武器を我が手に

「僕と一緒に上を目指してみませんか?」
そう話しかけてきたのは、一つ年下で管理職候補と目されている、優しそうな顔つきで小太りの同僚だった。彼とは仕事で同じプロジェクトに携わっており、総合管理職を目指すデスク・ワークの彼に、現場に関することで色々と助言するなどして親しくなってきたという経緯があり、あくまで仕事上の付き合いに限ってのことではあるのだが、友好的な関係を築いてきたと言えるだろう。
この電子部品メーカーでの、不良率や材料費の低減等、コスト削減のための改善活動を進めるにあたって現場からのフィード・バックといったものは必要不可欠なものであり、現場の作業者とオフィス・スタッフが協調して仕事を進めることが何よりも大切なのである。だが大抵の場合、現場の作業者たちはスタッフの連中に対して劣等感か、あるいはそれに近い気後れに似た感情を抱いている場合がひじょうに多く、比較的学歴の高いスタッフ連中はそうした者たちからの協力を得られないというパターンが多い。また、スタッフ連中にも現場の作業者を軽んじている者が多く、そうした職場での空気を考えると、現場とデスクとの連携作業といったものは困難であると言えた。
だが彼と私の場合はそうした例には入らなかった。彼はごく早くから私の仕事への取り組み方、というよりは問題点への着眼方に注目してきたようで、今回一般の作業者からスタッフにならないかとの誘いを彼から受けたのである。本来ならば喜んで引き受けるべき仕事なのだろう。それは出世への道のりを歩み出すことを意味するからだ。
この仕事では、たとえ管理職クラスにまでなったとしてもそれほどの高給は期待できないのかもしれないが、一般作業者を続け、フリッツ・ラングの映画に出てくる地下労働者のように、単純作業の繰り返しを続けて一生を終えることを思えば、遥かにやりがいのある仕事になることは間違い無いだろう。
もしかしたら自惚れなのかもしれないが、彼は私のことをいくらか好いているようでもあり、それまでにも年長者である私を、仕事以外の面でも引き立ててくれていたように感じられた。勿論今回行なってきたプロジェクトが効果となって表れ、我々の目論見が外れていなかったということを数字の上で確認できたからこそ、今回の申し出をしてきたのだと思う。我々が共に行なってきた手法が間違ってはいなかったということを、取締役連中に証明することができたのだ。
彼からの誘いは、いずれ自分の片腕になって欲しいという意味合いにもとれるものだが、年下の男にそう言われたからといって、そのような細事に劣等感を抱くほど私も若くはない。しかし彼に「僕と一緒に上を目指してみませんか?」と声をかけられたとき、私は咄嗟に「上じゃなくて下じゃないのか?」と皮肉めいた答え方をしてしまったのだ。
決してその小男のことが嫌いだったわけではない。むしろ好きな部類に入るくらいなのだが、自分にそう答えさせたのは、学歴の無さからくる劣等感からなのか、あるいは仕事自体に対する不満からなのかと、後になり独りであれこれと理由を考えてみた。
 勿論、今までだってこの仕事を楽しんでやってきたわけではない。仕事は仕事なのだ。遊びではないし、楽しんでやる必要など無いのだ。疑問に思うようなことがあっても、気にせず続けなければならない。なぜならば、これは仕事だからだ。いくら熱中することができなくとも、これは私にとっては食べてゆくための手段であり、世間体を維持するための大切な看板だからだ。
新人の頃は仕事の中に生き甲斐を発見しようと躍起になり、出世することが自分の目的なのだと自分自身に思い込ませるよう努力した。社長の訓示に真剣に耳を傾け、自社株を購入し、株価の上下に一喜一憂して日本経済を真剣に考えているふりをした。ハゲで嫌味な上司の長話にも耐えたし、恐ろしく口の臭い先輩とのやりとりにも耐えてきた。それにもかかわらず、努力の割になかなかやり甲斐の出てこない仕事を憂いて酒に逃避したことも数多くあった。
「結局人間自分にできることをやるしかないのだ。大工仕事が好きな奴は大工になればよいし、絵を描くことが何よりも好きな奴は画家になればよいのだ。そこから利益が生まれるかどうかは、また別問題なのだ。利益を第一に考えるのであれば、行為にこだわってはいけないのだ」
若かった頃酒に酔いながら、何度も何度も自分に言って聞かせた。
しかし、それらは既に過去のものであった。今に至ってはそうした感情を抱くこともなく、ただ黙々と、金銭のためだけに、毎日毎日同じことを繰り返しているだけであった。ただ黙々と同じことを繰り返すのである。恐らくは定年まで。
今ではこの状況もさほど息苦しいものだとは思っていなかった。楽なものである。死ぬまでこれを繰り返しているだけでよいのだ。疑問に感じることもなく、ただこの行為を繰り返していれば、やがて死がおとずれるのだ。なんの問題も無い。自分の人生の終着点まで、何も考えることなく楽に歩むことができるのだ。
ああ、俺はなんて幸せ者なんだろう!
