召喚獣は無いんじゃない?~彼女がかけるドーナツの魔法~
始まり〜これは鷹村悠の1日
鷹村悠は高校2年生だ。
この日本に高校生が何千人居るか知ら無いが、全国の彼ら彼女らの内の一人として、悠に特別な点はなく、そう浮くでも沈むでも無い平凡な日々を謳歌している。
そんな彼を思い浮かべる為に幾つかセンテンスを並べてみよう。
目元は切れ長な一重、身長は170cmくらい、運動は割りと得意、成績は中の上、同年代と比べると落ち着いていて、必要だと思った事はハッキリ言う性格、恋人万年募集中、まぁこんなところだろうか。
だがこんな特徴は、たとえそれらの集合とは言えあり触れていて個人の特定には情報不足だ。やはり平凡な一高校生といったところだろう。
これから彼が体験する、ちょっと変わった出逢い以外は。
そんな未来を知る由も無い悠は、今日と言う日もいつも通りの平常運転。
平時より繰り上げとなっていつもより早めの下校時間。馴染みの仲間達と笑いながら悠は校門を潜り、喫茶店へと向かっていた。
明日から開始となる中間試験に向け勉強会兼情報交換会をやろう、と言うのが目指す喫茶店での目的である。
実際は勉強の部分はすでに個々で終わらせていて…あるいは諦めと言う心の整理をつけた…入学当初に見つけた洒落た喫茶店でお気に入りの一杯を楽しみながら、明日への英気を養う会なのだが。
そういう訳で、皆この日は万難を排して集合した。バイトとか。家事手伝いとか。
まぁ、試験前日に万難有っては困る。そこは言葉の上での話だ。正直、試験も含めて難はいらない、と言うのが学生皆の偽らざる本心と言うヤツだろう。
集まったのは悠を含めて4人。馴染みの喫茶店IRISの扉を引き開け、お決まりの窓側店奥の席へと2人ずつ向かい合い腰を落ち着ける。
席はこの4つだが、男3人が暗黙に定めたマナーでこの集まり唯一の女の子をいつも通路側にする。席を塞いで、彼女にお花摘みを申告させ無い為だ。ま、実際気にはし無いかもしれないが軽い気遣いである。男どもの着席はその日の気分なので特に意味は無い。閑話休題。
悠たちの入店時、確かにカウンターの向こうでコーヒー豆をミルにかけていた筈のマスターは、4人が一息整うのを測った様な完璧なタイミングで席の脇へと現れた。
整えられた口髭とオールバックに纏められた髪。均整の取れた引き締まった身体を、シワひとつ無い真っ白なワイシャツに包み、ベストをはじめズボン、靴は黒で統一。肘の辺りの袖釣りバンドを彩る蒼い石が、唯一のアクセサリーだ。
場所が違えば一流のホテルマンか執事に見えるだろう。
そんな彼の登場と共に、おしぼりとミントの葉を添えたミネラルウォーターのグラス4つがいつの間にかテーブルにあり、「ご注文は?」と言う静かでいて良く通る声が4人にはじめてその存在を気づかせる。
カウンターからこの席まで結構距離もあるのだが。そんな訳で、店内に隠し通路でもあるのでは?と常々噂になっている。
「マスターさん、こんにちは。私はアイスロイヤルミルクティーと自家製ストロベリーパウンドを」
この一年ちょっとですっかり常連となり、マスターの摩訶不思議な移動術と配膳術にも慣れた4人だ。
真っ先に、いつものアレとばかりに注文を返したのは、悠の隣に座る紅一点、高木遥だ。髪はショートの黒。身長160。全体的にしなやかな猫ぽっい、陸上部所属の元気印快活少女だ。
文化祭にミスコンテストが有れば学年5位内かもな、とは他ならぬ悠の嘗ての言だ。
「マスター、俺はエスプレッソを。オレンジピール有りで」
悠の向かい側、真田彰。彼は基本、悠に輪をかけてクールだ。銀縁のメガネごしにメニューをざっと見る横顔や視線の運びは、高校生よりむしろ経済新聞か社内資料に目を通すキレのある頭脳派ビジネスマンを連想させる。
ちょっと気障なのが玉に傷だが、話上手で親しくなれば面倒見もいいので人を引き付ける魅力がある。
遥のあとに続く、そんな彼の渋いオーダー。これも、いつも通り。
「僕は、アールグレイのホットでーす」
早くも突っ伏す結城隆はちらっと悠を見た後、いつもは長々と迷うマスカットのフレーバーティーとの二択を今日はあっさり決断した。
猫っ毛のくしゃくしゃな髪、伸長低めで、ちょっとぼんやりマイペースな彼はいつでもニコニコ癒しキャラだ。
彰曰く、こいつの全身からは眠気を誘うマイナスイオンが出ていて危険、である。
慣れたテンポで仲間たちが次々と注文を済ませて行く中、トリとなる悠は少し迷う。
「お前ら、昼はどうする?」
「俺は、後で追加する」
「食べると、寝ちゃうかも」
「ケーキがご飯。それ以上はやめておくわ、...体重の為にも」
3人から短い返事を聞き、2秒程して悠は注文をマスターへと伝えた。
「マスター。俺はさっき挽いてたジェニュインアンティグアを。それと、一時間くらいしたら冷めても美味しいホットサンドを3.5人まえ。以上。お願いします」
無言の賛成票が三票入った空気を確認し、微かに驚いた表情だったマスターは静かに一礼した。
それから少し態度を崩して、「寛いで行ってくれ」と親しみあるハスキーな声とウインクを残して離れて行った。常連の学生相手には茶目っ気をみせてくれるのだ。それも、この店の魅力だと4人は思っている。
「悠。なんでマスターの挽いてた豆の種類が分かったんだ?」
鞄から自作のルーズリーフを3人に配る彰が、マスターの背を確認しながら唐突に聞いてくる。ルーズリーフの中身は、今回の数学のテスト範囲の内でキモになると予想される部分を書き出したモノだ。
「あー。あの手品師と魔法遣いの間みたいな人が、この店の豆や葉を切らしているの見た事ないだろ?なのにカウンター後ろの棚の右から3番目、ビーンズストックスのポットが無かった。多分、俺たちが店に入った時丁度手元にあったんだ」
「なるほど。相変わらずだな悠、よく見てる」
「たまにはこっちも、あのマスターを驚かせてやらないとな。藍より青しってヤツさ。弟子入りはして無いけど」
悠は彰から有難くルーズリーフを受け取りながら、手品と言うほどでも無い推理の種を明かした。
「「彰?悠の、何が変わら無いの?」」
意味有りげに付け加えられた彰の一言を、隆と遥が声を揃えて掬いあげた。
彰は、よくぞ拾ってくれましたとばかりにニヤリと笑う。
「さて、それでは皆様お立会い。今明かされる真実!昔々、あるところに一人の悪党が居りました」
「おい、こら彰。人聞が悪いし、危なっかしいネタじゃないか?」
「うーん、まぁ。時効じゃないか」
名調子の語り手-彰に、悠は抗議した。だが、今明かされる真実!に興味津々の観客2人との多数決にあっさり破れ去ったのだった。民主主義は強しである。
☆
話が核心部分に近づいて、周りを憚る様に彰が少し声量を落す。
「と、ま。そんな訳で、俺らしくもなく入試の真っ只中、予備までまとめて消しゴムを失くして焦り全開。時間ギリギリだったしな。その時、こいつは試験官がくしゃみをした一瞬の隙を突いて、偶然席が隣ってだけの赤の他人の俺に、自分の予備を転がして寄越した。試験中、物の受け渡しは厳禁なのにな。で、落ち着きを取り戻した俺は、九死に一生を得た。でかい借りだな。でかいと言えば、くしゃみもでかかった」
「で、無事、悠の消しゴムが使えたのね」
「いや、すぐさまポケットに突っ込んだ。それから、手を挙げて試験官に自分のが遥か彼方へ転がってったと伝えたよ」
話半ばに供され、手に持ったままだったエスプレッソカップを置くと、フレッシュミントの香るミネラル水に口をつけ、彰は喉の調子を整える。
「なんで、使わなかったのさ?」
隆がやや冷め始めたアールグレイを傾けながら話の先を促した。
「消しゴムの表面に、『焦るな阿呆。テストも転がる』って書いてあったのさ。なんだか戦友から贈られた遺言ぽくて、カスにするのは惜しい気がした。『焦るヤツから死ぬ、気をしっかり持て』・・・みたいな感じだな」
「誰が、戦友だ。どこからも弾が飛んできた記憶はない。しかも、サクッと俺を殺すな。むしろ救いの女神だろ、俺は」
「いや、いや。共に闘い抜いただろ。倍率競争って名の戦場を。だが、試験官出し抜くあたり、やっぱり最初に言った通り《愛すべき悪党》だな悠は」
「確かに。女神はないわね」
《悪党》には、感謝と一年半程の間で培われた友人への信頼の響きが感じられた。
4人の笑い声が、他の客の迷惑になら無い程度に店内に響く。
マスターが、何故かジェニュインのおかわりをマグカップで悠にサービスしてくれた。
真っ白なマグカップの側面には、これも何故か筆文字で『戦友』と大書してあった。
☆
気がつくと18時半を過ぎていた。
悠のよみ通り遥は、サンドイッチを欲しがった。曰く、人には抗えぬ宿命が有るとかなんとか。隆は、申告通りお腹いっぱいの子猫みたいな顔して中盤30分位テーブルに突っ伏した。
必殺闇稼業と称した遥のシャープペンが悠の額に刺さっては、笑い。彰が少々卑猥な響きの化学の語呂合わせを大真面目な顔で暗唱して見せて、また笑った。
まぁ、こんなもので大丈夫だろう。明日は、国語に化学に数学だ。必要な装備はフィーリングと語呂合わせ、彰のルーズリーフ。三種の神器は揃っている。結論を一致させた4人はこれにて解散となったのだった。
悠は一先ず全員分をまとめて支払い、他の皆は出入り口をふさがない様に先に外で待つ。
マスターはお釣りを渡しながら、「ちょっと待ってて」と奥へ、戻って来ると小さな包みを差し出した。コーヒーの香りがする。
「良かったら、忙しくない時に齧ってみてくれ、君からの評判が良かったら次回は皆んなにも。良く眠れて、疲れも吹き飛ぶ」
「ありがとうございます。頂いてみます」
悠は、軽くお辞儀してポケットに包みを入れると店を出た。
明日から試験だか、悠の帰宅の足取りは重くは無かった。日頃から授業は真面目に受けているし、前日になってジタバタした所で飛躍的に結果が良くなったりはしない。そんな風に思っている。
最寄り駅を降りて、自転車で10分。自宅の玄関を開け、ただいま!と心持ち声を大きくすると、悠はキッチンダイニングへ足を踏み入れた。
お帰り。と母親が返してくれながら、ソファを立ちキッチンへ入って行く。
パスタは10分程で茹で上がる様だ。ソースの鍋も火にかけている。
一度着替えるべく部屋を出て、悠は自室へ向かう為階段を上がった。
母親と二人夕食を摂りながら喫茶店での話をして笑う、シャワーを浴び、化学の暗記カードをめくり、帰った父親の晩酌に一口だけ付き合う。 彰のルーズリーフを参考に数学も公式の最終確認をしながら応用問題を少し解いた。
明日の為に、そろそろ寝ようか。そう思って歯を磨きに階下に行こうとして、悠はふと思い出した。
喫茶店のマスターにもらったポケットの中の包み。
ポケットに入ったままだったそれを取り出し確認すると、中身は3粒のコーヒー豆だった。
興味を惹かれ、まだ歯も磨いていない事だしと一粒を齧ってみた。カリッといい音がして甘い香りと軽い苦味が口に広がる。寝る前にカフェインはマズかったかなと思いつつ、残り半分を口に放り込んだ。ガリガリと噛み砕かなくても、ふわりと口の中で溶ける。もしかしたらコーヒー豆ではないのかも。残り二つを机にしまい、悠は改めて階下へ降りた。
目覚まし時計のアラームをセットし、明かりを消す。
悠はベッドでタオルケットを被り、目を瞑った。良く眠れそうだった。
今日も平凡な1日で、良い1日で、楽しい1日で、友人と笑いあえる1日で、無事な1日で、普通の1日で、大切な1日だった。
それでもいつかは忘れてしまう1日だろう。
彼女に出会う瞬間まで、悠はそう思っていた。
続き〜それはアイリス・カーフィーの1日(前編
アイリス・カーフィーは、国立学院二年生である。
彼女は学園の中でも、ちょっとだけ特別な存在だ。
魔法学の基礎を一生懸命学んで、遂に二年生へと進級するこの春、ひと学年10名までを定員とする召喚学専攻資格者に選出されたのがその一因である。
ちなみに、資格者は1年次の成績を基に成績優秀者への希望調査と学園長、国王との面接試験により決定される。
そんなアイリスにとって今日は召喚学専攻資格者の第一関門とも言うべき、初の召喚契約実地試験日。発音すると舌でも噛みそうだが、これまた特別な日なのである。これは彼女にとってこれからの進路を左右する重大事だ。そんな訳で今日ばかりは、彼女もいつもと変わらぬ平常運転とは行かない。
学院2年生となってから通常講義に加え、10人の仲間たちと召喚学基礎を新たに学び始めた4の月から早三カ月。講座のステージは座学からついに実地へと移行する。
その第一歩が、召喚原書を自ら選びとり、契約する召喚獣を呼び出す事である。
しかし、初回の召喚はそう生易しいものではない。国とこの世界に新たな力と利益をもたらす可能性を秘める異世界との邂逅…もちろん全てがそうではない、召喚者の一護衛にとどまる召喚獣である場合もある。それでも、契約者には異世界の存在をパートナーとする者として、少なくない敬意が払われる。
いずれの場合にしても、地面に花マル書いて、「召喚獣さん出てきてください」などと軽々しく行かないのは確かだ。
この魔法文明最盛期の今なお、第一次召喚は心、知識、才能、そして星の巡りがもたらす祝運がそろって、始めて成せる極難魔法である。
国が召喚学専攻資格者に、ただ一冊、ただ一度だけその希望に沿い与える召喚原書。それに、契約の血、心声、聖火を持って招来を乞う。召喚原書は燃え尽きて失われ陣となって獣を顕現させる。ここで大切なのは〈乞う〉と言う部分だ。問答無用に引っ張り出す訳ではない。相手との親和、宿縁が無ければ失敗に終わる。そして、召喚学専攻資格者たる資格も永久に失われる。
現在、国の保有する召喚原書は193冊。同じ物は一つとしてなく、召喚原書と召喚学専攻資格者の相性は真に神のみぞ知る、である。
そんな訳で、アイリスは学院並立の国立第一図書館の中でも、特に厳重な対物理・魔法衝撃ガラス壁で二重に囲まれた最重要保護文書棚の前で唸っていた。それはもう、力の限り。
「ムー。ムーー。ムム!?。ウムーーー」
当然と言えば当然だが、彼女は目立っていた。とても。すごく。しっかりと。
大半の図書館利用者からは、ここ二三日噂になっている例の唸る美人さんかと、生暖かい目で見守られていたが。それでも、やっぱり注目されているにかわりはない。
多くの他人の目に晒される事で同時に重要文書の盗難防止に一役買うガラス壁。物理的、魔法的衝撃にもしっかり対応。しかし棚の前で唸り、しゃがみ込むアイリスを隠し、花も恥じらう乙女の世間体を護る役目だけは残念ながら担えなかった。
お気に入りだった白のワンピースは皺だらけで、ついでにその皺は彼女の眉間に迄その侵攻を広めていのたが。人生の岐路で考える人、と化したアイリスには些事である。
もともと、学院入学時点でアイリスはかなり人目を引いていた。
長く綺麗なプラチナブロンドの髪、やや碧みがかった黒瞳、細い顎と鼻のラインと白い肌。美人と言って差し支えない要件をおおよそ持ち合わせ、それでいて気取るところは無い。やや不器用な感じがあり、本人にも自覚はあるようだ。なんとか頑張ろうとコツコツ努力する姿は健気にも見えて、どこか応援してあげたくなる雰囲気なのだ。
けれど、アイリス本人にはそんな風に自身を演出するつもりも、している自覚もない訳で…気取らない美人さんの無自覚な魅力?またはドジな頑張り屋の可愛いらしいさ?と言うヤツなのかも知れない。
☆
