どうやら馬に蹴られたらしい

どうやら馬に蹴られたらしい

1.どうやら馬に蹴られたらしい

ひどい頭痛で目を覚ました。

額のあたりに違和感があったので、ふらつく頭を支えながら、洗面台の鏡を覗き込む。
鏡に映った額には、大きく『U』の字が浮かんでいた。
白い肌にくっきりと、『U』の形をした傷が赤黒く腫れあがっている。

わたしはしばし呆然とする。
(いったい昨晩なにがあったのだ。)
ここでわたしは、自分が記憶を失っていることに気付く。
昨晩のことをまったく思い出せないのだった。
傷はもちろんのこと、外出していたのか家に居たのか、それすらもわからない。
(いったい、いつからの記憶がないのだろう。)
わたしは記憶をたどってみた。
だが猛烈な頭痛がまきおこり、思考はさえぎられてしまう。
蛇口をひねると、ほとばしる水の中へ頭を投げだした。
冷たい水が、熱をもった額から体温を奪っていく。

やがて少し痛みも引いてきた。
もう何日も掛けっぱなしにしてあるタオルを取り上げ、傷痕のあたりを丁寧に拭う。

やはりこの形には見覚えがある。
これは馬のひづめだ。
馬のひづめに装着された、蹄鉄に相違ない。

わたしはどうやら馬に蹴られたらしい。

2.馬に蹴り上げられたのだ

傷痕から察するに、後ろ足で蹴り上げられたのだろう。

前足で蹴られたのなら――いや、その場合は乗り上げる? 踏みつぶす? などしたのであれば、傷は逆さまになってしまう。

馬に頭を向けて寝ているところを踏み下ろされれば、この形にならなくもないが……そんな状況はちょっと考えづらいし、馬だってバカではないので人が倒れていれば避けもするだろう。
勢いがついていて止まれなかったのだとしたら、わたしはもっと傷だらけになっているはずだ!

だが傷は額だけである。
やはり後ろから近づいたところを蹴り上げられたのだ。

身長175センチの額めがけて蹴り上げたのであれば、馬の方だって思い切ったスイングをしたに違いない。足をピンと伸ばしたその頂点で、わたしの額をとらえたのだ!
(イテテ。)
また痛みだした。
興奮して血が回ったのかもしれない。

わたしは冷静になろうと、ベッドへ腰を下ろした。
それからそっと指先で額の傷痕や頭に触れてみる。
やはり額以外に傷はないようだ。
(ここだけか。)
わたしはこの一撃で気を失い、馬の方もそれ以上は手出ししなかったとみえる。

しかしよく無事でいられたものだ。
馬に蹴られたのなら、頭が割れていてもおかしくはない。
われながら自分の石頭には感心する。

ここでわたしは、郷愁へと駆られていった。

3.わたしは石頭である。

中学生のころ、友人がわたしの頭にチョップをしてきたことがあった。
彼は前夜にプロレスを見て興奮していたそうだ。
はげしい連打をお見舞いされたが、こんなものは子猫がじゃれ合うようなものだと、相手にしなかった。

翌日、彼は両手に包帯を巻いて登校してきた。
チョップをした部分、手の小指球あたりの骨がバラバラに砕けていたらしい。

「おまえは石頭だな。」
友人は涙目で恨んでいたが、元はといえば彼が悪い。
わたしが何の痛みも感じていないのをいいことに、彼は力任せにチョップを振り下ろしていたらしい。
そしてわたしの硬い頭骨に弾かれ、彼は骨を砕いたのだ。

しかし友人に「おまえは石頭だ」と言われて、はじめてわたしは自分が石頭であることを自覚した。

またある日、学舎を走りまわっていて、コンクリートの角に頭をぶつけたときも、いよいよ割れたと思うほどの衝撃であったが、頭は無事でコンクリートのほうが少し欠けていた。

そんなことが続いたのでわたしはすっかり石頭に味をしめてしまい、喧嘩のときでも、手ではなく頭を出していた。
これが頑丈で重たいので、相手のこぶしを易々と弾き返してしまう。
そんなときでもわたしにはタンコブひとつできなかった。

