影酔い

短編集「水惑」中の一つを修正したものです。

 一、さぶの話

 手前が奉公しております小間物屋「紅屋」は旦那さまと奥さまとおじょうさま、番頭さん女中さんに丁稚の手前で切り盛りするお店です。
 旦那さまはもともと背負い売りをしていらっしゃいましたが、八年前に今のところへ落ちつかれたのだそうで、手前は三年前から紅屋へお世話になっております。
 番頭の草吉さんも女中のおたねさんも根気よく教えてくださってこんなにいいお店はそうないだろうとつねづねおもっております。
 旦那さまも奥さまもお優しいかたがたですし、ひとり娘のお(なみ)おじょうさまも手前のことをかわいがってくださいました。
 色の白いは七難隠すと申しますし、美人でなくっても色白な女の方はいくらか良く見えますけれど、お浪おじょうさまの目鼻立ちは人形のように整っていて、しかも肌の白さが図抜けているものですから、まるで雪の精のようでした。
 目は切れ長で紅も置かないのにふちがうっすら赤らんで、近眼のためか黒目はいつも濡れたようにうるうるとして、唇は桜のつぼみのようにかわいらしく形よく、喜久間町の紅屋お浪と言えば画にも描かれた小町娘として通っておりました。
 お浪おじょうさまはかわいらしいものがお好きで、紅屋の店先に並ぶ紙入れや筆や糸や針、櫛やかんざしやおしろいや紅の中から、気に入ったものを旦那さまにねだって自分のものにして、小箱へ大事にしまっていらっしゃいました。
 お浪おじょうさまは夜に手習いを教えてくださりながら、ときどきそうした宝物を手前に見せてくださいました。その中でもいちばんめずらしかったのはあの紅でしょう。
 さぶ、影絵を見せてあげる。お浪おじょうさまはそう言ってそれを取り出しました。
 片手にすっぽり収まる大きさのそれは、金色のはまぐりでした。奥さまが手ずから絵付けをなさって内側の両面に紅を塗ったものだとおもいます。紅をちょこっとずつ水で溶きながら使って、使い切ってからもまたあたらしい紅を詰めたり、かわいらしい小物入れにしたりして使えるものですから、たいそう人気の品物でした。
 お浪おじょうさまはぱかっとはまぐりを開け、行灯の光を内側に当てました。つやつやとした紅はほとんど減っていないようで、その複雑な色合いを見ているうちに、手前はなんだか目がかすんできたような気がしました。
 さぶ、見てごらん、ほらお屋敷だよ。
 手前たちの目の前には影絵の都が立ち上がっておりました。 
 屋敷の瓦の一まい、柱の一本、すべてがいきいきとして、お浪おじょうさまが光の当たり方を変えるたびにあたらしい建物が見え、黒い都を歩いているような気さえしました。
 これはきっと古の都よ、ほらきれいな着物を着たひとも歩いている。あの高いやぐらはどこからでも見えるの、たぶん貝柱でしょうね。
 お浪おじょうさまは楽しそうにお笑いになりました。おっしゃる通り、都の大路には行き交う人影があります。
 それから毎晩、お浪おじょうさまは私にはまぐりの都を見せてくださいました。その都でお浪おじょうさまはお姫さま、手前はお姫さまを守るおさむらいになって遊びました。手前にとってはとてもとても、大事な時間でございました。おじょうさまにとってもそうであったのなら、いいなとおもいます。
 都は日ごとに色あざやかになり、ときどきふっと本当にゆめとうつつが混じってしまうような心地がしました。
 お浪おじょうさまはますます都に夢中におなりになって、夜だけでなく昼もはまぐりを出してはぼうっとごらんになっていることが多くなりました。もともと白いお顔がさらに透きとおって見えるようになり、旦那さまや奥さまもたいそう心配なさいました。
 けれどお浪おじょうさまは貝のことを黙っておいででした、そうなると手前も言い出しかねます。手前はだんだん、影の都を不気味に思うようになりました。お浪おじょうさまの色を吸って都がうつくしくなっていくように感じたのです。
 そしてある夜、いつものように手習いと影絵遊びを終えた後、手前はお浪おじょうさまのお部屋から下がったふりをして廊下からこっそり中をのぞきました。ここのところお浪おじょうさまがすぐにお寝みになっていないようだったからです。
 ちゃぷり、と水のゆれるような音がしました。
 お浪おじょうさまは着物のえりをはだけ、白いお胸を貝がらの上へ出していらっしゃいました。手前はどうしていいか分からなくなって固まってしまい、その場をはなれなければいけないとおもいながらもじっと見つめつづけました。
 やわらかそうなお胸からぽちゃりぽちゃりと紅いものが垂れて小さなはまぐりにそそがれていきました。ちゃぷりというのは、貝がらを持つお浪おじょうさまの手がふるえて起こる音でした。
 お浪おじょうさまはお胸に小さなきずをつけ、まるで赤子に乳を呑ませるようにしてはまぐりに血をお与えになっていたのです。手前はあっと声をもらしてしまいました。
 お浪おじょうさまはおもむろに顔を上げて手前をごらんになり、真っ赤なくちびるをゆがめてにっこりと笑いました。神々しくかがやく都の中で、貝を抱いたお浪おじょうさまは本当のお姫さまのようでした。
 とてもうつくしかったけれど、手前は怖くて怖くてがまんできなくなって、泣き叫びながら走り回ってお店の方々をみんな起こしてしまいました。
 そうして揃ってお浪おじょうさまの部屋へ向かいましたが、行灯の火はすでに消え、影の都はなくなっていました。お浪おじょうさまのすがたもそこにはございませんでした。
 手前は知っています。あの都は生きています、あの都でお浪おじょうさまはお暮しになっているのです。
 手前は、手前もあそこへ行かなければならないとふっとおもうことがあります。
 お浪おじょうさまを守ってさしあげなくては、とおもうのです。

