さよならは、海と月に。

さよならは、海と月に。

雨尾 秋人

長編八作目【完結済】

 月。冬が流れた後、取り残されたように拵えられたこのたまゆらである沈黙は、やがて春に喩えられた。月だ。花曇りだった昼が終わりを告げると、街は早歩きをはじめ、人々に気づかれぬように静かな夜をそこに置いた。月だ、僕の心は浅い呼吸に雑じらせて、そう呟いた。寡黙な月は、その静寂から何かを語っていた。けれど僕には月の言葉がわからない。月から読み取れるのは、せいぜい彼が無口であり、孤独であるということだけだ。いや、それが月の語りかけてくる言葉なのかもしれない。少なくともあの月は、今の僕にとって痛みをあたえてくるものであるのは確かだった。

 こぼれた落ち葉や花びらを手ではらえばすぐに見つかりそうなくらいに近づいてきていた春休み前の頃にも、それと同じ月を見ていた。僕はそのとき、図らずもこの月を見てはげしい高揚感を覚えた。光る雫を夜に滲ませたその金色の月に、僕はたしかな興奮と憧憬を感じたのだ。今となっては孤独についてだけを語る月だが、このとき僕に教えてくれたものはそれでは無く、憧れだった。あのときからすでに月の周りを寄り添うとする雲の存在はいなかった。だから僕は簡単に触れた。覚えている、僕はあのとき月に触れたのだ。
 月と自分との間には、何もないのだ。そう理解した僕は春休みを迎えた。春休み半ばを走っているときに、僕は自分が高校二年生になったことを思い出した。そして春休みは夕暮れのように泥むこともなく歿し、新しい学年の教室へと足を運んでいる自分までの過程を描いて終えた。
 一年生のとき、よく一緒にいたヤギ顔の友人とは教室が離れてしまった。他にも仲の好かった友人たちはどれもクラスが変わってしまい、僕はまた一からのスタート、という具合のテンションだった。去年の今頃もそうだったんだし、大丈夫だろう、と。別の教室に行けば友人もいるし。僕は人見知りをする性格ではないから、友達を作ることに苦戦はしたことがなかった。だから、その面での不安は無かったのだ。
 自分の席の後ろにいる男を僕は知っていた。小学校が同じだった奴だ、それならばますます話しかけ易い。僕はくるりと腰をひねって、後ろへと振り向いた。
「よっ、久しぶり」
 返答される言葉は、彼の口からは添えられなかった。彼は漠然としたような表情で、僕を見つめていた。急に馴れ馴れしくされたことに困惑しているのかもしれない。それも納得できた。僕は小学生の頃、あまり彼と会話したことはなかったのだ。
「だ、だれ?」
 しばらくの沈黙を挿み、ようやく返された言葉はそれだった。僕は口の中にあったガムを噛むのを一旦やめた。「だれ、って首傾げられるほどの無関係でもないだろ」と僕は言った。しかし彼は首を傾げたまま、「いや、知らない」と躊躇なく答えた。すると僕と彼の空気から妙な違和感が生まれた。知らない? 知らないことはないだろう、僕はどちらかというと、小学校の頃から活発で成績表には「ムードメイカー」と言葉が添えられているのが当たり前のような性格なのだ。クラスが違うといっても、僕と彼が通っていた小学校にはクラスが二つしかなかったし、なんなら中学校も同じだったのだ。絶対にどこかでは知り合っているのだ。しかし、彼の口からは「知らない」という四文字がこぼれていた。
「マジで言ってる?」
「まじ、だよ」
 すると彼は僕に一瞬だけ目を合わせ、すぐにそらした。僕は黙ってしまった。さっきから肌に佩びられていた妙な違和感は、二人の間から生まれてきた気まずさに食べられていった。僕はきびすを返して前をむき、彼と一旦距離をとった。僕はすこし静かにいることにした。多分誰かが話しかけてくるだろう、僕は頬杖をついて、窓のほうへ視線をやった。大きな塊の雲がみえた。端っこ側に目をやると、そこから一部分が千切れていくのがわかった。目で追うこともなく、ただ傍観していると、千切れた雲はそのまま仲間たちと乖離していった。風が千切れた雲の口をふさぎ、別れの言葉を言わせなくさせた。風が去る頃には、雲も消えていた。そんな事柄に厭きた僕は、机に顔をうめて眠るふりをすることにした。
おいおい、寝てしまうぞ。声にださず周囲の人たちに呼びかけた。しかし、誰も僕に喋りかけてはこなかった。

 下校の支度をしているときには、さすがにいささか怒りを覚えた。誰も僕に声をかけてこない、そんなことは今まで無かった。教室をでる際に、もういちど周りをぐるりと一瞥したが、他の生徒たちは僕が帰ろうとしていることにすら気づいていないようだった。単なる苛立ちと、気づいて欲しさにやや大きめの舌打ちをしてから僕は教室に背をむけた。
 階段をおりている途中、眼下にヤギ顔の友人がいるのを見つけた。僕は歩みを早くしながら「おーい」とヤギ顔の友人に声をかけた。ヤギ顔の友人はすぐにこちらに目をやった。返事はなかった。階段をくだり終え、あらためて僕は声をかけた。「よっ、どう? 新しいクラスは」
「……は?」
 それだった。いま、僕がした質問に、なにか不明な箇所はあっただろうか。文法か何かが出鱈目にでもなっていただろうか、「いや新しいクラスはどうだ、って訊いてんの」僕はすこしスピードを落としてもういちど訊ねた。
 ヤギ顔の友人は怪訝そうに僕を見つめていた。眉をひそめ、シワを新たに形づくっていた。どうした、これにはさすがに僕も彼と同じような顔つきになった。春休みの間に、彼は言葉を認識できなくなってしまったのだろうか。まさか、僕は内面でかぶりを振るう。ヤギ顔の友人は、表情をかえることはなかった。
 空白のような間があって、「ひとつ、俺からも訊いていいかな」とヤギ顔の友人は僕に訊ねてきた。なんだよ、妙な気持ち悪さをおぼえながら僕はうなずいた。朝にも感じた妙な違和感が、また肌の周りへと帰ってきた。
「お前、誰だよ」
 階段をおり、帰宅してゆく人だかりの話し声がどこからも聴こえた。雑踏は僕とヤギ顔の友人の間や外側を通りすぎていった。何度か肩がぶつかった。足元がすこしふらついた。「だれ、だよ?」彼がしてきた問いを、僕はゆっくりと自分の口で繰りかえした。ヤギ顔の友人は、僕の顔を警戒するように見つめていた。静黙された空気が降りてきた。それがほどけていく頃には、ヤギ顔の友人は人ごみに紛れて僕の視界から消えていた。
 どういうことだ、僕を通りすぎていく生徒たちの中から無作為に自分の知っている人を見つけては手首をつかみ、「俺のこと、わかるよな?」と訊ねていった。しかし、「うん」と肯く友人は一人目も、二人目も、三人目も、現れることはなかった。「ごめん」「知らない」「え?」、六人目の手首をつかもうとしたところで、僕は伸ばしていた手をおもむろに振り落とした。いったい、どうしてしまったのだ。わからなかった、これは夢なのかもしれないという感覚すら生まれてきた。春休みという期間に、何かが起きたのだ。その何かが、この現状を作りあげたのだ。
 誰もが、僕を忘れてしまっていた。

 僕が関係しているものだけが、まるでスプーンで種を穿ったかのように皆の記憶から消失されている、ということ。僕はそれについて、ようやく曖昧に煙っていた心情から思考を移せることができた。家に上がり、いつもはしないのに水を何杯か飲んでみたりした。階段をあがり、最初にみえる部屋のドアノブをひねる。二階の廊下は潮の匂いがした。さざなみに手首を掴まれて寄せられてくる潮の薫りが、鼻腔に触れてきたのだ。はっとしたとき、僕は部屋のドアを開けてしまっていた。自分が忘れさられた理由はなにか。視界が邪魔ならば瞼を閉じてみたが、答えが浮かび上がることはなかった。潮の薫り、瞼を開けるときにドアが閉まった。ぱたん、音が鳴って匂いが途切れる。僕はそのドアによって、乖離されたのだった。突然の別れを切りだしたように閉まったドアの音が、ヤギ顔の友人が僕にこぼした言葉を思い出させ、やるせなさを煽った。
「……何なんだよ、まじ」
 独り言は独り言のままで終わる。窓縁に並べられているサイダーの空き瓶に目をやり、そして今日も月が唄っていることに気づく。月は孤独について語っている。誰か、一人でもいい。僕のことを覚えている人はいないのだろうか。窓を開けると、夜が風を手放してくる。雲はある。けれど、月に近寄ろうとする雲はいなかった。泰然としている月の下の住宅地は、完結された静謐を空気に縫いつけていたのである。小波が朝に呼びかける声すら、聴こえてきそうな気がした。
 普段よりも静かな夜が、今日だった。自意識過剰になってしまった僕が勝手に思い込んだことかもしれない。けれど、今日は静かだった。ツツジの花が、何かしらの暴力によって散らされている。横たわった花びらは、明日を知ることはできない。あの花にとって、もう春は終ったのだ。さよなら、だ。
 さよなら、僕はその言葉をサイダーの空き瓶の中へと落とした。瓶底に軽い音をたてて落っこちたさよならは、月が語る孤独をその細い手で受けとって、自分に滲ませた。今日のことが自動的に脳裏に思い出されてゆく。ヤギ顔の友人は僕を見つめてこう言うのだ。
 さよなら、と。確かに僕にそう告げる。その言葉にうなずきたくない僕を、季節は無邪気なのか無垢なのか無視なのかわからない顔して去ってゆくだけ、だ。

