下りてしまった

 当然のことだと思うけれど、ほとんどの人間にとって日曜日は休日だ。僕たちにとっても、それはそうである。

 たいていの日曜日、僕たちにはこれといってすることが無い。けれど、僕たちにすることがなくても——あったとしても——時間は進む。時間は世の中に忠実に進んでいて、決して、僕たちに忠実であってはくれない。だから、休日というものは、いつも気づいた頃にはどっぷりと夜の闇に浸かっていて、何食わぬ顔で過ぎ去ろうとしている。そして、そういう事象は、毎回僕たちを厭世的な気持ちにさせた。


 日曜日の朝、僕はリビングのソファーに身を深く埋め、一本だけ……と煙草を吸っていた。本当は、もう、煙草はやめたいと思っているのだが、日々ニコチンによって快楽を与えられた脳みそは、理屈ではわかっていても、なかなか僕の言うことを聞いてくれない。頭上で、あてもなくぐるぐると渦巻く煙を眺めながら、僕は今日が何月何日なのかを考える。今日が日曜日だということはわかっているのだけれど、どうしても、日にちを思い出すことができない。まだ寝起きだから、頭が上手く働かないんだ。きっとそうだ。僕はそう心の中で呟いて、それ以上考えるのをやめた。
 「たまには、ゆっくり散歩でもしようか。」
 彼女の声が鼓膜を震わせる。鼓膜から伝わった波がうずまき管を通って脳に響く。未だに目が覚めない僕にとって、それは、幾分時間のかかる過程だった。脳みそが彼女の言葉を反芻し、やがて、その意味を理解する。散歩か。悪くない。そう思うと、途端に頭が冴え、僕の脳みそはスイッチが入ったように働きはじめた。リビングには、ほんのりとインスタントコーヒーの匂いが漂っていて、僕は、彼女が毎朝それを飲むのを思い出した。後ろを振り返ると、彼女はキッチンで朝食の食器を洗っている。彼女が手を動かすたびに、食器が、カチャ、カチャ、とリズム良く楽しげな音を立てている。キッチンテーブルの上には、インスタントコーヒーの瓶と湯気の立ったコーヒーカップが置かれてあった。視線を元に戻すと、テレビでは日曜日おきまりの旅番組が放送されていた。綺麗に整えられた庭園が映っていて、画面の右上に「京都を堪能! 素敵な旅」というテロップが表示されていた。庭園には小さな池があって、その中で、赤と黒のまだら模様をした鯉が優雅に泳いでいる。庭を取り囲む低木は風に揺られ、木漏れ日をちらつかせていた。ふむ、確かに素敵だ。僕は画面越しの庭園を眺めながら頷いた。
 「ねえ、聞いてる?」後ろから彼女の声がして、僕は、庭園から呼び戻される。そして、彼女に言うべき言葉を思い出し、それをまだ言っていないことに気がついた。
 「ああ、うん、行くよ。散歩だろう? 行きたいな。ちゃんと聞いてるよ。」そう言って旅番組の続きに目をやった。

 外に出ると、思いのほか街はひっそりとしていた。まだ、朝の9時を回ったばかりだったし、ただの日曜日に、そんな早くから外に出て歩く人はいないのだろうと僕は思った。みんな、日曜日くらいは時間を気にせず寝ていたいのだ。太陽は徐々に高度を上げながら、街を温めている。ときおり吹く風が少し肌寒く感じたが、日差しがじんわりと身体の芯まで染み込んできて、とても心地良い。僕たちは、目的地を決めずにあてもなく歩いているつもりだったけれど、行く道はほとんど決まっていた。久しぶりとはいえ、散歩のときは、たいてい、住宅地を抜けて、国道沿いに佇む小さなスーパーの前を通りすぎ、三つ目の交差点を左に曲がったところにある公園のベンチでひと休みをして、そのまま来た道を折り返すのだ。今回も、おそらくほとんどそのコースだろう。住宅地を抜ける途中で、首輪をつけた猫が塀の上を歩いていた。彼——もしくは彼女——は、僕たちに気がつくと足を止め、じっとこちらを見つめていたが、僕たちが気にせず通り過ぎようとすると、彼もまた何事もなかったかのように、塀の向こうへと飛び降りた。

 公園はとても静かだった。近くに国道が通っているというのに車の音ひとつ聞こえてこない。まるで、公園の周りを透明なカーテンが覆っていて、そこだけが世界から隔離されているみたいだった。僕は、Yシャツの胸ポケットに手を当ててみたけれど、ライターと煙草はリビングのテーブルの上に置いてきてしまっていた。公園の周りには、ツツジの木が植えられていて、その脇では、数匹の鳩が仲良く地面をつついている。ツツジの枝はとてもキレイに切り揃えられていて、一本一本が不自然なほど滑らかな曲線を描いていた。公園の中央には噴水があって、休むことなく水を噴き上げている。僕は噴水の近くにあるベンチに腰掛けた。彼女は、しばらく公園の中をうろうろと彷徨って、それから、僕の隣に腰を下ろした。

