なにもしらない

春乃

彼女をこの先ほうっておくことはできないと強く思った。

彼女は同じサークルの後輩だった。
入部早々に彼女のことが妙に目について、気になるようになってしまった。

彼女はまるで重力を知らないみたいにふわんふわんと歩く。
足取りは軽く、講堂の重くて大きい扉だろうが、公園の真ん中だろうが、人があまり寄り付かない薄暗い廊下だろうが、一度通ると決めた場所は当然のようにすいすい通り抜けて行った。

彼女は小難しい小説を読み、難解な映画を見る。
とてもおもしろいですよと貸してくれた本やDVDはどれも理解の範疇を超えていて、これらを楽しむことが出来る人間が世界中いったいどれだけいるのだろうかと何度も途方に暮れた。
それでもものわかりのわるい、無粋な人と思われることをなんとか回避するために、必死になって文字を追い、眠気と戦い、トラウマを乗り越え、自分なりの長ったらしい考察をつけ加えて借りものを返した。

彼女は化粧っけがあまりなく、しかし色白な顔と印象深い瞳とふっくらした唇を持っていた。
ぱっちりした目に一度見つめられると、言葉を忘れ、暑くもないのに汗が流れ、逃げ出してしまいたいのかこの瞬間を永遠に感じていたいのか判断することすら困難になった。
それでも彼女と出会えば挨拶をしたし、可能であれば会話もした。一週間のうちに何度顔を合わせることが出来たか数えた。一度も合わないまま話さないまま終わってしまった日が増えるたび、彼女の記憶から抹消されてしまうのではないかと恐怖した。

彼女が自分の生活の、いやもっとはっきり言ってしまえば人生の、大部分を占めつつあることは明白だった。
夢に出てきた回数も一度や二度ではない。起きていようが寝ていようが考えることは彼女のことだった。


彼女がサークルの人間はもちろんのこと、同級生や先輩方からもそれなりに人気があり、関心を集めているのだと知ったのはそれから数日後のことだった。
率直に言ってしまえばひどく驚いたし、気付いていなかった自分を恥じた。あれだけ魅力的な彼女の姿を毎日のように目にしていながら、自分と同様に彼女へ好意を持っている人間が大勢いることに、どうして思い至らなかったのか。自分を心の底から罵倒し、目の前がぐらぐらとするほどに焦り、彼女への思いはそれでも薄れることなく、ゆっくりとした話しぶりと笑顔ばかりが脳内を駆け巡り、そんな彼女とほんの少しだけでも交流を持つことに成功した己を褒めちぎった。

しかしそれだけではだめなのだ、それではちっとも足りないのだ。
彼女は魅力的で、愛らしく、多くの人間に好意を持たれている。その中に、彼女がこの男であればまあとほんのわずかでも、爪楊枝の先くらいでも気を許してしまうような存在が含まれていないとは限らない。その男は彼女を愛し、また彼女も相手を憎からず思っている。そうなればどうなる?

そうなればこのおれはいったいどうなる?



彼女をほうっておいてはだめなのだ!今すぐにでも自分のものにしたい。安心が欲しい。愛してくれとは言わない。ただ彼女が話しかけてくれ、ほほえみかけてくれ、ときどきは本の貸し借りをし、「先輩」と、ただその一言だけでも呼びかけてくれたら、やさしい声で呼びかけてくれたらそれでよい。軽蔑されてもいい。恨まれてもいい。彼女がどこの馬の骨とも知らぬ男にちっぽけな恋心なんぞ抱いてしまう前に、そんなものはいらないのだと、あなたはただ何にも知らないで、何にも知らない顔で穏やかに生活し、ふんわりとしあわせそうに生きていてくれればそれでいいのだと。


それからすぐに大学へ向かい、彼女を探した。見つからなかった。今までに彼女と出会った場所、講堂や、図書館、食堂、教室、サークルの部室、どこにも彼女の姿はなかった。途方に暮れた。思えば彼女がどこに住んでいるのか、大学の無い日にはいったい何をしているのか、どんな友人関係を持っているのか、そういったことは何一つ知らなかった。どこだ?どこへ行けばいいのだ?なぜこれほどまでに、今すぐ会いたくてしょうがない彼女を探し出すことは難しいのか?動機が不純だからなのか?
答えの無い問いを頭の中でぐるぐる回転させながら、ひとまずは自宅へ戻り、作戦を練り直すことにした。
しかしその必要はすぐになくなった。
彼女が目の前にいるからだ。



「やっとですね」と彼女がささやいた。

なにもしらない

なにもしらない

片想いしている男子学生の話です

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