ところが今、額は見事に腫れている。
傷は赤々とわたしの額に陣取っている。

なぜ馬に蹴られたのか。
そもそもわたしは、馬に近づくような真似はしないはずだ。
誓ってもいい。
わたしは馬には絶対に近寄らない。
馬が嫌いだからである。
これは嫌悪ではなく、憎悪といっていい。
なぜかといえば、わたしはむかしから馬の悪夢をみるのだ。

4.馬の悪夢をみるのだ

栗毛色の大きな馬が、こちらをじっと見つめているという夢。

馬はなにをするわけでもない。
ただじっと、こちらを見ているだけだ。
それなのに夢の中のわたしは、それがとてもおそろしくなって震えはじめる。やがて全身がすっぽりと恐怖に包まれて、わたしはたまらず叫び声をあげる。

そこでいつも目を覚ます。

夢から覚めても震えは治まらない。
肚の底から恐怖が湧き上がってきて、パニックになる。
それっきり、その晩はどうやっても眠れなくなる。
理由はわからない。
だが、そんな夢をこれまで何度も見てきた。

なぜそうなるのか知りたくて、動物園まで馬を見に行ったこともある。
わたしは恐怖と期待とをもって馬の前に立った。

だが――なんともなかった。
何も感じなかった。

震えもなく穏やかなままである。
目の前には一匹の獣がいる。
ただそれだけで、なんの感情も湧かない。
(なんだ、こんなものか。)
張り詰めていたものがすうと抜けていった。

わたしは、漫然と馬を眺めた。
安堵のせいか、じつにおおらかな気持ちであった。

だがしばらく見ていると、今度は無性に腹が立ってきた。
幾晩も悪夢を見せられた反動かもしれない。
何もかもが腹立たしくなってきた。
長い顔。でかい図体。忙しなく動く耳。
何を考えているのかわからない黒い瞳。
そう、瞳だ。
あいつらはまるで「全てお見通しです」みたいな目をする。
それで馬好きなご婦人方が「見透かされているみたい。馬ってミステリアスね。」なんてことを言い出すから、おかしなことになるのだ。
あいつらはミステリアスなのではない。
なにも考えていないだけだ。
馬耳東風というのが本当のところで、何を言ったところで考えることをしないのだ!不感症の愚図である!
それでもご婦人方は、馬を高貴で紳士的などと評する。
あたりかまわず糞をまき散らす家畜の、どこが紳士的なのか!
やつらは家畜であって、それ以上ではない。
徹底的にこき使って最後は食べてしまえばいい!
肥料にでも飼料にでもして使い切ってしまえばいいのだ!
ええい、忌々しい!

悠々閑々と草を食む馬に、わたしは唾を吐きかけていた。
馬はけろりとして、その場で糞を垂れた。

5.わたしは馬小屋にいたらしい

わたしには、付き合って3年になる彼女がいる。
きれいな緑色の目をしていて、背は低いのに勝気なことろがかわいい年下の彼女である。

その彼女の家の近くに、馬小屋があるのは知っていた。
わたしはいつも、そこを通らないよう遠回りして彼女の家に通っていた。
あの悪臭を嗅ぐと胸がムカムカするからね。
だが馬といえば、その馬小屋以外に思い当たらない。

ふと目をやると、机の上に手紙が一枚置いてあった。

ゆっくり立ち上がり――頭の痛みも治まってきたようだ――手紙を手に取る。
そこには彼女の美しい字が、きらめくように並んでいた。

なるほど。
わたしは昨晩、馬小屋の前で倒れているところを彼女に発見されたらしい。
そしてわたしを家まで運んでくれたようだ。
ああ、またしても彼女に感謝しなければならない。
あと数時間発見が遅れていたら、わたしは凍死していただろう。

本当に彼女はいつも奇跡的だ。
きっと彼女には、わたしが今どうしたいのか、どうしようとしているのかが手に取るようにわかるのだ。

つい先日も、奇跡的なことがあった。
わたしは調べものがあって、どうしても手に入れたい資料があったのだけれど、その本は絶版になっていて、古本屋をめぐるほかはないと諦めていた。
すると彼女がその目当ての本を持って、こちらに歩いてくるではないか!なんでも親戚に不幸があって、遺品を整理しているときに見つけたそうなのだ。
こんな奇跡があるだろうか!