二、長次の話

 紅屋の丁稚の話は長次にはちっとも要領を得ないものだった。年の割にかしこそうなものの言い方をするが、はまぐりだの都だの訳の分からないことばかり並べ立てるのには困ってしまった。
 お浪の家族も他の奉公人もすっかり取り乱して何も聞き出すことができない。
 しかし、それも仕方のないことだろうと長次は思う。お浪は器量よしで心根の優しい娘だった。父も母も目に入れても痛くないほどお浪を大事にしていたし、彼女がいずれ婿を取って店を守り、孫を産むのを楽しみにしていたことだろう。
 長次もたまに紅屋へ寄ると、雀に餌をやってたわむれていたり、店先を掃除したりして看板娘をやっているお浪を見るのが楽しみだった。
 はつらつとして、紅屋のみならず町を照らすお天道様のようにあたたかい娘だった。
 そんな彼女が血だまりを残して消えたのは昨晩のことだ。
「さぶよう、おめえさんはお浪に好いた男があったか知らねえか」
 丁稚のさぶはちょっと顔を赤らめて小首をかしげた。そういうしぐさをすると、つぶらなひとみもあいまってまるで小鳥のようだ。
「お浪おじょうさまに思いをかける男のひとはたくさんいましたが、お浪おじょうさまが返事をなさったことはなかったとおもいます。手前が知らないだけかもしれないけど」
 さぶは幼いながらにお浪に惚れているのだろう、口調にかすかな嫉妬がにじむ。お浪がさぶのことをどう思っていたかは分からない、が、それは色恋とはまたちがうものであったろう。
 長次にはさぶの一途さがせつないものに思えた。
 年ごろの娘がすがたを消したのだ、いちばんに疑うのは男の影である。駆け落ちということもあるかもしれない、あるいは。
「そのはまぐりってのは男からの贈り物じゃあないのかい」
「いいえ紅屋の品物であったと思います。はまぐりの殻に金色を塗ってその上にみごとな桜が描かれていて」
「ちょっと、ちょっと待ってちょうだい」
 お浪の母おふくがあわてたように口をはさみ、さぶの肩をゆさぶった。
「わたしは赤い花しか描きません。さぶ、おまえ気づかなかったのかい。そんなものがあったんなら、別の店が出したものを、だれかがあの子にやったのでしょう」
 さぶは顔を青くしてうつむいていた。立ったまま気をうしないそうなその様子が長次には気がかりだった。何か、ひどくあやうい感じがする。
「さぶ、思いつめるなよ。お浪のことはちゃんと見つけるからな」
 長次はさぶを気にかけていたのだが、お浪の失踪から数日、かれもまたすがたを消してしまった。店には詫び状が残っており、そこには自分のせいでおじょうさまがいなくなってしまったと書かれていた。
 耐え切れず郷へ帰ったのかもしれないと実家へ文を送ったが、返事はまだ来ない。
 さぶのことも案じられたが、まずはお浪を見つけ出さねばならなかった。
 長次は手下の鉄吉にはまぐりの出どころを探させ、もうひとりの手下の市助と自分とでお浪に言い寄っていた男たちを調べ始めた。喜久間町小町に惚れた男は数限りなく、なかなか手がかりは掴めない。先に結果が出たのは鉄吉の調べのほうだった。
「薬種問屋の佐倉屋が桜のはまぐりを覚えていました。佐倉屋が試しにひとつ作らせたものだったんですよ。けっきょく売り出すには至らなかったみたいですけど。ほら、三年前に菊坂上の並木で男がひとり死んだでしょう、あの男にやらせたんです」
 三年前、上方から来た絵師くずれの男が彼岸桜の並木で首をくくって死んだ。身寄りもおらず、こまごまとした内職でひとり食いつないでいたこの初老の男は、目を悪くしてだんだんに絵を描くことができなくなり、それを苦にして自死したのである。
「佐倉屋ではいわくつきになっちまったはまぐりを持て余して、事情を知らねえ店に売っぱらっちまおうとしたんだそうですが、奉公人の男がはまぐりを盗んで出ていっちまったそうなんです」
 盗られたのは死んだ絵師が描いたはまぐりひとつのみだったらしい。
「金目のものをやられたわけでもなし、縁起の悪い品物にいつまでも関わりたくないってんで佐倉屋は店内でことをおさめたんだそうです。そんなに欲しかったんなら言ってくれればやったのに、と主が言っていましたよ」
 鉄吉は引きつづき消えた奉公人の足取りを追った。
 一方、長次のほうもようやっと手がかりらしきものにぶつかった。それは再三話を聞いたはずの紅屋の女中おたねから、ふいにもたらされたのである。
 なんとなしにぽろっと、はまぐりに描かれた桜の話をしたときであった。
「なんだ、おたね、あの死んだ絵描きに会ったことがあるのか」
「ええ、菊坂上の桜を見に行ったとき、あの年取った絵描きのほうから声をかけてきたんですよ、喜久間町小町を絵にしたいって。なんでも小町娘の絵を集めて綴じて売り出すつもりだとかでね。金に困っていたところに版元から持ち掛けられたと言っておりましたよ。あたしは止めたんですけれども、おじょうさまはお優しいからほだされて」
 おたねに見せてもらったお浪の絵は桜の精を描いたようにうつくしく、まぎれもなく絵師くずれのあの男の手によるものだ。
