果物を齧る

果物を齧る

柿・一

 石森一真くんの家には立派な柿の木が生えている。というようなことを、わたしは年に一度だけ思い出す。
 その柿の木は、秋になるとたくさんの実をつけて、その周り一帯を圧倒し始めるのだけれど、その瞬間以外は存在感希薄な「木」である。だからわたしは、年に一度ぎりしか、柿のことを思い出さない。
 そして、昔から彼は秋になるとその木からもぎった実をわたしにくれた。今日は一真くんから本を借りる用でお邪魔していたのだけれど、彼は何の前触れもないままに、小柄な柿をそっと出してきた。
「あ」
「なんだ」
「柿」
「ああ」
 それは眩しくない橙色をしていて、くすんだ緑色のヘタが不揃いなかたちで乗っている。今季に入ってからは、初めて戴いた柿だった。わたしはそれを絶妙な苦笑いでベレー帽で包んで持ち帰った。
 わたしはさして柿が好きなわけではない。少なくとも、彼が想像しているよりかは。柿を何とはなしに差し出す一真くんのその所作と、そこはかとないやさしさに打たれて、わたしは毎度柿を持ち帰ってしまうのである。
 わたしは家の台所で慣れない指のはこびで柿を切った。硬い皮に潰れてしまいそうなくらい柔らかい身が詰まっている。正直扱いづらい。不思議とそんな柿と一真くんが層を織りなして重なってしまう気がした。
 でも、食べてみたら美味しかった。

 わたしは一真くんと長く付き合っているうちに一真くんととても懇意になった。もうわたしも一真くんも大人になりかけていたころだと思う。一真くんはわたしのタートルネックの首元をめくって、首すじにひとつ口づけをして、そのままわたしを抱き締めた。わたしも一真くんの背中に手を回してその行為に応える。思った以上に厚い身体に驚く。間も無くわたしはそのまま畳の上に倒されてしまい、さすがにすこし
「あ、まずいな」
 と思うものの、わたしは一真くんの身体に覆われ、恥ずかしさに顔を背けたときに畳の匂いが鼻を掠めた。
 そのときだった。視界の端から桃がひとつころころと転がってきたのである。わたしはそのときの光景を妙に覚えている。白い桃の産毛、薄い赤と黄とが散りばめられた肌、尻にも似た淀みのない一筋の線……。ほんの一瞬のことだったのに、わたしの目にはその光景がやけにスロウ・モーションにみえた。
 一真くんは見かねてその桃を拾った。そして、わたしの上から退いてその桃を部屋の隅っこの桃の籠に戻した。そこには桃が山ほどあって、わたしはそのときその存在に初めて気づいたのだけれど、同時に、わたしが倒れた衝撃で桃が転がってきたのだということもわかった。
「ねえ、その桃……」
「ああ……食べたい?」
「食べたい」
 一真くんは曖昧に笑って、山に戻した桃を再び手にとって台所へと消えていった。

林檎・一

 林檎が空から降ってくる夢を見ると、それは失恋の知らせである。
 なんてことを、マーサが言う。
「もう味見したの?」
「なんのこと?」
「石森一真」
「人聞きの悪いこと言わないで」
 わたしはピシャリと言い放って、身体に悪そうな味のするポテト・フライを口に放り込んだ。マーサはグリーン・スムージーを飲みながらスマートフォンを弄る。絶対わたし以外の女友達とラインしてる。
「桃は食べたよ」
「はぁ。桃? 果物だよね?」
「それ以外に何があるの? あ、やっぱりいい。聞きたくない」
「ぼくをなんだと思ってる?」
 艶やかに笑う目の前の人間は、男だ。彼は所謂オトメンという部類の人間で、ややこしいのが、ゲイではないということ。女装趣味があるわけでもない。ただ美容に恋愛にファッションに思考に、女の子寄りの感覚を持ち合わせている。そして、恋愛対象も女の子である。
 恋多き男だけれど、女の子の気持ちがわかるマーサは、あまり修羅場になることもないそうである。むしろ元カノと今の彼女が共通の知り合いだったとしても、つかず離れず仲良いらしい。そして、彼は長続きしないくせに、いつだって彼女がいる不思議な人だった。
「マーサって本当に遊んでると思う。わたしだったら頭がおかしくなってる」
「え。そんなのお互い様でしょ! きみこそ早く石森一真とくっつきなよ。きみたちのまどろっこしい関係こそ頭おかしくなるって」
「ふざけないで。一緒にしないでよ」
 お互いスマートフォンを見ながら片手間に会話をするのはいつものことだった。幼馴染みの腐れ縁とはまさにマーサのことを指すのだろう。なんだかマーサといると居心地がよく楽であることを通り越して、逆にどう居ればいいのかわからなくなる。
 言えなかった。林檎の降る夢を、つい今朝方見たことを。

