看取り図

クダラレイタロウ

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展開や細やかな情景描写はありません。

36

 帰っておいで。
 何度もそう呼びかけた。実際に帰ってきてくれるのなら、どんな望みだって叶えてやるつもりだった。
 それなのに、天国ってところはよほど魅力的なのか、妻はそちらへ渡ってしまった。二度と帰ってこられないというのに。そんなこと、分かりきっていたはずなのに。
 しかし、実際に旅立ったというなら、やはりそれが妻の望みだったのかもしれない。確かに死に至る今日までの道程は、そうまでして生き永らえていくことに疑問を持ってもおかしくはなかった。ベッドから立ち上がることもできない身体となり、何度も嘔吐し、高熱に魘され苦しんでいた。実際に苦しい、死にたいと呟いたこともあった。何度も励ましながら、どうしてとって代わってやれないのだろうと、そんな風に考えた。どんどん弱り、言葉を発することもできなくなり、そして今日の日を迎えてしまった。開かなくなって久しい妻の瞼は血が溜まって色が変わってしまっていた。息を引き取り、すぅと血の気の失せていく妻の顔は、戦い終えて苦しみから解放された、安らかな表情にも見えた。だとすれば、あとはしっかり送ってやらねばならない。空っぽになってしまった妻の抜け殻を前にいつまでも泣き伏していることを、きっと妻は望んでいない。
 私はすっくと立ち上がる。先ほど医師が読み上げた死亡時刻を、深く記憶に刻み込むことに集中した。彼女の両親や妹の泣く声がいまだ響く病室の中、わたしの思いは決まった。すると、不思議なほどふつりと涙は途切れた。
 その後、目まぐるしく行われる手続きの一つ一つを粛々とこなす私は、もしかすると端から見れば薄情に映ったかもしれない。妻の遺体が帰ってくる自宅の掃除は生前、妻と一緒にやっていた時よりもずっと念入りに、誰よりもてきぱきと動いたし、葬儀屋との相談や必要な書類記入の類も冷静さを保ちながら、しっかりと行った。私の家の宗教に関わる決まりごとなどは初めて意識することも多く、戸惑いもあったが、冷徹なほど一つずつ丁寧に確認して、実行していった。
 私以外の誰が妻を看取るのか。その思いがあった。
たとえ意識が、心が、魂がもうこの世にないとしても、妻からすればすべてが無意味なことだったとしても、不可抗力が働いていたとはいえ、こんなに早く逝かせ、生き残ってしまった私は、彼女の旅立ちに向けて最善を尽くさなくてはならない。
 私を看取ること、先に逝くこと、どちらがよりよかったのかなど、もう物言わぬ妻にしか分からないことなのだから。

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 意味が分からなかった。あの人が死ぬなんて。
 きっと遅かれ早かれ気付いていたのかもしれないけど、たまたま僕は親父がほっぽりだしたままにしていた朝刊の訃報欄に、見覚えのある名前を見つけてしまった。同姓同名、年齢も一緒。本人以外ってことが、ありえるだろうか。思い当たる本人、あの人も、今は具合が悪くて入院してるって言ってた。元気になったら、また連絡するって。お見舞いに行くって言ったけど、病院にいるうちはすっぴんだし、きっとすぐ元気になるからいいよって断られてた。けっきょく、今も連絡はない。
 でもやっぱり信じられなくて、学校に行った。だけど、やっぱり死んだのがあの人なんだって共通の知り合いから改めて知らされた。
 それを言われてもぜんぜん信じられなかった。あの人との思い出が、自分が死ぬわけでもないのに、走馬灯のようによみがえり、しかも何度も何度もループした。それはもう、気がおかしくなるくらいに。そもそもが気がおかしくなるんじゃないかってくらい幸せで、かけがえのない思い出ばかりだった。初めて会った日のこと、初めてキスをして、身体を合わせた日のこと。一緒に夜景を見た時の笑顔や、今も手許にあるプレゼントをくれた時のこと。初めてつきあった人だから、一つ一つが残酷なほど鮮明だった。ミュージックプレイヤーで一枚のアルバムをけっこうな音量でエンドレスリピートするみたいに、ずっとずっととめどなかった。授業の内容なんて当然入ってこなかった。
そこからはもう、飯が食えなかった。顔色の悪さを担任に指摘されて、早退することになった。だけど考えれば考えるほど満足に歩けなくなっていき、日が暮れても途中の公園のベンチから立てなかった。
 何とか家に帰っても、夕飯は食べられず、ベッドから立ち上がれない。通夜があるって聞いてるし、行きたかったけどまったく立ち上がれない。飯も食えず、既に心配をかけている状態の親の目もあるから、大っぴらに泣けないのも苦しかった。
 死に顔も見られず、だけどほとんど間違いないとされる事実がぐるぐると回り続け、気が狂いそうだった。布団の中の暗闇に、発散できない悲しみが溶けて蔓延していくようで、僕は声を殺して泣くことをただただ延々続けるしかなかった。

