秋の贅沢

ガミ

初投稿です、ここではエッセイ風の小説や食べ物関係の話を書こうと思います。今回は半エッセイ、半小説のキメラですね。こんな休日の過ごし方はどないでしょみたいな。よろしくです

秋の贅沢
              みがけい

 カーテンの隙間から鋭く差し込む朝日の眩しさに負け瞼を開いた。朝寝坊の醍醐味とは睡眠と覚醒の狭間でとろんと布団に包まりながらまどろむところにあるのだが、一度瞼を開いたら脳髄はまるで均衡を保っていたシーソーが重力に負け片側に傾くように覚醒へと一気に加速する。
 心地良い羽毛の蛹から這い出ると眼鏡を手探りで見つけ、子供の頃からの長い付き合いである通信教育の小学校入学記念でもらったマスコットキャラクターの目覚まし時計の針を確認する。もう十年以上使っているこの時計は今でも現役で時計部分もキャラクターの声で起こしてくれる目覚まし部分も問題なく使える。同時期に通信教育を始めた友人のそれは発声部分の回路が完全に御釈迦になっており、今では目覚ましに使うとおかしな電子音と共にキャラクターの声の成れの果てが掠れながら聞こえるそうだ。言うまでも無いが大層不気味である、とても気持ちよい目覚めが迎えられるとは思えない。時計の針を見るとなんとまだ八時にすらなっていなかった、予想外の早起きである。こうなったら今日は一日遊んでやるぞという気になっていた。折角の休日に早起きして出来た時間である。早起きした時にしかできないことをしよう。
 朝はいつも胃が鉛のように重いので朝食は抜くかごく軽く取る。この日はプレーンヨーグルトを小鉢にぐっと盛り上から少し大目の蜂蜜を掛ける、真っ白な火山から金色の溶岩があふれ出しているようだった。完成された景色をスプーンでぐりぐりと満遍なくかき混ぜ胃の腑に流し込む、酸味と甘味の調和の取れた雪崩が食道を崩れ落ちて行く。朝食を取りながら思い浮かんだ答えは一つ、長躯に出る事であった。
 大体がインドアな趣味である私にとって、長躯は数少ないアウトドアーな趣味であった。大体一回歩くと二十から三十キロはいくが、今日は久々に四十をこえてやろうという気になった。
駅に向かうとこの近くで一番大きな川の河口までの切符を買い電車に乗り込む。日曜の朝だというのに大層な混み具合だ。疲れた顔をしたサラリーマンに徹夜明けと思しき若者達、幸せそうな家族連れにどこの国から来たのか見当もつかない外国人。色んな色のいろんな顔を乗せた一色の電車はレールの上を走ってゆく。
 川沿いの道を歩くと寒く澄んだ空気が骨身に染みる。綺麗な秋晴れの空に小さな雲がゆっくりと流れ、どこか寂しさとやるせなさがこみ上げてくる。川べりの道に植えられた街路樹達はすっかり葉を落として素っ裸で凍えている、それをみてもう銀杏の季節が来たことを思い出した。ふいに今日は散歩を途中で切り上げて銀杏を取ってきてやろうという気分になってきた。そうと決まれば胸ポケットにしまわれていたスマートフォンを取り出し、都心で銀杏を拾えそうな場所を探す。これぞ文明の利器の使いどころという奴だろう。すっかり気分をよくして調べていたら、どうやら銀杏拾いには手袋や長靴などの装備が要るらしく、馬鹿馬鹿しくなって散歩を続ける事にした。
 昼になった。時計は見ていないが腹が減ったので昼である。どこか店に入ってどこかのテレビ番組しかり一人飯としゃれ込むかという気分になったが、地図アプリを起動して検索しても数キロ先まで店が無いみたいだ。残念。仕方ないのでもよりのコンビニを探し当て直ぐ食べられるフライドチキンとおにぎり二個、ペットボトルの濃いお茶を買った。直ぐに川沿いの道に戻って川原に腰を下ろした。悠久とは少し大げさだがゆっくりと流れる川を見ながら取る食事はそう悪いものではない。まず冷めぬ内にチキンから紙を破いてかぶりつく。衣の部分が厚く、味がしっかりしていて手が進む。次はおにぎりであるが、まずお気に入りの煮卵をラーメンスープで炊いたご飯で包んだ大型の奴を頬張る、二口目には煮卵にたどり着いた。流動体の黄身が米と合わさり、硬い卵掛けご飯を食べている気になる。一つ目で変化球を投げたので二つ目はシンプルに日高昆布の奴を選んだ。朝を少なめに調整したのと昼以降の移動量を考えて、夕食には丁度空腹になるぐらいの量を買ったつもりだが、少し足りぬ気がする。また買い足すのは気が引けたので前進しようと立ち上がった。
 川を上る、つまりどんどん水源に向かって前進しているはずだが景色はぜんぜん変わらない。この川の周りだけ一貫した空間のような錯覚が視神経を走っている。だがそれを錯覚だと認知できるほど辺りの景色は変化を遂げているが、えもいわれぬ永続感をこの川べりの道は覚えさせる。この奇妙な感覚が長躯をやる上での醍醐味と言えよう。