コツンっ。そんな中、アイリスの頭に軽い拳骨が降ってくる。悩み過ぎて周りも見えなくなっていた様だ。軽い感触ではあったが、ようやくアイリスは営々と地の底まで潜って行きかねない思索の世界から帰還を果たした。しゃがんだまま首だけで振り返る。
「痛!……くもない?」
「あんたねー。怪奇、唸る石像!になりかけているわよ。いえ、服も白いし石膏像かな? まぁともかく、眉間の皺で可愛い顔が台無しなのは確かね〜。ちなみに、ものすごく見られてる」
声の主はアイリスの幼少からの親友にして、同じく召喚学専攻資格者の第4席、サーシャ・クールである。
学年五指に入る優秀さに反して、彼女にはそうした人間の放つ特有な雰囲気は無かった。短めの髪、適度に日焼けした肌。服装も半袖のシャツ、男物のズボンとスッキリしていてアクセサリーは特に無く、意識している女の子らしいチャームポイントは赤い縁の眼鏡くらいだろう。清楚さよりは健康的な美しさを感じさせる彼女は学院男子連中にも物怖じしない蓮っ葉な性格だ。
そんなサーシャだからアイリスの噂は聞いていたが、1日2日のことならばしょうがない。まぁ、司書官からも注意を受けてはいないようだし、などと彼女を放って置いたのだ。
だが、このガラス小部屋は図書館大ロビーの中央に位置し終始誰かしらが周囲を行き来している。更にロビー全体に中央へ向けて椅子と机が配されており、日々それらを利用する者も大勢いるのだ。そんな利用者注目のお立ち台で、連続5日目の斯様な行状ともなれば一言アイリスに言って置いてやらねばなるまい。と、サーシャはこのガラスの小部屋への入室許可を取ったのだった。
「ムー!眉間の皺で試験に落ちたりしないわ。それに、サーシャは昨日試験を無事終えたからそんな風に余裕なのよー。これで、将来の国立図書館司書官の夢は叶ったも同然だものね」
「...。イヤ、試験と皺の関係よりも、仮にも乙女たる者としての在り方と皺と唸り声の関係に注意を向けて。あと二、三日もすれば図書館の残念なアイドルって二つ名も夢じゃないわよ」
さっぱりとした性格と日頃女性らしさを意識させる事の少ないサーシャも、乙女の品格に無頓着という訳では無い。それらは時間と場所と相手により適当な選択が為されるべきと思っている。
「そんな事よりも、今は試験よ」
アイリスは普段は別に真面目ではあっても、ここまで試験の鬼では無い。やはり彼女はかなり焦りや緊張が有るのかも知れない。少なくとも気合いは空回りしている。
そう思ってサーシャは少しアイリスの緊張を解いてあげられればと軽口を叩く事にした。あまり一事にとらわれ過ぎては、上手く行くモノも行かなくなってしまう。
「まぁ、毎年10名の内約半数がここで落ちるんだから、こんなの国が主催した博打みたいなモノよ。気楽に行きなさいな。ダメならダメで道なんて幾らでもあるわ」
「博打は、不謹慎よ」
「じゃ、お見合いね。相手は異性とは限らないけど」
「おみあい…」
あまりにも、あんまりなサーシャの言い様にガックリと力の抜けるアイリス。
参考にでもなればと、話題の転換を図る事にする。
「ところで、 サーシャは、なんて召喚原書にしたの?」
「『蒼き湧き出づる知識の獣』にしたわ」
「そっかー。素敵だった?」
「それは、勿論。これからの、人生のパートナーだしね。青い輝き、靡く鬣、渋い心声、有り余る異界よりの知識。おまけに紳士。契約の記念として背に乗せてくれて学園一周空中散策。うふふ。サリアランデさん〜」
うっとりした声で、昨夜の夢見心地な世界へ旅立つサーシャ。普段の彼女のみを知る者ならば間違いなく、引きまくるだろう旅立ちぶりだった。サリアランデと言うのが恐らくは、召喚獣の名前なのだろう。
「うーん。心のお見合いなのかも…。やっぱり直感第一なのかな。ウムー」
夢の世界へ旅立つ乙女と化したサーシャの隣で、アイリスはまた唸り始めた。
☆
さてさて。午前中を図書館で唸って過ごしたアイリスだが、結局|召喚原書を決める事は出来なかった。試験は今宵、午前0時だ。まだ12時間あるが、それしかないとも言える。
お気に入りのワンピースで気分を変えてみたが、結局直感には何も触れなかった。そんな訳で気分転換。
腹が減っては戦はできぬ。と、アイリスは図書館を出た通りの向かい側、学院生一押しのカフェで昼食を摂っていた。
ドーナツとアイスコーヒーのセットは、リーズナブルで揚げたてドーナツが食べられるアイリスのお気に入りだ。
ちょっと子供っぽいとサーシャに言われてしまうのだがドーナツを口に入れた瞬間はつい、両足をパタパタさせてしまう。
屋外カフェテラスには気持ちの良い風が吹いている。絶賛ドーナツ満喫中のアイリスは、昼食時で混み合いはじめた道行く人々を見るともなしに眺めていた。
「ドーナツ、さいきょー♪」
小さな呟きが、雑踏の喧騒に溶行く気持ち良い青空の午後だった。
☆
アイリスが丁度ドーナツのひとくち目を楽しんでいた頃。もし運命と言うものがあるのならば、それは正にこの時足音を立て彼女へと近づいて来ていた。
国立図書館の建つ大通りを、2人組の男性と女性が歩いてきて流行りのカフェに背を向けて立ち止まる。女性が右手に黒いケースを下げていて、男性の方がケースを挟むように隣には並んでいる。
目的地は国立図書館だ。馬車が過ぎるのを待って、大通りの向こう側へ行くのだろう。2人が司書官なのは誰にも一目瞭然だ。真っ白なジャケットに赤いラインの入った制服は司書官のシンボルなのだ。二人はそれ程神経質にでは無さそうなものの、一応ケースの中身を不意の事故などから護っている様子だった。
基本的に国内の治安は平和そのものなので用心は形式的なものなのだ。道端で強盗などここ十年起きていない。
しかし、安心している時こそ運の悪い事は起こるもので、道を急ぐ別の男性が女性司書官にぶつかってしまう。左側からやや強めにぶつかられた彼女は転びそうになり、腕を振ってバランスを取ろうとした。だが、残念ながら男性司書官のフォローも間に合わず両手を石畳につき、持っていたケースを一緒に叩きつける事になってしまった。
ガンっと大きな音が周囲に響き渡る。ケースは破損して大きく口を開け、中身は見事な放物線を描いて遥か後方へと飛んで行った。
☆
ドーナツと午後の優しい微風、青空と喧騒とを等しく満喫して気分転換を図って居たアイリスの耳にガンっと大きな音がが響いてくる。
誰かが、石畳の地面へと随分派手に何かを落としたらしい。
ふと、音がした方向へアイリスが目を向けた。
……次の瞬間。
ゴツっ!
アイリスの頭の上に何かが降って来た。
見事なまでの大当たりである。
「うっ!!?………いっっったー!」
思わず叫んで頭を抑えるアイリス。今日、頭の上に何かが降って来るのはサーシャの拳骨に続いて2回目だ。そろそろ神様に苦情を申し立てても良いかも知れない。キッとまなじりを釣り上げたアイリスは、降って来たモノの正体を見極めるべく足元の落下物に目を向けた。
それは灰色の一冊の本だった。表紙は下を向いていて題名は分からない。ただ、アイリスには本の内容は分からなくても一目でどの様な本なのかは分かった。おそらく、召喚原書だ。百合を模した箔押しが背面に有るのは召喚原書を含めた重要図書に共通の印だからだ。
「なんで、こんなものが空から?」
アイリスはまだ痛む頭を抑えつつ、目に涙を浮かべながら本を手に取った。
ザッ!
自分の中を風の吹き抜けるかの様な感覚。世界が塗り変わる様な、真っ白なキャンバスに鮮やかな絵が描かれる感覚。
朝食の自家製ドーナツは、ママレード添えが一番と確信した、記念すべきあの幼き日の革命の朝の感覚……いや、ちょっと違うか?
兎に角。此処暫く美味しい食べ物にしか働かなかったアイリスの全身を駆け抜ける様な女の直感と言うヤツ。それが、この時かつて無いくらいの勢いで彼女を揺さぶったのだった。
「あの、ゴメンなさい。ケガはありませんか?」
革命の朝の感覚?に酔いしれていたアイリスは突然声を掛けられ、やや惚けた風で顔をあげた。
「はい?」
顔をあげたアイリスを、腰を屈めて覗き込んでいたのは国立図書館に所属している司書官の女性だった。
「……」
「……」
既視感から、二人はしばし無言で見つめ合う。
「あら・・・?すごい偶然。もしかしたら学院のアイリスさんではありませんか。元気でしたか?」
二人にとって、久しぶりとなる偶然の再会。
先に相手が既知だと気が付いたのは、アイリスを上から覗き込んでいた女性司書官の方だった。
それでアイリスも、相手が図書館に足蹴く通った一年生の頃にお世話になった司書官のフィナ・ブレアだと気が付く。嘗ては、金の長い髪に眼鏡細面の、スラリとして落ち着いた感じの司書官然とした女性だったが、今は髪をアップにし眼鏡も無く、耳には小さな紅いピアスをしていて活動的な印象だった。
「わー!お久しぶりです。フィナさんですよね。髪をあげて居るからすぐには分かりませんでした。どうしてこんな所に」
アイリスは立ち上がり、今は王城へと職場を栄転して行った筈の司書官フィナへ疑問を返した。
しかし、それに答えたのはフィナではなく、彼女の後方から男性を1人伴い姿を現した男性司書官の鋭い声だった。
「フィナ!召喚原書は無事かい?」
久しぶりの再会を嬉しく思い挨拶を交わしはじめた2人だったが、彼らの登場でそれぞれが居住まいを正す。
「大丈夫よ、アルマーニ。召喚原書は無事。彼女……えっと、アイリスさんが受け止めてくれていたわ」
そう言ってフィナは、紹介するようにアルマーニと呼んだ男性司書官を振り返りながらアイリスを示した。
厳しい表情で現れたアルマーニだったが、フィナの紹介を聞くと視線をアイリスに向け、抱えられた召喚原書を見てホッとしたのか表情を緩めた。
「そうか、良かった。石畳にぶつかって破損していたり、誰かに持って行かれたりしたら大変だったよ。フィナ、大きな声を出してすまない。流石に俺も焦ったものだから、つい。アイリスさんも移送中の召喚原書を保護してくれてありがとう」
先ほどのアルマーニの鋭い声に身を固くしていたアイリスだったが、思ったよりも柔らかな彼の印象に緊張が解ける。
それで自分が胸元に抱えた召喚原書と司書官の組み合わせからして、フィナがここに居る理由は予想できるものだったなぁと、遅ればせながらアイリスは気がついた。
ちなみに、召喚原書は保護したと言うよりも不運にも受け止めた。しかも角を頭で。といった方が実情としてはより正確なのだが、彼女は取り敢えずその辺の仔細を脇に置いておく事にした。
「初めまして、アルマーニさん。アイリス・カーフィーです。フィナさんには、学院入学したての頃からフィナさんが栄転してしまうまでの半年間くらい、学院図書館でお世話になっていたんです」
「よろしく、アイリスさん。そうですか、貴方があのアイリスさん。私は王城分室でフィナの業務監督兼バディをしているアルマーニ・クリスです」
握手をしながら互いに軽い会釈を交わすアイリスとアルマーニ。
アイリスは、アルマーニが何故か自分のことを以前から知っている様な口ぶりだったのを不思議に思ったが、フィナから聞いていたのかも知れないと思いそれ以上は気にとめなかった。
自己紹介を終えると、アルマーニは今回の騒動の原因だと言う男性…さっきアルマーニが伴なって、フィナの後ろから現れたもう一人だ…を衛士に引き渡しちょっぴりお灸を据えて来ると言うと、更にフィナに一言二言告げ2人のもとを離れて行った。
続き〜それはアイリス・カーフィーの1日(後編
アイリスの昼食は当初に比べて随分と賑やかになった。
と言うのも、幾ら図書館まであと僅かの距離とはいえ|召喚原書は国の管理下にある重要物。
学園前の国一番の目抜き通りでひったくりの類に会う様な事はなかなか無いだろうが、さっきの様な不運も無いでは無い。これを裸のまま小脇に抱えて持ち歩くのも些かマズイだろうという事になり、結果、アイリスから返却された|召喚原書を持ってフィナがカフェで待機となったからである。
アルマーニの計らいで、アイリスと相席して昼食を取りながら待機する事になったフィナは、件のお詫びとしてアイリスにドーナツの追加をOKしてくれた。
テーブルの上はお代わりのアイス珈琲が2つに、様々なデコレーションドーナツで、さながらスイーツパーティだ。
普段のアイリスならば、ニコニコ上機嫌。瞳の中にも星がキラキラし始め様ばかりの状況なのだが、今日この時だけは非常に稀有な例外となった。
彼女が熱い視線を送るのはドーナツでは無く、勿論フィナの手元にある|召喚原書である。
アイリスは直感に従い自分の選ぶべき|召喚原書をフィナの手元にあるそれ、と定めていた。ただ、どんな理由でその|召喚原書が王城分室から学院並立の第一館へ移送されるのか分からない。申請しても使わせて貰え無いかもしれない。
そこでまず、この春自分が召喚学専攻資格者となった事、今日まで散々|召喚原書選びに時間をかけてきたが、まだ良いものに巡り合えていなかった事などをフィナに話さなければならないと思っていた。しかし、幸か不幸かその聞くも涙語るも涙の、長くなるだろう事請け合いな前置きは不要だった。
時を遡る事、数分。フィナが追加で購入して来たドーナツとアイスコーヒーをテーブルに置くと
「そう言えば、急な再会だったのでまだお祝いも碌に伝えていませんでしたね。|召喚学専攻資格者に選出されたと聞きました。おめでとう、アイリスさん。一年生からの努力が実って良かったですね」
と、言ってくれたからである。
それで話はアイリスの予想に反して、トントンと軽快に前へ進みはじめる事になった。
☆
フィナによると召喚原書の移送理由は、本が契約者を探しているから、らしい。そう聞くと何だかおかしな気がする。普通、本は人を探さない。アイリスが素直にそう指摘すると、彼女は少し得意そうな顔でゆっくり事のあらましを話し始めた。
それは昨夜の事。
夜間の警備官が、召喚原書『灰白の遥か巡り添う悪徳の獣』が書棚でひとりでに薄ぼんやりと輝いているのを発見した。何だか幽霊騒ぎにでもなりそうな話だが、ベテラン警備官は取り乱したりはしなかった。これには何度か前例があるからだ。所定の手順に従い召喚原書を棚から抜きだし、移送ケースへと収める。それから慌てずに城内付きの司書官へ連絡を入れ、そして本日朝、目出度く移送と相成りました、チャンチャンと言う訳で有ると。
「フィナさん、なんだか大事な所が色々抜けている気がしますよ」
「そんなことはありません。事象に正確、脚色も欠落も無いです」
フィナとアイリスがそれぞれドーナツを2つ程消化して、コーヒーを半ば啜った頃、話しはアイリスが予定していた右斜め下を迷走していた。情報不足、歯抜けと表現するべきだろうか。いきなり躓いていた。
だが天の助け、絶妙に空気を読んだアルマーニが市販のハムサンドと新品の移送ケースを携えやって来た。
「やぁ。2人とも。話しは終わったかい?」
「アルマーニ!」
「アルマーニさん!」
フィナの背中側から登場したアルマーニが、サンドイッチを持った手をヒラヒラさせる。
「アルマーニさん、助けてください。フィナさんはダメダメです」
「うーん。と言うと、今回の召喚原書とアイリスさんの困り事の話しかな?」
「わ!なんで、分かったんです?」
「僕は元より、アイリスさんを名前だけは知っていたのさ。これでも王城付き司書官だからね。学院長と王様の所へ面接に来ただろう?まぁ、フィナからも話しは聞いていたけれど。それから今、第一館で移送ケースの替えを受け取るついでに、今日実地試験を控えた唸る美人さんの噂をちょこちょこっとね」
アルマーニが少し苦笑しながら、片目を瞑って見せた。
グサっ!