まあ、早い話が飼い馴らされたのである。気に入るも入らないもないのだ。自分が生きてゆくためには、この会社で自分の労働力の切り売りを続けてゆかなければならないのだ。この、米粒ほどの大きさの電子部品を製造する会社のために。
自分や会社の行いが正しいかどうかは、また別問題なのだ。いくらそれが環境破壊につながろうとも、そのような細事は我々資本主義の社会に生き残ろうとする者にとっては知ったことではないのだ。自分と会社が、生き残るためには。
この会社の存在理由を謳った文句の中に、誰のため、なんのためにこの会社は存在しているのかといった文句がある。
一つは文明の更なる発展のため、一つはユーザーのため、一つは株主のため、一つは我々従業員のため、そして最後には地球のため、とある。
悪い冗談だ。文明、ユーザー、株主、従業員、いずれも分かる。その通りであろう。しかし、地球のためというのは誰が聞いても嘘臭い。いや、嘘臭いのではなく、嘘だ。電子部品の製造や、自動車関連、また文明の名のもとに築き上げられてきたどのような企業も、地球のためを想うのなら存在するべきではないのだ。
 子供のようなことを言うな、と笑われそうだが、真実なのだから仕方がない。人類の発展のある段階で必要とされただけであって普遍的なものではないのだし、この会社で製造しているような製品が人類の生存になくてはならない物だとはとても思えない。携帯電話やハイヴィジョン・テレビなどは一過性の物であって、常に必要とされるような代物ではないのだ。
新たな需要を獲得するためにメディアを利用し、なんでもありの世の中になってしまったが、その結果、メディアから垂れ流された害毒は人間たちの脳を侵し、人間が生活する上での基準は大きく様変わりしてしまった。総ての人間は、一旦丸裸になって原点に立ち返るべき時がやってきたのかもしれない。
「どこか可笑しくないか?」
いまや、なんでもかんでもデジタル、デジタル、デジタル……。
当然のことながら世界の原油量には限りがあり、いつかは底をつくものだということは皆理解していることだとは思うのだが、本当に理解しているのだろうか?いくら使用量を控えてみたところでいずれは底をつくのだ。このような状況に陥っているにもかかわらず、クリアな画面でスポーツ番組を観ることがそれほど重要なのだろうか?このような状況にあるにもかかわらず、携帯電話で音楽をダウン・ロードすることがそれほど重要なのだろうか?
 思えばこの仕事に就いて、はや十年となる。その間、様々なことがあったと、自分では思っていた。が、いま思い返してみると他人に語って聞かせるようなことなど何一つないということに思い当たった。単体でみるならば、それ自体なんの価値も持たない電子部品の製造である。他人に聞かせるようなドラマチックな話など出て来ようはずもない。そして改めて考えてみて気づいたのだが、一度として仕事に誇りを持ったことなど無いということ。
では何故こんな仕事を続けているのか?これを続けていれば、新しいことを始めることを思えば遥かに楽だからだ。つまり、見て見ぬふりさえ続けることができるのなら、このまま平穏無事に人生を消化することができるからだ。
今まで自分に一歩踏み出す勇気が無いのを、何かと理由をつけ自己弁護してきたことも自分自身よく分かっていた。果たしてこのまま自分自身に言い訳をし続けてよいものなのか?この腐りきったシステムの中でしか自分は生きてゆくことができないのか?
だいたい資本主義経済がなんなんだ?需要と供給のバランスなんていうが、いったいどこから新たな需要なんてものが湧いて出るんだ?あのような電子部品を必要とする、娯楽のための商品が、今の世の中にこれ以上必要なのだろうか?だいたい、自分のやっている仕事がこの地球上で、いま本当に必要とされているものなのか?
