Train Stopper
Kentaro Morita
大学の同級生の部屋に来ている。汚い部屋だ。使い古された机の蛍光灯だけが青白く光っていて、開かれた一冊のノートがちかちかとまたたく照明を受けている。見覚えのあるノートだと思ったら、この部屋の住人が大学の頃から持ち歩いて”ここには千金を招くアイデアが詰まっているのだ”とまことしやかに自慢していたものだった。気になって開いてみると、何てことはない。作品になりきらず、ストーリーがまとまりきらなかった着想の破片が書き殴られているだけだった。込み上げてくる感傷も、懐かしい友人の筆跡を目にしているからであって、そいつが誰をも唸らせる才の塊だからというわけではない。ペラペラと一通りページをめくり終わって元の白紙まで戻ってきた所で、俺はどっと力が抜けた。まるで駆け出して逃げた後みたいに倒されている椅子を立て直し、スーツを羽織ったまま背中を預けてどっかと座り込んだ。
深夜も12時を回った金曜の夜。一週間の鬱憤を晴らすために酒をあおるでもなくこうして大学の友人の部屋、それも主人不在の部屋で虚脱しているのには訳があった。とにかくもう嫌なことばかりが続いて、過去へと逃避すべくやってきたものの、思い出は俺よりも先に現実世界から逃亡を図った後だったのだ。
宮部弘也は俺の大学の同級生で、この部屋の住人だった。作家になるとかとち狂ったことを言って就職もせずバイトで生活していると聞いていたが、先日携帯に電話をかけたところ、どうやら数週間前に行方をくらまして以来誰もその姿を見かけた者がいないということが分かった。だからもちろんこの部屋にも本来入れるはずはなく、俺は遠まきにアパート二階の小部屋を眺めるだけして帰ろうと思っていたのだが、思いがけず部屋のドアは開いていた。机のライトも点けっぱなしで、まるでついさっきまでここに人がいたかのように錯覚してしまいそうだった。あいつは本当に行方不明になったのか? バイト先や知り合いと連絡は絶っておきながらこっそりこの部屋で生活しているんじゃないか? あるいはこのまま明日の朝までこの部屋に残っていれば、コンビニに出かけた宮部が何も知らずに戻ってくるかもしれない。あいつは自分の部屋に予期せぬ人間が居座っているのを見たらどうリアクションをとるだろう。自分の持ち物や居場所に変な縄張り意識を持つあいつのことだから、手近に転がっていたバットでも掴んで頭をかち割ってくるかもしれない。用心のために部屋を一周見渡して見たが、凶器になりそうな鈍器の類は見当たらなかった。包丁があるにはあるが、敵との距離を取れないリーチの短い武器は選ばれないだろうと踏んで考慮の外とした。
結局、あいつの選択は馬鹿な失敗だった。
そして俺の進んだ道は正しかったはずだ。
大学4年の秋にやや遅れたとはいえどうにか就職を決め、忙しくともブラックではない程度の会社で働き、徐々に社会人として人格を形成し直している今の俺の生き方は、宮野の破綻した日常に比べてどんなにましなものだか分からない。宮野に電話をかけようと思ったのは、ちょっとした物のはずみだった。入社して2年、半年前から付き合い始めた彼女が浮気をしていたことが発覚し、相手の申し訳程度の弁解を聞いてから別れ話にけりをつけ、味気のない毎日と滑稽な失恋劇とをふと空の眼から思い馳せていたら、小説を書いていた宮野の言葉がフラッシュバックしたのだ。
「どんな現実の悲劇でもフィクションの中でなら格好の具材になる」
あいつは俺の生活をどう料理するんだろうなと思って電話をかけてみれば、レストランから料理人が出払った後だという。修行にでも出直したのか、それとも料理人としての自分の未来に絶望したのか知らないが、どんな具材だって獲れたばかりを調理してもらわないと鮮度を失ってしまう。俺の持って来た食材はあいにく時間を置いたって味が深まるようなものでもない。
「くっだらねえ恋愛だったんだよ」