やはり彼女とは、運命的に結びついているのだ。
わたしは年内にも、彼女に結婚を申し込もうと思っている。

6.U字

冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してグラスへ注ぐと、すぐさま飲み干した。
空いたグラスに2杯目を注いでから、ミネラルウォーターを冷蔵庫へ戻す。
喉が渇いていたようだ。
水が胃に沁みていくのがわかる。
2杯目も、口をつけると一息に飲み干してしまった。

気分も晴れやかになってくる。
まるで酔いが覚めるように、ふらつきも取れてきた。
これなら出掛けられそうである。
(よし、彼女にお礼を言いに行くことにしよう。)
そう考え、わたしは何気なく、いつも通りに――
シャワーの支度をはじめた。

手狭だが、一人暮らしには申し分ない浴室。
熱い湯を、傷口に気を使いながら全身に浴びてゆく。
埃に覆われて強張っていた皮膚が、呼吸をはじめるように緩む。
「ああ。」
思わず声が漏れる。

が――このときにまた、違和感があった。

傷のせいだろうと、あまり気に留めずシャワーを続ける。
しかし違和感は、次第に大きく膨らんでいく。
ついには居ても立ってもいられなくなって、わたしは浴室を飛び出した。

心臓が早鐘を打っていた。
廊下の壁に手をついて、呼吸を整える。
濡れたままの身体から、ぽたりぽたりと水がしたたり落ちていく。

いまのはなんだったのだろうか。
ガス室にでも押し込まれたような息苦しさであった。
焦燥感というのか、強迫観念というのか、そうしたものが津波のようにじわじわと押し寄せてきたのであった。

呼吸はまだ荒いが、このままでは身体も冷えてしまうのでバスタオルで手早く拭きあげた。
廊下にいると、あの違和感もないようである。

服を着替え終わるころには、呼吸も落ち着いてきた。

わたしはトイレへ入る。
便器に座り、先ほどのことについてゆっくり考えようとした。
しかしそこで、また違和感に襲われる。
今度はさっきよりもはっきりと感じられ、あっという間に全身が恐怖に包まれた。
肚の底から冷えてゆくようなこの感覚には覚えがあった。
これは、馬の悪夢をみたときと同じものである。
わたしはハッとした。

そっと立ち上がり、いま自分が屈んでいた便器に、おそるおそる目を向ける。

わたしは悲鳴を上げた。

下着やズボンも上手く履けぬままトイレを飛び出すと、力任せにドアを閉めた。
わたしは両膝をついて、息も絶え絶えに呆然とする。
まさかとは思うが、もはやそうとしか考えようがない。

この恐怖の引き金となったもの。
それは額の傷とも深くかかわるようだ。

なぜならわたしがトイレで見たものは――
『U』の形をした便座だったからである。

7.Uとの遭遇

『U』字のものが、いまのわたしには言いしれない恐怖を与えるらしい。

わたしは浴室を開けて『U』字を探してみる。
すぐに、恐怖のもと《・・》をつきとめた。
シャワーヘッドを支えるヘッドスタンド、それが『U』字をしていた。
浴室のドアを閉めて、また呼吸を整える。

(冗談じゃないぞ。)
わたしは『U』字のものを見ると、馬の悪夢を見たときと同じ恐怖に駆られるらしい。
(どうなってしまったんだ、わたしの身体は!)
わたしは下着やズボンを履きなおすと、室内を眺めた。