「けっきょくあの絵描きは死んじまって小町本の話はお流れになったみたいです。なんとなく縁起が悪いようですけど、旦那さまがもったいないとおっしゃってこの絵を店先に貼るものですから、ますます男たちがおじょうさま目当てにあつまって、そりゃあ大変だったんですよ。去年なんか、この絵をおれにくれないかってえらく思いつめて頼むひとがいて。怖いくらいにまじめでしたよ」
「そいつの顔を覚えてないかい」
 ふたつの点がつながった。お浪の絵に魅入られた男の特徴は、はまぐりを盗んだ奉公人のそれと一致していた。
「お浪がその男に会うようなことがあったかね」
「店ではいつもさぶがくっついてましたし、外に出るときはあたしか草吉さんがついてましたしねえ、ああでも去年の春、桜の下でおじょうさまのすがたが一瞬見当たらなくなったことがございました。後で聞いたら、そのとき友だちに会ったって」
「男か」
「さあ、でも、あの後おじょうさまは何か思いつめたように一日中考え事をしていて、かまってもらえないさぶが拗ねていました。あの子はえらくおじょうさまに懐いておりましてね、おじょうさまも弟のようにかわいがってらした。奉公人とおじょうさま、ですからまちがいがあっちゃいけないと言い聞かせてはいましたけど、あの子まだ小さいからまっすぐにおじょうさまを慕っておりました。こんなことになってあの子、もしかしたら川へでも飛びこんじまってるかもしれない」
 泣き出したおたねの背を軽くさすってやってから、長次は立ち上がった。お浪やさぶを心配するのはもちろんだが、店は開店休業状態で、これからの暮らしにも日に日に不安が募るのだろう。
「さぶのせいじゃない。あたしがあのとき、目を離さなければおじょうさまは」
「おめえのせいでもねえ。やつはねらっていたんだよ、絵を見てお浪に岡惚れしたんだ」
 はまぐりを盗んだ奉公人、清三には年老いた母しか家族がいなかったが、息子がすがたを消してから間もなく死んでしまったらしい。
 清三は店を出てから一度上方へ上がり、いくらもしないうちに母のところへ戻ってその死を知った。
「おりんさんは最期まで清三に会いたがっていましたけどね、会わなくてしあわせだったとおもいますよ。親分、ひとは一年かそこらでまったくの別人になるもんですね。あれは、ひとの顔をした幽鬼だ」
 清三の母が暮らしていた長屋の差配はその時のことをよく覚えていた。
「清三はね、ずるいって言ったんですよ。ぽっくり逝っちまうなんて母ちゃん、ずるいなあって」
 清三は心底うらやましがっているようだった。肉親の死に際して発するべき言葉も表情も、なにひとつふさわしきものは出てこない。
「おまえ、何を言っているんだ、おりんさんはずっとお前を待って」
「母ちゃんは善人だから極楽にも行けましょうよ。でもおれはろくでなしだからどうせ地獄行きだ。だから、苦労して自分だけの都を作ってるんです。ちょっと母ちゃんをうらやましがるくらいゆるしてくださいよ」
「何を、言っているんだ、清三」
「何年か前、ある男が店に来たんです。たまたまおれが取り次いで、貝の中に閉じ込めた都の話を聞いたんです。もう自分は死ぬから、おまえが好きにするといいって。おれはとうとう叶えられなかったがおまえが本気でやるんなら、死も飛び越えてずうっと都に住めるだろうって。やっとのことで妻も見つけたんだ、これから妻と都で暮らすんです」
 やせこけたほほにあいまいな笑みを浮かべた清三は、差配に頭を下げてふらふら長屋を出ていった。それからどのような道をたどったか、いまでは川端長屋でひとり暮らしているらしい。
 川端長屋は長次の縄張の外である。そこら一帯を取り仕切る岡っ引きの辰五郎は長次とは旧知の仲で、お浪の失踪もずいぶんと気にしてくれていた。長次は辰五郎の協力を取り付け、手下たちを連れて川端長屋へ乗り込んだ。
 この長屋は名の通り川のそばにあり、年中じめじめとして汚れている。あらゆる長屋の最底辺に当たるものと言ってもいいだろう。住んでいるものたちもまずしく、ろくな仕事についていないものたちばかりだ。
「なんだこりゃ、鳥の死がいだ、犬も死んでら。これ、喰うんですかね」
「そんなものぐらいでぎゃあぎゃあ言ってるんじゃねえよ」
 もっとひどいものを見ることになるかもしれねえんだから、という言葉を長次は呑みこんだ。この長屋へ近づいたときから長次の中では嫌な予感がふくらんでいた。
 市助が気味悪がる通り、長屋の周りには動物の死がいがいくつもころがっている。血が抜けきって干からびているようだ。ぼろをまとった子どもたちがきゃっきゃ言いながらそれらで遊んでいる。
 長次たちは差配に声をかけ、いよいよ清三の部屋の前へ来た。油代をどうしたのか、煌々と灯りがともっている。清三はこの中にいるらしい。ことさらに胸の悪くなるようなにおいが鼻をうつ。嫌な予感が的中したことを、長次は戸に手をかけながら確信した。
「清三、いるな。おれは岡っ引きの長次だ、ちっと聞きてえことがある。開けるぞ」
 返事はない。
 がらりと戸を開けて、長次は絶句した。背後でひっと市助が声を上げる。
 まばゆい光とうるしのように濃い影、その綾がつくりだす色鮮やかな景色。
 青い瓦、白い土壁、色とりどりの花々、行き交う雅な人びと。
 うすよごれた長屋の一室に、うつくしい都がある。
 高い櫓のいちばん上で笑っているのは、太陽のようにまぶしい姫君だ。
「お浪!」