そうじゃない。必要となるように世の権力者たちが世の中を創りあげているだけなのだ。兵器メーカーがこの世に存在し続ける限り、この世から戦争がなくなることはない。兵器の輸出を続けている国々は戦争が起こるよう煽りたて、自国の兵器産業を潤わせるよう仕向けなければならない。電子産業だって同じことだ。自社の製品を売るためならば、子供たちの脳がどうなろうと知ったことではないのだ。一日中、ゲームやパソコンの画面にかじりついている、操り人形のような子供たちがこれからどれくらい育とうが知ったことではないのだ。ゲームと現実の区別がつかなくなった、若年の異常犯罪者がどれくらい出現しようとも知ったことではないのだ。
そのようにして、文化と伝統を伐採しながら新たな需要を開拓してきたわけだが、自分たちで築き上げたこのアスファルトの国を見直して、緑が少なくなっただの、昔の子供たちはよく外で遊んだものだだの、自然破壊に加担してきたことは都合よく忘れ去り、己のプラスの面ばかりを他人に強調して聞かせる。
「この国を創りあげたのは、我々だ!だが、これほどまでに自然を破壊したのは、一体どこのどいつだ?」
一度吐いた嘘は最期まで吐き通さなければならない。
コンクリートと金属とプラスティックで覆いを被せ、残りは汚染された海と砂漠だ。ここに至ってこれ以上発展する必要などどこにあるというのだ。あと五十年で世界の人口は百億を超えると言われている。一体、食料は何処から持ってくるつもりなのだ?国民の生活水準だって、徐々にペース・ダウンさせていかなければならないはずなのに、次から次へと新機能付きの携帯電話なんか発売して一体なにになるというのだ。
この世は急速に終局に向かいつつある。いまこの国の国民に必要なのは、文明に頼らずに生きてゆく方法を学ぶことであり、過去の生活習慣への回帰ではないのか?

…と、いった内容の無いような話を、近所の汚いラーメン屋で、小学校の頃からの親友とビールを飲みながら二人で語り合った。というよりは、愚痴をこぼしていた。友人ともども幼い頃より学業に対して否定的であり、したがってきちんとした知識を備えている人間と討論になった場合は、まず勝ち目が無い。だからこうした事柄に関するお喋りは二人だけの時に限られているのだが、知識が無いなりにもこうしたことを語り合うのは楽しかった。いや、知識が無いからこそ楽しいのかもしれない。
「そんなに深く考えることなんかねえさ。酒と女が人生さ」
私の友人は酔いながらそう言っていたのだが、この矢部という名の私の友人、私よりも遥かに政治経済に疎い。恐らくロシアの最高指導者は未だに書記長だと思っているのだろうし、ベルリンの壁も未だに存在する物と思っているのかもしれない。だが、資本主義と共産主義の違いもろくろく説明できないくせに、こうしたことを語り合うのは大好きなのである。私同様、物事をあまり深く考えるようなことはしないのだが、運送業を営んでいるせいであろう、さすがに軽油の価格の上下には、私などより遥かに敏感だ。
「自由とかなんとかたいそうなこと言ったってさ、結局は金儲けが目的ってことさ」
「おい、ちょっと声がでかくねえか?」
この矢部という名の友人、私同様酒好きなところはまことに喜ばしいのだが、周りの目を意識しないとでも言うのだろうか、酔いだすと声もやたらと大きくなるのだ。
「だってそうじゃねえか。子供に勉強しろ勉強しろってうるさく言うけどよ、結局は金儲けのためだろ?」
「そうばかりじゃないさ。知識が増えれば自然と視野も拡がるものさ。…多分な」
「いやそうじゃねえよ。俺が言ってるのは世の教育ママって呼ばれてる女どものことさ」
 どうやらこの男、教育熱心な母親たちに個人的な恨みがあるらしい。
「奴らが子供に勉強させるのは、結局一流企業に入れるためとかなんとか、そんなんばっかだろ?結局金のためじゃねえか」
「そうだな」
私は適当に相槌を打って、奴のグラスにビールを注ぎ足してやった。
 生ビールを中ジョッキでそれぞれ二杯ずつ飲んでから、瓶ビールを飲み始めて既に四本目であった。普通日の真っ昼間からこんなことをしていると、ご大層な身分だなどと思われるかもしれないが、お互いに夜は仕事なのだ。私は前述の工場で夜勤のシフトであり、トラックの運転手をやっているこの友人は、夜になれば新潟までとばなければならないらしい。睡眠時間を削ってまで飲む時間を作るなどというのは愚かなことかもしれないが、夜ならともかく、昼のこの時間帯に寝て下さいと指定されて素直に眠れる人間ばかりではないのだ。
「結局人間なんて欲の塊りさ」
「ああ、俺もお前も含めてな」
私はそう言い返しながら、瓶に残っていたビールを自分のグラスへと注ぎ終えた。