 僕の街。僕が生まれ、僕が雨を知り、雪を知って、空の青さを一番多く見た街。初めから、今の瞬間もずっと僕にへばりついた薫りや感情も、すべて教えてくれた街。僕が暮らすこの街の名は「くらげ町」と呼ぶ。正確に漢字にしてみると、「暗気町」と書くらしい。くらげ町には、いつも海が隣り合わせになってあった。僕がまだ喋れないときから、当たり前だけどその海はあった。家からゆるいくだり坂になっている道を歩いて、建物や信号と、横断歩道を抜けると堤防のつらなりがみえ、その堤防をまたぐと地は砂浜になって海が視界を覆いつくしてきた。小学生のとき、集団登校での道のりはその道だったから、僕は毎日堤防に立って海をながめて歩いた記憶がある。中学生のときには自転車登校で、いささか遠回りではあるけれどその道を走って毎日海をながめながら学校へ通っていた。僕が生まれた頃から、あの海はあの海のままだった。僕の街。僕が母を知り、言葉を知り、子宮の中を忘れた街。つまり僕の故郷を、説明するとそんな街だ。

 学校には行かなかった。空には雲が押し詰められていた。小汚く濁った白色が、ならんだサイダー瓶でさらに混沌めいた顔になっていた。一階から足音が聴こえなくなったことから、母親が仕事へ向かったことに気づいた。階段をおり、リビングにあるダイニングテーブルの椅子に腰を落として、テレビの電源を入れる。
 真っ黒だった液晶に何らかの前兆すらみせず点いたテレビ画面には、たくさんの蜜柑が詰められたダンボール箱と、同じように檸檬が詰まったダンボール箱が映っていた。互いに強く主張してくるその二色が、テレビの画面を半分ずつ分担していた。右側はおびただしい檸檬の黄色が隙間の影すらもまたたかせず充ちて、完全な一色の色彩で埋め尽くしている。しかし、左側の蜜柑は完全でなかった。蜜柑側にも、檸檬がいくつか紛れていたのだ。オレンジ色の中に、まるでそこに穿孔するように黄色が混入していて、画面の左側を埋めるにはまだ不完全な状態だ。その檸檬の色をはらんだ蜜柑側のダンボール箱に、僕はつよく意識がおもむいていた。画面に人の手がうつりこみ、右側からまた幾つかの檸檬が拾われて、蜜柑側へと移し変えられていった。さらに蜜柑側の画面から、元々の色が奪われてゆく。そこで僕はテレビを消した。すると切ない沈黙が現れた。それなのに音はしている。雨が降りはじめていた。街が濡れていくのがわかった。どうして今のタイミングで雨が降ったかなんて理由を考えるくらいに僕には暇があったけれど、考えなかった。消したあとでも妙に脳裏が引きずっている蜜柑と檸檬の映像に、なぜか僕は動揺していた。

 雨が帰ったのは、雲がなずんだまま色のわからない夕日が終わりかけているときだった。ソファに深く横になっていた僕は、浸透してくる雨の音によってまどろみの畔に立っていた。誰からもメールが届かなくなった携帯電話をとりだして、ツイッターを開く。更新されている呟きはおびただしい数ある。しかし、その文の中に僕の名前はない。僕が学校をサボった、というのに誰からも心配するメールなどは来ていない。つい最近までは、こんなことあり得なかったのに。確かに僕という人間には、たしかな信頼を寄せてくれる友人もいて、好意を寄せてくれる女の子もいた。僕はその状況に十分な満足をおぼえていたし、それ以上の欲を出すこともなかった。しかし、僕は忘れさられてしまった。人々の記憶から。
 易しい下り坂を僕は歩いていた。建物の壁は雨の余白にて湿りを佩び、季節が輪郭を手にしていくにつれて暖かくなる気温は、雨の名残惜しさで生温いものへと仕立てられていた。空気が厚着しようとしていた。空が丸くなろうとしていた。僕と夏に空いた距離は、すぐにでも埋められてしまうくらいに、夏はもう近いような気になった。
 傾いた道は線路にて途切れる。一車両だけの、まるでこのくらげ町が田舎だと象徴しているような電車が走るその線路をこえると、道路にでる。道路には自動車がどちらの方向からも通り過ぎていって、行き交いが落ち着くのを見計わなければいけない。そして道路をわたれば、堤防が道路に沿って整列しているのだ。雨によって疲れた海が、いささか荒んだ波音を空に浮かばせている。雨が置いていった風が、潮の匂いをもてあましていて、僕につよく薫りを押しつけてきた。空はひどく濁った紺色を雲とたくわえていた。男子中学生二人が下校している。二人は自転車をこぎながら、薫りに手招きされて海のほうへ顔をむけていた。砂浜に犬の散歩をしている女性が歩いている。犬は貝殻などに鼻を近づけながら歩き、飼い主は波の音にたぐり寄せられて海を眺めている。僕も海を見ている。砂浜は雨で濡れているからだろう、すこし感触が重い。
 散らかった波音が、今こうして葛藤している僕の味方になってくれるような気配はなかった。すこし考えに耽りたかった。春休みがあけ、何日か経過した今でも僕の頭を占領している謎は、理解していることよりも多かった。足元は堤防のまま、東の方向にあるく。こんなとき、いつも僕は寄る場所がある。海の駐車場にぽつんとある、一軒のコンビニエンスストア。それだった。
 コンビニエンスストアに入ると、僕はきまって飲料が並んだ棚のほうへと向かう。その一番左側に、いつも飲む瓶サイダーはあった。やや青っぽい色合いをした瓶を手にとる。気がついたときから、僕はよくこのコンビニエンスストアで買った瓶サイダーを飲んでいた。それはまるで当然の事柄のように。瓶サイダーが僕に賦与してくれるものはきわめて少ない。仮初めにすぎない僅かでありながら直接的な刺激と、すこしはっとさせる沈黙だ。僕がこうして何かしらの時間を求めているとき、いつも片手にはこのサイダー瓶を持っている覚えがある。こういう性格上、僕はよく自身の中で燻りはじめた煙とは、対峙しなければ気がすまないのだ。その煙にも様々なものがある。そんな煙らと向き合うとき、決まって僕はこのコンビニエンスストアに来るのだ。

 店に入ってから、久しく触れていなかった感覚が背中にあった。二、三本とかごに瓶サイダーを入れていく。気のせいだろうと思いつつも、先ほどから妙に僕は視線をかんじていた。それはレジの方からだ。首を曲げない程度に、辺りを見渡してみる。音もないことからこのコンビニ内には僕以外に客はいないと推測ができる。ならば店員だ。すると視線の主は限定してしまう。レジには見慣れない女の店員しか、いなかったのだ。誰かに見られるなんて、とても久しぶりな気がした。最近、誰からも僕は見られていなかったから。透明人間とさして変わらないような生活をしていたから。僕は気味の悪さをおぼえながらも、反面すこし喜びの感情が滲んでいることに恥ずかしくなった。四本ほど瓶サイダーをかごに入れたところで、僕はレジのところへと向かった。女店員がすぐに目を逸らしたような動きをした。やはり、僕は見られていたのだ。
 女店員は見た感じ僕と同じくらいの年齢だと思った。髪は短く、右側の前髪をヘアピンで止めている。髪色がいかにも染めたものだとわかるし、カラーコンタクトをつけているのかすこし瞳が作り物くさい。形のいい耳にはピアスの穴が空いている。僕はその耳を目にしたとき、なぜか赤いランドセルを背負った少女の後ろ姿をおもいだした。まだ幼かった僕にその少女は、教えてくれたことが一つあった。それは母からでは教えてもらえなかったものだった――、女店員はなぜか口元が緩んでいた。笑みがこぼれるのを堪えているように僕には見えた。それは多分正解なのだと思う、彼女は手馴れた様子でサイダー瓶をレジ袋に入れていくのだけれど、どうやら僕をみて笑っているのだった。財布から金を取りだそうとしつつ、僕はそれに対して軽い苛立ちをおぼえつついた。しかし、そんな苛立ちは彼女の問いによって、すぐさま重ねられ消去されることとなった。「あの……」は? 何か言われそうな気がして、彼女に目を合わせる。 
「一浪だよね?」すると彼女は、僕の名前を呼んだ。
「は?」
「いや、一浪だよね? 海花一浪くん、だよね?」
 その通りだった。海花一浪くんで間違いはなかった。けれど、僕は彼女が僕の名を知っているということをよくわからなかった。どうして知っている? 「そう、だけど」とぎこちなさを拭えないまま答えると「やっぱり!」とまるで中学の頃の同級生かのような口調で話しかけてきた。どういうことか、僕はやはりわからなかった。僕は彼女を知らなかった。たとえカラーコンタクトをしていなくて、髪を染色していなかったとしても、僕は多分彼女のことを知らないと言える。一瞬だけ過ぎった赤いランドセルの少女も、彼女とは別人だと思った。
「懐かしいね、どこの高校行ってるんだっけ?」「いやーほんと久しぶり」「覚えてる? 私のこと」
 すまん、と僕は正直に言った。「思い出せない、同級生なんだろうなってことはその口調からわかんだけど」
 僕がそう言うと、突然彼女は笑いだした。緩めていた口元が口角から大きく崩れ、二人しかいない空間に彼女だけの笑い声が響いた。「やっぱりかー」やっぱりか? その言葉に、僕はおもわず同じ文章で訊ねた。すると彼女は「いやいや、わかってるよ」とまるで僕と同時進行で自分自身とも会話しているような喋り方で言った。
「うん、そうだよね。だと思った。だと思ったから、私、此処にいるんだもん」
 「さっきから意味がわかんねえんだけど……」僕は正直と嫌味を兼ねさせてそう言った。それを聞いてまた彼女は笑って、「まあまあ」と僕の肩を叩いた。手を離し、サイダー瓶の袋を僕にわたした。「久しぶりだね、海花一浪くん」
 海花・一浪くん。名前を呼ばれる感触を僕は忘れていたことに気がついた。彼女は、僕を覚えていた。しかし、僕は彼女のことを知らなかった。「一浪誰だこいつ、って思ってるでしょ?」と彼女はすこし面白そうに訊いてきた。素直に肯くと、すこし間があってから「まあ、またゆっくり話でもしようよ」と言って僕にお釣りをくれた。
 僕は今、多分とても険しい顔になっていると思った。よく状況がわからないまま、出入り口へと足を向けて歩きはじめたとき、「あと、一浪」と後ろからまた名前を呼んできた。
 僕は止まってから、「なに」と彼女へ目をやると彼女は僕の頭あたりをちらっと一瞥して「一浪、変わったね」と暗示的な声で告げてきた。自動ドアが開き、駐車場へと出てからもう一度振り返ると、彼女の姿はなかった。彼女のころころとした丸い声がまだ僕の頭で鳴っている。誰だったのだろう、やはり僕の記憶に彼女はいなかった。分かることは、彼女は僕のことを覚えてくれている、ということと、別れ際に彼女が着ていたユニフォームの胸元の名札に目をやったときに見た。彼女の苗字は、僕と同じものということだった。

