人魚姫の脚

「海に行きたい」

 無口で感情を表に出す事の滅多に無い彼女がふと零した言葉だった。遠くを見つめる虚ろな視線が僕を捕える。彼女はその可愛らしい口元にほんの少し笑みを浮かべて、「行きたい」と再度呟いた。白くて殺風景な部屋に柔らかい春風が吹き込む。今度の休日に行こうと僕が提案すると、彼女はまっすぐ伸びた黒髪を小さく揺らして頷いた。


 その日は生憎の曇り空だった。灰色の荒れた海を前に僕は落胆した。どうせなら碧雲の下、青く澄み渡った海をと期待していたのに。がっくりと肩を落とす僕の横で一方の彼女はと言うと、特に気を落としたようにも喜んでいるようにも見えなかった。視線を海に投げ出したまま一言も喋らない。いくら普段から無口とは言え、少しくらい反応があっても良さそうなものを。そう思うと僕は、ただでさえ沈んでいる気分を余計に下げることしか出来なかった。

 彼女の着ているセーラー服のスカーフが潮風にはためく。ひらりと翻るスカートを片手で押さえると、もう片方の手でさらさらと風に流れる髪を耳にかけた。彼女はその間もずっと黙ったまま灰色の海を見つめていた。そうして、自分だけの世界へとすっかり入り込んでしまった。
 すっかり置いてきぼりを食らってしまった僕は、手持ち無沙汰に携帯を弄ったり曇天の空をぼんやりと見上げることくらいしか出来なかった。ちらりと横目で彼女に目をやれば、相変わらず自分の世界に入り込んでいてとても声をかけられそうにない。勿論、彼女が喜んでいるのならそれに越したことはない。が、彼女の虚ろな表情はどんな単純な感情も隠してしまっていた。

 聞こえるのは規則的な波の音と飛んでいる鳥の鳴き声だけ。長く続いていた沈黙を先に破ったのは意外にも彼女の方だった。

「今日の海、きれい」
「え?」
「きれいなの、今日の海。すごくきれい」

 彼女は満足そうに目を細める。僕が見たこの日初めての笑顔だった。
 しかしながら、彼女が口にした言葉の意味を僕は理解しかねていた。どんよりと薄暗い海は綺麗だとは言い難い。
 僕が言葉の真意を考えあぐねている間にも、彼女は砂浜にローファーの跡を残しながら海の方へふらふらと歩いていく。そのまま波打ち際まで行くと、ローファーとハイソックスをおもむろに脱ぎはじめた。それから、ローファーの中に脱いだハイソックスを押し込むと、波打ち際より少し手前の所にきちんと並べて置いた。裸足になった彼女は、まだ冷たいであろう水の中へ入って行く。膝下辺りまで水に浸かったところで僕に手招きしたので僕も渋々そちらへ向かった。身を屈めて海に手を浸すと、水は予想以上にひんやりとしていた。

「かなり冷たいでしょう、水。風邪ひくよ」

 僕はやや呆れ顔で彼女に注意を諭した。だが彼女は僕の忠告など微塵も気にも留めていない様子でさらに歩を進める。膝上まであるスカートの裾先が僅かに浸かって濡れていた。着替えなんて持ってきていないのに一体どういうつもりなのだろうかと思うと頭が痛くなる。そんな僕の気苦労も知らぬ彼女はさらに先へと進んで行く。さすがにこのまま行かせてしまうのはまずい。そう判断した僕は咄嗟にズボンの裾をたくし上げると、水が跳ね返って服が濡れてしまうことも気にせずに急いで彼女の後を追った。
 ばしゃばしゃという水音に気付いた彼女がこちらを振り返る。案の定、セーラー服はあちこち濡れていた。彼女は僕の姿を確認すると再度前進を始めようとする。しかし、僕が慌てて彼女の腕を掴んだことにより、それ以上の前進は不可能となった。

「何してんの。戻らなきゃ。着替えだって持って来てないんだから」

 少々語気を強めてそう言えば、彼女は怯えたような素振りを見せながら頷いた。良心が痛むのを感じつつも腕を引っ張ると彼女は素直に僕の一歩後ろをついてくる。砂浜へと戻る途中、僕は後ろを振り返ることが出来なかった。なんとなく、それは許されない行為のような気がしたのだ。無事に砂浜まで到着してようやく彼女を見る。僕は驚愕した。彼女は泣いていたのだ。


「どうせ私死ぬんだから、それならどうして好きなように死なせてくれないの。私はあんな殺風景な部屋でなんか死にたくない。人魚姫みたいに海の泡になって消えたいの」

 そうして彼女は取り乱したように泣きじゃくった。あのまま僕が引き止めていなければ、彼女は美しく海の泡と消えていたのだろうか。いや、そんな綺麗な話なんかじゃない。彼女はあと少しで醜い溺死体となっていたのかもしれないのだ。

 砂まみれの彼女の脚は、人魚からは程遠い。

人魚姫の脚

過去作品をサルベージしてきました。この作品を書いた頃、ちょうど歩いて行ける距離に海岸があったのでよく行っていたのを思い出します。

人魚姫の脚

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-12

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