今川の刺客

二村 漣

時代小説を書いてみたいと考えていた時があり、なかなか面白い題材が見つからず、しばらくほっておいたのだが、ある時桑原甚内のことを何かで読んだ。こりゃ、面白いと思い、書いてみた。

桶狭間の合戦に向かおうとしていた信長に一つの不安があった。彼自身も家来も義元の顔を知らないことだった

今川の刺客
                

                                                                   二村 漣


      一


其の男は、軍議を早々に終えるとそくさくと天守に昇り、南の方を眺めるのだった。まったく、意味の無い、収穫の無い軍議に少しばかり腹を立てていた。いまは五月の半ばを過ぎたといえ、夕方は暗い。特に今日のような雲の多い日では。
明日の天気はさらに悪くなるであろうと男は思った。尾張の南、鷲津、丸根の状況は如何なものか?
少し前、家臣の者から今川勢の攻勢を受けているとのこと、拙いな。
 永禄三年(一五六〇)五月十八日。信長は、今川勢の攻勢をどうかわすべきか思案していた。
 今川の狙いは、上洛?一向宗供と呼応しこの信長を揺さ振ろうとしているのか?
 いや、単に鳴海、大高の領有を狙っているだけなのかも知れぬ。となれば、この信長が動かないわけにはいくまい。
 今川の兵力は、凡そ二万ぐらいだろう。対して、この信長、二千集めれば善いところだろう。難しい戦になるなと。
 もう一度、南の空を見上げた。
どうするのか?西に目を向けると灰色の雲が覆い始めていた。
 まったくもって都合がよいのだ。狙い通りに動いている。
 もともと、信長には、清須城に篭城し、今川に対峙するという考えはなかった。城を出て、今川を迎え撃とうとしか考えてなかった。難しい戦であることに違いはなかったが、まったく賞賛がないわけではなかった。
 敵は、緒戦の勝利に酔っているはずだ。明日は兵を休ませる為、何処かに陣を置くはずだ。何処だろう?我々の砦がある鳴海の近くまで来るだろうか?
 否、少しばかり離れたところに陣を置くだろう。そうなれば、有松からもう少し奥まったところ本陣を置くだろう。
自軍が大軍である事、よもや、この信長の軍勢が城を出て、決戦を望んでくるとは考えないはずだ。
加えて、この天候。となると、今川勢を奇襲するには絶好の機会と考えていい。善照寺砦から打って出て、東から回り込んで、その地形を利用して、北側の丘陵から本陣目掛けて襲い掛かる。理詰めで考えることが信長は好きだった。
だが、信長には一つの不安があった。それは、信長、家臣を含めて誰一人として今川の顔を知らなかったのだ。注意深い今川のことだ、影武者の一人や二人伴っているに違いない。
我々は、相手の将の顔を知らないとは。それでは戦になるまいと口髭を弄りながら、信長は思った。信長は、清須の城から、もう一度東の空を見た。
今川、敵将の顔をどうやって知る方法は、色々思案を巡らしてみたが、妙案は、浮かんでこなか
った。
 やがて、男が一人目に入るのだった。
「申し上げます。今川勢、鷲津、丸根砦の攻撃始まった様子でございます」
 信長は立ち上がり、唸りはじめた。
「人間五十年、下天のうちを比べれば・・・・」と『敦盛』を舞うのであった。 
 

   二


「甚内様は、何処にいかれたのですか?」と妹のスズが兄、戸部仁左衛門に尋ねるのだった。
「さて、何処にいかれたのでしょう」と仁左衛門は答えるのであった。
 スズは、この甚内という男に惹かれるものがあった。顔立ちは、美男とは言えぬが、力強く気性が激しそうに見えるが、彼の仕草、言葉遣い、細やかさは相反するように思え、今まで彼女が出会ったことの無い男であった。その外見だけでは、彼の年格好は想像つかなかった。二十半ばか、三十過ぎか、如何様にも思えるのであった。
ところがである、兄、戸部仁左衛門は、甚内どころではなかった。上洛のため、今川勢が国境に迫っているというので、戦の準備を整える必要があるのだった。戸部仁左衛門は、この地方の郷士で、織田側と深い関係にあった。

