最愛Ⅱ

慈温

弟が十七歳で死んだ。彼が今まさに死にゆかんとしている時、

 弟が十七歳で死んだ。彼が今まさに死にゆかんとしている時、僕は大学の友人達との飲み会で朝までばか騒ぎをし、べろべろに酔っ払い、いつもそうしているようにひとり暮らしの友人のアパートに数人でなだれ込み、正午まで眠っていた。それからおよそ三か月ほど、僕は弟の死を知らずに過ごした。僕達は、もう何年も離れて暮らしていた。

 僕と弟は、海辺のちっぽけな町で生まれた。父親は、勤めていた地元の水産加工工場が倒産すると、職を求めて上京し、そのまま姿を消した。文字通り、蒸発だった。当然、仕送りなど来るはずがなく、母親は幼い僕と、生まれつき障害をもった弟を抱えて、昼も夜も働かなくてはならなかった。母の兄である伯父は、いつも僕達に同情的で、何かと面倒を見てくれた。だが、昼間はパートへ行き、夜はほとんど寝ずに内職をしていた母の精神状態は限界にきていた。
 ある日、台所に立った母は、包丁を取り出してごく自然に自分の手首を切った。傷が浅く、一命はとりとめたものの、退院して一週間も経たないうちに、今度は睡眠薬を多量に服んだ。致死量に満たなかったので、また助かった。その後も母の自殺未遂は続き、とうとう精神病棟に入院することになった。その時、僕と弟は伯父の家に引き取られた。

 弟は生まれつき知恵遅れで、足も不自由で松葉杖なしでは歩けなかった。成長とともに足は悪化し、十歳になった頃から車椅子を使うようになった。
 そんな障害を抱えて生まれてきたからだろうか。弟は、それは無邪気な顔で笑った。絵を描くことが大好きで、白紙であれば、新聞の広告チラシの裏にでも何か描いていた。彼にとって、生まれ育った町は無限の可能性を秘めた宇宙であり、海辺の砂粒ひとつひとつが宝石のかけらだった。僕は、家庭の事情など何も分かっていない弟が羨ましかった。僕は、一日も早くおとなになって、ふるさとから出て行きたくてたまらなかった。
 母は半年ほどの入院生活を送り、退院した。だが完治したわけではなかった。弟の車椅子を押して散歩に出かけた母は、赤信号の横断歩道に車椅子ごと飛び出した。もし、大型トラックが猛スピードで通りかかったら、二人とも死んでいただろう。だが母はスピードとはおよそ無縁の、赤ん坊を乗せた軽自動車の前に飛び出したのだ。おかげで二人ともかすり傷程度ですんだ。中学生だった僕は、母の自殺はもうほとんど趣味だと諦めていたが、この時は激しく母を憎んだ。何の罪もない、体の弱い弟を巻き込んだことが許せなかった。母はいつも疲れ果てた顔で自らを殺そうとしてきたが、決してとどめはささなかった。手首を切っても、睡眠薬を服んでも、道路に飛び出しても、必ず母は助かった。僕には、それは周囲の同情を買おうとする母の、自己満足のお芝居のように思えたのだった。母は実際、いつも不平不満を漏らして嘆いていた。なぜ自分だけこんな目に遭うのだと。時にはヒステリックに泣き叫び、僕と弟に向かって、お前達なんて生まなければよかったとさえ言った。だから僕は、伯父や他の親戚達ほどには、母に同情はできなかった。
 弟を連れて心中しようとした母は再び入院した。僕は伯父に頼み込んで、東京の、寮のある高校へ進学を決めた。伯父は何も言わずうなずいてくれた。弟は地元の養護施設へ入ることになった。

 ある晩、僕が講義とアルバイトを終えてアパートへ戻ると、封書が一通、届いていた。弟が暮らす養護施設からだった。達筆だが簡略な文書で、弟が死んだこと、遺骨および遺品を取りに来てほしいことが綴られてあった。僕は、意味がよく呑み込めず、三回ほど立て続けに読み返した。隣人宛ての手紙が間違って僕のところへ届いたのかと思ったが、宛名は間違いなく僕だったし、弟の名前もちゃんと書いてあった。僕はしばらくぽかんと宙を見つめ、それからあっと声を上げた。弟が死んだのだ。慌てて携帯を取り出し、はっとして腕時計を見た。もう日付が変わろうとする時間だった。僕は携帯をしまい、その夜は寝ることにして万年床に横たわった。だが、さすがに眠れなかった。弟が死んだ。母には伝わっているのだろうか? 遺骨ということは、遺体はすでに火葬されているということだろう。お墓は? お葬式はどうする? 遺品とはいったい何だろう? さまざまなことが頭をよぎった。
 明け方に少しまどろんだだけで、熟睡できないまま朝を迎え、八時になるのを待って施設へ電話をかけた。出てきた人に、遺骨の引き取りは母の実家のほうへ知らせてほしいと言うと、とっくに知らせたが引き取りを拒否されたと返ってきた。僕は納得し、すぐそちらへ向かいますと言って電話を切った。母の実家が、弟の葬儀まで面倒を見きれないというのは当然のことだった。殊に、僕達に親切だった伯父が他界した今でも、母の入院費を払ってくれているのだから、これ以上のことを頼めるわけがないのだった。
 僕は高校入学と同時に上京して以来、五年間、一度もふるさとへ帰っていなかった。本当ならば二度と帰りたくないと思っていたのだが、今回ばかりは帰らないわけにはいかなかった。急いで身支度を済ませて、僕は上野駅から下りの電車に乗った。昨夜はほとんど寝ていなかったから、僕は腰を下ろすとすぐに眠ってしまった。
 電車がカーブにさしかかって大きく揺れ、窓ガラスに頭をぶつけて目が覚めた。ずいぶん長いこと眠り込んでしまったようだった。窓の外には真冬の太平洋が拡がっていた。今日は天気もよく、風もないようで、海は穏やかに凪いでいるように見えた。海が見えるということは、降りる駅までもうすぐだ。僕はにわかに落ち着かない気持ちになった。行きたくなかった。骨だけになって小さな壺に詰め込まれた弟に逢うのが恐かった。浜辺では、小学生くらいの男の子数人が犬の散歩をしていた。その時、唐突に、弟が以前くれたはがきを思い出した。僕が高校生だった頃、弟は年に二、三回ほど寮へはがきを送ってくれた。手製の絵はがきだったこともあった。文面はいつも同じで、「おにいちゃん、おげんきですか。ぼくもげんきです。あのおんなの子はきょうもうみにきています」と書かれているのだった。
 そのはがきは、弟がとりあえず元気で、変わりなく暮らしていることを僕に報せるための定期便だった。だが僕は返事を出さなかった。一字一句変わることのない文面や繊細なタッチで描かれた水彩画は、僕にとって、どんな重石よりもつらい鎖だった。僕は、ふるさとや、過去のいっさいを捨て去り、自分だけの人生を送るために東京へ出てきた。弟のはがきは、その僕に忌まわしいとさえ言える過去を甦らせるのだ。ふるさとが僕を決して忘れてはいないことや、施設で暮らす弟や精神病棟で暮らす母や東京のどこかへ消えた父が、間違いなく自分と同じ血の流れている人間であることを思い知らされるのだった。だから高校を卒業し、寮も出ることになった時、僕は引っ越し先を親戚の誰にも知らせなかった。そうすれば、弟の便りが僕のもとに届くこともなくなるだろうと思ったからだった。大学の入学金を出してくれた伯父にさえ、僕は居場所を教えなかった。本当なら、呑気に大学など通える身分ではなかったのだが、高校の級友のほとんどが進学してくのを見て、僕はどうしても大学へ行きたくなった。いよいよ受験勉強も佳境に入った一月のある日、僕は久しぶりに伯父の家を訪れ、伯父と伯母に頭を下げた。伯母は気色ばんで、
「うちにはもう、あんた達にあげるお金なんてないわよ」
 と金切り声を上げて僕に台布巾を投げつけた。伯父は、そんな伯母を宥め、
「この子は何も悪くないんだ。大学へ行きたいと思うのは当然だろう」
 と言ってくれた。僕は伯父から貰った、紙幣の入った封筒を持って、優しい伯父から逃げ出した。それから一年後、伯父は脳溢血でこの世を去ったのだった。最期まで、僕や弟のことを気にかけてくれていたと、葬儀に参列した親戚から聞いたのは、伯父の四十九日がとっくに過ぎてからだった。僕はおそらく、伯父の家族から、相当な恩知らずと罵られていることだろう。それも当然のことだと思う。

