辻ヶ丘四季譚 春 (※更新中)

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【本編】 第一話~第四話
【幕間】 陽光 / 灰色 / 雪解

第一話

 1 -優治-


「角砂糖をいくつ?」

 と、カウンターの向こうに座る少女にさり気なさを装って声を掛けた。
 可哀想なくらい緊張している彼女だ。肩にちょうど触れる長さのポニーテールが揺れている。午後三時の淡い陽光に照らされた、不自然なほどに明るい髪の色。
「珈琲、飲めないんです。ごめんなさい」
 それはこちらこそ申し訳ない、嗜好とはそういうものなのに。黄金色のココアの缶があったので、ココアでいい? と尋ねた。
「ありがとうございます。面倒をお掛けして、ごめんなさい」
 礼儀正しすぎる物言いに、本当に一つ年下なのだろうか、と首を傾げた。

 夏どころか春もまだ控えたところの日、三月の下旬、彼女は突然彼の日常にやってきた。

 白い花が開いたような形のカップ。陶器と磁器の違いはよくわからないが、磁器であるらしい。騒がしいくせに優秀な姉がそう言っていた気がする。よく覚えていないが。
 普段は珈琲を注いでいるそれに、今日はココアを注いで出した。カップに口を付ける少女の表情が一瞬渋茶を啜ったように固まりついたが、気の所為だろうか。

「夏さん、だったよね」

 単純にして純粋な名前。夏生まれだったりするのだろうか? 「ここ」で暮らすのだからいずれ誕生日は把握しなければならないだろう。それはまた先の話、で全然構わないのだけれども。
「郁乃さんから聞いたんです?」
 疑問形にせず語尾だけを上げる質問。相変わらず一歳下、すなわち中学三年生には思えない落ち着いた口調だが、多少打ち解けてもらったと見て問題ないのだろうか。郁乃、というのは彼の幼馴染のひとりに当たる。狭く流動性に欠けるコミュニティではありがちな存在だ。
「そうだよ。その郁乃さんたちは、どこかに遊びに行っちゃったらしいけど」
「それは語弊ですよ。駅前に買い物に行かれたそうですよ」
 皮肉っぽく言ったのは果たして彼女に通じていたのか。買い物は遊びに入らないの? と聞こうと思ったが、黙っておいた。どっちみち語弊があろうがなかろうが、自分は彼らを――駅前に買い物に行った他の住人たちを、多少なりとも詰る権利があるだろうと確信している。おかげで入れ替わりに帰ってきた彼が、この見ず知らずの少女の相手をする羽目になっているのだ。他に誰もいないこのリビングで。名前しか知らないこの子と。
 だけど不機嫌を悟らせてはならない、なにしろ彼女はまだ今の段階ではお客さんである。いや、聡そうな彼女ならもう嫌でも勘づいているだろうが、不機嫌であることを態度にして見せびらかすのはまた別次元の不躾である。だから、彼女の容赦ない指摘が多少手痛くても穏やかに言葉を紡ぐ義務があるだろう。
 自分があまりに不愛想な顔をしているのは常々自覚していたし、ここ最近は特にそう。人当たりのいい表情をしているとは到底思えないからこそ、せめて愛想よくしなくてはならない。彼は極力明るい声のトーンで返事をする。
「そういえば、言ってたっけ」
「ちょうど、...あなたがここに戻ってきたときに」
 彼が名乗っていないことを思い出したのだろう、ちょっと詰まって二人称で彼を呼ぶ。日本語って二人称のバリエーションが少ないな、と優治はふと思った。「貴様」って言葉の意味が文字通りなら色々と便利だったろうに、今や日本語学習者のトラップにしかなっていない。
「いっそバリエーションを出すくらいなら、”ユー”で統一してほしいな」
 自分用に注いだ珈琲に向けた独り言だったが、夏という少女は意外にも「二人称のことですか?」と反応を返してきた。
「あーそう、英語だと誰でもユーだから分かりやすいね」
「あなた、って呼んで大丈夫でしたか?」
「全然いいよ。あ、全然問題ないよ」
「そんなに気にする必要もないですよ」
 風鈴の音のように、微かな声量なのに響き渡る声だ。口の中でビー玉を転がしたような連想をする。球体に閉じ込められた、透明な硝子に流れる青色。映像がいくつか連想されたあとで、彼はこのやり取りが始まった本来の原因を思い出した。
 咳払いをする。およそどんな行動においても他者の目線は意識されるものだが、妙に気取った仕草な気がして恥ずかしかった。
「名乗ってなくてごめん。僕は本宮っていいます」
「あ、じゃあ...」
「ここの持ち主の、本宮寛三の息子。名前は優治」
 事務的にプロフィールを述べた。普段の生活では、親が芸能人でもない限り「誰それの息子です」なんて自己紹介はしないだろうから、なんだかむず痒い心地がする。
「じゃあ優治さん、ですね」
 だれもそんな畏まった呼び方、しないけどな。恐れ多さとか違和感のようなものに覆われて、優治は片手で頭を描いた。少し癖のある、扱いづらい髪が持ち上げられて首筋が涼しい。
「名前にさん、付けなんてされるのは...」
「変でしたか?」
 夏が首を傾げる。括った髪が鉛直に落ちるのが、なかなか面白かった。
「まあ「あなた」よりは呼びやすいね」
「日本語は自由度が高いぶん、代名詞にもセンスが問われますからね」
 夏がさっきの話を持ち出して、笑う。そういえば初めて笑っているな。彼女が顔を上げると、窓からの光を浴びて、瞳がまるでそれ自身光っているかのように青い輝きを帯びた。台風一過の夏空みたいな鮮やかな青だ。
 なるほど、確かに彼女には夏が似合う。
 彼女はいつの間にやらココアを飲み干していて、空のカップがソーサーに乗っていた。色々聞きたいことはあったのだが。例えば出身地。例えば家族。どうしてここにやってきたの? とか。だけどそれは、彼女が話さない限り、聞かないルールだ。
 この家の不文律。
 社会で生きるためには少々のデータが必要だ。例えば名前。生まれた年月日と場所。本籍、親の名前。だけどここでの付き合いにそれは必要ない。最低限知っていればいいのはその外見と、呼び名とそれから――
「あいつらに、どんな食べ物が好き、とか話した?」
 夏はぱちりと目を瞬かせる。あいつら、というのは当然二人を放って買い物に行った、憎き彼らのことを指す。それにしても存在感のある目だ。「いいえ、まだです」
「じゃあ僕が伝えておくから、何が好きか教えて貰ってもいい?」
 出かけていった彼らはどうせ歓迎会の支度をしにいったのだ。それを歓迎される夏自身に伝えていないのは、彼らなりのプライド、すなわちサプライズプレゼントをしたいささやかな誇りだろうか。それはとても素敵な善意だけど、そのせいで苦手なメニューを出してしまったら元も子もないのに。
 彼女はちょっと考えて、ハンバーグが好きです、と言った。あと苦いものが苦手だとも。優治はそれをメールでグループ宛に書いて送った。最近はゲームアプリの機能でメールが送れて便利なのだ。買い物にいった面子の誰かが気づいてくれるだろう。電子音の組み合わせがメッセージ送信の完了を知らせる。
「夏さんの部屋はどこになるんだろう? 三階のどこかだろうと思うんだけど」
「あ、灯子さんから、後で教えるって言われたままです」
「マジか、灯子さん、久々に抜けてるなあ」
 久々の新しい住人で慌てている彼女の顔が想像できた。灯子というのは、ここの住人で(優治の家族を除いて)最年長のパワフルな女性だ。ここを住処として成立させるうえで最も貢献している一人であることは疑いない。
「優治さんも普段からここに住んでいらっしゃるんですよね?」
「うんそう。あの、優治さん、ってやっぱりちょっと照れくさいんだけど」
 変えてもらっていい? と言外に示した。小学校くらいの頃は、男女ともに関係なく名前で呼び捨てていた気がするが、いつからか異性に下の名前を呼ばれるのが妙に恥ずかしくなっていた。幼馴染みやここの昔からの住人であるなら兎も角、まだ出会って1時間もしない彼女なら、尚更。
「でも本宮さん、だと紛らわしいですよね?」
 そうか。本宮というのはそこまでありふれた苗字ではないが、同居している家族がいるなら話は別だ。例えば彼の父親を呼んでいるのに、勘違いで振り返ってしまったら、それこそ恥ずかしくてしょうがないだろう。呼ばれたのが自分だと勘違いして返事をするほど、恥ずかしいことはないのだから。
 ならもう「優治さん」にして欲しい、と言おうとした矢先、「では、ゆーさん、でどうでしょう?」と彼女が言った。

「え?」
「優治さん、のゆ、を取ってゆーさんです」

 そんなことは分かっているし、名前ならダメであだ名ならいいというのはどんな理屈なんだろう? まるで「ゆーさん」なんてさっきの話を思い出して、英語の「あなた」みたいだし、おまけに。あとで彼らが帰ってきたとき、ずいぶん仲良くなったじゃない、なんて茶化されるのは明白だ。いらない詮索なんてされるのも面倒だし、そう呼ばれるようになった経緯を話すのも馬鹿らしい。
 だけど。
 口の中で転がしてみると、その呼び名も案外、悪くなかった。もういいか、これで。
「分かった。ゆーさん、と呼んで欲しい」
「ふふ、もちろんです。あ、」
 とふと思い出したように言って、彼女は白いカップにふと目を移した。さっきまでホットココアが入っていたやつを真面目な顔で眺めている。
「私からひとつ、お願いしてもいいですか?」
 真面目な顔ではなく、笑いを堪えているのだ、と気づいた。

「ココアには砂糖を入れて欲しいです」

 彼女に注いだココアの残りがポットに残っていた。ミルクピッチャーに注いで飲み干してみる。
 貼りつくような苦味が喉の奥を焼いて、口元を抑えて咳き込む。そういえばティラミスのてっぺんの粉って苦いよなと思い出す。
 申し訳なさと可笑しさが混じった顔をしている夏と目が合う。店で飲む甘いココアとは全然違う。しかもやたら濃い。持て成すつもりが、まさか一杯目でこんな無礼をしていたとは。

「淹れ直そう」
「あ、お手伝いします」

  一杯飲んだ以上、二杯目からは客ではないという理屈だろうか。思うところの読めない彼女は、カウンターを回り込んでこちらにやってきた。ずいぶんと背が小さいことに気づく。幸い踏み台はあるから、彼女がこれ以降このキッチンを使う時にも不便はないだろう。
「ココアと砂糖の比率は1:1、です」
「覚えとくよ」
 口元を抑えた。
 笑いを隠すための仕草だった。


 2 -智明-


 時刻はすこし遡る。

 優治が家を空けているころ、本宮家はいつものように大騒ぎであった。いや、本宮家、と言うのは適切ではないかもしれない。それはともかくとして、そのとき、彼は喧騒から逃れるように二階の窓際で寝そべっていた。
「トモ!」
 顔の上に乗っけていた漫画本を無理やり退けられ、トモ――智明は壁に顔を向けるように寝返りを打った。漫画のページが顔の上を流れ、印象的な主人公の名シーンが網膜に焼き付く。もう何度となく読み返した彼のお気に入りである。反動で片耳につっ込んでいたイヤホンが外れ、フローリングの上を転がった。
 漫画を丁寧に本棚に戻した、先ほどその名を呼んだ女性は、丁寧に長いスカートを折って智明の枕元に屈んだ。いっぽう、智明はまだ寝ぼけ眼である。まとまりの悪い髪は既に制御することを放棄したが、今朝はそれに加えて寝癖がついて何とも、さんざんな有様であった。
「トーコさん? おはよう」
「台所を手伝うでもなし、夏さんの手伝いをするでもなし、何やってるのあなたは」
 おはよう、じゃないわよ。と結構本気の舌打ちをひとつ。人一倍面倒見の良い灯子であるが、智明以上に面倒を見るべき相手がいるなら話は別だ。
 だが智明の脳は、「おはよう」と言った段階から全く活性化していなかったため、灯子の言葉は彼の嫌いな数学の授業のように全くスキャンされず通り抜けていった。寝ぼけ面に迫力だけが叩きつけられる。そのことは灯子もよく分かっていたので、「いいから下にきて頂戴」とだけ言い残してドアを閉めてしまった。この場合の下とは、階段をひとめぐり降りた一階にある調理場に当たる。トモは上半身を起こして頭を振った。
 ……夏さん?
 灯子の残した言葉がぐるぐる回る。
「……ああ、そっか!」
 勢いのついた言葉に押されるように気分がよくなった。
 今日はパーティーの日なのだ。智明はそれを思い出して笑顔になる。1600ミリそこらの体躯の彼は、大人びた印象、もしくは男性的な印象を一切抱かせない。実年齢は、ちょうどこの春高校に入学する年齢であるが、彼の幼馴染たちに比べるとお世辞にも年齢相応に大人びているとは言えない彼だった。すこしふらつきながら立ち上がると、色の抜けた天然パーマが、頭の微細な動きに追随してふわふわと揺れた。
 重力に従うように眠気が抜ける。
 智明は、自分の名札がかかった部屋を飛び出し、階段をいっきに駆け下りた。
「おはよございまーす!」
 古い階段が立てる軋みでとっくに気づいていたのだろう、灯子は茹でた大量のじゃが芋をマッシャーで潰しながら「それ、配膳」とだけ智明に告げた。食卓にはいつもよりすこし綺麗なテーブルクロスが引かれ、花束が丁寧に生けられていた。銀食器を並べていた少女が顔をあげて彼を見る。
「やー、おはよ」
「もうお昼」
 智明の間延びした挨拶が終わらないうちに、ぴしりと訂正された。最近は少し服装の好みが変わったのかボーイッシュな服装が多かったが、今日は膝下くらいまであるスカートにカーディガンと、やけに大人しい恰好をしていた。ちなみに智明は寝っ転がっていたときと同じ、古いパーカーにジーパンである。
 不愛想な身内向けの表情は、目尻が上がった顔だちも相まってなかなか不機嫌に見える。その表情はそれはそれで彼女の魅力的な一面であると思うし、今日の服装ともどこか相まって思えた。むしろ、短く切ってしまった髪のほうが浮いて見える。
 赤茶の瞳をくるりと回して彼女が口を開いた。
「なんか無いの。今日の服装はいつもと違ってカワイイねみたいなの」
自分への赤面ものの褒め台詞を当然のように読み上げて見せる彼女の名前は郁乃という。優治と智明とは十年来の友人になる。
「ひゅう、郁乃カッワイー」
「とっとと配ってくれる?」
郁乃は智明の皮肉を意にも介さずに輪ゴムでくくられた箸を渡した。全部で9膳。自分の分、灯子の分、郁乃の分……
「今日は瑞穂さんも来るのよ」
智明が指を折って数えているのを一瞥して、郁乃が言った。
「へー、珍しいんじゃねえ?」
 瑞穂というのは2年前に進学の都合で沢渡のほうへ引っ越していった、彼らの元同居人である。彼女はそれでもよくここを訪れていたが、そういえば前の秋くらいからは訪れることが減っていた。彼らが瑞穂に会うのは正月以来になる。
「忙しいんじゃないかしら、三年生にもなれば」
「瑞穂さんなら大学受験くらい余裕そうだけどなー。あの人は何て言うか、頭脳タイプ。優しさが低くて賢さが高いタイプ」智明は口を尖らせる。
「瑞穂さんは別に冷たい人じゃないでしょ。それと、何でもゲームみたいに例えるの、止めなさいよ」
 冷たい性格というよりは自他に厳しい性格と言いたかったのだが、智明は上手いこと言い返す口上が出てこなかったので、黙っていた。ちなみに、ゲームに彼がはまり込んでいるのは事実である。
 
黙々と紙ナプキンを配っている郁乃を横目で見る。幼馴染という言葉が自分たち三人のような関係を表すのだと気づいたのは最近のことだった。出会ったのが偶然幼いころだったというだけだが、気が付けばもう知り会って十年近くなる。小学校も中学校も同じで、ずっと一緒にいるように錯覚していた彼らは、しかし「いつもの三人」という認識に石を投げ込み、波紋を立てようとする。
 郁乃が髪を切ったこと。恋人を作ったこと。優治がここを離れようとしたこと。
 だんだん花が散っていくみたいに、なんだか変わっていこうとする。
大好きな連載漫画もいつか終わるように、お気に入りのメニューでもいつか飽きるように、友人も緩慢に離れていくものだろうか。

 寂しさ、と一言で表される、その感情は一瞬にして通り過ぎた。智明が手元の食器に目を戻したとき、暖簾をくぐって灯子が顔を出した。手にはポテトサラダの入った大きなボウルを抱えている。
「トモ君、それ終わったらこれ盛り付けてもらえる? あと、千理と達海がこれから駅前まで買い出しにいくから、あんたたちもよかったら手伝ってあげて」
「おっけー!」
「灯子さん、優治は?」
 智明は灯子からボウルを受け取って嬉しそうに笑った。料理はあんまり得意ではないが、盛り付けは結構好きな彼である。郁乃の質問に、灯子は少し難しい顔をして首を傾けた。
「ほら、高校の制服あるでしょう、あれ受け取りにいったのよ。あんたたちはもう行ったの? よりによって今日行かんでもって、思うけど、まあ……」
 智明と郁乃は顔を見合わせる。一緒に取りに行こうという話は持ち上がっていたが、その申し出を断って優治は一人で制服の専門店までわざわざ行ったのである。どうしてパーティーの準備をしなければいけない今日、わざわざそんな雑用のために出かけたのか、二人には分からない。
「私たちは明日行くつもりです。優治、パーティーのこと、聞いてなかったりして」
「やだ、誰か伝えたでしょう?」
灯子が口元を覆い隠すように顔に手を当てる。
「私は言ってないです。最近、あんまり会ってなかったし」
「忙しいんじゃね? 俺も言ってないなー」
智明が優治に最後に会ったのは卒業式で、実に一週間も前になる。一週間というと短いように聞こえなくもないが、近所中の近所に住んでいる幼馴染である。学校がある日は毎日のように待ち合わせて登校するのが当然だったし、休みの日だって会わない日のほうが少なかったんじゃないだろうか。もう一緒に居すぎて話すようなことも無くなって、同じ部屋で黙って漫画を読んでいるような時間が多いが、それでも顔をこれだけ長い間合わせない、というのは本当に久しぶりだった。
「あ、そう……。うーん、優治君が居てくれたら私も買い出しに行けたんだけどなあ」
「流石に、夏さんが帰って来たとき無人じゃあ失礼ですからね」
「そういえば、夏さんっていうのが今日から来る子なんだよね? その子はどこに?」
 智明はふと思い出して尋ねた。肝心の主役の姿が見えないのである。
「今、ウチで荷物の受け取りに行ってるわ」
 郁乃が言った。彼女の実家は小規模な百貨店を営んでおり、荷物のトラックの送り先をそちらに指定したようだ。車で入りやすい場所だからだろう。
「いっこ下の女の子なんでしょ。可愛い?」
「貴方よりは」
「あんたよりはずっとね」
 女性陣二人が同時に同じことを言ってくるので彼は苦笑するしかなかった。長い時間を共にしていると言動も似てくるのだろうか。強気な二人の前にはマイペースな彼といえど形無しである。
玄関の方角から「郁乃ちゃん、トモくーん」と、呼ぶ声の二重奏が聞こえる。高い女性の声は千理の、これまた高いが男性の音域の声は達海のものだ。二人ともここの住人である。
「ああ、呼んでるわ、引き留めてごめんなさいね」
「いえいえ。それにしても、あの二人のお邪魔をするみたいで、なんだか申し訳ないなあ」
郁乃は冗談めかして言う。落ち着きのあるカップルだ、と誰しも言うだろう二人だ。近過ぎて傷つけあうことも、離れすぎて悲しむこともなく、平和に、潤滑に寄り添う恋人。だから郁乃が言ったことは全くナンセンスなのである。あの二人に限ってそんなつまらない感情にとらわれることはあり得ないだろう。
「ないない、あんたたちのこと弟と妹みたいに思ってるもの。ほら、また呼ばれるよ?」
 はあい、と声を重ねて返事をする。智明はカーテンレールに引っかかった物干し竿からスニーカーソックスを一組取った。と、庭先から馴染み深い男性の声が聞こえる。か細い声の少女と何か問答をしている。
 はっ、と気付いて灯子の方を振り返ると、彼女が口元に悪い笑みを浮かべながらエプロンを外していた。代わりにトレンチコートを羽織る。郁乃がリビングのドアを半開きにしたまま、灯子さん、行きましょ、と声をかけた。
「いいタイミングで帰って来たわね」
 物理的に数センチメートル、心理的に数メートル引いた彼の心情を見据えてか、灯子と郁乃が声を揃えて言った。