 その桑原甚内は、夕方、戸部の屋敷に戻った。桑原は数ヶ月前、ふらりとこの地に現れ、この戸部の処へ居候していた。
 そして、ここ数日、下僕弥蔵となにやら、朝早くに屋敷をでると夕方まで帰らないことが多かったが、この日は一時ばかり早く戻っていた。戻ると戸部に会いたいと申し出るのであった。
 現れた桑原を見て、戸部は驚いた。
「桑原殿、どうされたその頭、髷をどうなさった?」
「じつは、戸部殿、拙者、話さなくてはならぬことがあります」と桑原は、ほとんど丸刈りとなった頭を掻きながら言うのだった。
 桑原は、話しを続ける。かつては武田重臣、原虎胤の三男であったが、兄原盛胤の命により、駿河に入り、臨済寺雪済和尚の弟子となり、菩提寺の小僧として勤めをしていたとき、些細なことから今川家の近習七人と口論になり、数名を殺めてしまい、逃げることになり戸部殿のお世話になって、いまに至ることを。
 戸部は、桑原の話を聞いて驚いた。雪斎和尚といえば、今川義元殿の養育係であり、今川義元殿家督継承後も、懐刀として力を発揮している人物である。
「成る程、桑原殿。その所作からなにやら一角の人物だと思っていたが、そのような理由が
あったとは。よろしい、この戸部、桑原殿ために、一肌も二肌も脱ぎますぞ」
「かたじけなく思います。先ず、戸部殿。不躾なお願いだが、手紙を書いて欲しいのだが」
「ほう、誰宛でござるか?」
「そうですな、信長殿が一番だが、そうともいかないので、旗本衆の誰か宛てでお願いしたい」
「どういう内容で?」
「戸部殿、もうすぐ戦が始まりますな。今川と織田との戦。噂によれば、鷲津、丸根の砦は風前の灯とか。
 通常であれば、織田側は清須に篭城し、戦うのが定石。が、織田殿の考えは、そうではないらしい。織田殿がそういう考えであれば、拙者が幾ばくか協力できるというもの。
 が、拙者は、織田殿との縁も所縁も無い者。拙者の言う事を信じてもらえまい。
 そこで、一筆したためて貰いたい。拙者が信用できる人物で、必ずや織田殿に役立つであろうということを」
 戸部はしばらく考え込んでいたが、
「よろしい、一つだけお尋ねしたいのだが、桑原殿が織田殿に役立つと仰つたが、それはいかなることか?」
「拙者は、義元殿の顔を存じているのです」
「桑原殿、承知した」と戸部は言って、手紙を書き始めるのだった。

 信長が清須城を出陣し、熱田、笠寺、天白川を通り、善照寺砦に到着した時、旗本が一人、傍に来た。
「親方様、お話があります。桑原とか言う浪人ものが親方様に御目通りしたいと言っています」
「何ようだ?」
「その男、面白いことを言うのです。拙者は今川義元の顔を知っていると」
 信長は、それを聞き、耳を疑うのであった。何、義元の顔を知っている武士がここに来ていると、なんということだ。なんと都合のいいことだ。この天候といい、一番案じていたことをここにきて解決しつつあるのだ。これこそ、天佑神助というべきだろう。
「まことか?」
 そう言ったものの、信長は次のように言うのであった。
「今川が放った刺客ではないのか?」
「そう思われたので、色々問いただしてみると、戸部仁左衛門殿の手紙を持参していました」
「何、戸部の手紙を」
「はっ、」
信長は、手紙を読み始めた。
「面白い、会ってみよう。はよう連れて参れ」

 浪人者、桑原甚内は、信長の前に現れた。
 男は一礼すると、
「親方様、拙者桑原甚内でございます」と言うのであった。
 頭は丸坊主、質素な黒の胴丸、篭手、佩楯、臑当を身に纏っていた。兜は被っていなかった。
「拙者桑原甚内は、この度の戦、義をもって織田殿へ加勢すべく、馳せ参じました」
「ほう、其の方、この信長に加勢したいと申すのであるか?」
「仰せの通りでございます」
「又、この信長に何やら申したことがあると聞いた。この信長に言うてみい」
「拙者、義元殿の顔を知っています」
「ほう、義元殿の顔を」
 信長は、桑原の顔をじっくり見た。なかなか意志の強そうな面構えであった。
「桑原殿、その出で立ち、この信長と一緒に出陣するお積りか?それに、髷はどうなされた?」
「いかにも。髷は、坊主となって鷲津、丸根砦見回るにあたり不要なので、自ら、髷を切り落としました」
「成る程」
「では尋ねよう、桑原殿。かつては、今川殿の家臣とお見受けしたが、この信長と一緒に出陣する理由は如何に?」
「私怨でございます」
「私怨?」
「いかにも」
 桑原は、今川家で起きた事を一部始終、信長殿に説明するのだった。
「桑原殿、正直者よ。この信長、気に入った。この戦、桑原殿の双肩にかかっておる。頼むぞ。必要なものがあれば、何でも言え!この戦、勝利の暁には、恩賞をとらわす」
「はっ、有難き幸せ」
「ところで、桑原殿。今川の動向をどうみる?鷲津、丸根砦を落とした今川の動きは?」
「恐れながら申し上げます。兵を休めると思います。この天気、今川はどこかで休むものと思います」
「それはどこだ?桑原殿の考えをお聞きしたい」
「桶狭間の辺りと考えます」
 信長はにやりと笑い、言う。
「よい。桑原殿、貴公、切れるのう」
「では、桑原殿。この信長と出陣いたすか?」
「望むところでございます」と甚内は答えるのだった。