 長次が叫んだ瞬間、ふっと部屋が暗くなった。どうやら行灯に布か何かがかぶさったらしい。次から次へと起こる予期できない事態に、誰も身動きできない。
 はっはっという息づかいは自分のものだろうか、それとも市助か鉄吉か、いやちがう。
 暗やみで何かが荒い息を吐いている。長次はその何かの気配を感じた。
「清三か」
 何かがうなり声をあげ、部屋から出ようとしている。
 長次は手下たちを制して、行灯にかぶせられた布をとった。瞬間、何かが外へ飛び出す。
 鉄をこすり合わせて出したような妙にきしんだ声、そして駆けていくときの毛が地面にすれて出るようなかさかさした音。そして何より、あのすがた。
 長次たちは追おうとした。が、長屋の外は先ほどまでと何ひとつ変わることなく、淀んだ空気の中で子どもたちが笑っているだけだった。走り去った何かのすがたは影も形もない。
「親分、あれ、あれが清三ですか」
「清三だった、ものだろうよ」
 あれのいちばん近くにいた長次はその姿をはっきりとみとめていた。大きくふくらんだ腹、折れ曲がった八本の足、毛むくじゃらでみにくい化けもの。
「――――親分」
 市助は部屋のすみへしゃがみこんで顔をおおっていた。
 光の当たり方が変わったのか、影絵の都は消えている。
 現実にもどった長屋の一部屋に転がっていたのは、金色のはまぐりをにぎりしめたひとつの骸だった。体はくさりはじめ、虫が湧き、骨も見えているが、くちびるだけは紅を引いて赤く、にっこりと笑みを形づくっている。
 市助が外へ走り出て嘔吐する音を聞きながら、長次はお浪の亡骸を見つめていた。