 川べりをすたすた歩いていると、綺麗な夕焼けが水面を照らし遠くのスピーカーから五時を知らせるメロディが流れてくる。夕暮れとはいついかなる時で見ても郷愁を誘うものである。歩みを止め地図アプリを起動すると近くに駅を見つけた。こうなってはもう帰る気分で心が占められてしまう。川沿いの道から大通りに向かい、真っ直ぐに駅を目指し歩みを速める。
 駅に着くと、そこは典型的な郊外の駅というような大きな駅ビルでその中には喫茶店や飲食店、書店に大型スーパーなどが混在していた。帰るついでに夕食の惣菜と夜食を調達しようとスーパーへ入り食料品を物色する。あちこち見回していると、パックの中にびっしりと並ぶ銀杏を見つけた。固そうな殻に包まれた秋の宝石の値段はとても安い。よく聞く下処理の面倒さの過程を全て通過して後は殻を割り調理するまでとなった魅惑の種をどうして買わないわけがあろうか。迷わず片手に下げた籠に放り込む。しかし今日は疲れた、とてもじゃないが手の込んだ夕食を造る気にはなれない。そうだと思い冷凍食品のコーナーに駆け寄る。一年中いつ見てもこのコーナーは冬景色だ、密閉された寒い国から分厚い銀の円盤を取る。鍋焼きうどんだ。しかしそれだけではこの空腹は満たされそうに無い、そこで惣菜コーナーに向かい油琳鳥とレバの煮付を迷わず購入する、たちまち手提げ籠の中があれよあれよと膨らんでゆく。仕上げにトニックウォータを手に取りレジに向かう。二千円程度であったがこれで十分飲み食いできると考えたら安いものだ、居酒屋にいくよりはいい。荷物を抱え行きと同じ満員電車に乗り帰路を目指す。
 家に着いた頃にはすっかり日も暮れていた。幸い日曜の終わりを告げる闇のテレビ番組三連コンボは終わっていなかった。今から作り出せばどんなに遅くとも映画劇場には間に合うだろう。
 まずは食卓と調理場周りを片付けて晩餐の準備を整える。食卓が片付いていなければ幾ら贅沢な食事を並べた所で満足がいくことは無いだろう。ガスコンロを付け凍てついた銀の器を勢いよく燃え上がる火焔の上にそっと置く。次第に凍結した中身が融解してゆく。その様子を見守っている暇は無い、煮付と揚げ物の支度をしなければ。急いで器に惣菜を盛り付けレンジに入れボタンを押す。魔法の箱が唸りを上げ、放り込まれた生贄をぐるぐると廻す。一つ目の生贄はもうすっかり湯気が上がるほどにやられていた。二つ目の揚げ物に取り掛かる前に空間の調和を破る騒音がコンロからあがった。鍋が吹き零れたのだ。
 鍋の中身は五分前の氷原から活火山の火口へと変貌していた。火を止めても熱いマグマがブクブクと底から沸いてくる。神話の巨人のように食卓へと火山を運ぶ。熱が冷めるまでに揚げ物の用意を済ませ、皆を一緒並べることが出来た。
 ささやかな晩餐の始まりだ。ぐつぐつと沸き立つ出汁の中に緑の野菜たちと赤い海老にこんこん油揚げ、人工的な色合いをした蒲鉾に薄い卵焼き、そしてそれらを束ねるやけに大きな椎茸が小刻みに揺れていた。薄い琥珀色の溶岩の下には無数の白帯が渦巻いている。早速箸を入れ帯を拾うと唇を震わせ啜りこむ。口福とはこのことだ、春だろうと夏場だろうと味は変わらないが、晩春のこの季節が鍋焼きには一番合うと思う。これより後、冬になると鍋焼きうどんではなく鍋と〆のうどんが食卓に並ぶ事になるからだ。鍋焼きうどんと〆のうどんはてんで違う。やはりうどんとしては鍋焼きの方が幾分か上等であろう。だがこの冷凍鍋焼きのうどんはまさに冷凍食品特有のどこと無くチープな食感を保っていた。それがいいのだ。家で作るなら普通のうどん玉で調理するより冷凍を暖めた方が美味いし手軽。鍋焼きとはそのような特異な食品である。また、冷凍うどんの中にはどう工夫したのか手間をかけ用意したものよりも良い食感の良いものが紛れている。この鍋焼きのうどんはまさしくそれであった。
 冷めない内に具を頂く。赤く輝く海老はまさしく紅一点だ。ゆっくり噛むとみっしりと上下左右に編まれた肉の繊維が圧を受け弾けた。海老の美味さには色々あるが、鍋焼きに載っている奴にはあまりプリプリして欲しくない。そもそも海老がプリプリしてよいのは揚げたての天麩羅かフライ、チリソースの中だけと相場が決まっているのだ。その中にしても過剰なプリつきは美味いとは言えない。十四歳の子供ではないのだから歯を立てた瞬間爆ぜるような根気の無さを改め、少し水分が抜けたような、ゆっくり噛んでいくと少しプリつき海老の味が染み出すといったつつしみが欲しいところである。この海老は冷凍であるがそこそこの身の爆ぜ方だ。ぷりつきの多寡は処理の仕方でなく海老の種類によるのかもしれない。
