そして僕は泡になる

 彼女と出会ったのは、秋の終わり頃。
 ふらりと立ち寄ったシーズン外れで人気の無い近所の浜辺に彼女はいた。いや、単に「いた」というよりも、「打ち上げられていた」と表現すべきだろうか。
 濡れた黒髪と透き通るように真っ白な肌。遠目なため、残念なことに顔こそはよく確認出来ないものの、きっと極上に美しいのだろうと想像させるには十分であった。しかし、奇妙な事に、彼女には脚と呼べるものが見当たらない。その代わりに、彼女の下半身は魚の形を成している。上半身は人間で下半身は魚。俄かには信じがたい光景だが、彼女は人魚だったのだ。
まるで夢のような事態に、僕は溢れる好奇心を抑えることが出来なかった。すぐに駆け寄り手を伸ばして触れようとしたところ、彼女はゆっくりと目を開けてじっと僕を見つめた。海のように澄みきったブルーの瞳に僕が映り、伸ばした手は行き場を無くす。まるで、瞬間的に時が止まってしまったかのようだった。そして、周りの雑音だけでなく僕の思考すらもストップした。
 その瞬間、僕は彼女に魅せられたのだ。

 そうして暫く彼女に見惚れてぼーっとしていたが、その目に悲痛の色が浮かんでいる事に僕は気付いた。はっとして彼女を抱きかかえると、その肌はぬめりとしていてお世辞にも手触りがよいとは言えない。おまけに、魚独特の生臭さが鼻をついて、僕は少々顔をしかめる。
 彼女はと言うと、あ、う、え、え、と小さな口を懸命に動かし必死になって僕に訴えかけていた。明らかに衰弱しきっている。
どうしようかと考えたが、このままここに置いて帰ることが出来るほど僕は鬼にはなれなかった。何より、否定のしようがない程に彼女の魅力にやられていた。
 そうと決意が固まったならば、僕がやるべきことは一つしかない。慣れぬ肌の感触と臭いを我慢しながらも彼女を抱き上げると、僕は急いでその場を離れた。

 瀕死の彼女を救えるのは僕しかいない。そう思うと、まるで自分がヒーローにでもなったような心地がした。僕がヒーローだとするならば、さしずめ彼女はお姫様と言ったところか。砂浜を歩きながら、僕はそんなくだらないことを考えていた。
 
 暫くの間だけでも彼女の面倒は僕が見よう。僕の出した結論はしかし、そう容易いものではなかった。彼女は水の無い環境では生存することが出来ない。ゆえに、僕の住むアパートの狭い浴室は彼女のためだけの部屋となり、僕は銭湯通いをする他なかった。それでも、さほどに辛さを感じなかったのは、一時的にとはいえ美しい人魚の所有者になれたある種の優越感や支配感があったからだろう。そのため、自らの食費を削ってまで彼女が食す魚を買うことさえ少しも苦ではなかった。
 その美しい人魚はというと、徐々に回復の色を見せていた。僕のくだらない世間話にも耳を傾け、その端正な顔に上品な微笑を浮かべるのだ。
 だが残念なことに、彼女は僕の言葉を理解する事こそ可能だったが、発声までは出来ないようだった。元気になった彼女と言葉を交わすことを密かに夢見ていた僕は、その事実に気付いてがっくりと肩を落とした。もし彼女に声があったならば、その響きはどんなに美しかっただろうか。声だけでなく脚もあればもっと良かった。細い足首、程よく筋肉の付いて引き締まったふくらはぎと太腿。しかしどんなに頭の中にその姿を思い描いてみても、全ては僕の空想にしか過ぎない。人魚ではなく、人間の姿をした彼女と出会い、恋に落ちることが出来たならばと、心の底から悔やんだ。

 彼女に対する愛情は日に日に増す一方で、陳腐な言葉ではあるが彼女さえいればそれ以外はもう何もいらなかった。いつもの浴室で、彼女は静かな微笑を常に浮かべ僕を迎える。そこには、僕たち以外の他者も言葉さえも存在しない完璧な世界があった。

 彼女と僕の同居生活は、それから二週間ほど続いた。
 思えば、その日の彼女はどこか様子がおかしかった。彼女は言葉を持たないため、意思疎通においては表情が重要な役割を果たすことになるのだが、今日ばかりは妙に切なげな面持ちで僕と向き合っているのだ。
 彼女は思い詰めたような表情を浮かべたまま、その冷たい手を僕の頬にそっと当てた。初めて触った時は気持ち悪く感じたぬめりも、いつからか少しも気にならなくなった。それどころか今この瞬間においては、その感触すら愛おしく思える。
 それから、頬に添えられた手は頭を優しく撫で始めた。その間も僕は彼女の神秘的な青い瞳から目を離せずにいる。彼女の視線は、いつにも増して熱っぽくて魅惑的だった。
 彼女を手放したくない。
 僕の中で湧き上がるこの熱い想いこそが愛だ。

 言葉など無くとも、愛情は成立する。

 そう確信したのも束の間、突如として頭に激痛が走った。つい先程まで僕をその愛情で包み込んでいたはずの手が、このまま頭を握り潰してしまうのではないかというくらいに強く鷲掴んでいる。
「痛い、痛い! 痛いから放してくれよ!」
 いくら僕が語気を荒げてみても、彼女は手を放してくれない。それどころか、その力はさらに増している。力任せに手を引きはがそうとするが、彼女もそれに抵抗して強引に僕の頭を押さえ付ける。このままでは埒が明かない。
 そんな攻防を繰り返した後、ぼちゃん、と鈍い音をたてて僕の頭がとうとう湯船に沈んだ。彼女は依然として頭を押さえつけたままである。自分がこのままどうなってしまうのか考えようとして、やめた。正確には、そんな事を考える余裕さえも今の僕には残っていなかった。

 だんだんと薄れゆく意識の中で、「ありがとう」と言う声が聞こえる。まるで鈴を転がしたようなその声は、僕が何度も夢見た空想の中の彼女のそれと全く同じだった。僕は言葉を返そうとしたが、水中ではどんな言葉も泡となって消えるだけだった。
 彼女が何故ここで感謝の言葉を述べたのか、僕にはよく分からない。面倒を見てくれてありがとう、なのか、はたまた犠牲になってくれてありがとう、なのか。僕個人としては、愛してくれてありがとう、だったなら幸せなのだが。どんな意味だったにしろ、僕が最期まで彼女と言葉を交わせなかった事実に変わりはない。

 願わくば、次に生まれ変わった時は、人間の姿をした彼女と、言葉を通して、恋をしたい。

そして僕は泡になる

「人魚姫の脚」と同時期に書いた作品です。人魚をテーマに書きたかった。

そして僕は泡になる

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-21

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