同性のサーシャに言われても全く気にならなかったなのに、異性に言われると何だかとっても痛い。胸を貫通した言葉の矢の鋭さに、アイリスは思わず赤面した顔を手で覆う。
「あー、これは失礼。紳士としては、一言多かったね」
「アイリスさん、唸ってましたか?他の利用者に迷惑をかけてはダメですよと、言っておいたじゃないですか」
「はい。唸ってました。ごめんなさい」
こうなってしまえば、アイリスは白旗をあげて無条件の全面降伏である。
「さて、話しを召喚原書に戻そう。フィナからは何を、どこまで?」
アルマーニが話題を変えてくれる。アイリスは有難く、話題転換について行った。
「呼んでいて、光って、移送された。とだけ!」
「正確ですよね」
フィナがアルマーニを見て自信満々に同意を求める。
「まぁ、一様は。予備知識の補足や、余談がまるでないけどね」
「ダメですか?」
「駄目だね」
「ダメダメです!」
アルマーニとアイリスの息の合った駄目出しに、今度はフィナがしゅん、とする番だった。
ここで、アルマーニがハムサンドをパクリ。それから、どこからかミントの葉が一緒に封じられたミネラルウォーターの瓶を取り出すと、これを一口。
「あー。あー。では!僭越ながら変わって僕が」
そうして、喉の調子を整えたアルマーニ先生による召喚原書講義がカフェの片隅で開講された。
「これは非常に稀な例だけど、契約者、つまり召喚学専攻資格者だけでなく召喚原書が、チャンスと言うか宿命や運命みたいな物に強く惹かれる事があるんだ。特に、巡り逢うべき召喚学専攻資格者が祝運の日に近づいて尚、自らを…此処では召喚原書の事だけれども…近くにさえ感じられない時にね。手の届くところに有って、すれ違う時は召喚原書は基本的に沈黙して次を待つ」
アルマーニが更に、ミント水を一口。それからハムサンドを置いて、フィナの食べかけたドーナツの欠片をポンッと口に放り込む。
アイリスはその余りに自然な動作に驚いたが、フィナはいつもの事と言う風だった。
「こうして非常に稀な頻度ではあるけれど、輝いた召喚原書には少し不思議な事が起きる。紙で出来ているのに何人にも開けなくなるんだ。ただ一人出会うべき召喚学専攻資格者を除いてね。僕等専門司書官は、召喚原書の名称に替えて|祝運の円環の欠片と呼んだりするんだけど」
ここで更に、アルマーニはテーブルの中央に手を伸ばしドーナツを1つ取り上げると、もう片方の手で輪の一部を千切って見せる。
「このドーナツが祝運の輪。この小さな欠片が|祝運の円環の欠片、こっちの大っきいのが召喚学専攻資格者。この小さな欠片は決して他の円環の一部には成れない。切り口が噛み合わないからねー。と言う事は、召喚学専攻資格者に見落とされると、この召喚原書は永久に誰にも使えないから廃棄処分一直線。開けなければ研究資料にもならないしね。なので基本は、その時点での試験未受験者…今回はアイリスさんを含め4人…に確認してもらう為の移送。という訳です」
パクリ。パク、パク。モグモグ、ゴクリ。ふぅ。
「もちろん、召喚成功が確約される訳じゃないし、他に既に定めた召喚原書が有れば開く事が出来ても、選択は強制され無い。さて、これにてお開き〜。ご馳走様でした」
アルマーニがペロリと指を舐める傍、彼の話を聞いたアイリスは小さく震えていた。 この感情に名前をつけるのは難しいと彼女は思った。でも敢えて表現すれば、やはり喜びだ。
泣いて、笑って、頑張って努力した。そうして自分は今、生涯を共に歩むパートナーになり得る、そんな誰かに巡り逢うチャンスを得ている。そして召喚原書も向こうから自分を探してくれていた。それは何だかロマンチックで胸躍る出来事ではないか。そしてもし召喚に成功したなら、そのパートナーはきっと、自分のもう1つの願いにも力を貸してくれる。
「それは、私です!」
アイリスは、去りかけたアルマーニの持つ召喚原書の入ったケースを、真っ直ぐに指差した。
伸ばした腕と同じくらい、真っ直ぐな瞳で彼女はアルマーニを見た。
「ほう!」
アルマーニは小さく口笛を吹いて驚きを顔に表すが、すぐに居住まいを正すとアイリスに向けて片足を引き、腕を添えて優雅に腰を折って見せた。
「それでは、我らが書源の館へ御一緒下さい、お嬢さん。王城付き、特級位官、召喚原書取り扱い王権代理最高司書官アルマーニ・クリス、奮って貴女のお力となりましょう」
☆
アルマーニに案内されて入室したのは、学院並立第一図書館の最上階会議室だった。書源の館とは第一図書館の旧名称で、一部の司書官が格式ある場でその様に呼ぶらしい。
「さぁ、開いてみて」
アルマーニに促され、アイリスは目の前に置かれた召喚原書に手を伸ばした。アイリスが自ら声をあげたのに、いざとなると試されている様で緊張する。
伸ばした指先が召喚原書に触れる。
あの時の様な不思議な感覚は訪れなかった。一瞬不安が過る。
「えい!」
それでも、彼女は掛け声と共に召喚原書を開く様に指先に力を込めた。
「あ!」
「うん。どうやら、間違い無いみたいだね」
召喚原書はあさっりとその口を開いた。
「さて、それでは、アイリスさんの試験申請は、この召喚原書『灰白の遥か巡り沿う悪徳の獣』で良いのかな?」
アルマーニは確認するように、アイリスの顔を覗き込む。
アイリスは9割決意が固まっていたが、召喚原書の銘を再度落ち着いて聞き、若干残る不安をアルマーニに正直に打ち明けた。
「はい。お願いします。ただその、ここまで来て何ですけど、悪徳って私で大丈夫…」
アルマーニは、笑ってその心配を論理的に解消してくれる。
「あー、その事か。これという召喚原書に巡り会うと、それだけでなにもかも受け入れてしまう人も多い。銘まできちんと読み解く人は3割位だね」
「そうなんですか?」
「ああ。でも安心して。召喚原書の銘は少し古い時代の言語で記されていて、意味も現代語とは異なる。『巡り沿う』は、人を惹きつける。『悪徳』は悪戯っぽさや何かに縛られない自由な性質を示す語だ。案外と可愛い犬型で、悪戯っぽく誰にでも好かれる感じかもしれないよ」
「はい!」
アイリスは今度こそ、笑顔でアルマーニに頭を下げた。
☆ ☆ ☆
アルマーニがアイリスの試験の手配をするという事で、彼女は第一館を後にした。アイリスは一度家へ帰り、再びここへ来るのは6から7時間後の試験時間の頃になる。
フィナはアルマーニと共に彼女の背を見送りながら、唇を尖らせて彼に話しかけていた。
「随分アイリスさんに肩入れしましたね。やっぱり歳下の娘が好きなのですね」
「人聞が悪いな〜、なんだい?ヤキモチかな?」
悪戯っぽく笑うアルマーニ。
「いえ、そ、そうではありませんが…何故かなと」
多少詰まりながらもアルマーニの言を否定するフィナ。
「彼女、無意識だろうけどカフェで召喚原書を指して、『それは私だ』と言っただろう。ドーナツで例えたけど、あの例の通り召喚原書は召喚学専攻資格者とその未来の一部だ。その本質を感じ取っているのだろうね。ただの道具に過ぎないと思う者は、あの言葉を選ばない。彼女は良い契約者になるかもしれない、と思ったのさ」
「そうでしたか」
これは、アイリスの与り知らぬ話。
☆ ☆ ☆
少し大仰に表現するなら、『刻は来た!』と言ったところだろうか。アイリスの心情としては決して大袈裟では無い。
時刻は午後11時55分。学園並立第一図書館、第三庭園中央儀式広場。
皺だらけにしてしまったお気に入りのワンピースを綺麗にし、準備万端のアイリス。
広場の周りに焚かれた聖火。
儀式手順の最終確認を終えたアイリスは、審査官から予めアルマーニが手配してくれていた召喚原書を受け取った。
召喚原書をペラペラとめくり、陣の描かれた頁を開く。そして、そっとそのまま広場の中央に置いた。更に、指先をちょっと針で突き、滲んだ血を指の腹に広げると描かれた陣の真ん中に拇印を押す感じでチョンと付ける。
午前零時。1日一度だけの鐘が鳴り渡る。
召喚原書から落ち着いた足取りで少し離れる。審査官3名が見守る中、アイリスは召喚契約実地試験、第一次召喚の儀を開始した。
「私は乞い、願う。世の理を超え、世界の隔てを超えて。尚、貴方が許すなら、刻の彼方へ至るまで、幾億の今日(いま)を重ね、共に並びて明日(あす)を行(ゆ)こう。私はアイリス・カーフィー。この盟約に答えるならば、門を開いて像を示せ。『灰白の遥か巡り沿う悪徳の獣』」
静寂の中、謳う様なアイリスの声だけが広場へとその波紋を広げる。
直後、パチッ、パチッと音を立て白銀の火花が弾けた。召喚原書があっと言う間に燃え尽き、広場に火花と同じ白銀に輝く陣が広がる。
強く明るく暖かな陣の輝きが、一瞬で辺り一面を飲み込み、アイリスを照らした。
きっと、きっと、上手く行く。
祈る様に、アイリスは目を閉じた。
一日中、ホントに色々な事が起きた。悩んで、ビックリして、感激して、不安になって、そして選ぶと言う決断をした。色々な人に手を差し伸べてもらい、背を押して貰った。そんな全てが、この今日を締め括る瞬間につながっている。新しい始まりに、出会えるかもしれない瞬間に。
予感がする、今日は、きっと忘れられない1日になる。
彼に出会った瞬間、アイリスの予感は確信になる。
そして〜つながる、今日と今日
悠は、ゆっくりと目を開けた。
目蓋の向こうに強い光を感じたからだ。
夢を見るには早すぎるし、誰かが部屋の明かりを点けた風では無い。目を閉じた途端に画面が切り替わったみたいな感覚。
いや、眠ったのだから時間の感覚が曖昧なだけなのかもしれないが。それにしても、こんな夢の見方は悠の経験では初めての事だった。
周りをざっと見てみる。
正面に白いワンピース姿の女の子、年は互いに同じくらいだ。隣には神父のような格好の男性が二人、シスター風の女性が一人。空は晴れた夜空、綺麗な満月。周囲に篝火。運動場の様な広場。女の子の向こうには大きな煉瓦造りの建物。何故か自分は随分ラフに学校指定のブレザーを着ている。更には足元に自分を中心として、ゲームの類に出てくるような白く輝く魔法陣……らしき何か。発光理由は不明。
いや、これが「夢ならなんでもアリ!」という奴か。悠は以前彰から聞いた、珍妙かつ不条理な夢の話を思い出した。
一瞬の間におおよその状況把握を済ませた悠は、自分と短い問答を始める。
大丈夫だ。自分は、いつも通り落ち着いている。
夢にしては少しおかしいという気もする。風が頬にあたる感触まで、ハッキリとしすぎている。さっき目蓋の向こうに感じた強い光は、足元のこれだろうか。だとすると、ちょっと突飛でもこれは現実かも知れないと考えておいた方が、これからのトラブルを避ける心構えになるかも知れない。