人生で初めて行った合コンで、初対面の相手となぜだかホテルへ向かうこととなり、シャワーを浴び、裸に裸で抱き合おうとした所で気持ち悪くなってしまった。怒ってホテルを飛び出して行ったその子には謝罪の言葉を言う暇もなく、一人とぼとぼと夜道へ出たらば別の見も知らぬ女の子から吐瀉物を浴びた。これも何かの天罰かと思って謝りまくるその子を介抱し家まで送って行ったのがきっかけで、気づくと何故か付き合うこととなっていた。そして恋人ごっこのようなことを半年続けた後に相手の浮気が発覚した。遊び好きの女子大生だったからなんとなく予感はしていたものの、いざ裏切られてみるとやっぱり頭にきたし傷ついた。俺が責めるとその子は逆ギレして「気持ちが足りない」とか「付き合ってるのに充実感がない」とか不満をぶつけてきて、納得してしまった俺は裏切られた側のはずなのに何故か「ごめん」と謝っていた。喫茶店から怒ったままの彼女が競歩なみの早足で立ち去ってゆくのをガラス越しに眺めながら、ああ、これは合コンホテルの時と同じだな、と思った。人の愛し方が分からないことに絶望して、俺は独りで静かに泣いた。夢も希望もない薄汚れた恋愛未満の何か…。
「くだらねえだろ」
そう言って肯いてもらおうと思っていた友人はもうこの部屋にはいなくなっていた。誰も彼も、俺の元から去っていく。それとも去って行ったのは俺の方だったんだろうか。
俺は一体、他人に何を期待しているんだろう?
退屈な奴らだから、話しかける気も起きない。退屈な話を振られて、返す言葉も浮かばない。そもそも人に興味が持てないから、誰にも近づこうと思わない。
だけどあの子は、俺こそが退屈な人間なんだと言って去っていった。
いくら考えても答えは見つけ出せそうになかった。
いつの間にか俺は眠りこけていたらしい。
汽笛のような音がどこか遠くから聴こえて、それで意識を取り戻した。寝ている間に椅子から落ちたのか、俺は横たわっていた。床が、やけに冷たい。それに段差があって、石のようにゴツゴツと尖った感触もある。いったいあいつの部屋には何が転がっているんだ、と悪態まじりに起き上がろうとした時、地面に敷き詰められたそれが本物の石であることに気がついた。さらに言うなら段差があると思っていた場所は鉄の軌条であり、ここはアパートの一室ではなく電車の線路の上だった。
何が起こったのか、自分がなぜこんな場所で転がっていたのか、記憶を辿って思い出そうと試みた。最後に覚えているのは宮野の部屋の椅子に腰掛けて目を閉じた瞬間だった。夢遊病になど今までかかったことがないから、自分で歩いてここまで来たとは考えにくかった。そもそもここはどこだろう? 屋外ではない。地下鉄だ。駅の灯りが見当たらないということはホームから出てしばらく歩いた場所であることには違いない。今が昼なのか夜なのかも分からなかったが、線路の上で眠っていながら轢かれていないのだから運行が始まる前の深夜には違いない。ポケットには何故か携帯が入っていなかった。それにつけていたはずの腕時計もどこかへ消えて無くなっている。もしもここへ運び込まれたのがついさっきで、地下鉄の列車が今も運行しているとしたら、やばい。どこかへ避難しなければいけない。どこへ? さっき汽笛が聞こえたけれど、あれは幻聴か、それとも電車が鳴らした警笛だったんだろうか? 考えれば考えるほど、ここにいるのが危険だということだけはっきりしてくる。前でも後ろでもいいからとにかく走りだそう。電車が通過する前にホームまで辿りついて線路から離脱しないと。だけど間に合うものだろうか? 地下鉄のダイヤはおよそ何分間隔で組まれているんだろう? 5分? それとも10分か? 長く見積もっても10分以内にホームへたどり着かなければ。もしも走ってる途中で電車が来たら? 側面の壁に張りついてよけた方が安全だろうか? 万が一の場合に備えて、普通地下鉄のトンネルはそれくらいの余裕をもって掘られているものなんじゃないか…。
「柱田!」
名前を呼ばれて振り返ると、宮野が立っていた。開いた口が塞がらないとはまさに今のことだ。宮野がここに居ることに対しての疑問と、自分の頭はどうかしてしまったんじゃないかという疑念が脳内を占拠し、大口を開けたまま声を発することができなくなった。
---これは夢だ。俺は夢を見ている。
最も合理的なその答えをあざ笑うかのように、地下鉄の冷えた空気は肌を鋭く裂いて流れ、足元に敷きつめられたバラストが靴を履いていない両足へ食い込み、宮野の姿は鮮明で生々しく視界の中央に立ち塞がっていた。
「何してんだこんなところで」
それは、こっちの台詞だ!