「自由、自由、自由じゃあなくてさ、ある程度は国が管理しなきゃ駄目だと思うぜ」
あいつはそう言い終えると五本目の瓶ビールを注文した。
まずい、そろそろ帰って眠らなければ今夜の仕事に差し支える。このまま飲み続けては、とてもではないが明日の朝までもたないだろう。なんとかしてあいつが討論を打ち切りたくなるような言葉をここらで言うべきだ。
「欲だけが人間を動かすことのできる力なんだよ。ソヴィエトが最終的にどうなったか見てみろよ」
「そんなことは知らんさ」
やはりな。外国名が出てくると奴は途端に話し続ける意欲を失くしてしまうのだ。と言っても、瓶ビールをもう一本追加注文した後である。何か深みにはまらないような話題で奴も興味を持ちそうな話題はなかったろうかと考えた。やはり先ほどの話題の続きしかあるまい。自分さえ興奮しなければ、議論がそう長引くこともないだろう。
「金持ちって聞くと、みんな好い印象を持たないと思うんだが、何故みんな金持ちになりたがるんだろうな?」
相手の答えを分かっていながら質問するのも愚かしいように思えるが、相手も議論の意味合いを理解しているからよいのだ。
「金がありゃあ、なんだってできるからに決まってるじゃねえか。家も女もフェラーリも、なんだって手に入るからな。俺だって金は欲しいさ。欲しいに決まってる、誰だってそうに決まってるじゃねえか」
奴もだいぶ酔いがまわってきたようだ。自分の言ったことの矛盾点にも気がついていない。
「だが、必要以上に持ってたって意味が無いんじゃねえか?もちろん、どのくらいが必要な量なのかは、人によってそれぞれ違うんだろうけどな」
「今は金、金、金の世の中だけどさ、もっと、こう、なんていうかなあ、日本民族の誇りみたいなものを大事にするような世の中になっていかなきゃ駄目だと思うぜ」
 出たな?日本人の誇りか。ずいぶんと抽象的な表現で、はたから聞いていると何が言いたいのかよく分からないような話だが、言いたいことは分かる。ような、気がする。
この男、地球儀でモスクワとワシントンの位置さえ指し示すことができないくせに、大東亜戦争や極東国際軍事裁判のことについては、やたらと詳しいのだ。そして議論をするとなると、二言目には「日本人としての誇りを」と、声高に叫ぶのである。東京裁判での判決を不服とし、東京裁判自体を、白人優越論による日本人への誤った戦争史観と、白人への新たなる劣等感の植え付けであると信じて疑わないのだ。過去の戦争史観を是正する目的を持った書物が最近頻繁に見られるが、私の親友なるこの男もそうした書物を読み漁り、民族の誇りの再生を唱えることが必要と考えているのである。過去にあいつは言っていた。
「旧日本軍が悪のように言われるが、負けたからそう言われるだけじゃないか」と…。
それはそうであろう。歴史は常に、勝者のための歴史であり、勝者が常に正しいのだ。何をしようとも、結果さえよければそれでよしなのだ。毒ガスなどより遥かに殺傷能力の高い非人道的な新型兵器を使おうが、そのような細事は関係無いのだ。
「金よりも大事なものは確かにある、それは日本人としての誇りなのだ。だけど自分は金が欲しい、ってやつか?」と言ってやったら、あいつ怒りだしやがった。
「そんな言い方するんじゃねえよ。金は大事さ。だが、もっと違う部分で忘れてはならない大事なものがあるような気がするって言ってるんだよ、俺は」
「まあいいじゃねえか、そう目くじらたてて怒るなよ」
「怒ってなんかねえよ!」
「そうだとも、お前の言うとおりさ。戦後生まれの俺たちは、生まれた時から白人に対する劣等感を植え付けられているのさ」と、奴を宥める意味で言った。宥める意味とは言っても、私が実際にそう感じていないというわけではない。
品質規格は言うに及ばず、社員の評価制度までアメリカに右へならえの状況には、はっきり言って頭にくる。能力評価制度などと言うが、多民族国家であるアメリカの理屈が、単一民族国家である日本で通用するはずがない。同僚とはいってもそれが異民族であるなら、同僚を出し抜くことにもさほど罪の意識を持たずに済むだろう。だが同一民族の仕事仲間同士ではそう簡単にはいかない。他人を出し抜くことを誇らしげに語るアメリカ人とは違い、足並みを揃えた協調性といったものが、日本人本来の美徳といえるものなのではないだろうか。自分だけよければそれでよいというアメリカ的個人主義ではなく、全体を見通して、全体のために行動し、いざという時には全体のために自己の犠牲さえ顧みないという精神が、日本人古来の美徳なのではないだろうか。
義務を果たさずに権利ばかりを主張して、やたらと裁判を繰り返すような人種ではないのだ。