 娘の死を知ったおふくが自死し、紅屋はまもなく店をたたんだ。主はまた背負い売りから出直すと言っていたが、こちらもまたまもなく病で死んだ。番頭の草吉とおたねは所帯を持って郷里に帰ったらしい。さぶの行方は杳として知れない。けっきょく郷からは返事が来なかった。面倒に巻き込まれたくないということなのかもしれない。さぶの家は子だくさんでそれぞれ色々なところへ奉公に出ているという話だった。
 そして清三がどうなったかも、わからずじまいである。もはや生きてはいまいと、長次は思っていた。少なくとも人としての清三の生は終わっている。
 紅屋のあったところは一度すっかり更地になり、やがて小さな社が建てられ、紅屋稲荷としてまつられることになった。そうすることでしかこの忌まわしく悲しい事件が起きた土地のけがれを浄めることはできないだろう。
 
 長次はあのはまぐりをどうするべきか悩んでいた。いまは手拭いで包み籠に突っ込んで、女房のむめ(・・)にも手を触れぬように言ってある。光が入れば都が現れるかもしれない。あれをもう一度見たら、魅入られるような気がしていた。
 寺へ預けて供養してもらうのが一番いいのかもしれないが、明日行こう、明後日行こうとつい日延べにしてしまっている。
 この日も寺へは行かず、仕立物をする女房の横で長次は茶をすすっていた。
「親分」
 かすかな声がしてつと顔を上げると、戸口に人が立っている。顔も着物もずいぶんと汚れているが、かわいらしい子どもだ。
「さぶか」
「あい」
 長次はあわててかれを部屋に上げようとしたが、心得たもので女房は汚れを落とす用意をしていた。ごしごし拭かれていくらかきれいになったさぶは、居心地悪そうに正座してしきりと詫びる。
「まず元気そうでよかった、おめえ腹は減ってねえか。むめ、何か出してやれ」
「いいんです、親分。それよりあのはまぐりを、いただけませんか」
 さぶは茶にも手をつけなかった。小さな湯呑みからほやほや上がる白い湯気をじっと見つめる、その眼が暗い。底に何を隠しているのだか分からない、つめたい眼をしている。
「おまえ、あれがここにあることをだれに聞いた」
「親分の手下の人が教えてくれました。あれを、手前にいただけませんか」
「あれは寺へ持っていくんだ。おまえ、お浪のことは知っているのか」
 小さく頷いて、さぶは長次をじっと見た。幼いと思っていた顔が、少し見ないうちにずいぶんと凛々しくたくましくなったようだ。店を出てからどんな暮らしをしてきたのだろう。ほほの円い線が消え、あごも細くとがっている。
「紅屋のことも聞きました。だんなさまも奥さまもおかわいそうです。それから、下手人のことも聞きました。化けものがおじょうさまに横恋慕して、それで殺したんだって」
「市助だな、余計なことを言いやがって。なあさぶ、これからどうするんだ。あてはあるのか。郷へは戻れないんだろう」
「行くところがあります。もうずいぶんと人を待たせているのでそろそろ発たねばなりません。だから、はまぐりをいただきに来たんです。いただけないのなら、最後にいっぺんだけ見せていただけませんか。あれはお浪おじょうさまの形見ですから」
 そこまで言われれば、長次も出してやろうという気になった。本当のところ、はまぐりを手放してしまいたいという思いはずっとある。寺へ行こうと思うとなぜだか億劫になるのだが、だれか引き受けてくれるものがあれば押しつけてしまいたいくらいだった。
 それでも子どもに負わせるわけにはいかない。さぶに見せたら寺へ持って行こう、そう踏ん切りをつけると長次の心は少し軽くなった。
 籠から取り出し、手ぬぐいに包んだまま置く。軽い、が持つ手に汗がにじむ。
「貝は開けるなよ」
 さぶはこくりと頷いた。むめも興味津々でうかがう中、ぺらりと布を取り除ける。
 汚れひとつない金が日の光にぼんやりひかり、桜の花の白がまぶしく眼を射た。幹のごつごつとした感じも絵とは思われず、風が吹けばその身をゆすってひらひらと花を散らしそうだ。
