眉毛を下げて、困ったように笑ってから、山神姫の傍らに腰かけた。
「姫、聞き分けてはくれぬか。また、すぐに会いに来る」
「嘘じゃ」
間髪入れずに山神姫が否定する。
「お前はもうこの御山には来ぬ」
あまり長く近くにいると、山神姫に移してしまうかもしれない。鷹雄は山神姫の手をそっと自分の狩衣の袖から離そうとするが、姫が頑強にそれを拒んだ。
「姫あまり困らせないでくれ」
「鷹雄が我儘を言って妾を困らせておるのだ」
「あなたに病を移したくない。あなたは人間の病に慣れていない。どんな症状がでるかもわからない」
「構わぬ」
「私が構うのだ」
「なぜ分からぬのか、この石頭め!」
山神姫が癇癪を起して、足をバタバタさせた。
「鷹雄、妾はお前を好いておる」
「姫様、なんとはしたないことを!」
唐突な告白に、ことの成り行きを見守っていた狛犬達が音をたてて、しっぽまで赤くした。しかし、山神姫は意に介さず、さらに言葉を重ねた。
「妾にはお前を助ける術がある。それを使わせてはくれぬのか」
「まさか、姫!」
「なにを血迷って!」
狛犬達はがくんがくんと頭を振りながら慌てふためいている。
「仙酒のことを言うておるのか」
「そうじゃ」
「それはヒトに使ってはいけないものなのだろう」
「大切な者を助けたいと思う気持ちに神も人もない」
「あなたに迷惑をかけたくないのだ」
「人間、妾を見くびるな!」
急に山神姫は打ち付けるような鋭い声をあげた。怒りに震える山神姫の口元からは獣の牙が覗き、瞳が赤々と光った。
「人間が妾に迷惑など、無礼千万。この山神姫が人一人の命すら救えぬ無能に見えるか。それくらい造作ないことじゃ。それとも、妾が獣神であるゆえ、侮っておるのか」
「そんなわけがあるものか」
意外な反応に鷹雄は目を丸くする。狛犬達も何か言いた気であったが、先ほどの山神姫の迫力に押されて、尾を足の間に丸めてしまっていた。
「では、妾の言うことを聞け。まったく手間をかけさせる」
山神姫はいそいそと螺鈿の二階棚のうえに置いてある杯と桐の箱を持ってくる。中には白い素焼きの徳利があった。山神姫がそれを杯に注ぐ。徳利の口から清流のように澄んだ酒が溢れた。
「さあ、飲め鷹雄」
にこにこと山神姫が笑う。
「本当に、私が飲んでもいいのか。あなたに不利益がかかるようなことはないのか」
「鷹雄、くどいぞ。つべこべ言わずにさっさと飲め」
強い口調で促され、鷹雄は躊躇いながらも杯に口をつけた。ほのかに甘く、きりりと澄んだ酒が焼けるように疼いていた喉をするすると流れ落ちていく。途端に、胃に腑から湧き上がる吐き気も、震えが止まらないほどの悪寒も、のたうち回るほどの頭痛も、一瞬で霧散した。
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なんと
これが山神姫の仙酒の力か
目の前にいるこの可愛らしい女人が、神世の住人であることをまざまざと見せつけられ、鷹雄は言葉を失った。
「どうじゃ。鷹雄。気分は。具合ようなったか」
山神姫は無邪気に鷹雄の快癒を確信して微笑んだ。
「あ、ああ。驚いた。もうなんともない。信じられないほどだ」
鷹雄は恐る恐る、手足を動かしてみる。節々の痛みもなければ熱もすっかり下がっている。萎えていた足にも力が戻っていた。
これほどとは
鷹雄はこの仙酒を都の病人たちに飲ませたいと思った。そうすれば為す術なく死んでいく人びとを助けることができる。
これを持って一緒に都へ来てくれ
喉まで出かかったその言葉を鷹雄はすんでのところで飲み込んだ。神世と人の世、二つの世界の均衡は非常に繊細で、簡単に壊れてしまうものらしい。しかも、わずかな接点で繋がっているだけだ、いつ切れてもおかしくはない、だから、神も人も双方関わるときは細心の注意をはらわねばならないのだ、と陰陽寮の人間が言っていたことを思い出したからである。
きっと、此度のことは山神姫が無理を通したのだろう。それが都中の人間に関わることとなると、明らかに神世と人の世の均衡が壊れてしまう。安易に山神姫に頼ってはいけない。人の世のことは人間がなんとかしなくては。
しかし、山神姫は、神から罰を受けたりはしないのか
「こんなことをして、姫は本当に大丈夫なのか。禁を犯したことになるのだろう」
言外に匂わせた意味を山神姫は正しく読み取り安心させるように笑った。
「なんじゃ、信用のないことじゃの。お前ひとりくらいどうとでもなるのじゃ。快癒したと言えど病み上がりぞ。もうしばらくは床におれ。妾は日課のご挨拶に行って参る」
「ここにおりたい。あなたといたい。だが、仕事を放り出してきてしまった。早く戻らねばならぬ」
そうか、と山神姫は頷いた。
「またしばらくは来られぬかもしれん・・・けれど、必ず来るから、待っていてくれ」
山神姫はにっこり笑って頷いた。
寝殿から狛犬と共に去っていく山神姫の後姿を見送り、鷹雄は階を降りる。これから薬典寮に帰ってまた、治療方法をさがさなくてはいけない。鷹雄は決意も新たに一路、都を目指した。
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