虹
暗いトンネルの中をゆらゆらと揺れる。
窓の向こうには、ぼんやりとこちらを伺う自分の顔が見えた。長いトンネルはぐんぐんと岩を貫くように登っていく。
パンッ。
窓が震えて光が射し込む。向こうから覗き込む自分の姿はもう見えない。代わりに瑞々しい緑が近づいては飛び去っていく。
トンネルを抜けたのだ。
簡単に見逃してしまう一瞬を取り逃さぬように、移り変わる景色を眺めた。
列車は山の中を走っている。
短い旅をするために乗った普通列車は、出発点からどれだけ進んで来たのだろうか。目的地は、寂れた小さな駅だ。
時折、視界が開けては遥か下方に平野が見える。はっきりとしない梅雨は思い出したように小雨をぱらつかせて、折角の眺望を霞ませていた。
人が疎らな車内には列車の進む音だけが響く。
車内は天気に曳かれる様に、どんよりとした空気が漂っている。
停車するのはどこも小さな駅ばかりだが、見送りや迎えの為にホームには人が出ていた。待ち人を探す顔は、旅人を見つけた
途端、弾けるように綻んだ。
一人、また一人と乗客は重いドアを開けて外の世界に飛び出していく。列車を降りた途端に笑顔になる人々を何人見送ってきただろう。
残されていく私は、名も知らぬ彼らに嫉妬をする。
私も同じように笑えるのだろうか。後、数駅であの重いドアを開けなければならない。
列車は重たい心を乗せたまま進む。
いつの間にか平野を走っていた。両側には水田がどこまでも続いている。
雨は上がったが、相変わらず空には厚い雲が居座っていた。
来ては過ぎ去る光景を眺めているのは、思いのほか辛い作業だった。
独り、置いていかれるような錯覚を起こす。
代わりに飛び去る電柱を数えるようになぞった。
瞬間、どんよりと湿り気を帯びていたはずの空気が突然透き通った。
灰色に霞んだ世界が光を孕んできらきらと輝き出す。暗く重い雲が僅かに割れ、幾筋もの光の束が投げ出された。縁取るように山の端が姿を現している。
水を張った水田がその情景を静かに映し出していた。
驚きと好奇に胸が弾みだす。
空と地上の間にぼんやりと虹がかかり始める。まるで天の祝いを地上から垣間見ているようだった。
次第に色味を強くするその橋に誰も気づいていないようだ。
どこかで見た風景画を思い出す。
「虹!」
先ほどまで静かに眠っていたはずの幼子が、窓の外の光景に気づき声を上げた。
まるでおもちゃ箱を眺めるかのように、その顔を輝かせている。隣の母親が行儀を正そうとするが、窓の向こうに目をやると感嘆の声を上げた。
つられるように数人ばかりの乗客が顔を上げる。
息を飲むのが聞こえるようだ。
はっとするように美しいその光景を誰もが食い入るように見つめていた。
この機を逃したら、二度と出会うことのないこの瞬間を記憶の中に刻み付けているのだろう。
列車の中を満たしていたものが、変化していくのが分かる。水田に反射した光は車内を明るく照らしていた。
良く見ると、虹の外側にもう一本薄い虹がかかっていた。
幸運を呼ぶ虹だ。
「ああ」
それに気付いたのか、離れたところに座る老人が声を上げる。
ゆっくりと列車がスピードを落とす。私の短い旅が終わろうとしている。
軽い揺れとともに列車が止まり、アナウンスが流れる。ボストンバックを抱え、手動式の重たいドアを開けた。
懐かしい絵画の世界が広がる。目の前に遮る物はない。
まだ雨の気配が残る風が、私を誘う。
今度は私の番だ。
躊躇うように一歩を踏み出す。そこは、紛れもなく私の生きる世界だった。
間もなくして、短い旅を共に過ごした列車は私を置いて走り出す。巻き上げる風は、見えない色で鮮やかに彩られていた。
大きく弧を描く二本の虹を見上げる。体の全てで刻々と表情を変える光景を見逃さぬように、寂れたホームに独り立ちつくした。
どれほどの時間、そうしていたのだろうか。
不意に私を呼ぶ声が聞こえた。
声の主は、溢れんばかりの笑顔でこちらに歩み寄ってくる。
「おかえり」
懐かしいその声は、当たり前のようにそう告げた。
釣られる様に笑みを溢す。
「ただいま」
虹
ぽろっと書いてみました。