 街を歩いても、目に入るのは横文字や英語ばかり。こんなことを言っていると年寄りのように思われてしまうが、三十代前半の私でもそう感じるのだ。書店に並ぶ雑誌を見ても、横文字でカタカナやアルファベットの表紙ばかり。今まで当然のことのように思っていたが、考えてみれば不思議なものだ。
テレビから流れてくる歌謡曲にしたってそうだ。AメロBメロと日本語で歌われているのに、サビにさしかかると途端に英語に変わってしまう。英語の本場の西洋人はあれを聴いてどう思うだろうか。
「物真似の得意な黄色い猿たちは、なんでもかんでも西洋人の真似をしたがる」と笑いながら言っている白人たちは、映画制作のネタに困って、日本のアニメーションを元ネタに巨費を投じて映画化する。
「真似をされるのは不愉快極まりないが、我々が日本人の真似をするのは当然の権利なのだ。何故なら、我々は戦勝国なのだから」というアメリカ人たちの声が聞こえてきそうだ。
「アメリカこそ真の侵略国じゃねえか!」
 相棒も、いよいよ本格的に酔っ払ってきたようだ。この頃にもなると、正直私も今夜の仕事のことはそれほど心配しなくなってきていた。
「連中はナチスがユダヤ人を虐殺するのは許さないが、自分たちがインディアンを虐殺するのは、あいつらに言わせれば、きっと正当な行為なんだろうな」と、奴に調子を合わせるつもりで言ってやった。
「おう、そうだとも。その言葉に乾杯だ」
奴はそう言うと、五本目の瓶ビールを残らず双方のグラスに注ぎ終えた。
「一体、誰が歯止めをかけるんだ!」
長身で体格も良く、かなり無理をして好意的に見てやれば、額の生え際ともみあげ辺りが映画俳優のクリント・イーストウッドっぽく見えないこともないためか、あいつはテレビ放映された「ダーティ・ハリー」の吹き替えを担当していた山田康夫の声色を真似てそう言った。
世界最強の軍事力を誇るアメリカは、世界を半ば征服しかけている。そしてアメリカが最強の軍備を誇り続ける限り、アメリカの歴史は、アメリカの行いがどれほど理不尽なものであろうとも「正義の行い」として歴史に記録されるのである。いま世界は着実に崩壊に向かいつつあるが、恐らく世界が崩壊する直前までアメリカは表向き「正義」と「自由」の国であり続けるのだ。北の大国アメリカ合衆国は、正しいままの状態で世界の終焉を迎えることができるのである。
ああ、羨ましい!
そして、彼らの言葉によれば、過去の日本は悪の侵略国家であり続けるのだ。
だが、正直、過去の話はどうだっていい。あいつがこだわるのも分かるが、気持ちはよく理解していながらも口論するのに疲れてしまうことがたまにある。それを証明したからといってどうなるわけでもあるまいに。
「先人の方々が闘ってくれたからこそ、今の平和な日本があるんだ」
あいつはお決まりの言葉を口にした。
「それがどうした?過去の戦争が一体なんだっていうんだ?今、アメリカを叩き潰す必要があるって言ってるんだよ、俺は。あの時がこうだったからアメリカが悪い、あの時こんなことをしたから日本が悪い、そんなことをいくら言ってたって何も始まらんじゃないか。あの頃の話じゃない。今なんとかしなければならないってことさ」
私もかなり酔いがまわってきてようだ。自分の喋っていることがよく理解できなくなってきた。
「所詮、弱肉強食の世の中さ。俺たちにはどうしようもないじゃないか」
奴は諦めきったような口調でそう言った。
「弱肉強食か?それはまさに、アメリカ人たちに都合のいいような言葉だな。俺はその言葉を聞くと、アメリカ人たちの、その侵略行為を美化した言葉のように思えてしょうがないんだよな」
「それなのにあいつらは、日本が悪の侵略者だなんて、笑わせるぜ!」
 あいつの声はますます大きくなり、何人かの客がこちらを振り向いた。
「侵略者に悪も正義もないんだよ」
しかしこのような討論をしつつも私の場合、学校での授業を矢部よりはまともに受けていたせいか、最近のそうした物を読んでも、一体どれが本当の話なのかと疑ってしまうことがよくある。何が真実で、何がまやかしなのかと…。我々はただコントロールされているだけなのだろうか?
日本人に?それともアメリカ人に?
だが、ただ一つ確実に言えることは、どのような人種も、どのような民族も、自分の仲間は大切にしているということである。早い話が「自分は可愛い」のだ。
今の時代、誰も彼もが方向を見失いがちになっているのではないだろうか?そしてこのような時、迷える国民に怒りの対象を与えてやるだけで、その国民は意気揚々と目標に向かって突進していくことができるようになるのではないだろうか?