「いいじゃない。いい薬よ」


 3 -瑞穂-


 アスファルトに投げ出した足が、ブーツ越しに冷たさを伝えてくる。
 フリンジの付いた踵の高いブーツ。キャラメルのような色。彼女のお気に入りだったが、何にせよ今日に限っては履いてくるべきでなかった、と後悔している。
 ここを訪れるのは数か月ぶりだったので忘れてしまっていた。透明な溜め息を吐き、丸いすべり止めの模様が延々続く坂を見下ろす。いや、忘れていたわけがないのだ。この坂のことを聞かれれば当然、種々の思い出を交えて話せたのだろうけど、迂闊にもこの過酷な上り坂のことを失念して歩きにくい靴で来てしまったというのは、つまりそれだけこの場所が彼女にとって「遠い場所」になったということだ。
 この坂を毎日往復していたころの自分に賛辞を送りたくなる。水泳部に入っている彼女はそれなりに体力に自信を持っていたが、上り坂の中腹辺りで息が切れてベンチに座り込んでしまった。
 やっぱりアレは鍛錬だったな、と無声音で呟く。
 自分がここの住人でなくなったことを改めて思い知った。

 辻ヶ丘。そして翠緑荘は、彼女の故郷だ。

 これから登る坂に対峙するように仁王立ちしてみると、坂の上から吹きおろす風が括った髪をはためかせた。
 三月の冷たくも、霞みつつある空気の向こうに朱色の鳥居が見える。鮮やかな朱が、どうしてかいつも彼女の背筋を冷たく煽るのだ。アスファルトの丸模様の収斂する先、そこに立つ鳥居に、彼女はどうしてか恐怖に近い感情を抱く。
 ――あそこに居るとしたら、それは化物や妖怪じゃなくて、
 ――辻ヶ丘の守り神だと思うんだけどな。
 カツ、とアスファルトにヒールを突き刺して、彼女は再び鳥居目指して坂を登り始めた。近づけば近づくほど、鳥居が意外に小さなモニュメントであることが分かる。有名な観光地の鳥居などはやけに巨大な印象があるが、辻ヶ丘の鳥居はそこまで大きくない。鳥居の中央を貫く柱までの高さ、なんでも貫下と言うらしいが、そこの丈は三メートルあるかないかだ。修学旅行で訪れた観光地では、鳥居の間を何車線もある道路が通ったりしていて仰天したものだ。トラックもミニチュアに見えるようなあの鳥居とは対照的に、辻ヶ丘の鳥居はどこまでも人に親身な形をしている。やっとの思いで彼女が鳥居に辿りつき、二本ある柱の一本に背を預けると、ここで遊んだ幼いころの記憶が不意によみがえった。神道という言葉すら知らなかった頃の話だ。それでも鳥居を汚すような子供が居なかったのは幸いだった、と今になって思う。
 タートルネックのセーターは薄手だったが、坂を登るあいだにかなり汗をかいている。首元の生地を引っ張ると、まだ冬の冷たさが残る空気が流れ込んでひやりと冷たかった。視線を朱色の鳥居、そして色の薄い空を経由して、登ってきた坂の方に向ける。そこからは辻ヶ丘のすそ野を一望できた。この急坂には名前がないが、辻ヶ坂とか参道とか呼ばれている。この急坂を中心に無数の横道や回り道が駆け巡り、辻ヶ丘という街を形成している。坂を下った先には小さい駅。駅ビルなんて都会風なものはないけど、駅前は古き良き商店街という趣。線路は川と並走していて、南北に近い方角に伸びている。南に向かうとすぐにトンネルに呑み込まれるが、北はじきに海岸にぶつかり、そこで線路は大きく西に湾曲して湾岸を走り出す。しばらく走った先が沢渡といって、辻ヶ丘のあるY市では一番の都会だ。高校がその辺りなので、彼女は沢渡の寮で生活している。
 片道一時間半程度。通おうと思えば実家から通える距離ではあったが、寮の家賃が良心的だったのと、一人暮らしにあたっての種々のスキルを獲得したかったことを武器に家族を説得して寮に入ってしまった。
 でも本当のところは、やっぱり、この場所が怖かったのかな。
 拍子抜けするくらい穏やかな鳥居の影の中、彼女はそう考える。あの頃は夜が怖かった。暗闇が怖かった。街灯の少ないこの坂が怖かった。でもそれって結局、この場所が、この街が怖かったんじゃないだろうか、と思うのだ。
 太陽が眩しくて目を軽く瞑った。鳥居と同じ色に染まる瞼の裏。朱色と対になるのはたしか、深海のような緑色。樹々を風が掬う、葉擦れの音も次第に消えていって視覚だけが残った。光の残像がゴーストのように朱色を漂っていたが、やがてひとつの形をとった。
 瞳だ。朱色のなかにエメラルドのような瞳が浮かぶ。眼の周りにあるべきものは何も見えない。まつ毛だけがエメラルドグリーンに輝く瞳を象っている。瞳が左右に動いて何かを探しているようにも見える。叫びたかったけど、口は置いてきてしまったから、声も出ないのだ。
 瞳がこちらを見る。口元が見えないのに、笑った気がした。
 
 瑞穂、と名前を呼ばれる。

 暗幕で覆ったように視界が暗くなって、朱色もエメラルドグリーンも消えた。目を開ける、そのやり方を思い出してようやく境内の景色に戻ると、石畳がすぐ目の前にあった。突っ張っていた力が抜けて、石畳に膝をついたのだ、とようやく思い知る。
 さっきまでとは違う理由で汗をかいていた。落ち着いたはずの息がまた上がっている。
 授業中の居眠りなんてものはほとんどしない彼女だが、何でもない瞬間に、こんな幻を見ることがあった。
 友人に話してみてもそれ、要するに居眠りでしょう? と笑われて終わりなのだが、彼女の弟が一度だけ理解を示してくれたことがあった。
 
 分かるよ。俺も偶にあるから。
 
 反抗期なのか女家族が鬱陶しい時期か、本心を見せないよう努めているように思われる弟だが、その一言はいまだに彼女の耳に刻まれている。
 ――でも、久しぶりに見たな。
 鳥居の朱色のなかに夢の面影を探ろうとしたが、上手くいかなかった。そもそも大した夢でもなかった気がしてくる。背筋が冷えたけど、でも、悪い夢じゃなかったかなと自分の中で思考の展開に歯止めをかけた。

 瑞穂さん、と元気よく呼ぶ声が聞こえた。こんどは夢の中でなくて、鳥居の手前で大きく弓なりに曲がる坂の、その上方から聞こえてきたようだ。気が付けば車のエンジン音がすぐ傍までやってきている。丸っこいフォルムの白い乗用車がやってきて、正確に鳥居の真正面で、几帳面に停車した。後部座席の窓ガラスが下げられている。


 4 -郁乃-


「瑞穂さん!」
「郁乃ちゃん」
 窓から顔を出さん勢いで言うのと、瑞穂が微笑んで呼ぶのが同時だった。
 ヒールで強調されるすらっと高い背に腰まで届く長さのポニーテール、整った顔立ちに切れ長の眼、緑がかった意志の強い瞳。郁乃にとって瑞穂は身近な年上の女性であり、憧れの対象だった。どうも、久しぶり、と車内に向けて声を掛ける様子は相も変わらず堂々として見える。
 だが目元が少しだけ潤んでいるように見えた、のは、彼女の気の所為だろうか。
「あら、優治は? それに今日来るっていう彼女も」
 窓に顔の高さを合わせ、車内を覗き込んでそう尋ねた。顎に人差し指を添える仕草が、意識してそうしているのかは知らないがよく似合っている。ハンドルは千理が握り、助手席に灯子、車内の後部座席には達海と智明、それに郁乃が詰め込まれていた。後部座席の男性陣がどちらも幅の狭い体格をしているものだから、郁乃は自身の占める幅が妙に気になってしまう。バドミントンで培った脚の筋肉が恨めしかった。
「優治くんとは、入れ替わりになっちゃったのよ」
「へえー、ホントかな。あの子から望んで一人残ったんじゃないの?」
 嘘でもないが真実にはほど遠いことをぺらぺらと喋る灯子に対して、瑞穂は当たらずと言えども遠からず、という指摘をする。
 彼女は優治の実姉にあたる。弟の行動などお見通し、という感じだろうか。
 最近何を考えているのか分からない幼馴染も、瑞穂が把握できる程度には分かりやすい指針で行動しているのだろうか、と考えると、少し気が楽になった。郁乃は隣に座る幼馴染との距離をひそかに測る。クラスメイトの男子とかとは違う、気を遣って大げさに開け過ぎない距離がむしろ心に刺さった。友人として十年近く付き合ってきた二人と、これからもずっと今まで通りでありたい。神に祈る他ないことを願いと呼ぶなら、それだけが彼女の願いだった。たとえ奴らが男で自分が女だからといって今更友人を辞めるなんてムリなのだ。二人が自分を奪い合う、なんて一瞬浮かんだ想像を、郁乃はすぐに打ち消す。それは絶対にない、許さない、大体、自分には彼氏だっているのだ。
 ――そうだわ、とっとと彼女でも作って、安心させてくれたらいいのに。
 誰でも、そう瑞穂さんでも灯子さんでも、今日来たあの子でもいいから、とそこまで考えて止めた。
 だって、そうしたら今度は、郁乃自身が居場所を失ってしまう。
「駅前まで買い出しに行くんですけど、瑞穂さん、よかったら一緒にいかがですか?」
「千理さんありがとう、でも、もう直ぐ着くし。私はいいよ」
 運転手を担う千理がそう問いかける。相手が年下だろうが年上だろうが、敬語で喋るのは彼女の癖らしい。逆に瑞穂は、少なくともこの車に乗っている人には年齢の区別なく敬語抜きで話す。いずれも二人の性格をよく表しているな、と郁乃は思う。
「流石に後部座席に四人は無理でしょう」
「僕らが詰めれば乗れるよ、でもまあ、瑞穂ちゃんが別に良いって言うなら」
 助手席から後ろを一瞥して灯子が言う。郁乃が僅かに身を縮めた気配を感じ取ってか、後部座席に座っている達海が場を取りなした。寡言、寡黙の部類に入る彼だが周りの人間の様子を見て均衡を保つのが上手だ、と郁乃は日頃から思っていた。彼女には真似できない美徳だ。
「じゃあ翠緑荘には、今あの子と新しく来た子の二人?」
「そうなっちゃうね」
「誰かの陰謀で」
 智明が小声で呟いた。優治を初対面の彼女と二人っきりで置いてきたのは主に郁乃と灯子の「いたずら心」によるものである。
 瑞穂に見送られて「参道」を下る。郁乃は、後部座席から身体をひねって、リアガラス越しに今来た道を振り返り見た。
 まっすぐ続く登り坂の行き当たる先、朱色の鳥居が三分咲きの桜の樹の群れに守られるように静かに佇んでいる。鳥居の向こうの石畳の階段を登れば神社、そしてアスファルトの道に従って右に曲がり、さらに登って行けば、彼らの家、翠緑荘がある。翠緑荘は、フランス風の赤い瓦の屋根が白いモルタルの壁に映える洋館だ。どこかの異人館を参考に建てられたとか何とか、窓や柱の随所にエメラルドグリーンが使われていて目を引く。
 みんなあそこに住んでいるんだな、と考えるたび羨ましくなる。
 翠緑荘に毎日のように遊びに行って、入り浸っていても、郁乃は翠緑荘の住人にはなれない。
「郁乃ちゃんも今日の晩御飯、食べてくでしょ?」
「あ、ええ、もちろん」灯子に反射的に返事して、小声で付け足す。「迷惑でなければ」
「またおばさんに怒られんじゃないの?」
「いつものことだもん、どうせ大丈夫だわ」
 智明がいたずらっぽい笑顔で訊いてくるのを軽くはねのける。嘘だ。まだ中学校を出たばかりの女子が、いくら勝手知ったる場所とはいえ夜中まで入り浸ることに親が良い顔をするはずもない。ことに彼女の両親は心配性だ。
 郁乃は誤魔化すために別の質問をする。
「駅前で何、買うんですか」
「ああ!」灯子が思い出したように声を上げる。「夏ちゃんの好み聞いてないわ」
「だから、あんな意地悪するから」
「灯子さんが残ってれば、連絡してもらえたんですよ?」
 達海と千理が声を揃えて、もう、と呆れたように笑った。当初の予定はこの二人で買い物に行ってもらうはずだったのを、いたずらで変えてしまったせいだ。灯子が、くそう、と唇を尖らせる。
 智明と顔を見合わせて、困ったね、と言おうとした瞬間、車内にいくつもの音楽が鳴り響いた。
 電子音でアレンジしたクラシックの鳴る携帯を取り出す。画面に触れ、慣れた動作でアプリを呼び出す。メッセージ交換もできる多機能アプリで、最近はこのアプリ一つで大概のことができるようになるまで進化している。郁乃はメッセージの送信元を見て、僅かに口元が上がるのを感じた。
「優治から」
 メッセージを読み上げる。
「ハンバーグが好き、改行、苦いものは苦手、ですって」
 句読点も主語もない二行だけの文字列。久しぶりに交わす言葉にしてはずいぶんと無愛想だが、彼なりに気を遣って聞き出してくれたのだろう、と想像がついた。もしかしたらパーティーの主役に気を遣って、できるだけ直ぐに打ったのかもしれないし。
「優治くん、気が利くじゃない」
 灯子が声を弾ませた。車内に差し込む光が少しだけ、明るさを増した気がした。色の薄い春の空を割るように陽が射し始めている。

 春は始まりの季節、というのは少し違うと思う。四季は巡るものだ、出発点も収束点もなく、回り続けるものだ。人が産まれ続けるように、死に続けるように、ひとつの季節に始まりと終わりはあっても、四季はつねに「次」を見据えて変わり続ける。
 何度冬の寒さに凍えても、夏の暑さに灼かれても、次の季節を求め続ける。回り続ける星の、太古から続く律動を追いかけるように、何度でも春を祝福して迎え入れる。
 回帰のモチーフ。繰り返す音楽にも似ている。
 春は再生の季節だ。

 きっと大丈夫だ。願うように、郁乃は携帯を握りしめた。


 第一話 了

第二話

 1 -優治-

 夜半、眠りに落ちたリビングを抜けて、廊下に出た。
 日付が変わるころまで紅茶を飲んでいたことが災いしてか、眠りに就けなかった。そういえば珈琲より更にカフェインの含有量が多い、とか聞いたことがある気がする。夜の一時も回ればろくな番組も放送していないうえ、リビングで盛り上がっていた面々はほとんどが眠気に白旗を上げつつあったので抜け出してきた次第である。
 廊下は冷たい空気に満ちていた。この建築物、翠緑荘は、天井が高く洒落た造りをしている。しかしそれも善し悪しで、同時に冷暖房の効率があまり良くないという欠点があった。足を掬うような冷たい空気は夜の海を歩いているような連想をさせる。
 短い廊下を抜けた先の玄関ホールで、優治はふと立ち止まった。柔らかな緑色に彩られた玄関の扉のほうがやけに明るい。そこは三階まで吹き抜けになっており、上の部屋から灯りが漏れているのだ、とすぐに分かった。一見して洋館風の建築だがところどころジャパナイズされており、玄関には下駄箱と三和土がある。裸足のままでは冷たかったが、三和土に降りて、扉に背を預けるようにして見上げる。
 灯りが漏れているのは二階の一室だった。
 ――父さんの書斎か。
 翠緑荘は、もともと辻ヶ丘にやってくる観光客向けの宿泊施設として建てられた都合から個室が多い。好景気が数十年も前に通り過ぎ、宿泊施設としては廃業したのを、紆余曲折だか何だか知らないが色々あって、短期間泊まるための施設から日常的に暮らすための施設に改築したと聞いている。一階は共用スペース、二階は男性、三階は女性の居住空間となっている。寮のようなものかな、と漠然と考えてはみるものの、何しろ寮に住んだことはないのでよく分からない。学生寮に暮らしている姉の瑞穂なら何か違う意見をくれるかもしれないが、何せ今日のパーティーでもほとんど言葉を交わした記憶がなかった。消灯という概念が身に染みついているのか、彼女はとっくに空き部屋を占領して眠っている。
 学生寮、という響きに少し心臓を絞られるような思いがする。
 自分もそっちに行きたかったのだ、本当は。
 今日受け取ってきた若草色を基調とした制服だって、本当は受け取りたくなんてなかったのだ。同じ高校への進学が決まっている友人たちを置いて一人で制服を受け取りに行ったのだって、ろくに愛想笑いも出来ない自分を見られたくなかったから、に他ならない。
 足先が冷えてだんだんと感覚がなくなってきたので、扉から背を起こして三和土から上がる。板張りの床でもまだ、三和土のタイルよりは温もりがあった。そのまま玄関ホールでしばらくぼんやりと壁を眺めていると、リビングの扉が静かに開く気配がした。円錐型に暗闇を照らす灯りが近づいてきて、あ、と思ったときにはもう照らされていた。
「夏さん。僕です、優治です」
 優治は慌てて、聞こえる限界まで声を絞りながらそう言った。不審な侵入者と間違えられたり、あげく大声をあげられたりしたらたまらないと思ったのだが、彼女は案外落ち着いた反応で「ああ、ゆーさんですね」と言った。その呼ばれ方にはまだ慣れない。後頭部の高いところで括っていた髪を、いつの間にか下ろしていた。彼女はさっきまで炬燵布団で眠っていたはずなので、優治が出てくるときに起こしてしまったのかもしれない。
「廊下でいったい何を?」
 ぼうっとしていた、とも言い難かった。「いや、部屋に戻るとこだよ」
「私もです。リビングで皆さん寝ちゃったけど大丈夫かな」
「さあ……」
 布団でない場所で寝落ちるのは得てして健康によくないものだ。彼自身、受験勉強などしていて居眠りしてしまった後に、頭痛やら喉の痛みやらに苛まれ後悔したのは一度や二度ではない。かといって彼らを部屋まで運んでやる気もなかった。
「灯りは消してきてくれた?」
「あ、消しました」
「じゃあまあ、大丈夫だろう」
 それ以上は流石に彼らの責任だ、と思った。
 一言二言、話しながら階段を上がり、優治は二階で彼女を見送った。女性の部屋は三階にあるので、彼女はさらに一階分階段を登る必要がある。間もなくしてドアを閉める音と鍵を掛ける音が聞こえた。自分も部屋に戻ってさっさと眠ろうと思ったが、背後の書斎のドアが開くのが先だった。古い木製のドア特有の軋むような音に振り返る。ドアの可動域に沿って扇形のすり跡がついた床が、暖色の灯りに浮き上がっている。
「父さん」
 やっぱり寝てなかったのか、という意味をこめて言う。
 彼の父親である寛三が扉から顔を出して、ちょっとこっちに来なさい、と言った。細く開かれた瞼の奥の瞳は見えず、叱られるのか、と一瞬思ったがその声や口元に険しさはない。
 話があるんだ、と彼は言った。


 2 -郁乃-


 彼女は眼を閉じたまま、ああ寒いな、と思った。
 瞼の向こう側はすでに明るくなっていた。昨夜眠った場所を思い出す。翠緑荘のリビングだ。炬燵で話に花を咲かせているうちに眠ってしまったことを思い出した。眼を開くと、予想通り、見慣れた天井があった。昨夜は結局、家をこっそり抜け出すような形で出てきてしまったので、早めに帰宅しないと親に何を言われるか分かったものではなかった。
 まあ前科何犯だって話なんだけど、と心の中でぼやきながら上半身を起こした。体を起こすと、重力に従って眠気が床へ逃げていくように頭が冴えた。もともと早寝早起きで寝起きも良い方だったので、とくに寝直すこともない。ただ、居間で半ば寝落ちたせいか頭が痛んだ。乾燥していたのか、喉も貼りつくように痛かった。水と、ついでに頭痛薬を飲もうと思って立ち上がる。リビングを改めて見回すと、他には智明が炬燵の対辺で寝ているだけで、彼の寝息以外に音のない静かな朝が訪れていた。テーブルで飲んでいた大人たちの姿も見えない。洗っていないと思われるジョッキがいくつかあったので、キッチンの方に下げておいた。洗うのは流石に飲んだ本人にやってもらうべきだろう。勝手知ったる人の家の棚を探して、無事に頭痛薬を見つけ出し、水と共に飲み下した。
 