 緩慢でありながらも雲は除けていき、幾分と削がれた形をした月が見えてきた頃には、街は海も山もどれも似たような色合いになっていた。雨が姑息にも残したぬるい風と匂いも屍となったのに、外から人々のいそしむ音はなにも聞こえなかった。雲がうねりを描きながらほどけていき、隙間から星すらもまたたかせ始める。月は住宅地の上にたたずんで、厳かな静謐を空にもつくりあげていた。
 月と浮かぶのは、コンビニエンスストアで出会った僕とおなじ苗字をした彼女だった。あれからも僕は記憶の箱をとりだし、蓋をずらしては引っかかる物をかいさぐっているけれど、やはりどれも煙になっていて触れることはできなかった。彼女が言うように、僕らが本当に同級生なのなら――どこかで出会っていて、それなりに知り合っていた関係なのなら――、僕は彼女のことを忘れてしまっていることになる。ヤギ顔の友人やみんなが僕のことを忘れてしまっているように。彼女も僕と「同じ」だということになるのだ。
 食事を終えたあと、僕は冷蔵庫からさっき買った瓶サイダーを持ってまた海へと向かった。また彼女に遭遇するかもしれない、という期待もあった。また話せるのならいろいろと訊きたいこともある。そして何よりも、僕のことを覚えてくれている人がいたことに僕は静かな高揚を覚えていたのだ。
 海は空と縫い合わされていた。細い白線がするりと中心に引かれ、同じ色をした面が重なろうとしている。そうさせようと企むのは夜だった。夜は仮初めな唄を空気にはらませて送り、海からただよう凪に音をさずけている。薄く削られた雲が見下ろした場所には小さな蟹がいて、ひんやりとした砂の地をあくせくとした足取りで横断している。蟹の甲羅がすこし青くなる。蟹はそれに気づいていない。
 月。僕は見ていた。しかし、その月は誰にも気づかれずにいた。僕だけが見ていた。月は、言葉足らずなままの形で完結してしまっていた。それにたかる月の化身は青くただよっていて、仄かに夜を薄めている。蟹はそれに気づかず、影も通りすぎて波の方へと戻っていった。僕以外に人の姿はなかった。僕は波が届くか届かないかの境目に立って、しばらく遠い地平線を見つめた。芯から丁寧に作りあげられたような静寂が、ささやかな風を流していた。月明かりで白っぽくなる僕の前髪は、潮の薫りを汲むように揺れた。海の水面には、月を模した光が落ちていた。しかしそれは偽者で、月はやはり孤独でしかない。僕が春休み前に対峙したあの金色の月も、やはり孤独であった。
 おもむろに頭の位置まであげた瓶サイダーは、そんな月を閉じこめた。月はサイダーによって輪郭がぶれた。蓋をあけると、炭酸の気が抜けるような音がはじいた。僕は月をよどませたままのサイダーを、喉に押しこんだ。喉の下でうなる炭酸が、すこし眠り気を佩びはじめていた身体に染みた。深く、深く埋もれたいと思った。サイダーでは埋めることのできない空洞が、僕にはできてしまった。僕の影はすぐに負けて、月の光で青じみてしまっている。切なさを増やしてゆく気分に、僕は「すこしだけだ」と強がりを空っぽな言葉で加えた。
「なーにしてんの」
 後ろから、声がした。無駄に大きな声だ。振り返ると、コンビニエンスストアにいたあの彼女がいた。

 月が二つある、と彼女は水面に投影されたそれを見て呟いた。月が二つある、僕にはそう思えなかった。やはり僕にとって月は、一つしかなかった。あれは偽者だ、と僕は言った。「そうだね」彼女はすこし笑って、「あれは偽者」と言葉をくりかえした。
「俺のこと、わかんの?」
「そりゃあ分かるよ。友達じゃん」
 友達なのか、僕は記憶をひたすらなぶっていた。しかし、彼女のような知り合いが僕にはいない。やはり、僕は彼女を忘れてしまっているのだと思った。
「苗字まで一緒なのに、忘れてしまうもんなんだね」
「海花……」僕は自分の苗字でもある、彼女の苗字をつぶやいた。海花、という苗字はとても珍しいものだった。なかなか聴かない苗字だと思う。そんな苗字が一緒なのだから、十分印象には残るはずなのだ。それなのに、思い出される人物は彼女ではなく、別の人物だった。
「名前に「海」がつく、というところで共通点がある人は一人だけいる。でも、君じゃない」
 すると彼女は笑った。「だと思った」
「だと思った?」僕は訊ねた。「どうして、だと思った?」
「だって、他にもいたもん。海、って名前に入る子」 
 綿谷 海。僕の脳裏に挟まっている人物の名はそれだった。綿谷 海とは僕は小学校、中学校と同じだった。僕との関係はというと、彼女からすればただの友達だったのかもしれない。けれど僕はそうじゃなかった。綿谷 海は、僕にとって初恋の女の子だったのだ。母親も教えてくれなかったそれを、僕は綿谷海から学んだのだ。
「一浪さ、海のこと好きだったでしょ」
 一浪、と僕は覚えていない相手に名を呼ばれることにすこし動揺した。「綿谷とー、友達?」
「まあ、そんなとこ」と彼女は答えた。
「あのさ、君の名前も教えてくれない?」と僕は訊ねた。
「海花 帆音」と彼女は名乗った。海花、帆音。やはり聞き覚えのない名前だった。そんな名前をした知り合いなんていなかったとしか思えない。海花帆音、海花帆音、海花帆音、僕は頭のなかで何度もその名前をつぶやいた。
「ま、想像通りの反応だね」、と彼女はまた笑った。「あなたと一緒だよ。海花一浪くん」
「え」
「私も同じ」
 僕と同じ、つまり彼女も周囲から忘れられていた。

「へえ……」、息にまぜた声をこぼしながら、僕は飲干したサイダー瓶をそのまま放り投げた。それを見ていた帆音は、投げられた瓶を見てから僕の顔を見て、「やっぱり一浪、変わったよ」と小さな声で洩らした。捨てたサイダー瓶は、すり寄ってきた波に被さってすこし転がった。
「変わった? 俺が?」
 うん、と彼女はうなずいたあと、「それじゃあー、またね」とサイダー瓶と同じようにそんな言葉を放り捨てて岸の方へと戻っていった。
 隣に彼女がいなくなってからも、すこしだけ僕は月を見ていた。自分が、変わった? 月に背をむけて僕も帰ろうとしたとき、メールが届く着信音が聴こえた。ポケットから携帯電話を取りだすと、「斉藤 伊月」という名前が記されていた。彼女の小さな呟きが、ずっと頭に残っていた。

 家に帰ったあと、僕は風呂に入っている母親の鞄からライターを取りだして、また外にでた。持ちだしたライターの火をつける。ぽっと目をひらけた火は僕の服に白く丸い光を貼りつけてくる。僕は息を吸った。それは夜空と月の関係によく似ていた。すると本当の月が恋しくなって、息をはきながら月を仰ぐと、すこし霞んで月がみえた。煙が吃音的なただよい方をしていた。雲は離れていくのに、煙は月のほうへと上がっていた。しかしその煙ではとても力不足だった。眠たくなって肩をよせてきた風に、煙は容赦なく潰された。
 ほつれた煙が雫を頭に落としてきて、僕は図らずも眩暈をおぼえた。吐き気もおぼえた。脳が輪郭をつかめなくなって、足元がふらついた。頭痛がして、僕は家のなかへときびすを返した。はじめての感覚だった。おぼつかない足元が、思考も同じ色にした。ライターをソファに投げて、僕は母親に気づかれないようにと部屋へと階段を上がった。
 ベッドに倒れこみ、窓から逆さまになった月に目をやる。月は毅然としている。月は据わっている。けれど、月は回っていた。回っているのは僕の目の方で、据わっていないのも僕の意識のほうだった。僕の瞼は、土足のままこの部屋とあの月を断ち切った。
 嫌な気分は晴れていた。けれど、まだ漠然としていた。それこそ煙の中にいるような感覚になって、これが夢なのだと気づくきっかけを掴んだ。僕は土のうえに立っていた。土だ。ここは畑かどこかだろうか、と予想してみるがそうではなかった。
 僕の部屋だった。いま僕が気持ち悪くなって倒れた、この部屋だった。しかし床は土になっているのだ。土を片手で掬ってみると、結構やわらかな手ざわりをしている。そしてなぜか、部屋には葉の擦れる音がひきずられていた。頭上から聞こえる。かがんでいた腰を持ちあげ、天井を仰ぐと天井はなかった。そこには檸檬の実った木がそびえていた。
 驚きに言葉が伴わなかった。檸檬の木は二、三本ほどあって、部屋の壁の一部はそれと一体化してしまっていた。檸檬、というところで僕は前に見たテレビの映像を思い出した。そのとき木が風も要せずに暗示的な揺れをして、檸檬の実をひとつ土の床に落とした。僕はその落ちた檸檬に目をやった。そのとき、土に幾つもの蜜柑が散らかっていることに気がついた。え。声をちいさくこぼしながら、僕はまたしゃがんで、蜜柑をひとつ手に取った。
 すると拾った蜜柑は、目に見える早さで腐っていった。皮にできていたシミが黒みを増していき、形も大きくなっていっている。指が簡単に押しこまれ、気持ちの悪い感触になってゆく。わかりやすく、朽ちて尽きる過程を見せていた。僕は左手で土をすこし掘り、そこに急速に紫色へと変色しつつある蜜柑を植えた。土をかぶせる。そしてまた立ち上がって床を一望すると、そこにある蜜柑が次々腐っていきはじめた。木は揺れ、いくつも檸檬が落ちてくる。落ちてきた。

