季節のアポトーシス

一章:回転

山彦が冬の夜にも現れるのは言うまでもない。
きーきーきー。軋む様な音はマンションに囲まれ、反響し響き渡る。
少し歳をとった自転車は前進しながら、その冷たい空気に自身の存在を訴える。
面白がった山彦はこれ見よがしにそれに便乗する。
少しずつその色を変えた音波は全方向へ広がり、さながら小さなオーケストラのように住宅街を盛り上げるが、彼はそのタクトを振っている自覚はない。
自転車の先頭から放たれる黄色い光はゆるゆると単振動を繰り返す。
「ふあぁ。」
欠伸に伴い、分厚いマフラーに顔をうずめる。
目が乾燥しているのを感じた彼は、瞼を何度か下ろした。
深夜、この場所を通る人はほとんどいないため、彼は時々好んでこの場所を通過する。マンションからは光も次々に消えて行き、人の存在が希薄になってゆく。
この感覚はなんとも表現しがたい心地良さがある。
ふと彼の目に不釣り合いの景色が映し出された。
裸の女性がベランダの手摺に両腕を預け、タバコをぷかぷかふかしているのだ。
人並みの正義感を持つ彼は一時停車し、声を掛ける。
「すいません。こんなに寒いのに大丈夫ですか。」
部屋からの光が背後から彼女を照らすので、表情ははっきりとは分からないが、微かに笑ったように見えた。
「ありがとう、お兄さん。別にヤケになったわけでも、彼氏に虐待されてる悲しい女でもないわ。ただ気持ちよくて。それにしてもなかなか素敵な自転車をお持ちのようね。」
そして、人並みの危険信号も持ち合わせている彼はその場を直ぐに立ち去ることにした。本人が大丈夫と言うのなら、それは問題ないのだろう。
「そうでしたか。お寛ぎの所すいませんでした。良い夜をお過ごしください。」
自転車のストッパーを蹴り上げ、再び帰路に着いた。タイヤとの摩擦熱がエネルギーに還元され、再び頼りない光が闇夜を貫く。
「お兄さんこそ、お良い1日を。」
これから寝るまでに残された時間を思えば、少し変な言い方だが、彼女の声はその空間に暫く留まり、本日の公演の終了を観客に告げているようだった。
あんなに騒いだ自転車は、いつの間にやら沈黙していた。