 時計は午前六時前を差していた。両親が起きるのは大体七時ごろなので、それまでに家に戻っておくべきだろう。問題は玄関の戸締りで、郁乃は合鍵を持っていないので誰かに頼んで鍵を閉めてもらう必要があった。辻ヶ丘のてっぺん近くにある翠緑荘にわざわざ盗みに入るようなもの好きがいるとも思えなかったが、それにしたって、と大口を開けて眠っている幼馴染を見下ろす。流石に「これ」を放置したまま鍵を開け放すのは無防備が過ぎるだろう。肝心の智明は、玄関はおろか自室の鍵にさえあまり気を割いていないように見えるが。
 両親が起きてくるにはまだ時間がある。誰か起きてくるまで待とう、と思った。リビングを抜け出し、玄関ホールに向かう。目的は玄関ホールの脇にある書庫だった。ほこりを被った本ばかりだが暇つぶしにはなるだろう。
 書庫の前まで来て、引き戸の木枠にはめ込まれたガラス越しに幼馴染の姿を見つけた。あちらも郁乃の存在に気づいたようで、ほとんど無表情のまま片手を上げて見せる。書籍を見るためか眼鏡をかけて、欠伸をかみ殺すように口元を歪めて目を擦っていた。
「おはよう」
「今、何時なの?」
 本が日焼けするのを防ぐため、書庫には陽光が入らない造りになっていた。唯一部屋にある両開きの窓は、両開きの雨戸が完全に締め切ってあるうえ、本棚で覆い隠されている。
「もうすぐ六時ね」癖で左手首をちらと見たが、腕時計はしていなかった。それからその質問のおかしさに首をかしげる。「あんた、寝たの?」
「いや、夜更かしのつもりだった」本に栞を挟み込んで閉じ、伸びをする。「もう朝か……」
「天体の本?」
 うん、と頷く代わりに、本を表紙面が見えるように回転させる。文庫本より少し縦に長い。新書というのだったか。コンピューターグラフィックスなのか写真なのか分からないどこかの星団が印刷されている。仮に写真だったとしてもかなりの補正がかかっているだろう。
「あんたが徹夜なんて、なんだか珍しいわね」
 できるだけ遠慮した表現をした。彼はまだ十代のくせ、そんなに長い時間眠るほうじゃないが、それでも一晩中起きている様子は初めて見た。睡眠を削るのは大局的にみて損だとよく分かっているはずの彼は、非合理なことはしないのに。
「勝手に夜が明けたんだ」
「ああはいはい。珈琲でも飲む?」
「淹れて」
 立ち上がって伸びをする。その流れで本を元々あったであろう場所に戻した。本棚の最上段だったが、彼はとくに背伸びもせず本を置いた。いつの間に身長が伸びたもんだわ、と思った。
 リビングに戻り、珈琲の粉をフィルターに詰める。駅前の系列店のスーパーで挽いてもらったのを量り売りで買っている。無視できない量を郁乃も消費しているので、お金を払おうかしら、と灯子やら寛三やらに進言したことが何度かあるが、そんなことはいい、と断られて終わりだった。
 せめてお金を払わせてくれればここにいる理由になるのに。
 彼女の実家は百貨店であり、ものを売る商売をしている所為なのか、郁乃が金銭的な負担をしないまま翠緑荘に入り浸ることを嫌がった。
「ここの珈琲って、あんまり酸っぱいのないわよね」
「それは俺と灯子さんの好みだから」
 何でもないことのように言うが、珈琲の選択権があることがどれだけ羨ましいと思っているのだ、と横顔を恨めしく睨む。暗い茶色の髪が窓からの光に透けている。昨日は自分のことを僕と呼んでいた彼だが、それは新しく来た彼女の前だからきっと気取っていたのだろう。普段の彼は自分のことを俺と呼ぶ。どうやらそれは変わっていないようだ。

 淹れた珈琲を二つのマグカップに均等に注いでテーブルの対辺に座る。洋風のリビングには炬燵と、足の長いテーブルとがあるが、炬燵の方には智明がまだ寝転がっていたのでテーブルを選んだ。
 湯気を挟んでしばし無言で珈琲を啜る。彼のマグカップにだけミルクが入っていた。郁乃は砂糖もミルクも淹れずに飲むのが一番好きなので、彼女の好みと相いれないのは豆の種類に留まらない。
 カップの中を見ようとするのか、珈琲を啜るとき自然に目を伏す。その所作を眺めていた。無表情と言うか、どこか沈み込んだ表情がよく似合うようになった。昔もそうだったかしら、と思い出そうとしたが、今目の前にいる彼の姿が邪魔をして思い出せない。無理やり思い出そうとすると、今の図体でランドセルを背負っている、まるで下手なパッチワークのようになるので考えるのを諦めて、カップに口を付ける。髪を払おうとした手が空を切り、視線がそちらに動く。高校進学を機に長かった髪をショートにまでばっさり切ったのだが、未だに慣れない。
「郁乃、なんで髪を切ったの?」
 一連の動きを見ていたのか、優治が言った。
「失恋でもしたの」
「ばあか」失恋して髪を切るなんて、それ、「何十年前のドラマよ」
「じゃあ吹雪さんとはまだ上手くやってるんだ」
「上手くやってるって」
「それなりに会ったり、出かけたりしてるんだってこと」
 結局聞きたかったのはそこなのかしら、と考える。彼の喋り方に誘導じみたものを感じたからだ。自分こそ色めいた話の一つもないくせに。なんと答えていいのかも分からなくて、そーよ、と適当に相槌を打った。吹雪さんというのは、二つ年上の高校三年生で、中学生の頃に知り会った相手だ。郁乃は下の名前をとって渡さん、と呼んでいる。
「今日だって午後に約束してるし」
「へえ」
「あんたに心配される必要なんてないわ」
「心配はしてない」
 ばっさりと言い切って珈琲を飲み干す。「全然、心配はしてない」
 わざわざ言いなおしたそれは「どうでもいい」と同義なのだろう。
「それはそれは、どうも」
「そんなことじゃなくて不思議だっただけだ。どうして付き合う必要があるのかなって」
「そうしてほしいって言われたから、じゃ駄目?」
「駄目」
 郁乃自身の事情ではなく一般論として話せ、ということだろうか。普通、同時に好意を寄せられる対象は一人だけだ。それが複数に及んだ場合浮気と呼ばれ非難される。だが、複数に対し好意を向けるとしても時間的に離れていれば、すなわち愛していた誰かへの好意が消え、その分の好意を他の誰かに向けるというのであれば非難されない。
 しかしそれは「愛されていた誰か」にとっては破局に変わりない、だから、一対一の関係を築きたがるのではないだろうか。名前の付いた縁が結ばれるということはそれだけで一種の束縛になる。そんなことを話した。我ながら馬鹿みたいな説明だと思いながら。
「それじゃあ結局、独占欲って話になるね」
「そうかしら」
「だって郁乃の話には、好きな誰かとお互いに好きでありたい、ということが前提にある」
「そりゃそうよ」
 最終的に恋人関係の行きつく先を考えれば、おのずとそういう前提になるだろう。少なくとも現代日本の常識的な感覚から考えるならば当然だ。
「そんな、恋愛観を覆すような話だとは思わなかったわ」
「いや、もちろん最終的には郁乃の言う通りだろう。だけど最初からそこまで、見据える必要があるのかなって」
「将来を見据えないなら浮気して結構、みたいな話じゃないわよね」
 試すように言ってみる。道徳を無視するような考えの持ち主じゃないことは知っていた。ただ、彼の意図が読めなかったのだ。
「うん。いや、郁乃の考え方が知りたかっただけだ」
 久しぶりに話をしてくれたと思えば、変な話題を振る。今まではむしろ腫れ物に触るような扱いをしていたくせに、と不思議に思う。カップに残っていた珈琲を飲み干した。少し冷めていたせいか、香りが飛んでしまい苦みばかりが喉に残る。実のところ、あまり美味しいと思ったことはない。だが飲まないと調子が出ないし、飲めばそれなりの気分が保障されるのも事実だ。大人にとっての酒や煙草みたいなものかしら。
「優治こそ、高校生にもなるのにそういう話の一つもないのね」
「トモもだけどな」
「ふ、あんたら二人ともよ」
「好きな人がいたことはないでもない」だけど、と前置きをして、「俺は好きでいるだけで幸せだったから、だから分からないんだ」
 溶かした飴を吐くような言葉をさらりと言うもんだ、と呆れた。好きな人がいたことがある、というのもそもそも初耳だったけども。東向きの窓からいつの間にか朝日が入り込んでいて、足元の床板を暖めていた。時刻はいつの間にか六時二十分を回っている。もう少ししたら一旦帰らなきゃ、と思った。両親に怒られたくない以上に、なんとなく、皆が起きてくる前に帰らなくてはいけないような、そんな気がした。


 3 -智明-


「女の方がか弱いのに、なんで手足を出そうとするんですかね」
 智明は、心からどうでもよかったが聞いた。窓際で制服の、厳密にはスカートの丈について議論する千理と郁乃を見ての感想である。
「さあ。でも制服のスカートなんかは、膝丈が一番きれいに見えるようにデザインされてるって聞いたことあるけどね」
「それ言っちゃうと酷な気がします俺は。まあ、動きやすいんじゃないの、人目を気にしなければ」
 机には智明と優治、それに達海の男性陣が陣取っていたが、いずれも適当な意見を口々に発した。
「うるさいなあ、ってか、ふつーに失礼」
「女性には女性の価値観があるんですから」
 スカートの裾を下に引っ張っている。多勢に無勢といったところだろうか、千理のフォローも「男性には理解されなくて当然」という意味になるし、そもそも彼女の普段のファッションはロングスカートが多いので説得力がない。
「男子だって腕とか裾とか捲ったりするじゃない」
「そりゃ暑いからだろ」
「じゃあ女子だってそうかもしれないでしょお」
 ふてくされたように俯く彼女が少し気の毒になったので、それ以上の追撃は誰もしなかった。女子高生がスカートを巻くのは九割がた理屈ではないだろうから、あまりにも問い詰めるのは意味がないどころか悪趣味だと思う。智明自身、女子高生に足を出すことが流行るのは別に悪い気はしないし。
 辻ヶ丘高校の制服は緑を基調としたブレザーで、よくあるデザインだと思う。緑とはいってもたかが知れていて、どちらかと言えばグレーだ。ネクタイの色に至ってはほとんど黒だが、申し訳程度に斜めのストライプが入っている。特徴的なのは若葉を象った真鍮色の校章と同色のボタン、それにカッターシャツの色が白と淡い緑から選べるところくらいだろうか。智明も一度ちゃんと着てみたものの、今はネクタイを外している。中学校の制服は詰襟だったこともあり、ネクタイの違和感が我慢できなかったのだ。
 ネクタイが結べないらしい郁乃に代わって千理が彼女のネクタイを結んであげていた。去年、法事に出たときのことを覚えていたので智明は苦戦しながらもなんとか結ぶことができた。その経験がなければ自分も誰かに結んでもらう必要があっただろう。

「渡さんに見せる約束をしたのかな」
 優治が今度は明らかに小声で訊いた。そうだろうなあと智明も思う。二人のあずかり知らぬところで知らないうちに彼氏を作っていたという事実を知ってから、そろそろ半年。相手の男性のことは未だに名前しか知らない。
 別に止める理由も権利もないが、その事実を初めて知ったときの驚きは今でも描き出すことができた。一晩中考えていたベッドに落ちる月明かりも。
 
 だって、お前は俺が好きなんだって、そう思っていた。

 ***

 リビングでひと騒ぎしたその一時間ほど後、智明は優治と連れ立って「参道」を下っていた。参道というのは辻ヶ丘のてっぺんにある神社と辻岡駅を繋ぐ一本道の急坂のことで、この辺の住民が慣用的に使っている呼び名だ。本当の名前は、そんなものがあるのかどうかも含めて、知らない。
 二つ先の電信柱を通り過ぎた彼女らが足を止めたので、あ、これは、と思ったら案の定「尾行ならもっと上手くやりなさいよ」と言われた。「隠れる気がそもそもなかったのでは」と困ったように笑っている声も聞こえる。二人は一瞬顔を見合わせて、前を歩く夏と郁乃に追いついた。急坂を革靴で走ったら足が痛かったので、通学の時はスニーカーを履こう、と決意する。
「俺らも駅に行くところだっただけ」
駆け寄って開口一番にそう言う優治に、「なら話しかけてくれればいいのに」と郁乃が不満げな表情を見せる。二人が会話するとどうも喧嘩腰になってしまうのはいつものことなのであまり気にならない。郁乃の思ったことを素直に口にしてしまう性格と、優治の間違いを正そうとする性格上、そのようになってしまうのだろうと思っている。
「女の子同士でいるからって遠慮しなくていいのよ」
 夏という、会ったばかりの相手で果たしてガールズトークに花が咲くのかと思ったが、そこは黙っていた。代わりに尋ねる。
「郁乃はいいとして、夏ちゃんはどこに行くの?」
「中学校です」彼女は辻ヶ丘中学校の制服を着ている。郁乃がつい最近まで着ていたセーラー服と同じものだ。「あの、転入という形になるので……」
「ああ、手続きとか要るんだ」優治が納得したように頷く。「担任とかはもう決まってる?」
「えっと、新年度のクラス発表はまだなんですけど、担任の先生はもう教えてもらってて。吉田先生というかたです」
「吉田って、数学の吉田? それとも英語の吉田?」
「えっと」と言って思い出すように視線が遠くなる。「ごめんなさい、分からないです。でも、若い女性のかたです」
「ああ、じゃあ数学の吉田先生だわ」と、郁乃が手を叩く。英語教師のほうは中年の男性なので間違いなかったが、あのひと言うほど若かったっけ? と智明は心のなかの首を傾げた。
「すぐ俺らもオジサンって言われる年になるんだから」
「あ、バレた?」
 考えたことをあっさりと見抜かれて智明は苦笑いした。数学がそもそも嫌いなので、数学教師に対しては全体的に嫌に見えるバイアスが掛かっている。
「お前、課題いっぱい出すからって吉田先生のこと嫌ってたろ」
「私らが何度教えたかって話だわ」
 こういう時だけ手を組む二人が溜息をつく。二人とも数学が出来るほうだったので、実際に色々と世話になったことは事実だ。智明が平均点より上を取れたのは英語くらいだったが、それでも優治と並ぶ程度だった記憶がある。まあ元より、勉強で張り合うつもりもなかった。
「まあ、もう許してよ」高校に入ってからも世話になることを分かっていてあえてそう言ってみた。「夏ちゃんは数学は、得意?」
「得意かどうかは分かんないですけど、好きです」
「じゃあ大丈夫ね」郁乃が嬉しそうに言う。数学が好きな仲間が増えて喜んでいるのだろう、と思った。
 学校や勉強について、夏と色々話し込んでいる二人を智明はぼんやりと聞いていた。好きな分野は違うが二人とも好奇心が強い、勉強が好きなタイプで、智明はあまり付いていけない。同じ高校に進めたのも幸運の成すところ、という印象が否めなかった。その差に劣等感を抱くような時期はとうに通り過ぎていたが疎外感はどうしても残ってしまう。――だからと言って、勉強を好きになれる気は全くしなかったが。

 辻ヶ丘の麓近くまで降りてきていた。夏の行き先である辻ヶ丘中学校へ向かう分かれ道まで差し掛かったので、そこで別れる。もう学校が見えている距離なので迷う心配もなかった。じゃあまた、と手を振る三人にお礼を言って角を曲がり、数メートル進んだ先で改めて振り返って頭を下げる。部活の後輩でもなかなかここまで丁寧にはしてくれなかったぞ、と驚いた。智明自身、やろうと思ったとしてあのように振る舞えるか分からなかった。
「丁寧な子よね」
 夏の姿が見えなくなったあと、郁乃が独り言のように呟く。優治が頷き、智明もまったく同感だった。逆に言えば、「丁寧だ」以上の感想を抱くことができないほど隙のない、心を開いていない相手に思えた。出会って翌日で心を開けってほうが無理かもしれないなあ、と両手を組んで空に向けて伸ばす。
自然に息が抜けていく身体に、「夏さんは」と切り出した優治の声がすっと浸透した。
 小声ではないが、響きを抑えたその言い方に、本当は言う瞬間をずっと計っていたのかもしれないと思った。

「母さんのことを知って、辻ヶ丘に来たらしい」

 第二話 了

陽光

 翠緑荘の玄関ホールには春の光が細く斜めに差し込んでいる。
 輪郭の溶けた光が当たる紙面を優治は無言で見つめていた。
 廊下には物音ひとつせず静かだった。陽光を反射して光る細かい粒子がちらちらと舞っている以外、動いているものは一つもない。ページをめくる音がやけに大きく響く。彼は紙面を無言で見つめているが、その内容は殆ど頭に入っていなかった。静けさを吸って吐いている、息をしている自分だけを感じていた。
 遠くから階段を降りてくる音が聞こえだして、優治は静かに本を閉じ、本棚に入れなおした。高い段から抜き取った本なので戻すのに少し難儀する。ようやっと本を仕舞って振り向いたとき、階段から降りてきた父親と姉がもう玄関に居るのが見えた。机に置いた肩掛け鞄を拾って玄関の方へ向かう。
「今日は肌寒いね。ちゃんと厚着しなさい」
「うん、ありがとう」
 父親の言葉に、素直に頷いて上着を羽織る。翠緑荘の中は空気が遮断されていることもあり暖かかったが、半開きの玄関から吹き込んでくる風は冷たい。優治は上着のファスナーを口元まで引き上げた。
「翠さんが待ってるからね、早く行こう」
 彼らの父親、寛三は自分の妻を「翠さん」と名前で呼ぶ。優治や、彼の姉である瑞穂もそれを真似して「翠さん」と呼んでいた。
 彼女は今、辻ヶ丘が見下ろす平野の病院に入院している。
 今日は、数か月ぶりの面会日だった。

 陽光 了

第三話

 1 -結花-

 18行24列、整然たる文字の並びに眠る無限の意味。
 文字の海に浸っていた結花を叩き起こした彼らの第一印象は、だから正直最悪だった。
「あの、ごめんなさい! ここ、誰か通ってないかしら」
「さあ……五分ほどここに居ましたけど」
 とはいえ、結花は本の世界に浸っていたので自信のない答えになってしまった。それをNO、の意味だと取ったらしい彼女はそうなの、と机もないのに頬杖をつく格好をする。初対面にも関わらず馴れ馴れしい態度と元気に短く切った髪型で、どこかお嬢様ぶった言葉遣いだけが浮いて見えた。結花と同じ女子制服を着ているが随分と崩れて見えるのは、短く巻いたスカートの所為だろうか。
「えー、でも絶対ここ通ったはずだろ」と彼女の後ろから顔を出した少年が言った。「よっぽど遠回りでもしてなきゃ」
「五分より前だったのかもしれないわ」
「優治と別れてからそんなに経ってるう?」
 会話の内容から、きっと友人の一人とはぐれてしまったのだなと推測した。証言の精度はたかが知れている、と補足したほうがいいか逡巡する。
「やっぱここ通ってるよ」
「あの、私が気づかなかったかもしれないです」手にした文庫本を少し持ち上げる。お気に入りの作者のものだ。「本、読んでたから」
 二人が揃って振り向き、「ごめんね、別に大丈夫だから」と同時に言った。
 別に双子でも兄弟でもないようだが、二人は似ていないようでよく似ている。少年の方が小柄なせいで、背丈も同じくらいだ。彼女が居たたまれない思いのままコンクリート塀に背中を押し付けている間に、二人の間でははぐれた友人を置いて学校に向かうことで合意が成立したらしかった。
「ねえ、辻ヶ丘高校の人よね。私たち新入生なんだけど、よかったら一緒に」
「ごめんなさい、人と待ち合わせしているんです」
 同性ゆえの気軽さなのか、距離の詰め方が露骨だとすら感じる。綺麗に整った顔立ちが結花を凝視していた。まぶたに煌めく粒子が乗っていて、軽く動悸がした。
 そんな彼女の申し出は、彼女なりの好意なのだろうとは思ったが断った。なにも理由がなくてこんな住宅街の片隅で本を読んでいたのではない、中学校からの友人と待ち合わせていたのだ。目の前の少年と同い年ではあるが青年と呼んだ方が相応しそうな彼は、待ち合わせの時刻にぴったりと来ることを信条にしているらしい。高校に入って新調した携帯の画面をちらりと見る。いつも通りならもうすぐ彼が来るはずだ。
 そうなの、と彼女がずいと近づけていた上半身を少し引いた瞬間、果たして彼は来た。
 角を曲がって現れた彼に手を振るが、彼は結花とこの二人組を認めた瞬間、そのまま軌道修正して歩いていってしまった。新しい友達を作るのなら僕がいない方が、と彼が落ち着き払った口調で弁明、いや彼には謝る意図もないだろうから説明をするのが聞こえてきそうだった。
 ――もし本当にそう思ってるんだったら、自分自身に対する過小評価が過ぎてる、と結花は思う。ついでに結花に対する過大評価だ。お世辞にも話し上手とは言えない人見知りな結花にとっては、気心の知れた相手が一人いるだけで随分と楽になったのに。
「えっと、さっきの人知り合い?」制服姿の彼が事情をやや察したのか不安げな表情で尋ねる。「待ち合わせてた人だった?」
「ええ、でも、気にしないで」努めて笑顔を作った。「ああいう人なの」
「もしかして私、邪魔してたかしら」
「もしかして、かしら、じゃなくてそうだろ」
「何を冷静に分析してくれてるの」
「あの、本当に大丈夫です。高校に行けば合流できると思うし」
 放っておけば話し続けそうな二人に割って入る。その流れで、結局二人と一緒に高校まで一緒に行く運びとなった。二人は幼馴染というのか、古い友人であるらしい。少女の方が冬坂郁乃、少年の方が宇井智明と名乗ったが、「郁乃」「トモ」と下の名前で呼び合うのは随分と親密に見えた。自分もそれに倣って名前で呼ぶか、少なくとも異性である智明のほうは苗字で呼んだ方が常識的かと悩んだあげく、「冬坂さん」「宇井くん」と足して二で割ってさらに一歩引くような形で落ち着いた。