「一浪、今日も学校サボったの」
 帆音は瓶サイダーの値段をレジに打ちこみながら、僕に訊ねた。今朝みた夢の話をしようとしていたのだけれど、僕の意識がしっかりとしてゆくにつれて内容を忘れてしまった。僕はポケットから財布をとりだし、瓶サイダーのお金を出しつつ、「ああ、うん」と小さく肯いた。
「学校をサボる、ってどんな気分?」
「もう慣れた。学校行っても、どうせ暇だし」
 「忘れられたもんね」と帆音は嫌な笑みをしながらそう呟くように言った。それはお前もだろうが、と僕は心で押し固めた悪態をついた。直接的に声には出さなかったけれど、奥にしまっていた舌打ちを小さくした。帆音は故意にそれを無視して、瓶サイダーをレジ袋にいれながら「ねえ一浪」と僕の顔をみた。
「人が何かを忘れるとき、それは何がきっかけだと思う?」
「え?」僕は彼女と視線をあわせた。
 そして僕はすこし沈黙に潜った。彼女はとつぜん何を言い出したのか、僕には見当がつかなかった。それは単純な質問なのか、それとも遠回りした僕への皮肉なのか、意味不明なまま完結しそうなその言葉が、黙りこんだ僕の中ではとても重力を持ったものになって聴こえた。
「なんだ、それ。わかんねえよ」
沈黙をそれで切ったあと、僕は頭を掻いて、首を傾けた。それを見て帆音はふっと笑って、「やっぱり一浪変わったよ」なんて昨日と同じような台詞を言った。レジ袋にいれた瓶サイダーを僕にわたしてくる。

 彼女の言葉はいつも僕の夜を不確かなものにしてしまうような気がした。いつもなら通らない坂道のガードレールに空き瓶を当てたりしながら歩いている。彼女がしてきた問いについて慮るには、いつもより多くの歩幅を必要とした。だから今日はコンビニエンスストアから僕の家までの帰り道を、反対側の道にすることにした。坂道のガードレールからはコンビニエンスストアと後ろの海が広い面積で見下ろせる。ガードレールではない方へ目をやると、知らぬ間に咲いていた紫陽花が、初夏がきたことを教えていた。空に雲がしたたり、生温い風が紫陽花の葉をくすぐっている。前から誰か人が歩いてきた。僕の足音がずれて聴こえる。僕は顔をうつむかしたまま、ガードレールの下で生えた小さな雑草や自分の靴を意味もなく見つづけていた。
 海花帆音の存在について、僕はいろいろと翳みきってしまった記憶からなんとか一部分だけでも思い出そうとしている。僕の歩みに影はちゃんと追いかけてくる。しかし、紫陽花の束は追いかけてこない。それは僕が離れていくからであり、花が動かないからである。月がまた見えてきそうな気がするのは、静寂がそう告げているように思えたからだった。僕はひたすら思考の淵から奥へとじっと覗きこむ。歩いているという感覚が消失してゆく。しかし僕は思考も足も、止めることとなる。静寂が告げていることが、事実だったことを知る。雲が退け、青いそれが垣間見える。前へと視線をもどすと、ヤギ顔の友人が驚いた顔で僕を見ていた。
 ヤギ顔の友人は、すぐに僕から目を逸らした。そしてまた歩みを再開させた。不快そうな顔つきをわざと見せ、僕の隣を通り過ぎようとする。そのとき僕がまた彼の足取りをとめた。「なあ」、と。「なんでそうなんだよ」、と。
「は?」しばらく歩いたところで、ヤギ顔の友人は振り返った。
「なんでそんな態度すんのって訊いてんだよ」僕もつま先を彼に向ける。
 「そんな態度って、なんだよ」ヤギ顔の友人が苛立ちを隠さずに僕に言った。「誰だよ、お前」そう言ったのだ。僕は片手に持っていた空き瓶を道に落とし、拳をつくった。いきりが僕の底からさかのぼってくるのが血液の走る脈絡からわかった。彼の口調、彼の表情、彼の態度、それは僕が「友人」と呼ぶ関係の頃にはあり得ないはずのものだったからだ。「ふざけんなよ」斜め前に立つ彼を僕は睨みつけてそう言う。
「……は?」、とまたヤギ顔のこいつは声を落とした。その声はすこし上擦っているように思えた。僕が彼との距離を削ってゆく。ヤギ顔のこいつはそんな僕の足取りをくい止めようとするように、瞬間でも思い浮かんだ罵声をやみくもにぶつけてきた。「ふざけてんのはお前の方だろ」「俺がふざけてる?」「俺は何もふざけてなんてね」
 彼の罵倒が途切れる。僕でもどうしたのか一瞬、思考が追いつかなかった。しかし、すぐに僕はその感触と脳天まで上り詰めてきた憤りで気づいた。はっと冷静さが振り返ったとき、僕は彼の目の前で握りしめた拳を振り上げていた。彼はとっさに両手で顔をかばい、息切れのような声を洩らしていた。そのまま拳をよろよろと落としたとき、僕は彼がもう「友人」ではないことを初めて理解した。きびすを返し、僕は彼に背を向ける。そのとき、小さく「こんな奴じゃなかったのに」という彼の言葉が聞こえたような気がして、僕は鼻をさすった。眼を閉じて、瞼の厚さでいろいろなものを隠した。次に眼を開けたとき、雲は縒れ、いつも通りな、あの月が見えている。



 テレビには、青く暗い水槽のなかで不自由ながら自由をよそおったように浮かんだり沈んだりと退屈に動くクラゲの映像がながれていた。女のナレーションが、その映像の流れに声を足していく。クラゲの生態についていろいろと説明しているようだが、僕にはそれらが理解した上で頭まで届かない。なぜなら僕はそんなテレビなど見ていなかったからだ。僕はテレビに背をむけ、じっとダイニングテーブルに肘を置いて椅子に腰をおろしている。僕の向かいには母親が同じような体勢で座っていて、僕のことを見つめている。その視線はなぜか落ち着いていない。僕の目を見るときもあれば、僕の頭部へ跳ねることもある。呂律の回り切れていない母の眼差しだけれど、強い意志はどこに向けられたものにも持ち合わされていた。見る、というより、穿つ、に均しい力を持ったその意思は、最終的に僕の目へと安定する。
 母は黒いガウチョパンツに、白いブラウスを着ていた。まだ帰ってきてから、母はなにもしていない。風呂にも入っていないし、夕飯も作ってなどいない。いつもならスウェットに履き替えるはずなのに、今日は履き替えることもしない。帰ってくるやすぐに僕の名を呼び、向かいに座らせた。母はしばらく僕を見つめたあと、目を逸らして鞄から煙草とライターをとりだして一本口にくわえて火をつけた。そして一口、深呼吸の役割も含んだように大きく吸って、大きく吐いた。「ねえ一浪」母が僕に話すことなど、何となくわかっていた。ダイニングテーブルの中心に落ちる照明の光が、煙草の煙のたどる道を示した。
「なに」
「母親っていうのはさ、一番近いのに、微妙な立ち位置からしか子供を見れていないんだと、最近思ったの」
 僕は黙った。そのときポケットでバイブ音が鳴った。携帯電話にメールが届いた。しかし、僕はすぐに確認などしなかった。友人からメールが送られてくるとは、今の自分からして在り得ないと思ったのだ。どうせ迷惑メールか何かなのだろうな。
「わたし、十七年と言えばすこしお釣りが貰えるくらいの月日をあなたと過ごしてきたよね」
 だから、「だから、なんだよ」僕はテーブルの上にほったらかしにされている煙草のパッケージデザインに、じっと目をやっていた。母は言った。「だから、そろそろ私も知りたいの」
「なにを」
「あなたが学校に行かない理由」それと、と彼女は言葉をつなげ、言葉を僕にぶつけてくるのだ。「あなたがそうなってしまった理由」
 煙草がみるみる丈を短くしていく。煙がとぼしくなり、母は灰皿をちら見してそこに煙草を潰した。僕は舌打ちをした。「別になんでもいいじゃん」
「あなたが学校を休んだことはなかった。中学校のときは皆勤賞も貰ったじゃない。保護者面談のときには、よくムードメイカーなんて言われていたし」だからなんだよ、と僕は先ほどよりすこし声を荒げて言った。「親って、一番近い距離にいるのに、子供の肝心なことをわからないこともあるの。けれどね、一浪?」あなたに何かがあった、というのは親だからわかるわ。そう母は言った。
 ところで、クラゲの目はどこにあるのでしょう? テレビで女のナレーションがそう言っていた。テーブルには十八本になった母の煙草が蓋をあけたままで置かれている。母は変わらず僕を見ている。まぶたにかかる前髪が、照明が当たってすごく明るい。僕はゆっくり息を噛んで、呑んだ。ヤギみたいなあいつの顔が、脳裏のほとりを早歩きで渉った。波の砂浜を這う音もした。母の視線が僕を穿ってくるようだ。僕はもう穴だらけで、あちこちから零れ落ちてきている。
 母がもう一本煙草を吸い始めるくらいのときに、僕は母に打ち明けることとなった。僕が忘れられたことと、春休み前に見たあの月のことと。母はその僕の話に、なにも言葉を挟むこともなく、ただ瞼を閉じたり開いたりして花のような表情でこくりこくりと肯いていた。僕は自分のことを語りながらも、自分が何について話しているのかわかっていない感覚も同じ比率で引きずっていた。そんな陽と影のような心の上で、「一浪、変わったね」とだけ呟く海花帆音の存在も、テレビにうつるクラゲみたいに浮かんでいた。「一浪、変わったね」確かにその通りなのかもしれない。「一浪、変わったね」僕が変わった? わからない。煙草が十八本から、十六本に減った。