 石森一真くんと出会ったのは近所の図書館だった。わたしは受験の折に図書館に繁く通うことになり、振るわない勉強の息抜きがてら本を読んでいたのである。とある洋書を本棚から引き出そうとしたときに、横にいた人に一瞬先に取られてしまい、わたしは思わず手を引っ込められずに一冊空いた空間まで手を伸ばしてしまった。本を取った人はそんなわたしに気付いて、わたしを見た。わたしもその人を見た。同い年くらいの男の子だった。
「この本目当て、でしたか」
「はい……でも、大丈夫です。タイトルに惹かれていただけだったので」
 そうですか。彼はそう言ってしばらく考え込んだのち、その本をわたしの手の上に乗せてくれた。
「俺は一回読んでるので、どうぞ読んでください。面白いので、ぜひ」
 人のいい笑顔で、彼はそう言った。
 その人とはそれから図書館でしばしば鉢合わせることがあり、会釈をする関係になった。それから、同じ書棚で本を探しているとき、おすすめを教えあうようになった。そのときに、便宜上名前を知らないと話しかけづらいこともあって、名前を教えてもらった。その名前こそが「石森一真」だったのである。
 それから世間話をしているうちに、家の場所だとか、通っている学校だとかがはっきりとしてきた。その学校にはマーサも通っているので試しに聞いてみると、同じクラスだということで彼は大層驚いていた。何に驚いたかというと、わたしのような比較的落ち着いた人の口からマーサの名前が出たことに、である。
 わたしは図書館の傍のある棗(なつめ)の木の脇で彼と連絡先を交換した。図書館では新刊は何人もの予約待ちなので、借りることができないが、一真くんの家に結構あるということだったので貸してもらえることになったのである。後で聞いたところ一真くんのご両親のどちらかが作家でもあり評論も行っているため、仕事柄家に本が大量にあるとのこと。暫くすると一部を除いて売るか寄贈するかしてしまうため、一真くんが読みたい本が必ずしも家にあるわけではないそうだが、それでも大体の本は家にあるらしい。
 わたしは本のこともあるけれど、そのときは一真くんが心から好きだった。

 マーサはパンケーキが食べられるような今時のカフェが大好きだ。彼女と折り合いがつかないと必ずわたしを呼びつけてパンケーキを食べる羽目になる。わたしは別段きらいなわけではないけれど、わたしの適当な服装はこの空間に拒絶されているような気がした。
 マーサは燻んだ薄紫色のネイルカラーでおめかししていた。訳をきくと、「可愛いでしょ? 紫色のやつ先に塗って上からゴールドベージュを薄く重ねたの。アンニュイな感じ」とかなんとか言うのでわたしは言及するのを止めた。
「そういえばマーサ、平気な顔してるけど、この間大変だったんだから」
「何の話?」
「彼女の、自分のことショコラって呼ぶ子。あんたはマーサの何なのって言われてつきまとわれたの」
「うそ、それいつ?」
 わたしはマーサに、被害に遭った日のことを言った。マーサは深く黙り込んで、「本当にごめん」と詫びた。
「あの子ちょっとおかしいんだ、まあ、ぼくに言われたくないとは思うけど……そもそも、ぼくとあの子は付き合ってないんだけどね。……というか! それこの前っていうかかなり前じゃん。なんでもっと早く言わないの?」
 マーサは急に憤慨し始めた。呆気にとられ、わたしは持っていたナイフを盛大な音を立てて皿の上に落としてしまった。リボンをつけた周りの可愛らしい女子たちがわたしをチラリと見る。
「な、なんでって」
「きみにもしものことがあったらどうするの? ぼくの責任でしょう」
「別にマーサに責任求めないよ」
「求めてよ」
 わたしは、どきりとした。女子ぶっていた男の子が、急に大人の男の眼差しになって、わたしを怒りと焦りと心配の混じった顔で見つめている。いよいよわたしは居た堪れなくなって、視線をそらして「ごめん」と言った。
 マーサは不機嫌そうに、「まあいいけど?」と言って苺を勢いよく食べた。