 そんなことを思い出しているうちに、電車はかつて僕のふるさとだった駅に着いた。五年前、初めて東京へ行くために上りのホームに立っていたあの日から、駅舎は時が止まっていたかのように、何もかもあの日のままだった。人気のないホームも、かすかに漂う潮の匂いも、さびれた駅舎そのものも。僕はなるべくまわりを見ないようにして足早に改札口へ向かった。切符を受け取る初老の駅員までが、五年前と変わっていないように見えた。
 駅の前にはバス停とタクシー乗り場があり、その向こうにささやかな商店街が延びている。何年にもわたって潮風になぶられているせいで、この町はいつだってあちこち錆びついているのだった。
 僕はバス停に立ち、時刻表を見た。一時間に二、三本しかないバスは出て行ったばかりで、次に乗るには三十分以上待たなければならなかった。タクシー乗り場につけているタクシーの運転手がちらりと僕を見た。おそらく、バスを待つよりこっちを使うほうが早いよ、とでも言いたいのだろう。だが僕にはタクシーを使う余裕はなかった。三十分だろうと一時間だろうと、バスを待つしかないのだった。僕はタクシーのほうを見ないようにして、バス停脇のベンチに腰を下ろした。

 十分ほど経った時、かすかな足音がした。ひとりの少女がやって来て、僕の横に、もうひとり分が座れる間隔をあけて腰を下ろした。ちらりと見てみたが、背中までのびた、光沢のある黒髪がカーテンのように横顔を隠していたので、顔は見えなかった。黒いピーコートを羽織り、グレーのロングスカートに足元は茶色のローファーで、見るからに女学生といった出で立ちだった。キャンバス地のトートバッグを大事そうに胸に抱えていた。大金でも入っているみたいな持ち方がちょっと気になったものの、だからといって声をかけたりはしなかった。初対面の他人に話しかける習慣がなかったのと、弟のはがきのことを思い出したからだった。
 あの、死んだ弟が送ってよこすはがきの、呪いのように変わらない文面にあった「あのおんなの子」とは、別に弟の恋人でも友達でもない。それどころか、言葉を交わしたこともないだろう。僕も、名前も知らないし、ちゃんと顔を見たこともなかった。
 

弟が施設に入った日は、僕が付き添って送って行った。職員の若い男が建物をひと通り案内してくれた。施設は小高い丘の中腹に建ち、海と町の両方を一望できた。患者のパジャマやシーツや下着などがはためく屋上の物干し場に出た時、その見晴らしのよさを見て、僕は弟のために嬉しくなった。絵の好きな彼にとって、ここは絶好のスケッチの場所となるだろう。案の定、彼は大喜びで、海が見えると言っては笑い、家がたくさん見えると言って笑った。そうしているうちに、いきなり弟は海辺を指さして、
「お兄ちゃん、ひとがいるよ!」
 と叫んだのだった。弟の指さすほうを見てみると、確かに浜辺を誰かが歩いている姿が小さく見えた。長い髪の毛が海風にあおられて、小旗がはためいているようだった。女の子らしかったが、顔の判別はつかなかった。太陽の光に反射してまぶしいほどの水平線と、波打ち際を歩く少女の姿は、絵心とは無縁の僕の目にも、どこかしんと胸を打つ寂しげな光景として映った。弟はいやに心惹かれたように、いつまでも指さして人がいると繰り返していた。僕はその時、弟のここでの暮らしが、彼にとっては必ずしも幸せなものにはならないような気がした。それでも僕はどうしても、このふるさとや家族や幼い頃の自分と決別してしまいたかった。僕はためらいもせず、弟を人生から切り離したのだ。