 僕の話が終ったとき、母はすこし悲しそうな顔をしていた。しかし、それから続くものはなかった。彼女はすこし顔に陰ができたように見えた。自分のことは、自分でよく把握しているつもりだ。こうやって誰かに話さなくても、僕が一体どんな性格で、どんなものが好きで、どんな環境にいるのか、ちゃんと理解している。しかし、一つだけ僕には理解できていないものがある。その答えを知りたくて僕は母に今までを話したのだ。「どうして自分は忘れられたのか」、ただそれだけがわからない。
 母は無言のままでいた。僕は僕という人間がどんな人間かを知っている。そして今、それを母に話した。しかし母の顔は、悲しそうだった。まるで僕に、「そうじゃない」とでも伝えているみたいだった。
「一浪」
 母は僕の名をつぶやいた。色彩の薄い彼女の瞳には、僕の顔と、後ろで浮かんだクラゲがうつっていた。
「クラゲって、漢字にするといろいろあるのね」そう言うと母は鞄からメモ帳とボールペンを取りだし、そこに「海月」「水母」という風に書いた。「この町も「くらげ町」って呼ぶけど、漢字にすればこうじゃない」母は「暗気町」とそこに書いた。
 何の話をしているのか、僕にはさっぱりわからなかった。
「どうして「暗気」って書いてクラゲなんだと思う?」
 母の話はとても退屈で億劫だった。悲しそうな顔をしたまま、クラゲの名前の由来について話しはじめる。僕の背後からは女のナレーションがクラゲについて解説をしている。メモ帳に母が書いた「海月」という文字が見えて、すこし瓶サイダーが欲しくなった。海と、月。僕は海の水面に反射して、月が二つ生まれたあの景色を思い出した。しかしあの二つの月は、本物と偽物でしかなくて、海は偽物の方を抱えていて。「親だけど、わたしはあなたを助けることはできないと思う。……ううん、違う。親だから、わたしはあなたを助けることはできないのだと思う。でも、一浪。考えて。考えて欲しいの」
 母の声に熱がこもる。二つの月が僕を見つめる。波が僕の前で立つ。
「海があなたに教えてくれることは何?」
 海は僕に何を教えようとしているのだろう。
「月があなたに教えてくれるものは何?」
 月は僕に何を教えようとしているのだろう。
 僕は母じゃなく、自分に言う。
「わからない」
 わからない、って。

 喫茶店にくるのは、ずいぶん久しぶりだと思った。女の店員が僕の座るテーブルまでやってきて、冷たいアイスティーをコースターの上にやさしく置いた。その隣にガムシロップとミルクのカップを置く。そして去っていった。僕はアイスティーの中にガムシロップを注ぎ、黒く細いストローでまぜて一口飲んだ。あまり馴染みのない場所だなと思う。ログハウス調の店内は、決して少ないとはいえない人数がいるにも関わらず、静かだ。話し声は聴こえても、耳に届くか届かないかくらいのものでしかなく、食器が触れ合う音のほうが勝ってしまうくらいだ。すこし僕は天井を仰いだ。太くしっかりとした木の梁が組まれ、中央に空けられた箇所からシーリングファンがしつられている。小さくジャズの音楽がかかっていて、壁の窓からは木と葉と駐車場がみえる。それらを傍観するときに、扉が開いた。振り返ると、僕を呼びだしといて遅刻する彼女がきょろきょろと僕の席を探していた。目が合った。「ごっめーん」、と口を動かしてうっすら笑っていた。
「ごめんのー、こっちから呼び出しといて」と帆音はたいして申し訳ないと思っていなさそうな口調と表情で言いながら、向かいの椅子に腰をおろした。
「いや、いいけど」俺も今来たところだから、と言おうとしたがそれはデートに使うものだと思ったのでやめた。「それで、俺に言いたいことって?」
 母が僕にクラゲについて何やら話したあと、僕は自分の携帯電話に知らないアドレスからメールが送られてきていることに気づいた。「明日、一浪に言いたいことがあるからここの喫茶店に来て。あっ、あと帆音でーす」とここの地図を貼りつけて送られてきていた。僕に言いたいこととは何だろうか、といろいろ考えてみたけれど何もなかった。まずどうやって僕のメールアドレスを知ったのだろう。中学生の同級生に訊いたとしても、僕のことを覚えている人なんていないだろうし、まず彼女自身も僕と同じ状況にいるのだ。そこのところも明日訊こう、ということで昨日は解決した。だから今日訊ねる。
 「んー」と帆音は僕に返事しながらメニュー表をみて、店員にアイスコーヒーとショコラケーキを注文していた。店員が去っていくと帆音は「まあまあ。まだ時間もあるし」と店の壁にかかった時計をみてそう言った。僕も釣られて時計をみると、時刻は午後三時半をまわったくらいの時間だった。「あのさ」
「どうやって俺のメアドを知ったのか訊いていい?」
「え」と帆音は言った。「なに言ってんの一浪。最初からメアド知ってるじゃん。中学のときから知ってるよ。ま、一浪は覚えていないだろうけど」
「そうなの?」僕は自分の携帯をひらき、電話帳に登録されている中から帆音の名前を探した。たしかにいた。気づかなかった。「ところでさ、一浪」
「なに」
「海のどんなところが好きだったの?」彼女は訊ねてきた。え、としか僕は瞬時に言えなかった。海、とは綿谷海のことだということはわかった。そのとき店員がアイスコーヒーと、ショコラケーキを運んできた。帆音の前において、するりと踵を返していった。
「どうして今、綿谷海の話なんだよ」
「え、気になるし」、と帆音はまた口元を緩めながら言った。楽しそうな顔をするのが上手だと思った。しかし、どうして今になって僕の初恋の話をするのか、僕にはさっぱりわからなかった。僕が綿谷海に好意を抱いていたときなんて、小学生のときだ。別にそれ以上に僕と綿谷海の間になにがあったわけでもないし、それからは別の子を好きにもなった。別の子が恋人になったりした。ただ、綿谷海が僕の初恋だったというだけなのだ。どんなところが好きだったかなんて覚えていない、と僕は言った。「ただの初恋。聞いても面白くなんてないぞ」
「ふーん」帆音はショコラケーキを一口フォークで切って、それを食べた。美味しそうな顔をするのも上手だと僕は思った。「今は海、どんな感じか知ってる?」
「知らね」と僕は答えた。「なんなら中学からあんまり喋ってない気がする」
「そっかー」帆音はショコラケーキの二口目をフォークで切っていた。「でも一浪、まだ好きなんでしょ?」
「は?」
「え、まだ好きじゃないの?」
「なんでそうなんだよ」なんでそうなんだよ。僕はアイスティーを飲んだ。
 綿谷海。僕は彼女のことを脳裏で思いだした。綿谷海と名を聞いて、浮かび上がる彼女の姿は背も低く、赤いランドセルを背負っている。生まれたばかりのような飾りもない純粋な黒髪をしている。帆音とよく似た形のいい耳をしていて、給食を食べるときはよく髪をかけていた。最後に話したのは、中学に入ってすぐのときくらいだったと思う。けれど、どんな話をしたのかはもう覚えていない。
「海ね、たまに会うよ。私」
 だからなんだよ、と僕は思ったけれど言わなかった。「そうなのか」
「うん。今彼氏いないよ、あの子」
 だからなんだよ。僕は頭を掻いた。「ああ、そう」すこし鬱陶しかった。それからすこし空白ができた。その空白はとても自然とした流れによってもたらされたものだった。僕らは何となく黙り、何となくアイスティーを飲む僕だったり、何となくショコラケーキを頬張ってはこくりと肯いて美味さを認識する彼女だったりした。ジャズ音楽が流れている。窓の外の木葉が取りこぼした陽が風によって影ごと揺らされている。シーリングファンが回っている。隣にいる三十代くらいの女客がひそひそとした声で話している。コーヒーの匂いがした。それらを観察できるくらいの静寂が僕らの間にあり、やがて帆音の声によって空白は埋まった。「あ、そういえば一浪」
「なに」と僕は彼女を見る。
「前私が訊いたあの質問、わかった?」
「あの質問?」僕は訊ね返した。
「ほら。「人が何かを忘れるとき、それは何がきっかけか。」って」
 「あー」、確かに訊かれた。それで僕は意味がわからなかったのだ。それは今もだ。今、そう訊ねられても僕はわからない。なにも答えることはできなかった。「わかんねえ」と僕は正直に言った。「そんな難しいの、わかるわけねえよ。まず、それがわかってたら俺は今こうなってない」
 帆音はそれに返事をせず、アイスコーヒーを一口ゆっくりと口に含んだ。そのあと、ショコラケーキをまた頬張り、ゆっくりと味わって「うまいわー」と簡単な感想を述べた。それからもう一口を食べ終えてから、ようやく「一浪」と静かに僕の名前を呼んだ。なんだよ、と僕が反応すると、彼女はすこし微笑みながら「何も見えていないんだね」とその表情とは釣りあわない冷たい声でそれだけ言った。

「何も見えていないんだね」

 何も見えていないんだね。僕は黙ってしまった。先ほどのように「え」という声すら、洩れることはなかった。何も見えていない? 僕は自分の声を彼女の声にして、自分に訊ねた。何が見えていない? そして何も不明なまま、僕は自分の中で呟いてしまう。
僕は、何を見ているのだ?
「一浪」また名を呼ばれた。次は先ほどと同じ温度の彼女の声だ。
「な、なに」僕は彼女の言葉によって、強く動揺していた。彼女の言葉が、また僕を不確かなものにしてしまっていた。特に完璧な沈黙なんてそこには無いはずなのに、僕は深い沈黙のなかに埋まっている感覚になっていた。その沈黙は僕に痛みをぶつけてき、周りの音が音を立てて消える。瓶サイダーが欲しかった。なにも考えられない。僕は変わったのか、僕は何を見ているのか、僕は帆音を見ている。僕はどこにいるのか、僕は喫茶店のテーブル席の一つに座っている。帆音はアイスコーヒーにミルクを注入していた。ストローで弧を描いて混ぜながら、僕にまた話しはじめてくる。
「これまでにさ、何人と付き合った?」
 「え?」僕はその質問に答えるため、これまで交際してきた女の子の顔を思い浮かべていった。最後に付き合ったのは去年の秋くらいだ。たしか性格が合わなくて、すぐに別れた。「四人、くらい」と僕は沈黙のなかで答えた。
「中学校最後に付き合った子は誰か覚えている?」
 うん、と僕は肯いた。谷澤佳代という子だ。高校受験に専念したいから別れようと僕から切り出した記憶がある。あまり府に落ちていなさそうな顔をしつつも、別れてくれた子だ。覚えている。「谷澤佳代、だけど」
「そーそー」と帆音は言いながら、時計の時間に目をやった。「ここの近くに駅あるじゃん? 無人駅。そこに十七時になったら電車がくるから、待っててみ」
「どうして」僕は訊ねた。
「さっきの私の質問にちゃんと答えてもらうために」