結局のところ、問題はこれが一体どういう状況なのか。この一点に尽きる。
随分と現実感満載な夢でした、というオチならば彰の時のように明日のテスト後のちょっとした笑い話だ。
そんな風に思考をまとめると、悠はもう一度正面で目を丸くしている女の子に視線を戻した。
直感的に、彼女がこの事態のキーパーソンだと感じたからだ。それは、悠が思考の上では自身に向けてあれこれ理屈を並べながらも、これはきっと現実なのだと何処で悟っていたが故かもしれない。
そのせいで、我知らず彼の視線は鋭いモノになっていた。
まず、こちらから何かアクションを起こしてみるべきだろうか。そう思って、悠は口を開きかけたが…。
それよりも先に、ワンピースの女の子が話はじめる方が早かった。
☆ ☆ ☆
アイリスは目を開けた。
目蓋の向こうに強い光を感じる。
彼女の前には大きな灰白色に輝く召喚陣。そして召喚門が開き、無事召喚獣が現れていた。
夢ではない、成功したのだ。
アイリスは脇目も振らず、ただ自らの召喚獣だけを見つめていた。
でもこれホントに成功なのかしら?一転、不安からの自問自答。
それというのも自分の召喚獣は、これまで聞いた事も無い人型なのだ。ツノも翼も尾も無い。肌の感じも自分たちとかわらない。召喚獣が一瞬で人に擬態した風でも無い。更には服も着ている。
「完全な人型なんて聞いた事がない。事故か!?」
「失敗ならば何も現れないハズです」
「その通りだ。それに、人種(ひとしゅ)は召喚門を潜れない。間違いなく、異世界から召喚に答えた獣だ」
審査官達も、初めての事態に驚きと違和感から言葉を交わしている。
「ともかく、成功にはかわりない。おめでとうアイリス君。召喚獣とコンタクトを」
審査官がアイリスに声を掛ける。
アイリスは混乱していた。
事前に予想していた犬型とは全く違う。審査官が成功と言ってくれているのだから喜んで良いのか。でも、召喚門から出て来た彼は、ぐるりと周りを見回したあと自分を睨んでいる気がする。
それでも、アイリスは意を決して口を開き、召喚獣に声を掛けた…召喚獣に、この国の言葉は通じない。心の内側で語りかける心声を用いると言う基本を忘れるくらい、この初めての体験に喜びと驚きと、ちょっぴりの怯えを感じていた彼女なのだった。
「………初めまして。私はアイリス・カーフィーといいます。召喚‘獣’さん、呼び出しに|感応てくださり、とても嬉しく思います」
そこでアイリスはぺこりと頭を下げた。
☆ ☆ ☆
お!とりあえず言葉は分かる。ネイティヴな英語とかだったら、ちょっと苦労したかも知れない。夢ならば、これがかの有名なご都合主義設定だ。普通、銀髪の美人さんは日本語を話さない。
機先を制された形になって、自分の言葉を飲み込んだ所為か、はた又、状況の主導権を取り損ねた所為か、悠は少しズレた事を考えていた。
それでも、どうにか彼女の言う事を彼なりに解釈する。大人達が交わした会話には多少意味のわからない事柄も混じっていたが、どうやら‘召喚獣’は自分を指しているらしいと判断出来た。
それにしても、犬猫でもあるまいしケモノ扱いはない。それとも人間と分かった上でのケモノ扱いなのか。召喚されると奴隷扱いとか。それとも何か誤解が有るのか。すごく凶暴か残忍とか、いやらしいとかそう言う意味での比喩的なケダモノみたいな意味か。
でも取り敢えず、会話は成り立つ様だ。
「あー。アイリスさん?で……良いんだよな。何かしら誤解とか、規則が有るのかも知れないが、召喚獣はないんじゃないか?俺に4足歩行の予定はないし。せめて、呼ぶなら召喚人あたりで手を打って欲しいんだけど。どうだろ?」
どんな時も、言っておくべき事は言っておかねば。
「………っ!」
何故か、アイリスが息を飲んだ。それで、悠も意図せず何かマズイ事を言ったかなと思い慌てフォローを入れる。
「ん?あれ?やっぱり召喚人はダメか?まぁ、語呂は悪いが。その、正直、ペットとかは勘弁して欲しいんだけど………俺どっちかつったらSだし」
「あ、あの、あれ?え?どうして私?召喚獣さん、言葉が…」
「あ!そうか。そう言えば俺まだ碌に自分の名前も!自己紹介。自己紹介すればとりあえず素性も分かるし、ケモノは卒業か!?」
アイリスが驚いたのは、心声(しんせい)を用いず会話が出来てしまった事に今更ながら思い至ったからだ。だか、そんな異世界の理など知る由も無い悠は、自分の言葉の何かがアイリスを不用意に刺激してしまったのではと思った。
そうして、見事なまでに噛み合わない会話で同時に混乱の坩堝へ突入する悠とアイリス。それは端からはチグハグなコントにさえ見えた。
パンっ!パンっ!
しかし救いの手ならぬ、場を割る様な大きな手拍子が2度響き、2人は今度こそ落ち着きを取り戻す。
そこで、神父風の男性の1人が厳かにアイリスへと話かける。
「アイリスくん、落ち着きなさい。こちらへ来たばかりの召喚獣を刺激し、君まで混乱している様では危険だ。形態の特異さも含め前例の無い事ではあるし、彼の声は私たちにも聴こえている。だが、もう一度言うが召喚は成功だ。君は今、パートナーを得て候補の立場を卒業し国内でも栄誉ある正式な召喚士の一員と成った」
男性はゆっくりとアイリスに噛んで含める様に言い、一息入れる。
これは、悠も黙って聴いていた。
「判断力、柔軟さ、交渉力、冷静さ、心技体の資質が今、召喚士としてパートナーを得た事で真に要求される立場になったんだ。その事を思い出しなさい」
彼はアイリスへの話を締めくくった。そうして、今度は悠の方を向く。
「異世界からの新たな灰白の客人よ、もし召喚士の資格なき私の言葉が届くなら耳を傾けて頂きたい。ケモノとの響きは一時の我々の慣習と受け止めて戴きたい。心安らかに、叶うならアイリスの片翼となりて加護を賜りたく思います」
彼は多くを語らなかったが、その落ち着きある語り口に些事を突いて一人暴走していた悠は、この状況を受け止める覚悟みたいなものが定まった。
だから、軽く息を整えて、コクリと静かに彼へと頷き返した。
これは現実だ。悠は予感が確信に変わるのを感じた。
☆
大人たちが去って、暫く沈黙の時間が過ぎた。
召喚の成否を見届ければ、彼らの役目は終わり。そこから先の事は、アイリスの責任に於いてなされる。また、他の召喚士達の結果も同様に見届けなければならない、との事だった。
自身をアイリスだと自己紹介した彼女も、どうやら落ち着いたようだ。
ただ二人きりになってここ一二分の間、何も前に進んでいないような気がするのは、悠の勘違いでは無い。
「すー、はー。すー、はー」
気合いを入れ直すように深呼吸したアイリスは、随分可愛い顔でじっと悠を見つめたまま少し前から固まっていた。大真面目に頑張っています、といった感が満載である.....少なくとも外見上、悠にはそう見える…がそれ以上の何かは彼の常識から言えば、当然伝わっては来なかった。
だが今回は、この一見意味不明な状況にも悠は混乱しなかった。代わりにどうツッコミを入れるべきか束の間思案したが、結局茶化したりせずストレートに行く事にする。
「あー。分かった。アイリスさん。あれだよな。テレパシーとか念話みたいな。頑張ってんのはすごく伝わるんだけど、残念。それ多分、受発信機能が俺についてないからダメだと思う。さっきみたいに普通に話そう」
そう言うと、彼女の顔が少し赤くなったのが悠にも見て取れた。
「うー…やっぱり、そうですよね。なんか変だなって思い始めてはいたんです。ただ、これがこちらでの常識と言うか、正式な手順と言うか…。仕切り直しの意味も込めてキチンと最初の予定通りにやって見ようかなって。そもそも、普通の召喚獣さんは直接の契約者以外の人とは話せないし、その契約者とも心声(しんせい)以外では話したり出来ないんです。だから、私が悪いんじゃありません!たぶん…」
後半、言い分けらしいアレコレを小声で呟きながら、返事をしてくれたアイリスは照れているようだった。自分でも、心声(しんせい)の通じない相手を一方的に見つめる図は、少し間の抜けた感じがしたのかも知れない。
「ははは……♪」
「ふふ♪」
つられた悠とアイリスはどちらからともなく、何だか可笑しくなって声を合わせて少し笑った。
それから、自然とアイリスが場を仕切り直す。
一歩、二歩。地面に浮かぶぼんやり輝く陣を踏んで、彼女が悠に近づいてくる。
「コホンっ!あーでは、召喚獣さん。何だか今更ですけれど、改めまして、私はアイリス・カーフィーです。‘さん’は要らないですからアイリスって呼んでくださいね。お逢い出来て、ホントにとっても嬉しいです。私きっと、絶対、頑張って、貴獣(あなた)のいいパートナーになります。だから、これからずっとずっと、よろしくお願いしますね?」
アイリスは両手を腰の後ろに回すと、少し前屈みになって軽く頭を下げながらにっこりと晴れやかに笑った。
悠は、旧知の友人との再会で、よー久しぶり!元気だった?と聞かれた時の様な懐かしさや親しみみたいなものを感じた。
ちょっと離れたところから小首を傾げる様にして、やや下から此方を窺う彼女は可愛らしかった。真っ白なワンピースと白銀の髪が風に揺れて星の無い月夜に良く映えていた。
そんな白と黒のコントラストは美しく、一瞬取り込まれてしまった様にそれらに見惚れた悠の耳に、続くアイリスの柔らかい声が染み込んでくる。
「良かったら、召喚‘獣’さんのお名前、教えて頂けませんか?」
☆ ☆ ☆
全く異なる世界を生き、それぞれが別々の青春を謳歌するはずだった悠とアイリスは
〜召喚‘獣’さんのお名前、教えて頂けませんか?〜
この一言をきっかけに、それぞれの今日と今日とを繋ぎ合わせ、同じ明日を共に迎える事になった。
アイリスが名乗る。それは、繋がりの第一歩。
そして悠に問う。彼の名を。
悠は、誤魔化すでも偽るでも躊躇うでも無く、きっと名乗るのだ。
彼女と、この未踏の新しい世界へ向けて。
「おう!俺は、鷹村悠。悠久のユウだ。意味は、遙か遠く永く、ずっとずっと。…よろしくな、アイリス!」
それは、自らの存在を明らかにする一歩。
それは、自らの存在を形にする一歩。
それは、小さな冒険への一歩。
アイリスと明日を行く、鷹村悠の第一歩。
悠は、アイリスへ向けて足元でぼんやり輝く陣の中心を離れる。
一歩、二歩、ゆっくりと。あと一歩で2人はぶつかる。そこで、更にゆっくりと彼女の方へ手を差し出した。
この世界にも、握手の習慣は有るのだろうか?手を差し出してから、悠は遅れて気がついた。
テレパシーを使おうとしたアイリスみたいに、今度は自分が可笑しく見える番か?