 辻ヶ丘高校まで向かう道に自信はなかったが、二人が先導してくれるおかげで迷うことはなかった。二人はいかにもこの街を歩き慣れているという印象で、引っ越してきたばかりなのだ、と告げるとなるほどね、見たことないなと思ってたと合点がいったように笑われる。
「見たこと無いって、ご近所同士で挨拶とかするってこと?」
 引っ越す前は団地に住んでいたので、一軒家同士のご近所付き合いはよくわからない。
「そうねー、まあ家にもよると思うけど。結花ちゃんの家はどこ?」
「ええと」説明の方法に苦労した。「さっき私が居たところから右に曲がって……」
「もしかして三月くらいにできた床屋さん?」
「あ、そう」彼女の家の一階は両親が経営する床屋になっている。あれかあ、と二人がまた顔を見合わせて笑った。俺、いっかい行ったことある、と智明の方が言った。
「若い女の人だったけどあれがお母さん? 眼鏡かけてた」
「あ、それ姉の方だ。本職は編集者なのに」
「結花ちゃん、お姉さんが居るのね」
 うん、と頷く。姉である伊鶴は美容師を志していた時期があって資格を持っており、本業ではないが時々家の手伝いをしている。智明の髪型はお世辞にも綺麗に整えたとは言い難いが、癖のある跳ねた髪をうまく纏めているようにも見えた。彼の色の薄い髪にひとつ二つ桜の花びらが引っかかっている。
「辻ヶ丘って、桜の名所だよね」
 ふと思い出して、聞いてみる。郁乃と智明がまあね、と口を揃えた。辻ヶ丘の桜と、それを主役に祭り上げての桜まつりはここ数年とくに賑わっていると聞く。
「名所? っていうほど、有名かしら」
「駅とかに広告貼ってるの、見るけど」と言ってY市内の大きな駅をいくつか挙げた。提灯の灯りに映える夜桜を映したポスターに見とれた記憶がある。
「俺、その駅行ったことないかも」と智明が言った。「なかなか市の中心部まで行かないんだよなー。遠いし、時間かかるし」
 私はあるわ、と言う郁乃の声はどこか後ろめたそうに聞こえた。
「でも、気づかなかった。ポスターなんて貼ってたのね」
 うん、と結花は頷く。時節に沿った観光ポスターが入れ替わり立ち代わり貼られるのを、通学の間によく見ていたものだと思い出しながら。
「灯子さんの管轄なのかな」
「さあ。委託してるかも、あ、でもデザインは千理さんが担当してるって聞いたわ」
「えっ、あの人デザインできるの?」
「うーん、どうだろ? あ、あのね結花ちゃん、灯子さんっていうのは桜まつりを仕切ってる人のことよ」
「え」結花は驚く。「お祭りの主催者さんと知り合いなの?」
 彼女は、灯子という人はまだ学生で、名目上の主催ではないが、実質的な仕切り役を任されているのだと説明した。年は十も離れていないと聞いて驚く。目の前の、郁乃と智明の二人も手伝いを買って出ているそうだ。かつて見惚れたポスターの桜まつり、それが今ごく近い場所にあると気づいてどきどきしていた。

 そんな緊張を抑え込む結花をよそに、二人はまるでバイトの日程でも埋めるようにスケジュールを相談している。
 それが毎春のように訪れる恒例行事だからだ、と気付く。
 結花にとっては遠い地で開かれる、綺麗な写真とキャッチコピーで彩られたお祭りだったが、二人にとってはご近所付き合いをも視野に含む行事なのかもしれない。面倒、とまで言ったら少々穿ちすぎな見方だろうか。
 文庫本のような形をしたスケジュール帳を開いた郁乃が智明に何か言っている。数歩前を歩いているせいで会話は聞こえないが、どうやら進行が芳しくないのか、寄せた眉間がちらりと見えた。どこのイベントでも舞台裏はこんなものだ。

 少し残念な気持ちになる。
 それは全部結花の数歩先で起きている出来事で、彼らと自分の間には無限の断絶がある。 当事者ではない、だからこそ無責任に残念だなどと言えたのだ。
 ふう、と花を揺らす程度の息をついた一瞬の間に、「ねえ」という呼びかけと共にその距離が消えていた。
 体の横に垂らしていた右手を綺麗な両の手のひらが包み込んでいる。桜まつり、と唇が動いた。
 「一緒に、しない?」

 え、と声が漏れた。
 あまりに気が抜けた顔をしていたことに気づき、慌てて唇を横に引く。
 彼女の肩の向こう側で、スケジュール帳を拾い上げた智明がおかしそうに笑っている。

 2 -悠-

 やけに目立つ瞳の奴だ、と初めは思った。
 黒い目に、墨で塗りつぶしたような髪の色をしている彼にとって、目の前の青年の、いや少年と呼ぶべきか、赤みの褐色の髪に緑目の容姿は妙に目立つものに見えた。少年が警戒するような色を目元に湛えていたせいもあるだろうか。
 こんにちは、と彼は言った。何も言わずに通り過ぎるには相対しすぎている、と気付いたからだ。それに少年の着ているのは、これまた緑のかったブレザーこそ脱いではいるが彼と同じ高校のものだ。あっけに取られたような顔でこんにちは、と返される。何か深読みされているのではないか、と思って話しかける。
「僕は入学のためにここに越してきたから、君と面識がないけど、でもご近所で同級生の筈だ」
「ああ、成程」驚くほどあっさりと返される。「僕は本宮優治。君が思う通りかは知らないけど、新入生」
「春日井悠」と名乗る。「突拍子もない話しかけ方で悪かった。いつもハルに怒られる」
「ハル?」
「友人の話」
「ふうん、君のことじゃないのか」数歩先を歩き出した優治が言う。「春日井、ハルカ」
 いかにもハルって呼ばれそうだけど、と人差し指以外を緩く折り込んだ、曖昧に指を差してそう言う。話の腰を折るような言葉だが、特に失礼だとは感じなかった。優等生然とした言葉の振る舞いだが、妙な純粋さを持ち合わせておりそれが嫌味を感じさせない。
 田舎的というか牧歌的というか、と考えかけて、あまりにも偏見に満ちた考えだったので自己嫌悪する前に打ち消した。「まあ僕もハル、と呼ばれることはあるよ」
 ふうん、と呟いてそれきり興味を無くしたように見えた。
「春日井君はさ」先ほどまでの呼び名の下りは無かったようにそう呼ぶ。「どこから辻ヶ丘に?」
「音羽」
「二十三区か。都会人だね」
「知ってるのか」都内、と補足しようとしていたところで先を越されたので少し驚いた。「渋谷とか銀座ほど有名ではないと思うけど。地名に詳しいんだな」
「違うよ。昔よく両親に連れてかれたんだ」
 眼を細めると途端に目の印象が薄れて、人当たりのよい顔に見えた。数歩前を歩いていた彼の頭が相対的に上に動き出して、無意識に歩く速度を落としたのだろうと気づいた。悠は腕時計をちらりと見る。黒字に白の文字盤に、無個性なシルバーのベルト。見えやすくて丈夫そうだから、と選んで入学祝に買ってもらったものだ。まだ時間には余裕があるので大丈夫だろう、と判断して歩調を合わせる。
「学生時代に住んでて、あの辺りの街を歩くの好きなんだってさ」
「確かに、あの辺りは大学が多いな。うちの兄と気が合いそうなご両親だ」
「お兄さんがいるんだ」
「ああ、大分年上だけど。小説家をやってる」
 そう言って兄の筆名を試しに言ってみると、優治の眼が輝いた。うちの書庫にあるよ、お兄さんの本、と言って今度は少々速足になる。悠の兄、玲は食べていくだけの収入は得ているものの売れっ子というには遠いので、優治の反応は嬉しくも予想外だった。
「編集さんの甲斐あって何とか、って感じだけどな。知ってるとは思わなかった」
「俺からしたらページの向こうの人が突然こっちに来た、って感じ」語尾には突き上げるような驚きが滲んでいた。「お兄さんの最初のファンだったりするのか」
「突然だなあ」
 頭の回転が速いのか、あるいは思考が飛躍するたちなのか。悠は苦笑したが、予想の枠に入りきらない返答をしてくる相手は好きだった。
「いや。最初のファンはハルだ」
「また、ハルさんなんだ」
「そうだ、兄にとっては、全ての始まりだ」
 霞んだ春の空を見上げる。突き抜けた青の冬空に比べて春の空は淡い色をしている。悠が「ぱっとしない」と形容した空を、口をそろえて「そんなことない」という二人。兄であるはずの玲とハルは、自分よりむしろ兄弟のように思えた。

 あいつにとっての全てだ、と口の中で繰り返した。

 革靴を挟んで足が触れる、地面の勾配が緩やかになり、そろそろ学校につくな、と思った。

 ***

 灯子はうなじに冷たい風を感じた気がして、立ち止まった。
 書類を入れたファイルが音を立てる。
 一つに束ねた髪を左手で触る。手のひらにほのかに光るような透明な結晶が付いていた。首すじに掛かった髪束を払って振り返ると、遅れ毛に区切られた視界に白い空が広がっていた。
「桜隠しだ」引き戸を閉めて寛三が言った。「葛湯をこの間買ったよ。飲んだら?」
いえ、と灯子は首を振った。
「昼には出かけますから。大丈夫です」
「そう」
 戸締りに気を付けて。そう言い残して彼は原付で急坂を下っていった。歳は四十を超えたはずだが出勤方法を変える気はないらしい。
 アスファルトに白い雪が滲んでいた。
 桜が咲くころの雪を、桜隠しと言うらしい。花弁の色を包み隠すように雪が薄く積もるのは、ここの春には度々見られる光景だ。

(……例年より、ちょっと早いかな)

 満開の桜に積もる雪は、辻ヶ丘の誇る名物だ。だが、あまり吹雪が強ければ満開を迎える前に花が散ってしまう。
 桜隠しの時季は桜まつりの成功を大きく左右する。
 今年も成功させなきゃ、と、書類が詰まったファイルを抱きしめるように抱えた。
 筆で勢い良く書いたようだが、「桜まつり」の字は手書きではなくそういうフォントがあるらしい。千理から伝え聞いた話だ。彼女にとっては常識だったのか、少々の苦笑を添えて。明朝体とゴシック体くらいなら知ってるわ、と返したらもっと笑われてしまった。
 桜まつりの準備は分業体制だ。千理がデザインや広報を仕切り、会計を達海がする。「参道」の両脇を彩る出店と連絡を取るので、先の土日は随分忙しくしていた彼だ。灯子は全体の進行を取りまとめる統括の立場にある。
「明後日の晩には提灯の設置、と」
 書類をめくって、無声音の独り言を零した。一番の集客が見込まれる今週末に向けて、夜間に提灯を設置するのである。翠緑荘の面々を動員しての大仕事になる。
 桜が咲くだけでは見ものにならない、という意識が編み上げのブーツみたいに足の先から身を縛っていた。

 翠緑荘の三階まで階段を上がり、自室の窓が締まっているのを確認してからベランダに出た。
 風の煽る方向と逆に顔を向けると、緋色の鳥居が見える。
 空の色が白いおかげか、まだ春を待つ木立のせいか、緋色はまるでそれ自身が光っているみたいに際立って見えた。
 雪の粒混じりの冷たい風が吹き付けて目が潤み、霞んだ視界で鳥居が溶けていく。手の甲で顔をこすり、今年も成功させてください、と祈った。

 ベランダの引き戸を閉め、暖かい室内に一息付いたら連絡事項を思いだしたので携帯を取り出す。登録されている連絡先を呼び出しながら考えていた。
 
――はたして誰のための祈りなのだろう。

 3 -郁乃-

 灯子さんからメールだ、と優治が言った。またお使いかあ、と呟く。缶珈琲片手に携帯の画面を触っている。
 人前なのに、と郁乃は文句の一つもくれてやりたかったが、心の中だけに留めておいた。当然の反応として、初対面の二人が「灯子さん?」と首をかしげる。
「えっと、結花ちゃんにはさっきちょっと言ったけど」
「ああ! お祭りの主催者さんだよね?」
 結花が少し明るい顔になって頷く。笑うと目をぱっと見開くのが可愛らしい。――なんて、そんなことを言ったらきっと困らせてしまうから黙っていたけど。
 彼女を桜まつりに誘ったのは少々強引だったかと気にしていたが、それを切欠にお話しできたし良しとする、と評価。
 出会い頭の結花は明らかに郁乃を警戒していたし、不快そうですらあった。
 膝小僧を隠す結花のスカート、黒い髪に化粧っ気のない頬。そんな彼女に比べて外見が派手なのは自覚していた。おまけに待ち合わせの約束を反故にしてしまって、初めに警戒されたならそれは当然のことだ。

 ――その時に比べてずいぶん穏やかに笑うのは、彼がいるからかしら。
 長身の彼は屈もうともせず、顎だけを下に向けて結花を見た。

「お祭りというのは?」
「あのね、お花見のこと。ハルちゃんがいない時に聞いたんだけど」
 ハルちゃん、と呼ばれている彼には会って真っ先に頭を下げた。結花と本来待ち合わせていたのは彼だからだ。ごめんなさい、と頭を下げると
「ハルに新しい友人ができるなら、別にいい」
 と欠片の躊躇いもなく言い切り、それどころかハルと仲良くしてやってくれと頼まれてしまった。ハルは友人がいないから。――初めは混乱したが、この二人は「ハル」「ハルちゃん」とお互いを呼び合っているらしい。遥、という苗字の彼女と、ハルカ、という名前の彼は不思議なめぐりあわせに見える。
 面白い人たち、と歪みそうになる口元をストローを咥えるふりで誤魔化した。自販機で買ったオレンジジュース。柑橘の酸っぱさが喉にちくちくと痛む。携帯をブレザーのポケットに入れた優治が、郁乃のほうを一瞬見たのち口を開いた。
「辻ヶ丘の商店街で毎年、花見を主催するんだ。出店だしたりとか」
「え、商店街……?」
 結花が少し困ったように顔を上げた。「それじゃあ、ウチも?」
「結花さん、えっと君んちはお店なの?」
「うん、床屋」
「ああ、三月に出来た……美容室ハル」
 優治の言葉の後半は結花と同時になった。
「そうか、君がハルか」
 「今まで聞いてなかったのかあ?」という智明の呆れ混じりの声に、「郁乃は名前で呼んでたから」とあっさり返し、君がハルか。ともう一度繰り返した。
「えっと、遥さん。話を戻すけど、たぶん君の家は大丈夫だと思う。商店街っていっても、実際はうちと郁乃んちと、あと幾つかくらいだから」
「商店街ってほどじゃないんだよな。有志っていうか」
「辻ヶ丘もねー、活気があるわけじゃないの、そんなに」
 辻ヶ丘で生まれ育った三人が順番に、あまり前向きではない発言をする。桜まつりの規模はそこまで大きいわけではない。翠緑荘の人間はみんな桜まつりに前向きだし、郁乃自身地元が賑わえば嬉しく思うだろう。
「そうなのか。せっかくの伝統だろうに」
「廃れつつある伝統だからなあ、守るべき、とは思ってもなかなか面倒なんだ」
 優治がさらりと言うが、冷笑を気取っているだけなのは郁乃には分かった。きっと智明にも分かっただろう、と数瞬の間、彼の軽そうな髪に目を遣る。
「そっか。ハルちゃんと私じゃあんまり助けになれない、かえって迷惑かな」
「ううん、結花ちゃん、一緒にやろう」謙遜の類ではなく、真剣に気おくれした様子の結花の両手を握りしめた。そうしないと善意のまま、彼女がいなくなってしまうような気がしたのだ。
「僕も入っているのか」
「え、あれ、違ったっけ?」
「春日井くんもぜひ来て」結花の手から、片手を離して悠の手を掴む。大きさの全く違う二人の手をしっかりと握りしめた。
「だから郁乃ってば、いっつも強引なんだよ」
 冷めた幼馴染が言うので郁乃は二人の手を離した。結花を誘った後も、妙に白けた顔をしていたっけ、と思いだす。白目がちな目をさらに三白眼にして。
「分かったって、でも、一緒にしたいんだもの」
 ちょっと抗議してみると直ぐに、分かってるって、と笑顔であしらわれた。
「冬坂さんがそう言ってくれるなら」
「冬坂たちが良いなら」
 二人の「ハル」が揃ってそう言った。反応まで息が合っているな、と思う。
 もちろん。そう言って頷いたところで、二人の視線が郁乃の顔を逸れて、自分の後ろを見ていると気づいた。廊下の一角で立ち話をしている、彼女の背後は窓だ。
「あ、桜隠しだ」
 智明が呟いた。
 優治と郁乃も振り返る。淡い色の空が剥離して落ちたように雪が舞っていた。
「四月なのに、雪?」
「都内から来たんだよね。じゃあ、びっくりするかな」
「Y市は、そこまで雪国って印象でもないから」
 結花が窓の際までやってきて外を眺めていた。斜めに雪が流れていくのを、感動した様子で見つめている。
「父さんに聞いたけど、父さんが子供の頃は桜隠し、なかったらしいよ」
 缶珈琲から口を離して優治が言った。缶の角度からしておそらく最後の一滴だろう。
「やっぱ異常気象なんかなあ。それで辻ヶ丘が繁盛するなら別にいいけどー」
「あは、ありそう。異常気象かもね」
「優治の父さんが子供だった頃って、ちょうど環境がどうのこうの、言われだしたころだろ」
 智明が投げやりに言う。きっと当時の高校生も同じ感覚で、「どうのこうの言ってる」と思ってたんだろうな、と思いを馳せてみた。

 飲み終わった珈琲の缶を握りつぶして、「じゃあ悪いけど俺、行くよ」と優治が言った。いつの間にか鞄を肩にかけている。
「さっきも言ったけど、お使い。夏さんがふもとの方まで来てるって」
「ああ、そうね。あんまり降り出したら厄介だから」
「もし二人が桜まつりの手伝いをしてくれるなら、俺から灯子さんに言っておく」
 それだけ言って、振り向きもせず歩いていった。階段を降りる音もやがて聞こえなくなる。
「もう、相変わらず他人事みたいに言うんだから」
「別に優治は桜まつりが嫌なわけじゃないよ、多分」
 郁乃もそう思っていた。桜まつりの規模が縮小していることを笑ったふりをして、本当は誰よりも成功を待ち望む一人のはずだ。だからこそ灯子のお使いにも嫌な顔一つせず従うのだろう。
「多分なあ、無くなっちゃうものが嫌いなんじゃないかなあ」
 目線をボールのように窓の外に投げて、智明が呟いた。

 ***

「桜の花が嫌いですか?」
 夏がそう訊いた。
 セーラー服にダッフルコートを重ねている。手にはビニール袋を二つ提げて、迎えの車を待っていた。
「そんなことは無いよ」
 ブレザーの袖に乗る雪の結晶を眺めながら返事をした。桜隠しの雪は、六角形に対称に枝の伸びた綺麗な結晶になっている。瞬く間に水滴に変わってしまったので目を離した。
 夏がそんな風に聞いてきたのは優治の態度がきっかけだ。桜まつりが成功するといいですよね、と言ってきた彼女に対して、先ほどの会話を思い出して咄嗟に返事が出来なかったのである。
 実際、春は好きだった。春に限らずどの季節も好きだった。桜の花も綺麗だと感じる。
「桜は散っちゃうからな、祭りの後を想像して悲しくなるのかも」
「たえて桜のなかりせば、ですか?」
「そんな上等な感情じゃないよ」
 優治は照れ臭くなって首を振った。千年後どころか十年後だって、覚えているかどうか怪しい、そんな程度の感傷だ。ただ、数日の間栄華を誇った後は地面と同化して消えていく、それが物悲しく思えたのだ。
「でも、桜は一年待てばまた咲いてくれるでしょう」
「確かにそうだ。それが待てないのかな、だとしたら随分せっかちだな僕は」
「そんなことは無いと思います」
 こちらを見上げる蒼い目は、澄み切った空を閉じ込めていた。「生きているうちに百回も見られれば、多い方なんですから」
 
 瞳の中にもう一つ宇宙が広がっている気がして、ほんの少し、体を引いていた。

 白い乗用車が下ってくるのを見つけて、優治は手を振った。両手にビニール袋をこれでもかと下げていて、あまり大きく手は上げられない。少し離れたところに停車する。そこまでは歩いてこい、ということだろう。 
「ゆーさん、ごめんなさい、片方持ってもらえませんか」
「あ、うん、勿論」
 大型ペットボトルが入った袋を受け取る。はにかむように笑う夏は、低い背丈と、十四歳という年相応の幼さがあった。ただの、棒のように細い手足をした少女だ。先ほど感じた、寒気にも似た感覚はもうどこにもなかった。