 今年も梅雨になったけど、雨の日が多いような印象は今のところ無いなと思った。空は白に比べて青が多い。駅は誰もいない。この町が田舎だということを剥き出しにわからせてくるこの無人駅は、長くも短くもないホームに面積の合わない屋根があり、その下に古びたベンチが二台設けられている。その隣に自動販売機が一つある。このホームの向かいにも、同じようにホームがある。向かいのホームにも、人はいない。携帯電話をとりだして時間を見ると、もうすぐ左側から電車がやってくる。僕はなんとなくベンチに腰かけ、彼女が僕に落とした言葉の数々の中身をかいさぐることにした。
 何も見えていないんだね。
 多分僕は本当の意味で、その言葉について自覚なんてしていないのだと思うけれど。そうかもしれない、と内面の一番外側ではそう呟いていた。僕は、何が見えていないのだろう。彼女はそこまで教えてくれない。すこし夏をはねのけたような風が吹いたところで、僕は答えなんてわからない。今からやってくる電車が、乗客にまぎれさせてその答えを運んでくるとは思えない。見えているものから、見えないものを探すというのはどういうことかなんて、馬鹿な自分はわからない。帆音は僕をすこし高く見すぎている。これくらい雰囲気で分かるだろ、というような空気で話してくる。けれど、帆音。僕はそこまで頭は優れていない。あまり僕に期待をしてほしくなかった。帆音は一体、僕になにを伝えたいのだろう。彼女の言葉が僕に贅肉もつかず素直な状態で届くには、補足が足りなさすぎる。だけど、僕もまた同じなのではないかと思うこともある。僕の方も、帆音を高く見すぎているだけなのかもしれない、と。帆音は僕がなぜ「周囲の人から忘れられた」のか、とっくに原因をわかっているような口調で話しているが、帆音も環境は僕と同じところにいるのだ。帆音もまた、僕を含めて周囲の人は皆彼女の存在を忘れてしまっている。それの理由なんて、帆音も理解していないはずだ。なら、偉そうにあんな言葉を僕に言えることなんてできないはずだ。自分もわかっていないことを、僕にわかったフリをして話してくる。いろいろと考えているうちに、僕は自分が苛立っていることに気づいた。どうして同じ立場のお前にいろいろ小馬鹿にされるようなことを言われなきゃならない? 
 それからすぐに、宙をステンレス製の何かで叩くような音がなりはじめた。一定な間隔でそれは鳴った。苛立ちはその幅を拡げていっていたけれど、尖っていた神経は踏切の音によってあやふやにされて途切れた。唐突に鳴りだしたものだから僕も思わず驚いた。踏切を見ると赤く点滅し、遮断機がおもむろに下りはじめていた。左へ首をまげると青と白の体に黄色いラインが入った二車両だけの電車が近づいてきていた。二つのホームに挟まれ、速度が落ちてゆく。そして僕の前で止まった。しゅっ、と中のよどみを排出したような音を立てた途端、先頭車両の一番前の扉だけが開いた。降りてきたのは五人ほどの学生で、僕と同じくらいの高校生だった。みんな僕とは違う制服を着ている。その中に一人、僕に目をちらりとやる女子がいた。僕を見た彼女は、すこし驚いた表情をした。僕もすぐに彼女に気づいた。僕は目を合わすことはできなかったが、何か言わなくちゃと心が背中を無理やり押してきて無作為に言葉が選ばれた。
「よ、……久しぶり」
「……一浪?」
 谷澤佳代と会話したのは、二年と言えばお釣りが返ってくるくらいぶりだった。

 スカートを折っていて短い。それは中学のときからだ。真っ直ぐで背中を覆うくらいに髪が長い。それも中学のときから。ヘアーアイロンで痛んで色が落ちたのか、毛先あたりが日の光で茶色くなっている。睫毛がすこしくどい。これは中学のときと違う。頬が最初からそうであったようにピンク色をしている。これも中学のときと違う。高校生になって二年目にもなると、彼女の性格だから化粧くらいは齧っていると予想できていた。長袖の白いブラウスの袖を折っていて、ベージュのベストを着ている。色とデザインの派手なケースに入ったスマートフォンを片手に持って、右肩にスクールバックを担いでいる。そして、僕をずっと見ていた。僕が映る彼女の瞳には、僕の各部分へと飛んでゆく。まず顔、次に服、ちらりと足元、そして頭。
「一浪、だよね?」
「そう、だけど」つい僕から視線を外してしまう。彼女と最後にした話は別れ話だったから、すこし気まずい。
「どうしたの、その」
 僕はうまく彼女と顔を合わすことができなかった。「ああ、いや、別に理由は自分でもわかっていないんだけど、さ」つい中学のときと同じような態度になってしまう。「え、何がわかんないの? ……っていうか一浪、通学かなんかで電車乗ってたっけ?」佳代は僕との距離を詰めてくる。これも中学のときと同じようだ。多分、彼女は僕が思っている以上に気まずさなんて感じていないのだろうと思った。「ほんと、久しぶりだね」
「ああ、うん。いや、この電車は使ってない。久しぶりにここ来たし、」
「でも制服じゃないし、どっか行くの? くらげ町方面ならこの電車に乗らないと駄目だよ? 駅前の方に行くなら今にあっちのホームに電車がくるからそっちに」
「いや、違うんだ」と僕は彼女からの質問を断ち切った。「この電車に乗るとかじゃなくてさ」
 彼女は「うん?」とした顔で僕を待っていた。なんと説明したらわからない。視点がころころと変更される。一度として視界が定まらない。頭の後ろを掻く癖がつい出てしまう。
「その……、佳代に会いにきた、みたいな」
 へ? と彼女は声を洩らした。ちらっと目をやると、チークとは違う赤みが頬に滲んでいて、わかりやすく照れをまたたかせていた。「いやいや、ちょっとよく分かっていないんだけど私」だからそれは俺もだって、と僕も言いたくなった。
「いきなりどうしたの、一浪」佳代はまだ顔を赤らめたまま、いささか無理して平然とした態度に戻した。
「いや、ごめん」何となく僕は謝る。
 「えーと……」佳代はぎこちない瞳で僕を見たりして、はにかみを振り切ったように大きな声で「ねっ!」と声を上げた。「一緒に帰ろうよ。私の家と一浪の家、同じ方面だし」   
 佳代は中学のときと同じような態度で、同じような笑みが魅力的な表情で僕に接してくれた。「お、おう」僕と佳代はちいさな階段をおり、そのまま歩いた。「ほんとに久しぶりだけど、一浪、変わったね。なんか」佳代は僕のほうを何度か目をやりながら、そう言った。そうかな、と僕は返した。帆音にも言われたし、ヤギ顔のあいつにも言われた台詞だ。
「どこらへんが変わった?」
 「んー、わかんないけど。なんか変わった」佳代はずっと持っていたスマートフォンを鞄のなかに片づけた。それから右の僕に顔をむけた。まだ頬が明るんでいる。チークなのか、照れなのか、底の浅い夕日だけでそれは区別がつかなくなる。化粧とかは関係なく、僕は中学のときより佳代がなんだか綺麗に見えた。二人で歩くのも久しぶりだし、この道も久しぶりに歩いた。線路と道を隔てるガードレールも錆が増えている。その下で僕らの歩みによって流れてゆく季節の花や草も懐かしい。佳代は今、どんな感覚でどんな気分なのか、僕には読めなかった。別れたときのことなど、もうどうでもよくなっているのかもしれない。それでも僕はこうしてまた隣同士で佳代と歩いていることに、とても懐かしさと当時とよく似た気恥ずかしさを感じている。変わった、と僕は言われたけれど、何も変わったものなんて無いような気がしてくる。
「よかった」
「え?」
 突然、佳代はそんなことを言った。知らぬ間に僕は左を向いて、簡単に佳代の横顔を見られるようになっていた。「いま私、嬉しいな」もっと左を見れば、夕日がくらげ町の海の方面から、僕らまで達している。

 先ほどとは反対方向の電車が僕らを通り過ぎていった。ほんのすこしだけ、風が残った。この踏切をこえれば、すぐに佳代の家がある。とくに交わした会話といっても、深い意味なんて持たないものばかりだけど、ほのかに心が戻ってきたような気になっていた。「なあ、佳代」
「ん?」踏切音が終わり、遮断機がゆっくりと上がっていく。
「さっき、俺が「変わった」って、言っていたけど、やっぱり詳しくは説明できないか?」
 佳代は小さくうなって、すこしの間険しい顔をした。「んー、ごめん。やっぱりわかんないな」ごめんね、と佳代は言った。
「そうか。いや、別にいいよ」僕は佳代の家の前で足をとめて、佳代に手を振った。「じゃあ、また」
 うん、と佳代は肯いた。「でも一浪。変わった、って言っても何もかも変わったわけじゃないよ。むしろ変わったものなんてたいしたことないところだよ。確かにちょっとは変わっちゃったかもしれないけどさ、一浪はなにも変わらないままだよ」
 僕はおもわず曖昧に振っていた手を止めてしまう。僕はなにも、変わらないまま。
「気持ち悪いかもしれないけど、言っちゃうとね。一浪と会ったとき、とても気まずかったの。ほら、中学のときの最後があれだったし。でも、「佳代に会いにきた」って言われたとき、かなり嬉しかったんだよね。多分、じゃない。言っちゃうけど、さ? 私さ、まだ一浪のこと好きなんだよね。多分、じゃないよ。多分、じゃなくてさ」
 僕はなにも言わなかった。夕日によって住宅地にたたずんでいた影がすこしずつ傾いていた。
「だからさ」佳代は家の玄関の鍵を開けながら、僕に訊ねた。「また、メールとかしてもいいかな?」
 う、うん。そんな声と、そんな仕草しか、僕はできなかった。頭でもつれていた帆音の言葉やいろいろなことが、端っこの部屋まで追い出されていた。ひどく脱力感を占めていた。心が元あった場所をその沈黙で忘れて、透明になっていた。するりするりとそれらは戻ってくるけれど、なにも生まれない空白はじっと残っていた。電車が通り過ぎていったあとの風みたいに。
「それじゃあね」佳代はなにも変わらない顔で笑って、家へと入っていった。ドアが閉まる音で、僕の中で変わらないものは何かがすこし見えたような気がした。気がした。瓶サイダーが、飲みたい。