彼は内心で少し緊張する。
「………………………」
一瞬が永遠にも感じられる静寂の時間を、悠はただ静かに待った。
アイリスが、そっと悠の手を取る。夜気で少し冷たく、でも、とても優しく暖かい人の温もり。
「はい!召喚‘獣’のユウさん!」
二人の足元で陣が一際強く、明るく、美しく輝いて月夜を貫いた。
「なぁ。だから、召喚、‘獣’は止めようぜ」
「うふふっ!」
全ての人に掛け替えの無い‘今日’と言う日常があり、新しい出逢いと‘明日’がある。そして、そんな‘明日’が大切な‘今日’になる。
これは、そんな始まりの物語り。
始まり〜これはユウの問題
窓から入ってくる眩しいばかりの朝日。質素ながら木製の落ち着きある茶色で統一された調度類。その日、そんな食卓で繰り広げられる控えめな誘惑から悠の朝食は始まった。
「ユウさん?どーしても、いつかは帰えってしまうんですか?」
言外に、行かないでと言うアイリスの気持ちは十二分|声音(こわね)に含まれていた。
「まぁ、そうだな」
マーマレードを乗せたドーナツを口に運びながら、素気無い悠の一言。
「ウー!ウー!意地悪ですね!嘘つきはダメだと思います」
頬を膨らませるアイリス。
「いやいや待ってくれ、アイリス。俺がいつ、嘘付いたって言うんだ?」
「だって、ユウさん言いましたよね?ユウ、意味は遥か遠く永く。…………ずっとずっと、よろしく。って」
アイリスが神妙な顔つきで悠の目を覗き込むようにして言うが、彼は雰囲気にのまれたりはしなかった。
「コラっ。都合の良いところに、ヤケに長い間《ま》を捏造するな。それと、句読点の雰囲気を微妙に改竄するな」
「ム…ムグ」
悠は、アイリスの細やかな抵抗を一閃した。それから、カップを持ち上げて注がれていたミルクを一息に。もちろん、件の台詞に訂正を入れるのも忘れない。
「正確には、悠の意味は遥か遠く永く、ずっとずっと。……よろしくな。だったろ」
アイリスは別に、あの日の悠の言葉を誤解して受け取った訳では無い。残念ながら細工はあっさり玉砕しまったので、他の方法を試してみる。
「今ならドーナツも、ずっとユウっと食べ放題ですよ」
「訳の分からない事言って無いで、その膨らませた頬に、リスみたいに溜め込んだドーナツを飲み込めよ。あ、リス、分かるか?」
悠はアイリスの扱いにすっかり慣れた感じで、彼女の膨らんだ頬をツンツンと突っついた。
ユウの名の意味と『ずっと』をかけ、洒落っ気を含ませたアイリスによる「ユウ餌付け作戦」は、全くの無力だった。
言うべき事ははっきり言う。そんな性格の悠だから、あの日手を取って笑ってくれた彼女へ、無責任な事を言いたくは無かった。
向こうの世界には、彼にとって大切なモノが沢山ある。だから、この話題には多少厳しい態度で望み、安易に何かを請け合ったりはしない。
気持ちを切り替えた悠は、自分の分の皿を下げるべく立ち上がり、すっと時計に目を移しながら言葉を続ける。
「まぁ、そう焦らなくても。何も今日、明日にもって訳じゃ無い。暫くは有難く居候させてもらうよ。大体、アイリスの世話にならないと右も左も分からないしな。ところで、昨日聞いた感じじゃ早くしないと、もしかして学院遅刻じゃないのかこれ?」
悠が指差す先、アイリスは通学時間まではまだまだ余裕…そんな使い古された様な逃げ口上で…といった顔で、それでも釣られた様に時計を見上げた。そして、その目が溢れんばかりに大きく見開かれてゆく。
「ハニャーー!!」
「朝っぱらから愉快な奇声を上げるな、近所迷惑だ」
学院へ通学前の、カーフィー家『朝の風景』である。残念ながら絵画にして飾って置くには、些かエレガントさに欠けるけれども。
それでも、こんな風に賑やかな朝を迎えられる事に悠は感謝した。そして、「遅刻!遅刻ぅ〜」と慌てるアイリスを横目に、この世界に召喚された直後から今日までの事を思い返しつつ、食後のコーヒーを傾けるのだった。
☆ ☆ ☆
「アイリス、召喚云々の話は分かった。それじゃ、次は俺の番だな。良く聞いてくれ。今の状況、俺には色々と大問題なんだ」
アイリスの家へと向かう道すがら、悠は真剣な顔で、ゆっくりと噛んで含める様に切り出した。
「1つ、俺は人間だ。アイリスと変わらない。これ、大事だ。2つ、明日の朝9時から学校で試験がある。これがその制服。3つ、大至急、俺のベッドへ帰りたい。」
細かいトコは様々すっ飛ばして、端的に最優先事項を伝える。すると、アイリスは少し困った顔をしてから、悠に問い掛けかた。
「ユウさん、やっぱり人間なんですか?そうすると、私は召喚試験を失敗したのでしょうか?」
召喚失敗。その言葉は何だか酷くアイリスを傷つける気がした。それで悠は敢えて失敗という言葉を避けて、遠回しだがアイリスの理解を事実認識として促してみる事にする。
「魔法の事は、ちょっと俺にも分からないよ。ただ、もし俺がアイリスの言う様な召喚獣だとしたら、今頃アッと言う間に君の家へひとっ飛びしたり、聞いたことも無い摩訶不思議な力や知識を披露したりするんだろう?」
「はい!そう言う事も有りますね」
期待の籠る目で、少しワクワクしたように悠を見るアイリス。その瞳は、大通りでバルーンアートを披露する大道芸人を熱く見つめる子供のそれに似ていた。顔には、次は何が出てくるだろうと言う期待。つまり、悠のアテは外れたようだった。
思わず、疲れたとばかりに「ハァ…」と溜息をついて、悠は少しオーバーに両肩を竦めて見せた。それから近くの民家の屋根を指差す。
「場合によってはあんな高い屋根にもピョンっと、ひとっ飛びってか?」
「そうです。やってみましょうよ!」
懐疑的な悠に向け、アイリスは朗らかに言った。顔には為せば成ると随分楽観的に書いてある気がした。
何故そんな気に成ったのか。後に思い返しても、悠は自分にも説明出来ない。
実際、普通の高校生男子が助走も無しにただ垂直に跳躍したところで、精々1メートルも跳べやしないだろう。
少しアイリスをからかって見たかったのかも知れない。または、フリだけでもして見せて出来ないと分かれば、この話を終わりにして次に進めると思ったか。
結局その時は、我ながら付き合いのいい事だと思いつつ、悠は屋根を見上げながら膝を折った。
悠の身体が、足下から薄く白銀に輝きはじめる。
「よいしょっ…と?……あー。うーん、これはな。その…」
なんとも言えない空気が漂う深夜の住宅街。月を背に屋根に立つ悠。距離があって彼女には聞こえもしない言い訳をボソボソ始める。アイリスは下からそんな彼を見上げ、ニコニコしながら両腕で大きな丸を作っていた。
無かった事にしたい。そんな思いを抱きつつ、すぐに屋根を降りた悠のところへ彼女が駆け寄ってくる。
降りる前に一瞬、大丈夫か?と思った悠だったが、予想通りと言うべきか不思議な事に着地の衝撃は殆ど無かった。
「出来ましたねー!ユウさんは凄い召喚獣(に・ん・げ・ん)なんですね。お見事です」
アイリスは自分の事の様に嬉しそうだった。指先を軽く付け外しして、「パチパチパチー」と口頭による擬音付きで拍手を贈られる始末である。
「変だな。何がどーなってんだ?にしても、可愛い顔して。アイリス、今の人間には含みがあっただろう?」
首を傾げながら、半眼でアイリスを見る悠。
「そんな事ありませんよー、ふふっ」
アイリスの楽しそうな笑い声が夜道で鈴を転がした風に微かに響いた。
☆
時刻は深夜、午前2時過ぎ。アイリスの家へたどり着いた悠は、ソファーに腰掛け無糖で珈琲を頂いていた。こちらの世界に珈琲が有ったのは彼にとって幸いだった、頭がスッキリする。
「問題1は、保留させてくれ。人だけど」
「はい。人ですよね。仲良くしてくださいね、ユウさん」
アイリスのツッコミを黙殺して、おかわりの珈琲だけは受け取りながら悠は続けた。
「それじゃあ、問題2と3だが…」
「その事なんですが、私からも少しいいですか?」
「ん?なんだ?」
「ユウさんは、帰る方法を知っているんですか?それとも、契約者の私が今ここで了解する事で、召喚獣のユウさんは帰る事が出来るとか?」
「…あー、俺を呼びつけたのはアイリスな訳だし、帰り方についても……」
悠は言外に、アイリスに期待したいと言う意思を力一杯込めた瞳で彼女を見る。だが、間髪入れない彼女の返事に、望みが無いと落胆する羽目になった。
「失礼ですね。さっき説明したように、私はユウさんを招聘した訳じゃ無いんです。ユウさんが犬猫で無いなら尚更ですね。首筋持ち上げて『えいっ!』なんてできないんですよ」
アイリスが左手を腰に当てプリプリと怒ったフリをしてみせながら、右手の指をピンと立て、さながら教師のように悠の誤解を訂正する。
「例えれば、私は扉のこちらから『誰かいませんかー?』と声をかけた感じです。ですから正確にはユウさんが自分で、パートナーになっても良いって、私に応えてくれたんですよ」
応えてくれた、の部分でアイリスは嬉しそうに声を弾ませるが、悠は一先ずそれを聞き流しつつ先程の帰り道での話を思い出した。
「成る程、そう言えばそうだったな。ちょっと記憶に無いところもあるが…あーつまり結論。俺は明日のテストに間に合わないって事だな」
悠は残りの珈琲を一気に煽ると、天井を見上げて溜息をついた。
それから、ふと壁の時計を見る。そろそろ、深夜3時になる頃だった。今夜はもうジタバタしてもダメだろう。なにせ、現状を辛うじて理解できる以上の情報が無い。しかも、屋根まで跳躍できたりと色々怪しい。今日は一旦諦めよう。
気持ちを切り替えた悠は、顔の前でパンっと両手を合わせた。そしてアイリスに頭を下げる。
「図々しい頼みだけど、今日はもう結構遅い時間だ。この話、続きは明日にしたい。それで…悪いんだけど、このソファーで一晩泊めてくれないか?明日からは自分でなんとかするからさ」
幾つか彼女からの返答パターンを思い浮かべた悠だったが、アイリスは予想したのと違いむしろ意外そうな顔をした。
「勿論です。と言うか、明日には出て行ってしまうんですか?ユウさん召喚獣…こちらの世界来たばかりなんですから私と一緒に居て普通ですし、お金持って無いですし、1人だと属領証明無いですから、色々大変ですよ?」
何か言いたい事が有りそうだったアイリスだが、それらを飲み込み悠の頼みごとへの返事だけしてくれる。何故か彼女は少し必死な感じで、同時にどこか寂しそうだった。
「うわっ!来たよ。異世界で暮らすイロハのイって所だな。ゲームや小説の設定じゃ致命的にならない程度にすっ飛ばす所なんたが、まぁ現実は当然そー上手くは行かないか。」
「ユウさん?何言ってるんです?」
悠の話は訳が分からなかったのか、一瞬ほけっとするアイリス。そんな彼女に悠は、気にしないでくれと首を振って見せた。
「いや、分かってはいたけど今の俺は正に、見知らぬ土地に放り出された流浪の人ってヤツなんだなーってね。右も左もどころか前後の勝手さえ怪しいと再認識したトコさ。」
あまり悲観的にならない様、現状を自身とアイリスの双方に向け茶化して見せた悠は、大事な部分を彼女に再確認しておく事にした。
「ところで、自分で頼んでおいてなんだけど、そんなにあっさり俺を泊めても大丈夫なのか?大事な事だし率直に聞くけど、アイリスは俺がここに居続けて迷惑じゃ無いのか?」
「全然、そんなこと有りません!むしろ、私がユウさんと…ユウさんかどうかは知らなかったけど…ずっと一緒に居たいと思って、あの召喚に挑戦したんです」
さっきの必死さに似て、悠への返事を慌てた様に早口で捲したてるアイリス。突然ずいっと詰め寄られた悠は、思わずソファーの上を後退りする。ただ、先程彼女が少し寂しそうだった理由は、何となく分かった気がした。この家の食卓に椅子が2つしかないのにも悠は気がついていた。
彼女が勿論と請け合ってくれたので、悠は無事寝床を確保できた。まだ話さなければならない事が有る気もしたが、互いに今夜はもう休息を取る事にして解散になった。
「おやすみなさい、ユウさん」
「あぁ、おやすみ。アイリス」
灯りが消え、アイリスが部屋を出て行くと悠は月明かりに見守られながら目を閉じたのだった。
☆
あれから、随分寝てしまった様だ。悠が寝惚け目を擦り、時計を見上げると午前11時を過ぎていた。
「ふぁー」
昨夜はかなり遅かった、思わず欠伸が漏れるのも無理からぬ事。残念と言うべきか、昔に流行った夢オチは悠を救ってくれなかった。風景に変化はない。アイリスの家のダイニング、一晩を共にしたソファーも昨夜使ったカップも変わらずそこに在る。
テスト、大分前に始まってるな。そんな思いから悠はどこか悟った気分で新しい朝、基い昼をを受け入れた。
カーテンの隙間から差し込む日光は清々しく、自然と目を細めてしまう程に眩しい。今日は快晴のようだ。
学院も休みだとアイリスから聞いている。召喚試験日明けの休養期間みたいな物らしい。
悠は日頃の癖で思わず、「しゃっ」と掛け声をかけるとソファーから起き上がる。そのまま軽い屈伸を二、三回。腕を上げて、うーんと爪先立ちになって伸びをする。背筋が程よく伸びたところで爪先でクルリと回って後ろを振り向く。
振り向いたのは特に意味のある行動ではなかったのだが、悠はそこで妙な光景を目にする事になった。思わず、その一番の原因に率直な疑問をぶつけてしまう。
「………アイリス。いったい何してんだ?」
彼女は何故かこのダイニングの入り口の扉を薄く開けて、こちらを覗いていた。だが、悠から声を掛けられた瞬間ビクっ!と震える。そしてクルリと踵を返し廊下の向こうへ足音を殺して去っていった。その姿は扉に入った擦りガラスに映るシルエットで丸わかりだ。
「………アイツ、自分家の中で何やってんだ?」
新手の奇行を目にした気分で、ポツリと独り言が漏れた。起き抜けの眠気がすっかり何処かへ飛んで行った悠は、扉へと近づく。すると、向こうからスリッパをパタパタ言わせ誰かがやってくる。
その人物は当然と言うべきか、アイリスだった。彼女は悠が扉へと手を掛ける直前、向こう側から扉を引き開けてダイニングへと入って来る。正に扉の目の前にいた悠は、突然入って来た彼女とぶつかりそうになって、反射的に後ろへ飛び退った。
「お、おい。危ないな。突然なんだ?」
そんな悠の抗議を聞き流し、既に朝の身支度を終えたらしく、フリルのブラウスとスカートに身を包んで入って来たアイリスは、明るい声で悠にちょこんと頭を下げて言う。
「おはようございます、ユウさん!偶然ですね!!私も今起きた所なんですよ!昨日は良く眠れました?」
「………」
答えない悠に、きょとんとしたアイリスが重ねて声をかけてくる。
「あれ?ユウさん!どうしました!?…朝ごはん食べますか?」
どうした?もなにも…。それが悠の感想だ。昨日はもっと普通だったが、一晩見ない内に彼女に何があったのか「どうした?何があった?」と尋ねたいのはむしろ彼の方だった。
「あー、おはようアイリス。偶然起きたも何も、今扉のとこに居て覗いてたよな?趣味か?しかも、声掛けたら逃げてった。それに、今起きたばかりにしちゃ身支度バッチリ。まさか新手の儀式とか言わないよな?」
「え?え?はぅ…」