26

 こんな泣き方をするのは久しぶりで、そして初めてだった。彼女の訃報を受け、切電をタップするまでの時間だけでも、よく平静を保ち、耐えたものだと思う。頭の中はとめどなく混乱し、受け入れられず、子どものように泣き続けた。そういった意味では久しぶりだった。しかしそんな泣き方を続けていても、彼女の失った喪失感は晴れることもなく、身体の中をさまよい、呪い続ける。けがをしたり、病気になったわけでもないのに、何かが決定的に痛かった。苦しかった。つらかった。しだいに手足が痺れてきて、それでもなお悲しみは終わることを知らなかった。
 あの夜のことを思い出す。最後に俺に向けてくれた笑顔は、いつも通りに見えた。まさかその数分後、尋常ではない冷や汗をかき、ひと言も発することができず、倒れこんでしまうような、そんな予兆は一切なかった。俺の目が節穴だったのか、彼女自身も身体の中に潜む病魔に気付けていなかったのかは、もう分からない。どちらであったとしても、俺が気付いてやれなかったのは確かだった。
 業務時間はずっと同じブースの中にいて。中でも週五回、俺と彼女はいつもきちんと出勤し、残業も一緒にしていた。そして二人きりになり、人がいなければすぐに寄り添って、キスができた。そんな長時間、そしてそんな近い距離感の中、ずっとずっと一緒にいたのに。どうして、どうして俺は、何も。その思いも相まって、悲しみは止まらない。彼女を、返してほしい。もし奇跡が起きて、いま目の前に現れたなら、誰よりも強く抱きしめたい。
 彼女と俺がお互いに想い合うようになったその時点で、既に彼女には旦那がいた。今すぐは難しいけど、いつの日か。俺もまだまだ仕事の上でも半人前だし、今の状態でも満足だった。不倫だってこともあるし、ブース内で抱き合ったりキスしたりするだけでもヒヤヒヤものだったので、そんなごっこ遊びだけ、行為としてはキスまでで満足していた。
 同じ職場とはいえ、どういう病気で彼女が入院しているのかは結局聞けなかった。僕らの仲は同じ職場内でも誰も知らないし、しつこく聞くわけにもいかなかった。訃報欄では心不全となっていて、詳細は結局分からずじまいだった。
 同じ職場の同僚として、俺は通夜に参列しなくてはならない。電話一本で知らされているだけだし、きちんと参列して確認したい気持ちも当然あった。しかし、喪主である旦那が間違いなくそこにいる。そんな中で、俺はどんな顔ができるだろう。もしかして、洗いざらいぶちまけて、大変なことになるかもしれない。自分がどう振舞うことになるのか、そんなことにももう自信が持てなくなっていた。

看取り図

10代~30代それぞれの看取り方を書きました。一応、順番には意図があります。

看取り図

一人の女性を亡くした男性三人の、あくまで所感だけを追ったもの。散文って感じですね。

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