 いつもより瓶サイダーの炭酸がきつかった。防波堤に座って海へと足を放っていると、足元の感覚が麻痺してくる。同じ海なのに、肌で得る感覚などが異なっている。背中からも潮が薫り、視界は星空をうつした水面しかない。夜だけど、明るい。埋めこまれた星が夏を語っている。このまま、梅雨の時期も通りすぎてゆく。生ぬるい風が凪をすべって、僕らは風の中で息づいている生き物だと知る。やや紫の混じった不思議な夜の色と、水面の遠くでぽつぽつと色づいた街の光がサイダー瓶によってより曖昧になる。一口飲んで、となりに置くと、水面に月の化身ができていることに気づいた。それは帆音が言っていた「偽者の月」の光ではなく、「春休み前に見た月」のものだと、僕はすぐに気づいた。僕が春休み前に出逢った、金色の月だ。
 春休み前のあの日と同じような波の音で、同じような静けさと同じような風が走っては休息をとっている。瓶サイダーを一本、飲み干す。空っぽになった瓶に、僕は水面に坐ったあの月の影を重ねてみたりする。半透明の向こうで月が浮かんでいるのをじっと見つめて、僕の心が同じような状態であることにまだ消えていない炭酸の気配を連れていった。うまく位置を取り戻せていない心が、夜に含まれた紫色よりぼんやりとある。頭か、心臓部分か、手か、腹か、わからないけれど、どこかに。
「人が何かを忘れるとき、それは何がきっかけだと思う?」
 何も見えていないんだね、と帆音は言った。こんな奴じゃなかったのに、ヤギ顔のあいつが言った。海はいつ見ても広い。それに比べて、ここから見上げる月なんてとても小さい。水面に落ちた金色の影が、今にもその海に呑まれてしまいそうだ。瓶サイダーが映している。ずっと言葉で燻られている僕は、唐突にできてしまった空白に、まだ上手く触れていないのだ。サイダー瓶を持っていない方の手が、ずっと携帯電話を握っている。すこし瞼を閉じてみれば、まだ僕の時間は先ほどの夕景で止まっている。
 一浪はなにも変わらないままだよ、佳代がそう言ってドアの鍵を開ける。僕の中の、変わってしまったもの。僕の中で、変わらないもの。サイダーの空き瓶に落とした言葉は、まだ僕の家の、僕の部屋の窓際に並べられている。僕は腰をもちあげて、防波堤のうえに足で立った。次第に月が、月の影が水面から消えてゆく。仰ぐと夜に、月なんて初めからなかったことに気づかされた。
 携帯電話をひらくと、「斉藤伊月」の名前が目にはいる。電話の鳴る音がしている。僕はそれを耳に当て、その電話を出た。「……伊月」
 彼がなにか話している。僕はずっと黙って、ひとしきり彼が話し終えるのを待った。そして彼が用件を言い終えたとき、ようやく僕が口を開くのだ。
「伊月。話がある」 
 さよなら、の大概はどれも途切れさせるようなものだ。それは今も。それは僕も。さよならは、海と月に。

 それから僕は、母の煙草の箱を靴で潰した。それから僕は、窓際に並べていたサイダーの瓶を淡々と叩き割っていった。「なにしてんの」と母の怒鳴り声が聞こえたが、そんなこと気にしていられない。夜が明けてしまう前に、僕は髪も染めたいところなのだ。

 午後から雨が降る、と天気予報士は言っていた。傘を持ち歩いた方がいい、と。僕はそんな忠告を耳の縁あたりに付着させとき、ビニール傘を持って外にでた。二年生になってからの思い入れなんて染みていないままブレザーは片づけて、久しぶりに着ようと思った制服は白いシャツにやや薄生地となったスラックスだった。三ヶ月ほどの期間が、僕に感触の悪い緊張を投げてくる。春休み明けのあの日が、振り返ってくる。ヤギ顔のあいつの顔や、僕が必死になって腕を掴んで呼びとめた人たちの顔が、僕の歩みに比例して振り返ってくる。初めて学校をサボった日と同じような、雲の押し詰められた空に鳥が数羽ほど流れる。
 僕と同じ制服をきた生徒が、何人も僕と同じように歩いている。それは学校に近づいていくにつれて増えていく。僕は三人で歩く男子生徒の後ろで歩いていた。前にいる男子生徒たちは、僕に気づかず、朝から大きな声でくだらない会話をしている。僕も以前はそこにいた。僕もそういう日々にいたのだ。三人組のなかの一人が、後ろを振り向むいて、そいつと目が合うこととなる。ヤギ顔の、そいつと。

「帆音、今どこにいる? バイト中ならそれでいい。今から会いに行っても、いいかな。この前僕にした質問、答えに行きたいし。君のおかげで、いろいろ考えられた気がするよ。ありがとう。喫茶店のあと、ちゃんと佳代に会えたよ。しかもいろいろ話せた。僕が忘れられている、と思っていたけれど、案外自分の方がいろいろと忘れていたのかもしれないなんて思ったよ。ありがとな、ほんとに。それとさ、帆音。
 これからも、仲良くしてくれたりしないかな?
 多分、僕にとって帆音は結構大きい存在になっていると思うんだ。今日、こうして学校に行けたのも、帆音が言ってくれた言葉のおかげだし。いや、多分じゃないな。多分じゃないよ。帆音の存在は絶対、大きい。だから、これからもよろしくしてくれないかな? しかも、ほら。帆音も僕と同じだろ? 次は僕が、みんなが帆音を思い出せることができるように手伝いたいんだよ。まあ、僕このとおり馬鹿だから、君みたいに頭は良くないから、力になれるかどうかと訊かれれば肯けないけど。それに、まだいろいろと帆音に訊きたいことがあるし。
 とりあえず、今から会いに行くよ。質問に答える他に、もう一つ、君に言いたこともあるんだ。」
 僕はメールを送信し、スラックスのポケットに携帯電話を戻してコンビニエンスストアへと足を運んだ。波がすこし荒んだ音をしていた。湿気を含んだやや強い風が、梅雨の時期を証明させるように吹いて僕のビニール傘ががたがたと暴れた。雨はまだ降りはじめてはいなかったけれど、曇り空は朝よりも深く暗みを滲ませ、動作がにぶい雲が灰色に苔を生やしはじめた。傘を飛ばされないように、持ち手を握る手に力をこめる。
 コンビニエンスストアに入ると、男店員の「いらっしゃいませー」だけが聞こえた。あとは何も聞こえない。店内には曲もかかっていなかったし、レジの男店員以外の人は見当たらない。帆音の姿はなかった。それでも僕は本当か確かめるため店内をぐるりと回った。商品棚でサンドウィッチを並べている店員もいないし、トイレにも誰もいない。いつも僕が買う瓶サイダーがならんだ冷蔵庫のほうへ目をやってみるが、誰としていなかった。それでも僕が瓶サイダーが並んでいる箇所まで近づいたのには、また違った理由があった。
 その冷蔵庫には、瓶サイダーなど販売していなかったのだ。そこにはペットボトルの炭酸水があって、瓶の容器である飲み物など何もなかった。ポケットからまた携帯電話を手にとって開くと、メールが送信されなかったという報告が伝えられていた。アドレス帳を開いて、急いで「あ行」にいる名前を確認する。
 おいどういうことだよ、そう声になるかならないかの呟きを洩らした頃には僕はコンビニエンスストアを飛び出していた。早歩きで駅のほうへと足を運んでいた。意識よりも、直感が先に身体を侵略してしまっていた。早歩きはやがて駆け足になり、なぜこんなに自分は焦っているのか理由もわからないまま僕は走った。ローファーのつま先でつよくアスファルトを蹴った。粘着質のあるぬるい風が肌にへばりつき、セットしていた髪の毛もくしゃくしゃと崩れた。いそいで巻き上がった前髪を戻そうとしたけれど、それほど僕の気が回っていなかったことに気がついた。全力で駆けている。湿気で汗ばみ、シャツが鬱陶しくて嘆息を吐きつける。あまり運動していなかった身体がすぐに限界だと嘯く。うるせえ、とそんな弱音の胸倉を掴んで殴りかかる。そんな僕を待っていたと言うみたいに雨がこぼれてくる。雫がぽつぽつと頬を叩いてきて、赤いランドセルを担いだ女の子が僕を見ていた。どうしてこのタイミングで綿谷海なんて思い出したのだろうか、自分の思想がどう蠢いているのか把握できない。海花帆音がショコラケーキを食べていて、小学生の女の子がジャンプしてランドセルをがくんと極端に揺らしている。踏切が近づき僕だけに強く吹いている風が思考よりも意識よりも早く駆ける足を叩いて踏み切りをこえた。無人駅が見えてくる。もうすぐ時刻が十七時になる。今こえたばかりの踏切が後ろで甲高く音を放りはじめ、雨で輪郭の外がぼやっとした赤いランプが点滅する。向かいの方から、電車がやってくる。
 僕はホームへ上がり、到着したその車両から海花帆音の姿を目で探した。いない、二車両あるから、後ろの方にいるかもしれない。二車両目のほうへ行こうとしたときに、「一浪!」という声が聴こえた。佳代だ。振り向くと佳代が傘を差して僕を見つめている。「どうしたの?」と訊ねながら僕の方へと近づいてきた。
「いや、……何でもないよ。あ、それとおかえり」
「うん、ただいま。誰か探しているの?」
「いや……、」そうだ、僕は帆音を探しているのだ。しかし、佳代にそれを伝えるのはあまりよくないと思った。「ち、違うよ」
「じゃあ、また……」
 電車がふたたび動きはじめる。それに焦って二車両の車窓から中にいる乗客の顔を見てゆく。しかし最後まで確認できないまま、電車は次の駅へと去っていってしまった。「ねえ、どうしたの一浪」佳代は落ち着きのない僕の視界にいちいち入り込んでくる。「なにをそんなに急いでるの?」
 次はいま電車がきた方面に向かう電車がやってくる。僕はその電車に乗ることにした。僕は佳代の顔をつよく見つめ、言った。「ごめん佳代、今僕はすごく後悔しようとしている。きっとこれは後悔になる。わかっているよ。でも、どうしても今は行かなくちゃいけないような気がするんだ。行かなくちゃ、後悔する。もう、自分でも何となくわかっているんだ。だけど――」
 また踏切が鳴り始める。「ごめん」と佳代に目を合わせて伝えてから、向かいのホームへと走った。向かいのホームに立ったとき、佳代が線路ごしに僕をずっと見つめていて再び視線が繋がることとなった。佳代が何か言っている。雨で口元が見えづらい。風で声が聞こえづらい。すこし笑っている。すこし、泣いている。僕は佳代に、言わなくちゃいけないことがあるのだ。何を言おう、どの言葉を叫ぶ? 瞼が持ち上がったまま熱い、佳代が僕との視線から逸れる。そしてホームを降りようとするその表情とその姿を、容赦なく電車が喰った。