アイリスは目に見えて動揺しはじめた。真っ赤になって何やら口の中でモゴモゴ言っている。そんな彼女に、悠は追加の指摘をして無自覚なトドメをさした。指がスッと扉を指し示し、アイリスの視線がそれについて行く。
「ま、自分の家なんだから分かっちゃいるだろうが、扉に大きなガラスが入ってる。シルエットでバッチリ見えてたぞ。何しようとしてんのか分からないけど、多分盛大に失敗してるな」
「ニャー!!」
何とも変わった悲鳴をあげ、遂にアイリスは真っ赤になった顔を手で隠してその場にしゃがみ込んでしまった。
悠は起き抜けから意味不明なアイリスの言動に混乱して、参ったなと頭を掻いた。それから彼女の隣の床にゆっくりと腰を下ろす。
「アイリス?アイリスさーん?」
悠はしばらく昨夜と今朝の事に思考を巡らせてから、天井を見上げアイリスの名を呼んでみた。
呼ばれたアイリスが指の隙間から悠を覗いている。それを出来るだけ視界に収めないように天井を意識して彼はもう一度アイリスを呼ぶ。
「アイリース?」
「はい」
小さな声だったが、今度は返事があった。ただ、答えた後彼女は隣の悠にクルリと90度回って背を向けてしまった。
悠は同じように身体の向きを変えてアイリスに背を向ける。するとアイリスは一瞬だけ悠を振り返り顔を隠していた手を下ろした。
お互いに背中合わせである。
それを何となく気配で察してから、悠はゆっくりと話しはじめた。
「この度、鷹村悠はアイリスさん家でお世話になる事に決めました。こっちの世界じゃ、まだ分からない事も多いし、色々大変だし、ここのコーヒー美味いし。しかも居ても良いと言ってくれた家主さんは、プラチナブロンドの美人さん。そんな訳で、暫く御厚意に甘えて厄介になろうと決めました。だから当分はここに居るでしょう」
それは話しと言うより宣言に近かった。図々しさは百も承知だ。アイリスが再び振り返って自分を見ているのを感じながらも、悠はアイリスを見ずに続ける。
「そこで大切な話があります。鷹村悠は家主兼同居人のアイリス・カーフィーさんを良く知りません。親切な女の子だなぁと思っています。が、昨夜はなんだか言いたい事を我慢していたみたいだし。聴いたところ学院生で寮暮らしでも無いのに、家族はどーしたのかなとか。更に、今朝も何だか様子が変なのです」
「うぎゅ…変!」
アイリスがポツリと反応する。悠はクスリと笑うのを堪えて、童話を読み聞かせる様な、妙な話し方をやめる。そして最後に、意識して柔らかい声を作った。
「だからな、アイリス。胸に溜めてる大事なコトとか、ちゃんとお前のパートナーに話してみないか?」
それから、しばらく静かな時間が過ぎた。背中合わせの時間。
グウ。
そんな折、悠の腹が空腹を訴え沈黙に一石を投じる。
後ろからアイリスが笑うのを我慢したくぐもった声が聞こえ、それから「これで恥ずかしさ一緒」と呟きがききとれた。けれど悠はむしろ好都合だと思った。ついでなので、話し聞かせろ〜、朝メシもご馳走してくれ〜、とアイリスに念を送ってみたりした。
暫くするとアイリスの立ち上がる気配がして、カチャカチャと食器の音が聞こえはじめる。悠は黙ったまま動かずにアイリスを待った。
「ユウさん」
背中から掛かったアイリスの呼び声は重苦しくも無く、切羽詰まった感じも無かった。朝の何だか空回りした明るさに比べて、落ち着きがあり初めて出逢った時の自己紹介の声音を連想させる。
今や遅しと悠は、立ち上がって振り返った。
「おう!アイリス」
そう返事しつつ、アイリスの顔……を通り過ぎて悠はテーブルにあるドーナツとミルクを見つめた。
「え?ユウさーん?こっち!私、こっちですよー」
アイリスが手をヒラヒラさせる。
悠は笑った。
「冗談だ。さっきの扉の時みたいに、また逃げ出されちゃかなわないんで」
「意地悪!」
悠とアイリスは向かい合ってブランチを取り始める。
「ユウさん。私、家族がほしかったんです」
ミルクを一口飲んだアイリスが、悠の目を見て話しはじめた。
☆ ☆ ☆
………。
悠を昨日までの回想から今という現実へ引き戻したのは、息も絶え絶えなアイリスの泣き言だ。
今朝の、あの愉快な奇声をあげた後、アイリスはかなりジタバタと朝の支度を整えていた。悠も食器の洗い物を手伝ったりしたのだが、結局家を出発したのは前日に予定していたよりもかなり遅くなってしまった。
「ん?アイリス、悪い。なんだって?」
「ですから、ユウさん。ダメです。間に合わないです。遅刻です。あー、恥ずかしい」
懸命に走っていたアイリスだったが、遂に力尽き立ち止まってしまった。学院までは徒歩だとけっこう掛かるらしい。
日頃、学院への通学に使っていると悠が聞いていたバスみたいな乗り物。あれを逃した時に、彼女の遅刻はもはや確定的になっていた。走っていたのは、最後悪足搔きだ。5分以上の全力疾走を続けただけでも、かなり頑張った方だろう。
ちなみにその乗り物は、魔法と蒸気機関の組み合わせで動いていて、バンカーと呼ばれているらしい。あの日、アイリスの家へ帰るのに途中まで使ったタクシーの様な乗り物とはまた別だ。あれは馬が引いていた。
「まっ仕方が無いな。召喚の疲れとか緊張で寝坊しましたと説明して、理由はともかく遅刻を素直に謝るしかないだろ」
悠は現実的な落としどころをアイリスに示した。朝から元気いっぱい、召喚獣とおしゃべりに夢中で、出発時間に気がつかなかったでは体裁が悪すぎる。
「ダメですよね私。はぁ、それにしても人生初の遅刻がよりにもよって、今日だなんて」
がっくりと落ち込む彼女へと更に言葉を続ける。
「ま、仕様がないさ。話に夢中になったのは、俺も悪かった。一緒に謝ってやるよ」
「ありがとうございます、ユウさん。グスっ。それにしても、今日が召喚成功から初めての通学日なのに。今頃みんな、早めに講義堂に集まってパートナーの紹介をしている頃です。うっ。自己管理の出来ないペナルティで、召喚学専攻資格者を失効になったり。もしかして、今日でユウさんとはお別れとか…」
今はちょうど二階建て位の民家がひしめく住宅街のメイン通り。あと少しで次のバンカー乗り場だ。だが妄想逞しく更なる泣きの入ったアイリスは、悠に促され彼の後ろに隠れるようにトボトボと歩いていた。
出逢ったあの日から、いつも前向きで明るかったアイリスの落ち込んだ様子。背後にガーンとかズーンとかの漫画チックな文字絵が浮かびそうである。
そんな折、数歩先に右へ曲がる目立たなそうな細道を見つけ、悠はふと閃いた。
「なぁアイリス?聞いてみたいんだが」
アイリスには分からなかったが、高校の友人達が見ればそれと察する『悪い事を考えている時の顔』になった悠が、彼女を振り返り声をかける。
「何ですか?」
「こっちの世界って、凧上げちゃいけない場所とかあるのか?」
「タコ?ですか」
首を傾げ、暗に聞いたことが無いと声音に乗せるアイリスに悠は簡単な説明をする事にした。竹ヒゴあるのかな?という内心の疑問も今回は本題では無いので省略だ。
「そうだなー、糸と木の枝みたいなのと紙を組み合わせて作る、空に浮かべるおもちゃだ。こー、上手く風に乗せてね。つまり領空侵入危険とか禁止って場所、或るのかって話しな分けだけど」
「そうですねー。基本的に荷物などを運んだりする一定以上の規模の乗り物が、この辺の様な民家上空を飛ぶ事は、禁止されています。どんなに安全が立証された技術でもダメですね。ただまぁ、おもちゃ程度なら問題無いと思います」
悠はアイリスの話を聞きながら云々と頷いた。それからアイリスの手を遠慮がちだが、すっと掴むと彼女を先の細道へ引っ張り込む。悠にとっては幸いか、その道は袋小路で人は誰も居なかった。
「えっ!えっ!ユウさん、突然なんです?」
左右を見回し、袋小路に連れ込まれたと分かったアイリスは、次にニヤリと笑う悠をみて顔を引き攣らせた。
「落ち着けアイリス!これから君を抱えるから暴れるなよ!」
ぴしゃりと言うが早いか、悠は彼女を右腕でグッと抱き寄せるようにすると、左腕を膝の後ろに入れるようにして持ちあげた。借りてきた猫みたいに静かになったアイリスだったが、暴れたりしない代わりに、キッと悠を睨むと予想通り怒り出す。
「ユウさん!ホントもう、突然なにするんですか!」
ふくれっ面のアイリスを見ると悠は笑いながら答える。
「勿論。アイリスが学院に遅刻しないように、ちょっとズルい近道をするのさ。ってことで、よいしょっと」
「きゃっーー!」
アイリスの叫びが終わるか終わらないかの内に、二人は民家の屋根の上に居た。
「見ろアイリス!なんか空が近い!太陽も空も綺麗だし、風もこれくらいの高さだともうすぐ8月なのに結構気持ちよく吹いてるな」
悠の足元の屋根ばかり見ているアイリスに、空を見上げた悠が言う。アイリスは漸(ようや)く、本当に漸(ようや)く、今日の空を見上げた。空は高く蒼く澄んでいて、ほんとに手でも届きそうな気がした。
「アイリス!笑え!あの日、君が笑ったから俺は君に二歩も近づけた。あの日、君が俺の手を取ってくれたから今も俺はここにいる。きっとそれは、君の力だ。その力があれば、どんな事だって怖くない」
悠がすーっと深呼吸をする。アイリスは太陽の眩しさに細めた目そのままに、笑えと言った彼を見る。
「学院は…あっちだな。よし!手、離すなよ。目標に向かって一直線!さぁ、行くぞ!」
ゆっくりと、悠の身体が白銀に輝き始めていた。
☆
「叫ぼうアイリス。ほら、いっっやほーー!」
「わー!すごいです。ははっ、あははっ!」
二人は笑っていた。アイリスを抱え屋根の上を疾走する悠。普通の体では出せないスピード。向こうの世界の感覚に照らせば、流れる景色はジェットコースターに乗った時みたいな感じだ。
アイリスにも、流れゆく風景、感じる悠の温かさ、まだ少し涼しさを感じられる朝の風、空の向こうの太陽、何もかもがただ在るが儘、楽しく感じられた。
「あ!ユウさん、屋根、屋根が終わっちゃう!」
「大丈夫だ、跳ぶぞ!せーの」
「よいしょ!!」
「代わりの掛け声ありがとな」
「いえいえ!」
アイリスが元気を取り戻し一緒に笑う姿だけで、悠は自分でも根拠の良く分からない充実感でいっぱいだった。
だから、悠の襟元を握るアイリスの拳が自然にキュッと固くなった事にも、彼女がもうバンカーに乗って通学できないかも?と内心を高揚させていた事にも特には気が付かなかった。
「よし、次はあの旗の付いたポールの先っちょ行って見るか」
「幾ら何でも、あんな細いのは…」
「しっかり掴まってろよ」
「ホントに行くんですか!」
「勿論。真っ直ぐ一直線って、言っただろ!」
悠は言葉の通り建て物の屋根を力強く大胆に踏み切った。瞳は真っ直ぐポールの先端の更に先を見つめていて、そこには恐れも不安も宿っては居なかった。
そして悠と抱えられたアイリスは、蒼の中を行く様な不思議な感覚の後、トンっとポールの先を蹴って更に高く高く舞う。
2人は世界の全てを見渡せているような開放感に包まれていた。滞空していると時間も止まって感じられる。
「見えて来た。あれだな」
「そうです。あれがちょうど正門ですね」
「じゃあ、あそこまでで大丈夫だな...」
~このまま、どこまでも一緒に行きたい。あそこがゴールじゃ物足りない。~
「...はい。あそこまでで大丈夫...です。ところでユウさん?」
ふと、何かを思い出したようにアイリスが悠へ問いかけた。
「うん?どうした?」
「こんなに高く跳んじゃったら、これから落ちるんじゃ…」
悠がアイリスを見てニヤッと笑った。
「着地先は目星が付いてるから大丈夫だ。ここまで来たらやっぱり、急・降・下も楽しまなくちゃな!」
そして打って変ったような満面の笑みを返す悠。一瞬引きつるアイリス。
「ユウさんの、意地わるぅぅぅー!」
彼女の叫びは、笑い声に混ざって一面の蒼に溶けていった。
そうして家々の屋根の上を疾走し大通りを高々と飛び越え、走るバンカーの屋根も旗の揺らめくポールの先も、公園一番の大木の枝の先端でさえ足場にして学院に到着したとき、二人の気分は当に最高潮だった。
だから、人にだけぶつからない様にと言うアイリスの配慮にあっさり賛成し、悠は特に疑問も無く彼女の示した正門の真ん前へと着地してしまった。少し地面を這う様な風を起こした程度で、着地は悠自身も驚く位静かで危なげないものだった。
「よし、ミッションコンプリート。やった、間に合ったな!」
「はいっ!やりました」
悠に抱きかかえられ、彼を見つめたまま実に元気な声を響かせたアイリスは空に向かって拳を突き出した。
「おう、意外とイケるもんだ。でもこんな不思議な身体じゃ、これから力の加減に気を付けないとな」
アイリスへ頷きながら、悠は独りごちる。
2人ともまだ周りが見えていなかった。
逆に、魔法が存在するこの世界にあってさえ、魔法の様に忽然と、と形容する以外にない華麗な登場を決めた二人に多くの登校中の生徒が驚きを隠せないでいた。そして何よりも周囲を驚かせたのは、学園でも名の知られた美人さん、召喚学専攻資格者2年のカーフィー嬢が見知らぬ男に抱えられて登場した図であった事は、誰かが注釈するまでも無く明らかだった。
余談ではあるが、
「何の為に人から陰になる小道に入ってから、屋根へ跳んだのか分かりゃしない」
溜息と共に漏れた、これは後の悠による迂闊な自分への苦笑を含んだ独白である。
続き〜それはアイリスの問題(前編
「あ、やっちゃった…」
目的地の学院正門前。突然、悠がハンカチでも忘れて来た様な気軽さでアイリスを見て呟いた。彼女としては学院遅刻を免れたのだ。他に重大事など思い付かず、相づち程度の感覚で悠に尋ねる。
「どうしたんです?」
だが、悠はその短いアイリスの問いに答えなかった。代わりにゆっくりと彼女を地面に下す。それから、おもむろに両手で左右それぞれの耳を押さえてしっかりと塞いだ。
「???」
アイリスが悠の妙な行動に、更に小首を傾げて見せる。
準備万端整えた悠は瞑目し、自分を見ていて、未だ周りが見えていない様子のアイリスの為に視界を確保すべく、膝を折ってその場へとしゃがんだのだった。
開ける視界と世界、高揚感から復帰する理性。悠に抱えられていた事実と、着地直後の状態を第三者的視点でフィードバックする記憶と推理論理的思考。アイリスの頭脳が正常稼働レベルへ復帰した瞬間…。
「qあwせdrftgyふじこlp!!!?!?・?!!」
壊れた。誰にも判読不能にして、隣町まで響かんばかりの大音量ソプラノ。悠の頭上にあらん限りの魂の叫びを残し、他には残像さえも残さぬ速度でアイリスは学院の建物へと消えた。
悠はそんな彼女の背を見送りつつ、ふと他人事の様に、アイリスには「ハニャー!!」の上が有るんだなぁ、と思っていた。
たが、それも1秒にも満たない間の事。すぐに、この後自分はどうすれば良いのか確認し忘れた愚に気がつき、立ち上がって周りを見る。そしてインパクト抜群のアイリスの言動が、残された自分の存在を塗りつぶしている貴重な僅かの時間を無駄にしてはいけないと、そっと跳躍して近くの木のてっぺん辺りの影へと姿を隠すのだった。