 ようやくバスがやって来た。乗り込むと、それも以前と変わらない木の床が、スニーカー越しに足の裏をくすぐるようだった。一番後ろの座席に座ると、僕は奥歯をかみしめた。とっくの昔に切り捨てたはずの郷愁が、抑えがたく湧き上がってきた。僕は弟を連れてバスに乗り、よく伯父の家へ行った。目的は、ほとんど金の無心だった。僕が弟を連れて頼みに行けば、僕達一家を快く思っていない伯母でも嫌とは言えないだろう。それが母の考えだった。バスはいつも混み合っていて、弟は松葉杖を上手く使えず振り回すようにしていたから、よく人にぶつけていた。そんな弟を、露骨に非難の目で睨みつける人と、憐みをたたえた目で見る人。乗客の反応はそのどちらかだった。僕はいつも恥ずかしくて下を向いていたが、弟はどこ吹く風で、バスに乗ることが楽しくて仕方ないといった顔で笑っているのだった。できれば思い出したくひと時だが、こうしてあの頃とちっとも変わっていないバスに乗っていると、思い出したくないのに、思い出が勝手に甦ってくるのだった。
 だが、そんな甘っちょろい僕の感傷は、僕の後ろに並んでいた女の子が乗り込んできたことでかき消された。彼女の顔を見た僕は、自分でもいささか呆れるほどがっかりした。髪の毛に隠れた横顔は、少女を実物よりかなり美しく見せていたことが分かったのだ。少女は、真っ黒に日焼けて、コンパスで引いたような丸顔に、眠たげな愚鈍そうな目をして、鼻はあぐらをかき、唇はただ分厚かった。相変わらず、トートバッグを大事そうに抱えている姿は哀れを誘う滑稽なものに見えたが、その目は異常なほどに強い光を放ち、少女の顔は真剣そのものだった。僕は少し興味を引かれて、運転手のすぐ後ろの席に座った少女の背中を盗み見た。後ろ姿だけを見ると、なかなか美人そうに見えるのに。僕は、これまで何人の男がこの後ろ姿に惹かれ、そうして裏切られたのかを想像してひとりで笑った。
 バスがゆっくりと動き出した。
 出発してしまうと、僕の関心はもう少女から逸れた。彼女が美人だったら、もう少し後姿を見ていただろうが、だがもうバスは動き出してしまった。あとは、弟の遺骨が待つ施設へ向かうだけだ。もう姿のない弟と再会することが、僕は心底恐ろしかった。
 バスはゆっくりと人気もまばらな商店街を通り抜け、海岸沿いの車道に出た。沖に命知らずのサーファーが何人かいるのが見えただけで、浜辺に人はいなかった。この町の海は、夏でさえ人気がなかった。なぜなのかよくは知らないが、この海は波が荒く、浅瀬から急に深くなったりするとかで、海水浴向きではないのだった。僕は、子どもの頃、夏なのに泳げないこの海が嫌いだった。海辺の町に住んでいるのに、泳ぐのに電車に乗って隣町まで行かなければならないことが、あまりにも不公平で理不尽なことに思えたのだった。今はもちろん、そうは思っていない。夏でも静かな海は悪くないとさえ思うようになった。僕自身がそう思えるほどにはおとなになったということだろうか。
 出発して最初の停留所で少女が降りた。僕は少し驚いて、お金を指定の料金箱に入れる彼女の背中を見た。駅前からここの海までは、十分歩いていける距離なのに、なぜわざわざ一時間近くも待って、バスに乗ったのか不思議だった。少女がバスを降りると、海風が待っていたように少女の髪を横殴りになびかせた。かすかに潮騒が聞こえてきた。少女は堤防の階段から砂浜へ下りていった。海を散歩するために、わざわざバスに乗ってやって来たのだろうか。
 バスは、少女を降ろすとすぐ発車して速度を上げた。僕は首をねじって、そこから見えるはずのない少女の後ろ姿を探した。バスは海岸から遠ざかって行った。そこから三つめの停留所で僕は降りた。そこから二、三人の地元の人らしい乗客がバスに乗り込んでいった。そこは丘の上り口だった。目指す建物は、もう目の前にあった。
 五年前に、弟を連れて一度来ただけだったので、僕は施設の建物が、記憶の中のそれより小さいことに驚いた。よく手入れされた庭には花壇や桜の木が春の訪れを待っていて、海が見えたことも意外だった。初めて来た日は、海は屋上からでしか見えないと思っていたのだ。
 僕は正面玄関から中に入った。記憶では、そこは学校の父兄や来客用の玄関のようで、大きな段ボール箱に来賓用と刷られてある緑色のスリッパが無造作に積み上げられ、入ってすぐ目につく大きな壁には、百号以上と思える大きな油絵が飾られてあった。絵は富士山と海を描いたもので、絵は立派なものだが、どこにでもありそうな配置や色使いの、これといって印象の薄い油絵だった。だが、今、僕の目の前に富士山の絵はなくなっていて、代わりにそれよりはるかに小さな絵が所狭しと飾られていた。高価ではなさそうだが、きちんとした額に入れられた水彩画や鉛筆画やクレパス画が、一見、脈絡がないように見えて、実はきちんと計算された配置で飾ってあった。弟の絵だとすぐ分かった。昔から、弟の落書きから、ちゃんと遠近法まで考えて丁寧に描き上げた絵まで見てきたのだ。僕にくれた絵はがきと似たような絵もあった。海と、少女の後ろ姿を描いたものがいちばん多かった。波打ち際を歩く少女の姿や、波間を横たわって漂う少女の絵、どれも長い髪をなびかせ、ノースリーブのワンピースを着ていた。おそらく弟は自分の幻想を、そのまま絵で表現したのだろう。少女の顔を描かなかったのは、見たことがなかったからだろう。その他には、淡い桜色だけを使って描いた花の絵や、この建物を描いたもの、ここに住んでいるのだろう子ども達や、職員達を描いた絵もあった。
 僕は、しばらくそれらの絵に見入ってから、玄関脇にある職員達の詰所へ声をかけた。トレーナーに着古したジーンズを穿き、赤いエプロンを着けた若い女が慌てた様子で出てきて、僕に丁寧に頭を下げ、お悔やみの言葉をくれた。僕はなんと言ったらいいのか分からず、ぎくしゃくとお辞儀を返すだけだった。女は自分のことを「向井です」と言い、すぐに、