林檎・二

 その一件からしばらくしたころ、わたしは一真くんの家に本を返しに行った。一真くんはそのとき林檎も持たせてくれた。一真くんは祖父みたいだ。やさしくしてくれて大きくて知性があって。最早、恋愛対象ではなかった。
 でも、それはわたしの中でだけの話だった。
「……さん」
 名前を呼ばれて手を引かれた。そのまま彼の胸に飛び込んで、しかと彼に抱きとめられる。わたしはかたなしになって、硬直してしまっていた。
 嫌だ。嫌なんだ。わたしは初めてわかったのだった。わたしは味わったことのない恋の切なく甘い味に体と心が支配されるのが嫌なのだ。いつまでもへらへらと笑って恋の味などわからないあどけない少女のままでいたかったのだ。自分の中で異端に大きくなっていく気持ちと向き合うのが嫌なのだ。とにかく、病は全部追い出して、何も知らないままでいたかったのだ。

 わたしは一真くんを突き飛ばした。祖父の農作業を手伝って重いものを持って運んだ経験が生きて、意外にも一真くんはかなりの距離吹っ飛んだ。都合よく畳んだ布団に向かって行ったため怪我はしなかったろうものの、突き飛ばした際に一緒に飛んで行った林檎がばらばらと一真くんの上に落ちた。
「林檎が空から降ってくる夢を見ると、それは失恋の知らせである」
 神様は夢をみせるだけでは飽き足らずこんな偶然を仕掛けたのだろうか? 神様なんてきらいだ。

甘橙

「またひとつ恋の終わり」
 好きで聞いているポップスの一節だった。気にも留めない何気ないフレーズがわたしをちくちく突っついてくる。
 あれから、わたしは一真くんに会っていない。そんな状態で、とりあえず一ヶ月が過ぎた。わたしは、一真くんが怪我をしなかったかな、とそれだけが心配だった。嫌われてしまったのだとしたら、自業自得なので仕方ないけれど、一生消えない傷か何か残してしまったのだとしたら申し訳ないなと感じた次第である。
「またひとつ恋の終わり」
 それは、自業自得なのである。
 マーサがまたしつこく誘ってきた。わたしは渋々飾らない格好で出掛けた。今度は自然派アイス・キャンデーを一緒に食べに行かないか、とのことである。この寒い時期によくやるよと思う。
 わたしたちは幼馴染ということもあり近所に住んでいるけれど、待ち合わせはいつも現地だった。駅につくと、彼がベンチに腰掛けているのが見えた。いつにもましてお洒落なので、わたしは数時間前の自分を呪った。やっぱり、お洒落をしてくればよかった。
「失恋した?」
 わたしは何も言っていないのに、マーサは当てっこでもするように気軽に、そして簡単に答えを探り当ててしまった。わたしは黙って頷いて、それきり何を言うこともなかった。マーサも深くは追求しなかった。今までわたしに対してデリカシーの欠片も発揮しなかったマーサが、初めてその乙女心のわかる気遣いをしてきた瞬間だった。
 マーサはアイス・キャンデーを奢ってくれた。わたしは驚きながらも受け取る。おすすめだというオレンジがそのまま閉じ込められたアイスは見た目にも素敵で、可愛くて、あまりにも女の子の心を揺さぶる、そんな代物だった。
「たらればはきらいだけど」
 マーサはアイスを齧りながら言う。
「ぼくにしたら、良いんじゃない? きみってほら、少しメンズライクだから。ぼくぐらいが丁度いいんじゃないかなあ」
 そのときのマーサは射抜くような瞳をして、その銃口をしっかりとわたしの心臓に突き当てた。睫毛を震わせ彼を見ると、彼は今にも引き金をひきそうな声色で「幸せにするから」と言った。
 その言葉のありきたりさといったらない。本をよく読むから余計にそう思うのだけれど、文字として並んだときのその薄っぺらさ、根拠のなさ、真実味のなさ……。でも、不思議と面と向かって言われると、心が揺り動かされて、自分の中の涙の堰が破壊され満ち満ちとおおらかな氾濫を起こしているような、あたたかい波にのまれ思うままに揺蕩うような、そんな気持ちになった。
「本当? きみとだったらずっと一緒にいられる気がしたんだ」
 ああ、マーサに惚れる女の子の気持ちが今わかった気がした。