「お前こそ。いや宮野、お前失踪してるんだぞ? わかってんのか?」
我ながら支離滅裂な質問だった。失踪してる奴に”お前は失踪している”だなんていうか? 当の本人は目の前にいるっていうのに。
地下鉄で暮らしてたのか? ---いやそんなわけあるか。けれどここはいったいどこなんだ? 宮野はここがどこだか知っているのか? それとも、眠っている俺を暗い地下まで運んだのはこいつだったのか? 何のために?
「地下鉄だぞ」
宮野が今の状況をどの程度把握しているのか確認するために訊ねてみた。
「んなこと知ってる。あと2、3分で、ここに列車が突っ込む」
「は?」
「始発列車が来るんだ。外はもう明け方だぞ」
どうしてそんなことを知ってるんだ?
「歩いて5分くらいの場所に駅がある。行くぞ」
「けど電車が来るまで3分もないんだろ?」
「だから急ぐんだ」
言うや否や宮野はどこまでも続く暗闇の先へ早足で歩き出した。
どうして走らないんだ?
宮野の歩調は、喫茶店から離れていく別れた彼女ともちょうどよく似たスピードだった。そうだ。いつだって現実はあれくらいのスピードで俺の元から去っていく。そして俺はいつだって自分の足で現実を追いかけたことがなかった。壊すため、逃げるために追いかけたことはあっても、それを衛るため、手に入れるために追いかけたことがなかった---。
死ぬのはいやだ。今は宮野についていかない理由がなかった。
20mほどの間隔で灯る白色ライトだけが足元を照らす唯一の光だった。
「宮野、お前なんでここにいるんだよ?」
前を進んで行く背中に向かって再度問いかけた。
「分からん」
「分からんって…じゃあなんで電車が来る時間知ってるんだ」
宮野は俺のその問いを無視して何も言わずに進んだ。もっと問い詰めるべきだとも思ったが、あいつがここにいる理由を”分からない”のと同じように俺もこの場所の正体を何も知らないでいることに気づいてやめた。ここには道理なんてものは存在していないのかもしれなかった。
言葉を口にせぬまま、暗い線路を向こうにあるという駅のホームを目指して進んでいると、ある時突然辺りが明るく白みだした。それが後方から迫る電車の照明だと氣づいてから1秒も経たずして、明るさが目を眩ませるばかりに強くなった。間に合わなかった。後ろを振り向けばすぐそこに列車の先頭がやってきている。けれどこれは夢なんじゃないか。轢かれて死ねばきっと目も覚めるだろう。宮野の汚い部屋が土曜日の朝を迎えて侵入者である俺をカーテンから漏れる日の光で照らしている。---悪夢を見る時、俺はいつも最悪の瞬間、最も対処が難しい状況に立たされるその直前で目が覚める。そして目覚めてから、あのまま夢の中に留まって闘うことはできなかったものだろうかとよくよく思い返すのだった。バッドエンドになるかハッピーエンドになるか確かめる前に夢から離脱してしまう自分に、なんでもうちょっと踏ん張れなかったんだと声を掛けたくなる。これじゃあ悪夢としても中途半端だし、面倒なことをいつも放置したまま誰かの決断に任せる癖のついた現実の俺と何も変わりがないじゃないか、と。それにしても今日の夢はいつもより長く続いている方だった。
「どうする?」
走ることをやめた宮野がなぜか真っすぐこっちを向いて立ち、俺の顔を見て言っていた。
「どっちを選ぶ?」
列車はもうとっくに俺たち二人を跳ね飛ばし、粉々になった肉片を撒き散らしながらオーバーランしているはずだった。
「どっちって、どれとどれだ?」
「このまま轢かれて死ぬのと、電車を腕で止めてみせるのと」
---何を言ってるんだこいつは?