第三話 了

灰色

 ほとんど赤じゃあないの、と呟きながら、桜色のアイラインを引いた。
 鏡を見つめて瞬きをすると、微妙に角度と表情の違う自分の顔が脳裏に焼き付く。連続写真みたいだった。
 輪郭を強調するように描かれた顔をじっと見つめる。顎の高さまで、短く切りそろえた茶色い髪。前髪は目に僅か届かない。今日も今日とて私だな、と郁乃はひとり頷く。化粧を終えたので鏡から上半身を起こした。癖で目尻をこすりそうになって、熱いものでも触ったかのように慌てて手を遠ざける。せっかく綺麗に引けたアイラインが崩れてしまうから。
 綺麗なものほど触ったら壊れてしまう、とは、よく言われる。
 硝子細工、ピンに刺した蝶、なにを象ったわけでもない繊細なレース。その論理の命脈に組み込まれたあれやこれやは、彼女の部屋にありふれている。

 カーテンを開けているのに、部屋は暗い。
 ほの暗いピンク色は不気味だ、といつも思う。

 この空間におよそ似つかわしくない鮮やかな紺のジーンズ。足首が僅かに見える丈に黒のパンプスを添えて、ヒールは五センチ。裾と胸元に洒落た紐飾りのある七分袖の白いパーカー。
 水の中に色を落としたような春の中で異質になりたかった。
 自分と春の間に境界を引きたかった。
 キャップを斜めに被って、廊下を足音をひそめて歩いた。

「素性を隠してるみたいだね」
 そう言って、郁乃の被るキャップのつばを持ち上げる。
「やめませんか、それ」彼の手を払う。
「眼が見えてないと男の子みたいだよ」
「渡さん、それ、だいぶ失礼です」
 相手にはされないだろう、と踏みながら、下唇を突き出して見せる。彼はキャップを取り上げて自分の頭に乗っけ、笑った。頭の高さは大して変わらないが、手を伸ばすことはなんだか、ためらわれた。
「これならデートに見える」
「見える必要、ないんじゃないですか」
「うーん、ないかも」
「ないんなら返してくれればいいのに」
「そうかもね」
 理屈が通じているようであっさりと流される。この人はそういう性質なのだ、と理解してからは気にならなくなった。出会って直ぐの頃はなかなか困惑した記憶がある。
 正直なところ苦手な性格だった。
 そんな印象を持った彼と、初対面から2年ほど経った今でも顔を合わせているというのは不思議なものだ、と思う。
 ワタリ、という名前を持つ二歳年上の彼は、関係としては彼氏にあたる。
「僕、桃のタルトにしよう。紅茶付きで」
「ここ、お茶っ葉の種類選べないんですね」
 そう言って、郁乃はすぐに「あ、だからと言ってどうこうという訳では」と両手を広げた。辻岡駅から二回乗り換えてやってきた隣市の中心街。土地勘のない彼女を案内して、この喫茶店まで連れてきてくれたのは渡である。
「そんなに気にしなくてもいいよ」と彼は笑った。「僕、だいたいティーってついてれば何でも好きだからいいんだ」
「だいぶ、雑じゃありませんか?」
「グリーンティー、ウーロン・ティー」
 彼はメニュー表を三つに折り直して、郁乃に寄越す。結局何の茶葉なのだろう、とさりげなくメニューを眺めたが分からなかったので、ケーキと一緒に、産地の明記してある珈琲を注文することにした。おおらかで大雑把な性格の渡と違い、郁乃は種類が明記されていないものが苦手だった。特に苦手な茶葉や豆を回避する意図ではない。そもそも苦手なものはなく、単なる性格の問題だ。
「郁乃ちゃん、モカ好きだね」
「うーん、私もそんなに詳しくないんですけど」と、苦笑する。「甘いお菓子と、酸っぱいモカってよく合う気がするんです」
「そうなんだ」
 渡が興味があるのかないのか、口元だけ笑って郁乃から視線を逸らした。興味があるかないかで言ったらまあ無いのだろう。それでも無関心を主張せずに多様な興味関心を肯定する。こういうときの彼の寛容さにはいつも救われる。
 曖昧な性格も、要するに、善し悪しだ。
「渡さんってこういう喫茶店とか、よく来るんですか?」
 と、聞いてみた。メニューの額面は、お小遣いのみで生きなければならない高校生にとっては「月に一度レベル」の贅沢に当たる。
「僕も全然だよ。お小遣い、ないしね」
「……そうなんですか」
 郁乃はちょっと目を見開く。
 彼女の家、すなわち辻ヶ丘のてっぺん近くは、郊外という名前がぎりぎり許される程度の田舎。くらべて渡は、訪ねたことこそないがY市の中心部に近い住宅街のはずで、やはり経済的に豊かなのかしら、と考えていた。
「デートでこんな話をするのも格好悪いけどね。実は服をあんまり持ってないから、デートの服選びが難しいんだ」
「次から制服で来たほうがいいかしら」
「別に合わせる必要もないけど。でも片方だけ制服って、なんか不純っぽい」
「そんなことありません」郁乃は馬鹿らしくなって笑った。笑ってから、金銭的事情という多少ナイーヴな話題であったと気づく。「これ、笑っていい話でした?」
「さあ」
「さあって。渡さんが決めることでしょ」
「そうかも。でも笑い飛ばすのはぼくらの特権だと思うんだ」
 ぼくら、というのはだれを指すのだろう。渡と自分のことか、もっと大きな集合を指すのか。
考えながら、頭の上に返却された帽子のつばを引っ張る。喫茶店で帽子をかぶっているのはマナー違反だろうか、と思い至って、そのまま外して膝に抱えた。渡が近くを通りかかった店員に手を挙げて注文を済ませる。板張りのテラスを硬い足音が遠ざかっていった。
 郁乃は足音と反対側、白い柵の向こう側を見渡す。
 Y市でも中心部にあたるこの一帯は、ビルがごちゃごちゃと肩を並べる都会だ。湾岸に流れ着いた漂着物みたいだ。辻ヶ丘からはあいにく見えないが、高い場所から見下ろしたらコンクリートで描いたモザイク・アートが見られるだろう、と思った。
 彼は肘を机に垂直に立てて、組んだ指に少し傾けた顎を乗せた。顔はY市の街並みに向いている。まぶたの影が眼に落ちていた。
「この辺りは坂が多いね」
 郁乃は頷く。今日やってきた道のりを思い出しながら。
「山に貼りついたような街ですよね」
「まあ、辻ヶ丘には負けるか」
「考えてみれば、あんな不便なところに人が住んでるなんて信じがたいです」
 郁乃は笑った。辻ヶ丘はこの狭い平野の外れも外れ、川と線路が山に吸い込まれる直前の駅からさらに坂を登った一帯である。翠緑荘や、郁乃の実家である百貨店のように辻ヶ丘の頂に近い一帯は尚更不便な地域だ。参道の勾配がきついので自転車もめったに使わない。
「不便、かあ」
「不便には間違いないです。世界中のどこからも遠い」
 彼はへえ、と視線を郁乃に戻して、
「郁乃ちゃん、いま16歳?」唐突にそんなことを聞く。
「10月生まれですから、まだ15です」
「そっか、16になったらさ、二輪免許取ろうよ」
「唐突に、何のお話です?」
 黒いスラックスの店員がやってきて、ケーキとカトラリーを二人の目の前に並べていった。渡が頼んだのは白桃の串切りが放射状に並ぶタルト。花びらのようなアルミ箔に包まれている、円形を六等分した扇形。郁乃の頼んだケーキには、桜の風味のするムースが層状に乗っかっている。メニューに季節限定だと書いてあったようにも思った。一口交換させてもらおう、と画策する。
「バイクは速いよ。遠いか近いかなんて、結局は速さの話なんだって」
「なに言ってるの」
 思わず丁寧語も忘れて、郁乃は笑った。そうすればもっと頻繁に会えるよ、という気の利いた誘い文句だったかもしれない。嫌いなセンスではない。
 バイクに乗っている彼をつかの間、想像した。
 アガーに包まれた串切りの桃を貰って、ひとつ口に運ぶ。ミントの凛とした冷たさが頬の奥に残る。パラソルの影を斜めに浴びて、繊細な造りのフォークでタルト生地を突き刺し、口元に運ぶ。郁乃はそんな彼の口元を黙って眺めた。

 静かな空間は不安になる。言葉っていうのは考えを麻痺させる薬だからだ。考えていることっていうのは大体、言葉にした瞬間に霧散するか、あるいは言葉に埋もれて塗りつぶされてしまうかどちらかなのだ。
 考えを言葉で表現できるほど賢い?
 そんなことをどこかで聞いた。
 なんて嘘をつくのだろう。
 言葉にする段階でどれだけのディティールを捨てているんだ。
 言葉になる前のもののほうが大切だけど、課題を山積みにしたそのうえで眠っていたことに気づくから、郁乃は、人はときに寝心地を求めて静寂を怖がる。
 それでも今は考えたい、と思った。本当は考えることは山ほどある。
 足元に置いたケースにつま先が触れて、その冷たさに目を細めた。

 2

「テレビで見たけど、それ、リガチャーって言うんだね」
 目にかかる程度に長い前髪を片手で抑えながら、渡がそう言った。郁乃は金具を抑えたまま顔を上げる。
「もしかして昨日のですか? 私も見てました」
「そうそう、職人さんの番組でさ」
 郁乃が昨日の深夜、翠緑荘の居間で寝転がりながら見ていた番組だ。思い出す。四角い金属の板が加工を経て、木管楽器のリードを固定するリガチャーに変容していくさまは面白かった。幼馴染ども二人と見ていたが、二人とも途中で寝落ちてしまった。興味がないのか、単に眠たかったのか。おそらく両方だ。
 午後一時は回っていたはず。
 他の住民はもとより、最後まで起きていた二人までもが炬燵で寝落ちを決め込んだ夜、自分の家ではない場所で起きているのがなんだか奇妙だった。戸締りをしてくれる人が眠ってしまったので郁乃は翠緑荘から出られない。深夜にこっそり翠緑荘に遊びに来ていたことがバレたら家族に怒られるだろうな、と頭を掠めた。規律と規則性にうるさい母親とは昔から口げんかばっかりだ。
 炬燵の電源をこっそり切って、立ち上がる。炬燵には腐れ縁の二人がまだ眠っていたが、分厚く柔らかい炬燵布団は、朝まで炬燵の熱を適切に逃がしつつ保ってくれるだろうと思った。そもそも春先だから、体を冷やすほどの寒さがあるわけでもない。もし風邪を引いたら? そんなの、炬燵で寝たやつのせいだ。
 三階建ての最上階へ向かい、ベランダの扉を静かに押し開けた。向かって右手、真っ黒な夜空の下に街灯や、まだ起きている人々の灯りが点々と在る。辻ヶ丘を下る坂はもとより、沢渡の街並みも暗い。
 都内のベランダならまた違う景色が見えるのかしら、と郁乃は考えた。私の知ってる都会なんてY市がせいぜいだ、もっと都会に住んでいたならいったいどんな人生だったんだろう。その逆は? もっと田舎だったら? 夏は蝉だけが道にこだまし、冬は大雪で家を出ることもままならないような集落に生まれてみたらどうだっただろう。
 生まれてからずっとこの街に住んでいる。
 これから未来はどこに行くのだろう?
 生まれた土地は絶対に変えられないし、この土地で過ごした十数年を忘れることもできない、この街の空気は彼女の肺を介し、この丘の水は彼女の喉を通り過ぎて、すでに辻ヶ丘とがんじがらめに体ごと根を張っている。
 世界中の何処も果てしなく遠くに見えた。
 ベランダの柵に背中を預けると、ちょうど頭が柵に乗り、星空が目に映った。夜空が真っ黒に見えるのはそこに何もないからだ。ほとんど空っぽと言ってもいい世界を宇宙と呼び、極く僅か浮かぶ岩屑への旅を夢見る。
 そここそは、極限の遠い場所。
 違う世界で生きる自分と出会いたかった、そう気づく。

 都会で生まれ育った渡に関心を持ったのは、だから必然だったかもしれない。
 もう一人の自分を投影する対象としての関心?
 それはあんまりに、彼に失礼だろうか。
 リードを挟んでリガチャーを留めた。抱えてきたケースから、節ごとに解体されたクラリネットを取り出して組み立てる。
 Y市の少し外れにある公園、湖のほとり、木で組まれた足場。渡はフルートの先を向こう岸に向けて構えた。郁乃もリードを付けたクラリネットを構える。肩下げ鞄からチューナーを取り出して音を鳴らさせた。オクターブ違いのBを鳴らすと、僅かに音の圧が揺らぐ。リガチャーを調整して音程を揃えた。
 音がぴったりとあう瞬間はどうしてこんなに楽しいんだろう。音は空気の振動で、それが鼓膜を震わせるから音が聞こえるらしい。
 でもこんなに小さい耳から聞く音が全身を震わせているなんて信じられないから、きっと私は身体じゅうで音を聴いているんだろう。クラリネットの聴き慣れた音色がびりびりと身体を揺する。
「もうお馴染みだよね、こうやって合奏するの」
 ああもう、そんなこと言わないで、早く奏でさせて、
 音でない言葉はもどかしくすらあった。
 痺れる体を弓にして音を放つのだ。
 郁乃は返事の代わりに強く息を吹き込んだ。演奏するのは初めて出会った練習のときに吹いていた曲。昭和の時代に流行ったアニメソングを吹奏楽のために編曲したものだ。
 誰かの足音も、風の音も全部メロディに塗りつぶされた。
 もう指が覚えている旋律を奏でながら、郁乃はフルートを吹く渡を見ていた。
 少し上目遣いになるが正面を向いて吹けるクラリネットに対し、フルートは指に目を向けると必然的に身体が横向きになる。一方的に眺めているみたいでちょっと不思議な感覚だ。今だけ、渡は郁乃のすぐ隣に居ながらにして、郁乃のことを見ていない。
 私だけ見ている。私は私自身のもので、私だけ、彼を独占している。

「それじゃあ、結局、独占欲なの?」

 幼馴染の言葉がふと思い出され、酸味のある珈琲の味まで喉の奥に甦ってきそうで、口の端が少し引きつりそうになった。口元から息が漏れてしまったら音が崩れてしまうから、口元に力を入れて息を流し続ける。空気を含みやすそうな質の、彼の前髪は春風に揺れ、湖の向こう側を眺めている瞳が見え隠れした。
 軽やかな風に色を溶かしたような彼のフルートの音。
 きっと宇宙まで上がっていけるだろう。宇宙では音は響かないけど。
 木管の音に共鳴する身体の内側で、郁乃はゆっくりと幼馴染の言葉を繰り返していた。私はどうして、この人の恋人みたいな真似をしているんだろう。独占欲って? 私がこの人にとっての唯一無二である必要って、あったのかしら。
 学校も違う、年齢も違う渡と彼女が出会ったのはやはり吹奏楽が切っ掛けだった。渡は私立汐ノ音高校の一年生、郁乃は公立の辻ヶ丘中学の二年生で、吹奏楽部同士の交流会と称した立食パーティーで偶然出会った。
 冬坂さんか。僕は吹雪っていうんだ、どっちも寒そうな名前だね。
 風が吹く、でフブキじゃないんですね。雪が吹く、なんだ。
 そうそう。ご先祖さん、ちょっとセンスがないんじゃないかな。それとも冬が好きだったのかなあ。
 私は素敵な姓だと思いますけど。冬、好きですし。
 そう? でもこの辺じゃあ、そこまで雪、降らないよねえ。
 余りに些細な会話でも、音楽に乗せてなら、不思議と思い出すことができる。辻ヶ丘高校に吹奏楽部が無いのは最大の失敗だったけど、やっぱり私は音楽が好きなのだ。ぴったりと型にハマるような和音が旋律の中に現れる瞬間、つかの間の不協和音がこだまする瞬間、郁乃はいくつもの記憶を、光景を思い描くことができる。記憶の箪笥をひっくり返すのは、やはり言葉の荒波の中では駄目だ。響き渡る音の中こそ、感情を並べ直して整理するのに適している。
 学年は二つ違いだけど、たった二歳の違いとは思えないほど彼は遠かった。
 青空を見つめているせいか、青い光を目元に湛えて零れそうだった。
 なんでこの人だったのだろう?
 でも。
 他所に恋人を作れば、あなたたちとは友達でいられるでしょ?
 そんな言い訳が浮かんだ。
 ああ、別に好きじゃなくてもよかったんだな。
 恋焦がれるにはあまりに彼は遠すぎる。何も知らなすぎる。
 灰色にくすむ春に境界を引け。
 干からびた桃色を紺色で切り裂け。
 そろそろ帰ろうか、と彼が言った。陽を照り返して黄色に光るフルート。独占したいとすれば、彼の放つ音だ。
 諸々を箪笥に元通り隠して、そうね、と頷いた。

 灰色 了

第四話

 桜まつりが一週間前に迫った土曜日、翠緑荘の住人はみな忙しかった。

1 -優治-

 快晴でも雨でもない天気。
 智明は片耳から蛍光色のイヤホンをぶら下げている。眩しい色だった。電車が揺れると、慣性に従って振り子のように動いた。
 コードの影が白い鞄と握った手の甲に落ち、揺れ動く。胸元に鞄を抱えている郁乃は、腿の上で手を握る夏に寄りかかっていた。眠っている。電車の規則的なリズムは眠気を誘う。自分も彼女らみたいに寝てしまいたいが、あと数駅で降りるので眠るわけにも行かない。欠伸をすると、目元に涙がたまる感覚。優治は車内が空いているのをいいことに、大きく伸びをした。天井に伸ばす両腕、その先の手のひらを見上げる。
 智明も何度も欠伸をしていた。そちらに顔を向けると、眠気覚ましのつもりか自分の頬を引っ張っている智明と目が合う。歪んだ顔のまま彼はにやっと笑った。「眠いな」と言う代わりだろう。
 向かいの窓から差し込む陽光が靴先を暖めていた。
「ウチまでかったるいなあ。誰か迎えに来てくれないかな」
 駅から翠緑荘までの距離が億劫だ、という趣旨らしい。「朗報。千理さんが車を出してくれるらしい」
「あぁ。そりゃあいいなあ」
 適当に相槌を打つと、それ以上の会話は無かった。最近の会話はすぐに途切れてしまう。幼馴染ゆえの話題のなさと言えば聞こえはいいが、おそらくもっと大事なところに原因があるのだ、と優治自身分かっていた。
 智明は目を瞑っている。
 四人は朝からお遣いに出ており、その帰りだった。Y市中心部から少し外れたところの業務用スーパーで買い出しをしたところだが、用事はすぐに終わり、明らかに人手が過剰だった。翠緑荘に来て間もない夏と、最近疎遠だった幼馴染トリオ。わざわざ面子まで指定したのは灯子だ。四人は桜まつりに関しては大抵彼女の指示で手伝っているのだが、彼女が四人をわざわざ遣いに出したのは、自分たちに話をする機会をくれたのかな、と想像した。何でもいろいろ気を遣ってしまう性格の人なのだ。
 隣の席は空いていたので、その背もたれに腕を掛けて斜めの姿勢になった。空を見上げた顔に降り注ぐ日差しは仄か、曇り空だった。
 住宅の僅かな凹凸はあるが、街は平らだ。ほとんど平面に見えるほどに街は遠ざかっていた。景色はコンクリートの塀に取って代わられて直にトンネルに入る。眼を閉じたように窓の外が暗くなる。
 次に車両が目を覚ますのは辻ヶ丘の見える頃だ。
 短い居眠りを経て辻岡駅に着く。優治は三人を起こして電車を降りた。ホームから電車を見送るが、すぐにトンネルに吸い込まれて見えなくなる。この駅がちょうど平野の端っこに位置するためだ。
 改札を抜ける。駅前の狭いバスロータリーを左に見て歩いて行った先の駐車場で、見慣れた丸いフォルムの車を見つけて手を振る。運転席のドアが開いて、亜麻色のロングヘアの女性が出てきた。翠緑荘から車を出してくれた千理だ。ふんわりと香水の匂いを漂わせて、運転の邪魔になるためか、今日は髪を縛っている。
「四人とも、お疲れさまです」
「あ、お疲れさまです」と、何がお疲れだかわからないが、反射的に答えてしまう。「千理さん、車、ありがとうございます」
「いえいえ。ちょうど商店街に用があったんですよ。トランク開けますか?」
「あ、いや、俺がやります」
 三人から荷物を受け取って、車体後部のトランクに積み込む。四人で十分持てる程度の量だったので、トランクの床は半分も埋まらなかった。トランクの蓋を閉めて、優治は助手席に乗り込んだ。四人の中では抜きんでて体格が大きいので、後部座席には小柄な三人が座った方が良いとの判断だ。
 日曜日でも辻ヶ丘の街並みは大して混まず、車はすいすいと坂を上っていく。カーラジオから流れ続ける知らない音楽を背に、助手席の窓から外を見ていると、間もなくしてY市中心部の街並みが遠くに見え始める。受験したものの、結局通うことはできなかった汐ノ音高校がそこに見えた気がして心臓が痛んだ。さっさと忘れてしまいたいのに、汐ノ音高校に通う姉の存在のせいか否応なく意識してしまう。おまけに、受験会場で出会った男子生徒に進学先で再会してしまったりと、不都合なことは重なるものだ。
「そういえば」と優治は思い出す。「遥さんと春日井、今日来てるんだっけ」
「ええ、来ていますよ」と千理が応える。まだ知り合ったばかりの同級生だが、桜まつりの手伝いに快く協力してくれることになったのだ。因みに受験会場で出会った男子生徒とは春日井のことである。
「お二人には近隣の駅にポスターを貼りにいってもらう予定です。引っ越してきたばかりとのことで、乗り換えで迷わないか心配でしたけど、任せてほしいと」
「あの二人って都内から越して来たんじゃなかった?」と、後ろから智明の声。「都内に比べればY市の電車なんてカンタンでしょ」
「ああ、そうなのですね」
 千理が納得したように頷く。「実は、せっかくお二人に手伝ってもらっているので、夕ご飯は御馳走しようと話しているところなんです。皆さんは、午後のご予定は?」
「灯子さんに頼まれたお使いがもうひとつ……。でも、夕ご飯には間に合うはず」
 分かりました、と言いながら千理はハンドルを大きく切った。車は鳥居の手前をゆるやかに右折して登る。翠緑荘の、白塗りの壁の上で際立つ特徴的なエメラルドグリーンの柱が見えてくる。
 リビングから庭に出る窓の手前に、誰か立っているのが見えた。