『U』はいたるところに隠れていた。

たとえばバッグの持ち手、あれも『U』である。
ハンガーやフックの先端にも『U』が取りついている。
スリッパの踵も『U』、空き缶の飲み口も『U』だ。
傘の柄、二つ折り財布、仮眠枕、ピアス、すべてが『U』である。

『U』に囲まれた空間に留まるなんて、わたしにはできなかった。
逃げるように屋外へ出る。

しかし街にだって、『U』はあふれていた。
トンネル、橋、側溝、出窓、商店街のアーチ、ビニールハウス……。

様々な『U』から逃げた。
まるで、夢に出てくる栗毛の馬にしつこく追い回されているようであった。

極めつけは、空に浮かんだ大きな虹。
わたしは神の偉光にあえぐ悪霊のように、のたうちまわった。

ええい、馬! 馬!

8.ジレンマ

街中を逃げ惑いながら、わたしはなんとか彼女の家にたどり着くことができた。

彼女は、まあ驚いたという顔をしていた。
馬に蹴られた翌日に歩き出しているとは思わなかったのだろう。
「もう大丈夫だよ。」
わたしは強がってみせる。

だがここで、わたしは彼女から目を逸らした。
胸元が『U』字に開いた服を着ていたからである。

わたしは震えたが、彼女を心配させたり傷つけたりするわけにはいかず、必死でこらえた。

部屋に通されてからも、わたしは彼女の方を向くことができなかった。
それが怒っているように見えたのかもしれない。
彼女が心配して話しかけてきた。
「どうかしたの?」
「なんでもないよ。ハハハ、まだ本調子というわけにはいかないさ。」
「そう……。」
不安を打ち消すように軽口を叩いたが、彼女からの『U』の圧力も相当なものがあるので、片言になってしまう。
彼女も困惑していた。

北側で、木々に囲まれた彼女の部屋は薄暗い。
暖炉の火だけがうっすらあたりを照らしているが、広い部屋なので隅のほうは暗くてよく見えない。

壁には彼女が乗馬をしている写真がかかっていた。
火に照らされて、ゆらゆらとうごめいているようにみえる。

馬そのものを見るのは、まだ平気なようである。
『U』字を見るのはダメで、馬を見るのは平気というのは納得がいかないが、文句も言っていられない。

そもそもこのままでは、日常生活もままならない。
いますぐにでも、精神科へかかるべきかもしれない。
そうだ、わたしは彼女の家より先に、病院へ行くべきだった!
このままでは、彼女にも迷惑がかかってしまうだろう。
今日のところは出直したほうがいいかもしれない。

そう思って、わたしは彼女にこう言った。
「昨晩はありがとう。きょうはお礼を言いに来たんだ。まさか馬に蹴られるなんてね。自分でもなにが起きたのか覚えていないんだ。おかげで元気にはなったけれど、まだここに来るのは早かったようだ。また改めてお邪魔するよ。」
そう早口に言うと、入り口へ足を向けた。
「昨晩のこと、覚えてないの?」
「ああ、全然覚えていないんだ。」
「そう……。」
彼女が沈んでしまったので、わたしは冗談めかしてこう言った。
「思い出したくもないのかもしれないよ。自分から馬に近づいて、蹴られるだなんて、恥ずかしくて目もあてられない。きっと思い出すのが辛すぎるんだ。」
機知に富んだつもりだったが、彼女には通じなかったらしい。
彼女はますます沈んでしまった。
今日は分が悪いようである。

「帰るよ。」
「本当に大丈夫?」
彼女が近寄ってきた。
しかしわたしには悪夢が近寄ってくるように感じられ、あわてて一歩引いてしまった。
この一歩が、激しく彼女を傷つけてしまったようである。
彼女は立ち尽くしてしまった。
「ごめんね。まだ調子が悪いんだ。」
わたしは弁明したが、直視することはできない。
いまはもう、はやく帰りたい衝動でいっぱいだった。

「昨日のこと、本当に覚えていないのよね?」
彼女はややきつい口調で言った。
「そうだよ。」
まったく、何も思い出せない。
いつから記憶がないのかもわからない。
余程忌々しい蹴られ方をしたのだろう。
(ああ、誰か助けてくれ!)
わたしはもう一度、写真へと視線を移した。