「どうぞ、こちらです。遺骨と遺品は、大切に保管してありますから」
 と、先に立って廊下を歩き出した。僕はその後についていきながら、彼女の、短く切った茶色の髪がわずかにかかるうなじや、華奢な背中を見ていた。廊下を挟んだ両側がいわゆる教室になっていて、壁にはガラス戸がはめ込まれ、中の様子がよく見えた。ある部屋では車椅子に乗った子、床にしゃがみこんでいる子などが教師らしき男を中心に円になって、教師が持ち上げて見せた絵を指さして口々に何か言っていたし、ある部屋では、皆、机に向かって画用紙にクレヨンを一心不乱になすりつけたりしていた。そうした行動のすべてが丸見えだった。向井さんを見つけて、わざわざガラスの前に駆け寄って手を振る子もいた。彼女はそうした子に手を振り返し、どんどん進んでいった。もちろん、そんな子どもの中には廊下を歩く僕にじっと強い視線を注ぐ子もいた。僕はその視線を感じて、息苦しくなった。何とか無視するため、向井さんの後ろ姿に注意を向けていたのだった。
 僕が案内されたのは、二階にある、誰もいない会議室だった。同じようにガラス戸から中が覗けたので、白い箱と段ボール箱が会議用の長いテーブルに載っているのが入る前から分かった。僕は向井さんに促されて中に入り、白い箱にはことさら目をくれないようにして、すぐ横に置いてあるふたつの段ボール箱に向かった。
「……こっちが着替えとか、身の回りのものです」
 向井さんはそう言って床からボストンバッグを持ち上げてみせた。
「……これで全部ですか?」
「はい、これで全部です。段ボールとバッグは、宅配便で送りましょうか? 今日は、車ですか?」
「……いえ」
「じゃ、やっぱり送ったほうがいいですよね。住所を教えてくれれば……」
 向井さんはそこでふいに口をつぐんだ。バッグを段ボール箱の横に置くと、ためらいがちに、
「……差し出がましいようですけど……引っ越された時、どうして新しいご住所を教えてくれなかったんですか」
 と言った。僕は黙って彼女の顔を見返した。白くて小さな顔に、リスに似た目鼻立ちだった。さっき、バスで見たような後ろ美人ではなく、なかなか可愛い顔立ちだなと思った。僕が何も言わないので、彼女は困ったように目をそらせた。
「弟さんは、お兄さんが引っ越したなんてこと知らずに、ずっとはがきを書き続けていました。でも、転居先不明で戻ってきたなんて、私達、言えなかったんです……がっかりさせたくなくて」
「……それは、どうも」
 僕はやっとの思いでそう言った。彼女の言葉は穏やかで遠慮がちだったが、明らかに僕への非難があった。僕の心臓に杭を打ち込んでいるも同然だった。だがこの人に、僕達の家族の事情など説明しても仕方がないのだ。分かってくれるわけがない。
「心配じゃなかったんですか? 弟さんのこと」
「ちょっと、段ボールの中見てもいいですか」
 僕が断固とした口調で遮ると、彼女は明らかに不満そうな顔をして、どうぞ、とひと言だけ言って部屋から出て行った。僕はやっと少し楽に呼吸ができるようになった。本当は、段ボール箱の中身などどうでもよかったのだが、そう言ってしまった手前、箱のひとつを開けてみた。思った通り、中から出てきたのはクロッキー帳とスケッチブック、それに鉛筆と色鉛筆が何本か入っていた。ひとつひとつ中身を取り出してテーブルに並べてみると、スケッチブックが大小あわせて十二冊、クロッキー帳が八冊だった。もうひとつの段ボール箱を開けてみると、そこにもスケッチブックが十冊、チラシの裏の白い部分に描いた絵、コピー用紙みたいにまっさらな白紙に描いた絵が束になってずっしりと入っていた。そして、正面玄関に飾られたたくさんの絵。あいつはここにいる間に、これだけの絵を描き続けてきたのかと思った。スケッチブックをぱらぱらめくってみると、大半は施設の中を描いたものだった。教室で学ぶ子ども達や遊んでいる様子、職員の人達も描かれていて、向井さんの似顔絵もあった。庭を描いた絵、その庭で働く子どもや先生の絵。屋上で描いたのだろう、海と町を描いた絵もたくさんあった。それらはほとんど鉛筆で描かれていた。中には色鉛筆を使って色をのせたものもあったが、ごく少数だった。絵具がないことが不思議だった。玄関に飾られていた絵は、大半が水彩画だった。道具は施設のものを借りていたのだろうか。
「……ここの玄関に飾ってある絵も、弟さんが描いたんですよ」
 ふいに声がして、びっくりして顔を上げると、向井さんがお茶を載せた盆を持って、硬い表情で入ってきていた。
「……はい、分かってます」
「……そうですか。ター君は、ほんとに絵が上手でした」
「はい、あいつのたったひとつの……」
 僕は適当な言葉が思い浮かばなくて口をつぐんだ。絵は、弟にとっていったい何だったのだろう。ただひとつの趣味か。生きる手段か。目的か。何かを伝えようとしていたのか。絵だけが、弟の存在価値を示すものだったのだろうか。
「何ですか?」
 向井さんは、僕の前にお茶を置いてくれながら、探るようにそう訊いてきた。僕は、思いついたどの言葉もあてはまらないような気がして、
「いえ……何でもないです」
 とごまかして、次のスケッチブックに手を伸ばし、めくってみた。そこには何も描かれていなかった。その紙面いっぱいに、大きくひらがなが書いてあった。次をめくると、そこにも大きくひらがなが、やはりひとつだけ書いてあった。僕は、そのままスケッチブックをめくっていった。ひらがなを拾っていくと、簡単な文章ができあがった。「きょうのあさごはんはめだまやき」「ゆうがたからあめがふるよ」「おやつはどうなつ」「こんやはほしがみえないよ」「なみがおこってる」「ふねがみえる」など、ありきたりでどうということのない内容ばかりだった。弟が、自分の日常に起こったあれこれをスケッチブックに書き綴ったのだろう。弟の知能では、ひらがなを書くだけで精一杯だったのは知っていた。だが、どれも短い文章ばかりなのに、たった一字を書くのに、スケッチ紙いっぱいの面積を使っていることが引っかかった。