 が、信長は桑原を決して信用しようとはしなかった。家来、服部小兵太と毛利新介を呼び、こう説明した。
「親方様、御呼びを」
「おう、服部、毛利!参ったか?」
「はっ、」
「貴公達は、桑原という武士と共に先陣をきれ!桑原は屋敷の前庭にいる!」
「はっ、」
「よいか、桑原は今川の顔を知っている。彼に従い、今川の首を上げぃ! 但し、桑原に不穏な動きあれば、即刻、斬り捨てぃ!」


   三


 雨が、激しく降り始めた。
 信長一行二千騎は、善照寺砦から中嶋砦へ移動。頃合いを見て打って出て、東から回り込んで、その地形を利用して、北側の丘陵から本陣目掛けて襲い掛かる手筈だった。
 信長も桑原も、今川が有松からすこし東の桶狭間辺りで兵を休めていると睨んでいた。
やがて、中嶋砦を出発する前に出しておいた斥侯が戻ってきた。
信長は、「殿、今川は桶狭間でございます」と報告を受けるのであった。

信長一行は、桶狭間に向かって進んだ。一時は激しく降った雨であったが、今は殆ど降っていなかった。
 暫く進むと、眼下に今川の旗印が翻る本陣が見えるのであった。
 武者姿の信長は、
「すは、かかれー!かかれー!」と怒号を上げるのだった。
 桑原は、服部小兵太、毛利新介と共に今川本陣目掛けて突進するのであった。

 奇襲攻撃は、見事に成功した。今川側は、まさかこんな近くに織田側の軍勢がいたとは、誰も予想していなかった。
 織田の軍勢は、今川の見張りを倒して、本陣に殺到した。本陣は、織田の軍勢に蹂躙されたが、肝心の義元の首を得ることが出来なかった。桑原は、必死に義元を探したが、見つからなかった。

ふと見ると、若い武士が桑原を背後から襲おうとした。その太刀をかわすと、桑原はその男の顔面に一太刀を浴びせた。血飛沫を上げ、倒れていく男の顔が何故か気になった。
思い出した、奴こそ義元の近習の一人だ。
「各々方、この男は近習の一人でござる。狙う義元は近くでござる」と桑原は叫ぶのであった。
 続けさまに、二人の武士が桑原を襲った。ごめんとばかりに、桑原は、一人の武者の右手を叩き切った。そして、もう一人を刀で喉元を突くのであった。深紅の甲冑姿の武者が現れた。義元の特徴である立派な口髭を蓄えていた。
 桑原は、その甲冑姿の武者を一瞥しただけで、
「服部殿!毛利殿!左側の武者でござる」と叫ぶのだった。
小姓、馬廻が走り回っている。
「であえ、であえ!」
 隠れていた近習がその武者を囲んだ。
「拙者が、その近習供を!服部殿、さっ、一番槍を!」
 桑原は、そう叫ぶと護衛の者を二人ばかり組み伏せた。
 服部小兵太が、槍を義元の胸目掛けて突いたが、打ち払われた。姿勢を崩した小兵太は、義元の太刀を受けるのであった。
 尽かさず、毛利新介が義元に一太刀を浴びせ、組み伏せるのであった。
「義元を倒したぞ、倒したぞ」と毛利殿の吶喊。
 その声を聞くや否や、今川の軍勢は総崩れとなり、岡崎の方へ配送するのであった。