こんなにも憎い馬しか、いまは見ることができない。
こんなにも憎い馬に、彼女は楽しそうにまたがっている。
歯がゆい状況である。
しかし彼女が黙ってしまったので、後ろ髪をひかれて帰るに帰れない。

わたしは面倒なジレンマにはまってしまった。

9.乗馬の写真について

ここでわたしの記憶をかすめるものがあった。

この乗馬の写真について、以前なにか話したはずだ。
たしか、この写真が何かに似ているという話だった。
鞭を振り上げた彼女の姿が、なにかを彷彿とさせるのだ。

以前見たときには、ハッと思い出した。
これだというものを思い出したはずなのに、いまでは忘れている。
大変もどかしい。
なんだったろうこのポーズは。
ナポレオンでもなく、ワルキューレでもない。

「どうかしたの?」
彼女が声をかけてくれた。
彼女が口を開いてくれたので、わたしもすこし気が楽になった。
「この写真、なにかに似ていると思ってね。」
「その話、あなたとしたかしら?」
「えっ?」
彼女はふうとため息をひとつ漏らすと、こう言った。
「ブランドのロゴマークよ。ラルフ・ローレンだったかしら。」
「そうだ、それだ!」
わたしはハッとした。

アメリカの高級ブランドで、ポロ競技に興じているロゴマークである。
ラケットを振り上げた騎手と駆ける馬が、躍動感のある刺繍で描かれている。

「胸のつかえが取れたよ。そうだ、前にきみの兄さんがポロのシャツを着ていて、それでハッとしたんだ。」
「あの人は、ポロなんて持っていないわ。」
「いいや、前に会ったときに着ていたよ。それで思い出したんだ。」
「この写真が、ポロに似ているって?」
「そうだよ。」
「それじゃあ、もうすっかり思い出したってことね?」
「え?」
彼女が問い詰めるように近寄ってくるので、わたしはまた一歩二歩と距離をとる。

室内は相変わらず薄暗く、暖炉の火だけでは部屋の隅まではっきりとは見えない。
その隅のほうで、なにかがチラリと動いた。

そうだ、数日前、彼女の兄さんとここで初めて会った。
そして馬の写真に気を留めたのも、そのときだ。

数日前?

それは具体的にはいつだったか?
2日前なのか、3日前なのか……。

10.昨晩の記憶

部屋の隅、光の届かなかった暗闇から、男が浮かび上がった。
彼はこの部屋にずっと居て、こちらをうかがっていたようである。

暖炉の火に照らされた男の顔には、見覚えがあった。
数日前に紹介してもらった、彼女の兄さんである。
あの時とおなじ、白いシャツを着ている。
しかし胸のあたりに、ポロのマークは入っていなかった。

「全部思い出したんじゃないのか?」
「兄さん、引っ込んでて。」
「いや、こいつは今にも思い出すぞ。」
ふたりの会話に動転して、わたしは再び馬の写真に目を向ける。

馬……。

そうだ。
わたしは昨晩ここにいたのだ。
そしてここで、いまと同じように馬の写真を眺め、彼女の兄さんに初めて会った。
それらはすべて、昨日の出来事だった。

「見ろよ、目がはっきりとしてきた。」
「兄さん!」

わたしは馬小屋へは行かなかった。
彼女の家から帰る途中、少しぼーっとしていて馬小屋の近くまで来てしまった。
馬の悪臭でハッとしたわたしは、慌てて彼女の家へ引き返した。
次に会う約束をするのを忘れたと思ってね。
わたしは彼女を驚かそうと、ノックもせずに彼女の部屋に入っていった。

「そうしたら――きみたちは、ソファーで抱き合っていた! まるで馬みたいに、男が女の尻に取りついていた!」

記憶の糸がつながっていく。

昨晩、わたしは怒りにまかせて彼女の兄さんを罵った。
2人は兄妹の壁を越えて関係を持とうとしていたのだ。
神にも背く不貞を、許すとこはできなかった。
わたしの怒りはおさまらず、彼女までも罵った。