「……これ、何ですか」
 僕がもう見終わったスケッチブックや紙を、元どおり段ボール箱に詰めていた向井さんに訊いてみた。彼女は顔を上げ、僕が示すスケッチブックを見ると、ほんのわずかだが、顔色を変えた。
「それは……」
「あいつ、チラシの裏にでも絵を描いてるような奴でした。スケッチブックを、意味もなく無駄に使うとは思えないんですけど……」
「……さあ……私もよく知らないです」
 彼女は僕の視線をそらすように、段ボール箱に詰める手元に目を落とした。何も知らないとは信じられなかったが、どうしても知りたいというほどのことではなかったから、深追いはせずスケッチブックを閉じた。彼女は、話題をそらすように僕の住所を訊いてきた。それに答えてから、僕はふと、弟がおそらくは毎日そうしていたであろう、屋上へ出て、海と町をいっぺんに眺めてみたくなった。それで彼女に屋上へ行ってみてもいいかと訊いた。向井さんは怪訝そうに顔を上げた。
「屋上に、ですか」
「あ、はい」
「どうして?」
「……だめなら、まあいいです。このまま帰ります」
「いいえ、どうぞ」
 彼女は少し苛ついたようで、それを抑えようとリスのような愛らしい顔を歪めた。
「階段は……」
「あ、分かります」
 僕は短く答えて部屋を出た。廊下に出たとたん、目の前の壁に一枚の鉛筆画が飾ってあるのに気づいた。それを見てすぐ、弟が描いたものだと分かった。それもきちんとした額に入れられて飾ってあった。見ると、教室と教室の間の壁部分すべてに額に入った絵が一枚ずつ飾ってあった。さっき、廊下を通った時は、殊更まわりを見ないようにしてうつむいていたので気づかなかったのだ。弟の絵は、この施設の中を所狭しと飾っているらしかった。僕は、心から弟がここへ入ってよかったと思った。自殺未遂癖のある母親なんかに育てられなくてよかったではないか。ここであいつは絵の才能を認められ、みんなから優しくしてもらえたのだ。あいつはここで死んでよかったのだ。
 扉を開くと、潮の匂いが鼻をついた。五年前と同じように、シーツやら下着やら割烹着やらが干され、風にはためいていた。僕は手すりに近づいて、海と町をいっぺんに眺めた。ほんの何年か前までは、この町で、この海を見て暮らしていたのだ。東京での生活はアルバイトと授業に追いまくられる多忙を極めた日々だったから、ふるさとの町や過去の自分を思い出す暇もなかった。こうしていると、幼い頃の日々がいやでも甦ってくる。母の見舞いには、一度も行っていなかった。
 海のほうを見て、僕はあっと声を上げそうになった。弟がこの施設に入った日に僕も見かけ、その後かならず弟からの便りに登場した「あのおんなの子」らしき人影がそこにあったからだった。断定はできないものの、長い髪が旗のように横になびいて、波打ち際に立っている姿は、まず間違いなさそうだった。しかもその人影は、こちらを見ているようだった。僕はさっき弟の遺品の中にあったスケッチブックのひらがなを思い出した。弟は、あの人と、スケッチブックを使って何らかのやりとりをしていたのかもしれない。部屋へ戻ってもう一度確かめてみようと振り返ると、いつからそこにいたのか、向井さんが困惑した顔で立っていた。手にはスケッチブックがあり、もう片方の手で折り畳んだ車椅子を抱えていた。
「……いつもこの時間に、ター君、ある人と交信していたんです」
「海にいる、あの子ですか」
「ええ、そうです」
「あのふたり、逢ったことあるんですか」
「いえ、私が知っている限りではないはずです。それにター君はこの建物から出たことはあ
りません。この近くを散歩することはありましたけど、海まではあまり行かないんです。あの子と逢ったとは思えないです」
「……いつから」
「……ター君が、ここへ来て、すぐです」
「じゃ、五年も?」
「はい。最初は、手を振ったりする程度だったんです。そのうち、ター君が何か話がしたいって言いだして……職員が、紙に字を書いて見せたらどうかって提案したんです。試しにスケッチブックに書いて見せたら、あの子にも伝わったみたいで……次の日、あの子も返事を書いてきたんです」
「……で、あの子は、今日も弟からメッセージがあると思って、待ってるってことですか」
「そうだと思います……」
「あいつが死んでからも、あの子は来てるんですか」
「……はい……ター君が死んだこと、伝えようと思ったんですけど、どうしてもできなくて……私、ター君のふりをして、メッセージを作ってました」
「弟の代わりに?」
 彼女は返事の代わりにうつむいた。
「……今日は、どんなこと書いたんですか」
「お兄ちゃんが逢いに来てくれたって……」
 僕は言葉もなくうつむいた。
「……でも、今日で終わりにします。明日、ター君が亡くなったこと、伝えます。嘘をつくわけにはいかないから……」
 彼女は、片手で短く整えた髪を梳き上げながら、落ち着きなく目をきょろきょろさせて言った。僕は、ほとんど何も考えないまま、
「僕にやらせてください」
 と言っていた。向井さんはそれを聞いて、
「どうしてですか?」
 と、明らかに不愉快に思っていることを隠そうともいない表情で言った。
「……さあ、どうしてだろう……」
 僕は、海のほうへ視線を移してつぶやいた。実際、どうしてそんなことを言い出したのか、自分でも分からなかった。ただ、弟が、毎日、ここで名前も知らない少女と、「会話」を交わしていたのなら、弟が死んだ今、僕が代わりにやるべきだという思いに捉われたのだった。向井さんは、しばらく不審げに、海を見ている僕の横顔を見つめていたが、ふいに腕時計に目を落とすと、抱えていた車椅子を広げて組み立てた。