 僕は、ぼんやりとしながら永続的な噴水の音に耳を傾けていた。ざらざらと鳴り響く噴水の音。それを聞きながら、噴水を循環する水の様子を想像した。水しぶきが宙を舞って器に落ち、また汲み上げられては宙を舞う。
 すると、突然、隣に座っていた彼女が噴水を指差してこう言った。
 「あの中に階段があるの。」彼女は僕を見る。「知ってる?」
 いきなりだったので、僕は、その言葉に何も返すことができなかった。……階段? 僕が黙っていると、彼女は噴水の側まで行って、ここ、と水の中を指差して見せる。僕は、とりあえず噴水のところまで行き、彼女の指差すところを覗き込んでみた。水が波打ってよく見えなかったが、僕にはそこに階段があるようには思えなかった。
 「階段なんて見えないよ。」僕が言うと、彼女は当たり前だというように微笑んだ。
 「見えないときもあるの。」
 彼女は冗談を言っているのだろうか。僕はもう一度噴水の中を覗いて見る。けれども、やはり、階段は見えない。
 「本当に階段なんてあるの?」僕は彼女に確認してみる。
 「あるよ。本当に。」彼女は黒々とした瞳で僕を見つめ、頷いてみせた。本当に、そこに階段があるみたいな言い方だった。
 「階段の先はどうなってるの?」
 「分からない。」彼女は噴水へ視線をやり、そう答えた。「降りてみたことはないから。」
 彼女は僕の知らない歌を口ずさみながら、噴水の周りを歩き始めた。彼女が離れると、歌声も遠くなる。彼女が噴水の向こう側まで行ったときには、もう歌声は聞こえなかった。かわりに、噴水の音が耳を満たした。僕は、また、噴水を循環する水について想像した。何度も噴き上げられては器に戻り、ぐるぐると噴水の中を循環している。終わりのない異空間のようだと僕は思った。噴水の水は、それが噴水の水である限り、あの奇妙な形をした器の中をいつまでも彷徨い続けなければならないのだ。

 気づくと、彼女は噴水の周りを一周していた。じっと噴水の中を覗いている。あの階段を見つめているのだろうか? 僕は黙って彼女の様子を観察していた。すると、唐突に、彼女は噴水の縁に乗り上げて、自分の右足を噴水の中に突っ込んだ。
 「おい、何してるんだ?」驚きで、思ったよりも大きな声が出た。その声に彼女も驚いたようで、はっとした表情で僕を見る。僕らは互いに見つめ合ったまま一瞬だけ硬直した。すぐに、彼女は好奇心を秘めた笑みを浮かべて、僕に言った。
 「下りてみようか。」彼女の右足は噴水に入ったままだ。
 正直、僕は、いまだそこに階段があるなんて信じられなかった。けれど、それと同時に、本当に階段があるのか確かめてみたいとも思っていたし、仮に、階段があったとして、その先がどうなっているのかを知りたいという気持ちもあった。
 「本当に下りるの?」僕は彼女にたずねる。彼女は少し考えてから「うん」と答えた。そして、左足も水の中に入れた。僕は黙って彼女の様子を伺う。彼女の身体が、ゆっくりと水に沈んでいく。水面が一段、また一段と彼女を飲み込んでいく。僕が「大丈夫?」と聞くと、彼女は「平気。」と答えた。水が彼女の腰のあたりまできたとき、僕は、彼女は本当に階段を下りているんだと思った。
 途端に、得も言われぬ不安が僕を襲った。頭の隅で、何かが僕を急かした。彼女は、今、階段を下りている。水面はすでに、彼女の肘にまで達していた。彼女は見る見るうちに階段の底へと吸い込まれていく。僕は、いったん彼女を引き止めようと思った。ところが、おかしなことに、どうすればいいのか分からない。頭も体も、自分とは別々にあるみたいで、うまく行動することができないのだ。ちょっと待ってくれ。僕は一生懸命考えようとする。けれど、噴水の音が邪魔をして、うまく考えることができない。それは、僕をぐるぐると渦巻く得体の知れない世界に引きずり込もうとしていた。僕は、声をあげて彼女を呼ぼうとする。汗ばんだ拳には力が入り、身体は少し震えていた。僕は、精一杯、力を振り絞って声を出す。けれど、彼女を呼んでいるはずなのに、耳には噴水の音しか聞こえない。テレビの砂嵐のような音が、耳にこびりついて離れない。肘、肩、首、彼女の身体はどんどん水に沈んでいく。僕は聞こえない声を必死に張り上げた。
 けれど、何もかもが僕を無視して進んでいた。

 とうとう、そこには僕一人だけが立っていた。土をつついていた鳩もどこかへ消えている。太陽はだいぶ高くなっていて、吹く風も生ぬるい。噴水の水は、公園に来たときと同じように水を噴き上げ、ざらざらと鳴り響いている。彼女は階段を下りてしまった。

 彼女は階段を下りてしまったのだ。

下りてしまった

下りてしまった

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-27

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