透明な地球儀
ゆうきを置いてきたのは、わずか昨日のことだ。当たり前のようにいた彼女が当たり前のようにいなくなったとき、僕はやはり当たり前のように目を覚まし、歯を磨き、駅のコンビニでおにぎりと缶コーヒーを買い、会社に20分前くらいに着いて、5分で朝飯を食べ、仕事をする。そして気がついたら帰り、テレビを眺めて、寝る。
あまりにもあっけなくいなくなってしまったものだから、ゆうきがいたことが、ずいぶんと長い夢のことだった気すらしてしまう。
ゆうきは、僕のちかくに、十年くらいいた。
ゆうきは極めて他人だったが、僕の妹だった。妹みたいに、なってしまった。
事ある毎に、他人だなあとしみじみ思った。それは僕たちが似ているとか似ていないとか、そんな話ではない。
決定的に他人だった。なにをどうしたって、彼女のことがよくわからなかった。
たとえば主張が同じだったとしても、なぜかゆうきのことが解せなかった。ゆうきである以上、僕は彼女を、他人以上に他人に思ってしまった。
それは極端に言えば、同じ生物だとすら思えなかったのかもしれない。
だから僕らは一度も喧嘩をしたことがなかった。たぶん、ゆうきも僕のことを一度も理解できなかったのだろうし、だからこそぶつかりにいく必要がないことをお互いに察したのだろう。
ゆうきと僕は、ごくふつうのクラスメイトのように話をした。いてもいなくても構わなくて、必要なことを話し、たまに世間話をした。
本当に、いてもいなくても変わらない妹だった。
そんなことを今思うのは、ゆうきがずっと僕のちかくにいたからだ。いないということを知らないから、いるということにすら、きっと気づいていなかったのだと思う。
僕が受験を控えた中学三年生のときにやってきたゆうきはまだ小学生だった。
ゆうきがどうして里子に来たのか、未だに僕は知らない。
母の恋人の連れ子かもしれないし、赤の他人かもしれない。僕が知らないだけで、本当に妹なのかもしれない。
でも、そんなことはどうでも良かった。
ゆうきは毅然としていて、僕のそんなふしだらな考えはとても失礼だった。
だから、嘘は吐けない。ゆうきは僕の妹であるという信念は、ふしだらな根底があったからこそ成り立っていたのだ。
彼女が高校生になる頃には、古い2LDKのアパートは、二人で使うには広すぎた。僕は昼間は大学に行き、終電ギリギリまでバイトをした。
僕の口座には月に細々とした金が振り込まれていて、それは母がもう帰ってこないという暗黙の了解で、恐らく、ゆうきのことも、この一万と数千円に含まれていたのだと思う。
ゆうきが気付いていないはずはないと思った。だから、僕はそれに甘えてしまった。
元から母の施しの多い家庭ではなかったせいか、家事は気が付くとゆうきが済ませていた。
もちろんその金はというと、母の振り込む一万と数千円と、僕のアルバイト代だ。それも、電話台の一番上の引き出しに、銀行の袋に金を入れて置いておくだけで、ゆうきに手渡したことは一度もない。
なのに彼女は、見兼ねたように、僕に何の報告もせず、ただ毎日食事を作り生活をしていた。
毎日、当たり前のように、ゆうきのいる家に帰って眠った。
「……ゆうき、は」
え?と間の抜けた声が耳元に聞こえる。
部屋は薄明かりが点いただけで真っ暗で、不自然なローテンポの音楽がかすかに流れていた。
「どうしたの、まさか他の女の子?」
ぺっとりと二の腕に頰をすり寄せて甘い声を転がす。
そうだ、僕にとっては女の子だ。ただの、女の子だ。
はじめてゆうきのいないところで迎えた朝、僕の大事な砂時計が狂い出した。
もちろん今までも女の子と付き合い、暗闇で腰を合わせることは何度もあったが、必ず夜が深いうちに家に帰るようにしていた。
それは妹をひとりにしてはいけないという正義感でも、馴染みの場所に帰るという安心感でもなく。
なのにゆうきは変わらなかった。
丸一日帰らなかった翌日、リビングでテレビを観ながら、いつもと変わらずに、おかえりなさい、と言った。
ゆうきという砂の城が、僕の毎日からひと粒ひと粒奪って出来た脆い城が、どんどん潮が満ちて迫っているというのに。
「ドラえもんの声優、また変わるんだって」
なのに僕の口から出たのは、僕の感情でも世界の事実でもなんでもない、どこにも存在しないことだった。
こんなに何も意図せず嘘を吐いたのも、人生で初めてだった。
「えっ、嘘でしょ!やだー」
もちろん君は、気が付かない。
僕が大学を卒業して毎日スーツを着るようになっても、この家はなにも変わらなかった。
だけど、ゆうきが高校を卒業して働くと言った時、僕の口が、また考えたこともないことをこぼしていた。
「彼女と暮らそうと思ってるし、この家は出るよ」
そもそも彼女とは別れていていたし、なにひとつ不自由のないこの家を出ようとする動機はなかった。
ゆうきは、そうだよね、と言って小さくはにかんだだけだった。
ゆうきが僕にとって何だったのかと聞かれるなら、それは妹だ。
喩えばそれは実家にずっと飾ってあった造花のように、一見ではいつまでも何も変わらないように見える。
僕がゆうきを妹だと言えば彼女は妹で、女の子と言えば女の子になる。いつまでも古くならないし、でも新しくもない。
当たり前のようにゆうきを置いてきた日から、僕の中でゆうきは幻のように、どんどん実像を失っていった。
確かにあるとわかっているのに、いつまでも何も見えない透明な地球儀の上を歩くように。
Fin
透明な地球儀