「ター君のふりをするつもりなら、これに乗ってください」
「え?」
「ター君のふりをするんでしょう? なら、歩けないように見せかけなくちゃ。あの女の子は、双眼鏡でこっちを見てるんです」
「双眼鏡?」
 僕はびっくりして訊き返した。
「ええ。いくらここから海が近くても、スケッチブックに書いた字なんて読めません。だから、あの子はター君が掲げた字を、双眼鏡で読んでるんです」
「……じゃ、向こうから返事がきたときは……」
「もちろん、こっちも双眼鏡使って、読むんです」
「へえ……毎日、双眼鏡でお互いのメッセージを読んでたってことですか」
「ええ。すごく短い交換日記みたいなものですね」
 僕は少なからず心を打たれた。携帯電話でメールのやりとりが主流のこのご時世に、わざわざスケッチブックで「文通」している人達がいるのだ。だがそれは、弟やあの女の子がいかに世間から取り残されているかを表しているような気がした。
「それから、スケッチブックで顔を隠すようにしてください。双眼鏡で見られてるから、ター君じゃなくて別人だってばれてしまうかもしれないから」
 僕は恐る恐る、車椅子に乗ってみた。子どもの頃、弟の松葉杖をふざけて使ってみた時は腋の下がくすぐったくてたまらなかったし、車椅子は見かけほど座り心地がいいものではないことも知っていた。それは、僕がどちらも必要としない、健常の人間だからかもしれなかった。なるべく浅く腰かけるようにして、スケッチブックを掲げる練習をした。向井さんはまた腕時計を見て、
「じゃ、そろそろ時間ですから……大丈夫ですか? できそうですか?」
「あ、はい……」
 向井さんは厳粛な顔つきでうなずいてみせ、僕の背後に回って車椅子を押していこうとした。僕は慌てて、自分でやると言った。
「毎日、私か、他の職員が押していったんです。いきなり、ひとりで車椅子を動かして行ったら、あの子が変に思うかもしれないでしょう?」 
 と言い返されてしまい、仕方なく押してもらうがまま、洗濯物の合間をくぐり抜けて、海が一番よく見える手すりまで向かった。
「顔を隠して」
 向井さんが早口にささやいた。浜辺を見ると、女の子が、本当に双眼鏡を片手に持ち、あいた手をこちらへ向けて激しく振っていた。僕は急いでスケッチブックで顔を半分ほど覆い、手を振り返した。
「最初の一文字めを出して」
 また向井さんにささやかれ、僕は急いでスケッチブックをめくった。なるべく顔を隠すようにと言われていたが、両手を高く伸ばしてスケッチブックを持ち上げないと向こうからメッセージを読めないだろうし、かといって僕が弟ではないことを悟られてはまずいし、なかなか難しい作業だった。向井さんはずっと僕の背後から、あれこれ指示を出してくれた。
〈きょう、おにいちゃんが、あいにきてくれた〉
 たったこれだけのメッセージを伝えるために、僕の両腕はすっかりしびれてしまった。やっと終わった時、僕はほっとしてスケッチブックを自分の膝に投げ出し、両腕をぐるぐる回した。
「今、あの子が返事を書いているところですよ」
 向井さんがそう言って、エプロンのポケットから、折り畳み式の小さなバードウォッチング用の双眼鏡を出して僕に手渡してくれた。僕はさっそく双眼鏡を両目にあてて、女の子のほうを見てみた。沖からの風が少女の髪を生き物のように舞い上がらせ、うつむいてやはりスケッチブックに返事を書いている少女の顔にまでまとわりついてしまい、顔立ちは分からなかった。少女は書き終えると、自分の顔の真ん前からスケッチブックを掲げてみせた。せっかく双眼鏡を使っても、これでは少女の顔まで見られそうになかった。少女は、
〈よかったね〉
 とだけ書いていた。普段からこれくらい素っ気ない短い文章でやりとりしていたのだろうか。僕にはなんだか物足りなく思えた。その時、少女の着ている黒いコートに見覚えがあるような気がして、僕はもっとよく見ようと身を乗り出した。だが少女は、スケッチブックを掲げたまま、片手だけで手を振ると、そのまま回れ右をして、さっさと砂浜を歩いて去ってしまった。その立ち去り方も、ずいぶん冷たいような気がした。
「……ずいぶん、あっさり終わりましたね」
 僕は車椅子から立ち上がり、そう言ってみた。
「ええ、いつもこんな感じです」
 向井さんは車椅子を畳み、持っていこうとしたので、僕は彼女の手から車椅子を引き取った。彼女は少し驚いたように僕を見つめ、小さい声ですみません、と言った。
「……あの子、明日も来るんですか」
「ええ、たぶん……」
「いつも、この時間で?」
「ええ、だいたい」
「そうですか……」
 僕達は無言で階段を降り、さっきの部屋へ戻った。もう荷物はきちんとまとめられていて、僕は遺骨だけを手で持って帰ればいいようになっていた。
「こっちは、今日中に宅配便に出します。なるべく早く届けるようにしておきますから。それから、飾ってある絵のことなんですけど……」
 僕が、それは今までどおり飾ってやってほしいと言うと、向井さんはほっとしたように微笑み、そうさせてくれれば自分達も嬉しいと言ってくれた。
 彼女は、帰ろうとする僕を玄関まで送ってくれた。靴を履いていると、向井さんは壁に飾られた数多の弟の絵に見入って、
「この絵を見ていると、ター君は、もっと違う絵を描きたかったんじゃないかなって思うんです」
 と言った。靴を履いて上体を伸ばした僕に、彼女は隅のほうに飾られた絵を指さしていた。それもやはり波打ち際を歩く、あの少女の絵だったが、白がかったごく薄い青一色を使って仕上げていた。ほんのわずかな濃さの違いで、波打ち際と少女とを描き分けていたのだった。
「へえ……」
「なんとなく、そう思っただけなんですけど……私、昔から絵心はなくて」
「僕もでも。親父もお袋も、そんな絵の才能なんかなかったのに、どうしてこいつだけ絵がこんなにうまいんだろうって、いつも思ってました」