   四


 戦は終わった。織田勢の勝利だった。
戸部の地は、呼続と笠寺の間にあり、幾分小高く、西側は低地と沼地で、しばらくいくともう海であった。
桑原甚内は、戸部の地にある小さな神社の裏にいた。其処には小高い丘があり、近くに小さな沼地がある。無数の葦が生えており、水鳥がやって来ては、暢気そうに小魚を啄ばんでいた。
 風は穏やかで、昨日の天気が嘘のようだった。積年の私怨は晴らしたものの、何故か、心は晴れなかった。
織田への仕官をも考えたが、それは辞めた方が良いだろうと思った。気性の激しい織田殿だ。卑しくも一度仕えた主君を裏切ったことになるのだから、決して信用されないだろうし、何かの折、詰め腹を切らされる事だろう。
桑原は、何とついていない人生だとその自分の運命を呪うのだった。が、落ち着いて考えてみると、仕方のないことだった。自分の器量不足から始まったこの人生、自分で始末を付けるしかなかった。
陽は、ゆっくりと西に傾き始めていた。沼地の向こうにある桑の葉が黄金色に輝き始めた。時々吹く海からの風が心地よかった。

 沼に目を落とすと、数羽の水鳥が飛び立つのだった。それを何気なく見ていた桑原だったが、にわかに殺気を感じた彼は、太刀の柄に手を伸ばした。
 葦原の影から、侍が二人踊り出た。
 一人が、「桑原、この裏切り者!」と叫びながら、襲い掛かった。
身を屈めた桑原は、敵の右腹に一太刀を決めた。相手が倒れると、彼は振り返り、もう一人相手の喉元に素早く一太刀を決めるのだった。
彼は刀を鞘に戻した。彼の脳裏には、裏切り者という声がいつまでも響くのだった。

遠くで、「旦那様、」と下僕の弥蔵の声がした。
「おお、弥蔵。どこにいた?」
「戸部様のお屋敷にいなかったので、旦那様を探していました。大変心配していました。すぐに、戸部様も此方にやって来ます」
「それはすまなかった、心配かけて」
「このお侍は?」
「分らん。いきなり斬り付けて来た」
「御怪我は?」
「ご覧の通りだ」
「ご無事で何よりです」と弥蔵は言う。

 しばらくして、戸部とスズがやって来た。
「桑原殿、お怪我は?」とスズ。
「ご心配をおかけしました」
「さすが、桑原殿。お見事でござる。さて、この者達、どちらの手の者か?」
「実は、戸部殿。拙者を裏切り者と言うて斬り付けて来たのでござる」
「成る程。ということは、今川の残党ということか・・・」と戸部は言った。
 桑原は、静かに西に落ちていく陽を見ていた。
やがて、口を開いた。
「拙者は裏切り者だ。拙者の人生にはこの言葉がついてまわる。それは、拙者が死ぬまで纏わりつくことだろう。いま、ようやく分った」と静かに言うのだった。
 戸部は、何も言わずに桑原の顔を見た。彼の腹は決まったようだと彼は思った。
スズは、なにやら不安そうな顔をするのだった。

 清須城。
 信長は、戸部と桑原を待っていた。
「戸部はどうした?桑原はどうした?」と信長は家臣に言う。
「この度の戦、彼等の功績大である。それなのに、彼らはどこにいるのだ?」
「親方様、お話が」と家臣の一人が信長に言うのであった。
「おう、話してみよ」
「先程、戸部殿から使者が参りまして、今回の恩賞を辞退したいとのこと」
「何?何故じゃ?」
「実は、桑原殿は、今川の刺客に狙われ、どうも国許に帰ったとのこと」
「帰った?」
「そう申していました」
「そうか、」と信長は言うと、居室へ戻るのであった。

 信長は、酒を飲みながら思うのであった。
 桑原の奴、小癪な奴よ。この信長の恩賞が要らぬと抜かしおって。刺客でも出して、始末してやろうかと思ったが、やめた。
が、奴め、どういう考えで、国許に帰るなどと言うのだ。この信長が信じられないというのか?
信長は自分のことを考えてみた。確かに、自分は優しい人間ではない。この戦国の世を終わらすためには、世間から鬼と呼ばれるようなこともしなければならない。
そのため、信長は好かれようとは思わないが、嫌われたくはなかった。特に、桑原のように力量のある武士、侍に対しては。
反対に、そのことが判らない家臣、武士、侍には自然と見る目が冷たいものとなるのだった。ふん、桑原の奴、もう少し、この世のことが判る奴と見たが、そうではなかったか?
残念だのう。それでは使えないな。
そんな奴とは、俺が必要とする人物ではあるまい。