2 -郁乃-

 車が止まるや否やシートベルトを外して、郁乃は外に飛び出した。
「瑞穂さん」と呼びかける。「どうしたんですか、今日は」
 声が弾んでいると自分自身でも分かった。優治の姉である瑞穂は、郁乃にとっても姉のように身近なお姉さんだった。兄弟のいない郁乃にとっては憧れの存在だ。彼女の踵の高いブーツがアスファルトを突き刺して辻ヶ丘の坂を登るさまはきっと格好いいだろう、と思う。
「何でかなあ」と言って瑞穂は車内を一瞥した。
「暇だから手伝いに来た、とかかな」
「暇なんですか?」
「それは有り難いですね」と千理が相槌を打つ。それまで響いていた、エンジンの微かな心音が止まった。
「優治が助手席かあ」
助手席を覗き込んで、瑞穂が悪戯っぽく笑いかける。「助手出来てんの?」
「助手出来る出来ないじゃなくて、単に他がちっさいからだよ」
「おーい! 異論、……はないけど文句があるぞ!」
 運転席と助手席の間から顔を出して、智明が割り込んだ。小さいことは認めるあたり素直だと感じる。実際のところ智明は、女性の平均程度の背丈の郁乃と比較してもそうそう目線が変わらないほど小柄だった。
「後ろにいったら、お前らが狭いだろうって気を遣ったのに」と優治が肩を竦める。「ごめん姉さん、ドア開けるからちょっと下がって」
「はいはい」
「ありがと」
 助手席のドアから数歩下がった場所にいる瑞穂を、さらに迂回する形で優治は車の後ろに回った。姉弟間の自然な距離というには少し広い隙間だ。最近の優治が瑞穂と少し距離を置こうとしているのは、第三者の郁乃から見ても分かった。憧れの姉のような存在である瑞穂を実際に姉に持っているのだから、何が不満なのか、郁乃には不思議で仕方ない。
 優治が開けたトランクから荷物を出して、千理の持っていた鍵で翠緑荘に入った。外は春先にしてはかなり肌寒かったので、暖かい室内に一息ついた。廊下には暖房こそ入っていないが、寒気が遮断されるだけでかなりましになった。
「ふう、中は暖かいですね」千理が言う。「瑞穂さん、先に中に入っていればよかったのに」
「着いたばっかりだったから。それに……」瑞穂はそう言って肩を竦める。「合鍵、なくしちゃったんだ。どこに行ったのかなあ」
「あら、作り直しましょうか?」
「いや、悪いからいいよ」
「皆、お帰り」とリビングのドアが開いて灯子が顔を出した。桜まつりに関わる仕事を多く抱えているせいか、声が疲れている。「あら、瑞穂ちゃんだ。ちょうど紅茶入れたところ、上がって上がって」
「突然の来客なのに優しいなあ。ありがとう」
「次はちゃんと予告してから来てよね」
「はぁい」
 瑞穂は千理や灯子よりずっと年下であるが、敬語を使わない。彼女は、翠緑荘では一切敬語を使わないのだ。というより、まだ敬語という概念を知る前から親しい仲だということだ。
 瑞穂たちが談笑している後ろで、郁乃たち四人は手分けして荷物を玄関に上げた。買ってきた物品は、邪魔になるので三階の空き部屋まで運び上げないといけない。かつて瑞穂が使っていた部屋だが、今は物置になっている。
 談笑を背景に、四人は玄関ホール脇の階段を上がった。手摺が洒落ているこの階段は、洋館風のホテルを改装したときにそのまま引き継いだものである。住居として利用するために改築したため、内装の装飾はかつての翠緑荘と比べかなり質素になってしまったと優治の父親が話していた。それでも郁乃の目から見れば十分すぎるほど装飾に富んだ、豪華な家なのだが。
「優治君」
 階段の下から灯子が声をかけた。「皆も。荷物置いたら降りてきて、昼ご飯にしよう」
 左手首の腕時計を見ると、すでに十二時半になろうとしていた。意識した途端に空腹が訪れる。「ありがとうございます」と声をそろえる。

3 -智明-

 最後に昼ご飯を食べ終わった智明は、灯子の監視下で自分の使った食器を洗った後に、階段を急いで駆け上がった。二階、階段の突き当たり。優治の部屋のドアは直角に開け放たれていて、その中から声が聞こえる。
「智明でーす」
「遅いよ」
 笑いが混じった文句が優治の声で飛んでくるが、その姿は見えない。ドアを開けると本棚が壁のように両脇に立ちはだかって視界を阻むためだ。本が収納出来なかったからと優治は言うが、ドアを開けられたときの目隠しも兼ねているのではないかというのは智明の推測である。もっとも、翠緑荘の個室はアパートの部屋のようなもので、独立した住居と見做されておりおまけに鍵も着いているので、誰かに突然ドアを開けられるようなことはまずないが。
 智明は本棚に沿って曲がり、部屋の中に入った。ベッドに広げられたファイルが目に入る。優治はデスクチェアに、郁乃と夏はファイルの隙間に腰掛けていた。ベッドにはまだ隙間があったが、女性陣に遠慮して智明は床に座り込む。彼を確認してから、優治は印刷された地図を片手に話し始めた。
「じゃあ、さっきも話してたけど、午後の用事についてね」
「はいはい」
 用事は、すでに注文内容が決まった工務店に行き、実際に顔を合わせて確認をとるだけの簡単なものだった。智明も一度、電話で話したことがある。
「確認って」郁乃が首を捻る。「そんなの、電話でできない?」
「去年までは達海さんが担当してたから、顔合わせも兼ねてかなあ」
 足を組んだまま背もたれに体重を掛ける。ぎぃと擦れる音がした。智明は椅子ごと優治がこちらに倒れてこないか心配になる。
「夏さん、ごめん、そこのファイル取ってもらえる? 去年のラベル貼ってるやつ」
「はい、これですか?」
「ん、どうも」
 ベッドの上に散乱していたファイルを夏が優治に渡すと、優治はそのファイルを、三人に見えるようにして広げた。時刻表のコピーがファイリングされている。紙の四隅が折れているあたり、何年も使っていることが窺える。
 優治が工務店までの道のりを説明してくれた。ボールペンの先でコピーを突きながら話すので、インクのドットが足跡みたいに残った。
「遠いんだな」
 智明は思ったことをそのまま口にする。優治がこちらに顎だけを向けて、頷くジェスチャ。
「そう、二時間ちょい。だから一時半には出ないと間に合わない」」
 智明は右手首をちらりと見る。プラスティックの腕時計が示す時刻は一時十五分。 ますます、直接会いに行くことが面倒だなと感じた。往復四時間かけて行くデメリットに見合うだけのメリットがあるのか。灯子がわざわざ四人にこの仕事を充てたことも不思議だ。
「灯子さんは四人で行けば、って言うけど。でも、流石に四人は多いよな」
「四人みんなで?」
 郁乃が眉をひそめる。「要らないでしょ、一人か二人で十分」
「うん、無駄だよな」
 優治がこちらを見ずに言った。
「無駄って、おいおい」歯に衣着せない言葉に、智明はつい口を挟んでしまう。「まあ、いいや。そんなこと言ってる暇ないし、適当に決めよう」
 それじゃあ、と言ってジャンケンをする。公正に物事を決めるにはジャンケンだといつからか決まっているらしい。勝った人と負けた人どちらが出掛けるか決めていなかったので、勝った人と決めてもう一回戦。
 結局智明と郁乃が勝ったので、二人がお使いに行くと決まった。
「勝ったのにお使いに行くなんてちょっとフクザツ」
 郁乃が口を尖らせる。「まあ、行くわよ」と言いながらカーディガンを羽織る。
「先に決めたんだから文句言わない。よろしく」
「ほいほい」
「よろしくお願いします」と、夏が少し申し訳なさそうに笑った。
「午後から雪が降るかも知れないって。もっと厚着していけよ」優治が携帯の画面を見ながら言った。辻ヶ丘ではまあまあ頻繁に訪れる、春先の雪だ。
「桜隠しね」と郁乃が応える。桜の季節に多いのでそういった通称がついている。
「うーん、コート取りに行こうかな」と智明。
「着ないで行くつもりだったの?」と郁乃が呆れたように言う。智明は長袖のシャツに薄手のパーカーしか羽織っていなかった。
「へへ、俺、寒いの強いから」
「勝手にしなさいよ。寒がっても手袋の片方だって貸さないからね」
 智明にとってはあながち冗談でもなかったのだが、想像以上に自分の格好は寒そうに見えるらしい。
 お使いに必要な書類を受け取って、優治の部屋を出る。隣の自分の部屋からショルダーバッグを引き摺り出す。その間を全く待ってくれなかった幼馴染を追いかけて、階段を駆け下りた。
 郁乃は帽子もマフラーも毛糸でもこもこに装備している。リビングに寄って、そこにいた達海に、工務店に出掛けることを伝える。彼はリビングのソファでパソコンを操作していて、智明を見るなり「そんな格好で寒くないの?」と心配してくれた。
「大丈夫っす、寒いのはわりと平気なんで」
「そう? 雪降るらしいけどなあ。まあ、気をつけてね」
 最低限の心配はするが自分の考えを押しつけないのが達海の性格だ、と智明は見ていた。淡泊な達海の言葉に曖昧に返事を返して、玄関のドアを押し開けた。確かに風は少し冷たかった。そういえば傘は要るな、と思いついて玄関の傘立てから自分の折りたたみ傘を取る。
 郁乃が出てくるのを待ってドアを閉め、施錠した。
「ありがとう。ドアを押さえてくれるなんて」
「え? いや、俺が鍵持ってるし」
「あ、そう」
 先を歩き出した郁乃を追う。ポケットに押し込んでいた書類を引っ張り出して、電車の時間を確認する。辻岡駅までゆっくり歩いても十分間に合いそうだった。
 林の中の小径を抜けて辻ヶ丘神社の方に行き、参道を逆向きに歩いた。石段を降り、鳥居をくぐると辻ヶ坂に出る。郁乃は少しヒールのある靴を履いていたので、それで坂を下りられるのかと心配になったが、軽々、自然に坂を下った。
「ねえ」郁乃が先を歩きながら話しかけてくる。「なんで灯子さんは四人一緒にお使いに行かせようとしたのかな」
「そりゃあ、灯子さんなりの気遣いでしょ」
「そうよね」と郁乃は頷く。「夏ちゃんは翠緑荘に来たばっかだし、優治は最近どうも素っ気ないし」
「……そう、だね」
「あたしたち二人が勝っちゃったけど。意味、あったのかなあ、コレ」
「そりゃあ……」智明はつかの間、考える。「意味あったんじゃない」
「え?」
 三メートルほど先を歩いていた、郁乃が振り返る。規則正しく響いていたヒールの響きが止まった。見開いた目蓋に宿る瞳は、彼の胸を刺すだけの鋭さを持っている。今日は黙って刺されてやるまい、とその瞳を見返した。優治は素っ気ない、と郁乃は言ったか。
 最近の郁乃だって、同じだ。
 そして智明は、その原因になり得る大胆な仮説を試してみたかった。
 冷たい風が坂の下から吹き上げて、郁乃のショートヘアを揺らしてから、智明の髪をかき上げていくまでの短い間に、智明は思いを定めた。
 立ち止まったままの郁乃に向かって歩いていく。
「俺は聞きたいことがあったから。あのさ、前ね。俺のこと好きだった?」
 言い終わって気がつくと、彼女のすぐ手前まで歩を進めていた。

4 -優治-

 智明と郁乃を送り出したあと、夏も自分の部屋に帰っていった。部屋のドアを施錠してから、ベッドに横になる。白い雲が仄かに光る空が視界に入る。ふう、と一息ついた。最近はいつも、疲れているような気分だ。足も腕も、血液からしてどんより重い水飴にでもなったように、布団に沈んでいく。意識が溶けていく。
 運動不足だろうか……。
 ふと気づくと一時間も過ぎてしまっていた。はあ、と息をついて起き上がる。ベッドの上に散乱したままのファイルを集めて、向きをそろえて重ねる。ファイルをリビングに片付けに行くため、部屋を出た。靴下越しでもひんやりと感じる廊下を歩いて、階段を降りる。
 階段を降りたところで瑞穂とばったり会った。
「やあ。優治」
 瑞穂は片手を上げる。優治はどうしたものやら迷って、小さく頷いた。
「実はね、夏ちゃんの部屋にお邪魔してたとこ」
「あ、そうなの」いつの間に仲良くなったのだったか、と思い出そうとする。
「それ、片す?」
 瑞穂がファイルを指さしてそう言うので、優治は頷く。「そう。だから、リビングに」
「去年の桜まつりの資料だよね? 多分リビングじゃないよ。父さんの書斎」
「え、そうなの」
 あいにく、彼らの父親である寛三は出掛けていた。個人の部屋と同様、書斎にも施錠がされているので、立ち入ることは出来ない。
「じゃあ片付けらんないや」
「そうだね。とりあえず持っといたら」
 廊下はなかなか寒いので、とりあえずと思いリビングに入った。今は誰もいないが、炬燵の電源が着いたままだった。すでに暖まっているのを幸いとばかりに炬燵に足を突っ込む。
「そういえば」と優治はふと思い付いていった。「一階の書庫はいつも開けっぱなのに、父さんの書斎は入れないんだな。似たようなもんじゃないの?」
 瑞穂はキッチンで珈琲を淹れていた。「いや、そりゃあ違うわよ」
「そう?」
「例えば書庫には、ここの住人の台帳があるって言ってたし」
「え、台帳って?」
「名前とか出身とか書いてあるやつよ。そんなの普通に置いとけないでしょ」
「なるほどね、個人情報か……」
 優治はぼんやり考えた。生まれたときからずっと一緒に住んでいるのでよく忘れかけるが、翠緑荘の面々はあくまでも家族ではなくアパートの同居人のようなものなのだ。
「俺の情報もあるのかな」
「さあ」瑞穂が珈琲を炬燵の上に出してくれる。優治は礼を言って受け取った。「でも、父さん、キッチリしてるからあるかもねえ」
「そうだな」
 智明や夏、千理に達海に灯子、みんな入居時に台帳を書いたのだろうか、と考える。ここで暮らしていくという契約。それは翠緑荘の、日陰のごとく穏やかな空気とは無縁に思えた。
「変な顔してる」
 瑞穂がくすくすと笑った。
「そうだった?」
「そんなに変なことでもなくない? 婚姻届とか出生届みたいなもんでしょ」
 確かにそうだ。世間は契約で満ちており、手続きを交わしてこその毎日だ。コンビニでお菓子を買うのも、電車に乗るのもすべて契約だとどこかの授業で耳にした。この家に住みます、という契約があったって何も不自然ではないだろう。
 自分は何に戸惑っているのだろう、と思った。
 所詮それだけの薄い関係であることが虚しいのか、それだけの関係だからここには何の価値もないのか。そう、自分は翠緑荘を出て行きたいんだ。思い出す。翠緑荘には温かい食事と、快適な寝床と、優しい人々がいる。逆に言えば、それだけしかない。
 また言葉が自分の中で渦を巻き出す。
 どうして、僕はここに……
「ちょっと、優治」
 瑞穂の声で優治は顔を上げた。心の深い場所で思索していた意識が戻ってきて、つま先の温かさを思い出す。姉の表情は、炬燵の暖かさとは対照的に鋭かった。
「これ、郁乃ちゃんたちに渡したの?」
 瑞穂が突きつけるように持っているのは、工務店までの道のりを示したプリントだ。
「え、そうだよ」
「いつもお世話になってる工務店に行ったんだよね?」
「そう」
 どうしてそんなこと聞くの、と言おうとした優治を牽制するように、瑞穂が言った。
「移転したって、わざわざ挨拶もくれたじゃない。覚えてないの?」

5 -郁乃-

 三回目の乗り換えだった。一回目はY市のターミナル駅で、二回目はそこから各停で十数分かかる駅。電子マネーで運賃を払い、改札を出ると、だんだんと田舎の駅になっていることが分かる。木造の壁に埋め込まれたガラス張りの空間があって、両手で抱えるほどの大きさの壺が展示されていた。今時展示以外の用途で使われるのだろうか、不思議に思う。
 智明はその壺の前で郁乃を待っていて、「この壺、何に使うやつ? ぬか床?」と訊いてきた。
「さあ」
 何にも使い道がないから飾ってるのかも、と言おうとしたが、事務室に駅員がいたので言わないでおいた。実は伝統工芸品だったりしたらたまったものではない。
「こっからまた乗り換えかあ。郁乃、電車の時間分かる?」
「三時半。だからあと二十五分」
「ありがと。待合室はいるか」
 にこっと笑ったような声音。でも郁乃は彼の顔を真っ直ぐ見ることができず、左手首の腕時計を見たまま、顔を上げられないでいた。その空気は流石に彼にも伝わっているらしく、智明は困ったような声で言った。待合室のドアを引いてくれたのがスニーカーの動きで分かった。
「郁乃、ごめんって。もう訊かないから」
 二度と聞かなければいい、とか、そういう問題ではないのに。そういう質問が智明の方から出たことが既に問題なのだ。
 ブーツの中で足の指を握る。我慢していた言葉がいくつもあったが、もう、すべて放流してしまおう、そう思った。智明の言葉でやけになっていたのだ。
「あたし、みんなとは絶対にそういう話をしないつもりだったのに。家族まで、アンタとか優治と付き合ってるのか、なんて話題にして、茶化して、馬鹿にして」
 待合室から暖かい空気が流れてきて、頬を撫でる。その温もりさえいらないと思うくらい、悔しかった。
 悔しいとは、何がだろう?
「馬鹿にしてるのは違うんじゃないの、心配だったんだよ。想像だけど」
「そんな綺麗なものだなんて思えない!」
「それは、郁乃がまだそう思えないだけでしょ」
「まだ、って何よ?」
 お前は子供だ、と言われたような気がして、思わず顔を上げる。
 取り乱してしまった。気まずさが暖かい待合室に飽和していた。穏やかな田舎の駅の待合室と、叫んだ自分の声がいかに不釣り合いか、残酷なほどに思い知らされる。自分は何をしているんだ、と思い顔が発熱するのが分かった。いっそ泣いてやろうかと思ったが、涙も出ない。
 自己嫌悪が徐々に体温を下げた。
 毛糸のマフラーでぐるぐる巻いた体に、染みる雪どけ水。
 郁乃は一歩前に出て待合室に入り、ドアを後ろ手に閉めた。席と席の間に荷物のためのスペースが取られたベンチがいくつか並んでいる。智明と席一つ分離れた場所に腰掛けた。
 いつの時代のものだと言いたくなるようなだるまストーブが燃えている。橙に光るそれを見ながら、郁乃は長い息を吐いた。
「ごめん」
 智明は黙って首を振った。表情が笑顔に戻っている。こういう瞬間の、心の弾性とでも言うべきか、彼の切り替えの早さは時々素晴らしいのだ。
「やっぱ、心配するよ。郁乃は」
「あたしの家族が?」過保護とすら言いたくなる家族の顔を思い出す。
「俺らも」
 当然でしょう、というように笑う。俺らというのは智明、優治、そして翠緑荘のみんなのことかな。私は翠緑荘の住人じゃないのに、と思ったが、彼らが自分を同居人同然に思っていてくれることは分かりきっていた。
「あたし、そんなに危なっかしいかな」
「危なっかしいってか、彼氏さんのことだろ」
「渡さんのこと?」
 意外だったので驚く。だが、考えてみればそれほど意外なことでもなかった。Y市の汐ノ音高校に通っている高校三年生、程度の紹介しかしていない。得体の知れない男の元に時間とお金を掛けて会いに行くのだから、確かに気になるだろう。
「心配してることすら気づいてくれないなんて」と智明が苦笑する。「でも、郁乃が彼氏に文句ないなら、俺的には別にいいけどね」
「文句ね……」
 彼氏のことは別に好きじゃない、と言ったら智明は何というのだろう。彼氏がいる自分でいたらアンタたちとは友達でいられるでしょう、と言ったら。そうか、『俺的には別にいい』とはそういうことか。自分が智明のことを好きだったのでは、と疑ったからこそ、渡との関係がどうなっているのか、ちゃんと自分が渡のことを好きか、心配してくれたのだ。
 桜の花びらより危うい言葉を、口にするかと悩んだ。
「文句、なんかあんの? あ、俺アドバイスは出来ないよ」
「分かってるわよ」
 彼女はできないと自虐を込めて智明が笑ってみせる。ノリが軽くて話しやすいので取っつきにくい奴ではないと思うが、未だに彼女が出来た試しはない。
 笑っているうちに郁乃は、心の中に用意した言葉が風解してしまうのを感じた。まだ言葉にするにはあまりに不完全だった。潤いをなくして塵となり飛んでいってしまう、言葉。不完全にして唯一の伝える道具。
 音楽が聴きたい、と思った。

