『正義』


正義とは何だろうか。私たちはよく正義、善、愛、道徳などと言う言葉を好む。しかしそれらの定義は非常に曖昧で、『場合による』のひと言で事足りてしまうものかもしれない。逆に、いくら言葉を尽くしても説明の仕様がないものかもしれない。しかし、何故か私たちは悪よりは確実にそれらを求め、『愛』しているのだ。

孟子が性善説を唱えた一方で、荀子は性悪説を唱えた。これは、一見荀子は道徳性が性善説を唱えた孟子より弱いように見えるかもしれない。だが、彼は既に悪を規定した時点で善に取り込まれている。もし彼が善を愛し、道徳を重んじ、自らの正義を規定していなければ、そもそも悪なんて言葉で出てこないはずだ。
私たちはもっと身近にも私たちが悪を嫌い、善を好む証拠を見つけることができる。例えば、お茶の間の定番、水戸黄門。子供たちのヒーロー、アンパンマン。または、新聞やテレビ等によく登場する風刺画なんかもその類であろう。

ただ、悪という言葉もまた曖昧で、不透明で、実体のつかめないものである。ある本で、悪は『自己愛』や『他律』によって引き起こされると読んだことがある。人は自己愛によって他を愛し、他を助けることもしばしばある。だが、それはあくまで自己愛故であり、真の意味で道徳的とは言えない。他律というのは自律の反対と考えてもらっていいかもしれない。例えば、すべてを神の意志として行動する場合、神の意志だと言って戦争を起こすことも可能だ。そして、事が落ち着いた後に彼は言うのだ。「自分は悪くない。ただ神の意志に従っただけだ。」と。

私はこの自己愛の部分の主張にはいまいち共感できない。確かに世の中は自己愛に満ちている。それ故に他人から略奪を行い、他人を欺き、他人を貶めることもあるだろう。しかし、実際に自己愛が人の心に存在しなければ、世の中は上手く回らないのではないだろうか。他人に嫌われると、生きにくいから他人に同調し、協力しようとする。印象が悪くならないように、楽しくもないのに笑顔をつくる。相手に大した興味もないのに真剣に(または真剣なふりをして)話を聞く。規則を破ったり、犯罪を犯したりすると自分の社会的地位が落ちるから敢えてそんなことはしない。今のままの無能な自分が許せず、自分はもっと出来るはずだと考えて努力する。すべて自己愛からくるものではないだろうか。さて、人から自己愛を取り去ったら世界はいったいどんな状態になるだろうか。

私はかえって、自己愛が正義の正体を明らかにするための鍵になるのではないかと考えている。これに、先の悪の根源とされる『他律』の反対と想定される『自律』も考慮に入れてみよう。

正義とは実体のない、不明瞭なものだ。だが、確かに存在している。ではどこにあるのか。ずばり、私たち自身のなかであろう。他人のなかではない。自分自身のなかである。実質的な正義とは自分自身が、自分を愛するがために形成されるのだ。自分を真に愛していれば、自分にとって不利になるようなことは決してしないだろう。それは突きつめれば、他人を害さないことや、他人を慈しむことにもつながるはずだ。
最後に、私が思わずはっとさせられた歌詞を紹介しよう。『優しさの真似事は優しさ 出会えたら無くさないように 出会っている 無くさないように』(BUMP OF CHICKEN 透明飛行船)他人が心のなかではどう思っているかが問題なのではない。その行為そのものに感謝しようじゃないか。世の中の多くはそのような自己愛で回っているのだから。

『正義』

『正義』

『正義』について、自分なりの考察。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-13

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