「大衆は女のようなものだ。支配してくれる者の存在を求めているだけで、自由を与えてもとまどうだけだ」とは、アドルフ・ヒトラーの言葉であるが、彼の言うように、その迷える集団に方向性を与えてやればよいのだ。間違っているかどうかは、結果が証明してくれる。歴史の上では常に、勝つ者が正義なのだ。倫理上、正しいか誤りかといったことはこの際問題ではないのだ。少なくとも今までの歴史を振り返ってみたところでは、そのようにして世界は形成されてきたといえる。権力者は常に、自分に似せて世界を創りあげるのだ。
「完全なる正義というものは、存在しえないのか?」
物事を時事的に捉えてみるならば、それは単なる綺麗事に過ぎなくなるだろう。だが人間としての普遍的な「正義」というものは必ず存在するはずである。妥協の無い、完全なる正義が……。
しかし今の世に於いては、武力による国家間の紛争では、強力な軍備を誇る側が正義と主張することを許され、民間での権利の奪い合いに於いては、より多くの資産を持つ者が正義と主張することを許されるのである。早い話が「世の中は金だ」ということだ。
「なあ、有り余るほどの資産があったって死ぬときは一緒さ」
「金に煩わされることなんかなしに、己の道を突き進みたいよ。俺は」
あいつはそう言うと、帰り支度を始めた。
「チェ」これからが本番だっていうのに。
 
その後家まで帰り着き、二時間の仮眠をとった。出勤は夜の八時であり、終業は朝の八時である。十二時間労働だ。
 私はアルコールの抜け切っていないまま出社し、働いた。作業自体はそれほど複雑な要素はもっていない。習得するまでには時間を要するが、一度覚えてしまえばそれほどの体力を消耗することもなく作業をすることも可能だ。若干退屈に感じられるが、色々なことを考えるにはお誂え向きの仕事なのだ。
 酔いも覚めずに単純作業を繰り返しながら、さきほどのラーメン屋での親友の矢部との会話を思い返していた。そして自分たちが高校生の頃と比べて随分と変わったものだと感じていた。
矢部はともかく、学生時代の私の関心事といえば、ロック・ミュージックくらいのものだったからだ。だが最近では、昔よろこんで聴いていたはずの、アメリカ製のロックさえ聴く気も起こらない。商業的な匂いと、そこからくる矛盾というものを強く感じるようになったからだ。あれだけ贅沢な生活を送っておきながら、ストリートでのアティテュードがどうのなどと語る、それらロック・ミュージシャンたちに矛盾を感じない人間もいないだろう。ロック・ミュージック・ビジネスの体制側に首までどっぷりと浸かっているにもかかわらず、反体制だというようなことを主張したがる輩に頭にきたところでなんの不思議もあるまい。
またそうした音楽に心をときめかせている子供たちも、いずれは自分も成功するミュージシャンになりたいために、ああした、金持ちになってしまった偽反体制派を支持するのだ。もし万が一自分たちが成功した時に、自分が嘘つきだなどと言われないためにも。
金持ちになりたいからか、それとも音楽を演奏したいからなのか、自分がそもそも何を目差していたかといったことも最終的にはどうでもよくなってしまうのだ。 
とにかく、なんでもかんでも、成功、成功、成功。……成功しなければ意味が無いのだ。利用できるものはなんでも利用して、自分が浮き上がることにしか興味が持てなくなってしまうのだ。反体制のシンボルになるはずのロック・ミュージックなど、成功するための一つの方法に過ぎないではないか。
とにかく成功すること!弱い奴が倒れようが、死のうが、そんなことは問題じゃないのだ。とにかく自分が成功して金持ちになること、それだけが一番大事なのだ。
それほどまでして金持ちになって、一体なにをしようというのだ?
最終的には金持ちになって、豪邸で、腹いっぱいになった状態で死ぬのが目標なのか?
贅沢な食い物を腹いっぱい食って、ブタみたいに太りまくって、心臓発作かなんかで死ぬ時に、黄金の棺に入れてもらいたいとでも言うつもりか?
おこぼれを狙っているハイエナどもにちやほやされるのが、そんなに羨ましいのか?
リムジンに乗ってふんぞり返っている、腹の突き出て脂ぎったジジイにそんなに憧れるのか?プール付きの豪邸を手に入れて、そこで一体何をするつもりだ?
泳ぐのか?プールサイドで昼寝でもするのか?自分の財産目当てに近寄ってきた女を正直な女だと思い込もうと努力するのは惨めな行為ではないのか?自分のご機嫌を伺う寄生虫みたいな連中のために毎晩パーティーを開くのは惨めな行為ではないのか?
死ぬときになって、そんなに沢山の土地や豪邸や車を持っているからって、それが一体なんになるというのだ。
大金をかけて誰も振り返らなくなってしまった自分の醜い顔を修正しても、「死」を先延ばしすることなどできないのだ。
棺に入るために着飾って、一体どうしようというのだ。
くだらねえ!