6 -夏-

 雪が舞い始めていた。
 自転車で来たことを少し後悔する。とは言え、積もるほどの雪ではないだろう。むき出しの頬に当たる雪の粒が冷たいだけ。
 川沿いの堤防の道は途中で分岐し、一方の道は住宅地の中に向かって降りていた。下る方の道に進み、人気の無い住宅地をさらに進む。駅前までやってくると、調べたとおりの場所に駐輪場があったので、ラックに自転車を固定して鍵を掛ける。辻岡駅から海寄りに二駅、特急の止まらない小さな駅は駅前も閑散としていた。
 冷えた頬に手を当てながら待ち合わせ場所に向かった。二、三度会っただけの相手なので分かるか心配だったが、目印とした駅前の休憩所には彼らしかいなかった。
「遥さん、春日井さん。夏です」
 背の高さが頭一つ分以上も違う男女二人組が、一斉にこちらを向く。遥結花は耳に当てていた携帯を離し、夏に小さく会釈した。
「電話、繋がりませんか」
「今のところ駄目だね」
 春日井悠は首肯してそう言った。用事のため遠方に出向いた郁乃と智明だが、その行き先である工務店の場所が間違っていたことは既に結花と悠にも知らされていた。
「山間らしいから電波が悪いのかなぁ」
「ずっと繋がらないなら、電池が切れてる可能性の方が高いと思う」
「そっか、どうしたら……」結花は困惑を眉に浮かべる。
「そちらは優治さんたちが対応してくれるはずです」夏は言う。「とりあえず、私たちは工務店に」
「そうだな」と悠が頷く。
 夏は、優治に頼まれて郁乃たちの代わりに工務店に向かう途中だ。彼らは駅にポスターを貼り終えたところで、本来なら辻ヶ丘に帰るところだったが、夏に付き添って工務店に行こうと申し出てくれたのである。
「同行してもらってありがとうございます」
「いえいえ。それよりも、冬坂さんたちが心配ね」
 冬坂、とは郁乃の苗字である。結花と悠は夏と同じでこの春に辻ヶ丘に越してきたらしく、知り合って間もない彼らのことは苗字で呼ぶ。
 折りたたみ傘をリュックサックに持っていたが、それを出すか迷う天気だった。紺色のダッフルコートに雪の結晶の白が目立つ。携帯を開いて時刻を見ると、三時半だった。なんとか約束の時間に間に合いそうだった。自転車を飛ばしてきた甲斐があった、とほっとする。

 工務店での用事は拍子抜けするくらい直ぐに終わった。
「お疲れさま、じゃあ翠緑荘の皆さんにもよろしく」
 人の良さそうな店主が手を振ってくれるのに応えて、古風な引き戸を閉めた。結花たちは辻ヶ丘にバスで帰ると言い、バス停で別れた。
 雪はだんだん強さを増している。夏は折りたたみ傘を出して広げた。傘の鮮やかな水色は、寒々しい曇り空の下では場違いに思えた。駅前に続くアーケード通りまでたどり着き、傘をたたむ。シャッターの閉まっている店が多かった。途中から線路沿いの道に出る。駅前の通りまで歩き、白い息を吐きながら信号が変わるのを待っていると、後方から来たバイクが歩道の端に寄せてきて彼女の隣で停止した。
 驚いたが、そのバイクには見覚えがあったので夏は立ち止まる。
「やあ」
 縁石を片足で踏んで体重を支えながら、渡が片手を上げる。
「……どうして、ここに」
「本宮さんに頼まれたの。あ、弟くんじゃないよ。瑞穂さんのほう、同級生だから」
「え、ここに来ることを頼まれたんですか」
「畏まってるなあ」と笑われる。「違う違う、郁乃ちゃんのほうね。ここは偶然通っただけ」
「ああ、電話が通じないから直接会いに……?」
「そうそう。レトロだよね」
 渡が暢気に笑い、「まだ電話繋がんないの?」と訊いた。
 夏からは電話が繋がるか試していない。だが、先ほどの結花たちとの会話で、電話がまだ繋がらないと話していた。そう思い出して、渡に伝える。
「そっか、それ聞けて良かったよ。運転しながらじゃ電話も試せないからね」
 軽々と縁石を蹴って体勢を立て直す。「ありがとう、それじゃ急ぐから」と言って渡は走り去っていった。排煙口が吐く白い煙が空に溶けていった。
 バイクは曲がり角に飲み込まれていく。
 後ろ姿を追いかける、自分の瞳を意識する。
 彼はひとつ嘘をついていた。
 嘘だと指摘するべきだったか、考える。
 郁乃と智明が出掛けたあと、一階の書庫で図鑑を広げ、それを読むでもなくぼんやり時間を過ごしていると、優治と瑞穂が揃ってリビングに入っていくのが見えた。夏は、二人に気づかれないのをいいことにしてそのまま書庫にいたが、暫くして明らかに焦ったトーンで二人が話しているのが聞こえた。どうすべきか悩んだが、流石に気づかないふりも出来ず夏はリビングに向かった。そこで代理として工務店に行くことを頼まれ現在に至るのだが、夏は瑞穂が渡に電話を掛ける、まさにその瞬間に居合わせていた。
 瑞穂は、郁乃を迎えに行け、とは言わなかった。
 ただ、郁乃から何か連絡を受けていないか訊いただけ。なぜなら、その時点で既に優治が二人の元に向かっていたからだ。
 夏はしばらく渡の去った方向を見ていたが、やがて駅の方向に歩き出した。考えても、それは渡が郁乃のことを好きだからだ、というありきたりな答えしか浮かばなかったからだ。

7 -優治-

 この駅で五分ほど停車します、とアナウンスが言う。
 優治は、おおよその時間は分かっていたが腕時計を見た。腕時計を何度も見たところで時間が巻き戻ってくれるわけではないが、それ以外にどうにもすることがなかったのだ。
 ふう、と息をついてコートの中で縮こまった身体を伸ばす。土曜日の午後だが、ちらほら舞いだした雪のせいか乗客はあまり多くはなかった。寒いなあ、と車両のドアを見遣ると、ちょうど自動販売機が目の前にあると気づいたので、ホームに降りて缶珈琲を買った。手のひらの中で転がして熱を享受しながら座席に戻る。
 失敗によって郁乃と智明に迷惑を掛けたわけだが、それに対する自己嫌悪は不思議なことにまだ無かった。きっと、それどころではないと心が自制を効かせているのだ、などと考える。いずれにせよ幸いなことだと思った。少なくとも事態が収束するまでは、あの胸を締め上げるような、ここからいなくなりたいと思うほどの自己嫌悪に憑かれなくて済むのだ。
 今年の春のように。
 誰とも会いたくなくて、部屋の中で本を読み続けた春休みを思い出す。本は、皆が寝静まった夜のうちに書庫から持ち出した。読み終えた本が今も部屋の片隅に積み上がっている。
 どこかに行ってしまいたいほど悩んで、結局は部屋の内側から、どこにも行けなかったのだ。
 それを考えれば、少なくとも失敗を取り返すためにどこかに向かっている分、自分は成長したと言えるかもしれない。……言えるだろうか。瑞穂や、代わりに工務店に行こうという夏にその場を任せて飛び出してきてしまったのに関しては、子供っぽいと自己評価せざるを得ないけど。
 缶珈琲のプルトップを捻る、軽快な音とともに電車は動き出す。
 まるでアルミ缶が発車のスイッチになっていたみたいで、すこし面白いなと感じた。そんな意味の無い連想をするのは、優治にはよくあることだった。缶珈琲がロケットになって、青いペンキで塗ったような現実感の薄い宇宙を走って行くビジョンを想像した。燃料は星屑になり、衛星になって回る。リアルじゃない夢だが、宇宙に行ったことはないから、それも仕方ないのだろう。
 瞬きよりもなお短い、時の間に。
 珈琲のあまりにも現実的な苦味が、優治の目を覚ました。アナウンスをぼんやり流し聴いていると、次の駅で乗り換えだ、と気づいて慌てて荷物をまとめる。乗り換え時間はごく僅かだった。
 吹きさらしのプラットホームが近づいていた。

8 -智明-

 こんな小さな駅でもちゃんと自動改札があるのだな、と声には出さずとも感動した。つもりが、声に出ていたらしく郁乃に咎めるような視線を食らった。別にこの駅を馬鹿にしたつもりは無いんだけどな、と肩を竦める。
「まあ、郁乃さんは都会っ子だから珍しくも何ともないか」
「何それ」むっとしたように郁乃が睨んでくる。「大体、辻ヶ丘が都会? 嘘でしょ」
「俺の地元よりはずっと都会だよ。自動改札あるし」
「ふうん」信じていないような声で郁乃が返す。駅には自動改札もセットで付いてくる、くらいの認識なのだろう。多少素っ気ないが、それでも郁乃がいつも通り会話をしてくれるようになって安心していた。
 空は濁っていて白い。灰色の田園を背に、細かい雪の粒が風にながれて漂っている。
「細雪ってこんな感じかな」
「現国の授業? あたし文系はさっぱりだわ」
 プレハブらしい駅舎を出たところの、申し訳程度に突き出ている庇の下で地図を開いた。地図に描かれた線路を頼りに、現在地を把握し、目的地を探す。周囲の様子と照らし合わせて歩き出す。
 今度は郁乃は先に歩き出さず、智明の数歩うしろを着いてきた。いつもなら真っ先に歩き出すのに、やっぱりどこか調子が狂っているらしい。
 まあ、自分がそもそも変なことを言ったのだ。だから郁乃の態度にも文句を付けられる立場ではなかった。
 思い返せば、自分はどうしてあんなことを言ったのだろう。それが、かつての自分が常日頃感じていたことであり、現在の自分が繰り返し悩んだテーマであるからといえば確からしい。でも、それはあまりにも無意味な質問だった。郁乃には渡という相手がいる。仮にあの場で郁乃が答えてくれたとして、はいと答えてもいいえと答えても智明は後悔しただろう。どうしてか、考えても答えはどうせ出ない。数時間前の自分は、既に自分ではないからだ。
 ただ、安心していた。少なくとも郁乃と渡の関係は良好ではあるらしいということに。
 アスファルトの橋を渡った。川に沿って風が流れていたらしく、体感温度が急に下がる。思わず肩を竦めて、ジーンズのポケットに両手を突っ込んだ。寒さには強い方だが、流石に薄着過ぎたか、と考える。
 唇を引き締めて足早に橋を渡りきろうとすると、ポケットと手のひらの隙間に何かガサガサしたものが突っ込まれた。吃驚したあまり、思わずその得体の知れない物体ごと手を振り回しそうになる。
「あげるわよ」と郁乃の声が聞こえて、ようやくそれが使い捨てのカイロであると気づいた。手のひらの中で転がすと次第に温まってくる。
 智明は大げさに両手の平を合わせた。「サンキュ」
「だからもっと厚着しろって言ったのに」と、母親かと言いたくなるような文句を飛ばしてくる。「雪降ってんだから寒いに決まってんでしょ」
「ごめんってば」
 片方の手のひらだけでも温かいと、体感温度は同じでも精神的に随分と堪えしのべるものだ、と気づく。辻ヶ丘を出てきたときより気温が下がっている気がした。夕方が近づいているからだろうか。
「郁乃、次って右? 左?」
「ちょっと待って」
 橋を渡りきり、細い道が横たわるT字路に出た。一応舗装はされているものの、あぜ道に毛が生えた程度の簡素な道だった。道に沿って、等間隔に低木が植えられている。灰色の自動車が前を走って行った。交通量は少なく、後続の車は見えない。自動車の行った方を見ると、それとすれ違ってバイクが走ってきた。
「ねえ、トモ、道間違えたかも」郁乃が不安げに言った。
「え?」
「この地図の通り来てるなら、すぐそこに見えるはず……」
 そう言って道の向こうを見た郁乃の動きが、そのまま固まった。驚いたように目を見開いている。何かを呟くように口元が動く。
 どうしたの、と聞こうとして、智明も驚いた。
 バイクはブレーキを掛けて彼らの手前で止まり、乗っていた男がヘルメットを外して、「やあ」と郁乃に手を上げた。
「誰?」と思わず声が出て、「誰、ですか」と慌てて敬語を付け足した。明らかに年上に見えたからだ。ごついフルフェイスのヘルメットの下から現れた顔は、拍子抜けするくらい優しげな好青年だった。不審者だったら郁乃を連れて逃げなければ、どこに向かうべきだろう、と智明が思考を巡らせると、男が智明の方に顔を向けた。
「智明くんだよね」
「あの、誰ですか?」と再度訊く。だが、固まったままの郁乃が気まずそうに目を逸らした瞬間、察せてしまった。自分にしては勘が鋭い、と感じる。
「えーと、吹雪、渡さん」
「そう、正解」とはにかむように笑う。「吹雪渡です。お初にお目にかかります」
 突然現れたことを説明もせず、冗談めかして自己紹介する口調が、どうも自分を軽んじているように感じて少しむっとした。郁乃は渡にどう言うのだろう、と気になって後ろを振り向いたが、そこで彼女が自分の斜め後ろで目を伏せていることに気づいた。渡が太陽なら、ちょうど智明の陰になるような場所だ。
 彼女にどう声を掛けるべきか考えていたが、そこで渡に「智明くん、ちょっといいかな」と言われ、「はい」と言って向き直る。
「二人に用事があるんだよ」
「あ、はい、ですよね」
 流石に、辻ヶ丘からほど遠いこの場所で偶然すれ違ったとは思えない。そのくらいは当然察せる、との意味を込めて答えたが、「察しがいいんだね」と褒められてまた少し苛立った。どうも、自分はこの人が苦手だ。
「いろんな人が電話したりしたらしいけど、気づいてる?」
「えっ?」
 携帯を忘れたのか、と一瞬焦るが、ポケットに突っ込んであることを感覚で確認する。携帯を取り出すと、ネットにアクセスしないモードに設定されていた。
 ありゃ、と首を捻る。
「すいません、オフラインでした」
 トンネルの多い車内ではどうせほとんど圏外だから、と思い通信を切ってしまったのだ。頭を下げると、おかしそうに笑った後「だろうと思った」と言われる。この人は状況に関わらず笑える人なのだな、と考える。
「いいよいいよ、そう思ってたしね」
「はあ、お見通しっすね」
「それでね、例の工務店だけど、あれ今はよそに引っ越ししてるんだよ」
 今度は智明が驚いて固まる番だった。その後ろで郁乃が「さっきから、そうじゃないかと思ってたわ」と呟く。
「あ、もう気づいてた?」
「地図にあるはずの場所にないんですもの」
 ふてくされたように郁乃が言う。
「ありゃあ。骨折り損だ」と智明は呟く。「それで、本来の工務店のほうはどうなってるんだろう」
「さあ、それは僕は知らないよ。でも多分、夏さんが行ってる」
「そうなんですか?」
「本来の工務店の近くで会ったからね」
 渡が当然のように言う。この人は、智明は知り得なかった情報を掴み、常に智明たちより先回りして動いている。たった二年学年が上なだけなのに。それを年の功と諦めるにはあまりに情けなかった。
 どうするべきか、途方に暮れた。
 とにかく翠緑荘に連絡をしなければ。そう考えていると、渡が智明の横をすっと通り過ぎて郁乃との間に割り込む。
 智明は振り向く。
 郁乃と相対した渡は、片手にもう一つ自分の物ではないヘルメットを抱えていた。
「郁乃ちゃんだけって思ってたから、一個しかないんだけど。乗ってく?」
 何を言っているのか、理解するまでに数秒かかった。つまり、バイクの後ろに乗っていかないか、と郁乃を誘っているのだ。智明としては、自分は置いてけぼりかと主張したい。現に、相手が渡でさえなかったら智明は文句を言っただろう。
 だが、今回は事情が違う。
 つまり、自分の恋人に、一緒に帰らないかと誘っているのだ。
 それに苦言を呈する、ましてや割り込むなんて、とても出来ないだろう。
 だから「それでもいいよ、郁乃」と声を掛けたのだ。
「俺は普通に電車で……」
「ごめんなさい」
 郁乃の声が遮った。
 冷たい空気にきんと通る声で。こいつは本来こう喋る奴だった、と思い出すような明瞭な発音だった。
 俯いていた顔を上げて、目を見開いて渡を見上げていた。
「渡さん、ごめんなさい。行かないわ」
「……どうして?」
 渡も即座に断られるとは思っていなかったのか、郁乃に一歩詰め寄る。今にも逸らしてしまいそうになりながら、それでも郁乃は渡の目をしっかりと見て言った。
「理由はある。でも、言葉にしたくない」
 郁乃の手の中で地図が滑り落ち、智明の足下に落ちた。
 渡が息を吸い込む気配があった。智明は意を決し、二人の間に身体を挟むようにして割り込んだ。勇気が必要だった。手のひらは気がつくとさっきのカイロを握っている。郁乃が背中に隠れるような角度になるが、自分は背が低いから渡の視線を遮ることは叶わないだろう、と少し悔しく思う。
 渡のほうを真っ直ぐ見て立つと、彼は少し驚いたように目を見開き、それから口の端を横に引いて微笑んだ。あまりに芝居がかった仕草に、どこからが計算されたリアクションだったのか、と訊いてみたくなる。
 渡はその表情を貼り付けたまま数歩下がって、ガードレールに腰掛けるようにした。
「智明くん、何?」
「いや、特に用はないですけど」
「用がないのに割り込んでこないでしょ。幼馴染の郁乃ちゃんが困っているから助けたくなったとか、理由があるんでしょう」
「あなたには分からないですよ。俺にも分からないですから」
 アスファルトに落ちている地図のコピーを拾い上げた。郁乃の手から滑り落ちたものだ。カイロの入っているポケットに一緒にして突っ込む。
「俺たちは帰ります、って言いに来たんです」
 俺たち、というところを少しばかり強調した。
 郁乃がそう言ってるんだから、と心の中で付け足す。
「分かったってば、じゃあね」
 彼の返事は拍子抜けするくらい味気なかった。
 既に彼はバイクの向きを変えて、走ってきた方向に向けていた。郁乃のために持ってきたヘルメットを鞄に入れ直し、自分のヘルメットを被り直す。
「失礼します」と智明は頭を下げ、歩き出す。動きの鈍い郁乃の背を無理矢理押すようにして歩いた。
「うん、またね。駅で優治くんが待ってるかもね」
「優治が?」
 振り返り、聞き返そうとしたが既にバイクは発車していた。数秒見守るうちに米粒のように小さくなってしまう。
「どういうことだろう」
「さあ。でも、トモ、実はあたしはそうじゃないかと思っていたの」
 横を歩く郁乃が顔をのぞき込んで、にかっと笑った。「だから渡さんを断ったのが、理由の半分くらいかな」
 残り半分は何だ、と聞こうとしたが、彼女が取り出した携帯を見て、「うわ」と顔をしかめ、画面を見せてくるほうが早かった。
「こんな数の着信履歴、初めて見たわ」
「うわあ、俺の携帯見たくないなあ」
「ひぇ、こんなに連絡もらってる……え、瑞穂さんも? わ、結花ちゃんとか春日井くんからも……」
 おろおろと焦る姿が面白くて、つい笑ってしまう。当然睨まれた。
「あんたも履歴見なさいよ」
「はいはい」
 優治がどうとかと渡が言っていたことを思い出し、とりあえず彼に電話を掛けてみる。ワンコールで彼は電話を取った。数分電話して電話を切る。
「優治でも驚くとあんな大声で叫ぶんだなあ」
「えぇ、何それ、聴きたかったわ」
 優治は数十分後に駅につく電車に乗っていると分かったので、それで合流することに決まった。智明たちのほうが先に駅に着くので、しばらくは駅で待つことになるだろう。電話の向こうでは、安心したらしい優治が何度も溜息をついていた。
 そう郁乃に教えてやると、彼女は苦笑していた。
「ほんとに優治まで来たのね、なんか、お疲れさまというか」
「まあ、元はと言えば優治が間違えたんだけどな」
「それもそうだけど」
「あ、そういえばこうも言ってた」
「何?」
「ごめんねって」
 最初にそれ言うでしょ、フツー、と言って郁乃が笑う。
 吹きさらしのホームで何十分も待つのは気が引けたので、駅の待合室に入った。アルミの引き戸を引いて入る待合室はやはり無人で、自動販売機が控えめに佇んでいた。智明が炭酸飲料、当然冷たいやつだ、を買うのを見て、郁乃が「馬鹿?」と呆れた顔をする。「だって、ここは暖かいし」と言い訳した。
 プラットフォームに電車が滑り込むのが見えた。
 引き戸の窓にコートを着た人影が立つ。肩で息をしているのが、磨りガラス越しでも分かった。

