雨夜の衒学少女

とても短いので時間があまりない方の微弱な暇つぶしに。

視界が塞がっていて、前方をはっきりと捉えることができない。
継続的に打ち付けてくるそれに抗えない彼は、必死に目を開けようとする。
しかし、水が積もった瞼は自身の重さに耐えられず、滑り落ちては少し跳ね上がる。
起伏を何度も繰り返す。
それは、地球がただ太陽にエネルギーをぶつけられているように、一方的で拘束的なものなのだ。仕方がないといえば仕方がない。
顔に浮かんだ水滴を定期的に拭い落とす。
そんな彼の前方に突如、荘厳な雰囲気の影が姿を現す。
神社のようだ。
こんなところに神社なんてあったのだろうか。
彼は他に成す術もなく、鳥居を目指して階段を上る。
いつもより重たい足を持ち上げるだけでも、今の彼にとっては重労働である。
しかし、彼は灯に飛び込んでいくしかない蛾のように一歩一歩食らいつく。
時間感覚は正常に働いておらず、到達するまでに時間が経過したのか、逆流したのか、全く見当がつかない。
それでも、いつの間にやら彼は到着していた。
本堂の屋根の下にでも居座ろうと思っていたのだが、傘を被っただけの東屋が目に留まったのでそちらへ向かった。
不思議と鼻先がその領域に触れた時、此処は普通とは違う場所だという直観がした。侵入した今もその感覚はほんのりと残っている。