 次は蒲鉾。蒲鉾は海老と違いプリつけばプリつくほど食感としてはいい。まあ好みも出るだろうが、この薄さでは食感には期待できないだろう。だがその味はどこと無く深まる魚介の甘みが出ていてかなり良かった。出汁が染みた卵焼きに揚げを頬張る。どちらも甘物だがすっきりした鍋焼きの出汁に合わせ甘味を前面に押し出してこない、好評価。
最後に残った総大将、椎茸を戴くことにしよう。飾り包丁など入る余地がない無骨さ、この分厚い森の幸を丸ごと口の中に。最高。何故か一番出汁が染みている気がする、かむ度にじわりじわりと椎茸が吸い上げその旨みを加えた出汁が染み出す。気がつくと具は緑の野菜と日本古来の色をした濃い橙色の人参だけになっていた。
 うどんを暫く啜っていたら惣菜たちが取り残されているのに気づいた。油が回らないうちに油琳鳥を頬張る。もう作られてからだいぶたつため衣のカリカリ感は期待できないが、油で揚げられた肉と刻み葱の中華ソースが絡まるこってり感が口を油でギトギトにする。二、三切れ食べたら一気にしっかりした物を食べているぞと言う満足感がこみ上げてくる。次はレバ煮だ。
 レバは鳥と豚と牛とでぜんぜん違うが、今回は鳥のレバ煮こみをチョイスした。一つのレバ塊を口の中にぽんと放り込む。凝固した血の塊を噛むと舌の上は濃い醤油と味醂の味に征服された。そしてレバ特有の臭くない血の味がタレの味と絡まり口咥内は濃厚な空間へ変貌する。レバ煮の面白いのは色んな種類のレバが食べられるとことだ。次は果物の方の柿の種に似た形の肉片をつまみ上げる。これは見ただけで分かる、砂肝だ。普通のレバは皺一つ無いつるりとした見た目だがこいつは幾つか皺がある。こいつは噛み物だ、ガムやグミ、生麩の仲間で舌より歯を喜ばせる食品と言える。歯を立てると歯離れが良く心地いい歯ごたえがゴリゴリと感じられる。タレの間に感じる砂肝の味は決して無味ではないが個性は無い。鈍い三角推の形をしたレバを見つけた。これだけはいつになっても名前が分からない、砂肝より歯ごたえは無いがより血の味が濃いと言ったところ。
箸を進め揚げ物が消えたところで腹が満ちてきた。銀の火口はもう十分に冷めてきている。残された菜っ葉と味の濃い人参を平らげ鍋に残ったうどんを片付けると銀の円盤を両手で持ち残った汁をごくごくと飲み干した。
 満腹とまではいかないが十分満足である、これも計画通りだ。レバだけ残して食卓を片付けると、すぐに晩酌の支度にかかる。そこで今日の主役、秋の宝石こと銀杏の出番だ。殻は剥かず、大きな封筒に適量の銀杏を入れレンジに入れてそのまま放置、暫くするとポップコーンのようにぱちぱち弾ける軽い音がしてくる。その間にグラスと氷、ジンに割り材を用意してテレビを付ける。テレビの間近にあるおもちゃみたいなちゃぶ台は食卓には手狭だが、テレビを見つつ勺をしつまむには最適の台である。銀杏が上がった。封筒から皿に取り出してみたら、黄色の固い殻が割れ隙間から綺麗な翡翠玉が覗いている。上から塩を振り掛ければ準備完了だ。TV映画も始まった。氷を浮かべたグラスに酒を注ぎ大目の割り材に溶かして箸で一混ぜすれば出来上がり、ジントニックだ。甘い酒は元々好みだが最近はこの酒が一番好きになった。ツマミに銀杏を一つまみ、口の中に秋の木枯らしが吹いているようだ、緑色の宝玉は噛むと歯に着き、楊枝が欲しくなる。映画を見つつ余ったレバとジンを交互に口にし至福の時間を過ごす。通には『酒の選択が最悪』などと罵られるだろうが私はこれが気に入っているから知った事ではない。ふと窓を見ると、すっかり景色は夜の闇に溶けていた。そのうわべには白い点々が弱弱しく輝いている、星だ。こうして贅沢な休日が終わっていく中映し出される物語を目で追いつつグラスを傾けていると、なんだかとても幸せな気分になった。
               終

秋の贅沢

最後まで読んでいただいてありがとうございます。こないだはじめたばっかでへタッピなのですが、数をこなして面白いもの書きたいですね。次ここに乗せようとしてるのは天丼の話です。もしよろしければ次も見てくださいね。

秋の贅沢

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-21

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