そんなこんなで、つい一昨日まで知ってる人だけが知っている図書館の唸る美人さんことアイリスは、知る人ぞ知る時の人へと昇格?した。
今やアイリスは、正門前に魔法の様に現れた美人さんであり、朝から見知らぬ男の子に抱えられていたカーフィー嬢であり、学院前で真っ赤な顔で叫んで消えた噂のあの子でもある。
兎に角、物理的、噂話の双方で正門から学院校舎へと、文字通りの意味で稲妻の如く駆け抜けた彼女は、その修飾語に事欠かない。
そして当然この噂は、一足先に学院へ登校していたアイリスの親友、サーシャ・クールの耳にも未だかつて無い驚きと共に届くのだった。
☆
「アイリス!アイリース。ここに居るのは分かってるのよ!大人しく出てきなさい」
学院と渡り廊下で接続される第一図書館の中でもここ、過去の偉人などによるエッセイや日記、詩集といった趣味的な要素の強い文書が収められた区画はガランとして人気が無い。借り手がある程度固定化されていることや、卒業論文に追い詰められた学院の文学専攻学生にとってでも無ければそれらの文書は資料価値が低いからだ。
ザッと周りを見回し区画利用者がゼロなのを確認すると、図書館内にあるまじき大声でアイリスを呼んだのは、親友のサーシャであった。
「………」
しかしまぁ、当然と言うべきか。ひっそりとした空間からは誰の応答も返っては来なかった。けれど、サーシャはこの程度で引き下がる質では無い。迷いのない自信と共に、幼少よりの長年の親友だけが取り得る容赦の無い非常手段の引き金を、彼女は躊躇い無く引き絞った。
「えー、図書館ご利用の皆様。突然ですがここに1人の学院女生徒をご紹介します!名前はアイリス・カーフィー。そうです!今朝一番にやらかした噂の彼女です。好きな食べ物はドーナツマーマレード添え、偉人の日記は経験の宝庫なんて言いながら、実はこっそり愛の詩集がお気に入りです。続きまして、身長、体重、スリーサイズですが、順に158、……」
「わー!わー!!だめー!!!………あ。」
全くもって悲しい程に、チョロい。悠がこの場に居たならば、そう心の内で呟いたに違いない。或いは容赦無く指摘したか。
サーシャの古今東西で使い古されたカビの生えそうな計略にも、残念なまでにあっさりと引っかかり、自ら居所を露わにするアイリス。
しかし、アイリスの位置からは区画を見渡せ無い以上、非情な親友の非情手段から守り通さねばならない乙女の一線が有るのだと、彼女も反論したやも知れなかった。
「サーシャの悪魔!」
「やっぱり、ここに居わね!引き籠り暴走娘!」
ヘビとマングースさながらに向かい合った2人は力いっぱいの叫びをぶつけ合った。端から見れば、これから髪の引き合いに発展してもおかしくは無い睨み合い。だが、実のところは長い間に暗黙の了解となった、これは親友2人の儀式であった。
今回もその例にもれず、睨み合いは3秒と続かなかった。アイリスが涙目でサーシャに駆け寄り、サーシャもよしよしとアイリスを抱きしめる。こうして、まま女性陣には見られるスキンシップによる相互理解を確認し合い、講義開始ギリギリまでの時間を目一杯使った、状況解決への緊急会議がスタートしたのであった。
☆
互いに落ち着いたのを確認し合ったアイリス、サーシャの両名は手近な椅子に腰かけて向かい合う。
「それで、アイリス。今回は私が先?貴方が先?」
会議は司会進行役による恒例の問いかけから始まった。今回の場合、司会はサーシャである。
先、とは情報開示の順番の事で、彼女達の会議は互いの手札の捲り合いによる情報整理から始まる。この時、話の方向提示は支援要員たる司会の権利であり、開示の順番等の選択権は渦中で溺れる遭難者にある。
「今回はサーシャから」
アイリスがやや黙考の後、サーシャを促した。
「それじゃ、一枚目。貴方の噂が学院から溢れるくらい流れてるわ。しかも、どんな海原もひと泳ぎで果てまで行ける程、これでもかって数の気合いの入った尾ひれ付けて。具体例は?いる?」
「うん」
神妙に聞き手の姿勢を維持するアイリスに、サーシャは感情を交えず続きを語る。
「では、二枚目。」
曰く、先の召喚に失敗したカーフィー嬢は、絶望のあまりこれまでの反動で手当たり次第に男性をナンパした。
曰く、今日はその中でも一番の当たり物件、将来性、財産、ルックスの三拍子揃った何処かの御曹司を周囲に見せつけながら逢い引き通学した。
曰く、彼とアイリスは正門前で熱烈な抱擁を交わした。
荒れ狂う波の如き噂の内容をシンプルに整理して列挙したサーシャが、更にその末端部分を註釈する。
「ここから続いて、その抱擁は強引なもので貴方が怒って叫んだとか、逆になんだかんだ嬉しそうだったが恥ずかしさで逃げたとか、無数の尾。で、結論は貴方は強引なのが良いらしいとか、あとは聴くに耐えない下品なのが幾つかね。」
ゴツっ
渦中で溺死する自らの幻視に見舞われ、思わず突っ伏したアイリスはしこたま額をテーブルへ打ち付けた。ホントに酸欠にでもなりそうだ。
一通りを語り終えたサーシャは、この間に深呼吸して呼気を排出する。
「まー、噂の全てをそっくり鵜呑みにするとしたら…。安物のコーヒーとセロリの絞り汁を混ぜて炭酸水で割って、トドメに唐辛子を添えたとしても、ここまでマズくはならないってレベルね」
あっけらかんとサーシャが私見を追加した。いっそ、その聞くだに恐ろしい飲料を一息にして意識不明で現実逃避出来たなら…、と思わなくも無いアイリスである。
「でも知恵ある者は、この噂話の二割しか信じてないわ。これが私の最後の手札。ズバリ、アイリスは召喚に成功してる。試験合格者は集合する講義堂の指定連絡の為に、以下にある者はって文言で始まる貼り出しに合格発表がてら氏名が列挙されてる。だから噂の前提がそもそも崩壊してるわ」
コクっ、コクっ、コク。
サーシャが示した希望の光。
藁にもすがる懸命さで、アイリスは人形の様に首を縦に振った。そう言う事なら、噂の早期沈静化も期待できるかも知れない。
しかし、味方の筈の心強き大海の天使サーシャが、ここで突如大物を狙う漁師へと変貌した。
「ただ、ここにごく僅か信頼できる情報も紛れているわ。それが二割の中身。一つは、正門前で貴方が男の子と一緒にいた事。これは沢山の目撃者が居て、修飾語は数あれど犬でも馬でも講師でも無く同年代の男の子で証言が一致してる。更に、貴方がここに逃げ込んでいる事からして、その彼と正門前で何かが有ったのも間違い無いわね。」
「…ウッ」
アイリスは、向かい合う親友が天使から槍持てる漁師を経て、三叉携える悪魔の論理使いへと更なる変貌を見せた気がした。眼鏡の奥の理知に溢れるその瞳が、キラーンとか音を立て怪しく光った気もした。直後、アイリスはガッチリとサーシャに手を握られる。
「次は貴方の番ね、アイリス。一級花火も種火無しには上がらない。さぁ、ネタは固まってるわ。男の子の素性と正門前の諸々について、洗いざらい白状してもらうわよ」
にっこり笑うサーシャの口が耳まで裂けたのは、きっと自分の見間違いなんかじゃ無いと確信するアイリスだった。
☆
「あー、つまりこう言う事?」
サーシャのまとめで緊急会議は早々終盤に差し掛かっていた。
「男の子は、そうと見紛うばかりの貴方の召喚獣」
「うーん。でもユウさんは自分は人間だって。だから、ちょっと意地悪で、優しくて、でもちょっとズルくて、ちょっと凄くて、暖かくて、なんだかドーナツみたいな人?」
アイリスは僅かな数日ではあるが、その日々の中で悠に感じた色々を、あえて確かなカタチにはせず素直に列挙した。
「アイリス、私のまとめに茶々入れないで。それから、最後の疑問形は早々に解決した方が良いわね。分かってるでしょうけど、召喚獣は普通ご飯食べないから。場合によっては初の希少種かも。食費も掛かるし。それから、『ドーナツ』を形容詞に使わないで。解読るけど、許容りたく無いわ」
サーシャはアイリスに思いつく限りの苦言と助言を合わせつつ、まとめを再開する。
「そんな自称人間な彼と、今日から始まる意思疎通の基礎講義が不要になる程、一日かそこらで確かな信頼を築いて、朝から楽しく心声を交わして、結果遅刻しかけた。」
ここで軽快なまとめを披露していた彼女が、何故か力を込めて深呼吸した。
「ところが彼は、ややもするとこの暑さで挫けそうな初夏の、学院生標準試練たる通学を魅惑的な快適空中散歩に変換。貴方はロマンス劇さながらに人生初のお姫様だっこを経験。夢の世界に旅立った思考で、彼に抱き付いたまま正門前に着地。絶叫を経て今に至る?しかも、出来れば目立たない様な手を打ちつつ、次回も通学のときに頼んで見ようかなどと不埒な画策中!?」
「う、うん。なんか、少し、違う気もするけど。大体、そんな感じーかな?」
何も罪な事はしていない筈なのに、何故か無責任な噂を向こうに回していて尚、旗色が悪い気がしてくるアイリス。下からサーシャの顔色を伺いつつ、曖昧に頷く。
サーシャは誤解しているが、悠は心声に応えられない。それに、細やかな感想が不埒な画策に変化している。
そんなアイリスの内心を知らずにサーシャは厳かに宣告した。
「貴方はこの数日で、来世の分までその身が持てる幸運を全て使い果たしたわ。人生とは、そも困難と試練の道行。神妙にして、全ての自業と不幸を受け入れなさい」
「え?え?サーシャ…さん?…様?」
伸ばされたハズの救いの手が最後で翻された事に混乱して、思わず下手で縋り付くアイリス。
この時点で、サーシャの鋭い切り込みが功を奏し、かなり早い展開でおおよその現状が明らかになった。
そんな訳で講義まではまだまだ時間が有る。その時間的余裕を十二分活用する様に、サーシャが大きなため息を吐いた後、アイリスの知るいつもの彼女に戻り口を開いた。
「まぁ、さっきのは少し私の嫉妬が混じったけれど、そういう事なら大丈夫でしょう」
「嫉妬、混じったの?」
アイリスが一瞬トーンの落ちた親友の言葉に食いつく。
「そこは、聞き流しなさい」
サーシャの背後に鬼神を見た気がして、アイリスは目を逸らすと即時全てを無かった事にする。
対するサーシャは、アイリスの要らぬツッコミを鮮やかに一刀両断すると穏やかに続けた。
「兎に角。私達契約者が結んだ盟約の基、いつ召喚獣を呼び出し、どんな風に力を借りても違法ではないわ。何かを壊したり、誰かを傷つけたりしない限りね。今回は周りの人を驚かせたけど、それだって極端に言えば学院生の色恋沙汰の延長みたいな内容で、召喚獣がどうのって訳じゃ無い。講師に事情を説明して、ちょっとお叱りを受ければ大丈夫」
うん、うん。とアイリスが頷くのを見て、サーシャは話題を噂の対処へシフトする。
「後は、噂の嵐が過ぎるのを待ちなさい。自業自得だし。どちらにせよ私達契約者は注目されるわ。貴方のユウさんがみんなに認知されれば、そう長く掛からずに収まるわよ」
2人は互いの視線を合わせて、一様の会議終了を確認し合った。
☆
アイリスは、今朝はもう少し周囲の注目を避けたいと思っていた。それで、サーシャだけでも先に講義堂へ戻って貰おうと彼女を促す。
「駆けつけてくれてありがとう、サーシャ。私はもう少しここに居て、廊下に人の少なくなる頃ギリギリに行くから。サーシャは先に講義堂へ行って」
だが、サーシャは好奇心に抗え無い猫みたいな顔で首を振った。
「私、まだアイリスに聞きたい事があるの」
「なに?」
「幾ら生涯のパートナーである召喚獣とはいえ、まだ慣れない最初のこの時期。心声での意思疎通は結構時間も掛かるし、大変だわ。こうして気軽にお喋りできる訳も無し、どうやって彼とそんなに仲良くなったのかなって?」
アイリスはサーシャに、『悠と話をしていて』と朝の事を説明していた。だが彼女を含めた一般の常識からすれば、当然それは心声を用いてという事になる。
この点は、幾らかの言葉で事実を明かしてしまうより、召喚時の驚きをサーシャにも身をもってと思い、彼女はあえて先送りとした。
だからアイリスは、サーシャを改めて正面に迎えつつ、あの日の朝からの出来事を掻い摘んで話し始めた。
続き〜それはアイリスの問題(後編
カーフィー家長女。アイリス・カーフィー嬢、自室。
家屋二階にある彼女の寝室兼私室は、一階のダイニングキッチンと同じく落ち着いた色合いの木製家具で内装が統一されていた。
同世代の少女達に比べ、必要最低限の物品だけで飾り気の無い部屋は、ある種ビジネスライクであり、現在ベッドの上でシーツに包まる部屋の主をやや大人びて見せていた。
「ふにゅうー、にゃふふー」
ただ一点、この吐息とも寝言ともつかぬ気の抜けた響きは、色々台無しにしているかも知れないが。
そんなちょっとアンバランスな印象の室内を、初夏の陽気を十分に含んだ朝の光が、茶色のカーテンの隙間からチラチラと照らしている。それが寝返りを打った拍子に、アイリスの顔に丁度良い角度で当たり、彼女は眩しさにハタと目を覚ました。
緊張の一次召喚を終え、悠と二人遅くまで話し込んだ昨夜は、胸中渦巻く様々な思いもあって中々寝付けなかった。そんなアイリスが、朝日と窓の外を行く鳥の声に迎えられ、自室の時計を見上げたのは午前9時頃の事である。
傍目には一見穏やかなその目覚めは、だがしかし寝惚け目を擦りながら…といった風では無く、況してや前日の諸々の所為でまだベッドが恋しい、などといった風も無かった。
むしろ逆に、アイリスは大きな焦りと『眠り過ぎちゃった!』というワンセンテンスにより、その意識を埋め尽くされていた。
時計を見て一瞬で完全な覚醒を果したアイリス。彼女は眠り着もそのままに自室の扉を押し開け、階下のダイニングを目指して矢の如く飛んで行った。目的の扉の前までは3秒とかからなかっただろう。
当然そのままの勢いでダイニングへ飛び込むかに見えた彼女は、ここへ来て急停止。とある可能性に胸が痛むのを振り切るように、一度長い深呼吸をした。そして、意を決してゆっくりと、静かに目の前の扉を引き開けたのだった。
結論から言えば、アイリスが深呼吸に封じた込めた不安は杞憂に終わった。
ダイニングには、ソファーで丸まって薄い掛け布に包まる悠の姿がちゃんとあった。
スースーと寝息を立てる彼は丁度寝返りを打つところで、ギシッとソファーが小さく軋む。その音が、悠が確かにそこに存在しているのだと言う重みをアイリスに伝えていた。
アイリスは昨夜の会話から、もしかしたら悠がここを出て行ってしまったかもしれない、と不安に思っていた。ひょっとしたら、朝日に溶ける粉雪の様にひっそりと、彼は元の世界へ帰ってしまっていて、もう居ないかもと。
そんな不安が払拭され、彼女は扉を開けた時から無意識の内に止めていた息を長々と吐き出す。
そうしてカーテン越しの淡い朝日の下、ささやかな安堵と共に悠の寝顔や上下する胸元を見ていると、自然と彼の言葉が思い出されて来た。
『召喚人で手を打たないか?』『俺はアイリスと変わらない』『俺は、自分の世界へ帰りたい』
やはり、彼は帰ってしまうのだろうか?今日にも、ここを出て行ってしまうだろうか?図書館で読んで憧れたあの日記の様に、手を取って明日を共に行く様な大切な|パートナー《家族》にはなれないだろうか?