2章:邂逅

彼が四国にいた時、日本は人口密度が非常に高いという事実を授業で習いはしたが、実感することは殆ど無かった。確かに、年に一度の阿波踊りには、全国から大量の人が狭い島国に雪崩れ込む。あの数日間はテレビで観ていたスクランブル交差点を擬似体験出来たような気になった。
しかし、此処では人々が常に行き交い、1つの店に何百人もの客が稼いだお金を物資等に変換しては去って行く。それは時代を重ねるにつれ、確立されてきた社会的システムで、人工的なものであるのは間違いないが、このような機構は既に人体に於いては行なわれていた。例えば、大量のヘモグロビンは酸素を肺で獲得しては、各臓器に届けるといった循環を繰り返す。ヘモグロビンは何度も生まれ変わってはいるが。
「ドーナッツ1つとカプチーノのトールをお願いします。」
店内はコーヒーの香りで包み込まれ、談笑する声、雑誌を捲る音、店員の挨拶など適度な雑音が混じり合っている。窓際の席を陣取り、読書を開始する。現在、理数系の学部で学生として励んでいる彼ではあるが、学問に境界線はないという信条を持ち、様々な分野の本をよく読んだ。自分と無関係な雑音によって、寧ろ集中しやすくなるは何故だろうなどとぼんやり考えながら、少しずつ自分の世界にはいっていった。
祝日に当たる今日は非常に混雑していて、ふと視点を本から下げてみると、女性の靴がこちらを向いて止まっているのが見えた。
「相席しても宜しいでしょうか。」
顔を上げる。そのように語りかけてきた女性は鼻が高く、雪の結晶のイヤリングで耳を飾っていた。寒色系の服装で、清潔でクールな印象を彼に与えた。
「はい、構いませんよ。」
この人なら自分の邪魔にはならないだろう。
「あら、お兄さん全く気づかないのね。」
黄色いプレートを彼女は静かに置いて、腰を下ろす。サンドイッチとアイスコーヒーが妙に畏まって並んでいる。
「すいません、お会いしたことがありましたでしょうか。」
このような綺麗なお姉さんなら、少しでも印象に残っているはずだが、全く思い出せなかった。
うーんと数秒唸った。
「ヤケになっているわけでも、虐待を受けている悲しい女でもないお姉さんと言えば分かるかしら。」
彼の眉は一瞬上がり、ゆっくりおりる。数秒悩んでいたのは、公衆の場で、裸でベランダにいたじゃないとは有りの儘には言えなかったからだろう。最低限の良識は持ち合わせている事が分かって、彼は胸をなで下ろす。
「なるほど、思い出しました。お元気そうでなによりです。」
彼女は彼が驚いてくれる事を期待してか、微笑していたので、相手の思惑通りになるまいと出来るだけ冷静な反応を心掛けた。彼女は少しだけ不服そうな顔をした。
「相変わらず、冷静な対応ね。面白くないわ。店の外から見つけて、折角おどかしてやろうと思ってやって来たのに。」
滑らかに輝くグラスの氷がカランカランと回り踊った。
「私の名前はミユキ。向かいのあの会社で働いてるの。」
道路を挟んで向かい側のビルを指差した。壁には植物が植えられている。エコに対する関心が年々高まっている今日ではあるが、流石にやりすぎな気がする。
「蒼崎奏といいます。今は大学に通っています。」
面倒ではあるが、名乗られてはそれに答えるのが礼儀だろうと思った。彼女が首を傾げているので、テーブルに設置されたペーパーを一枚抜き取り、ボールペンで名前を書く。
「へえ、綺麗な名前。」
サンドイッチを徐に口に運ぶ。食べ終わるまで静かに待った。
「早朝澄んだ海岸で、煌めく海にトランペットを高らかに吹いている。もちろん一人でね。そんな感じの名前。」
彼女は肩肘をついて独り言のように呟いた。
「奏くん、いきなりで申し訳ないのだけど、私そろそろ仕事に向かなくてはいけないの。良ければ連絡先を教えてくれないかしら。今晩にでもお話ししましょう。」
鞄を再び肩にかけ、立ち上がった。
「いえ、そんな大したお話は僕にはできませんし、お酒も飲めません。ミユキさんのお相手なんて出来る程、僕は大人ではないので。」
そう言って、逃れようとしたが、彼女は彼の首を指差した。思わず巻いていたマフラーに顔を伏せる。
「其処に何が隠されているのか、気になっちゃて。あなたも不思議に思っている事があるんじゃないの?私はあなたみたいな人とお話しするの好きよ。」
彼はポケットから携帯を取り出し、さっきのペーパーにアドレスを書き写した。敢えて相手に分かるように大きく溜息を吐いた後にそれを渡した。
「ナンパがお上手ですね。そして、美人に僕はどうも弱いみたいです。」
「嘘ばっかり。」
彼女は微笑み、姿勢良く出口に向かった。カプチーノは既に冷えてしまっている。
もう一杯頼もうかな。ただし、アイスコーヒーだけは絶対にやめようと思った。

3章:胡乱

Spring will come@●●● "21時に◯◯公園"
シンプルな短文が、数時間後に送られてきた。ぱっとメールアドレスが目に入り、こんな内容ならば年に何回アドレスを変更しなくてはいけないのだろうとぼんやりと思った。
今冬は例年よりも冷え込み、東京でも積雪が見られるとアナウンサーが体を張って報道していた。しかし、幸運にも、日本のやや南に位置するこの地域では、ぎりぎり雪が降っていない。神様が定めた季節の境界が有るならば、ここが丁度線上に当たるだろう。
公園は都心の少し外れにあり、昼間は近所の子供達が鬼ごっこやサッカーをして活気に溢れているのだが、夕方太陽が沈むと昼間の姿が嘘のように、閑静な形相を呈する。ほんの数週間前まで美しい景観を人々に提供していた紅葉やイチョウも役目を終えて、痩せこけた枝を申し訳程度に広げるだけだった。その変化がよけいにこの空間を淋しく感じさせた。
彼がベンチで座って携帯をいじっていると、背後に気配を感じて身構えた。
「ばぁ!」
叫びながら何かが目の前に飛び出してきた。もちろん相手は彼女であった。
「お待たせ。」
「いいえ、お構いなく。」
砂利が地面いっぱいにに敷き詰められていたのにどうやって無音で近ずいてきたのだろう。それ程までに僕は集中していたのだろうか。彼は、彼女の忍者のような能力に珍しく感心した。
「取り敢えず体も冷えるしブランコでもしながらお話しましょう。」
立ち上がって、お尻に付いた葉っぱを払い、ザクザク靴で地面を感じながら、ブランコの元に向かった。それを言うなら屋外より何処か喫茶店とかの方が良かったのに。楽しそうに歩みを進める彼女の姿を見て、その台詞は口元まで登ってきていたが、静かに呑み込むことにした。