スローモーションにかけられて時間の流れは限りなく遅くなり、背後に迫った列車の前で、俺は宮野に選択を迫られていた。
訳が分からない。だけど答えは決まっている。俺はこんなところで死にたくない。まだ、死ぬには早すぎる。
腕でこの列車を止める? そんなこと世界が許しはしないだろう。たった一人の人間の望みで物理の法則が書き変えられるなんて、そんなこと許していいはずがなかった。世界は俺たちの死を望んでいる。だけど俺たちは、世界を自分たちの思い通りに書き変えることだけを、望んでいた。
後ろを振り返ると、鼻先数十センチの距離で電車がトンネル一杯を塞いでいた。おそらく腕を伸ばして抑えつけようがこの鉄の塊が俺の体を木屑同然に吹き消すことには違いない。けれど俺は腕を伸ばして列車の鉄の顔面を両手で抑えつけた。こんな光景を見たら、きっと誰もが鼻先で笑っただろう。世に無駄な努力は数あれど、これほど意味のない抵抗は他にあるまい。さながら死を覚悟した人間が最期にぶちかますブラックジョークといったところだ。
体中の力を全て込めて列車を進行方向とは逆に押し返すが、まるで手応えがない。俺のかけている力など、列車の推力に比べたらゼロにも等しいものだ。けれども俺は押した。引き伸ばされた時間がいつ元のスピードに戻るのか分からなかったが、その瞬間に意識が俺の脳ごと砕かれて消えることを恐怖しながらそれでも押し続けた。
トンネルの中を、百個の鐘が同時に鳴ったんじゃないかというくらいの轟音が鳴り響いた。
列車は止まった。
時間の速さが元に戻っている。まだ鳴り響いているこの音は、急停止した先頭車両に後続の車両が連結を押し潰して玉突きを起こしたものだろう。
体中から汗が流れ出て止まらない。まるで十年分ほどの力を全てこの一瞬に使ってしまったかのように、疲労で意識が朦朧としている。
”止めてやったぞ”と宮野の奴を振り返ってみせる。
白くかすれ、焦点を合わせる力を失った視界の端で、あいつはニヤッと笑っていた。
土曜の朝が訪れた。
椅子に座って眠ってしまったせいで首や尻が痛い。薄い緑のカーテンからは朝日が通り抜けて部屋を明るくしていた。外はきっと秋晴れの晴天だろう。
宮野は死んだのだ。
行方不明のまま戻ってこなかったのは、バラバラの身元不明の死体になったからなんだろう。
それにしたってあんな暗く閉ざされた空間を自分の人生の幕引きの場に選ぶなんて、どうかしている。まず間違いなく天国には行けないだろう。出口を探して彷徨っているのを地下から地獄の鬼にでもつかまれて連れていかれてしまう。
「バカやろう」
反対の壁に横付けされたベッドで大口を開いて寝ている宮野を見下ろし、あとでこの借りは返してもらうぞと呟いた。「俺がいなかったらおまえ死んでたんだからな」
それから机の上のノートを開いて、言葉の隙間にストーリーを組み立てたりしながら散らかったアイデアの欠片を眺めた。
Train Stopper