「この子を悪く言うことは、おれが許さないぞ。」
昨晩と同じ文句を、彼女の兄さんはまた口にした。
わたしだってこんなことは言いたくない。
だが、悪は糾さなければならない。
それが紳士というものだ。
わたしはこれまで以上に厳しい言葉で彼を罵る。

そうだ! 
そのときだ!
そのときわたしは、馬に蹴られたのだ。

「『どいて!』と彼女の声が聞こえた。振り向くと、そこに彼女がいた。暖炉にあった火かき棒を、先が『U』字に曲がった真っ赤な火かき棒を掲げて、跳び上がっていた。その姿をみて、わたしは思い出したんだ。あの写真が何に似ていたのかを。ポロだ。ポロのマークにそっくりだったと、そのときにわかったんだ!」

わたしは昨晩、火かき棒の一撃を浴びて気を失った。
すべては彼女の仕業だったのだ。
しかしわたしには、もう一つの疑問が浮かんだ。
なぜ彼女はわたしを殴ったのだ?
わたしと彼女は、心底愛し合っていたはずだ。
なぜ彼女は、愛するわたしを殴ったのだ?

カツンという甲高い金属音が響いた。
振り向くと、そこには昨晩と同じように、火かき棒を振りかぶった彼女の姿があった。
わたしはそれをみて、美しいと思った。
彼女はためらいのないスイングで、火かき棒を振り抜いた。

薄れゆく意識の中で、わたしはまた思い出していた。
そういえば昨晩も、彼女は倒れたわたしに声をかけた。
それはわたしにとって最も重要で、忘れてはならない言葉であった。
彼女はふたたび、こう言った。

「彼、兄さんじゃないの。恋人よ。」

わたしは、二股をかけられていたのだ。

11.翌朝

わたしはひどい頭痛で目を覚ました。

額のあたりに違和感があったので、ふらつく頭を支えながら、鏡の前に立つ。
鏡に映ったじぶんの顔に、わたしは驚いた。
額に『U』の字が2つ刻まれていた。

どおりで頭が痛むわけだ。
傷跡から察するに、馬に蹴られたとみて相違ない。
後ろから近づいたところを、2本の後ろ足で蹴り上げられたのだ。

石頭で通っているわたしもさすがに堪えたのか、記憶がない。
いったいどんなヘマをやらかしたのだろうか。

机の上には、彼女からの手紙があった。
馬小屋で倒れていたところを、彼女が見つけてくれたらしい。
本当に彼女はいつも奇跡的だ! 
見つかるのが数時間遅ければ、わたしは凍死していただろう。
今日にでもお礼を言いに行かなければ。

それにしても、この分だとわたしは――
「馬の行列に踏まれても、生きていられるかもしれない。」
わたしは可笑しくなって、しばらく鏡のまえでニヤついていた。

どうやら馬に蹴られたらしい

どうやら馬に蹴られたらしい

ある朝目が覚めると、男の額には「U」の字が刻まれていた。 「どうやら馬に蹴られたらしい。」 男は傷痕からそう察するが、いかんせん記憶がない。 昨晩の記憶がすっぽりと抜け落ちているのだ。 男は記憶を求めて、彼女の家を訪ねる。 そこで男は、壁にかかる一枚の写真に気を留めた。 それは乗馬を楽しむ彼女の写真であったが、 鞭を振り上げたその彼女の恰好が、なにかに似ているのだ。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-17

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1.どうやら馬に蹴られたらしい
  2. 2.馬に蹴り上げられたのだ
  3. 3.わたしは石頭である。
  4. 4.馬の悪夢をみるのだ
  5. 5.わたしは馬小屋にいたらしい
  6. 6.U字
  7. 7.Uとの遭遇
  8. 8.ジレンマ
  9. 9.乗馬の写真について
  10. 10.昨晩の記憶
  11. 11.翌朝