信長は、桶狭間の戦いで義元から奪った太刀義元左文字を鞘から抜いた。刀紋は直刀小のたれ、丸棟鎬造り、板目肌の独特のものだった。
フフフッ、織田尾張守信長と銘を刻んでやるわい。

信長は、杯を重ねた。まあ、よい。この信長、そのような小さな器量ではないのにな。
今川を叩き潰した今、天下人に近こうなった。

翌日、桑原は戸部、スズに別れを告げるのであった。
戸部は言う。
「本当にこれでいいんだな?」
 彼は何も答えなかったが、しばらくして、
「これでいいのです」と言った。
「では、桑原殿、達者でな」と寂しそうに言うのだった。
「戸部殿、では、色々とお世話になりました。スズ殿も達者でな」と桑原は言うと、軽くお辞儀をした。スズは寂しそうな顔をした。
そして、弥蔵と甲州に向かってゆっくりと歩き始めるのだった。
「兄様、スズとてもつろうございます」
「わしもじゃ、しかしな、これも運命だ。わし等がどうのこうと言うても始まらぬ。不憫と思っているが、当人たちはそう思ってもおるまい」
「本当でしょうか?」
「・・・・・」

二人の姿を、スズは見えなくなるまで見送った。戸部にとって、彼ら二人が不憫でたまらなかったが、やがて屋敷に戻るのだった。




  5


 数日後、信長は、柴田勝家の屋敷へ赴いた。
 門をくぐると、勝家とその家臣太田牛一が待っていた。信長に一礼する。
 三人は、屋敷の裏にある茶室に向かった。茶室への入り口にある紫陽花に信長は目を留める。
勝家は、信長に茶を賜うのであった。
「庭の紫陽花が綺麗であった。勝家、この茶室の静けさは格別だ」と信長は言う。
「この勝家、嬉しゅうございます」
「そうだ、勝家。お前に土産を持ってきた。青井戸茶碗と天猫姥口釜だ」
「有難き幸せ」
 信長と太田は茶室をでて、二人は、太田の居室に入ると、信長はこの度の戦について語り始めたるのだった。太田は、それを一言も漏らさず、記録し始めるのだった。
 そして、桑原甚内の件になると、次のように言うのであった。
「この度の戦、浪人者桑原甚内の功績大なるが、この戦にて討ち死にて候」
「討ち死にですか?しかし、桑原殿は、討ち死にではなく、戦から無事に戻られていますぞ」
「いかにも」
 信長は、太田牛一に言うのであった。
「奴め、この信長の恩賞を辞退しおった。奴は、数日前今川の刺客に狙われた。
つまりじゃ、主君を裏切った者は、主君から信用されまいと悟ったのだろう。この信長とて同じと踏んだのだろう。
この信長、そんな小さな器量ではないのにな。それがわからぬ、桑原自身の器量というべきじゃ。
そして、これが、信長ができる唯一の恩賞だ。こうしておけば、今川は、奴を追い続ける事はなかろう」と太田に言う。
「親方様、承知致しました」

 信長が帰ると、太田は、縁側に置いてある竹篭に入れた鶯に餌を与えた。居室の机に墨と硯を用意し、先程の語りを清書し始めた。
 しばらく、筆を走らせ、顔を上げると、障子の隅から大きく咲いた紫陽花を眺めるのであった。

 桑原甚内、『信長公記』によれば、武田信玄の重臣の一人、原虎胤の三男。兄の命によって駿河に入り、臨済寺雪斎和尚の弟子となる。
 甚内は、今川近習七人と些細なことから口論となり、相手を殺め、尾張に隠れ住んだ。永禄三年、信長に善照寺砦で会い、信長勢に加勢し、桶狭間の戦で討ち死と伝えられている。


                 
                                                                       【完】

参考文献


戦国ごくうサイト まいなー武将列伝
激震 織田信長  破壊と創造の戦国覇王   学研 出版 

今川の刺客

 桶狭間の戦いのような書き尽くされた出来事にもこのようなミステリーじみたことがあるなんて

今川の刺客

桶狭間の戦いを控えた信長には、一つの不安があった。自分自身も、家来も義元の顔を知らないとことだった。 その時、桑原甚内なる浪人者が彼を訪ねてくるのだった。 「義元の顔を存じている」と彼は言うのだが・・・・

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-29

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