「ほんとうに、ター君は絵が上手でした……いつだったか、屋上から海を見ながら、ター君が、波がきらきらして綺麗だって言ったんです。私が、ガラス玉みたいだねって言ったら、そうしたら、ター君、ガラス玉だってすごく楽しそうに繰り返して……これは、そのあとにすごく時間をかけて仕上げた作品なんです。だから私、これはガラスをモチーフにした絵なんだろうって勝手に思い込んでいたんですけど、でもほんとはもっと別の……」
 向井さんはそこまで言うと、ふいに口をつぐみ、今日はお忙しい中わざわざ来てくださってありがとうございました、と堅苦しい挨拶の言葉を述べた。不用意に自分の考えを口にしたことを恥ずかしがっているようだった。たぶん、彼女の自分の気持ちを他人に打ち明けるのが得意ではないのだろう。
 僕も挨拶を返し、施設を出た。段ボール箱はみな宅配便で送ってもらうことになったから、僕の手には弟の小さな遺骨だけがあった。あまりにも軽く小さい弟だった。その骨壺のほんのかすかな重みが、てのひらから腕のつけ根に伝わった。僕はその重みを確かめるように、ちょっと箱を撫でてみた。そうしながら丘の道を下った。施設にいた時間はわずか一時間足らずのことなのに、もうずっと弟と話をしていたような、そんな不思議な気持ちに襲われた。
 バス停の前まで来た時、駅までの距離がたいしたことなかったのを思い出し、このまま歩いていこうと思った。というより、海に行きたかった。さっきの少女はもういないだろうが、それでも少女が立っていた場所へ行きたいと思った。弟は、どんな思いで毎日あの子と「交換日記」を交わしていたのだろう。なぜ、あの子と話したがったのだろう。
 車道わきの細い道を注意して歩きながら、僕はずっと考え続けた。そうして歩いていくうちに、潮騒が聞こえ、潮の匂いが濃くなった。波は白い泡を飛ばしながら打ち寄せていた。浜辺には誰もいなかった。いくら考えたところで、答えがでるはずはないのだった。弟はとっくに死んでしまった。だんだん怒りがこみ上げてきた。弟だけが、理不尽で不当な扱いを受けて、犠牲となったような気がした。僕はその怒りを、砂を蹴飛ばすようにして歩くことで抑えた。だが本当は、僕自身、弟について偉そうに言える立場ではないのだと思った。施設に閉じ込めて手紙も出さずに放っておいたのだから。
 冷たい潮風にあたりながら、僕はふいに息苦しくなり、水平線のほうへ目を向けた。漁船らしい船が二、三艘、漂うように沖をゆっくり進んでいた。振り返って丘のほうを見ると、さっきまで僕がいた施設の屋上部分が木々の合間から見え、洗濯物が白旗のようにはためいていた。さっきの女の子はこの辺に立っていたのだろう。ここから見る施設は、茶色くなった山にぽつんと寄る辺なく、白くかすんで浮かび上がっているようだった。僕は両手で支えている弟の骨壺に目を落とした。帰ってからこいつをどうするかのほうが問題だった。お墓とは買うもの、くらいの知識はあっても、どこで買うのか、いくらするのか、お寺はどこでもいいのか、まったく分からなかった。骨壺に目をやった時、自分が歩いている砂浜に、形の異なる貝殻が無数に散りばめられていることに気づいた。昔、まだ松葉杖をついていた幼い弟と海へ来て、貝殻をたくさん拾って帰ったことを思い出した。僕はちょっと立ち止まり、弟が嬉しそうに拾っていた貝殻の中で、特に気に入っていた白い小さな貝殻をそっと拾い上げて、骨壺の上に載せてみた。目を上げた時、誰もいないと思っていた砂浜に、こちらへ向かって歩いてくる人影に気づいた。女の子らしく、長い髪が沖からの風で舞い上がり、顔を隠していた。波打ち際を、急ぐ様子もなく、のんびり散歩しているといった風情だった。僕は、その人が黒いピーコートを着ていることに気づいて、心臓がぴくりと跳ね上がった。さっき、屋上で見た少女が、黒っぽいコートを着ていたことを思い出したからだった。その時僕は、そのコートをどこかで見たような気がしたのだが、それも思い出した。今日、バスの中で見たのだ。僕はどきどきしながらも、何食わぬ顔で歩き続けた。少女はまるで僕など存在しないかのように、気にする様子もなく歩いていた。僕は波打ち際から防波堤の間にある砂浜の、ちょうど真ん中あたりを歩き、少女は波打ち際を歩いていて、少し距離はあったが、顔を見るには十分だった。もう少しですれ違うという時、沖からの風が、それまで顔にかかっていた少女の髪を後ろへなびかせた。現れたのは、確かに僕が今日、バスの中で見た少女だった。あの通り、丸顔で眠たげな目をして、トートバッグを大事そうに胸に抱きしめていた。少女の目は強い光を放ちながら、まっすぐ前だけを見据えていた。僕は、あれと同じ目を見たことがある。まっすぐに一点だけを見つめながら、尋常ではない強い光を放つそれは、今なお精神病棟で暮らす母と同じ目だった。優しく手招きしておきながら、近づいたら冷たく突き放すような目。さっき、施設の中で、僕をにらむようにして見つめていた子どもの目もあんな風だった。すれ違って五、六歩あるいてから、僕はそっと振り返った。少女は、風も、足元に打ち寄せる波もまったく意に介さず歩き続けた。僕は、あの子は精神に異常をきたしているか、どこか障害を持つ人ではないかと思った。後を尾けてみようかとふと思ったが、長い髪をなびかせて、それだけは美しく見える少女の後ろ姿がゆっくりと、だが確実に遠ざかっていくのを見送った。なぜ、あいつはあんな女の子と話をしたがったのだろう。向井さんのほうがずっと可愛いのに。僕はますます弟の真意が分からなくなった。
 少女の姿が小さくなると、僕は骨壺の上に載せた貝殻を手に取り、海へ向かって思い切り投げた。だが貝殻は、弧を描いて海へ落ちるにはあまりにも小さかった。沖からの海風もあって、とても海面までは届かず、すぐ足元に落ちた。弟の笑い声が胸に迫ってきた。


