瞳
あなたはだれ、と問えば、さあね、とはぐらかされる。
「あら、本当は知ってるくせに」
ほつれた髪をかきあげる彼女の瞳から逃れたい。気怠そうな瞼とクマに縁取られた、鋭い光が追いかけてくる。咄嗟に口元に視線を映した。色気のない薄い唇だった。
わたしは知っていた。わたしの頭の中の箱庭と、わたしの暮らす現実世界は必ずしも同一でないことを。そして、それは一致しないことの方が遥かに多いことを。この残酷な世界では、日々が挫折の繰り返しだ。無能さも努力も拒み続けたわたしは、あの日ついに鏡を踏み砕いた。
「もう、観念したら」
わたしを上手に操れないわたしは、わたしに捨てられた。あの日のわたしは知らなかった。瞳を合わせなければ、微細な糸の動きも学べないことを。"彼女"と出会ってからもう随分と年月が経った。なのに、"彼女"はどんな瞳の色だったさえ覚えていない。
「なら、自分で確認したらいい」
あなたは、
自覚している声と、他者が耳にする声はこんなにも違うと知る。今度こそ操れるだろうか。踏み出せば、いつかの錆びた香りがした。
(151111)
瞳