9 -優治-

 もう一度、友達になれるだろうか?
 優治は自問した。
 その「友達」である郁乃と智明に面と向かって訊く気はなかった。今は友達じゃないのか、と訊かれれば、それは違うと答える。お前は友達になれないと思っているのか、と訊かれれば、どうだろうと言葉を濁す。
 言葉に出して訊いてしまうとあまりにもセンチメンタルで他愛ないのだ。
 幼馴染だった、その幼い頃の関係に戻る気はない。今の自分が、今の幼馴染と築く関係は、また違ったものになるのだろう。形を変えて、場所を変えてそれでも続いていけばいい。ゴムのように引き延ばされて、あるいは押し縮められても、そのつながりがどんな形であるかは大した問題ではないのだ。
 ただ、この複雑で面倒な自分自身を、少しでも言葉にして行けたらいい。本音を言える関係であったらいい。
 無限に続く空間は星空のようだった。暗い空間に無数に浮かぶ星同士は糸で結ばれていて、星座と呼ぶにはあまりにも煩雑、まるでスポンジの中にでもいるかのようだった。優治からもいくつもの糸が伸びていて、他の星に繋がっている。
 遠くから見れば銀河のようだろう。
 どこかに行ってしまえば、断ち切れる糸だ。今は多少の雑然のなかでも、その糸を切りたくないと、そう思えた。
 全てが理想的に動く夢の世界とは真逆の、全てが相関していて煩わしい現実。気づかないうちに鞄に溜まるレシート。捨てられないお土産のキーホルダー。床に落ちている何かの部品。全部ひっくるめて好きだと思えたとき、自分の見ている夢は夢として区別できるものになるような、そんな気がした。
 辻岡駅と印字された切符を指先で回した。
 優治は夢、あるいは思索から醒める。手の中には文庫本があった。お気に入りの作者の最新刊だ。幼馴染たちは眠っている。電車は周期的なリズムを刻んでいて、彼らの肩を揺らしていた。
 白い空は暗くなり始めていた。だが、同時に雲が薄れ始め、部分的に雲がレモン色に染まっていた。あの向こうに夕焼けがあるのだ。
 夜には雪がやみそうだ、と思う。
 月が出たら、素晴らしい景色になるだろう。

第四話 了

雪解

-夏の日記-

 四月八日、日曜日。屋台の設営をお手伝いしました。数学の先生がお好み焼きの屋台を出していて驚きました。本業とは関係ないと仰っていましたが。

 ***

 鳥居をくぐった先の階段に町内会の店の名前が入った提灯が吊されて、にわかにお祭りらしくなってきたようだ。今朝、朝の四時頃に寛三が優治と智明に手伝わせて設置したものである。こういうのは男性がやるべきだろう、そう二人とも思ったし、灯子たちは他の仕事に追われていたので特に文句はなかった。ただ、まだ日が昇っていないほどの早朝に作業したので少々疲れ、炬燵でお昼近くまで爆睡してしまった。朝起きて仕事をしたにも関わらず、トータルで見ると結局いつも以上に長い時間を睡眠に費やしている。
 優治が珈琲を啜りながら炬燵でそう愚痴ると、智明が、
「まーまー、疲れてたんだから、やむなし」と応じた。
「やむなしって何だよ」
「仕方ないってことじゃねぇ?」
「そうじゃない」
 智明が台所で珈琲を倍量のミルクで割っている。優治は他人の飲み方に文句を付ける気はないが、そこまで割ってしまうともはや珈琲の味はしないのでは、と問いただしたい。
 炬燵に戻ってきた智明はポケットの中をごそごそと漁って、「もう冷たくなってる」と言いながら白い袋を引っ張り出した。使い捨てのカイロらしい。彼はそれをそのままポケットに戻した。
「それゴミだろ。捨てたらいいのに」
「おう、うん、いや捨てていいのかなって」
「は?」
 智明がそれ以上説明をしないので、たいして大事なこととも思えず、それ以上聞かなかった。
 炬燵には電源が入っていないが、それが必要ないくらい窓からの陽射しが暖かい。昨晩、彼らが翠緑荘に帰宅したときには雪が咲きかけの桜の枝に積もっていてなかなか幻想的だった。残念ながらこの陽射しでは、もう全て溶けきってしまっただろう。
 今、他の住人は出掛けていて、屋台の設営を手伝っているらしい。二人が起きたら炬燵の上にそう置き手紙があったのだ。メールで伝言を残してくれればいいのに、今どき古風な手段だ。普段なら叩き起こされて手伝いに駆り出されてもおかしくないが、早朝に提灯の設置を手伝ったから免除されたのだろう。その代わりと言うべきか、朝ご飯は用意されていなかった。二人は仕方なく、適当にコーンフレークと蜜柑を食べて朝ご飯ということにした。
 飲みかけの珈琲をソーサーに置き、優治は炬燵に潜り込んだ。邪魔と言わんばかりに智明が足で押しやってくる。仕方ないのでもぞもぞと移動していたら上半身がほとんど炬燵の外に出てしまった。
「子供の頃は三人で炬燵の中に潜ってた気がするのにな」三人とはもちろん優治と智明、そして郁乃のことだ。「あの頃は父さんがでっかくて邪魔って思ってたなあ」
 父親の寛三の身長は去年の夏頃に追い越していた。気がつけば翠緑荘の中で一番背が高くなっていたのである。
「今は嵩張る側になっちゃったな」
「そうそう。分かってるならもうちょいそっち行って」
「これ以上出たらもう炬燵に入ってる意義がないんだけど」と抗議しながらも優治は腕を立てて姿勢を立て直した。コーヒーカップを手に取り直す。
「でかくなった、って言えばさあ」と智明が言った。「裏のフェンスに穴あったじゃん? きっともう通れないよな」
「あったなあ」優治は思い出す。翠緑荘の裏手は森になっていて、敷地との境目がフェンスで区切られているのだ。子供の頃、たしか小学校低学年の頃、フェンスに穴を見つけて皆で森に入ってみたことがある。姿が見えないことに気づいた灯子が寛三に報告したので大事になり、三人揃って叱られた。
「今度また行ってみたいなぁ」と智明が懐かしむような顔になった。「行こうよ」
「もう通れないって自分で言ったのに」
「通れないけど、今ならフェンス乗り越えられる気がするんだよな」
 智明が小学生のような顔に戻って目を輝かせている。
「小学生だからいたずらで許されたんであって、今やったら説教で済まんぞ」
「そう? あの頃のほうが危険だったろ。今の方が体力あるし安全じゃない?」
「そうじゃなくて、ルールを守ることに対する責任って言うかさあ」
 智明を窘めながらも、優治は智明の期待に満ちた視線に感化されつつあった。叱られてから一度もフェンスの先には行ったことがない。ごく近くでありながら普段行けない場所は、思ったより魅力的に見えた。
「分かった分かった、おじさんに許可取ればいいだろ?」
「お前、ほんとに行きたいんだな」優治は苦笑する。普段は面倒くさがりな気さえあるのに、智明はたまに変なことに情熱を注ぐように見える。寛三が許可するのであれば、確かに問題はない気がした。
「よし、見てろよぉ」と智明が自信ありげに拳を握る。どんな理屈を並べて説得するつもりなのだろうか。優治が幼い頃に比べれば、父親はかなり寛容になったようなので、きっと許可されるだろう、と思った。
 皆が昼食のために帰ってきたのだろう、開け放った出窓から賑やかな声が聞こえてきた。

-夏の日記-

 四月九日、月曜日。いつも通り堤防を自転車で走っていたら、学校帰りのゆーさんたちを見つけました。同じ向きに帰る友人がいないので羨ましいです。

 ***

 本格的に授業が始まった。とは言っても授業の初回は、大体どの授業も生徒の自己紹介と簡単な話で終わってしまう。持ち出したのに結局使わなかった教科書を自分のロッカーに片付けた。
 教室に戻ろうとすると、「優治」と郁乃に声を掛けられた。「もう帰るの?」
「うん。部活は見る気ないし」
「勿体ない」と顔をしかめる。「まあ、いいや。帰るなら鍵開けといてよね、終わったら行くから」
「はいはい」
 住人並に翠緑荘にやってくるのだから合鍵くらい作ってやってもいいと思うのだが、郁乃自身がそれは要らないと言うのだ。優治としては、ときたま不便だからむしろ合鍵を持ってほしいとすら思う。
 教室に戻って男子生徒の一グループに混じると、一部始終を見ていたらしいクラスメイトにからかわれた。
「本宮、鍵開けといてって何? 冬坂さんと同棲?」
「ちげぇよ」
「冬坂と本宮と、あと宇井は元々友人なんだ」と春日井悠が助け船を出した。「って何回も能條に言ってんだけどな」
「だってさ、元々友人でも家に勝手に上げないだろ?」
「家族くらいに付き合いが長いとそんなこともあるんだ。兄弟みたいなもんだな」と決まり切った答えを返しながら、本当に自分はそう思っているのか、と疑問に思う。距離をおいて離れようとした、あの一ヶ月は、決して昔のことではないのに。
「へえ」能條は信じられない、と言いたげに目を細めた。「あんな美人が家に遊びに来るとか、羨ましい限りだな」
 郁乃はこいつから見ると美人なのか、と思う。「紹介してよ」と冗談交じりに言われたので「誰がするかよ」とあしらっておく。本当に紹介でもしたら、郁乃に怒られるどころでは済まないのが目に見えている。下手したら絶縁ものだ。
 グループにいた男子生徒の半分は部活動の見学に向かった。残ったメンバーで校門を出て辻岡駅の方面に向かう。辻ヶ丘を登る方向に向かうのはさらに半分になり、優治と悠だけになった。
「そういえば、宇井は?」と悠が訊いた。「あいつも部活か」
「そうじゃないかな。軽音部の見学に行くって聞いた気がする」
「軽音か。何となく、イメージに沿うな」
「春日井はどこか見に行かないの?」
「僕は、陸上部を見に行く予定だ。中学校から続けているし……ただ、今日は活動日ではないらしい」
「ふうん」優治より背が高く、骨格もがっしりとした彼は、陸上部と言われると確かに納得させられるものがあった。
 住宅街の中の路地を抜けて、辻ヶ丘のメインストリートに出る。辻岡大社と辻岡駅を結ぶ通りで、そういう事情から優治などは「参道」と呼んだりする。メインストリートとは言っても、辛うじて歩道がある程度の細い道だが。
 その道を少し上がったところのベンチで、女子生徒が本を読んでいた。肩より少し下まで伸ばした髪に見覚えがある。優治が声を掛ける前に、悠が「ハル」と彼女に声を掛けた。
「あ、ハルちゃん、それに本宮くん」
 彼女はぱっと顔を上げて、屈託のない笑顔をこちらに向けた。
 ハル、というのは彼女の苗字だ。フルネームは遥結花という。紛らわしいが結花は春日井悠のことを「ハルちゃん」と呼ぶので、二人は同じような呼び方で呼び合うことになる。仮に優治が「ハル」と呼ぶとどちらのことを差しているか分からないが、彼らが「ハル」と呼び合う分には相手のことだと分かる。つまり、彼ら二人の間でしか成立しない呼び方だということだ。
「遥さん、それって、加洲トオルの新刊だよね」優治は、彼女が読んでいた文庫本を指さして言った。加洲トオルは優治も本屋で作品を見かけたら立ち読みする程度には好きな小説家だ。先日、加洲トオルが春日井悠の実の兄であると聞き、優治はかなり驚いた記憶がある。
「そうなの! 一昨日発売の」と結花がぱっと明るい顔になる。「そういえば、本宮くんも透さんの本を読んでるんだよね」
「うん、少しだけだけど」
 結花は加洲トオルの大ファンだと、この間悠が話していた。実際に新刊をすぐ買いに行っているあたり、その情報は本当らしい。優治は著作をいくつか読んだことのある程度なので、読んだ量では結花の足下にも及ばないだろう。
「遥さんは春日井と仲がいいし、もしかして加洲トオルと直接会ったことがある?」
「あるよ。でも小説の内容とかについては、お話ししてくれないけど」
「そうか、それでも、何だかすごいな」
 優治にとっては、小説の作者は小説の架空の登場人物と同じくらい実在している印象のもてない相手だった。加洲トオルはテレビに出てこないし、ネット上で何かを発信することもないから余計にだ。
「本宮もうちに来るか?」と悠がさも普通のことのように言った。「加洲トオルなら今頃起きてくると思うけど」
「簡単に言うなあ」
「友人を家に呼んでるだけだからな」
「うーん、今日はちょっと厳しいからまたの機会に」優治は断った。用事があったのは本当だが、それ以前に名前しか知らない紙面の向こうの小説家にどんな顔をして会ったらいいものか分からない。
 分かった、いつでも来たらいい、と悠が頷く。

-夏の日記-

 四月十日、火曜日。学校帰りに千理さんに車で送ってもらいました。やっとこのあたりの地理に慣れてきた、といった感じです。向かいの丘には風車があるのですね。

 ***

 エンジンキーを捻る手。丸いフォルムの車が目を覚ましたところで、達海は助手席のドアを開けた。
「やっぱり千理ちゃんだけで行ってもらえないかな」
「あら、どうして?」
 運転席の彼女は、不思議そうに首を捻る。金に近い色の髪が滝のように枝垂れ落ちた。
「ごめん、僕午後に大学行かないといけないんだ。ちょっと事務室に……今、思い出した」達海は申し訳ない、と頭を下げる。
「ああ、昨日言ってたわね。仕方ないな。打ち合わせは私ひとりで行くわ」
「ありがとう」
 二人は、桜まつりに協力してもらう商店街の店に打ち合わせに行くところだった。自由気ままな大学生の身分である二人は、平日も比較的自由に時間を使えるので、忙しい灯子に代わってよく用事を請け負っていた。しかし今日に限って、達海には事務室に行く用事が入っていた。
 千理がシートベルトを締めながら、
「いちおう、灯子さんにも行けなくなったって達海から伝えてくれるかしら」と言った。達海はそれに頷いて返す。
 丁寧な口調の彼女から出る、呼び捨ての名前が耳の奥でコロコロと音を立てた。千理が敬語を使わないのも、如何なる敬称もつけず呼ぶのも達海が知る限りだが、彼ひとりだ。それは彼女なりの、恋人に対する「特別扱い」なのだろう。それが嬉しかったり、一方でしかし、一人だけ「別扱い」なことに少しだけ違和感を抱いたりも、たまにする。
 よろしくね、と声を掛けてドアを閉める。彼女は軽いアイコンタクトを寄越して、窓ガラスを下げたまま駐車場を出ていった。
 彼は千理の乗っていった車を見送る。目の覚めるような白い車で、しかししばらくするとそれは街並みと同化した。不規則に並ぶ建造物があるラインに沿って途切れていて、ここからは見えないがそれが川なのだ。川に沿って線路が伸び、ここではない街に続いていく。千理に言われたことを思い出して、携帯電話を取り出した。一応灯子に電話を掛けてみるが、呼び出し音が鳴るばかりだったので、代わりにメールを入れておく。
 出掛ける支度をしなければ、と思いながら辻ヶ丘をぼうっと眺めていると、制服姿の少女が坂をこちらに駆け上がってくる。高校生の溢れる若さをまき散らすそのシルエットには見覚えがあった。
「郁乃ちゃん、どうしたの。まだ授業あるよね?」
 高校生の頃は休講などなかったな、と懐かしく思い出しながら郁乃に呼びかける。
「あ、達海さん! 朝寄ったとき、携帯忘れちゃったみたいでっ」彼女は瞬く間に駆け上がってきた。「昼休みなんで取りに帰っちゃいました」
「それ、校則的にいいの?」達海は苦笑する。「携帯ね、見たよ。たしかリビングに置いてある」
「良かった、ありがとうございます!」
 優治か智明から借りたのだろう合鍵で玄関を開け、郁乃は翠緑荘に入っていった。達海もついでに室内に入り、大学に出掛ける支度をする。丁度タイミングが良かったので、途中まで一緒に歩くことになった。
「ぜんぜん、時間余裕あったよね。走らなくても良かったんじゃない?」
「いやぁ、無かったらどうしようって考えちゃって。ケータイ無くしたら一大事じゃないですか」
 それ程までに携帯がないのは大事らしい。達海は気を抜くとメールに気づかないくらい携帯を見ないので、郁乃の感性はよく分からなかった。
「達海さんは、これからどこに?」
「大学に行く。ほんとはね、桜まつりの用事があるんだけど、そっちは千理ちゃんに任せちゃった」
「ええ、千理さん、怒りませんか?」
「はいはい、って感じだった」
 達海が忍び笑いして言うと、郁乃は驚いたと言わんばかりに目を丸くした。
「千理さんでもはいはいって言うんだ、想像出来ないわぁ。達海さんたちは……お互いのこと、良く分かっていますよね」
「そう?」
「つぅかぁの仲っていうか」
「随分おもしろい言い回しするね。でも、そんなことないよ。千理ちゃんのこと全然、分かっていないと思う」
「そうですか? 羨ましいな、と思ったんですけど」
 羨ましいとは、おそらく郁乃自身の恋人を念頭に置いての発言だろう。彼女の恋人についてはいろいろ聞いているが、会ったことはない。知らない人は苦手だからあまり会いたくもなかった。悩みの尽きない彼女は、自分の恋人に適用できるモデルを探しているのだろう。自分は恋人のことを何も分かっていない、それに比べて達海たちが羨ましいと言いたいのだ。
 自分は千理のことを良く分かっているのか、と少し考える。すぐに答えは出た。否、きっと千理には自分が知らない一面もあるはずだ。分かっているが、それでも知るために努力しようとはあまり思えなかった。恋人とはいえ、他人の内面に踏み込むのが恐ろしいのだ。
 もともと達海の世界は極めて狭い。
 空間的な意味での居場所なら、翠緑荘を中心にせいぜい辻岡駅までだ。大学の講義は楽しいが、サークルもやっていないし友人もいない。居場所というには少し遠い場所である。世界のおおよそ全てが達海の干渉しないところにある。恋人とて例外ではない。千理は当然、彼が見ていないものを見て、彼には見えない考えをその脳に宿しているはずだ。
 達海の足が彼の体重を乗せてアスファルトを蹴ったって、アスファルトは凹んだりしないのと同じだ。達海が息をするために空気を大きく吸ったって、風が吹かないのと同じだ。関与できると考える方が間違っている。
 郁乃と一緒に坂を下りていき、途中の曲がり角で別れた。彼女は小さく頭を下げて、まだ昼休みの終わりまで時間はあるというのに走って行く。その後ろ姿はエネルギーに溢れていて、エネルギーに溢れているから、他人を知りたいなんて労力のいることを考えられるのだ。
 そこまで考えて、駄目だな、と頭に手をやる。もう老後かのような冷め切った考えではないか。
 駅前の交差点までいつの間にか着いていた。延びる線路は、臆病な自分を、瞬く間にどこまでも連れて行く。自分の知らない場所へ、干渉できない世界へ、人が異物のように動きあう都会へ。
 無意識に耳に通したピアスに触れていた。
 耳朶でうごめく、僅かな異物感。
 大人になって知ることを諦めたのだ。世界の複雑さに圧倒されて、絶望させられて、それゆえ、矮小な大人になったのだ。

続く

辻ヶ丘四季譚 春 (※更新中)

辻ヶ丘四季譚 春 (※更新中)

とある街で暮らす彼らの群像劇。 春の物語。

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-14

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  1. 第一話
  2. 第二話
  3. 陽光
  4. 第三話
  5. 灰色
  6. 第四話
  7. 雪解