最近では、昔よろこんで観ていたはずのハリウッド映画にさえ嫌悪感を抱くようになってしまった。恋愛問題ごときで涙を流し、この世の終わりとも思えるような悲痛な面持ちで、豪邸のプールサイドで涙を流しながら真剣に悩んでいる。あれだけ立派な家に住んでいるのだから、泣くのではなく笑ってもよさそうなものなのに。
こっちは延べ床面積三十五坪に満たない家を手に入れるため、一生を夜昼逆の生活に捧げて、ローンをなんとか返済し終わった頃に死を迎えることができれば、ばん万歳だというのに。まったく、ビバリー・ヒルズ辺りで苦しんでいるようなふりをするのはやめてもらいたいものだ。画面にグラスかなんか投げつけたくなるぜ、ほんとに。
それでも我々はまだ、遥かに幸せなのだ。僅かばかりの土地さえも手に入れることができない人間は、この地球上に一体どれほどいるだろうか。アメリカ資本の大地主の土地で、僅かばかりの賃金で朝から晩まで働いて、みすぼらしい小屋に寝起きし、外の世界も何も知らずにただ一生を終えてゆく人々がどれほどいるだろうか。
それまではまったく意識の端にも浮かんでこなかった第三世界の状況や、北半球からの搾取に喘いでいる南半球の人々。そうした人々に、我々は一体なにを言えるだろう。
「北半球に生まれることができなくて残念でした」とでも?
「そんなことで頭を悩ませている暇なんか無いね。自分の仕事のことで手一杯なんだよ」
「同情するだけなら誰だってできるじゃないか」
「だからってお前に何ができるってわけでもないだろ?」
「じゃあ、まずお前が手本を見せてくれよ」
「この世を生きていくためには、ある程度残酷にならなきゃ駄目なのさ」
「お前は、共産主義者か?」
「そんなに言うんなら、キューバ辺りに亡命したらいいだろ?」
「口で言うだけならなんとでも言えるのさ」
「いるんだよなあ、そうやって正義を振りかざして、結局何もやらない奴って」
「結婚して子供をもってみろよ。そんなこと言ってる暇なんか無いって」
なるほど、家族を食わすためか。立派な言い訳だ。収入にある程度の余裕ができたら、ヴィトンだロレックスだアルマーニだ。自分の空虚な人生を金ぴかの商品で埋め合わせようとする。
いったい、なにが気に入らないんだよ!
働いて、いい車を買って、結婚して、出世して、老後の生活設計もばっちりさ!死ぬまでの人生計画も既にできあがっているのだから、心配することなど何もないのさ!
幸せになるための学問、幸せになるための仕事、そして、個々人がそれぞれの幸せを追求した結果が今の世の中なのか?
「じゃあ、お前にいったい何ができるんだ」
確かにそうだ、その通りなのだ。力無き正義をいくら主張してみたところで、そんなものには毛ほどの価値も無い。そんなものよりも一発の弾丸のほうがどれほど効果的かもよく分かっている。だが疑問を持ち続け、しかもそれが間違っていると分かっているにもかかわらず、それを続けるなんてことは、どだい無理な話というものではないだろうか。一度気づいてしまったら、知らなかったでは済まされないのだ。
私は正直に生きたいのだ。自分自身に誠実でありたいだけなのだ。だが自分に正直であろうとすればするほど、世間一般からは遠ざかってしまう。どんどんかけ離れた存在になっていき、気がついたら周りには誰も居なかった、なんてことになりかねない。
案外、精神病院に入れられている連中のほうが、まともな視点で世の中を見ているのかもしれない。
 己の欲を追求することは、すなわち自国を発展させるためになる、という時代は終わったのかもしれない。年収何億といった人物がテレビかなんかに登場して、気取った調子で偉そうなことを喋っているが、そんなものは誇大妄想と大差ない。高級マンションや高級車、モデル出身の奥さんと、なんでも揃っているように周りに見せかけることを、何よりも重要なことだと考えている憐れな男。少年時代は部屋に閉じこもり、パソコンが唯一の友達だったひ弱なこの男を「成功者」として雑誌の表紙に載せたり、テレビで流したりすると、自分の意思を持たず、金銭でしかものを計ることのできない憐れな者たちは、このオタクを新たなる時代のヒーローとして崇拝してしまう。
ビジネスマンが戦士?なよなよしたスーツ野朗がタフな男?お上品な服に納まって、髪や髭や爪の手入れに余念のない、あの貧弱野朗どもが?
夢を追っている?夢ってなんなんだ?成功することか?つまりは金持ちになるってことじゃないのか?  
バカらしい。くだらねえ。もう、うんざりだ!
なんでもかんでもアメリカの真似をすればいいと思ってるバカな取締役連中にもうんざりだ!
問題が起こってからじゃなければ、現場に顔を出しもしない上司にもうんざりだ!
来客を迎える際のスタッフ連中の、平身低頭ぶりを見るのもうんざりだ!
汗をかきながらペコペコしているスタッフを相手に、機嫌の悪そうな顔つきをしながら我が物顔で振舞うアメリカからの来客にもうんざりだ!
仕事は適当にやるくせに、評価ばかりは気になるらしい小物の先輩連中にもうんざりだ!
仕事中に携帯電話をいじくって、終業時間がくるのをひたすら待ちつづけている後輩連中にもうんざりだ!
休憩時間には車と昨夜のバラエティー番組の内容しか話すことがない同僚にもうんざりだ!