 窓にしがみついては剥がれていく雨粒が、景色も冷静な息で奪っていった。車両の中はよどんだ空気が蒸れていて、居心地が悪い。もうあの無人駅は小さくなって見えない。まだ佳代がそこで立っているのかどうかも、関わりを切り捨てた窓は映してくれない。今の車窓はぬかるんだ道と、田んぼをひとしきり流し込んでいき、やがて赤い鋼橋の上をわたる。途切れ途切れでみえる深い川面は、雨が殴りかかって騒がしい。不規則な振動で肩から一気に重力で持っていかれる。
 暑い。額に芯から張りついた前髪を指でつまんで離す。溶けたヘアスプレーが中途半端に毛先に残っている。電車が各駅に止まるたびに、つよく焦燥感で内側を押される。全力で走った体が、まだ状況を理解しきれずにひたすら汗をほのめかしてくる。汗を袖で拭う。携帯電話に目をやるけれど、やはり帆音に宛てて送ったメールは未送信になっている。
 つり革を握りしめる手の力が軽くなる。送信できなかったメールの内容をひらいて、その文面を読み直す。いい具合に自我の海底に溶けこんでくる気持ち悪さがあらためた姿勢で清楚な格好をしてやってきて、送信されなかったことに思わず安堵する気持ちもいささか生まれた。僕らしくないメールだ。まずこんなに長文で文章なんてあまり書かない。僕の物語なんて、文章に起こしてみても短いものだ。中学のときはかなり自分はおしゃべりでたまに迷惑がられるくらいにうるさい奴だと思っていたけれど、今になってあまりそういったタイプじゃないのかもしれないなんて自分を見つめ直せたりした。あまり自分という人間に、言葉を多くは必要ないのかもしれない、と。しかし、帆音に送るメールには、それだけの言葉を使用せざるを得なかった。それは、これからも。帆音はもう僕のことなんてほぼ全部知ってしまったのかもしれないが、僕は何も彼女を知らない。まだ訊きたいこともあるし、そして彼女を助けられていない。僕と帆音は、外面はなにも似ていなくても内側の隅っこに咲いた花の種類くらいは同じだと思うのだ(それは僕だけが思っていることかもしれないけれど)。
 僕が帆音に訊きたいこと。たくさんある。僕が帆音のことを忘れている分、いろいろとある。中学の頃、僕らはどうやって知り合ったのか、だとか彼女と僕の間に、強い思い出などはあるのだろうか。それと――どうして彼女は、僕が「忘れられた」ことを最初から知っていたのか? だとか。景色に、建物が増えてきた。そろそろ最終駅だ。別にそこで降りたからといって、帆音がいるかなんてわからない。根拠なんて何も無いのだ。
 そして駅に到着する。そうだ、綿谷海のことも訊きたい。決して、興味が無いわけではないから。

 ホームのいささか長い階段を降り、改札で整理券をわたしてそこからの乗車金を払った。外にでると、石畳のまるい広場があり、円型の木のベンチが二つほど設けられていた。雨で誰も座ってなどいなかった。外壁がすべてガラス張りのショッピングモールが建っていて、その前にはタクシーの駐車場があり、その後ろでバス停がL字で並んでいた。ショッピングモールの中にある洋服屋の袋をもっている女子高生や、傘をさしながら会話している女子高生たちの姿も、少しだけどいた。僕はそのなかで帆音の姿を探してみるけれど、帆音はいなかった。僕はバス停とは反対側のほうへと歩いた。反対にはJRの駅があり、中に入ると、ここら辺でやっている地方テレビのキャスターとそのゲストが生中継をしていた。カメラマンの前でとても作り物くさい笑顔をみせてなにか喋っている女性キャスターを通りすぎ、僕はJRの駅を抜けた。ビジネスホテルや、居酒屋、商店街に繋がる横断歩道などが、駅のガラスドアをでた途端に僕にこの街について前のめりの姿勢で語ってきた。見慣れた景色だ。どこか都会になり切れなくて、垢抜けない駅前だと、僕はいつも思う。雨は梅雨らしく偉そうな顔で雨を降らしてそれらを濡らしていた。古臭い音が癒着している横断歩道を、ビニール傘をさしてわたり、暗い色合いになった石畳の道路をはさんだ歩道の右側の方をあるいた。屋根があったから傘をしぼめる。しぼめた傘からしたたった雨粒がスラックスの裾にかかって、足元をみると今更さした傘の意味なんて皆無なくらいにすでに全身が濡れていることに気づいた。
 ふとサイゼリアに入っていく女子高生がみえて、目をやってみるが帆音じゃなかった。プリクラを撮ろうとゲームセンターを指差している女子高生のグループにも、帆音はいない。僕とおなじ高校の制服をきた子もいくらか見かけた。アイスクリームを挿んだパンを頬張る男子高校生に混じっている女子高生も、帆音とは違う。商店街のほうも探したが、いない。帆音、どこにいるんだよ。いままで僕の頭でくすぶっていた煙は、消える際に彼女まで消してしまった。あるいは、隠してしまった。不意に散った桜みたいに。今日の選択が違っていた場合の明日みたいに。あるいは。
 汗は乾いたのに、雨でシャツは濡れていた。偶然でしかない雨なのだろうけれど、僕は何かしらこの雨に暗示的なものを感じてしまう。そんなもの、何も無いのに。何かを伝えているような沈黙が、ひたすら降りてくる。帆音は僕のことを、忘れてしまったのかもしれない。いや、違う。僕は振りかえり、駅に戻ろうと思った。ここに彼女はいない。くらげ町に、彼女はもういない。そう思ってしまえば足取りも軽くなるかなとか思ったけれど、雨が染み込んでやはり重かった。それも、何となくわかっていたことだ。
 雨の音がぼやけて、静かな隙間があったような気がした。うまく記憶が握れなかったその隙間で、僕にまたたいたのは彼女らしき横顔だった。横断歩道をはさんだはす向かいにあるマクドナルドから、彼女の無駄に大きな話し声が聴こえた。目を凝らしてみると、彼女と似たような容姿をした女子高生の足が数人みえた。そこにいるのか、僕はまた走りだして、横断歩道の信号が変わるのを待った。焦りがひどく胸を叩いてきた。足裏を浮かしたり落としたりと落ち着くことができなかった。信号が青になり、やや駆け足で僕は横断歩道をわたる。一階のレジで注文していた女子高生たちが二階のテーブル席へと階段を上がろうとしている。待ってくれ、どうして僕に気づかない?
 扉を押してマクドナルドに前のめりで入店したとき、その息を切らした僕の、慌てように思わず階段を上がろうとしていた女子高生たちが止まった。僕に目をやっている。ひそひそと何か言っているような気もする。僕はその軍団に帆音の姿を探した。とても明るい栗色の髪、ピンでとめた前髪、目元の大きさが釣り合っていないカラーコンタクトの瞳、リップを執拗にぬった唇、たしかに彼女はいた。しかし、すぐに彼女は帆音でないと思った。そして、すぐに彼女は帆音ではないと言えた。
「綿谷……?」
 それは僕の初恋の相手だった。綿谷、海。しかし、今僕が目にしている彼女は、まるで僕が知っている彼女ではなかった。帆音、どこに行ったんだ? やはり探してしまう。綿谷海が僕をじっと見ていた。ひび割れてささくれた呼吸が、やや暴力的に洩れる。雨で寒い。暑い。すこし笑いたくなった。さよなら、だ。さよならが途切れる。音も生まれず。腹の中から泣きじゃくる声も無い。
 さよなら。気づくと僕は、彼女を忘れてしまっていた。  END   

さよならは、海と月に。

 高校生になって、初めての長編(長編とも言えませんが)でした。この小説を書いてるとき、僕はすごく強度のスランプにはまりまして、とても苦悩した作品です。
 この小説のテーマは「別れ」ですが、思いついたのは高校生になって新しいクラスになって一ヶ月ほど経ってからでした。高校になって別々になった中学のときの友達が、ツイッターやラインなどで新しくできた友人と写真を撮っていたり、そういったものを見ているとふわりと浮かんできた感傷が、この小説を作るきっかけとなりました。
 自分なりの「別れ」を表現するため、いろいろなことを考えました。どういった暗喩を使えばいいか、主人公はどんな人物がいいか、など。考え込んでいって、スランプにも立ち会い、文を削って、書いて、また削って、という風にして完成しました。
 結果、とても短い小説になってしまいましたが、その分とても詰まった小説です。僕なりの「別れ」が、すこしでも伝わり、それぞれの解釈が生れると嬉しいです。

さよならは、海と月に。

僕の街。僕が生まれ、僕が雨を知り、雪を知って、空の青さを一番多く見た街。初めから、今の瞬間もずっと僕にへばりついた薫りや感情も、すべて教えてくれた街。僕が暮らすこの街の名は「くらげ町」と呼ぶ。正確に漢字にしてみると、「暗気町」と書く。くらげ町には、いつも海が隣り合わせになってあった。僕が生まれた頃から、あの海はあの海のままだった。僕の街。僕が母を知り、言葉を知り、子宮の中を忘れた街。つまり僕の故郷を、説明するとそんな街だった。

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更新日
登録日
2015-11-15

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