4章:幕間

赤い棒から鎖が下げられ、木の板にそれが打ち込まれていた。記号化されたその物体を今でこそブランコであると認識できるが、初めて見た時、どのような存在なのか見当もつかなかった。
朝ご飯を食べ、父に連れられ遊び場に向かった。そこでは全てが新しかった。彼はまずそれを捻ってみた。だんだん重たくなって、幼児の力の限界を迎えた。手を瞬時に引っ込めると、竹とんぼのように回転した。転写の為に、解かれていく二重螺旋構造のように。途中板の角がぽっぺにぶつかる。痛みに驚き、相手を退けようと押し込むと、敵は平然と帰ってきた。何度か繰り返したが、結果は同じだった。強さを認めるのもまた強さ。彼はブランコと戦友のような関係になった。父は笑って彼を見守っていた。室内で遊ぶ事が多かったので、この様な機会は滅多になかった。
「これはブランコと言って、こうやって遊ぶんだよ。」
恐る恐る彼も父の様に遊び始める。風邪を切る感覚は肌にも神経があった事を思い出させてくれた。
「明日も遊びたい。」
その言葉を聞いた父は少し顔を曇らせて、そうだな、また行こうと独り言の様に呟いた。

5章:静謐

「奏くん、何ぼーっとしてるの?」
僕は気づかないうちに、茫漠とした意識の中にいたようだ。
「すいません、考え事していました。」
腰を下ろして、2人でブランコを漕ぎ始めた。
きーきーきー。
「奏くんは、世界の形について考えてみた事がある?」
早速本題に入ったようだ。率直な人間は効率的で好きだった。
「それはどういう意味でおっしゃっているのでしょうか。地球は球体って答えは求めて無いですよね。」
「そうそう。そんな物理的な話ではなくて、概念的なもの。世界、森羅万象はどのような機構、形態を持って存在しているのか。」
想像よりも遥かにマクロ的で抽象的な話題が提示された。
「線でしょうか。極小の一つ一つの出来事が時間という流れに沿って、無限に進んでいる。そんなイメージで。」
彼女は幼稚園児の様に立ち上がって漕ぎ始めた。
「そうね。線も規則に則った点の集合。その考えは悪く無いように思う。けど、無限という事は不安定な状態だということ。そんな曖昧な下地を世界がとるかしら。」
そう言われれば、そうなのかもしれないと思った。
彼女はブランコから飛び出して、次の遊具の元に向かった。僕は黙ってついていく。彼女は球状ジャングルジムをくるくる回し始めていた。左から右へ、左から右へとサーキットのように、目の前を通り過ぎ続ける。
「ミユキさんは円だと考えているのですね。」
「せーかい!世界だけに。」
僕は黙って、睨んだ。
「円状ならば常に予測の範疇に置くことができる。不安定さに怯える必要は無い。」
直線よりはマシな解答かもしれない。
「しかし、世界のシナリオが既に作られていて、それを世界がただ演じているだけだとしたら、どうですか。それなら線の両端を断定出来る。」
「運命論に近いわね。私もその考え自体は否定しない。ただ私にはこの世界が一度きりのものではなく、循環しているものにしか思えないの。」
回転は次第に遅くなり、彼女の残像は消えてしまった。反対側に彼女は置き去りになっていた。

6章:火炎

きー、ばたん、きー、ばたん。
シーソーに座る場所は4箇所あり、彼は前に、彼女は後ろに対面するように座っていた。打ち付けられる部分にはタイヤを使い、衝撃を和らげていた。
「こうしていると恋人のようね。」
嬉しそうに彼女が話す。
「こんな年でシーソーするカップルは見たことないですね。」
面倒くさそうに彼は返す。
「そろそろあなたの話を聞きたいわ。」
「なんの話ですか?」
「惚けても無駄。あなたの体についてよ。」
彼は彼女を真っ直ぐに見つめた。そして、彼女の目に固い意志を読み取った。
「別に隠すような話では無いのですが。」
幾重にも巻いたマフラーをゆっくり解いた。彼の首は紅く染まり、根を辿っていくと全身に巡っているようだ。首を傾け、歪んだ顔で白い息を吐き出した。
「生まれた時から体にこれが張り巡っていました。廃屋を締め付ける植物のように。」
彼女は恐る恐るそれを触ると、熱さが指先を走ってきた。
「かなり熱いわね。火傷しちゃうかと思った。」
「ミユキさんこそ異常に冷たいですね。」
彼女以上に彼はきっと驚いていたに違いない。氷のように滑らかで冷たい肌に。
「僕は昔から体温調節が上手く出来ません。冬意外は殆ど外出することができなかった。僕には世界は熱すぎた。」
彼女は黙って彼の言葉を待った。
「子供の頃から室内に篭り、あまり普通の人のような幼年期の記憶がありません。薬を幾つも飲み、生きる為に苦しんでいました。けど、感覚細胞は次第に死んでいきました。年をとるにつれ、自由度も増しましたが、それは寿命を削って、命の炎を燃やしていただけ。今は感覚が殆どありません。最近医者に長くは無いと言われ、死ぬまでの少しの猶予を楽しんでいます。」
そして、彼は憂いを誤魔化すように微笑んだ。
僕は何の為に存在しているのですか。