この屋根の下では、降り続けていたそれがぴたりと彼へ攻撃を止めた。
改めて顔を拭い、今しがた取り戻した視力によって、外の景色に目をやる。
ここ以外では、やはりそれは依然として継続していた。
一時的に与えられた執行猶予に過ぎない。
それでも彼は一旦落ち着こう、と思った。
湿った空気を体内に取り組み、肺を満たし、内部に溜まった灰汁を息と共にゆっくりと吐き捨てる。
この場所では空っぽの空間が暇を弄んでいたが、何故か中央に水溜りが出来ていた。
歩みを進め、そっと覗き込む。
・・・。
彼はいきなり後ずさり、尻餅をつきそうになった。
彼を驚かせたのは、そこに映る「雨龍」だ。
その目は爛々と輝き、その牙は刀のように鋭かった、人間の柔な体なんかだと触れただけで身は自発的に引き裂けてしまうだろう。
天井に描かれた文様が水面に反射していたようだ。
それが実体のないものだとわかっていても、こちらを見透かしているようで、決して甘える隙を彼に与えなかった。
「心配しなくても彼はあなたを食べちゃおうなんて思ってないわ。ただあなたという人間の価値を測っているのよ。」
彼が振り向くと着物を着た一人の少女が立っていた。
口調は大人びているが、ここの神社の娘のようだ。
彼は子供に気遣われていることを恥じながらも、感謝の気持ちをつげた。
「そうだったのか、どうもありがとう。少しここにいさせてもらっていいかな?」
彼女は首を縦に振った。
彼は静かに外を眺めながら娘の言った人間を測るということについて少し考えていた。セブンスターを彼は好んで喫んでいた。
人間とは、そもそも多大なファクタから成立している。
同じ人間でも多角的な観点から見ることができるし、その見方によって形相を変える。
だから、道徳的な意味も踏まえ、通常、人間は測量不能だと言われている。
しかし、例えば、知能、脚力、肺活量などすべてを相対的な数字化をして合計点を出せば、人間のランク付けも可能なのではないか。
人間の価値を測ることが可能なのではないか。
いや、それでも人間は人間以上かつ人間以下なのだ。
暫らくして、虚構の安心を得ていた心が騒めき出した。
喉が縮み、呼吸が苦しくなる。彼の頭が垂れようとしていた。
すると、娘の声が耳まで流れてきた。
「あなたは何に怯えているの?こんなところまで逃げ込んできちゃって。」
彼女は微笑んでいた。
「いや、そういう訳じゃないんだ。雨が強かったから、雨宿りができないかなって思・・・」
そう言いかけた彼の言葉を遮るように、不意に飛んできた彼女の科白は、神が放った光矢の如く心臓を貫く。
「あらやだ、雨は降っていませんよ。」
彼は双眸を見開く。
そんなばかな。
あの憂鬱感、倦怠感、恐怖感、圧迫感は何だったんだ。
今の今までのしかかっていたんだ。
彼は、わなわな震えている。
じゃあ、僕はいったい何から逃げてるんだ。
「ところで雨はお好きですか?」
そんな彼を余所に的外れな質問を彼女は問いかける。
「い、いや、あんまり好きじゃないなあ。なんか落ち着かなくて、むかむかして耐えられなくなる。」
「そう。では、そこの雨龍の紋の意味をご存知ですか。あなたのように、現代は雨が嫌いな方が多いようですが、昔は違いました。雨が降らなければ、農作物が育たない。それが生き死にを分けていたのです。龍は嵐を呼ぶと言われていて、そこには雨乞いの祈りが含まれています。嫌うどころか万々歳です。」
娘の一直線に切った前髪が、風に揺られている。
「信仰してみたり、嫌ってみたり、人間は気まぐれな生き物だね。」
彼は動揺を胸に抑え、彼女の話に専念することにした。
「ふふ、そうですね。けど、仕方ありませよ。もともと人間は勝手な生き物ですもの。」
彼女の声は至極落ち着いていて、そこに微かなぬくもりを感じつつあった。
緊張で縛り付けられていた何かが暖かなそれによって緩み、解かれていく。
彼は思わず胸に抱く疑問を漏らしていた。
「僕はいったい何から逃げているんだろう」
彼女はこちらに歩みを進め、瞳を覗き込む。
彼女の瞳はビー玉のように丸く透き通っていた。
しかし、そこに映る彼は黒く淀んでいた。
「さあ、わかりません。一つかもしれないし、複数かもしれない。はたまた、実体があるかもしれないし、ないのかもしれない。それはきっとあなたにしか。いえ、あるいはあなた自身ですらわからないことなのかもしれませんね。」
彼女は天井の角辺りを指差した。
「あそこに蜘蛛の巣が見えますが、蜘蛛はお好きですか?」
新たに、同じような質問が追加された。
「いや、気味が悪いし、どちらかというと嫌いかな。」
彼は少しはぐらかされたような気がしたが、彼女の歩調に合わせる。
「そうですか。それでは、“朝蜘蛛は来客の前兆”って言葉を知っていますか。蜘蛛の巣は日本書紀にもありますが、愛する人を呼び寄せるとされています。今の言葉もそういった意味です。彼らを嫌っちゃうと勿体無いですよ。彼らも幸福をあなたに届け得る存在なのですから。」
彼は素直にこの娘の話に感心していた。
人の声が身体の深くまで通る事はここ最近無かったことだ。
「じゃあ、どうして今の人たちはこんな類の事を忘れてしまったのだろう?」
「簡単な事です。彼らと協力する必要が無くなったからです。人間の合理的思想は信仰、虚構、迷信を排除し、科学、人間至上主義を迎合したのです。力はそれほどまでに強力になり、不確かな事は葬るようにしたのです」
じゃあ、それほどまでに進化した人間が、僕が、どうしてこんな得体のしれないものに蝕まれているのだ。
両手を広げくるくると無機質に人間たちが重なり合い歯車のように回り続ける姿が彼の脳裏に浮かんだ。
その中に彼のような顔をした者も確かにいた。
「僕はきっと人間であることに疲れたんだと思う。」
「はい。そうかもしれませんね。」
「幸せを謳った人間社会は、実は味気ない機械でしかない。」
「私には未だわかりませんわ。」
「だが、残念ながら人間はやはり生き物だ。耐えられるはずがない。」
「一日中薪を割って過ごした時、頭がぼうっとして、観音様が見えてしまいましたわ。そんな感じかしら。」
「何人も脱落者を見てきた。我慢比べなんだ。」
「私お風呂なら何時まででも入っていられるわ。本当よ。」
「だから僕は人間社会とオサラバしてきた。」
「彼らがあなたを捨てたとも言えるわね。」
「僕は革命者だ。」
「あなたは残虐な犯罪者ね。」
「君も僕は助けなければならない。」
彼は少女の喉を最大の力で握り締めた。
絞めた。
これで君も自由になった。
救われるんだ。

次の瞬間、事は一瞬だった。
文様中の体長10メートル程の青い雨龍が身を壁から抜けだし、一口目で彼の首を攫い、二口目で胴の半分と右腕を、三口目には彼の左足しか残さなかった。
雨龍の咆哮が世界を揺さぶる。
叫び声と共に飛び散る雫は雨龍が流す涙。
「もう大丈夫よ。彼もあなたの為に泣いてくれているわ。問答ではあなたは不合格。だけど、誰も悪いなんて言っちゃいない。あなたはあなたなりに必死に戦った。ええ。分かっているわ。だから、今はお休みなさい。哀れなあなた。」
彼女は彼の残った部位を強く抱きしめた。もう二度と彼が苦しまないために。

 彼女の着物に刻まれた文様は鶯。「春告げ鳥」「春見鳥」「歌詠鳥」の異名を持つ。ご存知の通り、幸福を呼ぶと言われている。

雨夜の衒学少女

十代の頃に少し小説を書いてみたくなって書いてみたお話。人間社会の息苦しい閉塞感とそれに耐え兼ね破裂した狂気を感じていただけたなら幸いです。
他のサイトでも投稿してます。

雨夜の衒学少女

ちょっとした不思議な短い話。淀んだ彼と澄んだ少女の談話。

  • 小説
  • 掌編
  • ミステリー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-16

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