アイリスの胸中で、一度は振り払った不安がまた頭をもたげる。
しかしすぐに、彼女は頭を振って自分の弱気を追い散らした。
そんな事は無い。きっと、それは努力と信頼、そして思い遣りの積み重ねで成されるものだ。全部が、これからの自分の心掛けと行動にかかっている。そうだとしたら、クヨクヨはしていられない。さぁ!元気を出して、まずは朝の身支度から。
そんな風に気を取り直したアイリスは、顔を上げ、悠を起こしてしまわない様静かに洗面台へ向かった。
☆
「うん。準備完了」
カウンターで仕切られたダイニングキッチン。向こうを覗けば、悠が未だソファーで眠っている。そんな彼の姿を時折チラチラと確認しながら、真っ白なエプロンを付けたアイリスは、キツネ色に揚がったドーナツを油から取り上げた。
表面がわずかに油で濡れて温かい内に粉砂糖を軽く塗して置くのも忘れない。ここにほんのりと苦味がアクセントのマーマレードを添えれば、朝食は頬が落ちる出来で間違い無しである。
パタパタとキッチン内を動き回る足音や、調理の音が悠を起こしてしまう事は無かった。アイリスも使うのは初めてだったが、カーフィー家の防音魔法システムはちょっとお高いのである。
それからアイリスは食卓の椅子に腰かける。なんとは無しに悠の寝顔を眺めた。彼が目覚めた時の事を想像しつ、様々なシミュレーションをする。
ふと、自分が先に起きて彼を待っていたと知ったら、気を遣わせてしまうかもなんて事まで考える。
「今後の為にも、要検討の案件ね。ウムー」
いかにも重大事と言わんばかりに、アイリスは独り言を漏らし眉を寄せる。ちょっと空回り気味である。
そんな折、別に彼女の声に反応した訳では無いだろうが、悠が「う…ん」と声を漏らし薄く目を開け始めた。
ユウが起きる。自分はなんだか待ち構えていたみたいな感じ。しかも、ぼんやりと寝顔を観察していたりした。全てが一瞬で頭の中を渦巻き、彼女はタッと席を立って入り口に向けて駆け出した。基い、逃げ出した。
残念ながら、アドリブと突発的なハプニングには弱いアイリスであった。
☆
悠が目覚めてから後の一幕は、ドタバタと騒がしい上に結構残念な顔合わせとなった。なかなか、エレガントには行かないモノである。
それでも、こうして悠と向かい合って初めてブランチを一緒に取り、アイリスが胸の内を明かすことになったのは、彼が「此処に居る」と不器用な風を装いながら、言葉でその意思を形にしてくれたからに違いない。
家族が欲しかったと明かしたアイリスに、悠がその意を問う。
「家族って言うと、アイリスの場合、弟妹とか?愛着の持てるペットみたいな感じか?」
「そう言うのとは、少し違うかもしれません」
悠の例示を穏やかに否定しつつ、アイリスは言葉を継いだ。
「私には、両親が居ません。父は幼い頃に行方が分からなくなりました。母は何か知っている様でした。でも、昨年病気で他界した時も私を残して逝く事を案じてくれてはいましたが、最後まで父については何も明かしてくれませんでした。ただ、私に清く正しく健やかであってほしい、とだけ」
悠は意思の力を総動員して、彼女の現在の境遇に形式的なお悔やみや、軽々しい同情を示さなかった。代わりに、アイリスを静かに見つめる瞳を逸らさない事で、伝わるモノが在ればと、心秘かに祈った。
「母が亡くなって、私はやっぱり少し泣いちゃって。叔母さんや親友のサーシャに支えてもらったけど、3日間くらい図書館に籠って学院を休んだりしちゃいました」
アイリスが、口に運ぶつもりだったろう手の中のドーナツの欠片で宙にグルグルと丸を描く。少し恥ずかしそうだった。
悠はそんな仕草が可愛らしく見えて、無意識に微笑んだ。
「そんな時でした。図書館で、ある召喚士の私書を見つけたんです。作者は男性の召喚士さんで、パートナーは薄い羽と触覚、女性に似た容姿でさながら妖精の様だったと。普通は心声で話ができるのですが、彼女は話せなかったとも書かれていました。代わりに、いつもハミングしていたと。」
アイリスの神妙だった声音が大分明るくなり、悠もその内容に興味を惹かれ食事の手を止める。
「彼は若くして亡くなられた様で、既に召喚獣さんも契約を放たれて居るみたいでした。彼は死の間際まで記していたこの私書の最後のページに、こう綴っていたんです」
〜大切な我が家族、ミルフィーユ〜
君が私の召喚に応じてくれた時の事を今でも覚えている。
心声が通じなかった時は、コレは困ったと思ったものだ。君はいつも私にはだけ聞こえる様、ハミングしている。前例の無い、とても不思議な現象だ。
ある日、君が皿の上の菓子を興味深そうに突いていたので。君をミルフィーユと呼ぶ事にした。
闘う事は出来ず、護衛たり得ない。言葉が通じないでは、異界よりの知識を披露して貰う事も出来ない。だが、私はこれまでそれを不満に思う事は無かった。それはこの先も変わらないだろう。
君の譜が、私の喜びを謳い、怒りを鎮め、哀しみに寄り添い、人生の楽しみを教えてくれた。
君の譜を譜面に起し、多くの人に楽しんでもらう事が私の趣味の一つになった。
共に手を取り合い生きて行く中で、君は私にとって召喚獣では無くなった。
君は、日々を共に歩む友たる境界を超え、私を包む母の様であり、寄り添う妻の様であり、無邪気な妹の様でもあった。
私の大切な家族、ミルフィーユ。
願わくば、『生涯を共に添えた事』この感謝の念が、話す言葉を持たない君にもどうか届きます様に。
ジャン・バッハ
………。
彼の私書の最後には、自らの召喚獣への想いが語られていた。それは、親愛の告白であり、感謝でもあり、祈りのようにも読み取れた。
その内容を一気に諳んじたアイリスが、閉じていた眼を開け、静かに息を整えた。
「私もこんな風に、ずっと離ればなれになる事の無い、家族って思える様な相手が欲しいなって思いました。そしてもし出来たら、お父さんを探して、みんなで一緒に笑って暮らすんです。そんな訳で、召喚学専攻資格者になるぞーって、猛勉強しちゃいました」
そうして、召喚士を目指した理由や父親を探したいと言うささやかな願い、胸の内に秘める召喚獣…ユウ…に託した希望を、アイリスは湿っぽくならない様に笑顔で締めくくった。
それまで黙っていた悠は成る程っと一つ頷き、慎重そうに口を開いた。
「すごく、頑張ったんだな。辛い事も乗り越えて、自分で新しい何かを掴もうって、アイリスは努力した。君の召喚に託した願いや、希望、費やした時間や努力を、俺はちっとも考えた事は無かった。自分の事に夢中で、ただ帰りたいって。ちょっとカッコ悪かったな。すまない」
悠は真っ直ぐアイリスの眼を見てから、ゆっくり頭を下げた。彼女は召喚に成功した後も、自分の言動の所為で不安や寂しさを抱えていたんだな、と感じられた。
彼の予期せぬ謝罪に、アイリスが少し慌てた様子になる。
「口に出すのは恥ずかしいが、俺も素直に素敵な事だと思ったよ。不思議な縁に導かれて、まだ見ぬ誰かに出逢う。助け合って生きて、大切な家族だって思える、そんな関係を築く。アイリスが相手なら、尚歓迎だ。なれたら良いな、俺と君も。ジャンさんとミルフィーユさんの様な、大切な家族に」
アイリスの瞳に、自分の境遇を話した時にも見られなかった涙がじんわりと滲みはじめる。
「泣くな、アイリス」
悠は穏やかに笑って、マーマレードの乗ったドーナツを自分の皿から摘むとアイリスの口元に差し出した。
アイリスは自然に、それをパクリと悠の手から食べた。泣かない様に、コクっ、コクっと何度も頷きながら。彼女は、笑った。
アイリスの泣き笑いの様な表情が、目元の雫が、陽射しに照らされてかすかに輝いていた。
悠は自分もドーナツをマーマレードと共に口に運んだ。甘くて苦い、コレが未だ知らない人生の味ってヤツかもな、と思っていた。
☆
アイリスが落ち着いた所で、尻切れトンボになった話の続きを真剣な表情で悠が切り出した。
「但し、追い求める夢や理想と、現実の間に立ち塞がってる壁ってヤツを一つずつぶち壊さない限り、俺は何も約束出来ない」
「えっ!?」
なんだか良い感じに話がまとまり掛けていたので、アイリスは彼の「待った!」に驚いてしまった。だが、悠はそんなアイリスの反応も予定の内とばかりに話を進める。
「アイリスの気持ちは分かったけど、俺には俺の現実がある。まず、家族と友人。コレはアイリスがお父さんを心配しているのと同じだ。俺も、なんの連絡も無しに心配を掛けたままの両親や友人を放りだす事は出来ないよ」
アイリスは自分の早とちりを認め、彼の言に素直に頷いて耳を傾けた。
一方、悠は自分の皿に乗った2つ目のドーナツを、幾つかの欠片に分けながら話を続ける。
「1つ、俺は元の世界に帰らなくちゃならない。昨日までの現実を放り出して、次なる人生に取り掛かるのは俺の性分じゃない。だから、帰るか否かに関わらず、方法を探す。もしかしたら、一方通行じゃなく行き来する方法があるかも知れない。これは場合によっては、元の世界と連絡を取る方法、で妥協せざるを得無い可能性も覚悟もしてる」
場合によっては物理的に『帰還|は《なモノは》不可能。』そう言うケースも飲み込む覚悟を示しつつ、悠がアイリスにドーナツの欠片を差し出した。
パクリっ。彼女がそれを、真剣な顔で飲み込む。
「2つ、アイリスのお父さんを探そう。俺も出来る限りの協力をする。コレは、俺を召喚したアイリスを置いて居なくなるかも知れない男としてのケジメだ。君だけを、不安や寂しさの中に置いて消えるつもりは無い」
パクリっ。また1つ、ドーナツの欠片がマーマレードと一緒にアイリスの腹に収まった。今度はちょっと寂しそうで、ちょっと嬉しそうだった。
「3つ、こう言う時は焦りは禁物だ。善は急げなんて言うけれど、五里霧中じゃ足下の穴に落ちて痛い目に合うのが相場と決まってる。キチンと足場を固める為にも、話を聞く前に言った様に、俺はここでアイリスの世話になる事にする。君の日常を壊さない範囲で、一歩ずつ丁寧確実に行こう。協力してくれ。だから、突然俺が居なくなる心配はもうしなくていい。お互いの平穏な朝の目覚めの為にもな」
1年から1年半。それ位なら高校留年もなんとか取り戻せるだろう。行方不明からの帰還となれば、行政的なフォローにも期待したい。悠はドーナツの欠片を自分の中の覚悟に見立てて、アイリスの前に掲げた。
パクリ。彼女がドーナツ欠片を悠の手からまた一つ食べた。嬉しそうだった。
「そして最後に。俺が実際、帰る事が出来る段になった時、もしお互いが他に代えられないパートナーになってたとしたら。それは、理屈や道理を超えた運命だ。未来の俺は、帰る事よりも、君と共に生きてゆく事を選ぶかも知れない。と言う当たりで、今の所は納得してくれ」
「はい」
悠の差し出した|甘くて苦い欠片が、アイリスの|胸にそっと消えて行った。
それは、悠がアイリスに示せる精一杯の誠意のカタチだった。
☆
アイリスの話を聞いて、悠は彼女の求める家族が、ずっと側で見守ってくれる誰か、と言う意味だと感じた。いつか進路や目標が異に成る友人や、単純な血の繋がりとも違う。それは、人の世で中々に難しい。早くに自分の元を去った両親が所以の寂しさが、自分を置いて去る事の無い誰かを求めたのかも知れない。
だからこそ、悠はアイリスに誠実であるべきだと思った。彼女が召喚獣、ユウに求めるモノに応えるのは簡単だ。寂しさからの解放。なにせ、向こうは好意的に接してくれる。状況的にも、「いつまでも一緒にいる」と言ってあげるのは簡単だ。悠が、残してきた他を捨て去れるのなら。
だが、悠にとってのアイリスは?
親切な家主。ちょっと可愛い女の子。この世界での|召喚主?五里霧中なこの異世界のナビゲーター。
はっきりとは言えないが、アイリスに対してどこか不純、いやアンフェアな感じがする。これは、良くない。
互いの弱い部分を依存で補い合うのは、パートナーでも従者でも、況してや家族でも無い。
アイリスには心の成長が、悠には異世界での自立と彼女をもっと知って行く事が必要なのだ。それが、きっと2人の一歩になる。
おぼろげな悠の思いは、十分言葉には仕切れなかった。
アイリスとの話が終わって、食事が再開される。ただ、当初とは少し様相が変わっていた。
悠の話を飲み込む、納得する。そんな受け入れのサインが、どちらともなく始まったアイリスのドーナツを飲み込んで腹に収めると言う行為だと、彼は理解していた。
のだが、話が終わっても彼女がじっとこちらを伺うので、悠はそのまま千切ったドーナツを差し出していた。アイリスは、口より目で多くを語る時がある。彼は昨夜の帰り道、民家の屋根まで跳んでみるハメになった経緯を思い出していた。
そんな訳で、期せずしてヒナに餌をやる親鳥の気分を体験する事になった悠であった。或いは、かなりおねだりの上手なハムスターにヒマワリの種をやる感じだろうか。
結局、自分の皿のドーナツを食べ尽くされた悠は、アイリスの皿に乗ったドーナツを食べた。
こうして、それぞれの目標に向けたアイリスと悠の二人三脚が始まった。
夏の、オレンジみたいな太陽から注ぐ暖かい日差しが、二人を見守っていた。
二人の足を固く結ぶ運命の輪は、鉢巻に代わって、甘くて苦いカリッとフワフワなマーマレードドーナツだった。
☆ ☆ ☆
「ヘェ〜。貴方の召喚獣…いえ、ゴメンなさい。一様、人って事だったわね。ユウさんって男前ね。ちょっと、意地悪なところも有るみたいだけど」
アイリスから彼女自身と召喚獣ユウとの馴れ初め、基い、信頼の橋頭堡設立の経緯を聞いた、サーシャの第一声である。
「そう!そうなの!!」
サーシャの共感を得て、思わず図書館内であるのも忘れてサーシャへと身を乗り出すアイリス。
ゴーンっ!
そんなアイリスを押し留めるが如き、絶妙なタイミングで講義の予鈴が鳴り響く。
二人は慌てアイリスの荷物を掻き集めると、講義堂を目指し駆け足を始めたのだった。
召喚獣は無いんじゃない?~彼女がかけるドーナツの魔法~