7章:答合

「次はあなたの番ですよ、ミユキさん。」
彼は真剣な表情で少し責めるように言った。彼は体重をシーソーに掛けていたので、彼女は宙ぶらりんになっていた。文字通り、吊るし上げられていた。
「次は私の番ですね、奏くん。」
彼女は両手を広げ、嬉しそうな顔をした。まるで子犬が喜びで尻尾を振るように、上空で足をぶらぶらしている。
「まず私はあなたに謝らなくてはならない。私は本当は世界の在り方を初めから知っていたの。だって、その歯車として生み出されたのだから。」
彼はそっと腰を浮かせた。彼女はすっと地上に降り立った。
並外れた低体温の由来について聞きたかったが、どうやら話はもっと抜本的で簡単なものではないことがわかった。
「一体どういうことなんでしょうか。今までの議論の結論をあなたは知った上で、茶番を演じていたのですか?」
「茶番だなんて言わないで。私はあなたの考えを素直に聞きたかったの。」
風が吹いて彼女の髪が靡く。おでこが露わになったが、見かけに反してこじんまりとしていた。
「世界はさっき言った通りに、円形で非効率を無性に嫌う。人間が効率主義に次第に転じてきたのも、本能的にその方向性を理解していたからかもしれないわね。しかし、駒を毎回新規導入していてはエネルギーが勿体無い。そこで、世界は重要な転機のトリガーだけはリサイクルすることを思い付いた。」
まともな人間ではない。本当の事を言っているならば、興味がないわけではない。しかし、気が狂った人間と取らえられても文句は言えないだろう発言だ。
「そして私は季節のきっかけを担っている。冬が本格化すれば消えてしまう。プログラミングされた私自身のアポトーシス。」
彼女は彼に抱きついた。先程とは異なり、体温は調和しながら混じり合う。
「そう、あなたと一緒。死ぬまでの猶予が与えられてる。自分ではどうしようもない力に捩じ伏せられる。」
気付くと、彼女の目には涙が溢れていた。堰き止められてたダムの貯水は警報と共に流れ落ちる。
「そして、私ね、何度も何度も死んでる。生まれて来てはまた死ぬの。笑えるでしょう。蝉でももっとマシな生き方をしているのじゃないかしら。そうしたら、あなたを見つけた。死を見つめている人。自分の運命を知る人。私はこの呪縛から解放されたい。」
しばらく彼女は彼のセーターに顔を埋めていた。
「やはり信じ難い話です。しかし、あなたの涙は氷柱のようで、体は雪の結晶のように冷え切っている。死んだ筈の感覚が確かにあなたの存在を感じている。僕は確かに生きていて、あなたも同様に生きている。」
彼女の小さな顔を覗き込んだ。
「あなたの話が本当なら僕も一緒に循環しましょう。二人なら怖くないでしょう。」
彼女は顔を上げ、目を輝かせた。
解決策は必ずしも存在しない。もしも妥協点に辿り着けたならば、それは僥倖以外の何物でもない。

8章:解脱

とある国の小さな町はいつも以上に盛り上がっていた。年に一度のお祭りで、人々は喜びを奏で、幸せを踊り、命を尊んだ。澄んだ大気は透き通り、海との境界は曖昧になっている。光自身も屈折率の違いを忘れているのではないだろうか、輝きが真っ直ぐ深海まで降り注ぐ。そんな華やかに彩られた深海で人知れず、雪が降っていた。
『マリンスノー』
死骸が地球の中心に向かって沈んで行く現象。
蒼崎奏と冬野美雪は一つとなって、死にゆく者を送り出す。
死んでなお、寂しくならないように。

季節のアポトーシス

18の時に初めて書いたお話です。世界の真理、生死の行方。これらの答えは科学技術が大躍進した今日でさえ未だに解明されていません。分からないことは不安で怖いですが、漠然としているからこそ、私達は人を悼み、自分を大事にできるのではないでしょうか。解けない問いもあって良いのかもしれません。

季節のアポトーシス

季節は巡り、世界は一見単調に循環している。 彼らの出会いはロボットを動かすゼンマイみたいなもの。 不思議なお話をお届けできたら幸いです。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-17

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 一章:回転
  2. 2章:邂逅
  3. 3章:胡乱
  4. 4章:幕間
  5. 5章:静謐
  6. 6章:火炎
  7. 7章:答合
  8. 8章:解脱