柿・二

 マーサと付き合い始めてすでに半年が経っていた。マーサの中では半年続いた時点でベスト・レコードらしく、わたしは「それなら今まで何人と付き合ってきたんだろう」とうんざり思いながらも嬉しそうに笑う彼に微笑むしかなかった。結局のところ、幸せにしてもらってるのはぼくかもしれないな、と恥ずかしげもなくマーサは言う。
 一真くんとはこの間偶然図書館で会った。わたしたちは相変わらず会釈を交わし、でも、それっきりだった。なにしろ、一真くんの隣には、それはそれは美人な女性が座っていたのだから。わたしは気を揉むのはやめた。
 わたしはマーサと付き合ってから適当な格好をしなくなった。女の子らしい服装をしたり、マニキュアを塗ったり、髪の毛も随分つやつやになった。一真くんも随分変わったと思う。そんなモードな服を着ちゃったりして。
 そんな相手を、二度と好きになることもないんだろう。そう思う。でも、きっと本気で恋をした相手は、マーサじゃなくって一真くんだったな。名前を呼ばれたときの吐息を思い出してしまう。
 その後マーサを待ち合わせをして落ち着いたカフェに行った。女の子だらけでない、よくあるカフェである。マーサだって、随分わたしに寄せてきていると思う。
「柿のパフェだって! めずらしいね」
 わたしは、そうだね、と言ってマーサの無邪気な笑顔を見た。マーサは柿のパフェに興味津々だったけれど、「うーん」と悩んで結局苺のパフェを注文した。
「なんで柿にしなかったの」
 わたしは問う。
「きみが浮かない顔をしていたから」
 マーサは淀みなく答えた。マーサのこういうところは、尊敬に値すると思う。
 わたしは一真くんを突き飛ばすちょっと前に、また柿をもらっていた。面倒に思いながらも、食べられるように包丁を入れていく。熟した身を護るような硬い皮。扱いづらいけれど、それは、なるほど理にかなった構造だったのである。
 わたしは、公園の隅に落ちていた、もう食べられはしないだろう柿に対して、そんなことを思い出していた。
 柿という果物を今まで彼に当てはめて憎悪したり好きになったりしてしまっていたけれど、違うことに気がついた。こんな壁ばかり固くて内面が脆いなんて、まるで自分の生き写しなのに、どうして目を背けられていたのだろう。
 わたしは柿を掴んだ。ぐにゃりとしていて気持ち悪い。そして、その柿に憤りのすべてを込めて思いっきり投げた。祖父の農作業を手伝って重いものを持って運んだ経験が生きて、その柿はとにかくよく飛んだ。空を切って切って切って終いに砂場にポトリと落ちた。とても呆気無く、転がりもせず埋まった。わたしは闇の帝王よろしく高らかに笑った。ブランコを漕ぐ小学生がはた迷惑そうにこちらを見つめている。
 恋は相手を伴うもののようで、反対に自分との見つめ合いでもある。何が正解ということもない。人数を重ねたって、失敗したって、冷静に続けたって、楽しんだって。
 またひとつ恋の終わり……。
 あまりにも、簡単なことだったのだ。背負った殻を脱ぎ捨てることなんてね。

果物を齧る

「小説家になろう」・棗(自己のサイト)にも掲載しています。

果物を齧る

「またひとつ恋の終わり」

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-16

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 柿・一
  2. 林檎・一
  3. 林檎・二
  4. 甘橙
  5. 柿・二