 そんなことを想った瞬間、さっと風が吹いた。花がぶわりと動いたように見えたのは気のせいだろうか。まるで生きているような。
「親分すみません。手前はおじょうさまのところへ行きます」
 ハッと我に返った。風を起こしたのはさぶだった。
 はまぐりを奪い取ったさぶは長次とむめがあっけにとられているうちに走り去る。
「むめ、市助と鉄吉を呼べ! 湯屋へ行っているはずだ」
「わかったからあんた早くあの子を」
 去り際の言葉の意味を思い、長次は必死にさぶを追った。すばしこい子どもの背中はあっという間に遠くなり、どこへ行ったかたちまち分からなくなってしまう。
 けれど長次はある場所をめざした。確信、ではないが見当はついていた。
 人けのない紅屋稲荷の前を過ぎる。ここでかつて雀とたわむれていた美しい娘のことを想った。娘を恋い慕う幼い子どもを想った。
 脇腹の痛みをこらえて坂を登る。足も心もずんと重い。あの長屋の戸へ手をかけたときとおなじ、嫌な予感がする。
「さぶ!」
 菊坂上、桜並木。すでに花はなく、青い葉がみずみずしく茂っている。
 いまここで満開なのは一本の木だけだ。狂い咲きの、はまぐりの花。けして散ることのない絵の桜。
 青葉の下に子どもがひとりいる。桜の根元を掘るかれの口のはしには、赤い泡がたまっている。
「なにを呑んだ」
「石見銀山をお店からくすねました。草吉さんがどこへしまうか見て知っておりましたので」
 鼠を殺すその薬剤は人の身にも毒である。吐かせようとするもどうにもならず、長次はさぶを抱えて医者に走ろうとした。
 やはりあれを見せるのではなかった。
 しかしさぶは長次に逆らって、血を吐きながら桜の根元にはまぐりを埋めた。そして埋め終えるとぐったりと樹に背をあずけた。
 のどからひゅうひゅうと音が漏れる。さぶは笑っている。
「親分、おじょうさまは都へ行ったんですよ。死を飛び越えて、あの影絵の都へ。だから、手前も行くんです。化けものから、おじょうさまを守るんです」
「化けものなんざいない。男が自分のものにならない女をさらって殺しただけの話なんだよ、これは。はまぐりもなにも関係ない。そんなまやかしの話じゃない。だからおまえは死んじゃならないんだ」
「化けものは隠れてまだおじょうさまをねらっているんですきっと。親分だって見たはずだ、あの都、みにくい化けものを。あれは都にもおじょうさまにも未練があるんだ。だから、手前が守らなくっちゃ」
 今度こそ、と言ってさぶは事切れた。死に顔はきりっとして使命感に充ちているようだった。子どもではない、男の顔だった。
 こんな顔でこの子を死なせたくはなかった。
 長次はさぶの亡骸を抱えてじっと座っていた。立ち上がる気力すらない。
 あそこ、あのうつくしい都。櫓の上で笑っていた姫君と小鳥の群れ。確かに長次はそれを見た。清三のなれのはても、見た。
 ち、ち、とどこかの梢で雀が鳴く。
 めまいをこらえるために長次は固く目を閉じた。


 それから何年、何十年の時が過ぎても、長次にとって喜久間町の娘殺しは悔やんでも悔やみきれない後味の悪い事件であった。だれも救えなかった。清三も見つからなかった。あの事件は終わったとは言えない。
 長次はあの年から桜を嫌うようになった。
 絵師、お浪、清三、さぶ。菊坂上の桜並木は四人の妄執を隠して春が来るたび満開に咲きほこる。そのふてぶてしいまでのうつくしさが自分の無力さを残酷に示しているようで、長次にはどうしても許せなかったのである。

影酔い

影酔い

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ミステリー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-14

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