自我の実験1 砂漠のまち
ふと気がつくと、干からびた砂漠に立っていた。乾いた白い建物のまちの中に、人々の生活があるようだった。強烈な陽光が白に照り返っていて、慣れるまで目を閉じた。
まちには確かに人が暮らしていたが、圧倒的に水が不足していた。頭に甕を掲げ持って往来する人々は、男も女も奥歯を噛みしめ、下向いて、地面からの熱気に纏わりつかれた足を一歩ずつ進めていた。
「子供に呑ませる水が足りない」
このまちの水は、いったいどこから汲むのだろう。
男が一人、役人に縋りついている。
「子供に呑ませる水が……」
役人は汗をたらして熱い地面にひれ伏す男を、冷やかに横目で見ていた。
このまちは何だろう。この砂漠に取り残されたまちは……。
「知らないのか?」
日陰の壁に立つ男に心を読まれた。ヤギヒゲのまばらな男は、若くもないし年寄りでもない。
「ここは砂漠のまちだ。このまちは、この星で唯一の生き残りだよ」
男は口元だけで笑って見せた。
「どこへ行っても逃げられやしない。この星はどういうわけだか、一年中日照りが続く。文明は退化したし、気力は太陽に奪われた。人間はただ我慢して、最後の水の一滴まで、起きては寝ての繰り返しだ」
よく見れば、目前の男も、まちの人々も、皆痩せこけている。骨ばった手足で、それでもまだ動き歩いている。だが、呼吸は浅い。声は異世界の音のように遠い。
「どうして来たかは知らないが、外から来たならよく見ておくがいい。ここは人類終焉の星だ。文明のある星から来たなら、その崩壊がどんなものだか、見ておくのも一興だろう」
文明どころか……。どうしてここへ来たのか、どうやって抜け出せるのか、何も分からないというのに……。もしも帰れなかったら……。この星から抜け出せなかったら、いったいどうなる?
この星と、まちと一緒に滅びゆく、某かの未来が見えた。背筋を汗が流れていく。熱気にまみれて、涼しくもならないが。
男は、まだこちらを見ている。 ヤギヒゲの暗い眼の底には、何かギラギラとした光があって、それが人を捉えて離さない。喉の渇きを感じる。気休めにもならないが、熱い唾を意識して呑みこんだ。
鈍い音がした。すぐ近くだ。
ヤギヒゲの視線が動いた。
見ると、数メートルも離れていない場所に、男が倒れていた。
その身体は、ぴくりとも動かなかった。代わりに、首があらぬ方向に曲がっていて、顔半分は塗り潰されたように暗く沈んでいた。表情は……目も当てられない。
熱気に、酷い生臭さが混入される。その場を、とにかく離れたかった。だが、ヤギヒゲの視線に捕まった。
何故、平然としているのだろう。この男は、眉一つ動かさない。
すると、白い建物の中から、青年が飛び出してきた。
ヤギヒゲの視線に操られように、その光景を見た。青年は何事かを叫びながら、倒れた死の傍に立った。生臭い死を足元にして、いったい何を見ているのか、焦点の定まらない目をして、辺りをぐるぐる見回していた。
人々は変わらず、足を引き摺るようにして行き過ぎていく。
次の瞬間、何を思ったのか、青年は大声で笑い始めた。
「バカじゃないぞ、僕はバカなんかじゃないぞ」
そんなふうに喚いて笑いながら、白い建物へ再び駆け込んだ。だが、それも一瞬だった。次に駆け出して来たときの青年の動きは素早かった。人々が足を引き摺って歩く往来に飛び出して、笑いながら、背を丸めて、がくりと膝を折った。その手には、ナイフが握られていた。
惨劇だった。
まるで歓喜するような表情をして、青年は深く身に沈めたナイフを引き抜き、その血に塗れた同じ手で、幾度も自分の身体を傷つけた。バランスがとれなくなり、上体を折り曲げて倒しながら、笑いながら……。
「僕は正しいんだ。正しい……」
青年の最期の言葉と笑い声は、熱に揉まれて消えた。じりじりと焼かれる惨劇だけが、その場に残り続けていた。
ここは、地獄という場所だろうか。
青年の無残な死の横を、人々はまるで何事もなかったかのように、相変わらず足を引いて行く。
膝が、がくがくと震えていた。
「地獄の方がマシだろうさ」
ヤギヒゲだった。
何故、平然としているのだろう。何故、男は死んだのだろう。何故、青年は自らに死を与えたのだろう。
何もかもが解せない。
吐き気がしたが、太陽に焼かれた頭はもう吐き方も覚えていないように思えた。
「だから、ああして死んでいく。文明の終わりには、皆が我慢比べをしているようなものだ」
世界を見たす熱気は、二人の人間の死の臭いで満ちていた。
数人の役人が男の死の傍へやって来て、片付けを始めた。何の感情もない目だった。少し視線を動かせば、青年の死も同じように、無感動に片付けられ始めていた。
「仕方のないことだろう」
卒倒してしまいたかったが、ヤギヒゲの目がそれを許さなかった。
「こうも暑いばかりの世界では、皆気が変になるのさ。皆、地獄の方がマシだって知っているんだ」
ヤギヒゲが、口元だけを歪めて笑う。
「一人目が死ねば、それに続いて二人目、三人目、……。今日は二人目までのようだが」
いったいこの世界はなんだろう。皆が生きながら死を待っているというのか。待ち焦がれ、待ちくたびれてでもいると言うのだろうか……。
足を引き摺って歩く人々。その表情には、僅かな苦悩の他は何もない。
「合点のいかない顔をしているな。だが、よく見て、覚えておくんだな。これが文明の終焉だ」
文明の終焉?
だからと言って納得するには、あまりに残酷な世界じゃないか。片付けられた死の後にも、くっきりと血の汚れは残っている。世界全体を蒸し上げたようなまちは、空気を停滞させて、こんなにも強い生臭さを内包しているというのに
「これが、終焉の日常だ。仕方がないことだろう」
まるで、絶望の国だった。
「希望を持っても何にもならん」
男が何かを押し込めるように、静かに目を閉じた。
途端に、呪縛が解けたように震えていた膝が折れた。勢いで、干からびた地面に、やにわに嘔吐した。
終
自我の実験1 砂漠のまち