このような状況の中、こつこつと働いて、やっと手に入れた休みの日をどうやって過ごす?
洗車か?ビデオ鑑賞か?
冗談じゃない!バカらしい!
中東では十代の少年たちが銃を持って戦っているというのに、この国では出会いを求めて携帯電話にかかりっきりさ。挙句の果てには世の寄生虫から、使用した覚えのないサイトの利用料金を請求されて青い顔していやがる。しかも、怒りを覚えるどころか、金になることが分かれば自ら進んで詐欺師になることも拒まない。同じように詐欺師になることを「いかしている」と思い込み、年寄りやウブな若者から金を巻き上げることを恥とも思わない、あの性根の腐った連中は、誇りや正義感といったものを一体どこに落としてきたのだろう?
現代の日本人は先天的な劣等感に蝕まれている。それは、日本に徴兵制度がないからかもしれない。
遠い昔、まだ両親と一緒に暮らしていた頃、徴兵制度のことで父親と口論になった際、父親は真面目な顔つきでこう言っていた。
「徴兵制の無い日本という国に生まれたことを誇りに思わなければならない」と。
だから私はこう言い返した。
「俺は生まれてから今まで、自分に軍歴の無いことを誇りに思ったことは、ただの一瞬もないね」と。誇りに思う?何を?
最近の若年層による犯罪は凶悪化の一途を辿っている。これはもしかしたら、日本に徴兵制が無いせいかもしれないと思うことがよくある。若者から武器を取り上げてしまったため、その溢れる、有り余っている力を発散する場所を求めて苛立っているのかもしれない。勿論、徴兵がその若者たちに過酷な試練を要求することも分かっている。そして戦争でも勃発すれば、あるいはアメリカが日本からの支援を要求すれば、中東辺りに飛んで行き、地雷で片脚がなくなったり、銃弾に倒れたりする可能性だってある。
それを思うと平和なこの国に生まれてよかったと、心から思う。……本当か?
道徳上だの倫理上だの、そうした理屈の上ではなく、人間、特に男は生理上、争いを求める生き物なのではないのだろうか?戦いを求めているのではないのだろうか?
先を考えずに思いつきで殺人を犯すあの憐れな連中が、もし強制的に軍務に就くことがあったらどうなるだろうか?自分より力の弱い者しか襲うことのできないあの憐れな連中が、もし軍隊に放り込まれたら少しはまともになるだろうか?
日本が犯罪大国となってしまったのは、戦後日本がアメリカをお手本として歩んできたためであり、自由という名の「我がまま」を追い求めてきた結果なのかもしれない。
アメリカが我々から戦う権利を奪い取ってしまったからかもしれない。
武器を我が手に……。
いま、我々に必要な物は、最新機能付きの携帯電話などではなく、AK‐47なのだ!
日本人の誇り?そんなものあるか?
アホらしくて、やってられないね。
もしも、これをこのまま続けていくようなら自分自身を騙し続けることになる。
死ぬ直前になって、いったい何を考える?大きな冒険もなかったけど安全で良い人生でした。おかげ様で死ぬまで無事に過ごすことができましたってか?
仕事中いろいろと考えていた時、十年ほど昔に亡くなってしまった祖母を見舞いに訪ねて病院へ行った時のことを不意に思い出した。あのとき隣のベッドの老人が、恐らく嫁であろうと思われる人物にうわごとを繰り返していた。あれが人間らしい幸福な最期と言えるのだろうか?あれを迎えるために誰もが健康を気遣い、長生きしようと努力するのだろうか?
果たして今の自分に、これこそは真実だと胸を張って断言できるような言葉があるだろうか?
果たして今の自分に、正義を説明できるだろうか?
果たして今の自分に、己の命を賭してまで守らなければならない思想があるだろうか?

誰もが盲目になり、誰もが唖になるのだ。

色々と考えた結果、翌日の退社時、私は上司にこう言い放った。
「私はこの仕事について何一つ確信を持って断言できるようなものは持ち合わせていません。何故なら、何一つとして本気で取り組んでいるわけではないのですから。私はこの、利用目的の全く分からない電子部品を製造することに誇りを持ったことなど一度としてありません。だから辞めます。今日限りで」
 今の想いは、ただ一つ。
 武器を我が手に……。

 そして翌日、女房の手により深い眠りから揺り起こされた私は、会社へと赴き、直属の上司にこう申し出た。
「へへへ……、すみません。なんせ昨日は二日酔いがひどかったもので……。それで……、あのう……ほんとに訊きづらい質問なんですが……、私をスタッフにしてくれるとかっていうあの話は、まだいきているんでしょうか?」

                                ―了―        

武器を我が手に

武器を我が手に

  • 小説
  • 短編
  • コメディ
  • 成人向け
  • 強い反社会的表現
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2012-04-19

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