 翌日、僕は再び施設へ向かった。もちろん、例の女の子との「交換日記」の時間より早めに出かけた。今日はバスを使わず、海辺を歩いた。浜には誰もいなかった。施設の玄関脇にある詰所にも誰もおらず、僕は仕方なく勝手に入らせてもらうことにした。スリッパを取り出した時、昨日、あの向井さんが気にしていた青い絵が目について、僕は思い切って手を伸ばして絵を額縁ごと外した。それを目立たないようにジャンパーの中に隠して、僕はこそこそと廊下を歩いた。ガラス張りの教室の中では昨日と同じように授業をしていたが、僕に気がつく者はいなかった。階段を二段飛ばしで駆け上がり、屋上の扉を開けた時、やっとほっとした。昨日と同じ場所の手すりまで来た時、
「何してるんですか」
 と声をかけられ、バランスを崩しそうになった。振り返ると、向井さんが洗濯物の間から驚き顔でこちらを見ていた。足元に、シーツが山積みになったプラスチックのかごが置いてあったから、きっと洗濯物を干してるか、取り込んでいるのだろう。向井さんは、僕が勝手に壁から外してきた額入りの絵に目をやり、
「それ、どうするつもりですか」
 ときつい口調で訊いてきた。僕は正直に答えることにした。
「あの子にあげようと思って……」
「あの子って、あの子ですか」
 向井さんは大きな声で訊き返し、
「どうしてそんなこと考えついたんですか」
「……昨日、向井さん言ってたじゃないですか。あいつは、この絵に何かを込めようとしていたって。これは、あの子に贈るために描いたんじゃないかって、そう思ったんです」
「……ター君は、そんなことひと言だって言ってませんでした……」
「遠慮したんですよ、きっと。あいつ、お世話になってる向井さんやみんなから、この絵を飾ろうって言われて、断れなかったんですよ」
「……ター君が私達に遠慮したことなんて、そんなこと一度も」
 向井さんの声は怒りで震えていた。
「僕も、あいつと十二年間、一緒に育ってきました。離れて暮らしてる間も、僕にはがきでいろんなことを教えてくれました」
「いろんなこと……」
「……同じ内容ばかりに見えたけど、あいつは、いろんなことを書いてくれました」
 向井さんの顔が、哀しそうに歪んだ。きっと、弟と友達のように接してくれた人なのだろう。誰よりも弟のことを理解し、気にかけていると自負しているのだろう。実の兄のくせに面会にも来ないまま行方をくらまし、弟の死に目にもあわなかった僕にこんなことを言われて、気を悪くしているに違いない。僕はジャンパーのポケットから、これまで弟がくれたはがきの束を取り出した。昨日、帰ってから、押入れの奥にしまい込んでいたのを引っ張り出し、改めて読み返してみたのだった。僕はそれを向井さんに見せながら言った。
「これは、僕へ宛てたはがきじゃなくて、ラブレターのつもりだったんです」
「……ラブレター? あの子へ?」
 向井さんは半信半疑といった顔ではがきの束を見た。
「それが? それでラブレターのつもりだったって言うんですか」
「だって、誰からも教わったことなかったんだから。仕方ないですよ。ラブレターなんて言葉、知らなかったと思います」
 口をぽかんと開けたままの向井さんに背を向けて、僕は手すりに手をついて海と町並みをいっぺんに見た。
 弟が、本当にあの子に恋をしていたか分からない。屋上で見かけたあの子と話をしたがったのは、施設での暮らしが平穏ゆえ退屈だったからだろうと思った。施設以外の、外界の人間との接触がほしかったのだろうと。だが、決してそうではなく、意味もなく言葉を交わしたいのは、それが恋情ならあたり前のことだ。そして、弟があの少女に惹かれたのは、ひょっとしたらあの少女が、母と同じ目をしていたからかもしれない。僕は、ゆうべひと晩寝ずに考え、やっと分かったと思ったのだった。ここへ来てから描いた海と少女の絵も、きっと本人にすべて贈りたいと思っていたに違いない。すべてではなくても、どれか一枚だけでも、僕は弟の望むとおり、あの子に弟の絵を贈り、そして弟の死を自分の口から報せたいと思い、再び施設へやって来たのだった。僕がそれを言うと、向井さんは視線を落としたまま、
「……ター君が好きな子がいたなんて、考えたこともなかった……」
 と消え入りそうな声でつぶやいた。
「でも、向井さんは、この絵がガラスをモチーフにしたものだって言ったじゃないですか。きっとそうだと思います。あいつ、あの子を、ガラスのように見立てて描いたんだと思います」
「……そこまで弟さんのことを理解してたお兄さんが、どうして一度も逢いにきてあげなかったんですか?」
 向井さんは目を上げて、まっすぐ僕を見て言った。その目が涙で濡れていた。僕は目をそらし、この絵をあの子にあげて、弟の死を報せる役目を僕にやらせてほしいと言った。向井さんは無言でうなずいた。僕も無言で頭を下げると、向井さんが僕の肩越しに目をやって、あっと声を上げた。振り返ると、あの少女が浜辺にいるのが見えた。僕は思わず走り出していた。背中で、向井さんが何か言うのが聞こえたが、僕の耳には届かなかった。階段をまた二段飛ばしで駆け下り、スリッパを脱ぎ捨ててスニーカーを突っかけて丘の道を下った。そうして何年かぶりで全速力で走りながら、僕の中で少しずつ、弟が死んだ実感がわいてきた。弟はもういない。あいつは死んだんだ。僕は自分に言い聞かせるように心の中で繰り返しつぶやいて走った。ようやく潮の匂いを嗅いだ時、僕は額や背中にうっすら汗をかいていた。
 防波堤沿いに走って、少女が立っているところまでたどり着いた時、少女はトートバッグから双眼鏡を取り出して、食い入るように空中の一点を見つめていた。僕はその双眼鏡がさすほうを追って後ろを振り仰いだ。さっき飛び出してきた施設が、昨日よりはっきりした輪郭をもって山の中に浮かんでいた。屋上の手すりのところに誰かがいた。向井さんに違いなかった。ふたりのそんな姿を目にした途端、僕は弟が死んだことをたまらなく悲しいと思った。はがきに返事を出さなかったことや、死に目にあわなかったことを心から悔やみ、弟に向かって頭を垂れた。あの少女は、僕の話を聞いてくれるだろうか。絵を受け取ってくれるだろうか。不安が募り、同時に、何としてでも受け取ってほしいという思いが膨らんだ。少女は双眼鏡から目を離さず、メッセージが示されるのを待っていた。僕はなんと声をかけようか、しばらく迷った。

最愛Ⅱ

最愛Ⅱ

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-15

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted