まほらの轍

まほらの轍

 まほらとはほんのりと暖かく住みやすい場所、里、国、都などのことである。『まほろば』と呼ばれるものと意は同じだ。
 古い時代の人々が生活を営んでいた集落跡など、古代の遺跡を指してそう呼ぶこともあるようだ。現代の何もかも押し込まれたような身動きのとれない社会と較べてどこかゆったりとした時の流れを感じさせる古代遺跡は、疲労した現代人にとって美しい理想郷に見えるのかもしれない。
 しかし考えてみればそんな甘いものでもないだろう。どの時代であっても人々が集い暮らすためのまほらを建設するには一方ならぬ苦労や謀略があったと考えてもよかろう。他人より上へ登りたいと考えるのは、今も昔も同じではなかろうか
 だから何処にどのようなまほらがつくられたにせよ、その下には無数ともいえる轍が重なり合っていことだろう。

プロローグ

 備え付けの電話が着信音を響かせた
 ベッドサイドのナイトテーブルに組み込まれた時計を見る。約束の時間にはまだ十五分ほど間がある。リモコンを操作してテレビを消し、緑川隆俊は受話器に手を伸ばした。
「加藤様からお電話ですが」
 フロントの女性の案内に「繋いでください」と応じる。
「加藤です」と名乗った男の声は、何かに怯えているように聞こえた。
「ああ、加藤先生。いつもお世話になっています」
「まずいことになっているかもしれない」
 挨拶も無視して加藤はおどおどした声を聞かせた。
「どうしました? 時間はまだ少し早いようですが」
「身辺を探られているかもしれない」
 加藤は思いも寄らないことを口にした。
「なんですって?」
「いろいろ業者との癒着が取沙汰されている折だ。注意はしていたんだが……」
「何か動きがあったんですか? 先生の身辺に」
 緑川にも加藤の不安が伝わってきた。

 官公庁から発注される委託業務の入札に際し、予め落札業者を話し合いによって決めておく不正が社会を賑わすことがある。談合という行為である。正規の入札をして落札額を業者間で叩き合い、折角計上されている予定額を遥かに下回った金額で受注するくらいなら、密談により決定した特定の業者が発注者の予算満額で落札して利益幅を大きくしたほうが得策というわけだ。入札は幾度となくあるわけだから、次の入札では他の業者に落札させる。これを繰り返すことによって各社とも結構恩恵を受けることができる。どの業者を落札者(チャンピオン)にするかは地域的なものや団体的な部分でルールが作られる。発注額によるポイント制で次回のチャンピオンを決定するルールもあるし、単純にローテーションによるもの、あるいは発注の内容にどこか特定の業者が推奨する用件を含んでいることが明確な場合には営業力評価ということもある。また事前の落札者決定に発注者が絡むこともある。A社に発注したいのでそのようになるよううまく取り計らえというもので官制談合と呼ばれたりする。どのケースにおいても官と民の接点に饗応接待による癒着が生じるため、それが不正発覚の発端になることも少なくない。入札談合は違法な犯罪行為である。公正取引委員会という機関がこのような不正入札行為の監視摘発を行っている。その罰則は刑法によるほか夫々の業者が受注を希望して登録している官公庁が、数ヶ月から数年間の入札参加資格の停止、即ち指名停止処分を科する場合が多い。だから談合は発覚したときには各社とも営業等の受注担当者が自己判断で行ったことにするケースが多い。会社が行為に加担していることが表沙汰にでもなれば、企業としてのダメージが大きいからだ。懲戒処分等で個々の担当に責任を取らせ、会社は痛手を少しでも少なくするのである。
「落ち着いてください」
 緑川は不安でしどろもどろになっている加藤に強い口調で声をかけた。「いったい何があったというんですか?」
「今、ホテルの前の電話ボックスから電話しているんだが、ホテルの前に到着したとき気がついたんだよ」
「何に?」
「俺を監視しているらしい男がいる」
「まさか!気のせいじゃないんですか?」
「ならいいんだが、しかし偶然にもこんなホテルに俺がやってきたのを見計らったように刑事が来るなんてことがあるだろうか……」
「刑事ですって」
「ああ。多摩中部警察署の刑事だよ。しかも大学時代考古学のサークルにいた男だ」
「まあ、偶然だとは思いますがね。もし加藤先生の仰るとおりなら嫌ですね。今日の食事会は中止にしておきましょうか」
 緑川は加藤を安心させるため穏やかな口調に戻した。
「俺はどうすりゃいい? 見張られているとすればここで引き返すのも不自然だろう」
 加藤はまだ心の整理がついていないと言いたげに緑川を頼った。
 緑川は冷蔵庫を開け缶ビールを取り出しプルトップを引いた。
「先生。確か先生の奥様、この春からこの近くの会社にパートで出られてると仰ってましたよね。今日も?」
「ああ。多分」
「今午後五時半です。すぐ奥様に電話を入れてホテルへ呼び出しなさい。いいですか。問答無用ですよ。奥様と話がついたら先生はすぐホテルのロビーに入ってラウンジでコーヒーでも飲みながら奥様を待っていればそれで結構です。もし待っている間にその刑事らしき人物がやってきても、先生は平然としていてくださいよ。奥様と待ち合わせだといってね。そして奥様がやってこられたらホテルの中のレストランで食事でもしてそのままお帰りください。私は顔は出さないことにします。支払いのほうは私がしますのでご心配なく。それから電話でなんですが、明日の落札予定価格、教えていただきましょうか」
 緑川は有無を言わせなかった。
「五千二百五十万円だ」
「ありがとうございます。五千二百五十万円」
 復唱して手帳にメモすると㈱学図舎の営業部長緑川隆俊は「さあ、早く奥様を捕まえてください。連絡がつかなければ次の方法を考えましょう」と笑って受話器を置いた。
 一度消したテレビのスイッチを入れると天気予報が映し出され、台風十四号が勢力を増しながら近付いており、週末には近畿地方に上陸、そのまま列島を縦断し関東をも直撃する可能性が大きくなってきたと報じていた。新しい元号がまだ耳に馴染まない平成元年八月末のことである。


第一章 嵐の爪痕


 台風十四号は予報どおり中心気圧九五〇ヘクトパスカルの強い勢力を保ったまま紀伊半島に上陸、その後各地に大きな被害を与えながら列島を縦断するように進路をとった。関東地方一円を暴風圏に巻き込むころはさすがにその勢力をやや弱めたが雨だけは激しいまま降り続いた。いわゆる雨台風の様相を呈したのだった。

 神奈川県朝川町と佐波原市を分かつ中津川も溢れて僅かだが被害を出した。
 中津川は宮ヶ瀬渓谷を流れ下り、朝川町で山間部を抜け川沿と呼ばれる集落が点在する地域に出る。被害を被ったのはこの地区である。上流に建設中の巨大な総合ダムの完成が待たれている治水的には多少問題のある地域だった。川はさらに下って厚木市で相模川と合流する辺りまで来ると河川管理も完全なものになるのだが、七~八棟が床下まで水に浸かったその集落辺りではまだまだ暴れ川だったのである。
 朝川町と佐波原市を繋ぐ道路は浸水被害が出たこの川沿地区の上流約五百メートルの所と、下流もやはり同じくらいの距離を置いて橋が架けられている。もしこれ以上水位が上がるようならば通行止めなどの措置も考えられていたが、幸いにもそこまでには至らなかった。

 河川敷から登った土手の上を、流れに沿って道路が走っている。その向こうには土手に沿ってわずかな面積の畑地を持った農家が点在している。その向こう側は小高い丘である。
 丘の上の広場に避難場所となった自治会館が建てられていた。
 朝川町自治会館・川沿地区分館は鉄筋コンクリート造りの二階建てだった。一階に町民五十名程度がいろいろな集会などに利用できる多目的ルームと炊事室を置き、二階には大会議室のほかに十名程度で利用できる小会議室そしてリクリエーションルームが設けられているだけの白く塗装した素朴な装いの建物である。 
 夕刻から降り出した雨は徐々に勢いを増し、日付が変わったころにピークを迎えた。中津川の水位は見る間に上がり、深夜一時を回る時刻についに道路が走る土手を越えたのだった。
 幸いにも町が集落に対して避難勧告を出したのが早い時間だったので人的被害は出なかった。そのかわりというのも可笑しいが、自治会や消防団は不眠不休の一日となってしまったのである。
 
 夜が明けて台風が温帯低気圧に変わり東北地方から太平洋に抜けたとの情報が入った。
台風一過という言葉がそのまま当てはまる青空が広がった。
 川沿地区分館多目的ルームとリクリエーションルームに分散して避難していた町民たち二十五世帯およそ百名のうち被害を免れた者たちは、その表情にみな不安の影を宿しながらも夜が明け青空が広がっているのを見てほっとしたように我が家へ戻っていった。会館に残されたのは八世帯。二十六人だった。 災害が思いのほか小規模で済んだので二十六名も午後には帰宅できるという見通しだった。しかし帰宅したあとがむしろ大変で、それを考えると被災者たちの口から零れるのは溜め息ばかりだった。
 自治会館会議室。大きく開けたアルミサッシの窓際に立ち、昨日とは別世界のような強い日差しを浴びながら被害を受けた自治会の代表三名が視察に来るという役場の土木部長と河川係長を待っていた。川沿地区の役員三名はみな若手で、自治会長が最年長の四十一才。窓際に立ち外を眺めている二名もまだ三十二歳と、二十八歳になったばかりの若者である。それぞれ農業で鍛え上げた屈強な体を誇っていたが、被害を最小限に抑えるため消防団の若者たちと力を合わせて住民の避難を誘導したり土嚢を積んだりと休みなく動き回っていたので三人とも疲れきった表情を隠せずにいた。
「それにしてもいい天気になったもんだ」
 嘘のように晴れた青空を見上げて自治会長が忌々しげに呟いた。三人の中ではいちばんとしかさの綿貫信一郎である。
「役場から確認の電話が入りました。水に浸かったのはこっちの集落だけだそうです」
 報告したのは杉崎健二。今は兄夫婦の家に居候を決め込んでいるが、年が変われば三月に結婚が決まっている幸せ只中である。昨夜は台風の中を深夜二時近くまでひとりで監視のため車を走らせていた。水が土手を越えたことを発見し自治会に連絡したのも健二だった。もうひとり、窓際に折りたたみ式のパイプ椅子を置きどっしりと構えて双眼鏡を覗いている男は杉崎健太という健二の兄である。役場やその他からの指示を受け自治会に通達、誘導する役目だった。
「思ったより被害が少なくてよかったな」
 綿貫信一郎は小さな声でいった。
「だけどもうじき収穫だったのにな。全滅でしょう。これから作るっていっても、もう無理だしね」
 健太はまだ水が引ききらない河川敷を見渡した。そこには本来なら収穫期を迎えたトマトや胡瓜、茄子などの野菜を実らせた畑が一面に広がっているはずだった。それが今は濁った泥が覆い、その中にごろごろと作物の残骸が立ち腐れになった無残な姿を曝している。
 健太のいいかたは何か他人事のように聞こえたが、健太兄弟の家も綿貫信一郎の家もともに浸水家屋に含まれている。自治会役員という立場上、客観的に状況を把握しなければばならずそういう言い方をせざるをえないのが辛かった。
 土手の高さは川面から平均すればおよそ三メートル。その上を簡易舗装したような道路が走っている。土手には数箇所に小川のような形で中津川本流に流れ込む用水路の部分があって、道路が途切れるのをコンクリートの簡単な橋で防いでいる。昨夜の豪雨は用水路を逆流して道路のこちら側にある住宅地に溢れたのである。溢れれば宅地まで一気に水に浸かる。溢れずとも大雨が降れば耕地は河川側も宅地側も水に浸かりやすい地区だった。その度に対策を講じようと役場でも話しが持ち上がるのだが結局まとまらない。するとまた次の災害が来る。
 双眼鏡を通して見る光景に健太は住民たちの学習能力の低さを感じた。
「どっちにしてももう少し水が引かなくちゃあ被災状況の確認もできないだろう。役場からのご沙汰を待つしかないな」
 綿貫信一郎は窓際を離れ会議室に戻った。室内には周囲に十二脚の肘掛け椅子を配置した楕円形の会議卓が据えられている。綿貫は窓を背にしたちょうど真ん中辺りの席に腰を下ろした。
「やめちまえばいいんだよ、農家なんて」
 健太も正直な気持を言って立ち上がり、腰かけていた椅子のシートに双眼鏡を置いた。健太は信一郎の正面に席を取って自治会長である綿貫信一郎の目を見た。
「何が云いたいんだ?」 
 杉崎健太がいうことの真意を測りかねた綿貫は健太の目を見つめ返した。健太にしては少し乱暴な言い方だったからである。だが綿貫が見た杉崎健太の目は自分を失っているようには見えなかった。
「何を考えている?」
 綿貫は少し安心してもう一度聞きなおした。
 健二が慌てて綿貫から二つほど間を置いた席に着き「記録しますか?」と緊張していた。兄と自治会長の口調に険悪なものがあると勘違いしたのだろう。
「ばか。まだ会議は始まっちゃいないよ」と、そんな健二を兄の健太が窘める様子が滑稽で、綿貫は笑った。
 健二は照れくさそうに頭を掻いて、会議室の片隅に置かれたポットに入れた茶を取りに立った。
「ダムの完成がいつになるかはっきりしないからですかね。改修予算を付けたがらないわけじゃないのでしょうが。上流でコントロールできるようになればこの辺りの治水も良化すると踏んでいる。だから今、町が実施するのは時期尚早。暫く様子を見ようってことなんでしょう」
 弟が席を立ったのをきっかけに、杉崎健太は努めて冷静に質問した。
綿貫は否定しなかった。
「予算取りにあまり熱心じゃあないのはそのとおりだな。河川敷を畑として使うのを黙認しているのもそのためかもしれん」
「俺もそう思いますよ。……そればかりでもないでしょうがね」
 健太は同意して「綿貫さん。俺、今年度に入って五月に法務局に行って地籍図を閲覧してきたんです」と続けた。
「驚いたろう」
 綿貫は一瞬ふっと含み笑いをして平然といった。それだけで健太が何を言いたかったのか理解したようだった。
「そりゃびっくりなんてもんじゃなかった……。道路から川側に入ると作付けしている畑の部分でも七~八割までが町有地だったなんて知らなかったから」
 健二が三人分の茶を入れて戻った。茶を配り終えて席に着くと健二はふたりの会話に興味深げに耳を傾けた。
「俺も何年か前に知ったんだが、やはり驚いた」
綿貫自治会長はそう前置きしてから「なるほど。健太君はそれこそが町が治水に消極的であるにも拘らず住民側にも強い不満が出ない原因と考えたわけだ。もともと町の管理地に勝手に耕作しているわけだから、その区域については被害の補償も不要だろうし治水対策も最低限やっておけばいいことになる」
「その通りですよ。しかも被害が出るのはいつもこの辺りの僅かな区域に集中するでしょう。住民にしてみれば踏んだり蹴ったりだ」
 杉崎健太がそこまでいって湯飲みの茶を一口飲んだとき「お待たせしました」と声が聞こえ会議室のドアが開いた。会話は一時中断となった。

「いろいろと大変だね。綿貫くん」
 先に入ってきた恰幅のよい男が労いを云って「どうかね自治会の取りまとめのほうは?」と付け足した。朝川町土木部長・柳田邦夫である。柳田邦信は与党の国会議員柳田宗助の長男でありその力を利用して町政に口を出すこともできる有力者とされ、一目置かれた存在だった。自治会の若い三名の役員とも柳田邦信に対してあまりよい印象を持ってはいないように見えた。それでも災害復旧には必要な人物であることも事実で、邪険に応対するわけにも行かない。
「取り纏めのほうは何とかなりそうですが……」
「問題のほうはこの河川係長から総てクリアできたと報告があった。そうだな、田辺くん
 柳田は後から部屋に入ってきた痩身の若い男に顔を向け、確認するような言い方をした。
 柳田に念を押された入所三年目の河川係長は「はい。総て大丈夫でしょう」と頼りない返事をした。
 田辺明夫は朝川町役場に勤務して三年に満たない、まだ二十代半ばの青年である。定職にもつかず遊び歩いていた所を柳田が個人的縁故から止む無く預かった男だった。仲間数人と組んでは騒音を立てながらバイクを乱暴に乗り回したりるするのたが、ひとりでは何もできぬような気が弱く神経質な性格を持った若者である。それでも柳田邦信が目をかけ土木行政のいろはを叩き込むと驚いたことに忽ち頭角を現し、わずか二年で誰から後ろ指差されることなく係長に昇進した。
 田辺としても柳田に付き従ってさえいれば楽に出世できるとでも考えたのか、その指示することには素直に従う主従関係のようなものが出来上がって行った。
「パイプの掃除も終わったわけだ。まあ、あとは上手くやってくれ」
 土木部長は意味ありげに綿貫の肩をぽんと叩いて「向こうか?」と広い窓を指差した。
「被害状況をご覧になりますか?」
 杉崎健太は準備してきた小型の双眼鏡を取り出して二人それぞれに手渡し「こちらからよく見えます」と、返事も聞かず窓へと誘った。
「ご存知でしょうが土手の先の河川敷。そして中津川です。被災地は土手のこちら側。八棟が床下浸水しました」
「八軒だな」
 土木部長はほっとしたような声を出した。
 健太はなんだかばかばかしくなって何気なく双眼鏡を対岸に向けた。川向こうは川面から最上部までの高さが五~六メートルはありそうな段丘状の地形だった。鬱蒼とした丈の長い雑草に覆いつくされている。人工の建造物等がまったく見当たらず原野の様相を呈している。それはあの一角が市街化調整区域で、すべての開発行為が認められていないためである。
 のんびりと対岸を舐めていた健太の双眼鏡を持つ手がぴたりと止まった。双眼鏡の丸い画角の中に、杉崎健太が予想だにしなかったものが飛び込んできたのである。
 段丘上部から一筋、表面を覆っていた雑草が川の中に崩れ落ちるように削げている部分があった。土砂が小さく崩れ落ちた跡のように見える。その痕跡はそのまま河の濁り水の中に傾れこんでいた。時間が経つにつれて水位も随分下がり川底の岩なども大きなものはようやく水面に姿を戻しかけている。少しずつ大雨による異常事態も平常時に戻ろうとしていた。そのような落ち着きかけていた風景の中に、健太はあってはならないものを発見したのである。
 雑草を剥ぎ取って崩れ落ちた倒木混じりの土砂の中に、それは右半身を埋めるような恰好で横たわっていた。双眼鏡の視界は明瞭で健太にもそれが人間の体であることは一目瞭然だった。
「ああっ!あれ。あれ」
 良太は思わず甲高い叫び声を上げて窓の外を指差し、自分の双眼鏡を綿貫に渡した。
 土木部長と河川係長も夫々の双眼鏡を健太が凝視する地点にむけた。
「あれは……」
「まさか……」
 二人の口から驚きの声が零れる。
「救急車。いや、警察を呼んで!」
 綿貫信一郎は健太に大声で通報を指示した。健太は頷いて自治会館の事務室へと急いだ。



 遺体の身元はすぐに判明した。
 身に着けていた作業服の胸に(剤)佐波原市埋蔵文化財センターの刺繍がなされていた。身分証明書や運転免許証こそ携帯してはいなかったが、問い合わせると意外にも至急確認させて欲しいという冷静な答えが返ってきた。警察のほうから逆に「何かありましたか?」と質問を返したほどだった。
 野上博之という埋蔵文化財センター事務次長の説明するところによると、今朝早く埋文センターに電話があった。たまたま早出していた事務次長がこれを受けた。電話は加藤清志という調査課長の妻からだった。
 昨夕七時頃、仕事の関係らしき電話があり「急用だ。すぐ戻る」と舌打ちするようにいって大雨の中に飛び出して行ったきり主人が戻らないというのだ。
 昨日は日曜日。しかも大雨の最中である。センターももちろん休日で出勤者などいないはずだ。とにかく心配していても埒が開かないので、奥さんに付添って警察署まで相談に行こうとしていた矢先だった。
 事務次長はてきぱきと説明した。
 電話で呼び出された可能性があるという証言から、一応事件性も疑ってみた佐波原市警察署刑事課の遠藤大吾警部補が担当になった。
 遠藤刑事は今一度埋文センターに電話を入れ事務次長を呼び出した。
「あ、野上次長さんですか。佐波原市警察署の遠藤と申します。いや、先ほど署の者がすぐにでもご足労頂きたいと申したようですが、警察の検証などもありますのでご確認いただけるまで少し時間がかかると思われます。こちらは場所も手狭でお待ちいただく場所もないあり様でして……。もしよろしければこちらから迎えの車を差し向けますので、それまでセンターのほうでお待ちいただけませんか?」
 そういって相手を納得させると遠藤刑事は部下にふたりを三十分ほどしてから迎えに行くよう命じた。

 遺体は市立総合病院に運ばれストレッチャーの上に白布がかけられた状態で横たわっていた。監察医がが立ち会っているのは死因に不審な点があって司法解剖が必要となったときのためだった。しかし病院の医師もその監察医も、遺体の状況から見て段丘の上から誤って足を滑らせ、増水した川にはまり溺死したものだろうと判断した。
 遺体についた傷は段丘から泥とともに滑落したときのものと思われる擦過傷程度のもので、致命傷とは考えられない軽度のものしかなかった。筋肉の状態を見ても争った痕跡もなく、突然訪れた自分の死を甘受したように無抵抗な様子を呈していた。
 大嵐の日曜日に何者かに呼び出された。この部分にきな臭いものを感じた遠藤大吾刑事は四十五才、脂の乗り切ったベテランである。その彼をしても、ここまでの少ない情報だけではそれが単なる事故などではないと決め付けることはできなかった。
 遠藤大吾が病院の外に出て煙草を燻らせていると部下の猿橋弘毅という今年入署の若手が「所見が出ました。それから埋文センターから身元確認の二名があと五分ほどで到着するそうです」と告げた。
 急いで担当医の部屋に戻ると白衣を着けたまだ学生のような若い担当医が遠藤に遺体観察所見と絹いいしたA四判の封筒を渡した。
「どうやら単純な事故死に間違いなさそうですなあ。やはり」
 所見に協力した年配の監察医が、帰り支度を整えた姿で近付き「家を出たのは仕事ではなくて、飲みに出たのかもしれんな……ウイスキーをストレートでほんの少し飲んどるようじゃ。まあここから先はそちらの仕事ですかな」と愉快そうに笑った。
「あ。どうもご苦労様でした。おひきとり頂いて構いません」
 遠藤刑事が突き放すと監察医はむっとして乱暴にドアを閉めて帰っていった。

遠藤大吾も若い担当医に礼を言って、受け取った書類を鞄に入れ部屋を出た。身元確認のため二人が到着したら霊安室の前で待たせておくよう指示していた。地下一階にある霊安室に向かって歩を進めながら加藤清志という男の死をシミュレーションしてみた。

―― 夕刻七時。加藤清志宅の電話が鳴る。妻が電話口に出ることも考えられるから男性の声だ。多分バーテンとかボーイに電話させているのだろう。
 男はいう。
「埋文センターの加藤課長のお宅ですね。課長はご在宅でしょうか?」
「はい加藤です」
 妻から受話器を受け取って機械的に告げると相手の声も変わる。
「加藤先生? 私です」
「あっ。はい。分ります」
「ネ、先生。今晩台風でしょ。お店に出てきたんだけど誰もいないの。先生、出てこられません? ひとりじゃ怖くって……」
 おそらくこれが呼び出しの内実だろう。となると女はどこか加藤が贔屓にしているクラブかスナックのママということになりそうだ。
 加藤清志はこうしてまんまと夜の仕事に引っ張り出されウイスキーを飲みながら甘いひと時を過ごすことになるわけだ。そして十一時半か午前零時か知らないが加藤は突然「帰る」と言い出す。
「泊まってってもいいのよ」
 ママはそう言って甘えるが、加藤にそうする勇気がないことをよく知っているからこその誘いである。
「タクシー、呼んで」
「はいはい。仕方がないわねぇ」
やがて到着したタクシーに揺られ自宅へと向かう。ようやく雨が降り止んだテラテラと濡れ光る路面を車は走り、加藤の家がある新興住宅地区に近づいていく。
 右手一面に、まだ住居の張り付きこそ疎らだが機能的に区画整理された宅地が広がっている。左手は原野のままの市街化調整区域である。
 ここまで来たとき加藤清志は何かを思い出した。それが何であるのか遠藤大吾には皆目見当がつかない。しかし加藤には原野の中に今すぐ確認しておかなければならない何かがあったはずなのだ。
「ここで止めて」
 加藤はタクシーから降りて原野にこぎ入った。自宅までここからなら歩いても十分か十五分程度だろう。そんな安心感がアルコールの効果を高め、原野の散策を大胆にしていく。そしてついに加藤は段丘が下のテラスへと落ち込む際に辿り着いた
 対岸の丘の上に建つ朝川町自治会館の屋上には照明灯が置かれ川面を照らしている。増水しているので警戒しているのであろう。足元を覗くと普段ならば遥か下にそれほど広くもない川幅の中津川が流れているのだったが、今は下のテラスまで溢れそうな水位になってゴーゴーと流れる水音を轟かせていた。
 その瞬間足元がゆらりと揺れた。
「土砂崩れ?」
 すっかり酒で麻痺した加藤の脳細胞がそれに気付いたときは既に手遅れだった。加藤の体は雑草を含んだ大量の泥とともに増水した川へと滑落していった。 ――

「完璧だ。不自然さもまったくない。この一件はやはり医師たちが言うとおり事故ということで問題あるまい」
 この推理には一部誤りのあることが後に分かった。加藤が出かけたとき、タクシーではなくマイカーを使ったことである。そしてその車は加藤が遺体で発見された地点に程近い道路上で発見されている。
「うん。事故だ」
 思わずそう声に出しかけたとき遠藤大吾は自分が地下一階の長い廊下を進みしっとりと冷たい気配が漏れる霊安室の前に着いたことに気がついた。

 部屋の前には肩をがっくりと落とした女がやせた初老の男に支えられるようにして遠藤刑事を待っていた。
 遠藤が近寄ると男は名刺入れから名刺を一枚抜き出し恭しく差し出した。
「埋文の野上博之と申します」
 名刺の肩書きを見ると(財)佐波原市埋蔵文化財センター事務次長とあり、その横に括弧書きで副所長となっている。
「所長が事務長を兼任しているものですから」
 野上博之は聞かれもしないのに余計なことを言った。自分がナンバー2だとでも言いたかったのだろうか。
「奥様ですね?」
 遠藤は野上博之を無視して女性のほうに声をかけた。
 女がこくりと頷いて「加藤瑞穂と申します。このたびは主人がご迷惑を」といいかけるのを遠藤は制した。
「いや。まだご主人と決まったわけではない。まずはお会いいただいてから……」
 遠藤大吾は慰め、霊安室のドアを開くと先に立って室内に入った。
 部屋はまったくと云ってよいくらい何も置かれていない殺風景な部屋だった。一隅に人間が取り囲むことができる位のスペースを空けてストレッチャーに乗せられた遺体が、白い布で覆われて横たわっている。枕元に小さな台を置いて、上に乗せた白い陶器の香炉に線香が灯されている。
 遠藤刑事に続いて加藤瑞穂と野上博之が部屋に入ると、最後に白衣をつけた病院の職員がドアを閉め安置した遺体の横に進んだ。
「ご確認ください。間違いであれば良いのですが……」
 遠藤が瑞穂を促すと瑞穂は気丈にも遠藤大吾の目をしっかりと見て頷き、遺体の顔のほうに近寄った。遺体の横に立った職員が恭しく合掌してから遺体の顔にかけた布を捲った。
 加藤瑞穂は遺体の顔を覗き込むと右掌で口を覆った。
 その気丈さもここまでだった。やがて瑞穂の口から嗚咽が漏れ始め、それはやがて号泣へと変わっていく。このような場面には幾度も立ち会ったことがあるけれども、遠藤大吾は辛い役目だと自分の立場を呪った。

 遠藤刑事はいたたまれなくなって瑞穂と野上を残したまま部屋から出た。ドアの横に猿橋弘毅が立っていた。遠藤が黙って頷くのを見て、猿橋は「お気の毒です」と目を伏せた。
「あの姿を見るたびに、もし事件なら犯人をかならず上げてやろうと心に誓うんだよ」
「大吾先輩の根性の原点というわけか……」
 猿橋刑事はしみじみそう云うと突然思い出したように「あ、そうだ。先輩つい今しがた着衣のポケットにこれが入っていたと。事件性がないのならば向こうに返さなければと思いますが?」
 そう云って猿橋が遠藤大吾に手渡したものはビニル袋に入れられた植木鉢のかけらのようなものだった。遠藤は袋から親指大のかけらをひとつつまみ出してみると、それは植木鉢よりも分厚い品質も劣悪なものでぼそぼそしており、しかも表面には何かを押し付けたような細かな凹凸がびっしりと並んでいる。そのような欠片が大きなものは掌の半分はあるものまで含め全部で十個ほど入っていた。
「何だ、これは?」
「縄文土器の欠片だそうですよ。うちのスタッフにも詳しいのがいました」
「縄文土器だあ?」
 言葉では聞いたことがあったけれど実際に見るのは初めてだったあ。遠藤は袋から大きな破片をもうひとつ取り出ししげしげと見つめた。言われて見れば表面についた凹凸は縄の目を押し付けて転がしたようにも見える。
「縄文土器ねえ……」
 知識がないので後のことばが続かない。
「まあ縄文土器というからには埋文センターのものになるんだろうな。だからあと何日かして死因に事件性がないということになったら、仏さんの所持品ということで返してやればいいだろう」
 遠藤は土器片をビニル袋に戻し猿橋弘毅に渡した。


  3
 後輩の結婚披露宴で総合司会という大役を無事に務め終えた多摩中部警察署の刑事・柏崎一茂は控え室で新郎新婦や親族に挨拶を済ませて室外に出るとふうと大きく息をついた。
 披露宴をどう演出するかも会場の仕事なのだから専属のプロに任せるのが無難なのたが、手作り感のある披露宴にしたいという新郎新婦の達ての希望で、総て仲間内で行うことになったのである。もちろんそこには少しでも経費を安く上げその文を新婚旅行にでも回そうという目論見があることは明白だった。
 会場のほうもそのあたりはよく弁えていて、にわかスタッフたちを宴席が盛り上がるように専属のプロがそれとなく誘導するから、そうそうひどいことにはならないようにできている。なぜ経費をかけてまでそんなサービスをするのかといえば、下手にまごついて予定時間が長引いたりしては会場としてもそのほうがはるかに痛手が大きいという単純な理由からである。どちらにしても披露宴は盛会の内に幕を閉じた。

「一茂」
 自分を呼ぶ声に柏崎一茂は振り向いた。
 スーツ姿の初老の男性が待ち構えていた。同僚の高槻彰刑事である。同僚と云っても高槻刑事は一茂より二十歳も上。刑事としても大先輩である。
「あ、ショウさん。待っててくれたんですか」
 一茂は嬉しそうに高槻の愛称を口に出して頭を下げた。
「なかなかのものだったぞ。司会ぶり」
「いやあ、お恥ずかしい……。もう二度とやりたくはないですよ」
 一茂が照れて口を尖らせるのを見て高槻は少し笑い「今夜はもう用無しだろ。どうだ玉暖簾にでも行って一杯やらんか?」と誘い水を向けた。玉暖簾というのはホテルからさほど遠くない繁華街にある、高槻彰と柏崎一茂がよく利用する居酒屋の名前である。
「いいですねえ。まだ七時ですしね。帰るには早いと……」
 意見がまとまり、まるで親子のようにも見える二人の刑事は肩を並べてロビーからホテルの出口へと歩を進めた。
 そのとき――
「ショウさん。ショウさんですよね?」 
 声のほうを振り向くと回転ドアのすぐ脇に自分たちと同じくらい年が離れているように見える背広をきちんと着こなしたふたりの男が立っていた。
 年かさの男が高槻に近付いて「人違いならばすみません。ショウさん……いや、高槻彰さんでは?」と、懐かしそうに目を細めた。
「はい、高槻ですが。あなたは?」
 相手の顔をしげしげと見つめてそこまでいいかけた高槻の瞳の中に。記憶の火が灯った。
「き、君は。もしかしたら大吾くんか」
「はい。大吾です。遠藤大吾です。思い出していただけましたか」
 遠藤は泣き出さんばかりに声を詰まらせ、笑顔を見せた。
 高槻彰、遠藤大吾の両刑事は両手をがっちりと握り合った。一歩引いて夫々の後ろに控えた柏崎と猿橋にもその感動が伝わってくるようだった。

 三十分後、四名の刑事たちは揃って花富士の暖簾をくぐった。花富士とは一茂の従姉夫婦が営む小料理屋である。場の雰囲気から推し量って、予定していた大衆居酒屋の玉暖簾という訳にはいかないだろうと一茂が予約を入れおいたのである。
 店に入ると四人は八畳間ほどの個室に通された。女将がビールをそれぞれのグラスに注いで部屋を出て行くと高槻彰刑事が「再会を祝して」とグラスを手に取った。
「いや、私らにとっては確かに再会を祝してですが、この若いふたりは初対面だから」遠藤はそういって笑う。屈託のない笑顔であった。
「固いことは抜きだ。とにかく乾杯」
 高槻彰の音頭で四人はグラスを合わせた。
 猿橋が突然の宴席にまごついているのを見て遠藤が執り成すように口を開いた。
「紹介しておきます。ショウさん。こいつはうちの新入りで猿橋弘毅といいます。まだいろはも覚えちゃあいないので何かと教えてやってください」
「猿橋弘毅です。よろしくお願いします」
 高槻彰は笑顔で頷いた。
「柏崎一茂と申します高槻刑事にいろいろと教えてもらっています。がさつ者ですがお見知りおきを」
 一茂は自ら名乗り遠藤大吾のグラスにビールを注いだ。
「今日は結婚式の司会っちゅうことで髪の毛もきちっとしてますが、いつもはぼさぼさの長髪で」
 高槻彰が渋い顔で一茂を評すると、遠藤は「個性の時代ですから、まあ結構じゃないですか」と笑って見せた。
 遠藤は一茂が注いだビールを一息で飲み干し「今日披露宴も終ろうとするころになってショウさんがいらっしゃることに気付きました。と云っても二十年も前の記憶ですからね。もし違っていたらご迷惑かと躊躇しておりました。そうしたら柏崎さん、あなたがショウさんと呼びかける声が聞こえたのです。それで決心がついて……」
「そうかい。あれからもう二十年かい……大変な時代だったなあ」
 高槻は遠藤にビールを注いでもらいながらしみじみといった。
「そうですよ。封鎖解除の指令が出たのが一九六九年。今年が八九年だからちょうど二十年前のことです」
 ふたりは揃って遠くを見つめるようにして頷きあった。
「失礼します」と声がして襖が開き、女将が酒と料理を運んできた。女将が大きな座卓の上に並べるのに目をやりながら「今、披露宴でたらふく食べてきたので料理は軽いものでいいよ」と高槻が言うと、女将は「おやまあ。そんなこと仰らずに、たんと召し上がってくださいな」と笑って戻っていった。
 女将が出て行ったことを見とどけた柏崎一茂は上着を脱いで簡単にたたんで脇においた。
 一茂は少し身を乗り出して卓上から地酒を入れたデキャンタを手にとり「遠藤さん、酒にしませんか?」と勧めた。
「あ、これはどうも」
 嬉しそうに顔を綻ばせて遠藤は手元に置かれていた江戸切子のぐい呑みを手に取った。
「俺ももらおう」
 高槻が云うのを聞いて遠藤が一茂からデキャンタを受け取り、そのぐい呑みに酒を満たした。
「これは、どうも」と遠藤から酌を受け高槻は一気に飲み干した。
 猿橋が横でぼんやりしていることに気付き、遠藤は「お前がもっと気を配らんか!」と云って若い刑事を一喝した。
「まあまあ、経験してすぐに慣れますって」
 一茂が執り成し猿橋を庇うと、今度は高槻が透かさず遠藤を援護する。
「何を偉そうに。お前だって同じようなもんだろうが」
「ひでえな。けどまあそうっすね……。ところで二十年前、いったい何があったんです?」 まともにぶつかり合っていては勝ち目がないとばかりに柏崎一茂は話を変えた。
「まったく、交し技ばかり上手くなりやがって」
「まあまあ、ショウさんそう云わずに。二十年前のこの国がどんなだったかを伝えるのもわれわれの役目かもしれませんからね」
 遠藤に言われて高槻彰は酒で少し唇を湿らせてから大きく頷き、老兵が語ろうとすることを興味深く待つ一茂に視線を向けた。その視線は子を慈しみ父親のように優しく穏やかなものだった。
「確かに大変な時代だった。」
 高槻彰は話し始めた。
「二十年前といえば……シゲ、おまえ今年何歳になる?」
「三十二才ですが」
 云って、一茂は高槻に酒を勧める。
 猿橋もそれに習って自分の上司のぐい呑みに注いでいた。
「うん。つまり二十年前といえば、俺がちょうど今のお前くらいのときだ。大吾くん、いや失礼、遠藤くんと知り合ったのは……。ベトナム戦争が泥沼化して、反安保の気運が高まり、学生自治や大学民主化を振りかざすセクトが数多く現れた。それらのセクトによる学生紛争がピークを迎えたときだったな。都内だけでも五十校以上の大学で学生たちによるロックアウトが行われていた。その中でも東京大学のバリケード封鎖は社会問題になっていた。前年の七月二日に安田講堂が占拠されて以来、ほぼ半年間機能を止めている異常事態だ」
「ロックアウトって何のことです」
 いちばん若い猿橋が口を挟んだ。
「大学のバリケード封鎖だよ。授業をさせない、受けさせない。そういう強硬手段で大学の機能を麻痺させる目的だ」
 遠藤大吾が簡単明瞭に説明した。
「そんなことして何になるんです? 意味が判らない」
「俺だってわからねえよ。ただ言えるのはみなぎらぎらしていた。向こうもこっちもな」
 遠藤は苛立ったような物言いをしたが、それを抑えて再び高槻が話を続けた。
「そう。俺もそう感じるよ。みな自分のしていることに真剣だった。と言うよりもわき目もふらずに猛突進しでいた。俺にはそう見えた。……警察側の俺たちは学生たちのそういう行動を苦々しく思っていたんだが、小競り合いはあったものの待機の毎日を強いられた。何分にも大学という自治の中だ。迂闊に踏み込むこともできなかったんだろう」
 高槻彰は遠い昔を懐かしむように目を細めた。
 遠藤大吾はただショウさんの話を確認するように首を縦に動かしていた。
一茂は話を聞きながら猿橋に視線を送り、デキャンタが空になっていることを伝えた。猿橋はすぐ理解して、傍らにおかれたインターホンで酒を追加した。
「正月気分もまだ抜けきらない翌年、一九六九年一月十七日の朝、本庁から突然実戦体勢を整えて待機の指示があった。行動に関しては指揮官の命令を待てという。俺は大学側から本庁に設置されたバリケードを撤去するよう正式依頼があったなと、すぐに気がついた」
「安田講堂事件……」
 一茂はひとり言のように呟いた。言葉だけは聞き覚えがあった。
「そう。その安田講堂のバリケード撤去のときに俺は初めてショウさんと出会ったんだよ」
 遠藤大吾が高槻の話を引き継いで「こっちは八千五百人。学生側はせいぜい二千。あっという間に決着がつくものと高をくくっていたんだ。それがあんなことに」
「でも、勝ったんですよね」
 一茂が遠藤に訊ねると遠藤は一度身震いして「何を以って勝ちというのかね? 確かにバリケード封鎖は解除したよ。二日間もかけてね。それも機動隊側に七百人もの怪我人を出してだ」と答えて力なく笑い、さらにつづける。「年齢的にもそれほど開きのない双方。しかも直接ぶつかり合っているのは、お互い何故そういう行動をとらなければならんのかさえよく理解していないレベルの捨て駒に過ぎん。思想とか最終目的とか全体を把握する中枢なんてのうは、いつだってもっと高い安全なところにいるんだよ。だとすれば、ここでぶつかり合っている双方の内こっちは飼い犬、向うは野犬の群れ。どう考えても向こうのほうが本気(マジ)だろうさ。機動隊は訓練を積んでいると言っても躾けられていただけの話。どんな時でも相手を侮っちゃいかんということだろう。その事を教えてくれたのがショウさんだった」
「俺は何も教えちゃいないよ」
 高槻が照れくさそうにそういったとき女将が追加した酒と焼き魚を運んできた。
「なんだかお話が弾んでいらっしゃいますね」
 女将が愛想を云うと高槻は笑って「二十年ぶりだからね、積もる話もあるさ」と、それとなく退けた。
女将は機嫌も損ねず「おやまあ。殿方同士どうぞごゆっくり」とすぐに退散した。
「いや、あのときのショウさんは凄かった」
 遠藤は今まさしく一九六九年一月十八日に舞い戻っているように見えた。
「おびただしい投石と火炎瓶が降り注いだ。こっちの身を護るものはジュラルミン製の盾とヘルメットだけ。恐ろしくて足が竦む。そのとき俺のすぐ横に立っていた男が、何を思ったのか被っていたヘルメットを外したんだ。その途端学生が抛った石が額を直撃した。真っ赤な血が迸った。怪我をした若者は救護班によってすぐ運ばれていったが、俺たちはその様子を目撃して一気に燃え上がってしまったんだ」
「分る……」という猿橋の呟きは無視して「俺たちは五人か六人のグループを作って仲間に怪我を負わせた学生たちの何人かに警棒を振りかざして襲い掛かった。俺たちの気迫が余りに凄かったのか、学生たちは逃げ出した。そのとき連中の中の一人が躓いて転んだ。俺たちはその若者を取り囲んだ。仲間にけしかけられた俺は、腰を抜かしているその学生に警棒を振り上げた」
 そこまで話を進めた遠藤の目に涙が浮かんでいることに一茂は気がついた。どうやら猿橋も気がついたと見え心配そうに一茂をちらりと見た。一茂は黙って頷いて見せた。
「選手交代。と、馬鹿でかい声がして俺の振り上げた警棒が抑えつけられ、毟り取られるように手から離された。俺の手から警棒をもぎ取ったのがショウさんだった。ショウさんの声が威圧的だったのと、見るからに落ち着き払っているのを見てみな静まった。――俺がやる――突然ショウさんはそういって俺から取り上げた警防を振り上げると、一気に学生の脳天めがけて振り下ろしたんだ。ショウさんの行動が素早かったのと思いも寄らぬ動きだったので俺たちはなす術なく無残な結末を思い描いて皆目をつぶったんだ。恐る恐る目を開けると、ショウさんが振り下ろした警棒は、恐怖で小便を漏らした学生の脳天まであと五センチのところでぴたりと泊まっていた。俺はショウさんがそのあと云った言葉が今でも忘れられんのさ」
「よせよ。照れくさいから」
 高槻がしきりと照れるのに構わず遠藤は言い切った。
「ショウさんはこういったんだよ。 ――向こう側も俺たちも同じことをしているとは思わんか? 心底からこの社会をどうこうしたいなどと考えているものはこんな所にはいない。俺たちにしても同じだろう。しかし同じであってはいかん。スポーツにルールがあるように社会にもルールがある。相手がルールを破ったとしても、こっちも破っていいということにはならんのだ。どっちが正しいとか言うことではない。そんなこと以前の問題なんだ。あいつらの中にもやがて卒業すれば俺たちのところにやってくるものもいるだろう。反則を反則で返してばかりいたら、受け入れる心を忘れてしまう。怒りを覚えるのは止むを得ない。だがそれをそのまま返すのではなく、寸止めして抑えることを知れ―― 一瞬空気が張り詰めたように感じたよ。そこにいた隊員たちは皆、ショウさんのその言葉を重く受け止めたと思うんだ」
「ふん。そんなこと言ったかね?」
 高槻はいつの間にかぐい呑みからコップに変えた酒を飲み干した。
「ショウさん。凄いですね」
 猿橋が感動して少し声を上ずらせながら云って高槻のグラスに酒を満たした。
「お前がショウさんなんて呼んじゃあ失礼だろうが。このばか者」
 遠藤大吾が部下を強く叱り「申し訳ありません。教育不足で」と頭を下げた。
 高槻は「構わんよ。そのほうがいい」と、笑って見せた。
「でもそのときから二十年間、何故一度も?」
 一茂は疑問を口にした。
「それからおよそ三ヶ月ショウさんには本当によく面倒を見てもらいました。ところがその年四月の年度替りに……」
「異動ですか」
「ええ。私は静岡県警、ショウさんは確か埼玉でしたか。始めのうちはときどき連絡を取り合っていたんですが、私もその後転勤また転勤で、次第に行方不明みたいになってしまいましてね……」
「そうだったんですか。それが今日それぞれの職場の若い二人のおめでたい席で偶然に再会したと言うわけですか。なんとも不思議なものですね」
「まったくです。エニシというものですかね」

 女将が顔を覗かせた。
「お酒はもうよろしいかしら」
 高槻と目で相談して一茂が「それじゃ、あと一本だけ」と注文する。
 注文を受けて女将が戻りかけるのを猿橋が呼び止めた。
「あ、ママさん。煙草ください」
「煙草は置いてないんですよ。でも近くですから買ってきましょう。なにがよろしいの?」
ママは微笑んで猿橋に云った。
「じゃ、マルボロを頼みます」
 猿橋は傍らに置いたサイドバッグを開き札入れを取り出そうと手を入れ当りをつけるとそのままグイと引いた。財布に引っかかっていたらしいビニールの子袋がいっしょに飛び出した猿橋が財布から千円札を一枚取り出して女将に渡すと、女将は受け取り「マルボロでしたわね」と確認して部屋を出て行った。
 猿橋のサイドバッグから零れ出たビニール袋に一茂は興味を持った。袋は無色透明な何処にでもあるビニール袋だったので中身は透けて見え、それが何であるのか一茂には一目瞭然だったのである。
「面白いものを持ち歩いているんですね。土器片じゃありませんか。それも縄文だ。もしよければちょっと見せていただけませんか?」
「支障ないだろう。見せて差し上げなさい」
 遠藤にそういわれて、猿橋は結び目を解いて袋ごと柏崎一茂に手渡した。一茂は袋から土器片を指でつまんで取り出してじっくりと観察するように見つめた。
「四千五百年ほど前の土器のようだ。加曽利E式と思います」
「ほう。お詳しいんですな。研究なさっていらしたんですか?」
「興味があったと言うだけですよ。大学時代に研究会に入っておりました」
「じつはその土器はですね、一週間前の台風のときに増水した中津川に誤って転落して溺死した考古学者が所持していたものなんです。着衣のポケットに無造作に入っていました。ただ事故であると確認できたものですから明日にでも返却しようと考えておりました」
「佐波原市の考古学者? 亡くなったと仰いましたね。 どなたですか、それは?」
 一茂は膝を乗り出した。
「佐波原市埋蔵文化財センターの調査課長を務めておられた加藤清志氏です」
「何ですって」
  柏崎一茂は驚いて手に持った土器片を畳の上にポロリと落とした。


  4
 翌日、多摩中部警察署の柏崎一茂刑事は、ペアを組んで仕事をしている大先輩の高槻刑事から許しをもらい、神奈川県警佐波原市警察署の遠藤大吾刑事に同行して佐波原市埋蔵文化財センターに向かった。加藤清志の死に不信を抱いたわけではない。管轄も異なるわけだから同行の理由は捜査ではなかった。もし共同捜査ならば手続きはもっと大袈裟なことになり、高槻彰からの許可くらいではもちろん済むはずもなかった。つまり高槻彰の許可というのは「分った。今日はヒマだから俺一人で十分だ。見て見ぬふりをしておくから、好きにしてこい」ということである。
 遠藤のほうも同じで、公式には誰も受け入れてはいない。たまたま同じ目的地に行こうとする友人を内緒で同乗させてやる程度のことだった。昨夜の宴席で佐波原市警察署と多摩中部警察署の合わせて四人の刑事たちは、まるで古い友達のように打ち溶け合っていた。
 加藤の死が自然災害に巻き込まれての溺死だと言うのならば、それは何に当り散らすこともできない。気の毒とか不運というよりないのだろう。しかし加藤はいったい何の目的があって事故が起こるまでに増水した流れに近付いたのだろう? あの用心深かった人がそんなところまで迂闊にも足を踏み入れたりするものだろうか……。一茂はふとそんなことを思った。
 溺死したという加藤清志は一茂の大学生時代の先輩で、所属していた大学内のサークルである考古学研究会の代表だった。一茂が入学したとき第四学年と云っていたのを覚えているから部活での付き合いも僅かに一年間ということになる。
 その僅かな期間に一茂が知った加藤清志の人となりは、必ずしも好ましいものではなかった。我を押し通し、その行動の結果が良い方に出たときは自らの功績ばかり主張し、反対に失敗した場合にはその責任を他人に転嫁する。そういう種類の男だった。そう感じたのはどうやら一茂ばかりではなかったらしく、学友たちや加藤を知る様々な人たちからもよい噂は一度も聞いたことがなかった。
 えてしてそのような人間ほど社会に出てからは上にはよい側面しか見せないので、仕事ができると判断され出世の糸口を上手くつかまえる。踏み台にされる下の人間にしてみればたまったものではない。未だに正義感の塊のような一茂にとって、それはもはや犯罪と対峙したときのような強い憤りを覚えるものだった。

「遠藤さん、亡くなられた加藤清志という人物は、私の知る限りではそういう男でした」
 一茂は埋文センターへ向かう道々、遠藤刑事に自分が知っている加藤清志について話した。
 遠藤はじっと目をつぶって話を聞いていたが、一茂の説明が一区切りついたところで口を挟んだ。
「それを私に教えてくれたと云うことは、一茂くんは加藤の死を事故ではないと考えているのかね?つまり敵が多かったと……」
「いいえ、とんでもない」
 慌てて否定して一茂は「遠藤さんのほうで出された結論が事故だと仰るなら事故なのだと思います。管轄も違うことですしね」と云って少し笑い声を聞かせた。そこにはこれから埋文センターに入っても自分からは何も質問などしないので、一茂の意思も少しでよいから取り入れた応対をお願いしたいという願いが含まれていることに遠藤は気づいていた。
「一茂さん。あなたのその正義感と言うか、熱さを、うちの猿橋にも少し見習わせたいものです」
「それだけじゃないんですよ。遠藤さん。実は私、あの台風が上陸した週の木曜日の夕方、つまり加藤清志が亡くなる二日前なんですが、偶然にですが彼に会っているんです。そのときの加藤清志の様子が、何か妙におどおどしていて普通ではなかったものですから」
「何ですと。それは少し話を伺っておいたほうが良さそうだ」
遠藤は云って、リアシートの上で尻をずらし、斜に構えるようにして柏崎一茂に視線を向けた。

 木曜日、ホテルの宴席係に披露宴の進行計画書を提出し、総合司会をする上でのアドバイスを受けた柏崎一茂は、初めてのことだけにいささか緊張ぎみだった。
「ほとんどの方が緊張するみたいですが、私たちが流れをちゃんと見てまして。滞らぬようその都度ご案内しますから心配しなくてもいいですよ……なんてね」
 山口静香と刻印したネームプレートを胸につけた若い女性スタッフはそういって小さく笑った。ロビーまで送られてきた一茂は「ヨロシク」と、女性にぺこりと頭を下げた。
 ホテルの宴席係と客という立場にしてはお互い言葉遣いも気楽なものに感じられるのは、山口静香は柏崎一茂の友人の妹で小さなころからよく知っている間柄だったせいであろう。逆に言うと静香が宴席係として司会の指導を担当するというので、一茂も渋々総合司会を承諾したともいえるのだった。
「それにしても、お式、今週じゃなくて本当によかったわね」
 出入り口付近で足を止めた静香が云った。
 何のことか分らずきょとんとしていると、「台風よ。今週末に上陸するらしいから」と静香はいって笑顔を見せた。
「ああそうか。ありがとう。一週間かけてしっかり練習するよ」
 静香は「頑張ってね」と激励して一茂が背を向けるまで笑顔を絶やさなかった。
 腕時計を覗くとまだ午後六時前である。午後四時から早退届を出してきたので署に戻らずともよかった。どこかで食事でもしてから今日は直帰しようと出口へ向かうと、硝子張りの回転ドアを押してジャケットを羽織るように着た男が入ってきて一茂とすれ違った。
 一茂はすれ違いざま「おや?」と感じて足を止めた。男の顔に見覚えがあったからである。
「加藤先輩じゃないか」
 思わず振り返って声をかけようかとも思ったが場所がホテルだけに迂闊に名を呼んでは迷惑をかけることになるかもしれない。そう思い直してそのまま外へ出ようとした。
 そのとき背中から逆に声をかけられた。
「シゲじゃないか。俺だ。加藤だよ」
 加藤は学生のころと同じ横柄な口調で一茂を呼び止めた。しかも愛称を使ってである
 振り向くと思ったとおり大学生時代の先輩である加藤清志が、作り笑いを浮かべて立っていた。
「ご無沙汰しています」
「暫くぶりだな、シゲ。いつ以来だ?」
「先輩の婚礼のとき以来ですよ。ええと、六年ぶりですか。お元気で……」
 公に開放された場で委細構わず大声で、しかも非礼にも愛称で呼び捨てる加藤清志に内心腹を立てながら、柏崎一茂は辛うじて平静を保ったまま答えた。
「そうか。俺は今日はここで女房と待ち合わせなんだ」
 加藤はわざとらしく腕時計を覗いて「もう来るはずなんだがjと、訊かれもしないのにいった。
 一茂は加藤の様子が何故かおどおどとした感じで、視線が合うたびにそれを逸らすように宙に漂わせるのが気になった。
「瑞穂先輩もお元気ですか?」
 加藤の妻瑞穂も一茂にとっては先輩で、学生時代にはいろいろと面倒を見てもらった覚えもある。学業も主席クラスと優秀で、卒業後文化庁職員に採用されたように記憶していた。
「ああ、元気だ。もうじきくると思うんだがな。」
「瑞穂先輩、たしか文化庁でしたよね?」
「いやいや」加藤は首を横に振って「ついこの春まで勤めてたんだが退職した。いまはこの近くでバイトだ」と笑った。
「そうでしたか。じゃあよろしく伝えてください」
 一茂は取り立てて用件もないので早々に退散しようと挨拶代わりに云った。すると加藤は少し慌てたように「折角だから瑞穂の顔でも見てから帰ったらどうだ?」などと意味の分らぬことを云って一茂を引き止めた。
「そんな野暮天じゃありませんよ。ちょっと急いでいるものですから」
 一茂が逃げを打つと加藤は「そうか。それじゃまた合おう」と一度別れを言いかけたがすぐまた思いついたように「ところでシゲは今度の『関ブロ』には出席するのか?」と質問を重ねた。『関ブロ』とは『関東東北ブロック日本考古学交流会』の俗称である。
「私は会員じゃありませんから」
 背中を向けたまま回転ドアを抜けると、「誰でもフリーだ。顔くらい出してみろ」という加藤の声だけが追ってきた。
 ホテルを出て道路に繋がる石段を下り始めたとき柏崎一茂は石段を瑞穂に気がついた。一茂が挨拶しようかどうしようかと躊躇しているうちに瑞穂は気付かずホテルへと入っていった、

「ほう。そんなことが合ったのですか」
 遠藤大吾は一茂から前に戻し「それにしても弱りましたな。お話の内容が抽象的というか……」と続けた。
「そうでしょうね。それに遠藤さんと私では故人を知っているかいないかによる感じ方の差もあるでしょうしね。確かに抽象的です」
 一茂は遠藤が言おうとしたことを言われる前に認めた。
 遠藤刑事は大声で笑った。
「そんなに落ち込まんでください。感覚の違いなんぞ誰にでもありますからな。確かに一部の計画犯罪において、犯人がアリバイ工作のためにそのような行動をとる例はありますからね。だが今度ばかりは事故ではなかったとしても犯人ではなく被害者になるわけでしょう。加藤清志という男は」
「そうなんですよねえ」
「まあ、分りました。そのあたりも踏まえて話してみましょう。こっちにも加藤が危険を冒してまで現場に行かなければならなかったのかという疑問もありますしね」
 遠藤大吾が少し視線を強くして柏崎一茂に約束をしたとき、車は周囲をスチール製のフェンスで囲まれた佐波原市埋蔵文化財センターの門をくぐった。

 財団法人佐波原市埋蔵文化財センターは市郊外の小高い丘陵の上にあった。市民丘陵公園に隣接した市域全体を見渡す広さおよそ三百坪の市有地に建築したもので、地上三階地下一階の鉄筋コンクリートの建物である。
 猿橋弘毅は門をくぐって建物横の駐車スペースに車を止めると、鞄の中に例の土器片が入っていることを確認してからエンジンを切った。三人は車を降り遠藤大吾を先頭にその後ろに一茂と猿橋が並ぶ形で埋文センターに入った。
 埋文センターは一般公開を目的とした施設ではない。エントランスを入って右手に設えられた広いロビーも思いのほか質素なもので、市域を見下ろす大きなガラス窓を背にベンチのようなソファが二脚、その他には打ち合わせ用のテーブルがパイプ製の肘掛け椅子で囲んだ形で置かれ、さらにその向こうに背の高いパーテーションで仕切った応接室があるだけだった。
 ロビーの向かい側が事務室となっていてた。たたきの上がり口に来客用の靴箱が置かれ、履き替えるためのスリッパが入っている。
 三名はスリッパに履き替えて、遠藤が事務室のドアをノックした。
 ドアが開いて、紺色の事務服を身に着けた中年の女性が顔を出した。野上博之事務次長に取次ぎを頼むと「そちらのロビーで少々お待ちいただけますか」といって室内へ戻っていった。三人はロビーの大きなガラス窓に向かい待ちの景観を眺めた。
 野上博之は待たせることもなくにこやかに愛想笑いを浮かべてやってきた。
「さ、こちらにどうぞ」
 野上博之はパーテーションで囲んだ応接室に三人の刑事たちを招きいれた。
 見かけより広い室内には厚いガラス板を重厚感のある木製フレームにはめ込んだテーブルを中にして本革張りのソファと二脚の安楽椅子が対面するように置かれている。遠藤大吾、猿橋弘毅、柏崎一茂の三人はロビーと比べると随分贅沢に思われるソファに並んで腰を下ろした。まもなく女性職員が茶を運んできた。
「先日は遺体の確認をありがとうございました。とりあえずお預かりしていたものをお返しします」
 遠藤が目配せすると猿橋が鞄からビニール袋に入った土器片を取り出して野上の前に置いた。野上は疑わしげな視線を遠藤に向けた。
「もう返していただけると云うことは、事件性がないということなのでしょうか?」
「警察ではそう判断いたしました。先日の病院にご遺体は安置いたしておりますので、奥様のご相談にも乗って差し上げてください。私も後でご自宅に寄らせてもらい、お引取り頂ける旨、お話しておきますので……」
 遠藤は云って野上を窺った。野上は少し拍子抜けしたような面持ちで頷きながら遠藤の云うことを聞いていた。
「何か不審な点でもありましたか?」
 遠藤が訊ねると野上は少し視線を強くして「はい」と返事をした。
「何かそう思われる理由があるのですね?」
「理由といいましょうか、様子といいましょうか……」
「気になることがあれば何でも話してください。決してあなたに迷惑がかかることはありませんから安心してください。それに確かに現在は事故と見ておりますが、差し戻すことは造作ないことですからね」
 遠藤が野上を促すと猿橋と一茂も身を乗り出した。
 野上は刑事たちの様子を見て、彼らも事故として片付けてしまってよいものか疑問を持っていることを察したようだった。
「そうですか。ではお話します。ですがこのことはあくまでも私の印象でしかありませんので」と前置きして、野上は目の前で注目する刑事たちに念を押した。
「一向に構いませんよ。分析はこちらの仕事ですからね」と、遠藤が冗談めかして言うのを聞いてようやく意を決したようだった。
「このひと月ほど気になっておったのです。加藤が何者かに脅されているのではないかと」
「何か心当たりが?」
「いいえ。加藤の素振りとでも云いましょうか……。このところいつもおどおどしているように見えました。以前はあんな人ではなかった」
 野上のこの発言に遠藤大吾は大きく頷いた。もちろん野上の云うことが一茂の持った印象と一致したからである。
「柏崎刑事。君も同じようなことを言っていたね。質問があったらするといい」
 遠藤は突然一茂に質問することを許し、その あとで柏崎一茂の身元と同行の理由を正直に話した。
「よろしくお願いします。ではお伺いします。加藤さんは亡くなられた時どのような仕事をされていたのですか?」
 一茂は野上から自分に関することをあれこれ聞かれる前に自分のほうから質問を始めた。
「調査課長の立場ですからね。現在財団では現場を三箇所と整理作業を二遺跡手がけております。加藤は現場のほうの管理にあたっていました」
「もう少し具体的に。その中でもいちばん精神的にストレスを伴いそうなものとか……」
 一茂はメモを取りながらいった。
「金曜日に終了した委託業務の入札でしょうかなあ?」
 野上の口から飛び出したのは誰も予想していない言葉だった。
「入札というのは、土木工事などでよく行われる」
「ええ。同じようなものです。センターの仕事も最近は開発行為の期間が短縮されてきているため迅速化が求められるのです。外部委託によるほうが効率的な部分もありますからなあ。特に測量とか航空写真撮影のような部分では」
「しかし何故それが精神的負担になると?」
「いろいろと圧力がかかるんですよ。本庁から、業者から、原因者から……。まあ、財団ではそのような不正行為が出ぬよう厳格な態勢をとっていますがね」
 若い猿橋はぽかんとしていたが、一茂にも遠藤にも野上が何を言おうとしているのかすぐに検討がついた。
「贈収賄が絡んでいるということなら大問題です。野上さん。あなたのひとことが財団ばかりではなく社会を揺るがしますぞ。よく考えて発言してください」
 聞き咎めた遠藤が語調を強くするのを感じて野上博之は慌てて「そんな不正が絡んでいるはずがないでしょう。厳正な入札参加資格審査をした業者の中から委託の内容に対応できると思われる七社を選び、当センター入札室にて入開札を実施しています」と打ち消した。
「記録を、よろしければ見せてもらえますかねぇ」
「お待ちください」
 野上が部屋の片隅に置いた電話で入札記録を持ってくるよう指示すると、待たせることもなく職員がファイルを持ってきた。
 委託案件名『佐波原市工業団地関連埋蔵文化財発掘調査に係る測量等支援業務委託』と長ったらしい業務名のつけられた入札記録だったが、ざっと中を見る限りなんの不審な箇所もなさそうだった。野上が言うとおり七社による入札が行われ、㈱学図舎という業者が五千百八十万円で落札している。応札したのは緑川隆俊という男で、入札代理人として学図舎の社長から委任状が提出されていた。 
「不審なところもなさそうですね。と云うことは加藤さんの怯えの原因は仕事には直接関係がないと云うことになりますかね」一茂は探るような目つきで野上博之を覗き込むようにして「まあ、いいでしょう」と手帳を閉じた。
「ところでね野上さん。加藤さんが何故あんな危険な場所に立ち入ったのか、心当たりは何かありませんでしょうかねえ?」
 一息ついてから一茂が一番心に引っかかっていることを切り出すと野上は「私たちもそのことが尤も謎だと思っとるのですよ」と云って体をかわした。
「しかし現実に加藤さんはあの段丘の上で遺物の確認を行っていたわけでしょう。そしてその土器片の採取をした」
 一茂はテーブルの上に置き放しになっていた土器片が入ったビニル袋を指差した。
「えっ。警察ではそんなふうに考えていたのですか」
 野上は驚いて目を見張り「そんなことは絶対にありませんよ。大体この土器はあの段丘で出土したものではありませんからね」と、きっぱりと言い切った。
「なぜそういいきれるんですか?」
 思わず遠藤も口を挟んできた。
 何も知らないんだなとでも言いたげに野上博之事務次長は口元に微笑を浮かべ「いいですか。台風の後ですよ。取り上げたばかりなら泥まみれのはずです。それなのに……」野上は一点を袋からつまみ出し「きれいでしょう。こんなに」と云って刑事たちに示した。
「それから、ちょっと土器の裏側を見てください。何か書かれていませんか?」
 遠藤が野上博之から土器片を受け取り背広の内ポケットに入れた折りたたみ式の眼鏡をだした。眼鏡をつけてあらためて土器片を見ると、野上博之が言うようにその裏面には八桁程度の番号といくつかのアルファベットが細かい文字で書き付けられていた。
 一茂と猿橋も確認した。
「注記と云ってですね出土した遺物の情報を記載した遺物台帳に対する登録番号のようなものですよ。注記が入っているということは新たに採取したものではなく、台帳に記入され、土の中から取り出され、水洗い乾燥され、登録番号を記入されたもの。あとは復元されるばかりになったものなのです。そう考えればここにある土器片は加藤の怯えの原因とは限らないのかもしれませんね」
「どういうことです?」
 先回りしたような野上博之の話に一茂は少し不快なものを感じたが、まあこの程度の話が出ることは容易に推測できることである。野上が回答をあらかじめ用意しておいたとしても何の不思議もない。
「たとえばこれらの土器片に加藤が何らかの学問上の疑問を感じており、専門の大学や関連の研究所などへ持参しようと予め準備していたのかも知れません」
「なるほど考えられることですね」
 話を聞いて一茂は唸った。見かけより切れる男かもしれないと感じた。
「そのことより私には加藤が何故あの場所で事故にあったのかということの方が謎なんです」
 自分を見る一茂の目が変わったことに勢い付いたように野上は話し続けた。
「刑事さんは発掘調査にふた種類あるということをご存知ですか?」
「いや、門外漢でして」遠藤が刑事たちを代表するように答えた。
「ひとつは学術発掘、もうひとつは緊急発掘または行政発掘などと呼ばれるものです」
 野上は知識をひけらかすように三名をしたり顔で見やったが、刑事たちがさほど興味を示していないので少しつまらなそうに続けた。「学術発掘というのは文字通り学術のための発掘調査のことで大学や研究者が実施することがほとんどです。これを財団が行うことはありません。対して緊急発掘といいますのは、たとえば道路やビルなどを建設する場合など、もしその下に遺跡が眠っていたなら工事によって破壊されてしまうことになりますね」
 刑事たちは揃って頷いた。
「法律的には埋蔵文化財は国民の共有財産だから破壊してはならないことになっているんです。しかし日本国中何処を掘っても遺跡にぶつかります。如何ともしがたいわけです。そこで考え出されたのが記録保存というものです。これは何かというと、開発行為によって遺跡の破壊が避けられない場合、発掘調査して復元可能な記録を残せということです。このことが文化財保護法で決められており財団の仕事になるわけです」
「つまり加藤さんは近々実施される段丘部分の工事に関して……」
「それがありえないんですよ」
 野上は叫ぶように云って、口を挟もうとする遠藤を制し「ありえないんです。それは」と、今度は小さな声で呟いた。
「なぜ?」
 刑事たちは野上博之の答を待った。だが野上博之の回答は、本人が言う通り、遠藤大吾たち三名にとっても疑問を大きくする効果しかなかったのである。
「あの段丘の土地はですね、広い範囲に亘って都市計画法に定められた市街化調整区域なんです。つまりい公的な開発行為しか実施できない地区なのですよ」
 そしてこの日、野上博之の口から新しい情報はそれ以上得られることはなかった。

 違和感

     1
 (株)昇竜土地企画建設は本社を世田谷区の甲州街道沿いに置く中堅企業で、不動産取引と土木設計・工事を生業としている。二年前に三多摩地区から東神奈川にかけての土地の取得に照準を合わせ、少しでも現地に行きやすい場所ということで多摩支店を開所した。
 営業部門を専業とした支店でそう大きな器が必要になることもなく、経費を少しでも低く抑えるためのプレハブ二階建てである。社屋の右隅にあるドアの横に掲げた一枚板の看板にも、墨書で社名が記されているだけで飾り気はない。恒久的な社屋というよりはむしろ一時しのぎの作業場という佇まいだった。

五月。多くの人々が大型連休を楽しんでいる最中、杉崎健太は昇竜土地企画建設・多摩支店の会議室にいた。神奈川県朝川町で農業を生業とする杉崎健太と(株)昇竜土地企画建設・多摩支店長の上川裕樹は佐波原市内の同じ高校に通いともに野球部に籍を置いて青春を謳歌した同期生だった。二年生の時にはともに先発メンバーとして甲子園にも出場した親友同士である。卒業してから健太は農業そして一方の裕樹は大学から不動産業と道は変わったが、それでも友情は変わらず、そう頻繁ではないにせよ年に数回は顔を合わせて無駄話に時を費やす関係を保っていた。この日も連休中とは言え別段することもなく家に燻っていた健太に裕樹から電話が入ったのだった。
 用件は、多摩市店長に任じられて支店事務所にいる。そう遠くはないのでもし時間があれば午後からでも顔を出さないか? というものだった。事務所の場所を尋ねると確かに三十分もあれば行くことができそうな距離だったので、車を走らせたのだった。
 支店事務所はすぐにわかった。社屋前の空き地に車を止め入り口横の看板を確認してからドアを開ける。玄関のたたきのような感じで、左に事務所と書いたプレートがつくドアがあり、正面は二回へと登る階段が続いている。
 事務所のドアを開けて中を覗くと裕樹が背中を向けてキャビネットの中から何かを取り出している姿があった。
「よう」
 裕樹は顔だけ振り向いて挨拶らしき言葉を発し、「そこの階段を上がって、会議室で待っていてくれないか。すぐ行くから」と笑顔を見せた。

 会議室といってもそれほど広くはない。十人も席に着けば窮屈に感じるのではないだろうか。長机を横に二脚並べるのが精一杯という感じだった。その代わりというのも妙だが窓を思い切り広く取り、窓枠の上部に部屋の広さと不釣合いなほど大きなブラインドが巻き上げられている。夏になればさぞ蒸し暑いことだろうと心配してしまうほど明るい。社屋は乞田川という細い都市河川沿いに建てられていて、窓のすぐ下に澱んだ水が流れている。その向こう岸は少しばかりの住宅地を挟んで広い道路が走っていた。東に行けば多摩センターから府中市。西に進むと町田市を経て神奈川県相模原市へと至る道路である。他には中腹に工事中の京王相模原線高架橋を伸ばす多摩丘陵が緑色に霞んでいるだけだった。

 待たせることもなく階段を登る足音が聞こえてドアが開き、多摩支店長の上川裕樹が入ってきた。片手に大きな紙袋をぶら下げている。
「お待たせ」
 持ってきた袋を一度床において、上川は部屋の片隅の小型冷蔵庫を開け缶入りのコーヒーを一本健太へ抛った。健太は慌てもせず片手でキャッチした。
「連休なんで皆休みとりやがってよ。茶も出せやしねえ」
 口を尖らせながら健太の横まで来て「どっちにしても日曜日か、今日は」と、渋い顔をした。
「いい事務所じゃないか」
 健太は右手を差し出し上川裕樹と握手をした。
「何を云ってるんだ。掘っ立て小屋といっしょだよ。役目が終わりゃ、あっという間に取り壊しの運命さ」
「何はともあれ支店長就任おめでとう。頑張ってくれ」
「よせよ。照れるじゃねえか」
 裕樹は嬉しそうにはにかんで目を逸らし缶コーヒーのプルトップを引いた。
 健太もそれにならって甘ったるい液体で喉を潤した。

 パイプ椅子を広げてひとしきり昔話に花を咲かせ一区切りついたところで、上川裕樹が思い出したように立ち上がり、紙袋から円筒形の図面入とプラスチック製ケース入りのクリアポケット式のファイルを一冊出して会議卓の上に置いた。
「なあ、健太。おまえ、金儲けしたくはないか?」
 裕樹は唐突に切り出した。
「何だ、藪から棒に」
 何を裕樹が言おうとしているのか見当がつかず目を向けると、裕樹の瞳は真剣な光を宿していた。
「すまん。下世話な言い方をした」
 裕樹も少し顔を赤らめて頭をかき「実はな、お前に頼みたいことがあるんだ」と、改めて話し始めた。
「頼み?」
「ああ。はっきり云おう」
 上川裕樹はコーヒーで口を湿らせ「俺たちの業界は知ってのとおり今相当強引な方法で荒稼ぎしている。土地は買いさえすれば金を産むなんていう戯言が現実になっている時勢だからな。勝ち組になるには白だ黒だと云っちゃいられないんだ」
 裕樹はファイルを開き、その横に筒状の図面入れから抜き出した図面を広げた。図面は縮尺が五千分の一で、国土基本図と題されている。
「これを見てくれないか」
 筒に入れてあったため巻き癖がついた図面の端にウエイトを乗せ、裕樹は「何処の図面かわかるだろ」と、健太の目を見た。
 それが佐波原市から朝川町を含む範囲の地形図であることは健太にもすぐわかった。しかも健太の住む川沿地区を完全に取り込んでいる。
 図面の上方ほぼ中央から中津川が緩やかに蛇行を繰り返しながら南に向かっている。川の左、即ち西側が朝川町。対岸が佐波原市である。朝川町側には川に沿って道路が南北に走り、北に向かえば宮ヶ瀬渓谷へと入り込むのだが、図面範囲はその前に終っていた。川には図面上端から五センチ(実距離二五〇メートル)ほどの箇所とそこから下流へ二十センチ(一キロメートル)下がった二箇所に東西の両自治体を繋ぐ橋が架けられ、橋から伸びる道が川沿を走る道路と夫々の箇所で横向きのT字型に合流している。これらのふたつの橋に挟まれた地区が健太の家畑を含む川沿地区だった。
 健太は素直に頷いた。しかし親友が言う頼みたいこととは何のことなのか見当もつかないため、その表情から不安を隠すことができなかった。
「この先に何が造られつつあるかは知っているよな」
 裕樹は探るような視線を健太に注ぎ、図面上を縦貫する道路の北の端を指差した。
 答はひとつしかない。もちろん上川裕樹は宮瀬ダムと呼ばれる多目的巨大ダムのことを言おうとしているのだろう。
「ダムのことだろうが。しかし完成がいつのことになるものやら分からんじゃないか」
「いや、見通しはついているんだ。遅くともあと三年と俺は見ている。そうでなければ既に立ち上がっている計画自体に破綻をきたすはずなんだ。だからもしそれ以上かかると国が踏んだときには、それなりの手を打つことになる」
 裕樹は熱い口調で言い切った。
「俺にはさっぱりわからない」
「少し考えれば誰でも考え付くさ。いいか、ダム建設のために国が買い取った土地は我々が取引しているものと違って転がしが利かない。だから一刻も早く完工させて供用開始にこぎつけなければ大変なことになる。土地ってのは動いていなければ何も入っては来ない。しかし経費は嵩むし借入金で買収しているだろうから金利負担ひとつとっても致命的なものになりうる」
「強制執行をかけるというのか? 立ち退きを渋っている地区に対して」
「強制執行? それは小手調べみたいなものだ。そんなもんじゃ済まない、社会全体が大打撃を被るような手を打ってくるってことだ」
「俺には何のことやらわからんよ。やっぱり……」
「それはそれでいいさ。人それぞれだからな。だから俺もざっくばらんに言っちまうけれど、俺が言うことを無条件に信じてくれ。そして俺のいうことに耳を貸して欲しいんだよ」
 裕樹はそこまで云うと一度言葉を止めた。

 上川裕樹は地形図を巻き直して筒にいれると、代わりにファイルの中から丁寧に蛇腹折にたたんだ印刷図を取り出した。
「この先は企業秘になる。もし俺の話に不承知なら忘れて欲しい」
 裕樹がそう断りを云って地形図の代わりに広げた印刷図は、杉崎健太を驚かせるものだった。
 図面は『仮称・昇竜ニュータウン求積集成図』と題されたもので、社外秘と大きな朱印が押されていた。計画範囲として図に載せられているのは健太の住む川沿地区全体を抜き出した部分に間違いなかった。さらに図下の余白に埋め込まれた表には地区を構成する二十八世帯の内、農業を生業とする地主九名そのほかの土地所有者七名、計十六名すべての姓名と住所そして所有土地面積までもが明記されていたのである。

    2
 事件性はほぼないとはいっても死体が発見されたからにはまったく調べもしないわけにはいかないのだろう。佐波原市警察署から担当だという刑事が二名やって来た。事故と断定されるときならば朝川町の出張所で現場検証して終らせるのだが、何故あんなときにあんな場所でという疑問が残るため市警察署が担当することになったのである。そのまま自治会館で綿貫信一郎と杉崎健太・健二兄弟に対して遺体を発見した経緯についての簡単な聴き取りがなされた。三十分間ほどで簡単に聴取を終わり、刑事たちは引き揚げた。柳田土木部長と田辺河川係長の二名も刑事たちの後を追うように帰って行った。時をほぼ同じくして避難勧告も解除され、残っていた被災者たちもその被害がそれほど大きなものではないとの報を聞き、安心して帰宅していった。こうしてようやく川沿地区自治会館にも静寂が戻った
のだった。

「やれやれ大変な一日だったな」
 綿貫信一郎はリクリエーションルームの窓際に置かれた肘掛け椅子に身を沈め、ふうと大きくひとつ息を吐いた。
 時計を覗くと午後二時に近い。
「腹減りませんか?」
 健二に言われて朝から何も口に入れていないことに気がついた。
「ラーメンでもとりましょうか」という健二に手配を任せて、健太は小さなテーブルを挟んだ綿貫の正面に自分も腰を下ろした。
「ねえ綿貫さん。飯食い終わってから少し時間をくれませんか?」
「なんだい、あらたまって?」
 綿貫自治会長は健太の様子に妙に真剣なものが感じられたので、思わず聞き返した。
「飯、食い終わってからでいいです」
 健太は話を逸らし「おい、健二」と弟を呼んだ。
 健二は小走りに戻ってきて「飯、頼んでおきましたよ。すぐ来ますから」と、笑顔を見せた。
「悪いんだが、食い終わったら一足先に被害にあった家一軒一軒回って状況を見てきてくれないか。多分各家で処理できる程度の被害だと思うんだが、人それぞれだから気をつけてな。俺はちょっと会長と話があるんで」
「分った。任せて」
 健二は引き受けて、茶を入れなおすため給湯室へ下がっていった。
 兄弟のやり取りを横目で見ていた綿貫信一郎は、健太がついに相談を持ちかける決心をしたことを感じ取った。

 遅い食事を終えた健太は、健二を送り出した。
 健太は煙草を咥え火を点けた。吐き出した紫煙の中に上川裕樹の顔が浮かんだ。
 十月末くらいまでには取りまとめができるかどうかだけでも返事が欲しいということだった。あれからもう三月が過ぎようとしているのに、何も成せないでいる自分がもどかしかった。地区の全地権者それぞれに関わることだから一人ひとりみな意見が異なる可能性もある。最もすんなり話を進めるにはどう切り出せばよいか、考えがまとまらない。徒に時間だけが流れた。そして諦めかけたとき台風による災害に見舞われた。農業を営む土地所有者の殆どが被災した。皮肉にもそれが話を切り出す恰好のタイミングをもたらしたのである。

 五月に上川裕樹から検討を頼まれた事項というのは、一言で言えば、川沿地区に住む土地所有者たちから総ての土地を買収したいので、その取り纏め役になって欲しいというものだった。それはあまりにも唐突な依頼であり、少なくとも健太本人に財産売却の意思が有るかどうかくらいのことは事前に打診が合って然るべき話ではないか。そう思うと少し腹が立った。しかしそこは親友同士の間柄である。気持をぐっと抑えて聞き役にまわった。
 上川裕樹は(株)昇竜土地企画建設の支店長としてではなく友人として総てを曝け出したように健太は感じた。裕樹の口調はそれだけ熱を帯びたものだったのである。
 大学で経済学を専攻した上川裕樹は、現在わが国を覆っている異常なまでの好景気が土地神話という実際には何の実体もないモノノケによって作りあげらっれた虚像だと信じて疑わなかった。その構図は不動産売買の企業に就職したことで一層強いものになったという。
 低金利融資による好景気は土地とか株式というような実体のないものの価値を上昇させ、いわゆる“土地は金を産む”という土地神話を生み出した。手頃な土地があればそれを買う。資金は銀行がいくらでも融資してくれる。土地は持っているだけで需要が多いからたちまち値が上がる。その上昇率は銀行金利以上なので頃合を見て売却さえすれば借金を返しても十分に利益が出る。これを繰り返しさえすれば、あっという間に巨万の富を手にすることができる。これが土地神話の正体であり、“土地ころがし”とか“地上げ”などと呼ばれるものなのだ。だが裕樹はこんな実態のない経済は近い将来間違いなく破綻をきたすと考えているようだった。
 健太は上川裕樹から検討して欲しいと頼まれたことを、裕樹の考えも含めて総て綿貫信一郎に話した。 信一郎はそれほど驚いた様子も見せなかった。
「俺にしてみれば、ついに来たなっていう感じだな」
 信一郎は頭の中で健太の口から出た事柄を整理するようにゆっくりとした口調で言った。
 驚いて目を見張る健太に向かって綿貫は「この時勢だからね。川沿だけ取り残されたようにそういう話がなかったというのは、きっと地上げの対象とするには欠陥の多い土地だからだろうね」と続け、自らも納得したというように大きく頷いて見せた。
「欠陥が?」
「あるだろうさ。護岸工事もしていないから、すぐ水に浸かる」
 綿貫は大声で笑った。
「ああ、言われて見ればそうですよね。だから川沿は地価の面でも極端に低い。つまり人気のない地域らしいんです」
「農耕地としても火山灰混じりの土地だから決して肥沃とはいえない。家を建て直そうとしても地盤が軟弱だからなかなか思い通りにならないしね」
 綿貫信一郎は一度話を止めると作業着のポケットからタバコを取り出した。」
「あれ? 綿貫さん煙草吸うんでしたっけ?」
健太が始めて気づいてライターの火を差し出すと綿貫は顔を近づけて受け、ゆっくりと紫煙をはいた。
「ほんの少し。日に一本か二本くらいかな」と綿貫が答えるのを聞きながら健太も一本咥えて火をつけた。
「それにしてもその友達が言うように、これだけの好景気が崩れ去ることなど本当にあるのかな? それに破綻をきたすといいながら川沿の土地を買いたいというのは妙じゃないか。矛盾しているように感じられるんだが……」
 綿貫は疑問をそのまま口に出した。
「そこなんですよ。ぼくが裕樹の申し出を検討してみるといって持ち帰ったのは。あまりにも突然だったんで多少腹が立ちました。そうでしょう、だって僕自身に所有地を売る意思も確かめずに、すべての川沿の地所を買い取りたいから取りまとめてくれなんていうのは無礼じゃありませんか」
「確かにな」
「でも一応親友ですしね。話を聞いてみたんです。そうしたら裕樹のやつ。恐ろしいことを言い出したんですよ。そしてそれに対抗するための方策をね」
「それが一見矛盾するように思われるふたつの事柄を摺り合せているというわけか」
 綿貫は健太を興味深そうに見つめた。
「そんなふうに聞こえました。でも私の判断が正しいかどうか……」
「いつになく弱気じゃないか」
 綿貫は笑って「まずは聞かせてもらおうか」と、健太を促した。

 健太はあの日のことを再度思い返した。その話の内容は土地を相手に数々の修羅場をくぐり抜けてきた裕樹のような人間ならずとも、社会状況に冷静に目を向けさえすれば想像するに難くないことのようにも思えた。しかし健太にしても、いわれて初めて気づいたわけである。異常なまでの好景気がその中で踊る人間たちの持つ判断力を麻痺させ、異常な現実を当然の世界だと見せかけているに過ぎないのだろう。
 上川裕樹が健太に話した内容は、国の動きに関するひとつの推論だった。
 オイルショックから続いた不況から景気を立て直すために国は公定歩合の引き下げという大鉈を振るった。当然金利が下がることによって経済が急速に流れ始める。内需拡大策は景気をを建て直し、国の方策は功を奏した。だが裕樹は、国は引きのタイミングを間違えたという。公定歩合を元に戻そうとしないばかりか更に数回下げ続けている。当然銀行金利もそれに同調することになる。そうなると社会全体には預貯金を残すくらいなら、この機会に土地や株式などを手に入れて将来の備えにしようという気運が高まって行くのは当然だった。
 さすがにここまで来ると地価や株価の異常な高騰に首をかしげる者も数多くいる。だが気弱になったならばその時点で負け組みに入ることになってしまう。なぜかといえばこうしている間にもそれらは上昇し続けているのだから。
 国もようやく気がつき対策を検討し始めた。しかし国は単に公定歩合を引き上げさえすれば、株価も地価も元の適正価格まで戻ると考えている。近々それは実施されるだろう。それが恐ろしい結果を生み出す原因になる。
 杉崎健太はそれを説明した時の親友の表情がいつになく真剣だったことを思い出した。

「どうなるというんだ?」
 綿貫信一郎はぬるくなってしまった茶で喉を潤した。普段あまり気にしたこともない健太の話にのめりこんでいた。
「土地にしても株にしても自己資金だけで売買している部分はほんの一部らしいんですよ。一般個人までが、超低金利だったこともあって銀行融資を受けて売り買いしているようです。これが金利が上がることによってどうなると思います?」
「新たに融資は受けずらくなるだろうな。今までの借金を返済するために買い入れた物件を手放す必要も出てくるだろうな。そうか。仮にそういう場面になっても今度は公定歩合の上昇で景気が下降線を辿っているわけだから物件にもなかなか買い手がつかないことになる」
「景気は下降線なんてものじゃなくなるらしいですよ。貸し手側も回収できない金が膨らむから。今度は貸し控えに出る。そのせいで小さい工場とか、力のない会社なんかはばたばた倒産に追い込まれる。すると貸し手のほうはますます回収が困難になってしまう。この連鎖がいつまでも繰り返す。そう裕樹は言うんです。そして最後には貸し手、つまり銀行さえ倒産する時代が来るって。怖い話でしょう」
「まさかそこまでは行かないとは思うが、それにしても相当冷え込むのもその通りかも知れんね。確かに怖い話だ」
 綿貫信一郎は健太が言ったことを確認しなおすように一度目を閉じた。
 健太は綿貫の言葉を待った。
 五分間ほどそうしていただろうか。信一郎は自分の考えに整理がついたとでも云うようにうんうんと頷いて、ようやくゆっくりと目を開いた。
「だが健太くん・君の友達がその事を本当に信じているなら、矛盾はもっと膨らむじゃないか。買ったはいいが売るのが困難になるっていうんだろ。妙な話だと思わんか?」
「私もはじめはそう感じました。だから奴に言ったんです。矛盾してるんじゃないかって。ところがそうじゃなかったんです。頭が下がる思いがしました。民間企業って所は生き残るためには凄いことを思いつくものだって」
 
 あのとき上川裕樹が健太に打ち明けたふたつ目の話も、また違う意味で健太を驚かせた。
 土地を単なる投機目的で売買する時代は終わりを告げる。では自分たちのように不動産取引でを業とする業界はどうやって生き残っていけばよいのだろう。このことについて裕樹はひとつの考えを語った。裕樹が発案し社内検討の上採択された方法だという。そのテストケース用地域として白羽の矢が立ったのが健太の住む川沿い地区だった。
 多少問題を抱えた地域である川沿地区の地価単価は、この世相のにも関わらずほとんど上昇していなかった。(株)昇竜土地企画建設は画期的商品ともいえる仮称・昇竜ニュータウンの建設計画に取りかかった。計画とはそのままではほとんど利用することも難しい川増築の地所を買い取り、治水や護岸の工事やアクセス道路等も含め住宅地としての造成を行った上で、各種タイプの住宅を乗せる。それを賃貸住宅として売り出す。もともとの地価が低いから造成費用など含めても戸建住宅を購入に際し二世代ローンを組んだ場合の返済額程度に設定すれば十分採算が取れるだろう。さらに賃貸契約時にはその物件によって基準期間を設け、それ以前に退去の場合は権利は消失するが、期間満了の際にはもし希望があれば相応な価格で所有権も譲り渡すというシステムを採用したのである。そして会社はニュータウンの管理運営に当る。また土地提供者にはニュータウンの終身運営会員の資格が与えられ、年一度の決算期には運営利益の中から会員配当金が支払われることになる。
 バブル景気によって地価が高騰し戸建住宅の所有などほとんど不可能になっている中で、できることなら庭付き戸建に住みたいという人々の夢を叶える試みだと、裕樹は熱く語っていた。
「確かに面白い試みだね。しかし我々の土地は耕地だろ。……」
 綿貫信一郎は少し首を傾げた。
「そのあたりは抜かりないようでした。地目の変更をするっていうことです。不動産の専門だからパイプがあるんでしょうね」
「話は分ったよ。どうやら思ったより堅実な試みに思うな。うまくいけば我々にも損な話じゃなさそうだし、自治会で議題にしてみようか。……いやそれよりその上川裕樹とか言う支店長を招いて、土地所有者全員を対象に説明会でも開いてもらうほうが話が早いかも知れんな。健太くんから連絡して可能かどうか打診してみたらいい。ぼくも後押ししよう」
「ありがとうございます。早速手配をします」
 綿貫信一郎は頷いて、少し気まずそうに「実を言うとぼく個人もそろそろ土地を何とかしたいと思っていたところなんだよ。知ってのとおり親父が長い病院暮らしになりそうでな。君が云った何とかいう会社のニュータウンのことにしても、ぼくなりに調べたこともあるんだよ。どこか良い買い手はいないものかとね」と言い訳でもするかのようにおどおどした視線を宙に漂わせた。

    3
 十一月も下旬を迎え、時折冬を思わせる冷たく乾いた風が強く吹き付けて、干からびた枯葉を宙に舞わせていた。
 多摩中部警察署の管轄区ではこの三月間ばかりこれといった大きな事件も起こらず、捜査課の中も比較的和やかな空気が満ちていた。今晩宿直番の二名の刑事たちから夕食の少しの間留守を頼まれた一茂の他はみな既に帰宅し、事務所内には一茂ひとりが残っていた。
 小さな窃盗事件の報告書をまとめ終えた柏崎一茂は、自席について新聞の活字を目でおっていた。新聞紙を四つ折にたたんで手に持っているのは、デスク上に書類や資料などが散乱していて新聞を広げるだけのスペースがないためだった。
 一茂の目がある見出しを捉えてふと止まった。『発掘調査の迅速化に一役』と大見出しが踊る囲み記事で、『埋蔵文化財調査新システム、㈱学図舎が開発」と小見出しが付されていた。
 もともと考古学には少し興味を持っていて大学生のときは関係のサークルに所属していた一茂だったが、彼の注意を引いたのは埋蔵文化財調査という言葉ではなく“学図舎”という会社名に見覚えがあったからだ。何処で目にした社名だったろう? 一茂は記憶の糸を手繰った。
 その答はすぐに出た。死んだ加藤清志が死の前日に執行した委託業務の入札で、見事落札した業者が確かそのような名前だったと思う。埋蔵文化財センターの野上事務次長から話を聞いたときメモを取ったことを思い出し、手帳を繰って探してみるとやはりその記憶に間違いはなかった。委託案件名『佐波原市工業団地関連埋蔵文化財発掘調査に係る測量等支援業務委託』。落札者・㈱学図舎。応札者・緑川隆俊。落札金額・五千百八十万円。そして入札に参加したその他六社の社名を几帳面に記録していたのだった。
 
 一茂は紙面に目を戻した。読み進むと一茂は記事の内容に強く何かを感じた。学生当時幾度か発掘調査に携わった経験があるだけの柏崎一茂から見ても、紹介されている方式は画期的な方法に思えるものだった。
 遺跡の発掘調査は遺跡範囲を確認した後、生活面が何面あるかを、状況に応じたスパンで筋掘りしたトレンチの断面を見て確定させ、生活面の各層を上から順に調査していくのが一般的な進め方である。本調査に入ってからも表土の除去を行った後、むき出しになった生活面に現れる遺構の形をマーキングし、次にそれぞれの遺構ごとに発掘が進められることになる。
 調査が進むにつれ当然土器・石器などの遺物も検出する。それらはすぐ取り上げることは許されず、出土地点の座標と標高を記録した上で遺物出土状況を写真に収めてから丁寧に取り上げられるのだ。そして遺構図の測量に進むことになる。これを繰り返すわけだから住居跡等の遺構が数多く検出されると膨大な時間と調査費を要することになるのである。
 集落遺跡などになれば一遺跡の調査を終えるまでに下手をすると十年単位の年月を要することさえあるという。同じような形態の遺構が数多く検出されたときなどは代表的な遺構数箇所に絞り込んでも良いように感じるのだが、緊急調査の目的が考古学的検証ではなく復元可能な記録保存ということなので、すべて実施しなければならないのだ。
 この費用は住宅団地にせよ工業団地にせよ原因者負担である。だからその経費は最終的には分譲価格に上乗せされることになる。国民の共有財産である埋蔵文化財が別の面では国民生活の向上をを阻害しているといえるのではないか。記事はこのことを背景に、発掘調査の工程中で最も時間を要する遺構測量に新しい方式が試みられるという話題を載せていた。
 支援システムと銘打ったその方式は地形図などを作る際に利用する空中写真測量の応用で、計測用小型カメラを抱かせたラジコンヘリコプターを十~三十メートルの高度で飛行させて掘り終えた遺構を撮影し、図化機を用いて記録保存のための測量図を作成してしまおうというものだった。つまり発掘調査の作業を、掘る部分と測る部分とに分けてしまうということである。
 担当する調査員は掘る・測る・記録するという発掘の工程を遺構一基ごとに繰り返すのではなく、掘ることに専念する。そこから先は空中写真測量の専門業者に委託する。遺構を一気に掘り進め多くの遺構を含む範囲を面的に掘りあげたなら、図化用写真撮影からの工程を担当する業者にバトンタッチするわけだ。遺物の出土状況計測や遺構実測は委託された業者が写真図化機にコンピューターを組み込んだ“解析図化機”という装置を用いて出力することが可能なので担当者は撮影を指揮監督し、撮影された写真が遺跡範囲を網羅していればその面を終了として構わない。あとは遺構平面図が業者により出来上がるのを待ちながら。次の層の発掘を進めればよいことになる。効率化という角度から見れば有効な方法に違いない。
 このシステムを取り入れて佐波原市埋蔵文化財センターでは市が分譲販売する工業団地の建設用地に確認されている大型遺跡『佐波原市工業団地関連遺跡』の発掘調査にこの支援システムを導入することを決め、既に㈱学図舎に支援業務を契約済みであると報じていた。
 記事に目を通して素人考えながら画期的な方式かもしれないと感心した一茂だった。しかしそれと同時に一茂の胸の内に芽生えた『何か気になること』が、そのような表向きのことではないのも事実だった。
「最近は開発行為の期間が短縮されてきているため迅速化が求められるのです。外部委託によるほうが効率的な部分もありますからなあ。特に測量とか航空写真撮影のような部分では」と、埋文センターの野上博之事務次長は言い、その後で贈収賄を案じさせる発現までしてそれを慌てて打ち消した。
 あの時もう少しだけ踏み込んで聞き取りをしていればよかったと一茂は後悔した。野上にしても自分にしても死んだ加藤が何かに怯えているような感じだったということで意見が一致していたわけだから、贈収賄とは云わずとも何らかの違法な行為が加藤に対して為されていた可能性はあったはずだ。そのことをを協力して探り出すことができなかっただろうか? 野上のほうは発注者であり入札に不正を作り出す行為をするわけにはいかないから、勇み足に対してあのような打消ししかできなかったのだろう。しかし一茂まで同調するように入札には何も問題なしと結論したのはいかにも早計だったのではなかったろうか。それとも他の警察署の管轄だからどうでもよかったとでも云うのか? いや。それだけは絶対にない……。ただ野上の物言いが予め準備されたものだったことに苛立ちを覚えていたのは否めなかった。
 
「報告書、書き終ったか?」
 背中ごしに聞こえたのは外勤から戻った大先輩、高槻彰の声だった。
「ショウさんの机に置いときました」
 少し落ち込みかけていた一茂は救われたような顔で「ショウさん。ちょっとこれ見てもらえますか?」と、読んでいた新聞記事を高槻刑事に示した。
 老刑事は開いているデスクから事務椅子を引っ張り出して一茂に寄り添うように腰かけ、掲載された記事にざっと目を通してから「どうかしたのか? これが」と怪訝な顔を向けた。
 高槻彰は埋蔵文化財センターへは同行したわけではなかったから、既に頭の中から消えてしまったのだろう。そう思って一茂は「遠藤さんたちに同行して私が佐波原市埋蔵文化財センターに行ったときの報告、覚えとりますか?」と、なだめるように云った。
「覚えとるさ。まだボケちゃいない。……いや、どうかな?少し来とるかも知れんがなあ」
 高槻はおどけて見せた。
 一茂は記事について思ったことを、センターに行ったときの話を織り交ぜて簡単に説明した。やがて高槻刑事は依然一茂から報告を受けた部分についてすっかり思い出したようだった。その様子に気がついた一茂は話の内容をつい先ほど読んだ新聞記事の印象に中心を移した。
「確かにそれはおまえが軽率だったな。シゲ」
 一通り話を聞き終わってから高槻彰は顔をしかめた。
「妙だ妙だと思っていたくせに、心のどこかに佐波原署が下した事故という結論を受け入れている部分がありました」
「それじゃあだめなんだよ。シゲらしくもないな、結果的には遠藤くんの顔もつぶすことになったわけだ」
 高槻彰は珍しく厳しい言い方をした。
 そうなのだ。埋蔵文化財センターまで同行を許し、しかも発言の機会さえ作ってくれた遠藤大吾刑事の善意さえ無駄にしたことになるではないか。柏崎一茂は歯噛みする思いだった。
「まあ今更どうすることもできないわけだが侘びを入れる意味で一席設けるか」
「申し訳ありません。お願いできますか?」
「分った。いつがいい?」
「一週間ほど空けて欲しいんです。遠藤さんにお土産を持って行きたくて」
「何をする気だ?」
 高槻は訝しげに一茂を見つめた。
「学図舎を少し調べてみたいと思うんです。死んだ加藤清志が最後に携わった仕事が委託業務の入札で、学図舎はその落札者でしょう。しかも今思えば五千万円を越える金が動く仕事ですよ。そこに加藤の怯えのわけが何かあるかも知れない。そう考えてもいいような気がします。ショウさん、そう感じませんか?」
 一茂は云って高槻彰刑事を見た。
「なるほどな」高槻は頷いて煙草に火をつけ「しかし上辺上は何の事件も起きちゃいないのに迂闊に動くわけにもいかんだろうが」と不満を口にした。警察の一員たるものが無届で捜査などできるはずがないのだ。
「シゲ。おまえが考えているのは入札談合か何かの不正なんだろうが、タレコミでもなければ尻尾を掴むのは難しいぞ。おまえも云っていたが、記録に不審な点はなかったんだろう」
「はい。確かに正当な入札が行われたようです。ただ、不自然なことがあるんですよ」
 一茂は云ってメモを取った手帳を高槻彰の前に広げた。ページいっぱいの大きさで表が書いてある。埋文センターで見た入札記録を一茂が書き写したものだ。一番上に業務名を書き、その下に指名業者名七社とそれぞれの応札した金額が一回目から三回目まで、そして最後に括弧書きで落札予算限度額五千二百五十万円となっている。業者名のうち上から三番目に記入された㈱学図舎には三回目の応札金額五千百八十万円という数字に丸印が付されている。
「予定額五千二百五十に対して落札が五千百八十なら、何の不思議もないだろう」
「そういう意味ではごく普通の入札です。しかしよく見てください」一茂は赤鉛筆を取って入札回数を示す一回目、二回目、三回目の文字を丸で囲んで「入札は3回行われています。全社とも予定価格をオーバーしているとその応札は不落札になり再入札になるわけです。二回目でもだめなら三回目というよう、にです。これでもし三回目でもだめな場合は入札中止。後日指名業者を入れ替えて再入札になるのだそうですよ」と続けた。
「それで?」
「この入札では二回でも落札せず、最後の三回目でようやく学図舎が落札しています」
「ますます正常じゃないか?」
「そう思いますか? ちょっとこれを見てください」
 一茂は各業者の一回目の入札金額上にある順番で①から⑦まで番号を振った。学図舎には①が振られている。
「一回目の各社の金額を安い順に並べるとこういう順になります。つまり金額が予定額内に収まっていれば①のついた業者が落札することになるわけです」
 高槻は身を乗り出した。
「二回目はどうでしょう」
 一茂は二回目の数字の上にも同様に番号を記入した。そして三回目にも……
 その順位はすべて一回目と同じだった。そして三回目に㈱学図舎が応札した金額五千百八十万円が予定落札額の条件を満たし、学図舎に落札が決定しているのだった。
「新聞に載っているとおり発注された仕事が新しいシステムだとするなら、何故それを開発した学図舎に特命随意契約で発注しないんでしょうね? 入札に付するというのはむしろ納得がいかない。そうじゃありませんか、ショウさん」
 一茂は一気にそこまで言い切って大きく息をついた。自分が相当興奮していることが分った。
「おまえの云うとおり、不自然だな。特定の業者が開発したものを使わねばならないならその場合は見積もりを取って詳細打ち合わせての随意契約とするのが妥当だ。だいたい他の業者が応札するというほうが不自然に違いない。他の業者は取りたくとも取る事ができない入札なんだ。発注者から声が出て付き合い入札を強要されたということか。だが何故?」
 高槻彰老刑事は自分に言い聞かせるように呟いて、ウンウンと頷いた。
「それだけ画期的システムだと思いますよ。今回をテストケースにして、上手くいけば埋蔵文化財発掘の世界では主流になるかもしれないほどの……」
 一茂は力説した。
「そうなのか」
 門外漢の高槻彰にはそう云われてもぴんと来るものはない。
「だから見かけ上公正な入札形式の発注に見せかけたかったんじゃないでしょうかね。もしかすると新システムと云っても採用する気になれば関連業者ならどこでもできるシステムなのかもしれませんしね。それを言い含めての入札執行なら……」
「ああ。立派な官制談合だ。無論、埋文センターと学図舎の贈収賄も問題になりそうだな」
 一度言葉をとめた高槻刑事は、新しい煙草を咥え火を点けてから一茂の目を見据え「迂闊な動きはするなよ。大問題になりかねんからな」と、釘を刺した。
「いい方法を思いついたんです。迷惑はかけません。それに俺が土産に持って行きたいのは談合や贈収賄のことじゃないですよ。……加藤清志の死が本当に事故だったのか。その可能性だけですからね」
 柏崎一茂はきっぱりと言い切った。


    4
 三百メートル四方はあろうかと思われる広い範囲を約二メートルの深さで掘り下げた仮称佐波原工業団地遺跡の上を木枯が吹いた。住居跡遺構の中にしゃがみ込んで掘削を続けていた作業員たちが、一斉に防寒着のフードを押え身を竦めた。
 遺蹟の周囲には低いフェンスが回され遺構面に降りるためのタラップが数箇所に設置されている。フェンス際に立って遺跡を見渡すと全体の七割は発掘が終了しているらしく、検出した遺構は保護のためのビニールシートで覆われている。遺構の数はかなり多い。発掘中のエリアを見ても作業員を入れている住居跡が八軒と手付かずが六軒見て取れた。
 開けている遺構の間を忙しそうに走り回っててきぱきと指示を与えている女性がいた。
 柏崎一茂はその女性に向かって「瑞穂センパ~イ」と大声で呼びかけた。
 どこから声が聞こえたのか気がつかず加藤瑞穂はあたりをキョロキョロ探していたが、やがてフェンスの向こうで手を振る一茂を見つけて手を挙げ「よう!」と挨拶を返した。
「降りてきなよ」
 瑞穂は男勝りの言い方をして、一茂のすぐ横に取り付けられているタラップを指差した。
一茂はタラップを降りて行った。他の調査員たちと同じように安全第一というシールを貼ったヘルメットをかぶり、胸の部分に佐波原市埋蔵文化財センターと刺繍がある作業着姿の瑞穂は遺構に挟まれたあぜ道のような細い部分をなれた足取りで一茂のほうにやってきた。瑞穂は一茂のすぐ前まで来て右手を伸ばした。
「ご無沙汰していました。大変でしたね。落ち着かれましたか?」
 瑞穂の右手を強く握って握手を交わしたが、そんなありきたりの挨拶しか言葉が浮かばない自分を、一茂はもどかしく思った。
「もう三ヶ月になるのよ。いい加減慣れないとね……。でもなんだか心にぽっかりと穴が開いてしまったみたいでさ」
「そうでしょうね。すみません。へんなこと聞いて」
 柏崎一茂は加藤清志が死亡した台風の夜から既に三ヶ月が流れたことを改めて感じていた。ぽっかりと穴が開いたようだと瑞穂は言うが、その口調からは過去は過去として現在を受け容れようという彼女の決意を読み取ることができた。学生のときに持っていた印象より強い女性のように感じる。それとも加藤清志と暮らした六年間の歳月が瑞穂を成長させたのだろうか。
「佐波原市警察署の遠藤刑事から連絡をもらいましてね。瑞穂先輩が以前の勤め先を辞めて、加藤先輩、いや、ご主人が勤務されていた埋文センターでパートしてるって聞いたものだから、懐かしくって今朝電話を」
「そうだったの。遠藤刑事さんには随分お世話になったのよ。でも、遠藤さんが何故君に?」
 瑞穂は不思議そうな目をした。
 一茂は遠藤大吾と知り合った経緯と、そのとき初めて加藤清志の死を知ったことを瑞穂に話した。
「なるほどねえ。だけど、君が私に連絡をくれた理由は何か他にあるようね」
 瑞穂は見透かしたように悪戯っぽい瞳を一茂に向けた。しかし一茂が答えようとするとそれを制すように「あ、積もる話もあるしね。あんまり現場空けるわけにもいかないから……。柏崎君、どうだい今晩一杯やろうか?」と誘った。
「いいですね。構わないんですか?」
「何云ってんの。れっきとした独身女性よ。多少董が立っちまってるけどね」
 瑞穂は楽しそうに笑い「どこかいいお店知ってる?」と一茂に頼った。
「それじゃぼくのほうで見繕って後で電話しますよ。現場は何時に上がります?」
「四時半には現場のプレハブに戻ってるよ。直通電話もあるし」
 瑞穂は現場の直通電話番号をメモして一茂に手渡した。
「じゃあ四時半丁度に電話入れますから……」
「分ったわ。待ってるよ」
 瑞穂は現場へと戻っていった。

 佐波原市内の店では職場に近すぎる。誰に見られるか分らず刑事と一緒では外聞が悪いだろうと一茂のほうから気を遣って、瑞穂とは八王子の駅前で落ち合った。約束どおり四時半に電話を入れ、八王子駅前で七時に、と伝えた。瑞穂は七時丁度にやって来た。
 改札を出た広場に立っている一茂を見つけ瑞穂は小走りに近寄ってくる。現場ではヘルメットに作業着姿、学生のころはジーンズにTシャツ姿くらいしか見たことがなかった。
 しかし濃いパープルのチェスターコートを着、軽くウェーブがかかった髪を風に揺らしながら駆け寄ってくる瑞穂の姿は一茂にとっても心躍るものがあった、一茂はといえばいつも通りもさもさの長髪にレイバンのタレ目のサングラスをかけ薄汚れたジーパンに黒の革ジャンという姿だった。ある刑事ドラマに登場するヒーロー刑事の出立ちなのである。
 瑞穂から考古学の指導を受けていた学生時代、先輩の瑞穂が卒業して自ずと考古の世界から遠のいた柏崎一茂は就職活動の時期に入った。そしてそのヒーロー刑事に魅せられた一茂は就職先の進路を短絡的に警察に向けたのである。
 一茂は瑞穂とともに花富士の暖簾をくぐった。一茂の従姉夫婦がやっている小料理屋である。飾るところのない小ざっぱりとした居酒屋で、カウンター席とそれに面した小上がりが三席、あとは二階に八畳ほどの小宴会ができる座敷が二部屋あるだけの小さな店だ。
「ごめんなさいね。お部屋空いてなくて」出迎えた女将がすまなそうな顔で一番奥の小上がりにふたりを案内した。
「加藤先輩、呑むほうも食べる方もなんでもオーケーでしたよね」
 テーブルを挟んで向かい合って腰を下ろした一茂は、女将から手渡されたお絞りで手を拭きながら瑞穂の顔を見た。
 学生当時よく行ったコンパと称した飲み会を思い出した。部活の合宿やいろいろな行事の打ち上げなどのときに十名とか二十名で大衆居酒屋に陣取り安酒を煽りながら語りつくすのである。当時の瑞穂は容姿の面で云うならそれほど目立つ存在ではなかったように思う。ただ自分の意見だけはしっかりと持っていて他からの圧力には決して屈しない一本筋が通った男勝りの性格だった。しかも酒は滅法強く、男子学生と飲み比べをしても一歩も引けをとらぬ程の酒豪として知られていたのを懐かしく思い出したのである。しかし自分の目の前に座っている瑞穂は、あのときの瑞穂と本当に同一人物なのだろうか? 一茂はふとそう感じた。歳月が瑞穂をこうまで変貌させるとは俄かに信じることができなかった。脱いだコートをきちんとたたんで傍らに置いた瑞穂は、白の幅広襟のブラウスに黒のフレアースカートという姿で腰にシルバーカラーの細いベルトを飾っている。そんな瑞穂の変貌が一茂には眩しかった。
「ひどいわ。まるで大酒飲みみたいじゃない、それじゃあ。でも、そうね」
 瑞穂は掌を口に宛て、笑い声を出した。
「本当に失礼よ。一茂」
 女将が瑞穂に申し訳なさそうに相槌を打ち、一茂を窘めた。
「飲み物はビール。肴はお任せ」と一茂はぶっきらぼうに注文をした。
「はいはい、わかりました。」と一度一茂を強く睨んでから瑞穂に目を向け「ごめんなさいね。こまった従弟でして」と申し訳なさそうに微笑んで見せた。
「あら、従姉弟同士なんですか? 一茂くんと」
「そうなんですよ。何か失礼がありましたら言って下さいね。叱っておきますから」
 女将は笑って、一度下って行った。

 女将の勧める料理に舌鼓を打ちながら、一茂と瑞穂は懐かしい思い出話に花を咲かせた。
 屈託のない笑顔で話す瑞穂はつい数ヶ月前に亭主を亡くしたばかりとは思われない明るさを見せていた。瑞穂が強いのかそれとも後輩に対して弱い面を見せまいと気丈に振舞っているだけなのか一茂には判断できなかった。
「瑞穂先輩変わられましたね」
 ビールを酒に変え、瑞穂の頬がほんのりと色づいたところで一茂がさりげなく切り出すと、瑞穂は悪戯っぽい瞳を一茂に向け「どういう意味?」と絡んだ。
「先輩がこういうファッションで呑んでるところ、初めて見ました」
「一茂君、それって私を口説いてるわけ?」
 瑞穂が瞳を覗き込むように見つめるので一茂は少しどきりとし「ええ。そうですよ」と答えた。
「そう。……ありがとうね。慰めてくれてるんだ」
 瑞穂はふっと息を吐いて、突然思い出したように一茂に質問した。
「ねえ一茂君。昨日の朝センターの私に電話くれた本当の用件は何だったの?」
「加藤先輩が台風の事故でなくなられたことを一週間もあとになってから知ったんです。遠藤さんを通してね。あんなに慎重だった加藤先輩がどうして? そう思ってセンターへも伺ったんです。だけど結局何も掴めなくて……。事故扱いになって不満はあったんですけど、管轄も違うものだからどうしようもなくって」
 一茂は口惜しそうに云ってぐい呑みの酒を一気に飲み干した。
「一茂くんがそういう顔をするところを見ると、事故死と割り切るには不審な部分があるってことだよね」
 瑞穂は一茂の口惜しそうな表情を目ざとく見て取りつけ、確かめるように云って一茂の空いたぐい飲みに酒を注ぎ足した。
「ええ、まあ……」
「佐波原市警察署の遠藤刑事さんから私がセンターで働き始めたことを聞いて、もう一度調べてみようと思ったわけだ。図星でしょ」
「昨日の新聞記事が恰好のタイミングを作ってくれましたからね」
 一茂は作り話をするのをやめた。瑞穂には既に読みきられていると諦めたからである。考えてみれば瑞穂に連絡をしたわけを秘密にしなければならぬ理由もないのだ。
「なるほど。そういう理由か」
 瑞穂は納得したように呟き「それじゃ私も白状するとね、加藤が何故あんな事故に巻き込まれたのか合点がいかないんだな。それで加藤が勤めていた埋文センターに潜り込んだってわけ。何か判るんじゃないかと思ってね,」と一茂が思いもしなかった言葉を口にした。
 長年勤めた仕事先を辞めてまで埋蔵文化財センターの中での加藤清志の足跡を探そうとするからには、加藤の死というものについてよほどの疑問があるのだろう。
「瑞穂先輩なら職歴も経験も凄いからセンターも願ったり叶ったりだったでしょうけれど、何か不審な点でも?」
 一茂は瑞穂を見つめた。驚いたことに瑞穂の目にうっすらと光るものがあった。
「あの人、一茂くんも知ってのとおりあんまり評判が良かったわけじゃないでしょう。とくに出世欲は異常なくらいだった。親しい仲間を踏み台にしてでも自分が上に行こうとするような、ね」
「わかります。悪いけれど、よく分ります」
「いいよ、気を遣わなくて」
 瑞穂は笑って見せ「あの人にとっての出世欲というのは、金銭欲とイコールだったのよ」
と続けた。

 瑞穂が云うには、加藤清志は幼くして父親と死に別れ、その後母一人の手で育てられた。暮らし向きは苦しく、アルバイトと母親の努力とでなんとか大学を卒業することができた。 
 金に対する強い執着心は体験してきた貧困生活によって培われたものであるという。当然金の管理には細かく、外では豪気を装い、とくに上司と一緒の時などには気前良く財布の紐を緩めて見せたがその実百円のものを買っても領収書をもらうのを怠らなかった。家庭内では嫌になるほどしみったれた口うるささがあったらしい。
 ところが瑞穂の言葉から推し量ると、そんな加藤の金銭感覚がある時を境にして百八十度変化したらしい。
 たとえば――それほど潤沢に小遣いを持たせているわけでもないのに酔って帰ることが多くなった。一流品とは云わぬまでも、プレゼントと称して瑞穂にいろいろな装飾品などを持ち帰るようになった。こっそり財布を開けてみると、給料日前にも拘らず数万円が入っていることもあった。等々、以前はなかったようなことが度々起きるようになった。そしてそのような変化と同時にもともと用心深かった加藤の性格がますます強くなり、むしろ何かに怯えているのではとさえ感じられるものになったという。
 ある時とはいつのことか。それは加藤が埋文センターに入所し調査課長職へ昇格したときが契機になっているようだと瑞穂は分析している。調査係長と調査課長では実務的にどう変わるのか。それはまったく異なったものになる。調査係長のおもな仕事が発掘調査現場での調査員の発掘指導・指揮であるのに対し、調査課長は体外的な部分まで含めた発掘調査の管理運営なのだ。権限がまったく違ってくる。作業員の採用、予算の執行、発注業者の選定などの重要な部分が調査課長の考えで方向を決めることになる。しかも瑞穂が云うには責任者である調査部長職は市教委の事務方OBの発掘調査には素人以下の門外漢。
了解了解と何でも認めるばかりの、加藤清志にとってはこの上なく扱いやすい人物だったらしい。
 これが事実だとすれば入札物件の落札者である学図舎と加藤清志との間に何らかの繋がりがあったとしても不思議ではない。一茂はそう思った。

「亡くなる二日前だったかなあ……元の職場に突然電話が入ってね、八王子市内のホテルにいるからすぐ来いって……。何事かと思って行ってみたらねスカイラウンジ予約してあって、たまには食事して帰ろうだって。そんなこともあったなあ……」と、昔を偲ぶような目をして加藤清志の変貌を思わせる最後のエピソードを話し終えた。
 もちろんその話が結婚式の打ち合わせに出向いた日のことだと一茂はすぐ気がついた。そしてそのことに気がついた途端、一茂の胸にわだかまっていた総てのしこりが氷解した。
 加藤清志に突然呼び止められ立ち話をしたときに感じた加藤のおどおどした態度。彼の不可解な死。それが事故死と断定されたことによる違和感。瑞穂の話を聞いてその歯がゆい苛立ちがたちまち消えていったのである。
 


第三章 怯えの理由

     1
 十時過ぎまで飲んでタクシーを呼んだ。
「もう一軒行こうよ」
 瑞穂は駄々をこねるような素振りをみせたが「明日早いんだから。今日はこのくらいにしときません?」と一茂が窘めると、思ったより素直に納得してタクシーに乗り込んだ。
花富士の女将と並んで立ち、走り去るタクシーを見送りながら一茂は「篤子ネエ。今週いっぱいここに泊めてもらえるかな」と訊いた。
 一茂は女将のことを普段は篤子ネエと呼んでいた。
 柏崎一茂が従姉夫婦の住まいに泊めてもらいたいと頼んだのは翌日からスタートする新システムを見学するために、朝一番で加藤瑞穂が指揮を執っている発掘現場に行くためだった。場合によっては贈収賄の証拠を得る為に、結婚披露宴の総合司会を勤めたあのホテルに向かう必要が生じるかも知れない。どちらにしても多摩市のアパートに一度戻ってしまうと無駄が大きいし、週末まで現場近くにいたほうが良さそうな気がしたからだった。
「構わないよ。店の二階でもいいかい?」
「雨風しのげりゃどこだって」
 一茂は笑った。
「それじゃあ中で飲みなおそうか。うちの人も今夜はもう上がりだって言ってたし、明日は店はお休み。ふたりしてね、夕方からデートなんだよ」
 タクシーが見えなくなると女将は店の暖簾を外し、楽しげに笑いながら先に立って中に入っていった。

 一時間ばかり世間話に花を咲かせて、従姉夫婦は店のすぐ裏手にある自宅へ引き上げた。 
 自宅と云っても2DKの小さな賃貸アパートである。だから泊めてもらう時は店の二階奥の休憩室に布団を敷いてもらった。普段は物置代わりにしている空き部屋だが畳敷きだし寝具も用意されていたので居心地が悪いこともない。むしろ子供時代に夢見た秘密の隠れ家のような気がしてなぜか心がときめく空間なのである。
 従姉の篤ネエが敷いてくれた布団に横たわって目を閉じると、加藤清志と最後に会ったときのこのことが頭に浮かんだ。
 あの時加藤清志は一茂を見つけ自分のほうから声をかけてきた。女房と待ち合わせて食事をすると、詰らぬことを訊かれもしないのに一茂に話した。だがそれは嘘ではないだろう。加藤と別れてホテルを出ようとしたとき瑞穂とすれ違ったことを覚えているし、瑞穂もそんなことがあったと打ち明けたではないか。しかしそれならば何故加藤清志の瞳にあのような怯えが漂っていたのだろう? どこかが妙なのである。
 加藤が柏崎一茂に対してとった奇妙な行動には何らかの意味があるはずなのだ。
 一茂は布団から起き上がり脱ぎ散らかした革ジャンを手繰り寄せると、ポケットから煙草とライターを取り出して、つぶれかけたケントの箱から最後の一本を口に咥えて火を点けた。
「そうだよ……。ありえないんだよ、そんなことは」
 味わうようにゆっくりと煙を吐きながら一茂は自分に言い聞かせた。瑞穂とホテルで食事をする約束だと加藤は云った。それならばレストランなりラウンジなりに何日か前に予約を入れておくのが普通ではないか。しかも瑞穂の勤め先に夕方突然電話を入れ誘い出したというのも腑に落ちない。少なくとも夫婦が約束して食事をともにする姿としてはさまにならない。きっと加藤の身が突然女房を呼び出さなくてはならない非常事態に見舞われたというところだろう。
「読めた」
 一茂はすべてを読みきったと感じて膝を叩き、唇の端に小さく笑みを浮かべた。
 佐波原市埋蔵文化財センター調査課長の加藤清志は㈱学図舎と結びつき、入札に便宜を図る見返りに相応の饗応接待を受けていた。金品の授受があったかもしれない。
 あの日加藤がホテルに行った理由は、翌日が入札日であることから見てきっと落札予定金額などの情報を学図舎に伝え、饗応を受けるためだったのだろう。つまりあの日加藤が食事を共にするはずだった相手は瑞穂ではなく学図舎のだれかだったということである。加藤と学図舎との結びつきがいつから始まったかといえば、瑞穂の話から推測すると今年度はじめ、即ち加藤清志が調査課長職に就いた頃からと考えてよさそうだ。
 だから加藤調査課長の態度に表れていた怯えは、結局不正な関係を作り上げてしまったことによって必然的に湧き上がる恐れに起因するものだったのだ。平たく云えば「バレたらどうしよう」ということである。
 とにかく不安に包みこまれた状態でホテルまで出向いた加藤は、一歩ロビーに足を踏み入れた瞬間ある人物を見かけて震え上がった。加藤が見かけたあある人物とは多分自分だろう。柏崎一茂は確信した。
 埋蔵文化財の世界で収賄罪という犯罪を重ねている気の小さな男が群衆の中に考古学かぶれの刑事を見つけたならどう思うか……
 警察による捜査の手が伸びてきた。気の弱い加藤清志がそう考えたとしても何の不思議もないだろう。動転した加藤は一度外に出て公衆電話ボックスを探す。ホテルで待機しているはずの学図舎の人間に電話を入れその指示を仰ぐためだ。
 加藤はその人物の命じるまま瑞穂の勤め先に電話を入れ、ホテルで待っているから食事でもしようと伝えるわけだ。
 あとは知ってのとおりある。
 加藤清志が見せた不可解な行動はこういうシナリオの上に立って眺めると合点がいくものになってくる。きっとあのホテルに立ち寄って宿泊者リストを洗えばあの日の欄に間違いなく学図舎の誰かの名前が見つかるはずだ。柏崎一茂は自分の推理に絶対的自信を持った。しかし確信すればするほどある苛立ちが湧き上がるのを一茂は抑えることができなくなったのである。それは加藤の死を知ったときに直感的に感じた疑問、つまり加藤はなぜあの夜あの場所へ行ったのかという謎が一向に解けてこないというもどかしさだった。
 用心深かった加藤清志の性格からして、あんな台風の夜に河岸段丘上の危険な区域に立ち入ることなど考えられないということ。最近の加藤が何かに怯えている様子だったという証言。ホテルで出会ったときの奇妙な行動。そのような事柄から判断して、一茂は加藤の死が事故ではなく他殺の可能性もあるのではと感じていたのだった。だが推理の内容にほぼ間違いなかろうと納得すればするほど、他殺説は影を薄くするのだった。なぜなら加藤の怯えというものが実体のないものだからである。罪を犯しているという後ろめたさが加藤を脅していたということなのだ。
 他殺という線はありえないのか……
 そう感じた瞬間、一茂の頭の中を雷光が走った。いや、もうひとつ可能性がある。
 それは自殺という二文字である。
 加藤清志は日ごと強くなる自分が犯してしまった罪の呵責に耐え切れず、あの台風の晩自殺を決意して増水した濁流が逆巻く河岸段丘の上に立ったということである。こう考えればなぜあのホテルに饗応を受けていた業者の人間が待機していようがいまいが話の辻褄は見事に合ってくるではないか。加藤の怯えた様子も、突然瑞穂を呼び出したことも説明がつくのだ。
 一茂はタバコの火を灰皿にもみ消して横になった。たちまち睡魔に襲われる。眠りの淵へいお誘われようとする中で、一茂は、「もし自殺ならそれはそれで仕方がないさ……」という諦めの声を聞いていた。声はさらに「もともと事件でもなんでもないんだから気にしなくてもいい……」と重なる。そしてそうかと思えば声はまったく異なることを囁いたりするのである。
「何かを見落としているだろう。何かひとつ忘れていることがあるだろう……考えろ……それが何だったのかを思い出せ……」
 頭の中で入り混じった自分自身の声は一茂を混乱させた。それは簡単に解きほぐすことができるもつれた糸のようなもののはずだった。しかしどの角度から考えてもいまひとつ何かが足りないのである。あの晩癒着した業者がホテルにいたのかということ瑞穂との行動が芝居だったとすればいたであろうし、もし加藤が覚悟の自殺を遂げたのだとすればいてもいなくてもそれほど意味を持たないことになる。加藤の怯えが自殺の原因にしては希薄すぎるようにも思われるし、事故にあった場所へ足を踏み入れなければならない理由も見えてこない。
 概ね間違いないと思われるのは加藤清志と学図舎の間に癒着構造があり、それをコアとした入札談合が行われただろうということくらいなのだ。これとて三ヶ月も前のことで、関係の書類等も正式に提出されていることから今更蒸し返してみても何の利も出ては来ないだろう。
 総てが読めたと感じたここまでの推理はもしかすると加藤の死とはそれほど関係のないことばかりなのかもしれない。柏崎一茂は少し弱気になった。『自分が重大な何かを忘れている』という感覚を拭い去ることができないからなのだった。
 どちらにしても情報は少ない。明日瑞穂に会えばさらに何か材料が出るかもしれないし、学図舎の人間とも会うことになるだろう。新しい展開を待ってみるほか方法はない。
 一茂は自分にそう言い聞かせて部屋の灯りを落とした。

    2
 地図で探した発掘現場最寄の駅で下車し改札を出た。腕時計を覗くとまだ七時半を回ったばかりだった。少し早すぎると思ったが駅にじっとしていても仕方がなかったので、柏崎一茂は散歩がてら現場へと向かうことに決め、歩き始めた。
 西に向かってに約十五分ほど歩いて建売の戸建住宅地を抜けると遺跡サイトに出る。住宅地では駅に向かう会社勤めと思しき幾人かとすれ違ったが、薄汚れたジーンズに革ジャンをはおり金縁でタレ目のサングラスをしたボサボサ髪で背の高い男に対して皆不審の目を向けて通り過ぎるばかりだった。
 柏崎一茂は住宅地を抜け、大型車両がひっきりなしに行き交う広い道路をなんとか渡って発掘現場に到着した。そこは一辺約三百メートル四方の正方形に近い遺跡範囲の中で東のほぼ中央に当る地点だった。
 遺跡に到着したといってもいま渡った道路際から一メートルほど下に雑草に覆われた表土面があり、その五メートルほど向こうから遺跡面が掘り下げられている。歩道に立って見渡すと丁度遺跡の反対側に発掘事務所のプレハブが霞んでいる。
 表土面に降りることさえできれば遺跡の縁に沿ってコの字形に行けば良いわけだからそれほど遠いこともない。しかし一茂が立つ道路から表土面に降りるための手立てがなにもなされていないのである。道路を行くならはるか前方に霞むように見える信号のある交差点を左に折れて回り込むのだろうか? ひどく遠回りになることだろう。
 表土面まで飛び降りても一メートルそこそこだから簡単だが、すぐ目の前の看板に書かれている『遺跡調査中・危険につき立ち入り禁止』の文字が一茂を躊躇させた。
 まだ時間も十分あると自分に言い聞かせて道路沿いの歩道を一茂は再び歩き始めた。
 背中にクラクションが聞こえた。
 車は一茂を少し追い越したところで歩道すれすれに車体を寄せて停車した。
 助手席のパワーウインドーが開き「一茂くん、早く乗って」と瑞穂の声が聞こえた。
 小走りに近付いて社内を覗くと加藤瑞穂が屈託のない笑顔を見せてハンドルを握っている。
 一茂は言われるままに助手席に乗り込んだ。
「昨日は往復タクシーだったんで。いや本当に助かりました」
 一志は恥ずかしそうに頭をかいて「地図で見りゃあすぐなんだけどなあ」と照れ笑いを浮かべた。
「向こう側のほうが遺構の密度が濃いんだ。云うならばこの辺りは遺跡の舞台裏ってとこかな」
 瑞穂は車を出し一茂が先ほど歩道から眺めた信号機のある交差点まで来て左にハンドルを切った。遺跡の北側を迂回する形で事務所へと向かうようだ。
「昨日はどうもありがとうね。また行こうよ……。ところでどう? 少しは推測がついた?」
 瑞穂は昨晩の礼を言たあとすぐにそう切り出してきた。
「……」
「だってこんなに早くやってきたのは、現場に作業員が集まる前に話しをしてしまおうってことでしょ。違う?」
「かなわないな瑞穂先輩には」
 一茂は苦笑して話し始めた。
「情報が少ないんでいまのところ単なる推論でしかありませんがね」
 一茂はまずほぼ間違いないと思われる部分、即ち加藤清志と株学図舎の間に癒着関係があり学図舎に対して加藤が入札に便宜を図ってやる見返りを受けていただろうということを瑞穂に告げた。瑞穂にとってかけがえのない夫が犯罪に手を染めていたという辛い話のはずで一茂としても話し辛かったが、瑞穂はそれほど衝撃を受けた様子も見せなかった。
 車が丁度プレハブの前に到着した。
 プレハブは隣接して二頭並んでいる。六×十メートルほどの棟とその二倍ほどのものだった。小さいほうが三区に分割された遺跡の各担当調査員と、彼らを統括指揮する主任調査員である瑞穂が使う事務所棟。 大型のプレハブは作業員たちの詰め所兼休憩所として使われているのだがまだ誰も来ていないようだった。瑞穂はエンジンをとめて車から降りた。
事務所棟の施錠を開けると瑞穂は「どうぞ」と一茂を促した。
 引戸を開けて事務所に入ると板張りの床がぎしぎしと音を立て、室内に充満した埃っぽい空気を撹拌する。
「更地の上のプレハブ小屋だからね。埃がね……」
 事務所内は縦長の一部屋で入り口側およそ三分の二が事務所スペースとして割り当てられその向こう側、左の壁沿いに小上がりのような畳を敷いた六畳の休憩所がある。右側の奥にはユニットの流し場とプロパン式のガスコンロが設置されていた。
 事務所スペースには周囲にパイプ椅子数脚を置いた会議卓が一台据えられ、事務机が左壁の窓を向いて三台と入り口を入ってすぐ右に一台置かれていた。

「きっとそういうことだとは思ってたんだ」
 流し場で薬缶に水を汲みコンロにかけて戻ってきた瑞穂は、会議卓のパイプ椅子を引いて一茂に勧め、自分もその正面に腰かけた
「今日から始まる委託業務の落札業者だよね。相手は」
「そうです。でも証拠はないし入札処理は正式に終了していますから、今更妙なことにもならんでしょう。まあこれは遠藤さんの署が管轄するわけだから、向こうの判断になるんですけれどネエ」
「脅かさないでよ。それで?」と、瑞穂は一茂に先を促した。
「やっぱり、それで? って思いますよね。」
 一茂は苦笑した。
 一茂にしても瑞穂にしても知りたいのはそんなことではない。加藤清志があの台風の夜あの場所に立ちそして死んだ。その理由なのである。それは十分に分ってはいるが、まだ自分の頭の整理もつかぬうちに無責任なことは言いたくなかった。
 そうかと云ってあれこれ掘り返して調べることも憚られる。休暇はあと三日間しかないし、その上管轄が違う。いやそれよりもなによりもいまのところ事件さえ起こっていないことになっているのだ。休暇中とは言え多摩中部警察署の刑事である一茂が他の警察署の管轄する地域で勝手な行動をとり、問題を起こすことだけはしてはならない。
 ならばいっそ諦めて瑞穂にも話はこれまでということにし、これ以上の詮索は止めにしてしまおうか。ふとそんな考えまで頭を過ぎった。それはこれまでの努力もしがらみも総て捨て去って平穏な時間ににじっと身を隠す一般的に『逃げ』というものだった。
 しかしそれならばなぜ高槻彰刑事に頼み込んで休暇までもらい自分は動き始めたのか?
 事故という形で結論付けられた加藤清志の死の真相に遠藤刑事たちは納得したのだろうか? 加藤の死を知って埋蔵文化財センターにまで足を運んだときの柏崎一茂の疑問はひとつも解き明かされてはいないにも拘らずである。このままでは遠藤刑事にも彼と一席設ける準備をしている高槻彰刑事にも合わす顔がない。
「まだ分らないか。私から聞いた話だけだからね。でも気になることがあればなんでも話して」
 瑞穂はそういって立ち上がった。奥で薬缶の湯が沸く音が聞こえる。
 一茂は思い切って話し始めた。
「さっき話した収賄の件はほぼ確実だと思います。しかしそれが加藤先輩の死にどう係わっているのかがまだ見えません。いやもしかしたらまったく繋がりのないことなのかもしれないし……」
 瑞穂はポットに湯を移し変え、急須や湯呑みとともに盆に載せてテーブル代わりの会議宅まで運んできた。瑞穂が茶を入れる様子を目で追いながら、一茂は昨夜寝床の中で考えたことを総て語った。自分でも嫌になるくらい分らぬことのほうが多い、取り留めのない話だった。話し終えた一茂は瑞穂が入れてくれた茶で口の渇きを癒し、瑞穂の様子を窺った。
 頷きながら黙って話を聞いていた瑞穂は一茂に不満そうな目を向けた。
「それじゃ一茂くんはあの人が自殺したと考えるのがいちばん話の辻褄が合うって言うんだね?」
「そうじゃありませんよ。そういう選択肢もあると……」
「ないよ。そんな選択肢は」瑞穂は一茂を制してきっぱり言いきり「一茂くんだってあの人が自殺なんかできる人かどうか分るでしょう」と加えた。
「そういう先入観をまず全部なくしたところから考え始めなくちゃだめなんですよ」
「そんなこといったってさ、……」
 瑞穂はなおも不満そうに口を尖らせる。
「いいですか。加藤先輩の怯えの原因が、犯している犯罪について周囲から疑いの目を向けられている強迫観念に苛まれてのものだったとすれば、それに耐えられなくなることはよくあることなんです。疑心暗鬼って奴ですよ。これは創造ですがネ、さっきも言ったとおりもしかしたらあのホテルで加藤先輩は学図舎の誰かと落ち合う約束だったのかもしれない。ところが私を見かけたことでパニックに陥った。業者から対処方法を指示されて瑞穂先輩を呼び出したというわけです。」
「それでもうすぐそこまで捜査の手が伸びてるっておもいこんだってわけ? 確かにありがちな筋書きだよね。でもね一茂くんひとつ忘れていることがあるんじゃない?」 一茂はどきりとした。確かに自分は何かひとつ忘れていることがある。それをまだ思い出せないでいるのだ。
「忘れている?なんだろう……」
「あの台風の日、加藤は誰かに呼ぶ出されて出て行ったんだよ」
 一茂のとぼけた言葉に瑞穂は鋭く切り返した。
 感極まった瑞穂の指摘に、一茂は脳天を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。瑞穂が口にしたこのことだけで様相はまったく違ってくるのである。瑞穂との間に気まずい時間がながれそうになったがそれは丁度出勤してきた若い調査員の「おはようっす」という元気よい挨拶に救われた。

    3
 三区に分割した夫々の調査員たちが発掘事務所に出揃ったところで瑞穂は柏崎一茂を紹介した。あくまでも大学時代の後輩ということでそれ以上の身分などは一切言わないことにして、もし興味を持つものがいればそのときは事情があって所属を明かすことは控えるけれども国家公務員には間違いないということにしようと打ち合わせていた。来跡の目的は画期的な方式と新聞紙上に発表された発掘調査支援システムの見学ということにしたが、これは嘘ではない。
 ひと通り朝の打ち合わせを済ませて調査員たちはプレハブ小屋から各持ち場へとタラップを降りて行った。フェンスの下に広がる遺跡を眺めていると瑞穂がやってきて横に立った。
「システムを使っての作業は午後二時半くらいからだって。今日は基準になる標識の設置とか言ってたよ。撮影は明日らしい。……一茂くんそれまでどうする?」
 休暇まで取ってきてくれている一茂を気遣って瑞穂はそういった。
「それなら私はそのくらいの時刻にまたお邪魔することにします。いろいろ当ってみたいこともあるし」
「そう? うん。そのほうがいいかもね」と瑞穂が頷くと一茂はそれには答えず変わりに「瑞穂先輩。ひとつ頼みがあるんですが」と瑞穂に視線を向けた。
 「なにかしら?」
 瑞穂は思いついたように言う一茂を見つめた。
 一茂の瞳には悪戯小僧のようにきらきらする光が宿っていた。
「もし午後やってくる学図舎の人間の中に営業担当の緑川という名の男がいたらですね、私のことをそれとなく伝えておいて欲しいんですよ」
「え? どういうこと?」
「そのとき伝え方としてはこういう風にしてください。まず私が警察関係の人間だということは絶対に言わないこと。あくまでも大学の考古学科の後輩で、現在は大きな意味での調査を担当する大きなセクションに勤務している公務員ということにでもしといてください」
「なるほどね。私と考古学つながりで調査担当の大きなセクション。しかも公務員だって聞いたら誰だって文化庁を連想するからね」
 一茂が考えていることを察したのか瑞穂は思わず笑い声を出した。
「文化庁と思しき組織の人間が秘密裡にシステムの作業を見に来ている。そう思うでしょうね? 間違いなくそう思うわね……。業者の営業担当者が文化庁の人間と人脈を作る絶好のチャンスを逃すわけがないってわけだ」
「こっちから近付くよりも警戒されないでしょうからね」
 にやりと笑みを見せた一茂は「それから、一応あとで私のほうから埋文センターの野上さんに連絡入れときます。個人的に見学させてもらうってことで」
「分ったわ。捜査のためじゃないってことだね。事務次長から連絡でもあればうまく言っとくよ。……」
「よろしく。じゃ、あとでまた……」
「一茂くん」
 話を終えて立ち去りかけた一茂の背中に瑞穂が声をかけた。
「これ、使って」
 瑞穂は言って作業服のポケットから取り出したものを一茂に抛った。
 受け取ってみると瑞穂の車のキーだった。車があったほうが遥かに効率よく動くことができる。午後にまた寄るのだからそのときに返せばよいだろう。
 一茂は感謝の言葉を返す代わりに受け取ったキーを頭上で大きく振って見せた。

 柏崎一茂が向かったのは加藤と偶然に出会った八王子市内のホテルだった。ロビーの正面にあるフロントへと歩を進める。一茂の風体を目にしてフロントの職員たちは警戒の視線を一茂に向けた。精悍な面構えの上背がある屈強そうな男がわき目も振らずに自分のほうに向かってきたならば、しかも着ているのがジーンズのパンツにテラテラと黒光りする革ジャンで、そのうえ髪の毛がぼさぼさの天然パーマだったりしたら尚更のことどんな人間だって警戒するに決まっている。フロントマンたちの警戒はもはや怯えに近いものだった。
 
 一茂はフロントマンたちの警戒など意にもとめずカウンターの前に立った。
「いらっしゃいませ」
 一茂が前に立ったフロント職員は緊張で直立不動の姿勢を保ったままやむをえなく歓迎の挨拶をする。
「すみません。宴席係の山口さんはいらっしゃいますでしょうか?柏崎一茂と申しますができれば十分ほどお時間をいただければと思いまして」と取次ぎを頼んだ。
「山口でございますね。少々お待ちいただけますか」
 フロント職員は少しほっとした様子で内線電話を取った。
 てきぱきと取次ぎ受話器を置いた職員は「ただいま参りますのでロビーでお待ちください」とロビーの片隅にいくつか置かれた肘掛け椅子を指し示した。
待たせることもなく姿を見せた静香はロビーを見渡したが一茂に気がつかなかった。フロントで訊ねて一茂のすぐ傍までやって来てもまだキョロキョロと周囲に目を泳がせているので、一茂は立ち上がって「どうも」と小さくいった。静香はようやく気がついて目を丸くし「うそぉ」と声を出した。あの披露宴以来だから無理もないのかもしれない。総合司会をしたときの一茂は髪の毛も短くカットして撫で付けていたし、服装も礼服だった。それが今は……
「カッコイイ」
 思わず呟いた自分の言葉に誘発されて、静香はついに笑い出した。突然の笑い声にロビーにいた十名ほどの客たちが注目する。一茂は慌てて静香の腕を掴んでロビー横のコーヒーラウンジに引っ張り込んだ。

 注文したコーヒーが運ばれてきたときには静香の笑いもようやく収まっていた。
「そういえば兄貴から聞いたことがあったわ。一茂くんテレビドラマに出てくる刑事みたいな格好してるんだって。本当なんだねえ」
「それにしたって、笑いすぎだろうが」
「ごめんなさい。でも……」
 また笑い出したくなるのを抑えて、静香は持ってきた打ち合わせ帳をテーブルの上に開いて「一応打ち合わせってことにしておかなくちゃ。規則だから」と一茂の言葉を待った。
「静香ちゃんに頼みたいことがあるんだ。非公式だからメモは取らないでほしい」
「ヤバイこと?」
「相当ヤバイ」
 一茂がもっともらしく頷いてみせると静香は好奇心いっぱいの表情で言葉の続を促した。
「披露宴の司会の打ち合わせをした日のことなんだけれどね。あの台風の前日のことだよ。このホテルのスカイラウンジで考古学の学者夫婦が夕食を食べているはずなんだけど、その支払いがどうなっているかを調べてもらえないかな?」
「えっ? 無銭飲食があったなんて騒ぎは聞いてないけど」
「いや、そうじゃなくて。その学者が食事のあと自分で支払いを済ませて帰ったかどうか? それが知りたいんだ。正式にホテルに問い合わせるには複雑な手続きが必要になるし、やれプライバシーだとかやれ個人情報だとかやかましくてなかなか教えてもらえない。どうかな、調べてもらえるかい?」
「わかったわ」
 静香はこくりと頷いた。「スカイラウンジはホテルとは別なんだけど、かえって調べやすいかも。ラウンジの会計に友達がいるから今晩にでも聞いといてあげるわ。それで分った事はどこに連絡すればいい?」
 一茂は花富士の番号を伝え、静香がメモし終えるのを確認してから「金曜日の朝までここに居る。従姉の店だ・時間は夜十一時から朝の七時半の間なら何時でもオーケー。それ以外ならこっちから連絡するんで電話に出た人間に連絡先を伝えといてくれ」
 一茂は知りのポケットに無造作に差し込んでいた札入れを抜き出し「軍資金だ」と云って一万円札を一枚静香に渡した。
「サンキュー」
「慎重にな」
「ヤバくなってきたときはどうしたらいい?」
「決まってるさ」
「……」
「だれかぁー、助けてー。大声でな」

 警察が絡んでいることを知られたくない件なので自分が前面に出るわけにはいかない。くれぐれも注意して、もし危ないと思ったら諦めて構わないからと念を押し柏崎一茂は山口静香と別れた。
 ホテルのすぐ横にあった電話ボックスから佐波原市埋蔵文化財センターに電話を入れて野上博之事務次長を呼び出す。野上はいかにも懐かしそうに「いやあ、これは柏崎刑事さんご無沙汰しております。お元気で何よりです」とはしゃぎ声を聞かせた。
「ありがとうございます。野上さん、今日はひとつお願いがあって電話を入れさせていただいたんですが」
「それは何か進展があったということですか」
「いえいえそうではなく。プライベートなお願いなんです」
「と、いいますと?」
「現在そちらで手がけておられる工業団地遺跡の調査に、新しい方式を導入されるそうですね。それが新聞記事によるといよいよ明日からスタートらしいですね」
「はい、その予定ですが……」
「見学させていただくわけには行きませんかねぇ? お恥ずかしい話なんですが、今でも学生時代の集まりなんかが結構ありましてねぇ。話の種といいますか……」
「構いませんよ。あいにく私は明日から一週間ばかり海外出張になるので同行はできませんが。分りました。じゃあ私のほうから現場の主任調査員に、柏崎さんが見学に行くことを伝えておきましょう」
 野上博之はあっさりと了解した。

 柏崎一茂は再びハンドルを握った。
 向かうのは加藤清志が滑落して死亡した中津川を見下ろす段丘である。今までの情報ではことさら行く理由もないはずの市街化調整区域だということだが、何かひとつでも加藤がその土地に踏み入った痕跡が残ってはいないか、一茂は自分の目で確かめてみたかったのである。


     4
 柏崎一茂が工業団地遺跡の現場に戻ると㈱学図舎の作業員が六名ほどが既に遺構面に展開して光波測距儀やレベルなどの測量機材を据え付けて業務に着手していた。一茂が車を降りる気配を察し、瑞穂がプレハブ事務所からヘルメットをふたつ手に持って出てきた。
「どうだった?」
 瑞穂は一茂の顔を見るなり訊ねた
「直に分ると思いますよ。手配してきましたから」一茂が言うと瑞穂は少し不満げな顔をしたが、まあいいかと思いなおしたように「野上からも電話は入ってたわ。一茂くんにヨロシクってさ」といって笑った。
「学図舎のほうは営業職は来ていましたか?」
「ええ。来ているよ。緑川隆俊っていう名の営業部長がね。例の話したら本当に目の色が変わった。一茂くんもさすがだね。現場に出て監督してるけど一茂くんのことものすごく気にしてた。じき顔を出すと思うよ。きっと」
「それなら先にこっちから出向いてさし上げましょうか」
 一茂はにやりとして瑞穂から受け取ったヘルメットを被り、先に立って現場へのタラップを降りた。

 遺跡中央部分にある住居跡に腰を屈めてなにやら指示を出していた男が、一茂と瑞穂が遺跡面に降りたのを目敏く見つけ立ち上がった。百メートルくらい離れや場所だから、瑞穂が言うとおり、それなりに気を配っていたと思われる。男は衣服に少しついてしまった土埃をハンカチで払い、一茂たちのほうに急ぎ脚でやってくる。一茂は男が醸し出す雰囲気に遺跡の発掘現場にはそぐわない何かがあると感じた。それは簡単に分った。男のいでたちが高級そうな紺の上下と白いワイシャツにエンジの無地のネクタイというものだったことである。しかもそれを見事に着こなしていた。埋文センターでは正規センター職員と瑞穂のようにセンターの計らいで採用した形の契約職員には作業着が支給される。それ以外のパートタイマーやアルバイト職員は私服である。どちらにしても背広姿で現場に立つものなどいない。
「さすがだな」
 近付いてくる男を見て一茂は思わず鼻白んだ。

「加藤先生、第二区から着手しました」
 男はふたりのすぐ近くまで来てから瑞穂に向かって親しげに話しかけた。瑞穂とも今日が初対面のはずだ。一茂がほかを回っているときに、瑞穂が打ち合わせどおりの根回しをしてくれたのだろう。一茂が瑞穂と親しい間柄だと思いこんで、自分も警戒すべき人間ではないとアピールしているのだろう。
 瑞穂が頷くのを見て男はじれったそうに「加藤先生、こちらが先ほど仰ってらしたかたですね?」と催促して一茂に目を向けた。
 わざとらしいと思いながら気がつかぬ振りをして遺跡の遠くに目をやっていた一茂にも、瑞穂が頷くのが分った。
「柏崎先生」
 瑞穂がおどけた調子で言った先生という敬称に多少照れながら、一茂は振り向いた。
「先生、紹介します。こちらが今回のシステムを考えられた㈱学図舎の緑川さんです」
 一茂が視線を向けると男は正面に回りこんで、予め手に持っていた名刺入れから一枚取り出し「学図舎の緑川隆俊と申します。今後とも宜しくお願いします」と挨拶をした。
 受け取った名刺には確かに㈱学図舎取締役営業部長・緑川隆俊とある。入札記録にあった名前に間違いない。
「こちらこそヨロシク。柏崎一茂です。加藤先輩からここの現場で新しい方式を導入されると聞きましてね、ぜひ見学させてもらいたいと思っていました。生憎、名刺を切らしておりまして、……」
「あ、結構ですよ。加藤先生のお話では、文化庁の……」
「いえ。文化庁ではありません」
 一茂は即座にきっぱり否定し「しかしまあ或る意味では同じような機関です。全国規模で調査を行ったり、その良否を判定したりする役所ですからね。今日は差し障りがあるといけないしお互い迷惑をかけることになるかも知れないから、所属を明かすことはやめておきましょう」と云い足した。
「差し障りと申しますと?」
「そうじゃありませんか。仮にも公正を期すべき国家公務員である私が、個人的にとは言え一特定業者が開発したシステムに興味を持ち何の許可も取らずに見学などしてごらんなさい。癒着と疑われても仕方ないでしょう。まあ今日明日作業の様子を見せてもらって、必要とあればこちらで場を設けます。そのときは音頭をとってくださいよ」
 一茂は緑川の胸の中をくすぐるような言い回しをした。だが緑川は「分りました。ぜひヨロシクお願いします」といったきり反論はしなかった。名刺には取締役営業部長という肩書きがあった。業者としては百戦錬磨のはずである。一度一茂に突き放されたくらいで諦めるとは思われない。きっと一茂の振る舞いを見て――この男若いくせに慎重な野郎だ。――とでも思ったのだろうか。しかし折角まいた餌に食いついてくれなくては計算が違ってくるかも知れない。
 緑川の反応が予測していたほどではないので、もう一押ししてみようかなどと一茂が思案していると加藤瑞穂が「一度事務所に戻りましょうか? お茶でも淹れますから」と助け舟を出した。
 事務所内に戻って加藤瑞穂は一茂と会議卓周囲に置いたパイプ椅子を進めコーヒーを淹れ始めた。
「今回のシステムは聞いたところではこれまでの発掘調査時間の大きな部分を占めておった遺構実測の時間をかなり短縮できるものだと聞きましたが」
 一茂の問いかけに緑川営業部長は少し得意げな表情を浮かべた。
「短縮したというよりむしろ分業化を取り入れたというほうが当っているでしょうな」
「分業化といいますと?」
「開発行為を行う地区の埋蔵文化財調査は目的が記録保存です。だから発掘調査して総ての遺構・遺物について正確な実測図が必要になるわけです。それが考察とともに報告書に載る。遺物の実測は現場が澄んでからまとめて行うことも可能ですが。現場のほうは発掘してその遺構実測が完了しなければ工事に引き渡すことはできない。普通ならばそこまで終了して初めて工事にゴーサインが出ることになるわけですよ。発掘調査はこのように『掘る』と『測る』に大別されると見ることができます。だがよく考えてください。このうち掘る方は柏崎先生や加藤先生のような考古学の知識を持った方でなければ務まりません。しかし測るほうはどうでしょう。そう。私たち測量業者のほうがプロフェッショナルなんですよ」
 緑川の説明が一区切りついたところで瑞穂がトレイに湯気の立つコーヒーを乗せてきた。
「柏崎先生。どんなものかしら? システムの評価は」夫々の前に熱いコーヒーの入ったカップを置きながら瑞穂は一茂の隣に腰を下ろした。
「今、説明を聞いているところですよ」一茂は瑞穂に言葉だけ返し、緑川に「プロの業者さんが測量するのと我々レベルの調査員とではそんなに要する時間が違うものですか?」と質問した。
「こちらの遺跡を例に取りますと私の見立てでは調査員の方が平板(へいばん)測量で実施するとして、現地を工事業者に引き渡すことができるところまで持っていくには二十日間ほどだと思いますが」
「うん。その程度だろうね」
 瑞穂も同意して頷いた。
「私たちはそれをほんの一日半で完了します」
「何でそんなことが?」
 一茂は、ハッタリではないのかという視線を緑川に向けた。
 緑川は、しかし、少しも臆することなく自信を持って言い放った。
「無論これは現地を引き渡すまでの時間ですが、少なくとも掘る方の仕事は終わりということです。我々が行うのは写真測量ですから、写真さえ撮影し終えたらあとはもう現地は必要ないということですよ。すぐにでも工事にかかってください。そう言ってやることができるわけです」
「ああ、なるほどネエ……写真測量か。うまいこと考えたものだ。遺跡に導入した前例はないわけでしょう?」
「写真測量をご存知ですか?」
「まあ、言葉だけは……。もう少し詳しく伺いたいんだが、現場も見てみたいし……」
 一茂が鼻先に餌を投げると緑川は見事に食いついた。
「私もぜひ聞いていただきたいですよ。柏崎先生、いかがですか。今晩、食事でもしながら?」
「いえ、それはまずい。やっぱり……」
「それじゃ、会費制ってことではどうですか? ひとり千円ということで」
「ええそれならまあ……。でもそんなに安く上がる店が」
「あるんですよ、行きつけの店が……」
 そういって笑った緑川の目は勝ち誇った光を宿していた。しかし正面に腰かけた柏崎一茂のサングラスに隠された瞳に、それ以上の強い輝きがあることに緑川隆俊は気がつかなかった。



第四章 捜査協力

     1
 佐波原市民会館は市役所の西側を南北に走る片側二車線道路を挟み、本庁舎と正面を南に向けて並んでいる。四階建ての取り立てて飾るところもないコンクリート造りで、傍らから市の行う文化行政をただじっと見守っているような落ち着きが感じられる。人口約七十二万人の大都市の市民会館としてはそれほど大きなものには見えない。むしろ質素な感さえ覚えるものである。それでも市民や市民サークルなどが予約して利用できる会議室や教室のほか客席数が千五百の大ホールと五百の小ホールを備えていて、それらの施設が一年間を通してほぼバランスよく利用されている所を見ると市の行政がうまくいっているということなのだろうか。
 
 佐波原市民会館正面口から市営駐車場あるいは佐波原市駅前行きのバス停の方に向かって人波があふれ出してきた。今しがた終了した賃貸住宅団地の説明会から帰る客たちだった。
 小ホールで午前の部午後の部と二度実施した説明会だったが、主催者の予測を大きく上回り二回ともほぼ満席の盛況を見せた。
 社運をかけて新しい形態のニュータウンの造成を決断した㈱昇竜土地企画建設の関係者たちは説明会が成功裡に終了したことに興奮を隠せなかった。会場となった小ホールはその余韻と撤収作業のため、携わった人間たちでごった返した。
 『新型都市・中津リバーサイドタウン説明会』には、朝川町川沿地区自治会長綿貫信一郎と副会長の杉崎健太も来賓として招待されていた。主催者側の担当責任者㈱昇竜土地企画建設、の多摩支店長・上川裕樹がふたりをこのプランに協力し早期着工の見通しを立てた功労者として会社トップに話をしたところ、ならばぜひお招きして御礼をしたいということになったらしい。裕樹からこのあとすぐ懇親会だから待っていてくれといわれた健太が、綿貫とロビーで煙草を燻らせていると十五分ほどで上川裕樹がやって来た。
「たいへんお待たせして申し訳ありません。懇親会場はこの市民会館の最上階です。ご案内いたしますのでどうぞ」
 上川裕樹は深々とお辞儀をし「いやあ、本当にありがとうございました。おかげで立ち上がりとしては最高のスタートになったようです」と云ってふたりの先に立って歩き出した。
 エレベーターを使って四階に上がると二部屋の大宴会場が並び、『雅の間』と表札のついた両開きの扉の前に『中津リバーサイドタウン様 御席』と書かれた案内板が立っている。
 扉の前のロビー奥にクロークがあり、コートと資料が入った紙袋を預ける。
 あまりこのような場に出席したことがない健太は少し緊張して綿貫の背に隠れるように会場へと向かった。会場の入り口で若い女性が『川添地区自治会・会長 綿貫信一郎』『川添地区自治会・副会長 杉崎健太』と書いた大きなリボンを夫々の胸に着けてくれた。

 裕樹に促されて宴会場に入ると穏やかなクラシック音楽が満ち、宴席は立食パーティーの形に設えられていた。中央の円卓に大皿に盛り付けられた豪華な和・洋・中の料理とオードブルが並べられ、他には一方の壁際に特設のドリンクカウンターと寿司コーナーが広いスペースをとっている。
「もう十分か二十分ほどで始まると思いますので、もう少しお待ちください」
 上川裕樹はたまたま通りかかったコンパニオンがトレイに乗せて運んでいたシャンパンのグラスをとって、綿貫と健太に渡した。
「土地確保に尽力頂いた綿貫自治会長と健太さんに、当社(うち)のトップがぜひひとことお礼を申し上げたいといっておりますので、後ほど紹介させてください……」
「分りました。恐縮です。判りやすい所におりますのでいつでも声をかけてください。さ、お忙しいでしょうから、われわれのことは気にしないで……」
 綿貫が気を遣うと裕樹はほっとした表情を見せて二人から離れていった。

綿貫信一郎と杉崎健太は会場内をぐるりと見渡した。ふたりと同じように胸にリボンをつけら招待客五十名ほどが既に入室していて、昇竜土地企画建設の幹部や各支店等から足を運んだと思われる会社関係者たちと談笑していた。
 四、五名ずつに分かれてグループを組んだ来賓たちの中に朝川町土木部長の柳田河川係長の顔があることに気付いた。ふたりは入り口正面の壁に広く穿った硝子張りの展望窓から暮れなずむ町の様子を眺めながら、昇竜土地企画建設の幹部数名と和やかに話を弾ませているように見える。杉崎健太はひじを曲げて綿貫の脇腹を軽く小突いて展望窓のほうを目
で示した。綿貫信一郎は既に気がついていたと見え「少し経ってから挨拶に行こう」と頷いて見せた。

 適度な間合いで配置された立食用の背の高いテーブルに灰皿をのせて所在なさそうに煙草を燻らせていると、十分ほどして入り口に、見るからに高級な上下に身を包んだ大柄な男が姿を見せた。それまでがやがやと騒々しかった会場内が一瞬にして水を打ったように静まりかえった。男は左右に自分より屈強そうな体躯の供を従えていたが、その存在感は従者二人合わせても比較にならぬほど大きかった。
 男が傍らを通り過ぎるとき健太はその顔を見た。健太の記憶にもある男で、それに気付いた綿貫までがホウと驚きの息を吐いた。男は文部科学副大臣、柳田宗助であった。
 先導して来た白髪の七十過ぎと思われる小男は、胸につけた名札に代表取締役とあるのを見ると、事業主である昇竜土地企画建設の代表者なのだろう。
 柳田宗助副大臣は展望窓の傍で談笑していた朝川町土木部長の所まで進み何事か笑いかけながらその席にいた数人と握手を交わした。
 そのタイミングを待ち構えていたように、会場に流れていた音楽が一度止まり司会者が会の開始を告げた。
「たいへんお待たせいたしました。本日はご多忙中にも拘らず多数のご参集を頂きありがとうございます。ここからは懇親会に移行させていただきますので、短い時間ではございますが楽しいひと時をお過ごしいただきたく存じ上げる次第でございます。それでは開会に先立ちまして私ども(株)昇竜土地企画建設代表取締役・黒沼久よりひとことお礼のご挨拶をさせていただきます」
 司会者が紹介するとやはり副大臣を案内してきた男がステージに上がり、盛会の内に終了した『中津リバーサイドタウン・起工説明会』について簡単に報告し、来賓及び関係者たちに礼を述べた。
 黒沼久社長は挨拶の最後に「本日はお忙しい所を文部科学省から柳田宗助副大臣にお運びいただいております。副大臣は私どもが何かとお世話になっております朝川町土木部長柳田邦信様のお父上で、今回のこのプロジェクトにも貴重なご指導アドヴァイスをいただいておりますことをご報告いたします。それでは柳田副大臣に乾杯の御発声を頂戴いたしたく恐縮ですがよろしくお願い申し上げます」と結んでステージを降りた。
 柳田宗助はシャンパングラスを片手にステージ上に置かれたスタンドマイクの前に立った。大臣はにこやかな笑顔を作り「柳田宗助でございます。本日は催しが大成功の裡に終了されたと伺い、たいへん喜ばしいことと思っています。実はほぼ一年前。今年の正月に息子の邦信が挨拶にやってまいりまして、最近は土地の高騰で一般国民は家を持つことすら夢のまた夢のような状態になってきている。夢や希望の叶う社会作りを目指すうえでこれは大きな問題と苦慮していると言うんですな。私もまったく同感で政府としても強力な一手を準備していると答ました。すると息子の奴、行政からの押し付けじゃ解決にならんと力説しよる。ははあ、これは何かあるなと思って聞いていますと、民間のある建設業者が面白い計画を練っている。どう思う? とその計画を知らせてくれました。それがまさに本日説明会を開催されました『中津リバーサイドタウン』の造成計画のことでした。地価の高騰が進みすぎ、ともすれば国民生活に悪影響を生じている昨今、公定歩合の調整など政府も検討を始めております折、かかる画期的アイデアを以って一般生活に寄与していこうという行動はこの上なく頼もしくかつ歓迎すべきものと考えます。その勇気ある行動に敬意を表し、(株)昇竜土地企画建設の将来が輝かしいものとなることを祈念して祝杯を挙げたいと思います」
 副大臣はマイクを通さずとも十分会場内に響き渡る大きな声で「乾杯」といってシャンパングラスを高々と掲げた。

 柳田宗助副大臣は十五分間ほど宴席にいたが、このあと大臣と打ち合わせがあるといって退席した。
 綿貫と健太がリバーサイドタウンのレイアウトを行うというコンサルタント業者と話をしていると、副大臣を車まで送りおえた昇竜の黒沼久社長が上川裕樹とともにやって来た。
「昇竜の黒沼でございます」
 社長は綿貫と健太それぞれに名刺を差し出して自己紹介をした。
「お二方の尽力がなければこうまで円滑にことは運ばなかったと思います。何とお礼申し上げてよいやら」
 黒沼久は腰の低いものの言い方をした。付き合いが浅いうちは穏やかで好い人だと誰しもが好感を持つが、実際はなかなかの戦略家で目的に対してはありとあらゆる手立てを講じて最後には必ず勝ち組に入る。健太は、黒沼がそういうタイプの人間であると、以前裕樹が評していたことを思い出した。
「綿貫と申します。こちらこそ感謝しております。あの決して価値が高いとはいえない土地をよい条件で購入して頂いた上、新構想事業にまで参加させていただけるというのですからね。商売として成立するのですか?」
 綿貫信一郎は笑顔を作って黒沼と握手を交わし、そんな質問を投げかけてみた。
「それは私どもも商売ですから一応算盤は弾いてみました。土地の取引価格のこともありますしな、軽率には申し上げられんのですが。今の所完成後の運用次第という所でしょうか。地価高騰によって土地付一戸建て住宅を取得することは、この関東圏では夢物語になりつつありますね。でも本当にそうでしょうか? 私たちはここに着目したわけです。自治会の方々から供出いただいたような、何らかの理由で居住可能区域にありながら地価が相場より遥かに低くなっている場所がまだまだあるんですよ。そのような土地を安くお譲りいただいて、私たちがある程度の経費をかけてでも人気のない原因を取り除いて分譲する。しかも予算的に皆さんの手が届く範囲でです。格安にお譲り頂いた土地だからこそできるわけです」
 黒沼社長は熱っぽく語った。
「ひとつ教えていただきたいのですが」綿貫は丁度よい機会だとでも言うように尋ねた。
「以前、上川支店長さんから私ども地権者に対してはニュータウンの運用益の中から、配当金という形でお支払い頂けるという説明がありましたが、そんなことが本当に可能なのでしょうか……」
「運用益の配分ですから当然決算において利益が出なければ配当はありません。取り交わしました覚書に記しましたとおりです。しかし本日の説明会の盛況振りには正直云って私も驚きました。大いに自信が湧いてきましたよ」
「確かにものすごい反響だったと思います。私も地権者の一人として御社の手腕に期待しておりますのでよろしくお願いします。どうにも欲深なものですから……」
 綿貫がそういって大声で笑うと、黒沼も「いやいや綿貫さん。欲深いのは人間の性。誰しも同じなんだと思いますよ」と愉快そうな声を上げた。

     2
 柏崎一茂は傾けたグラスを持つ手をふと止めて緑川を見た。十五名ほど並んで腰掛けることができそうな長いカウンターには淡い藤色の着物を着こなした女性とスポーティーな格好をした女の子のふたりが入っているだけだった。『ぷうれ』という名のスナックバーで、加藤先生によく連れて来られた店だと緑川は幾度も念を押した。しかし実際のところ緑川がよくつれてきたというほうが正しいのだろう。
 平日のせいもあり客は一茂たちのほかはサラリーマンの二人連れが一組、ずっと離れた椅子に腰かけて水割りのグラスを傾けているだけだった。

「それじゃこの調査自体もともと来年度の調査予定だった……と?」
 一茂の質問に緑川隆俊はこくりと頷いた。
「そう。それで進行中の調査もあったものだから、今年四月一杯かけて準備したんだけれど調査員のやりくりにも随分苦労したようでしたね」
 一茂はコースターの上にグラスを置いた。
 緑川はカウンターの中の和服姿の女性に目配せをした。細面で涼しげな目元をした美しい女性である。年齢は三十に手が届くかどうかに見えるが、本人はもう三十五才になるという。
 緑川に言わせると絶世の美人ママということだったが、まあまんざら嘘でもないと一茂も思った。
 緑川のサインに気付いたママは一茂の殆ど空いたグラスを引き寄せてアイスキューブを足し、その上からワイルドターキーを注ぐとグラスの底の水滴を布巾で拭い、新しいコースターに乗せて一茂の前に置いた。
「だって市の工業団地造成でしょう。市の計画がそんなに簡単に変更されるものですかねえ? 予算もあるでしょうし」
「無論です。こんな形での発注されるのはうちの会社としても初めてのことですよ」
「……」
 一茂はターキーを一口喉に流し込んだ。焼けるような熱さが喉から腹へと広がっていく。
「いえね、今日から始めることができたから良かったものの、うちの支援システムだって来年度の調査をターゲットにして加藤先生と協力して開発していたんですからね。あ、加藤先生というのは亡くなられた膳調査課長さん、つまり交代された加藤瑞穂さんのご主人ですがね」
「共同開発ですか?」
「そうですよ」
 緑川は大きく頷いて一茂を見やり、口を尖らせて「来春までゆっくり時間をかけてテストを重ねて、実用新案でも申請してから随意契約で発注してもらうはずだったんですよ。ところが六月末ころだったかな、事務方から突然この遺跡を最優先して今年度中にすべて片付けることにしたから八月中に入札を執行するって言われましてね。そりゃ無いじゃないですか。入札ってことになればどの業者もチャンスはあるわけでしょう。共同開発って言っても実際に経費使ってるのはうちなんですからね」と不満をまくし立てた。
「事務方っていうと……野上さん辺り?」
 緑川は頷いた。
 一茂は緑川の口惜しさが分るような気がして「なぜセンターがそんなひどいことを……」と、疑問を素直に口に出した。
「考えられることはふたつあるでしょうね。ひとつは特命随意契約とするために起案を通さなければならないんですが、その時間が無かったということ。もうひとつは、そのシステムの開発は加藤先生と私の暗黙の了解の下に行っていたということでしょうか」
 緑川は他人事のような口調であっさりと言ってのけた。
「部長さん自身それじゃ社内でいろいろご苦労なさったんじゃ……」
 一茂はそう言って緑川の様子を窺った。当初の計画通り随意契約で発注をかけることができなかった加藤を逆恨みして……。そういう構図が見えるかもしれない。
「いやいや」
 しかし緑川はあっけらかんとして「そんなこともありませんよ。結果は変わらないわけですからね」
「なぜ? さっきあなたは入札になればどの業者にもチャンスが生まれるといったじゃないですか」
 一茂は不思議そうな顔をして緑川を見つめた。
「どの世界にもあるでしょう、本音と建て前ってのが……。その建て前の方ですからね。入札ていうのは。確かに後の業者にも受注のチャンスは生まれるでしょう。安く応札すりゃあ良いわけですからね。しかし他の指名業者だってうちが加藤先生と開発しているシステムだってことは知っています。相身互いって言葉がありますでしょう……」
 緑川は語尾を濁し、口元をゆがめて小さな声で「そんなもんですよ」と付け加えた。
 どのような形態の発注になっても結果を同じにすることが可能だと云っているのだろう。
 要するに談合ということである。一瞬頭を過ぎった緑川への疑惑が、入札にどのような不正があったにせよ予定通りの落札を見ている所から、単なる思い過ごしということになりそうに思えた。

「それにしても発掘調査の優先順位が年度を越えて変わったというのはどういうことなんですかねえ?」
 一茂は話題を変えた。酒が入って緑川の一茂に対する警戒心が殆ど消えている。情報収集にはまさにお誂え向きの環境が整っているのだった。
「この期間にもともと計画されていた調査が、繰り下げ延期ではなく急遽中止になったんですよ」
 ぽつりと言って緑川はグラスの水割りを飲み干した。
「中止に?」
「加藤先生、楽しみにしていたんですけれどね」
 緑川は遠くを見るような目をして呟き「隣の朝川町に、何とか言う民間会社が造成するニュータウンとやらの遺跡調査なんですけれどね。調査が動き出したときのためにセンターで調査方法なんかをあれこれ考えてるうちに、国がどういうわけかあっという間に予備調査を終らせて……。挙句の果てに、この遺跡は攪乱が激しいため本調査の必要性はないと決定されたんですわ。この六月。梅雨入りのことです」
「なんですか、それは?」
「おかしな話でしょう。問答無用みたいな……。しかもその何とかニュータウンなんですけれどね、まだ用地買収もしていない時期だったらしいですよ。加藤先生落ち込んでましたよ。よく分かりませんけれど個人的にも興味深い遺跡らしかったですからね」
「国の圧力ってことですか。ああ、緑川さん。それであなたはあの台風の日、前日の落札のお礼と落ち込んでた加藤先輩を励まそうとこの店に呼び出したわけだ」
 一茂は思い切って釣り糸を垂らした。
 緑川は突然ぶつけられた一茂の問いかけの意味が分からないようで、「えっ? あの台風の中、誰がそんな酔狂な真似をするもんですか。誰が言ったんです? 私が加藤先生を呼び出したなんて」と、目をまん丸にして驚いた。
 一茂は緑川の驚く様子を見て嘘がないことを確信し「あれ、さっき仰いませんでしたっけ? 私の聞き違いか……」と、とぼけた。

 大物釣りに失敗した一茂が竿を止むを得なく収めようとしたとき、ふたりの話を聞くともなしに聞いていたママが思いがけず口を挟んだ。
「あの晩、加藤先生は突然お一人でいらしたのよ。八時ころだったかしら」
「へえ。誰と一緒でもなく? そうか、それじゃママが……」
「違います。ほんとに突然よ」
「何をしに?」
「わからないわよ、そんなこと。ただ肩ではあはあ息しながら、ずぶ濡れになって駆け込んでいらしたの。丁度いま緑川さんが腰かけてる席について、人が迎えに来るはずだから、それまでちょっと休ませて欲しいって仰ってね……」
 ママはふたりのグラスにターキーを注ぎ足してアイスキューブを入れて夫々の前に置いた。
「それで、相手はやって来たんですか?」
 一茂が先を促すとママはこくりと頷いた。
「知ってる男だった? やって来たのは」
「三十分くらいたってからかなあ…… でも誰だったのかはわからないの」
「なぜ? だって店に入ってきたんじゃないの」
「ええ、ドアを開けて入ってきたわ。でもあの暴風雨でしょ、全身防災用の雨合羽に包まれていたし頭も全部フードで覆っていたの」
「防災用の合羽ね……? 体格なんかも分からない?」
「入ってくるなり加藤先生に向かって。行こうって声かけて……。先生も、今日の飲み代は付けにしといてくれって言い残して、後を追うように出て行ったから……。でもそんなに大きな人じゃなかったわね」
「何があったんだろうねぇ」
一茂は呟いて、緑川の様子を窺った。緑川もまったく事情が飲み込めていないようだった。

 柏崎一茂は加藤清志の足取りの話になるたびについつい力が入ってしまうのを緑川に悟られているように感じた。どことなく警戒されているような気配が漂いだしたのである。
 そろそろ閉めの時間なのだろう。腕時計を覗くと十時を少し回っている。
 どちらからということなく席を立ち、二人は店を出た。
「今日は余計なことをいろいろ云ってしまったようです。どうか忘れてください」
 居合わせたタクシーに乗り込もうとしたとき緑川が背中越しにおどおどした声で囁いた。
 一茂はそれには答えず「それじゃ明日また」と、意味ありげに笑い緑川を後に残してドアを閉めた。

 決して心地よいとはいえないタクシーの揺れに身をまかせ、柏崎一茂は加藤清志の死についての新しい展開にを少し整理してみようと努力していた。遠藤大吾刑事が冗談半分に言った推理のように、あのスナックのママ辺りが仕組んだものだったなら聞き流してもよかっただろう。しかし学図舎の緑川もスナックのママも関知したことではないという。しかし加藤があの台風の中をやってきたというのも事実だったのだ。防災用の雨合羽を着用した男が迎えに来て加藤は待ちかねたようにその男に従って出て行ったらしい。こうなると話は穏やかではない。一茂が弱気に取り付かれて考えた自殺説は影を潜め、むしろ他殺説さえ表に見せ始めるのである。
 雨合羽に身を包んだ男とはいったい誰なのか。皆目見当もつかないままタクシーは花富士の玄関前に到着した。
 波名富士は従姉が云っていたとおり休業の札を掛け暖簾は出していなかった。だが店に明かりが灯っていたので一茂は裏口へ回らず入り口の引戸を引いた。鍵はかかっておらず
中に入るとカウンターに腰かけて一杯やっていた従姉夫婦が振り向いて「お帰り」と云って笑顔を見せた。一茂の帰りを待っていたらしい。
「遅くなりました」
 一茂は詫びた。
「気にしないでくれ。こっちが勝手に一杯やりながら待ってたんだからよ」
 篤子ネエの亭主が本当にすまなそうに言ってグラスに酒を注いで一茂に勧めた。藤木正道という名で一茂より五才ばかり年上の男だった。年のせいであろうか少し肥満が始まりかけている。
「あんた。こっちの話より先に……」
 篤子が急かすと正道は「おう。そうだそうだ」と電話器横のメモ用紙を確認しながら、「つい三十分ばかり前によ、山口さんて言う人から電話があった。ただひとこと、学図舎って云う会社が支払いしてました。と、あんたにそれだけ伝えてくれと云って……」
「いや、良いんですそれで。どうもありがとうございました」
「そうかい? ならいいんだけどよ」
 正道は心配そうな顔をして一茂を見たが、一茂が本当に何も心配そうにしていないので安心したらしく笑顔をかえした。

 笑顔の後にできたほんの数秒間の沈黙が一茂に何かを感じさせた。見ると従姉夫婦が何かもの言いたげに一茂を見ていた。
「な、なんですか?」
 一茂がうろたえたので従姉夫婦は慌てて「いやなに、一茂くんの意見をよ、ちょっと聞かせてもらいたくってよ」と答えた。
「意見? ぼくの意見ですか?」
「実はねえ、まだ一年も先の話なんだけどね、ここから引っ越そうかと思ってさ……」
 一茂は何のことやら分からず怪訝な目を篤子に向けた。
「知ってのとおり俺たち世帯を持っておよそ十年、ここで頑張ってきた」
 正道が男同士のほうが話が早いとばかりに、篤子の話を引き継いだ。「まあ十年か十五年頑張って金ためてよ、どこぞに戸建の家でも買ってなんて考えてたんだけどよ。それがなぜだか地面の奴があれよあれよって間に値が上っちまってな。とてもじゃねえが……って感じになってたのよ」
「分かりますよ」
「ところがよ。ちょっと見てくれよ」正道は傍らからA四判の封筒に入れたパンフレットを取り上げて一茂に手渡した。
「こんな、希望を持てそうな街が近くにできるって言うじゃねえか。その説明会があるってんで随分以前に説明会に応募してた所、おめえ、当ったってわけよ。それで今日こいつと一緒に行ってきたんだよ」
 一茂は封筒から小冊子のようなパンフレットを取り出した。白を基調とした表紙には、川向こうの高台に造成された美しい住宅地の様子がパースと呼ばれる鳥瞰図として描かれ、タイトル『中津リバーサイドタウン――ゆとりある生活空間』そしてその下に造成・分譲『㈱昇竜土地企画建設の文字が読めた。

     3
「それじゃ加藤を呼び出した電話の主が、パンフレットに載っている『中津リバーサイドタウン』やらを建設する業者と関係があると」
 遠藤大吾刑事は面目なさそうに頭を掻き「まったく、お恥ずかしい限りです」と今にも消え入りそうに呟いた。
 高槻彰刑事が佐波原市警察署の遠藤大吾、猿橋弘毅両刑事に働きかけ再び花富士に設けた宴席である。ふたりとも喜んで応じてくれた。多摩中部警察署からはもちろん高槻彰と柏崎一茂のふたりである。
 この何日間かに知ったことをそのまま報告したまでのことで、遠藤を責めるつもりなど微塵もなかった。だから柏崎一茂は和やかだった場に気まずい空気を吹き込んだように感じて、滑稽なほどうろたえてしまった。
「いや、遠藤さん、そんなつもりでお話したんじゃないのです。埋文センターに連れて行っていただいたとき折角チャンスを頂きながらあまりにも無策だったので……」
「それはそれ。私の落度が消えるものではありません」
 遠藤大吾は必死に弁解する一茂をのをきっぱりと制して「実はスナックぷうれには調べに行ったことは行ったのです」と一茂が思っても見なかったことを口にした。
 しかし一茂の横に座って二人のやり取りに耳を傾けていた高槻はそれほど驚いた様子も見せず、ただうんうんと頷いて見せた。
「しかし私は先入観が強すぎたようですな。ぷうれのママさんが隠すこともなく、台風の晩に加藤先生がひょっこり顔を出し小一時間で引き上げた、とあっけらかんとして云うものだから自分の推測のとおりと思い込んじまったというわけですよ」
「死体の発見された状況から、増水した河川への滑落による溺死。つまり事故死と結論が出たのですから、遠藤さんの推測の方が正しいのかもしれないし……」
「シゲ」高槻彰が口を挟んだ「遠藤くんが言っとるのはそんな結果のことじゃなかろう」
「えっ?」
「分からんのか? だからおまえはいつまでも青いって言われるんだよ」
 高槻は厳しい口調で言った。「いいか、シゲ。おまえはこの数日間加藤清志の件について調べた。前回チャンスを頂いたのに何もできなかった不義理を返そうとしてな。そして掴んだいくつかの情報をそのまま遠藤くんに渡したわけだな」
「はい。私の判断なんかは入れないほうが……」
「そんなことどうだっていい。いいかシゲ。おまえは何の悪気もなくそうしたんだろうが、遠藤くんはどう受け止めると思う。そこを考えなかったのかと俺は言ってるんだよ」
「……」
「もう十分でしょう、ショウさん。折角の酒がまずくなるから」と遠藤大吾は執り成し、高槻彰と一茂に酒を勧めた。
 佐波原警察署管内の出来事であっても捜査官は生身の人間だ。自分たちと何の違いがあろうはずもない。それとも佐波原警察署の管轄では何らかの疑念を持って捜査していた案件であっても、一度事件性なしと結論が出されたならその瞬間捜査官の心から消去されるとでもいうのだろうか? それならば一茂が掴んだ新しい情報に興味がないわけはない。
 しかし一茂はグラスに燗酒を注いでくれている遠藤刑事の穏やかな表情を見て、高槻彰が自分に伝えようとしていることを悟った。
 そういうことではないのだ。自分が動いた結果として知った事柄を、そのまま資料でも提出するように手渡したこと自体が間違いだったのだ。これでは遠藤大吾から見ればまるで若造から「俺がほんのちょっと調べただけでこれだけのことが分かった。お前はいった
い何をやっていたのだ」と窘められているようなものではないか。
「遠藤さん。申し訳ありませんでした。決してそんなつもりで動いたわけではありません」
 一茂は畳に額がつくほど頭を下げて遠藤大吾に詫びた。
高槻彰老刑事の表情からも蔭りがなくなった。
「シゲ。おまえももういい大人なんだから、もう少し相手の気持になって行動しなくちゃならんぞ」
 高槻は父親のように言うと、遠藤刑事のグラスが空いていることを目で示した。
「ところで遠藤くん」
 遠藤大吾のグラスに酒を注ぐ一茂に目をやりながら、高槻彰が少し悪戯っぽい声でいった。
 遠藤が目を向けると高槻も視線を遠藤に移し、にやりと笑った。
「遠藤くん。あんたさっきぷうれのママの言葉を鵜呑みにして、自分の推測どおりだと思い込んだといったな。信じられないなあ、そいつは。本当はもう何か掴んでるんだろ?」
 高槻は遠藤にひとこと投げかけておいて「そうだろ? 猿橋くん」と、突然話を若い猿橋弘毅に振った。
 出し抜けに話を向けられた猿橋はうろたえて目を白黒させたが、嘘を言うわけにも行かないという気持からだろうか思わず「はい。それは、まあ」と、高槻の問いかけを認めてしまった。
「やっぱりそうか」
 高槻は大きく頷いて一茂に目を戻した。
 ほんの一瞬驚いた様子を見せた一茂だったが、すぐに納得の表情を浮かべた。
「そうですよね。あの店まで足を運んだのなら何も掴まずに戻るはずがありませんよね」
「まったくおまえもガードが甘い奴だ。ショウさんの言い方は誘導尋問にもなっちゃいないぞ」
遠藤は若い部下を一喝してから一茂に顔を向け、「でも結局一茂くんが掴んだこととどっこいどっこいのところですわ。加藤さんを呼び出したと思われる防災合羽の人物が誰かってことは目星をつけたんですが、確証が得られんのですよ」と、簡単に説明した。
「なぜなんですか? 当ってみりゃあいいだけの話じゃないのですか?」
「なるほどな」高槻彰が言葉を挟んだ。「事件じゃないってことか」
 遠藤の横で猿橋弘毅が大きく頷いて「会議の時に意見を上げて、まだ調べてみるべきだって云ったんスよ。遠藤さんのほうで……」と、上司である遠藤に目を向けた。
「私から伺いを上げたんですよ。ところがね……」
 遠藤はそのときを思い返すような視線を宙に舞わせて「一瞥するなり、却下ですわ」といって自嘲的な笑いを浮かべた。
「そんな不審な人間が浮かんでるって言うのにかい?」
 遠藤が疑問を口にすると遠藤大吾は急に声を潜めて「これは私のカンなんですがね。どこか上のほうから、妙な圧力がかかっているような気がするんですよ」
「いったいどこから?」
「分かりません。そうこうしとるうちに他のヤマなんかも入ったりして」
「と云うことは、遠藤くんも加藤調査課長の死が単なる事故ではないと思っていると……」
「少なくとももう少し調べてみる必要はあると思っとりますよ。でもそんなわけで動きを封じ込められたみたいになってましてね。さっぱり先に進まんのです」
 遠藤刑事はそういって弁解し頭をかいて見せた。
「つまり加藤さんを呼び出したと思しき人物の見当はつけたけれども、確証をつかむ所まで至っていない。こういうことですな」
 遠藤大吾は素直に頷いて、高槻彰に酒を進めながら「ですからさっき一茂さんが示された何とかタウンのパンフレット。それが話を一歩進めるきっかけになるのではと期待したわけでして」と認めた。その言葉は、思うように調べを進めることができないもどかしさを感じさせるものだった。

 柏崎一茂は自分の未熟さを思った。不正入札の件から加藤清志と緑川隆俊の関係をつきとめ、そこに事件の真相があると疑った一茂だった。だが両者の癒着関係こそ確認できたもののそれから先は何も掴んではいない。ただ加藤が行う予定になっていた発掘調査が突然現在の工業団地の調査に変更になったこと。挙句の果てに当初予定していたニュータウン造成予定地に国の予備調査が実施されて、発掘本調査の必要性を認めずということになり計画が中止になったという不可解な事実が見え始めたことくらいである。ともにそこから先は何もわからないのだ。その中津リバーサイドタウンと名付けられたニュータウンのことも、従姉夫婦が持ち帰った資料と緑川からの情報が偶然結びついただけである。何の検証もしていない生の情報を一茂は無責任に遠藤に引き渡したことになるのだ。
「まったくのピント外れかもしれませんよ」
 顔がほてるのを一茂は感じた。酔いのせいであって欲しかった。

「ひとつ提案してもよろしいですか」
 遠藤大吾が一茂の気持を見透かしたような悪戯っぽい目を高槻彰に向けた。
「その情報を元にもう少し調べを続けてみようと思うんです。だが何分にも上がそんな感じなものですからなかなか自由に動きが取れません。そこでなんとか協力をお願いできぬものでしょうか?」
 今度は高槻が驚く番だった。
「我々に捜査をしてくれと……」
「そうです。どうやらこの事件の舞台はうちの県内だけでは収束しないような気がするんですよ。ですから動かねばならない範囲がショウさんの管轄に入ったときなどぜひ協力していただきたいと思いまして」
「大丈夫ですか? その、圧力のほうですが……」
「そりゃあ大変でしょうな。しかし結果が見えてくればそれなりに方針も変わってくるでしょう。腹、くくりますよ」
 遠藤大吾は答えて屈託のない笑顔を見せた。
 高槻彰も笑って「そちらも捜査対象外の件で迂闊に動けない。こっちも発端は管轄違いの出来事になる。いやはや非合法捜査協力と言ったところですな」と頷き右手を遠藤大吾に伸ばした。
 遠藤刑事は握りしめる掌に力を込めながらふと猿橋に目を向けると、猿橋弘毅も嬉しそうに柏崎一茂の大きな手を握り締めていた。体制に逆らってまで自分の正義を貫こうとする力が、四人すべての内側から迸っていた。

     4
 一月八日に昭和を引き継いだ平成元年もあと数日を残すばかりとなった。昭和天皇の崩御を受け自粛の気運に覆われた一年だった。だが見かけの上は派手さを慎もうとしても人間そう簡単に生活習慣を変えられるはずもなく、毎年大晦日に向かって細かい犯罪が増える傾向にある。そのような年の瀬は高槻彰と柏崎一茂に対しても遠藤大吾と猿橋弘毅の両刑事にとっても同じようにふりかかった。互いに捜査協力をしようと決意を固めあった刑事たちだったが、解決しなくてはならぬ合法なほうの犯罪捜査に追われ、一茂が野上事務次長に新システム見学の礼を兼ねて埋文センターを訪問したことの他には殆ど何も手をつけられないまま日が流れていった。
 もちろん柏崎一茂が野上博之を訪ねた本当の目的はお礼などではない。突然中止されたニュータウン関連の発掘調査が実在したのか否か。もし計画されていたとしたら、急遽後回しにされ、挙句の果てに中止となった経緯は何だったのかを聞き出すことだった。
 野上博之の話すところによると確かに昇竜ニュータウンと名付けられた街づくり構想が二年ほど前から聞こえてきていて、もし実施されれば大変な規模の発掘調査が必要になったであろう。しかし結局発掘調査の依頼は来なかった。
 そしてその区域に突然国による予備調査が入ったことも、話には聞いて知っている。正直言って驚きもした。だがセンターは受託した調査を行う機構でしかないのだ。だからセンターとして公式に回答を求められるなら『変更になったり中止された調査は一件もない』と返答するしかない。このような、なんとも煮え切らない答えが返ってきた。さらに問いただそうとすると、その対象地域は用途地域としては耕地に分類されている区域である。町として宅地化の計画すら上っていない民間の土地が発掘調査のスケジュールに組み込む」べき対象になろうはずがない。結局野上事務次長はそれ以上何も語ろうとしなかった。
 ならばニュータウンからのアプローチも加藤の死を考えようとするときには意味がないのだろうか?
 
 紐綴じにした書類ファイルの表紙を閉じるパタッと言う音に顔を上げると、正面のデスクから高槻彰先輩刑事が一茂に目配せをした。そろそろ出ようという目をしている。壁にかかった時計を見ると午後六時を少し回っている。忘年会の会場はすぐ近くのホテルに入った中華レストランだから時間はまだ十分にある。それなのにもう出ようというのは、何か話があるということだろう。一茂は頷いて椅子の背もたれに掛けておいた黒の革ジャンパーを取って腕を通した。
「課長、それじゃ準備がありますんで先に行きますよ。七時からですので遅れないようにお願いします」
 高槻と一茂が出てしまうと当直に当っている三名を残して他の職員は総て退出していたので水木洋一郎刑事課長が最後に残される形になる。水木課長はクールな目をした痩身の四十代後半の男だった。広い年齢層に亘る十数名の部下たちに的確な指示をしなければならない立場なので、彼らとは敢えて少し距離をとって接しているように見える。だが高槻彰老刑事に対しては別だった。
「ショウさん、ちょっと待ってくれ」
 退出しようとする高槻彰を水木課長は呼び止め、「俺も出るよ。一緒に行こう」と立ち上がった。
 老刑事と一茂はお互い顔を見合わせた。
 課長は急いで身支度を整えると呆気にとられる両刑事を促すように形而下のドアを開け、外に出た。一茂が最後に部屋から出て後ろ手にドアを閉めるのを確認して水木刑事課長はコートの襟を立てて歩き出した
 高槻彰と柏崎一茂は一歩後を付き従うように歩調を合わせた。通りの交通量もそれほど多くはないので、寒空の中に三人の乾燥した足音が甲高く響いた。
 十分ばかり歩き、多摩センター駅前に出た所で水木課長は足を止めた。
 普通なら駅前といえば商店街や多くの人波が流れるさまを思い浮かべる。しかし署の前を走る幅員の広い道路を京王相模原線の高架に沿って進んで到着した多摩センター駅前は、実に殺風景な佇まいだった。目に付くものといえば客待ちをするタクシーのブースとバスターミナルくらいのものだ。多くの会社などは既に年内の業務を終え年末年始の休暇に入っているためと、それにまだ七時前と時間が早いせいもあってその多摩センター駅前に人通りも殆ど見当たらないほどだった。
 水木刑事課長は振り返ると、付き従うように続いてきた高槻彰と一茂に目を向けた。
「ショウさん」
 水木課長は穏やかな口調で言った。「今日昼近くに神奈川県警の佐波原市警察署から電話があった。遠藤大吾という名の部長刑事からだよ」
 部長刑事というのはいわゆるデカ長と称されるポジションで、職制的に言えば係長職クラスである。
「遠藤さんから?」
 思わず声に出したのは柏崎一茂だった。
「なんだシゲも知ってる人か」
 水木課長はことば尻を捕らえてにやりとした。
 高槻がきつい視線を一茂に向けた。
「今日は向こうも忘年会らしい。明日午前中は署にいるので連絡がほしいそうだ。確かに伝えたぞ」
 水木刑事課長は意味ありげに微笑み「先に言ってるぞ。遅れるなよ」と云って背中を向け二階の駅正面口へ続く階段を急ぎ足で登っていった。
「何か動きでもあったんでしょうか?」
 一茂は課長の誘い水に引っかかってしまったバツの悪さを押し隠すように高槻彰刑事に声をかけた。
「いや、それなら明日なんてことはいわんだろうさ。俺も思っていたんだけれどな、現在向こうもこっちも調べがほとんど進まないのは、お互い制約がありすぎて計画的に動けんからだと思うんだ」
 老刑事のことばに一茂は大きく頷いた。
「もう少しお互いの分担をはっきりさせて、計画的にやらなくちゃならん。俺もそう提案したいと考えていたんだ。きっと遠藤君の用件もそのことじゃないかな」
「しかし、まずかったですねぇ。こっそり動いてること気付かれましたね。課長に」
 高槻彰は少し落ち込んでいる一茂に穏やかな視線をむけ、その肩をぽんと打った。
「カンのいい人だからいつかは知られるんだ。俺が何とかする。気にするな」
 高槻彰は小走りに階段を登り、一茂もその後を追うように多摩センター駅の自動改機が並ぶコンコースに出た。その向こう側にコンコースがそのまま建物の外まで流れ出す格好で遊歩道となって続き、そのプロムナードを包み込むようにきらびやかに装った多摩ニュータウンの中心、多摩センター駅前の繁華街が広がっている。多摩中部警察署刑事課の忘年会が執り行われるのは、駅のすぐ前に立つ十二階建てのホテルだった。
 まだ少し時間があるので煙草でも買い足しておこうとふたりは駅前売店に立ちより、夫々の好みの煙草と、高槻はタブロイド版の夕刊紙を購入した。
「平均株価三万九千円に手が届きそうな高値更新』『一九九〇年の日本経済は?』というような見出しが躍る新聞をたたんでコートのポケットに無造作に突っ込んで「行くか」と高槻彰は柏崎一茂を促した。

 高槻が一茂を従えて会場に入ると、現場事務合わせて三十名を超える刑事課職員たちは既に顔をそろえていた。バイキングスタイルの立食パーティー形式である。ごく内輪の忘年会なので水木課長の良い新年を迎えようという簡単な挨拶が終ると、最古参の高槻彰刑事が乾杯の発声を務め宴会はすぐ始まった。
 仲間内だけの飾りのない酒席は和やかに進行した。水木刑事課長は忙しそうに歩き回り、課員一人ひとりに言葉をかけ一年間の労苦を労った。それぞれから返杯を受けるので結構辛いものがあるらしい。
 そしておよそ一時間が経つと司会が壇上に立ちマイクを持った。
 毎年の恒例行事『課長追い出し』がはじまる。
「それでは皆さん、水木課長は所用のためこれで退席されます。この一年間の課長のご苦労に感謝し、盛大な拍手でお送りしましょう。なお課長から二次会費用の足しにということで幹事に過分なお心遣いをいただきましたことを報告いたします」
 課全員を代表して若手の女性職員から花束の贈呈があり、それが済むととともに水木刑事課長が花束を持つ右手を大きく上げ「良い年を!」と大声で叫ぶ。
「良いお年を!」
 全員が唱和し、拍手に満たされた会場から水木課長は一人退出していくのだった。
 部下に気兼ねない年越しの会をさせようと幾代か前の課長職が考案したセレモニーであった。

 高槻彰は水木課長が前扉から退出するのを見届け、椅子から腰を上げた。後扉から廊下に出ると、前方のロビーで幹事の職員と挨拶を交わしている水木の姿があった。
「ショウさん」
 一茂の声に振り返り「俺ひとりでいい。おまえは残れ」と制して高槻はコートを羽織った。
「何かあれば電話する。良い年を迎えてくれ」
「ショウさんも」
 一茂が微笑むのを見て老刑事はロビーへと急いだ。
 幹事の姿は既になく水木課長は今まさにエレベーターに乗り込もうとするところだったが、高槻が小走りにやってくるのに気がついて開釦を押して待った。
 エレベーターに飛び込んできた高槻刑事は「すみません」と申し訳なさそうに頭をかいた。
「きっと来ると思っていましたよ」水木課長は穏やかな視線を投げ「どうです。その辺りで一杯」と水をむけた。


 氾濫流域
 
    1
 朝川町の陰の権力者と噂される柳田邦信土木部長は黒沼久の訪問を受け、上機嫌で招き入れた。贅沢な調度を置いた広い応接間に㈱昇竜土地企画建設社長を自ら案内し、「昨年中はいろいろとお力添えを頂きましてありがとうございました」と頭を低く下げる黒沼社長にソファーを勧めた。
 黒沼は柳田邦信が向かい側の肘掛け椅子に腰を下ろすのを見届けてから再度腰を上げ「明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます」と挨拶をした。
「ああ、おめでとう」
 柳田は座ったまま祝辞を返した。

 柳田の妻によってテーブルの上にオードブルと銚子が並べられた。
 支度をし終えた細君が「ゆっくりして行ってくださいませね」と挨拶して部屋から出て行った。
 ふたりは盃を合わせた。
「如何ですかな。仕事のほうは?」
 黒沼の酒を受けながら柳田土木部長は尋ねた。
「おかげさまでニュータウンの説明会の受けが良く、用地買収の方は第一区のほうは既に取得済み。隣接した二区につきましても総用地面積の内約六割は完了しております。残りにつきましてもですな、気運が上っておりますので三月末までには何とか格好をつける方向で進めております」
 用地買収の進捗を簡単に話し終え次に進めようとすると、柳田は少し面倒くさそうな表情を浮かべてそれを制した。
「いや、詳しくはそのうち御社にお伺いした折にでもご説明いただくことにして、今は日程的なプランだけ簡単に教えてくださらんか」
「分かりました。一応のプランをそれでは申し上げます。まず今月中にでもニュータウン第一地区部分の造成を開始します。この地区が売り物の戸建住宅区域になるわけでして。総軒数六十の戸建住宅団地をできるだけ早く完成させたいと思っとります。できればこの一年の内に完工させて、来年正月には売り出したいと……」
「ほう。そこまで迅速に進めめられると。いや、そのほうがいい」
 土木部長は何か含みのある言い方をして黒沼社長に目を向けた。黒沼久はふっと息を吐いた。
「この世相ですからな。一日たりとも無駄に過すことはできんのです。国が手を打つという噂もありますし、もしそんなことにでもなれば立上げが遅くなり私どもとしても苦しくなってきますから」
「その通りでしょうな」柳田は大きく頷いて煙草を咥えた。
 黒沼社長が差し出すライターの炎に顔を寄せるようにして「こうなってくるとあれを潰しといて正解だったな。先見の明があったということか……」
 柳田邦信の口から薄紫色の煙が広がった。
「まったくその通りです。柳田部長には本当にお力添え頂き、なんと感謝してよいやら。後日お礼させていただきます」
「いや、気にせんでください。親父の顔をちょっと利用させてもらっただけですからな」
「副大臣にまでご迷惑をおかけし申し訳ないことと思っております。くれぐれもよろしくお伝えください」
 黒沼久は深々と頭を下げた。
「それにしてもあの発掘調査ってのは、いったい何の必要があってせにゃあならんのかねぇ」
 柳田は憮然とした表情で言った。「道路でも団地でも建設現場ではどこもかしこもまず発掘調査だ。工事は遅れるわ莫大な金はかかるわ、良いことなどひとつないでしょう」
「考古学の発展に役立つとか……」
「そんなことが何になると言うんです。この高度に発達した経済社会においてですよ、考古学など垂れ流された生ごみみたいなものです。何の役にもたたんでしょう。出土したものが我々の生活をレベルアップさせるとでも云うのですか? そんなものひとつもありはしない。たとえば立派な縄文土器が出土したとしましょうか。しかしだからと云って何になりますか? そんなもの猫の飯椀にもならんじゃないですか」
 柳田土木部長は一気にまくし立て、さすがに少し言い過ぎたと云うように照れて気持ちを静め、少し声を小さくして続けた。
「黒沼さん、あんたにこんなことを云ったって始まらんのだが、私は開発行為を行うときに義務として原因者負担で遺跡調査を実施しなけりゃならんというあの法律には大反対なんだ。いや考古学そのものが悪いといっているわけじゃない。確かに歴史を紐解くことは夢があることだ。それは認めよう。先人の暮らしを検証して我が民族が歩んできた道を探ることには大いに興味がある。しかし……だからどうしたと云うんだ?」
 柳田はそこまで行って黒沼久にいたっずらっぽい視線を向けた。
「さて、私にはどういうことなのかさっぱり……」
黒沼社長は土木部長の云うことの真意を測りかねて思わず目を伏せた。
「いや何も難しいことではない。埋蔵金だとか財宝が出土したというなら話は別ですよ。しかしそこから出たものがどんなに珍しい土器や石器あるいは住居跡などであるとしても『だからどうした』のひとことで片付けることができるものだということです。そうされたからと云って誰も困りはしない。そんなことにはお構いなしに社会は前へ前へと進んでいくもんなんですからな。要するにいらないものと云っても良いでしょう」
 黒沼社長は柳田の云うことに納得して幾度も頷いて見せ「云われてみればその通りですな。その要らないもののために私たち業者は、いや行政だって莫大な金や時間を供出しなければならないわけですからね。原因者負担という名の下にです」
「さよう。そして挙句の果てに、確認された遺構はこれまでに類を見ない遺跡で考古学上貴重だとか言うことになると、現状保存するから開発行為自体をの見直しせよ。こんなことすらあるわけだ。ばかにしているとは思いませんか?」
「研究者たちは保護法という錦の御旗があるからそれを掲げてどこまだでも高飛車だよ。しかしこれはあなたや我々開発行政側にも責任の一端はある」
「といいますと?」
「そうじゃないかね。あの決め事は列島改造とか云って日本国中どこもかしこも問答無用で掘り返していたころの遺産でしょう。乱開発と云っても良いほどの自然破壊だと非難の声が強まった。そんな時代に作られた法律ですよ……」
「……」
 黒沼は柳田が云おうとしていることがよく分かった。法の前に謙ってばかりおらず、時代遅れなものは排除するという構えを見せろ。そうでなければいつまで経っても同じことの繰り返しではないか。自分たち行政が手助けしようにも民間にその強い意思がなければ力添えすることもできないと云っているのだ。
「お分かりでしょう。業界の気運が高くなれば、我々としても協力しやすくなるわけですからなぁ」
 昇竜土地企画建設の黒沼久社長は大きく縦に首を振ってみせ「どうにも法律で決められているとなれば、端から諦めてしまっている所がどの業者にも確かにあるでしょうな。今度の中津リバーサイドタウンのときもそうでした。埋文センターの調査課長が該当地区の埋蔵文化財調査について打ち合わせをしたいと云って突然社にやって来て、文化財保護法を引き合いに出して調査実施を迫ったんです。法的根拠で来られると納得せざるを得ない。予算やら工期について尋ねると予算総額は十何億円とか調査期間は約五年とか、とにかくべらぼうなことを云い始めるわけでして……」
 黒沼がそこまで云うと土木部長は愉快そうに笑った。
「覚えていますよ。あんた、蒼い顔してやってきた。何とかならんかと云ってね」
「お恥ずかしい限りです。そうお願いするしかなくて」
「私もニュータウンに賛同する者のひとりとして妙な所で計画を潰されたくなかったから、多少強引だったが手を打ったわけです。しかし何かをすれば必ず反作用があある。現に今度も国が動いたことに不審を持って、何か不穏な動きをみせたそうじゃないですか? その埋文センターの何とか言う調査課長」
「地権者に圧力を掛けていました。土地を手放さぬようにと云って。しかし妙な言い方ですが、幸いにも昨年の台風の日の事故でその圧力も消えた……。私どもとしてもこれでひと安心というわけです」
「だが私も毎度親父に頼るわけにも行かないし、神がかりのような幸運がその度に起こるなんて事もありえないでしょう。だからこそ根本を正していく必要があるわけです」
 柳田邦信は黒沼の猪口に酒を注ごうとしたが銚子がすっかり冷たくなっていることに気がついた。応接間の扉を開け奥にむかって「母さん、熱いのもう一二本つけてくれよ」と大きな声をかける。「はい、ただ今」と柔らかい声がして、待たせることもなく銚子を二本盆に載せて運んできた。
「黒沼君」女房が奥へと戻ってから柳田は静かに云った「あんた、『まほら』って知っているかい?」
「まほら……ですか?」
 初めて耳にする言葉だった。
「ゆったりと安心して暮らしていける良い国。そんな意味があるらしい。だがね、まほらと呼ばれるような理想の地にもそれが出来上がるまでには様々な荷車が通って無数の轍を刻んだことでしょうな」
 柳田邦信はそう云って黒沼に酒を勧めた。
 黒沼久は柳田が何を言わんとしているのか察しがついていた。そして柳田が次に口にしたことはまさに黒沼の予測に違わぬことだった。
「黒沼君。……いや黒沼さん。これはかなり大きな覚悟のいることだろうが、ひとつその『まほら』を築き上げるための荷車を引いてくれんかね。深い轍を刻んでもらえないだろうか」
 柳田邦信は懇願するような視線を黒沼久に向けた。


    2
 三日間だけ許された在宅療養機関を終えた父親を病院に送り届けた綿貫信一郎は、返す脚でそのまま自治会館での新年会に向かった。新年会と云ってもいつもなら億劫がってあれこれと理由を作り欠席する者が多かった。話題も世間話ばかり。その上終ってからどこかに繰り出すわけでもなく、何も華のない自治会館でこぢんまりと行う新年の顔合わせのようなものだったから、例年は自治会員二十五世帯の内せいぜい七~八軒の代表者が集まるのが関の山だった。
 そのつもりで自治会館の玄関を開けた綿貫信一郎は、新年会場であるリクリエーションルームが明るい活気に満ち溢れていることに気付いた。何事だろうかと会場のドアを開けて中に入ると、例年のほぼ倍にあたる二十名を越す自治会メンバーが談笑していた。
「遅くなってすみません」
 ひとこと皆に詫びたあとで綿貫信一郎は「自宅で正月を迎えさせることができたって思えばこっちとしてもまあ少しは安心なんだけれど、なあに結局病院も正月休みってことなんだろうね」と、愛想笑いを浮かべた。
「信ちゃん。そんなこといっちゃ行かんよ。皆一年一年向こう側に近付いているんだよ。家で年越しができたこともまた入院させてやれたことも、どっちも喜ばなけりゃ」
 物心ついたころからよく知っている老人が聞きとがめて綿貫を戒めた。
「申し訳ありません」
 さらりと受け流した綿貫は杉崎健太が手招きしているのを見つけると、渋い顔をする老人を後に残して健太へと足を向けた。
 杉崎健太はテーブルの上に重ねて置かれている紙コップをひとつ取って、卓上で冷たいビールを注いでから綿貫に手渡した。受け取ったビールを仰ぐように飲み干した綿貫信一郎は、ふうとひとつ大きな息を吐いてから「随分にぎやかだね、今年は」と、健太に驚きの目を向けた。
「それはそうですよ」健太は少し呆れ顔を見せ「仕掛けたのは綿貫さんと私。川沿じゃ全地権者が売却に応じたんですからね。今日が最後の新年会になるかもしれないってことで……」
「ということは、ここを出て行く人も随分多いということかい?」
「十四軒。半数以上です」
「そんなにいるのかい?」
「このまま作付けしてたって高が知れてるんだし、周辺地域より単価は低いって云っても今後のことを含めて納得できる額で売れたわけでしょう。それならこんな暮し向きの悪い所にしがみついていることもないでしょうからね」と健太は笑って綿貫の紙コップにビールを注ぎ足した。「だから一応取りまとめた者として、自治会長にはこの辺で一言挨拶してもらわなくちゃならないでしょうね」
 杉崎健太は自治会長という綿貫の立場を強調するように云って、傍らからハンドマイクを手に取り「皆さん。ご歓談中恐縮ですが自治会長が参りました。改めて新年のご挨拶をお願いします」と、正面のスピーチ台を手で示した。
 綿貫信一郎は苦笑いを浮かべながらスピーチ台のマイクロフォンの前に立った。いつも顔をあわせている仲間たちの前だから緊張などするはずもない。一礼してそのままスピーチを始める。
「あらためまして新年のご挨拶を申し上げます。あけましておめでとうございます」
 既に宴会を始めていた会員たちは各々の飲み物で満たされた紙コップを高々と掲げて大声で唱和した。
 ざわめきが収まるのを待って綿貫信一郎は「どうでしょう、皆さんお酒も入っておられるし、知らぬ間柄でもないわけだから席に着いて雑談会としましょうよ」と提案し、マイクをスタンドから外して持ったまま台から降りた。会員たちも皆納得して、飲み物やオードブルを並べたテーブルを囲むようにパイプ椅子を並べ腰かけた。

 席に着いた自治会の面々を見渡し「昨年は皆さんにとっても私にとっても本当に大変な年でした。しかし皆さんのご協力とご理解によりましてこの川沿地区は。明年までには中津リバーサイドタウンとして鮮やかに再生生まれ変わることになります。近々建設会社の方から工事計画が示されればそれに従って土地引渡しということになるわけです」
 綿貫は確認するように切り出した。「先ほど耳にした所では川沿地区の地権者の内ほぼ半数に当たる方々は、立ち退き後夫々のご都合ご計画により他の土地に移り住まわれるとのことです。これまで長いこと二十五世帯で切り盛りしてまいりました川沿地区自治会の区割りが、青写真通りに完成すればおよそ百軒の住宅地へと生まれ変わります。長く続いてまいりましたこの自治会もこの三月一杯でひとまず解散ということになりますのが寂しい気持ちです」
「そのときが来たんだよ。気にすることなんか何もないって」
 メンバーの一人が代表するように発言し、皆が頷いた。
「そう言ってもらえると気が楽なんですがね。なんだか私が自治会を潰したように思えて……」
 綿貫は少し暗い目をして見せた。
「何を詰まらんことに気を遣っているんだね、綿貫さん。ネコの額ほどの二束三文の土地を皆の納得行く値段で取りまとめてくれたのはあんたの力だ。わしらはそれだけで感謝しとる。耕してもナンボのものにもならん土地だったなあ。水に浸かるたび金ばかりかかってなあ」
 男はそういって綿貫を激励する。
「そうそう。見切り時だったんだよ。それにしても何かと苦労もあったでしょうな?」
 集まった自治会員たちの間から感謝を込めた声と拍手が沸きあがる。綿貫信一郎は胸の奥に篤いものがこみ上げてくるのを感じた。
 
 綿貫信一郎が昇竜土地企画建設から土地の売却を取りまとめてもらえないかと相談を受けたのは、杉崎健太の口から話が出るより半年近く前のことだった。今から遡れば一年近く前になる。
 土木部長から直々の電話で綿貫は町役場へと呼び出された。
「ぜひとも会ってもらいたい男が来ているので、至急出向いてくれ」
 電話は命令口調でそれだけ伝えて、切れた。
 柳田邦信といえば町の実力者。止む無く出向くと部長室では柳田邦信人ビジネススーツを着た三十才そこそこに見える若者、そしてその上司と思われる中年の男が歓談していた。
 土木部長から紹介されてふたりの男たちと名刺交換しながら、綿貫は少し緊張して立っている若い男のほうに見覚えがあるような気がして、受け取った名刺の印字とにこやかに挨拶する両名とを重ね合わせてみたが記憶は甦らなかった。きっと気のせいなのだろう。
 記憶を辿ることを諦めた綿貫が目を戻すと土木部長は慌てて腕時計を覗き「おっ、もうこんな時間か。ちょっと約束があるのであとは上手くやってくれ」と体をかわした。要するに、自分が便宜を図ったととられては困るということなのだろう。

 その晩綿貫信一郎は部長室で始めてあったふたりの男たちが予め準備していた料亭で饗応を受けた。
 名刺に専務取締役と肩書きのある広瀬静雄という名の初老の男が、従えた上川裕樹と言う若い課長を補足する形で話は進んだ。それがニュータウンの斬新な運営システムについてだったのである。昇竜では朝川町川沿地区をその候補地として選んでいた。自治会長の綿貫自身さえ認める人気のない痩せた地域を再開発し、新型居住空間として生まれ変わらせたい。上川裕樹はその運営システムについて熱く語った。初めての試みだという。だからこそ会社側の熱意も大きいように思えた。
 すべては用地買収から始まる。ニュータウンを築き上げるには設計規模を満たす広い土地を確保しなければならない。川沿地区の総ての土地を買収したい。地権者の取り纏めを行ってもらう為の適任者として人材を紹介してほしい。昇竜では予ねてから柳田邦信朝川町土木部長にそう相談していたと言うのだった。
「個々の財産に絡むことだからなかなか難しいことに違いないが」と前置きがあって一応話だけでもしてみたらいいと二三日前に柳田の口から綿貫の名前が出たらしい。
「柳田さんがお宅の後ろについているようですがなぜ?」
「あの方の情報力には敬服しております。お父上の関係で国とのパイプも太い。お付き合して損なはずがあるものですか」広瀬専務は少し口元をほころばせて「そう遠くない将来、国政に打って出ると言う噂もあるほどですしね」と続けた。
「それは良く分かりますが、今度のお話自体柳田土木部長にとっても何らかの得るところがあるわけですよね」
 柳田土木部長が直々に仲を取り持ってまで事を成そうとしている。相当見入りの大きな成功率の高いプロジェクトなのであろう。
「ご協力いただけるというご返事と考えてよろしいのでしょうね」
 広瀬専務が念を押すように云った。
「柳田さんの口利きなら無視するわけにもいきませんからね」
 綿貫は答えたが、これを良い機会と捉えるもうひとつの理由があった。同居する父親の病気療養のために相当高額な医療費が必要だったのである。土地を処分しようと考えている矢先だった。
「実は柳田土木部長にはニュータウンの設計顧問として名前を連ねていただいております。土木部長の奥様のお名前でですがね」
 一般庶民にも土地付き住宅が取得できそうだという夢を本当に復活させてくれるかも知れない。綿貫はそう感じた。しかしそれだけなのだろうか?
「もうひとつお伺いしたいのですが」
「何なりと」
「ニュータウンを川沿地区にきめらた理由は?」
 綿貫の問いかけに広瀬専務は穏やかな笑顔を見せた。
「綿貫さん。あなたもご存知のはずだ。川沿から遡った所に何ができつつあるか……」
「多目的巨大ダム」
「その通りです。国はここをダム湖を中心にした大規模なリゾートにする計画です。佐波原市側からのアクセスは川沿地区を通るルートしかありません。ニュータウンはこの大リゾートへの要衝になるわけです。観光や行楽に関わる経済効果も大きいと思われますしね」
 広瀬は誇らしげに云って綿貫を見た。その表情はにこやかだったが、目には自信が漲っていた。
 広瀬専務は真顔に戻ると「ご承知の通り川沿地区は地価的には極端に人気が低く、周辺の平均単価に比べて三十パーセント程度でしかありません。もし年内に取り纏めいただけるなら、四十五パーセントを約束しましょう。もちろん先ほどからご説明している運営利益の配当も決算ごとに」と、止めを刺すように言い放った。
 綿貫は首を縦に振るしかなかった。これほどの好条件が将来提示されることなどないと思ったからである。
 広瀬と上川裕樹は揃って安堵の息を吐いた。
「しかしまとめられるかどうか、自信は……」
「それは当然でしょう。一筋縄ではいきますまい。各個人の財産処分についてですからな」
 広瀬専務は声を潜めるように云って傍らに置いた鞄を開けて中から分厚い封筒を取り出した。
 封筒を綿貫の膳の横に滑らると広瀬はますます声を潜めて「作戦があるんですわ」と囁いた。
「これは?」
 綿貫は銘々膳の横に置かれた封筒に目をやった。
「支度金として百万円用意しました。取りまとめいただくにも何かともの入りでしょうから」
 広瀬は綿貫が受け取るのを拒む隙を与えず「作戦と言うのはですな、この話は私どもから相談があったのではないと言うこと。そうしておくことがネックなのですよ」
「え?」
「つまりあなたには最初は中立の立場を装ってもらいたいということです」
 意味が理解できず綿貫が黙り込むのを見て広瀬は「お宅の自治会に杉崎健太さんと言う方がいらっしゃいますね」
「はい」
「時機を見て上川のほうから杉崎さんに今日させていただいたと同じ話を持って行きます」
「健太は」広瀬のことばを上川裕樹が引き継いだ。
「そうすれば健太は必ず綿貫さんに相談を持ちかけるでしょう健太から相談されるまで綿貫さんは何も知らなかったことにしておいてほしいんです。地権者の一人であるあなたが私どもと直接打ち合わせをして取り纏めを引き受けたと言うことになると、売却に反対する方にとっては好ましからぬ立場になりますね。そこでワンクッション置いた形で、健太がこんなことを云っていたがどんなものだろう、と言うように切り出してほしいのです」
 熱い口調で語る裕樹の姿を見ているうちに、時の深みに埋もれていた綿貫の記憶が甦えった。
「ああ、君はあの西高等学校のエースだった上川裕樹君か……」
「はい。健太とは今でも仲良く付き合っているんですよ」
 上川裕樹は今でも当時を覚えてくれた人間がいたことに気を好くしたのか白い葉を見せた。

 席に着いて話し始めた自治会長が急に黙り込んだので皆どうしたのだろうかと不安そうな目を向けた。会場の中に一瞬気まずい空気が流れかける。綿貫自身いち早くそれに気がついて「皆さんの暖かい心配りに感激いたしまして」と冗談交じりに云う。白けた雰囲気を修復するにはこのひとことで十分だった。
 歓談と笑いと歌声の時間が続いた。
 その中で綿貫信一郎は胸の奥に小さな疑問が芽生えるのを感じていた。時間的なずれについてである。
 広瀬専務と上川裕樹から相談を受けたのが咋年一月末だった。健太が上川裕樹から話を受けたのが五月の連休。健太が綿貫に話を持ってきたのがあの台風の日、八月末なのだ。
 土地の取得を急いでいたにも拘らず何があったのだろう? 結果的には昨年末に全地主合意の回答が出せたのだから気に病むこともないのだろうか……
 その吹っ切れない疑問は綿貫信一郎の頭の中にいつまでも燻りを残していた。

      3
 刑事の訪問を受けたとなればだれでも多少の不安を持つにちがいない。静かにドアを開け、探るような眼差しで入ってきたのは昇竜土地企画建設の多摩支店長上川裕樹だった。応接室内でソファーに腰かけていた高槻彰と柏崎一茂の老若両刑事は上川が入室すると機敏に腰を上げ、にこやかに微笑んで見せた。仕事が仕事だけにふたりとも愛想笑いなど得あ手であろうはずもなく、どうみても不自然なその笑顔は上川の不安をますます大きなものにする効果しかないようだった。
「さ、どうぞお掛けください」
 一通り名刺交換を終え両刑事がソファ-に座りなおすのを見て上川裕樹も肘掛け椅子に腰を下ろした。刑事たちとの間に置かれた小さなテーブルの上で女子事務員が運んで来た緑茶が湯気を上げている。
「新年早々突然お伺いして申し訳ありません」
 上川が視線を宙に泳がせているのを見て高槻刑事が話し始めた。「御社で販売を予定されていらっしゃる中津リバーサイドタウンのことで……」
「何か差し障りでもあったのでしょうか?」
 支店長の顔から血の気が引いた。「今月末から造成を開始しまして来年度、つまり明年四月には販売開始を予定している物件ですが。総て手続きなども終えた上で着工しているはずですが……」
 上川支店長の声は今にも消え入りそうにか細かった。自らの発案が採択され着々と準備を重ねてようやく完成に向け動き始めたニュータウンである。警察の介入など考えたこともなかった。
「え?」
 高槻老刑事は何のことか分からないと言う表情を作って柏崎一茂の顔を見た後、ひと呼吸置いて不意に気がついたように「上川さん。違う、違う」と慌てて手を横に振った。
「どうにも困ったものです。迂闊に警察の者と肩書き代わりに使ってしまうと、皆さん必ず何か事件の捜査かと勘違いされる。いや、当然ですがね」と、高槻は笑った。
 ぽかんとする上川支店長に構わず高槻は鞄の中から花富士の大将から借りてきた中津リバーサイドタウンのパンフレットを取り出してテーブルの上に置いた。
「実はここにつれてきた私の部下がね、まだ嫁さんもおらんと言うのに最近家が買いたいと言い出しましてな……。最近の土地家屋の高騰振りから見て、おまえの給料じゃあとても無理だろうと諭したんですが、昨年末になってこれを持って来たんですわ。ざっと目を通してみた所なにやら手の届きそうなことが載っているじゃありませんか」
 高槻はそういって今テーブルに置いたパンフレットをまた手に取ってページをパラパラと捲った。
「ええ、これは確かに私どもが昨年十二月に開催したリバーサイドタウンの説明会の折に配布したものですが……」
 上川裕樹まだ呑みこめないでいる様子だったが高槻刑事が「この一茂が言うにはこちらのニュータウンなら手が届きそうだ。いろいろ話を聞いてみたいから同伴してくれと言いましてね。まったく子供と一緒ですわ」と話し終わって大声で笑って見せると、ようやく相好を崩した。
「そうだったんですか。取り次いだものが警察の方がいらしたとだけしか云わないものだから、てっきり何か仕事の上のトラブルかと」
 上川と刑事ふたりは子供のときからの親しい友人同士のように大声で笑いあった。

「上手いものだ」と、一茂は思った。今の冗談のようなやり取りで上川裕樹の気持の中にあった障壁は跡形もなく消滅しているのである。
 実際にはもちろん加藤清志の死の背景についての手がかりを探すために訪問したのであって決して私事などではない。しかし正当な事件として成立した捜査ではないわけだから、もし逆手に取られれば取り返しのつかぬ事になりかねない。だから向こうから自発的に話をさせるように誘導することができれば良いのである。誘導尋問をするのではなくあくまでも自分の意思で説明したという状況を作るということである。だがそれは簡単なことではない。結果的に上手くいこうが失敗しようが誘導された相手が後々気付いた時どんな行動に出るか予測がつかないのだ。しかも管轄外なのである。ことさら慎重に行動しなければならない。
 ショウさんは何か根回しをしたのだろう。一茂は感じ取っていた。きっとあの忘年会の晩。「あとはまかせろ」と云って水木捜査課長を追って行った高槻彰の姿が思い出された。

一茂の直感は当たっていた。
 高槻老刑事は署内に強力な布石を置くことを決意したのである。というより誰にも明かさずに身勝手に行う捜査もこの辺が潮時と判断したというほうが的を射ている。
 それはこれまでの経緯を刑事課長に話し、秘密の捜査を継続して構わないというお墨付きを貰うということだった。勿論刑事課長が首を縦に振らなければ話は終わりであり、今後の捜査は諦めるしかないことも承知の上だった。高槻彰は水木洋一郎の正義感に賭けたのである。
 忘年会の晩、会場を早目に抜け出した高槻彰は恒例行事『課長追い出し』で先に退出した水木刑事課長を追った。水木もきっと高槻が後を追ってくるだろうことを見越して外で待っていた。
 水木洋一郎は十数年前に警視庁から転属となったキャリア組で四十才後半、正義感が強く頭の切れる男だった。そういう人間だけに本庁時代何か体制に馴染まぬものがあって、その当時はまだまだ片田舎だった多摩の支署へ飛ばされてきたのだろうと囁く声も少なくなかった。しかし月日を経るにつれ見事なまでの指揮能力を発揮して職務を遂行しその人望を厚いものにしていた。家庭に於いては八十才に手が届く老母と学生結婚した女房、そして二年ほど前に都内の新聞社に入社したひとり息子を養う実直な姿を見せ、署内からも外部からも多摩所中部署を背負って立つ人材として噂されるまでになっていた。
 水木洋一郎刑事課長は長年の勘と経験で手腕を発揮する高槻彰を兄のように頼り、自分が現職に昇進してからもなお彼を大先輩として敬っていた

忘年会を抜け出してからふたりで入った小料理屋で高槻老刑事は刑事課長これまでの経緯総てを打ち明け判断を仰いだ。
水木は「多分そんなことだろうと思っていましたよ」と笑って高槻の進める酒を口にした。
 水木は老刑事の盃に酒を注ぎ「確かに妙な話だね」と、ひとこと呟いた。
「で、如何でしょう?」
「だめだと言ったらやめますか?」
 にやりとして水木刑事課長は呟いた。そのことばの奥には「どうぞ気が済むまでやってください。何かあったら私が何とかします」と言う意味が込められているのが高槻には判った。

「なぜこの地価が異常に高騰しているときこれほどの低価格で?」
 一茂は安心した顔つきに変わった上川支店長にさりげなく問いかけた。
「安すぎて不安になりますか? 安普請なんじゃないかと……」
「ええ。正直に申し上げて」
 秘密調査は一茂が住宅の購入を検討しているということを前提に上川のほうから自然と流れ出すように開始された。しかも上川にはそれが聞き取り調査だとは悟られぬ形を持ってである。上川支店長が少しでもこのやり取りに不審の念を持ちそな場面では一茂も高槻も瞬時に軌道修正をした。
「私たち業界からするとまだまだ利益を生みそうな地区もあるんですよ」
 上川裕樹はそう口に出してしまってから慌てて「いや業者ばかりでなく買い手の皆様にも経済的メリットが十分見込まれる地域と言う意味でです」と付け加えた。
「経済的メリットってなんですか」
 一茂はサングラスを外して畳んだ蔓の部分を革ジャンの胸のポケットに差し込んで吊るした。サングラスをしたままでは凄みが効き過ぎると思ったのである。
「活気ですよ」
 上川支店長は言い切った。だが裕樹が確信を持って答えたのに較べて、ふたりの刑事の反応は鈍く、「はあ……。活気ですか?」と首をかしげるばかりである。
 上川はやれやれと言うように刑事たちを見て「お分かりにならないようですね」と残念そうな表情を作った。しかし次の瞬間大きく手を打っ高と思うと「どうです? これから行ってみませんか」と提案してきた。高槻彰と柏崎一茂がなおもぽかんとした表情をしていると、上川裕樹は目を輝かせて「ニュータウンの建設予定地ですよ。ご案内します。私の申し上げることが分かっていただけると思いますよ」と笑顔で誘った。

 愛車のハンドルを操りながら語る裕樹の話を後部座席に沈みながら聞いていると、経済的メリットとは即ち活気のことであるという彼の持論が刑事たちふたりにもよく分かった。
その立地条件によって土地の取引価格には大きな差が現れる。たとえば治水状況が悪いため度々水害に見舞われるとか、背後に迫る丘陵斜面が非常に急傾斜で今にも土砂崩れを起こしそうに見えるなど理由は様々ある。それが事実なの風評に過ぎないのかはともあれそのせいで近隣の土地に較べて極端に取引単価が低い地区が存在するというのだ。
 そのような地域こそ昇竜のような業者にとっては狙いどころだ。と、上川は云う。
 もちろんそういう地区ならどこでも良いというわけではない。周辺の経済状況や計画を綿密に調査した上で選ばれた地区は、開発改良を行うならば必ず息を吹き返すものだと裕樹力説した。
「息を吹き返した土地には人が集まります。そこに賑わいが見えると店舗が並び交通の流れが大きくなる。それに乗ってまた人が集まる。必然的にその場に落とす金が膨らんでくるでしょう。これが活気。経済的メリットだと思いますね」
 ここまで説明し終えたとき車は佐波原市を抜け朝川町へ北側から入る橋を渡り終えた。突き当たる道路を左に折れ一キロも行かないうちに車は川沿地区自治会館に到着した。
 会館前には杉崎健太が待っていた。刑事たちを乗せて社を出発する前に電話を入れて、自治会館の会議室が空いていたら一時間ばかり貸してもらえないかと頼んでおいたのである。
 杉崎健太は会館のドアをあけて三人を招き入れると先に立って二階への階段を登り最も南側の小会議室の鍵を開けた。部屋に入ると正面にはアルミサッシの大きな窓があって、その向こうに乾燥しきったネコの額ほどの畑地が寒風に土埃を舞い上げている。畑地の先には中津川がゆったりと北から南へと流れ、遥か南で霞の中に溶け込んでいた。
「こんなやせこけた土地に本当に経済的メリットがあるのか俄かには信じられないでしょうね」
 窓の外に目を走らせながらか、上川裕樹は云った。だがその口調には絶対的な自信が漲っていた。
「いったい何があるんです? この地域に」
 多少苛立ったように柏崎一茂が口に出した。
「ダムです」裕樹はきっぱりと言い放った。
「ダム?」高槻彰と柏崎一茂の両名は殆ど声をそろえて叫んだ。
「そうです。この川沿地区から五キロ程奥に入ると宮ヶ瀬地区という渓谷になります。今そこに巨大な総合多目的ダムが出来上がりつつあるのです。そして国はこのダム湖を中心に据え、ひと山全部を総合公園リゾートとして開発する方針を固めました。それが完成したときにこの佐波原市側からのアクセスはこの窓の外を通る道路を利用するしかないんです。つまりこの川沿地区は巨大リゾートへの要衝であるわけです」
「なるほどね。民間企業というところも大変なお仕事なんですな。お話を伺っていますとその活気というやつが見えてくるようですな地元の意見を取りまとめるのもたいへんだったでしょうな」と高槻彰が持ち上げる。
上川裕樹は杉崎健太に顔を向け「こいつのおかげなんですよ」と嬉しそうに微笑んだ。「健太とは高校時代一緒に野球をしていた仲間なんですが、その健太がたまたま対象地区の地権者の一人だったこともラッキーでした」
「何もしていないよ。この狭い地区だ。土地所有者だって少ない。自治会長の人望も厚いし、話はすんなりだったんですよ」健太は照れくさそうに頭をかいた。
「いやおまえは相当悩んだと思うよ。だって俺が健太に話を持ちかけたのが五月だ。自治会長を通して正式に地権者説明会をしてほしいと依頼があったのが八月末だった。ほらあの台風の後だよ。おまえは三ヶ月間も切り出せずにいたことになる」
 ここまで言って裕樹は言葉を止めた。話題が連れてしまっていることに気が付いたからだ。
「申し訳ありません。身内の話で……」と刑事たちに視線を戻したとき会議室の外に足音が聞こえドアがノックされた。
 入ってきたのは健太の弟、健二だった。
 健二は部屋に知らない男がふたりいることに少し驚いたが「失礼しました。いらっゃいませ」と無難な挨拶をした。
「東京からいらした、多摩中部署の刑事さんだ」
 健太が紹介すると刑事という言葉が持つ独特な響きに対する不安のためなのか「それじゃ、あれが事故だったのかどうかまだ決着が付いていないのですね」と声を潜めた。
「えっ……」
 尋ねられて二人の刑事たちは思わず息を呑んだ。
 杉崎健二はそんなふたりの様子にはお構いなしに窓外を流れる中津川の対岸をまっすぐ指差した。半ば冬枯れの雑草で覆われた段丘状の土手が続いている。
「去年の八月、あそこで大雨の降った晩土砂崩れがありました。その土砂崩れに巻き込まれて埋蔵文化財センターの学者さんが亡くなったでしょ。この窓から川の状況を観察していた兄が死体を見つけたんですが……。その件でいらしたんじゃないのですか?」
 健二は部屋にいた皆が突然押し黙ったことで自分の迂闊さを悔いた。刑事と聞いてあのときのことを連想したのは当然かもしれない。しかし軽率にも思いついたままを口に出してしまったのだ。あの件は対岸で発生した小さな土砂崩れに巻き込まれたことによる事故ということで落着したのではなかったのか。杉崎健太健二は重い気持ちになった。自分の不用意な発言で事件を蒸し返すことにならなければ良いけれど…….

     4
 佐波原市埋蔵文化時センターも新年は四日から通常勤務となる。今年は木曜日だから明日一日出勤すれば土日は休み。年末年始の休日を利用して郷里へと帰っている職員の多くが有給をプラスし週明けからの出勤にしているせいで、事務所内に人影は疎らだった。現場もまだ開けてはいない。作業員たちも職員同様殆ど揃わないからだ。その上今回の調査には空中写真測量を応用した新システムを採用したので残作業もそれほど残っていない。
「ああ、また収蔵庫にこもって、遺物の復元か……」
 現場好きの加藤瑞穂が思わずため息をついたとき電話が鳴った。近くにいた男性職員が素早く受話器をとった。
「はい。少々お待ちください」
 職員は緊張した様子で「加藤先生、電話です。文化庁のカズシゲさんから」と知らせて電話機の保留ボタンを押した。
 瑞穂は近くの受話器をとった。
「分かっても云わな~い」
 受話器の向こうから総てを制するような野太い大きな声が聞こえてきた。
 頭の回転が良い瑞穂はすぐにその意味を悟った。多摩中部警察署の刑事からの連絡だと言うことを知られぬようにという注意なのだろう。
「はい。瑞穂です」
 瑞穂は名乗ったあとで笑い出したいのをこらえながら「ああ、カズシゲ先生。ご無沙汰しております。今日は何か」と受話器に向かって芝居をした。
「なかなか上手ですよ、先輩」一茂は笑い声を聞かせた。
「どういうことでしょうか?」
「佐波原市警察署ではご主人の一件を事故と言うことで決着させたようですが、あれからいろいろと私なりに調べてみましてね。やっぱりどうしても腑に落ちないんですよ。なんだか上のほうから圧力がかかっているようだと佐波原市警察署の担当刑事も感じているみたいですし……」
「それで?」
「ええ。それでですね明後日の夕方から現在こそこそと調べて回ってる者同志で情報交換会というかミーティングを開こうってことになったんですよ。新年会を兼ねましてね。瑞穂先輩。出席しませんか?」
「私が?」
「はい。ぜひ」
「刑事さんたちのミーティングでしょ。怖いわね」
「大丈夫。皆、優しい男たちだから」
 一茂が冗談を言うと瑞穂は健康な笑い声を聞かせた。
「明後日と云うと、土曜日ね。いいわよ。何か力になれたら嬉しいしね」

 瑞穂は少し間を置いてから返事をし、場所と時間を確認して電話を切った。
 昨年八月末の台風が通り過ぎようとする深夜、佐波原市内の市街化調整区域で小さな土砂崩れが発生した。それに巻き込まれて夫・加藤清志は中津川に滑落し死亡した。佐波原市警察署はこの台風の最中に起きた出来事にそう結論を下し、死亡する直前の加藤の挙動に不審があるとする担当の遠藤、猿橋両刑事にもこれ以上の捜査を中止するよう言い渡した。
 このことは以前にも聞いていた。
 一茂からも死んだ夫が学図舎の緑川から入札の便宜を図る見返りとして饗応をうけていたことも知らされている。
 一茂の報告によれば、その癒着関係が加藤の怯えの原因と考えることはできても、それを加藤の死が事故ではないとする根拠とすることはできないと云っていた。今また改めてミーティングをしようなどと連絡してきたのはどういうことなのだろうか? 何か捜査に進展があったということなのか、それとももうこれ以上の捜査は打ち切ろうということなのか。単に捜査は続けているから心配しなくてもいいよという心配りなのかも知れないし……瑞穂には判断がつかなかった。
 どちらにしても公にはけりがついたとされる不必要な捜査を、佐波原市署と多摩中部署それぞれふたりの刑事たちが続けているのである。
 もちろんそれは男たちが各個人の持つ探究心とか正義感に動かされてのものであることに間違いはない。とは言え佐波原市警察署においては捜査を打ち切った一件であるわけだし、多摩中部警察署においては管轄外の出来事なのだ。厳格な組織行動と明確な上下関係による指揮系統が要求される社会の中にあって、それはある意味で造反とか謀反とでも呼ぶべき行動には当たらないのだろうか。もしそうなら一件が瑞穂の亡き夫に関わることだけに胸が痛む。場合によっては瑞穂のほうから捜査の打ち切りを願い出ることも考えねばならないと思った。

 遺物整理作業の工程を組みなおしたり、工業団地遺跡から出土した遺物収蔵状況を確認したりして瑞穂はのんびりと二日間を過ごし、年始めの第一週目は終った。
明日は一茂から出席の誘いを受けたミーティングである。
 これと云って報告すべき事項もない瑞穂だった。聞き役に回ればいい「あけましておめでとうございます」と言う声に振り返ると、かと思っていたところに面白い出来事があった。
 昨日夕方センターの事務所にいた瑞穂に来客があった。スーツを着こなした中年男が両手に紙袋をぶら下げて満面に笑を湛えて立っていた。㈱学図舎の緑川隆俊営業部長だった。
「本年もよろしくお願いします」
 ありきたりの挨拶を終えた緑川は空いている椅子を勝手に引っ張り出し腰かけた。
 持ってきた紙袋の中から緑川は粗品と印刷した社名入り封筒に入れたダイアリーを一冊取り出して「今年のダイアリー。使ってください」と、瑞穂に手渡した。
「ありがとうございます。こちらこそよろしく」
 瑞穂が挨拶のことばを返し終わらぬうちに、緑川は持ってきた紙袋ふたつをそのまま瑞穂の足元に置いた。
「二十冊持ってきました。先生のほうで適当に分けて……」
「ありがとうございます」
「それよりですね、加藤先生」
 緑川は声を突然小さくして「暮に現場でお会いした柏崎一茂先生から、何か連絡はありませんか?」と囁くように尋ねた。
「いいえ。別に何もないけど」
「そうですかぁ……」
「約束でも?」
「そうじゃないんですが、システムの見学をされたあとで、面白い方法だねと感心しておられたようでしたから」
「そう?」
「ええ……多分……」
 緑か泡は呟くような声で云って「ねえ、先生。あの方の職場の名前、教えてもらえませんかねえ。先生には決してご迷惑かけませんから」と、媚びて見せた。
「自分で営業してみたいってことね。いいわよ。教えてさしあげても。でも寝聞かないほうがいいかもしれないわよ。もしかしたら」
 瑞穂は茶目っ気たっぷりに云った。
「教えてもらえるんですか。ありがたい」緑川は胸の内ポケットから手帳と万年筆を取り出した。「全国規模で調査を行ったり、その良否を判定したりする役所、そういってたなあ。何処なんだろう?」緑川は好奇心に満ちた目で瑞穂の口が開くのを待った。
「しらないよ。後悔しても」
「後はこちらで動きますから。ご心配なく」
「そうですか。それじゃ申し上げますよ」
「お願いします」緑川隆俊はペンを持つ手に力を込める。
 瑞穂は決心して大きく頷いた。
「多摩中部警察署。刑事課。なんでも入札問題の捜査をしているそうよ」
 言い終えて瑞穂は緑川の様子を窺った。
 緑川の目から光が消え、一瞬の内にその体全体を暗い影が包み込んでいくのを見た。

  滑落斜面

     1
 京王相模原線の全線開業を三月末に控え、JR横浜線橋本駅周辺の飲食店街は少しずつ変化を見せていた。これまで軒を連ねていた小さな一杯飲み屋がそこここで取り壊され、代わって現代風な洒落た構えの大型の居酒屋店がぼつぽつと姿を見せ始めたり、五~六階建ての雑居ビルが、新しく出来上がる街を主張するように生まれている。特に相模原線が北側から大きく回り込んで入線してくる北口には広いバスターミナルのロータリーがコンコースを頭に載せた形で造られた。また駅舎への入り口付近と中央広場を挟んで辻向かいの位置に聳えるようなショッピングセンタービルが既にオープンしている。どちらのビルも駅舎もコンコースに面して正面口を開けている造りだった。
 ミーティングを兼ねた新年会は南側のビルに入った清寿司という寿司屋の個室で開かれた。柏崎一茂と高槻彰が中居に案内されて部屋に入ると瑞穂と佐波原署のふたりは既に席についており、テーブルの上には刺身、唐揚などの料理が並べられていた。店の作りも小奇麗で高級感さえ感じさせるものだった。
 会場をセットしたのは佐波原市警察署の猿橋弘毅だった。
 加藤瑞穂を含め五人の少人数にも拘らず初めて幹事を任せられた弘毅は緊張を隠せずにいた。猿橋が雑談の中で会を始めるタイミングを探している様子に、柏崎一茂が「さあ、それじゃ始めようか」と気を利かせる。
 猿橋は一茂に感謝の会釈を返して立ち上がった。
「それじゃ、皆さん、どうも、明けましておめでとうございます。早速ミーティングを始めます」
「ああ猿橋くん。その前にちょっといいかな?」
 高槻彰老刑事が口を挟んだ。
「あ、はい」
 出鼻をくじかれた若手刑事の面食らった表情に苦笑して、普段から何かと面倒を見ている遠藤大吾が後を受けた。
「何かあったんですか? ああ、そのままで……。座ったままで構いませんよ」
「ミーティングの前にお侘びしとかねばならんことがあるのですわ」と、前置きして高槻彰は話し始めた。
「俺たちは加藤課長の死に疑問を持って、ここにいる二署の刑事が協力しながらフリーで動いているわけだ。上の許可も得ずにね。これは皆も知ってのとおり俺たちの生きている社会では許されんことですよ。よほど上手くやっていかねば取り返しのつかんことになる。ところが注意していたにも拘らず、動きを既に上司に悟られてしまった。それに気付いたんですわ。忘年会の日にね。こうなってしまったらこれ以上しらばっくれているより、むしろ俺たちの胸にある疑問を曝け出して判断を仰いだほうがいい目が出ると考えたんですよ。それで我署(うち)の課長に、総てを話してしまいましてな……。まことに申し訳ない」
 これを聞いて佐波原署の二人はさすがに驚きを隠せなかった。
「それじゃ高槻さんたちにはもう手伝ってもらえないと……」と口を尖らせた猿橋の頭に遠藤がぽかりと拳骨をくれた。
「ばかやろう。もしそうなら一茂さんとふたりして今日のミーティングに出てこられるわけがないだろうが」
 遠藤大吾はそこまで言ってはっと気付いたのか「忘年会のときというと、もしかすると私が連絡を入れたことで……」と不安そうに高槻を見つめた。
「いや、そうじゃないよ。随分前から気が付いていたらしい。勘の鋭い、というか頭の切れる人だからなあ……」
「そうですか」
 遠藤大吾は安心して息をつき「それでどういうことに……」といいかけたが高槻彰の穏やかな眼差しに気が付いてことばを止めた。
「ショウさん。そうなんですか?」遠藤は満面に笑顔を浮かべた。
 高槻は大きく頷いて「お墨付きが出たよ。」ときっぱりと言い切った。
「マジっすか!」
 猿橋が叫ぶ。
 高槻は頷き真顔に戻った。
「俺とシゲが組んで動いているんだからどんなに止めたって無駄だ。そう思ったのかも知れん。しかしまあ佐波原署としては、管轄でもないのに勝手な真似をされちゃ困る、というスタンスを採るでしょうな。中央からの力はともかく、佐波原署にも事件性はないと結論を出した面子もあるだろうしな。だから慎重に動かなくてはならんことに変わりはない。遠藤くんや猿橋くんもこれまで以上に風当たりが強くなることを覚悟しなくちゃならんだろう。短期間でけりをつけなくてはな。お墨付きが出たといっても動きが取れなくなってはお手上げだ」
 高槻彰は再確認するように言って刑事たちそれぞれに視線を移していった。その視線は最後に瑞穂を捕らえ、穏やかなものへと変わった。一茂から名前だけは度々耳にしていたが高槻彰は加藤瑞穂とは初対面だった。一茂がようやくそのことに気が付き慌てて上司に瑞穂を紹介した。
「わざわざご足労頂いて申し訳ありません。貴女のことはシゲからいつも聞いていますので初対面と言う気がしません」高槻刑事は小さく笑ってから今度は少し神妙な顔をして「ご主人にはお気の毒なことでしたなあ」と付け加Zえた。
「こちらこそ一茂くんには主人のためにいろいろとご迷惑をお掛けして……」
 瑞穂がいいかけるのを制して高槻彰は「気を悪くなさらんでくださいよ。別に加藤さんの為に調査しているのではない。私たちは警察官です。警察官には警察官としてやらねばならんことがあると思うからなのです」と瑞穂に釘を刺した。
 高槻彰のことばに思わず目を伏せたのは遠藤大吾と猿橋弘毅だった。
「お恥ずかしい話です」
 ぽつりと言って遠藤大吾は頭を下げた。
「遠藤君たちは立ち向かっているじゃないか。それも逆風の中で」
「何度も挫けそうになりましたけれどね。決定のままでいいかなって……」
「最終的に納得がいくのならそれでもいいんだ。だがいくらなんでもまだ早すぎる」
 場の空気が重くなってきたことに気が付いて柏崎一茂が「折角のご馳走を前にしてなんですから、箸をつけませんか?俺、食いとうて食いとうて」と救いの手を伸べた。屈託のない笑い声が八畳間ほどの和室に満ちた。
 
 和やかな新年会の中で一茂は高槻に促されて昨日㈱昇竜土地企画建設を訪問した顛末を説明した。
「こんなふうに加藤先輩とニュータウンや自治会との繋がりがまったくないわけじゃないのはわかった。だけどそれが先輩の死に関係しているかどうかは、まだなんとも……。」
 一通り話し終えた一茂は瑞穂に目を向けた。
 瑞穂は真剣な眼差しでまっすぐに一茂を見つめていた。
「瑞穂先輩、今話しの中にあった名前で加藤先輩から聞いたことのあるものはなかったでしょうか?」
 一茂は瑞穂の視線が予測していたよりも遥かに強く自分に向けられていることに動揺し、それを悟られまいとするように声を少し大きくして尋ねた。
 瑞穂は首をかしげた。
「ないと思うわ。でもあの人がニュータウン側の発掘調査をしたいと強く願っていたと言うのは本当よ。亡くなった加藤の発掘調査歴には花がないのよ」
「花?」刑事たちがそれぞれ聞き馬押すように声を上げた。
「そう。つまり学問的にだけじゃなく、何かこう……きらっと光る発見とか、ね。だからこそあの人あそこの発掘に期待を寄せていたんじゃないかな」
「……」
瑞穂の言うことが理解できず刑事たちは沈黙した。
「川沿地区の地形は中津川が山から平地に飛び出したいわゆる扇状地と言う土地に乗っているの。扇状地って言うのはいつの時代でも集落が張り付きやすく、考古学上貴重な発見も期待されるところなのよ。だから加藤も自分にとってのステータス遺跡になるかもしれないという期待感が強かったんじゃないかな?」
「なるほど。今のお話で被害者と昇竜土地なんとかという会社の間に何らかのしこりがあった可能性は否めませんな。しかし加藤さんが何の意味もないであろうあの場所に立ち入ったのかと言うことについてはまだ何も判りませんね」
 一茂が探るような目でみなの反応を窺った。
「ひとつ提案があるんですが」
 一茂の話を受けたのは遠藤大吾だった。「提案と言うのは、明日日曜日なん+ですが、私たちは瑞穂さんのご主人が亡くなった現場に行ってみようと思っているんです。どうでしょう。よろしければご同行いただけませんか?」
「最初に立ち返るというわけですか」と、高槻彰が頷きながら訊いた。
「それもあります。それもありますがもうひとつ……」
 遠藤は含み笑いを浮かべるように高槻を見た。「実は先日、うちのサルが気になることを言い出しましてね」
 遠藤大吾の発言にその場の空気が張り詰めた。
「サルがこう言うんですよ。被害者の加藤さんは本当にあの市街化調整区域で亡くなったんだろうか? と……。そんなこと考えもしなかった。それで現地をもう一度見てみようということに……」

 柏崎一茂は思わず唇を噛んだ。台風の中で土砂崩れに巻き込まれたという情報が頭の中に根をはっていた。加えて市街化調整区域と言う特殊な地域であったこと、路上には被害者の車が止められていたという事実や管轄外のことという安易さなどが与えられた情報の信憑性を徒に高める要因になったのかも知れない。どちらにしても恥ずかしいことに一茂の刑事としての脳細胞は与えられた枠から外を見ようとは一度もしなかったのである。
 高槻彰老刑事も遠藤大吾に深々と頭を下げてから、恐縮して正座している若い刑事に視線を向けた。
「猿橋くん。ぜひとも同行させてください」
 高槻にそう云われて猿橋弘毅は心から嬉しそうな笑顔を見せ「はい」と歯切れよい返事をした。

     2
 翌日は雲ひとつない好天に恵まれた。
 昨晩急遽宿泊を決めたビジネスホテルで朝食を済ませくつろいでいると、遠藤大吾と加藤瑞穂を拾って猿橋弘毅が二人を迎えに来た。ホテルの前につけた車の外に出て遠藤大吾が待っていた。
 瑞穂の姿が見えないので一茂が「瑞穂先輩は?」と云って猿橋弘毅を見た。
「加藤さんは現場が家のすぐ近くだから先に行って待っていると云ってました」猿橋は答えた。
 一茂が助手席に、そして後部座席に遠藤と高槻が腰を下ろしたのを確認して、猿橋は車を出した。京王相模原線の全線開通を間近に控え、橋本の新中心街となるべく駅北は大きく姿を変えた。国道十六号線を東から西に渡るのも高架となった国道の下をくぐる形で道路が整備され、大渋滞を引き起こすことも少なくなり猿橋弘毅は気持ち良さそうにハンドルを繰った。
「この調子なら二十分ほどで到着するでしょうから、のんびりしといて下さい」
 猿橋が誰にともなく言った。
「それにしても思い切った発想をしたものだね。猿橋くん」
 高槻彰が後の座席から声をかけた。「そんな考えが浮かんだ理由みたいなものがあったのかい?」
「考える角度を変えてみようと思ったんです」
 猿橋は躊躇することなく答えた。
「と、云うと?」
「ええ。みんな被害者が何の目的でこれから見に行く現場に立ち入ったのかということをスタートラインにしているじゃないですか。そこですぐに壁にぶつかったみたいに動けなくなってますよね。だからぼくは出発点を変えてみたんです。被害者は誰かに呼び出されてスナック・ぷうれへ行ってるんです。あの台風の日にです。そしてぷうれから防災合羽簿男に連れ出されているんです。ここからスタートするのが本当じゃないですか」
「……」
猿橋の云うとおりだと高槻も思った。確かに加藤清志は連れ出されたのである。その目的地はどこであったのか? そこが今向かっている現場である必要性はどこにもないのではなかろうか?
 加藤清志が佐波原市内で発掘調査をしていたのは例の工業団地遺跡である。この調査では記録保存の効率化を図る目的で測量新システムを採用、委託業務として入札により㈱学図舎へ発注されている。この入札に際してあ埋文センターと学図舎の間に饗応接待が行われた疑いが浮かび上がっているが、かといってそれと市街化調整区域を結びつける関連性は何も浮かんでは来ない。官制談合問題まで視野に捉えかけたときはさすがに色めき立ったが、事実がそうだとしても加藤清志の死の真相とは別件のように思えてくるのだった。
 ところが猿橋が考えたように加藤が落命した場所があの土砂崩れの現場ではなくほかの場所であったならそれはまったく異なった展開を見せることになるはずである。その結果逆に遺体がまもなく到着する現場で発見された理由も浮かび上がってくるかもしれないのだ。
「ああ、もう見えられてますね。加藤先生」
 五十メートルほど先の路側帯に車を止め大きく手を振る瑞穂が見える。猿橋弘毅は少しずつ減速し、瑞穂の車の後に止めてエンジンを切った。

 車を降りて合流すると五人は、挨拶も早々猿橋を先頭に冬枯れた雑草を踏んで現場へと急いだ。春を思わせる暖かな日差しの中を五十メートルほど進み段丘の際に出た。
「気をつけてください。脆そうだから」と、猿橋が注意を促す。
 段丘の際に沿って金属杭が打たれガードロープが張られているが、安全対策としてはいかにも心許ないものに見える。高槻彰と柏崎一茂は恐る恐る身を乗り出すようにして下を覗き込んだ。崖はそれほど高くはなかった。せいぜい六~七メートル。ビルの二階ほどの高さでテラス状の平地に落ち込み、今度はその平地ごと河川に向かって緩やかに傾斜してなだれ込んでいる。
「あれがこのあいだ行った自治会館ですよ。随分イメージが違って見えますね」
 一茂がおよそ対岸の丘の上に建つ白い小さな二階建てを高槻に指し示した。
「ああ、そうか。じゃあ死体が見つかったのは……」
「丁度いま我々が立っている場所の下。あのテラスが少しずつ川に向かって傾斜し始める辺りです」
 遠藤大吾がガードロープから身を乗り出すようにして段丘の下を指差した。
 高槻は遠藤が指し示す箇所を恐る恐る覗き込んだ。段丘を縦に抉ってテラスに向かう幅一メートルほどの醜い亀裂が残っていた。亀裂の上端は遠藤のすぐ足元に始まっている。
「おい、危ないんじゃないか」
 高槻が諭しても遠藤はただ微笑むばかりだった。
 段丘のテラスは法尻から幅にしておよそ五メートルの平地の範囲を越すと次第に水際に向けて沈み込むように傾斜した川原となっていた。河川区域は対岸まで約六十メートルの距離があるけれども、川はその中を大きくうねりながら広い所でもせいぜい十メートル幅程度で朝の日射しをきらきらと反射させる穏やかな流れを見せていた。南に目を転じると五百メートルほど下流に頑丈そうな橋が架かり、その上を車両がひっきりなしに走っている。橋の東側は佐波原市になるのだが、市街化調整区域が微妙にせり出して視界を遮ってしまう。北側、五百メートル上流にも橋が架かっているが、こちらは下流のものと比べて遥かに貧弱で交通量も少ない。これら二橋に挟まれた地区が中津リバーサイドタウンの建設予定地だった。

 対岸を眺めていた瑞穂が「国が遺跡の攪乱が激しいと結論付けたのも、まんざら嘘じゃないかもしれませんね」と誰にともなく云った。そのひとことで四人の男たちの関心が自分に集中したことに気が付いて瑞穂は頬を赤らめた。
 瑞穂の気持ちを察して高槻彰が「気付いたことがあればその都度遠慮せずに言ってくださいよ。そのほうが助かりますからね」と優しく促した。
「すみません。景色を見ていて気が付いたものですから……」
瑞穂は対岸の印象から思い付いたことをきちんと整理し、確認するように頭を二三度縦に振った。
「何に気が付かれましたかな?」
「国が行ったという確認調査が、私たちが持っている先入観よりきちんと成されたものだった。つまり本調査の必要を認めないという結論がまんざら間違いではない可能性もあるということですわ」
「こんなに遠くから見ただけでそんなことが分かるんですか?」
 猿橋弘毅が目を大きく見開いて瑞穂に質問した。
「向こう岸の道路が走っている土手がありますよね」
 瑞穂は対岸を指差して「あの土手のこちら側が、流れのすぐ傍まで畑地になっていますよね。それから道路の向こう側はどうかっていうと土手に隠れていて見えないけれど、その先に見える家屋の屋根の位地から憶測して、土手の下からやはりかなり広い範囲で畑が広がっているように思えるんです。後で確かめてみたいわ」
「そういう感じですね」
一茂が呟くように云った。一茂は先月一度ここを訪れ同じ風景を目にしている。そのとき自分は何も気が付かなかった。それなのにいま民間人である瑞穂によって重要な何かが明るみに出ようとしている。そんな予感に、柏崎一茂は自分の不甲斐なさを強く感じていた。
「ここまで耕されていたんじゃ、遺跡もきっとすっかり壊されているはずですから」
 高槻は「なるほどねえ」と大きく頷いて今度は自分のすぐ横に立って瑞穂の話に聞き入っている佐波原署の猿橋弘毅に顔を向けた。
「猿橋くんもし君の云うとおり加藤さんが命を落とした場所がここではないとした場合だが、その場所はどこか既に目星は付いているのかな?」
 猿橋弘毅は突然そう聞かれて困惑の表情を浮かべ遠藤大吾の顔色を窺った。遠藤は黙って微笑むと「思った通りをお話しろ」と猿橋に任せた。
 猿橋は覚悟を決めたように頷いて話し始めた。
「きっとここだろうと思い当たる場所はあります。そして私の予感が当たっていたら、この件は事故ではない可能性が超・高くなってくると考えられます」
「事故ではないということは……?」
 高槻彰は強い視線を猿橋に向けた。
「はい。殺人か、もしくはそれに極めて近い状況下の出来事だと思うんです。これからその場所にご案内します」
 猿橋は瑞穂の心中を思ってか声を小さくして、しかしきっぱりと答えた。
 高槻ばかりではなく柏崎一茂もこの発言にごくりと唾を飲んだ。

     3
 五人は二台の車に分乗して市街化調整区域を離れ次の地点へと向かった。
 柏崎一茂は猿橋弘毅が運転するワンボックスの助手席に、高槻彰と遠藤大吾の両刑事は加藤瑞穂がハンドルを握る四駆の後部座席に乗り込んでいる。猿橋の車を先頭に二台は中津川に沿って北上し、段丘から見えた北側の橋に出ると左折して全長約七十メートルの古ぼけた橋を渡り朝川町に入った。猿橋は橋を渡りきってT字路を左折するとすぐに、中津川を左に見る形で路側帯にはみ出して車を停止させた。下流を向いた形である。走り出してからほんの四~五分の距離でしかなかった。瑞穂もすぐ追いついてワンボックスカーの後につけて四駆車を止めた。
 停めた車の横に土手に沿って一列に並び対岸を見渡すと五百メートルほど下流にさっきまで立っていた段丘を望むことができた。
 向こう岸に目をやりながら高槻彰は大きな欠伸をした。高槻は両腕を横に伸ばし一月始めにしては暖かい川辺の新鮮な空気を深く吸い込んで、大きく吐き出した。
「いや失礼。歳をとるとすぐ眠くなっていかんよ」
 老刑事は少し苦笑してから猿橋のほうを向いて「俺も現場はこっち側のように思えてきたよ。いまの所、勘でしかないがね」と同感であることを伝えた。
 猿橋弘毅は嬉しそうに微笑んだ。
「こちら側で何らかの出来事があった。そう考えたほうが辻褄が合ってくるように……」
「ちょっと待って、猿橋さん」
 猿橋が言いかけるのを瑞穂が制した。猿橋が瑞穂の気持ちを思って遠まわしな言い方をしていることに気が付いたからだった。
「私も加藤の死に疑問を持っている一人なの。だから気を遣わないで何でもはっきり云ってください」
 若い猿橋は初めて女性の強さを見たかのように少し怯んだけれど、瑞穂の向こう側で遠藤がニヤニヤしているのを見て我に返った。
「でははっきり言わせてもらいます。被害者である加藤さんは向こう岸の土砂崩れに巻き込まれたのではなく、こちら側のいま我々がいる土手のどこかから中津川に突き落とされた。もしくはそれに極めて近い要因で転落、台風によって増水した流れに飲み込まれた。溺死に至る状況はこうだったと思うんです。そして遺体は濁流に運ばれて発見現場に漂着したのでは……」
「なるほど。で、その根拠は何かあるのかな?」
「根拠っていえるかどうか分かりませんけれど……」
 話し続けようとする猿橋に遠藤が「おいサル、おまえここで皆さんに突っ立ったままおまえの講釈をお聞かせするつもりなのか? 場所、確保したんだろう」と声をかけた。
「あ、そうだった。忘れてました」猿橋弘毅は頭をかいた。

 自治会館の玄関を入ると自治会長の綿貫信一郎と杉崎健二が出迎えた。
「これはこれは綿貫自治会長さん……でしたね。わざわざお出迎えいただくことなど無用でしたのに。いやあ、そ去年の夏、台風のときには大変ご厄介をお掛けしました」
 出迎えた両名と面識がある遠藤大吾が機先を制すように大声で挨拶した。
 その大声に怯んだ綿貫が体勢を立て直し「ああ、そうでしたかあなたはあのときの……」と、なにか言いかけるのを見て、今度は高槻彰が大声を出した。「やあ、健二くん。このあいだはどうもありがとう。いろいろと説明いただいて一茂も申し込みの時期が来たらと始めたようです」
 相手に主導権を取られたくない時にはこちらから大きな声で会話し始める。仕事がら身についた常套手段と言えなくもない。
「杉崎くん、こちらは?」
 ほんの数日前多摩署の刑事二人が会館にやって来たわけを健二は綿貫にかいつまんで話した。
 綿貫信一郎はその目に不信の色を浮かべながらも力なく頷いて「ああそうでしたか。さ
あ。どうぞお入りください」と入館を許した。

 二階の小会議室に五名を案内し何かあれば下の事務所にいるからと云って部屋から出て行ったふたりの後を追って廊下に出た遠藤大吾が背中から「綿貫さん」と声をかけた。
 ふたりは振り返った。
「綿貫さん。ちょっとお願いがあるのですが」と、遠藤刑事はばつが悪そうに視線を落とした。遠藤は暫く言い辛そうに下を向いてもじもじしていたが、不信顔で見つめるふたりの視線を強く感じ思い切って目を戻した。
「綿貫さん。お願いと言うのは今日私たちがこうしてここに集まったことは内密にしていただきたいということなのです」
 綿貫と健二は刑事のこの申し出に驚いて顔を見合わせた。
「どういうことですか?」
「自治会やあなたたちに迷惑をお掛けすることは決してありません。いや、万が一そのような状態になった時には、その時点で警察から会議室を貸してくれと言われて断れなかった、ということにしてもらっても構いません」
「そういわれても……」
「昨年の一件は結局自然災害に不注意が重なった事故ということで捜査打ち切りになったのですがね、私たちはどうにも腑に落ちないものですから今もこうして……個人的に」調べ続けているわけでして。決着が付いている事件を蒸し返そうとしているようなものなので、できればどこにも知られたくないのですよ」
「やはりそうなのですか。それじゃ、決定が覆されると言うことも……」
「いや、それはほぼないでしょう。今となってはもう証拠も何も残ってはいません」
 遠藤大吾の言葉に自治会の二人は不思議そうな顔をした。
「じゃあ、何のために」
「自分の信条のため、ということにでもしておきましょうか。きっとこういうことだったに違いない。そう納得できる所まで辿り着きたいんですよ。後はその後の話です」
 遠藤はきっぱりと言い切って二人に背を向けるとそのまま会議室に戻った。

 部屋の中では残っていた全員がドア付近に立って廊下での会話に聞き耳を立てていたようである。
「あんなもんで大丈夫かな?」
 会議室に戻るなり遠藤は高槻彰の顔を見やった。
「いや、なかなか迫真の演技だったと思うよ」遠藤はドアを細く開けて綿貫と健二が下への階段を降りていくのを見届けてからそう感想を述べて笑った。
五人は夫々会議卓の椅子を引いて腰かけた。遠藤大吾と猿橋弘毅が並び、二人に顔を向き合わせて柏崎一茂一志と加藤瑞穂が並んだ。そして高槻彰が長方形の会議卓の短辺に、ホワイトボードを背にして席に付いた。
「ショウさんからそういっていただくと安心します」と遠藤大吾も笑顔を見せたが、残りの三名はどういうことかわからず困惑の表情を浮かべていた。
「遠藤さん。あの人たちにこっちの手の内を明かすようなこと云っちゃって大丈夫なんですか?」
柏崎一茂が三名を代表して遠藤に尋ねた。
「馬鹿だな、シゲ」代わりに答えたのは高槻刑事だった。「遠藤くんはな、あの二人が何か重要な情報を持っていると踏んで大芝居を打ったんだよ」
 遠藤はにやりとした。
「被害者が川のこっち側で死んだというサルの推理が正しいとすれば、リバーサイドタウンの造成計画が関係していると考えるしかない。そういう目で見るとこの建設計画にはいろいろと不自然な所があるように思えるんですよ。埋蔵文化財の発掘調査を不要とした国の決定もそのひとつです。自殺なのかそうではないのかに関わらず、これが被害者の死亡の根っこになっているのは間違いないところでしょう。ここまでは子供だって推測がつくことですがね.」
 遠藤は確認するように聞き役に回っている三人に順に視線を向けていった。最後に一茂と目があったとき、一茂が不満そうに何か言おうとする素振りを見せたので先手を打ってそれを制した。「ちょっと待ってくれませんか。一茂くんの云おうとすることは察しがつきます。なぜ定石どおりに自治会の連中に心あたりがないか聴いたりしないのかってことですね」
「その通りです」
 一茂が素直に認めるのを聞いて高槻がハハハと声を出して笑ったが、一茂が口を尖らせるのを見て「いや、すまんすまん」と詫びた。
「一茂くん。総てもう終っているんですよ」遠藤大吾はゆっくりと穏やかな口調で一茂に向かって言った。「害者が発見されて身元が判明したときすぐにね」
「そうか……。でもそれならば」
「そう。われわれがこの件が事故だったとは考えておらず今も継続して調査を続けていることは、さっき私が自治会の二人にあんなふうに言おうが云うまいが同じように気付かれるでしょう」
一茂はここまで聞いて思わずあっと声を漏らした。「つまりもし我々の動きに対して何らかの圧力がかかったなら、自治会も敵と同類項だということになるわけか。さっきの芝居はその餌だと……」
高槻刑事が「ようやく気がついたか」とでもいうようにニヤリとした。
「はじめに言ったようにこの件の不自然さはまだあるんです。中津ニュータウンの造成地となっている地区が総て川沿地区に住む地権者の所有地であること。その用地買収に際して自治会長と副会長が昇竜土地企画建設という業者に協力している。しかも総ての土地売却が何の抵抗もなくあまりにも手際よく行なわれていることなど……どれをとってみても不思議なことだらけなんですな」
「それじゃ遠藤さんは加藤の死に自治会が一役買っていると……」
 瑞穂が信じられないと言う表情で遠藤大吾を見つめた。
「自治会ばかりじゃない。会社も、ある意味では、町も国も……」
「なぜそんなことに……?」瑞穂は言葉を失った。
「ご主人は本当にこの地区の調査を手がけたかったのでしょう。それが叶いそうもないと知って加藤さんは落胆した。そしてなんとか復活できないものかと動き出した……」
「その動きが奴等には面白くなかったと言うわけだ」
 高槻彰がここまでの遠藤の話を整理して結論を出すように云った。
「あくまでも私たちの推測にすぎません。証拠も何もない……」遠藤が慌てて云い足した。
「おお、そうだな」高槻刑事は少し笑って「話は順を追ってだった。申し訳ない。では猿橋くんが考えついたということからもう一度話してくれんかな」と佐波原署のふたりに視線を向けた。
「その前にひとつだけ質問させてください」
 出し抜けに柏崎一茂が口を挟み瑞穂のほうに顔を向けた。遠藤が説明していることに気がついてから、一茂は自分なりに事件のあらましを頭の中で組み立ててみていたのである。
「瑞穂先輩に確認したいのですが」
「なんでしょうか?」瑞穂は突然の質問に動揺することもなく一茂の目を正面から見返した。
「加藤先輩と犯人とを結びつけるものというとやはり遺跡しかないと思いますが。文化財発掘調査を実施する上で通常よく調査員と原因者とで意見がぶつかるのはどの部分でしょうねぇ? 費用ですかそれとも調査期間ですか?」
「どちらともいえないけれど、それって同じことかも知れないわね。時間がかかるってことはお金もかかるって言うことですから」
 瑞穂は子供を諭すような言い方をした。
 柏崎一茂は瑞穂に簡単にあしらわれたような気がして少し癪に障ったが、もともと分かりきった答を確認するためだけの質問だった。今度の事件の中で重要な情報となるであろうその答はおそらくまだ猿橋は掴んでいないだろう。それを知らせずにおくのはどう考えてもフェアじゃないと一茂は思ったのである。

 学図舎と加藤の癒着を見抜いた一茂だったが、その関係による不正入札も加藤の死と直接の関連はないらしい。中津リバーサイドタウンが関与していそうだと疑い始めてからも、死亡現場が市街化調整区域だと言うことを信じきっていた。何より口惜しかったのは発想の転換が若い猿橋刑事によって提示されたことである。このままではどうにも格好がつかない。この辺りで逆転をしたいところだった。

     4
 加藤清志が命を落としたのは発見された場所ではないのかも知れない。猿橋弘毅がそう思い始めたのは、せっかく一茂が調べまわってくれたにも拘らず不正入札を軸に推理を展開していくとどうしても佐波原市の調整区域に入った途端に壁にぶつかってしまうことに気付いたからだという。それは一茂にも否定できないことだった。
 猿橋は見逃していることが何かありはしないか少し前に時間を遡ってみた。そして最も重要な事柄に行き着いた。それは不正入札などの派手な情報の陰に隠され、つい蔑ろにされてしまった被害者の動きについてだった。それは加藤清志が何者かに呼び出されて台風の最中『スナックぷうれ』に足を運んだということである。
 これが事実であるならこれまでの推理はでピントはずれなものだったかもしれない?
 猿橋弘毅の胸に芽生えた二番目の直感だった。
 呼び出されたと云うことは呼んだ方呼ばれた方の双方に共通の用件があったと言うことである。加藤があの市街化調整区域に足を運んだ理由さえ判れば彼を呼び出したのが誰かと言うことも自ずと分るはずだ。猿橋は始めそのように考えていた。しかしいくら頭を絞ってみてもまったく見えてこない。またしても壁に突き当たってしまうのである。次第に猿橋弘毅は加藤清志が市街化調整区域に足を運んだ理由を掴む事で呼び出した人間を洗い出すのは無理だと思い始めた。諦めのような結論だが市街化調整区域に加藤の死と関連するものは何もない。
「認めなければならないことは素直に認めて一からやり直せ」遠藤大吾からいつもそう教えられている猿橋はきっぱりと諦めることにした。

「あのとき俺、口惜しくて、思わず呟いちまったんスよ」
 全員の視線が猿橋弘毅に集中する。
「あ~あ。中津リバーサイドタウンが調整地上にできるんならなってね」
「そして云い終わった途端あることが閃いたんっス。」
「……」次第に興奮していく猿橋の口元に皆が注目する。
「いやあ、自分でも驚いてしまったんスよ。この市街化調整区域は被害者の死とは何の関係もないんだと云うことに気がついたんですから」
「気がついたって云うより、決めたってことだろ」
 一茂がからかったが猿橋は気に留める様子もなく「まあ、そうっスね」と云って笑った。
 若い猿橋にとって総ての関心が自分に向けられた経験など初めてのことだった。だから一茂の合いの手は猿橋の気持ちの昂ぶりを沈めるための格好のタイミングだった。
 遠藤大吾が一茂に目礼して立ち上がった。
「よし、サル。後は俺から説明しよう」
 遠藤大吾に言われて猿橋はしぶしぶ席に戻った。
「私の目から見てもサルが言うように被害者の亡くなった場所がこちら岸だったとすると、推理はスムーズに流れ始めるんですよ。まるで被害者があの調整区域で命を落としたと言う先入観だけが障壁になっていたようにです」
「どういう流れになるのかな?」
「向こう岸の市街化調整区域ですと被害者が足を運ぶ理由がありません。こっち側だと中止にさせられた発掘調査エリアだという確実な関連性があります。つまり被害者はスナック『ぷうれ』で待機しているよう呼び出された。やがて相手が現れ現場へと向かう。現場とはもちろんこの朝川町側です。そこで何があったのかはまだ分かりませんが被害者は命を落とす。死因が溺死に間違いないので現場で川に落ちたか突き落とされるかしたんでしょう」
 遠藤は言葉遣いが乱暴になっていることに気がついて「すみません」と瑞穂を見た。瑞穂は首を横に振って「構いません。続けてください」と気丈な所を見せた。
「そうか、加藤先輩はそこから増水した濁流に流されて対岸へ運ばれたというわけですか」
 一茂が遠藤大吾の意気込みを抑えようと口を挟んだ。
遠藤は頷いて「そしてたまたま土砂と一緒に崩れ落ちていた倒木に引っかかった。そういうことでしょう……」
「でも遠藤さん、それじゃどうして市街化調整区域前の路上に加藤先輩の車が止まっていたんでしょう。あれこそ加藤先輩が調整区域に自分の意志で入ったということの証じゃないでしょうか」
「一茂くん、それは違うな。違うどころか被害者が事件に巻き込まれたと言うことを裏付けるものかもしれない」
 遠藤はきっぱりと言い切ってから「被害者はあそこへは行っていないんですよ」と、笑って付け加えた。
 一茂は始め遠藤が笑ったわけを理解できずに不思議そうな表情を浮かべたが、すぐ気がついて「そういう大前提でしたね」と頭をかいた。

 猿橋が提出した報告書をチェックしたとき、さすがの遠藤もその荒削りで単純な発想に言葉を失ったらしい。しかし破天荒とさえいえる猿橋の推理は読み進むほどに真実味を増して、遠藤も次第に真相はこうだったのではと考え始めるようになったという。
 遠藤大吾はそのことに触れ、あとは猿橋の報告書を要約して要領よく説明していった。それは分りやすく、瑞穂はもとより多摩中部署の二人をもなるほどと頷かせるものだった。
「概ね今朝猿橋が言ったことと重なりますが』
 そう前置きした遠藤による説明の一点目は、『被害者加藤清志の死亡現場が佐波原市の市街化調整区域ではない』という推理の大前提と、そこから考えられる新たな可能性についてだった。
 加藤清志にはあの場所へ行く理由が見当たらない。行く理由がないのだから行ってはいない。したがって加藤清志があの調整区域で土砂崩れに飲み込まれたという結論は間違いである。
「確かにあまりにも短絡的で呆れてしまいます。しかしですね、シンプル・イズ・ベストでしてね。これを受け容れると面白いことが次々と見えてくるようなんですな」
 遠藤は楽しそうに皆の表情を観察していった。三人とも興味津々という表情でで遠藤大吾を見つめていた。
「たとえば市街化調整区域前の路上に被害者の車が置かれてたこと。……通常ですと被害者本人が止めて置いたものと考えられるでしょう。用件が済んだら乗って帰るためにね。しかし大前提のように被害者は来てないんです。……つまり誰かが被害者自身が乗ってきたように見せかけるため、作為的に放置した。そう考えるしかなさそうでしょう」
「ちょっと待ってください。加藤先輩があそこで事故死したと思いこませるために、ということですよね。それもおかしな話ですよ。だって加藤先輩はこの朝川町側で被害にあって川に流された。その遺体が現場に漂着することが予測できるなら、車を置いておく場所も特定できるでしょうけれど」
 一茂が反論した。
「そこなんですよ。私たちが頭を悩ませているのは」
 遠藤大吾は我意を得たりという顔で一茂をまっすぐに見つめた。「それさえ分れば加藤清志さんの死を事故じゃないと言い切れると思うんです。しかも事件に巻き込まれたのはこの朝川町側。それどころか事件発生場所が、さっき我々が車を停めて話をしていた橋の付近。時刻は午後九時から十時。と、ここまで見えてくると考えます」
「どうしてそこまで……」
「もちろん百パーセントは云いませんが、私はかなり確率は高いと踏んでいます。一茂くんが言うように確かに被害者は調整区域に行ってはいない。ならば車が止めてある理由がない。けれど現実に車は止めてあった。一茂くんが疑問に思うとおり、どうやって遺体の発見場所と土砂崩れがあった場所を合致させることができたのか? それさえ分れば……」
 一茂に反論の余地はなかった。
「第三者があの場所に車を運んで置いておいた。確かにそれで事故ではないという可能性が高くなるけれども」 一茂は遠藤と猿橋に向かって敬意を込めた強い同意の視線を送った。
 波なしが途切れ暫く沈黙の時間があった。その重い空気に耐えられなくなったのか瑞穂が立ち上がり「あの、自治会のかたにお願いして食事でも注文してもらいましょうか? そろそろお昼ですし」と、提案した
「そうですね。じゃあ瑞穂さん、何でも構いませんからお願いします。自治会の方々の分も一緒に」
 高槻彰がそういって任せると瑞穂はにこりと微笑んでドアを開けて出て行った。

「いや。それは問題にもならないんじゃないでしょうか?」
 次に言葉を発したのは一茂だった。瑞穂が用件を済ませて会議室に戻ったときだったから十分間ほど無音の時間があったことになる。
「加藤先輩が佐波原市側で命を落としたと思わせることだけが、その第三者が車を放置した目的だった。こう考えたらどうですか?」
 遠藤と猿橋は揃って驚いたように一茂に注目した。一茂のそのひとことが二人が抱えていた消化不良を一気に解消したようだった。
「ああそうか。要するに何処でも良かったということなんだ」猿橋が嬉しそうに手を打つと、遠藤大吾は逆に少し口惜しそうにうなだれて「市街化調整区域なんていう聞きなれない場所の一角で土砂崩れ、死体、放置車という重要な事項が重なった。それがわれわれの中に……」と、声に出して反省した。
「大前提として消してしまったはずの調整区域の幻影が潜在意識から抜けきっていなかったということだろうな。きっと」
 聞き役に回っていた高槻彰が口を挟んだ。
「偉そうに話し始めておきながら、お恥ずかしい話です」
「何を云うんだね。こっちはその可能性さえ考えたことがなかったんだからな。お手柄だよ、猿橋くん」
 若い猿橋弘毅は高槻彰刑事に褒められて思わずほほを染めた。


第七章 舞台の崩落

     1
 会議は瑞穂が手配した昼食が運ばれてきてからは食事を取りながらの報告会のような場になって行き、午後一時を少し回ったころには終了した。
 自治会館の駐車場で瑞穂をひとり帰した高槻と一茂は、猿橋のワンボックスに乗り込んだ。一茂が助手席から最寄の駅で駅で降ろしてほしいと頼むと、猿橋は運転しながら首を横に振って「車はマイカーだし、折角の日曜日なんだから、ひとつドライブと洒落てみましょうよ。行き先は多摩中部署でいいっスね」と決め付けるように言った。
 先ほどまでは加藤瑞穂という民間人を参考意見を聞くために同席させていたので、どうしても要所を押さえたようなフラストレーションのたまる会議になってしまった。遠藤も猿橋もっと話し合いを続けたかったのだろう。
「ありがたいんだが、さっき自治会のほうにああいう罠を仕掛けたんだ。リアクションに備えておかんで良いのかい?」
 後部座席で聞いていた遠藤大吾が「この男、若いくせに結構頑固でしてね。一度言い出したら引かんところがあります。どうかサルの気の済むようにさせてやっちゃもらえませんか」と云って笑った。
 高槻刑事は遠藤の横顔を呆れたように見つめた。
「なあにリアクションがあることは判りきっていますよ。うちの物分りのいい上司辺りからね。上手くやりますよ、ボケたふりでもしてね」
「そいつはいい!」
 高槻はひとつ手を打って笑い声を上げたがすぐに真顔に戻り、「しかしその芝居が通用するかどうか……」とひとり言のように呟いた。
「いや、ショウさん」
助手席から一茂が前に目を向けたまま言った。「リアクションは遠藤さんたちに対してあるでしょう。だけど警察も犯罪と知りながら捜査続行に圧力をかけたなら隠蔽しようと躍起になるでしょうが、そんなこともないでしょうよ。おそらくずっと上のほうから理由も知らせられず圧力がかかったと言うところでしょう。だから自己判断で捜査を続けているからと云って、お咎めがそれほど厳しいものになるとは考えずらいと私は思いますがね」
「それなら良いんだがな」
「向こうは力技を使って佐波原署に圧をかけて加藤氏の死を事故として片付けさせようとした。いや、片付けさせた。それだけに余計な動きをとりづらくなっている筈なんです。我々が勝手に捜査を続けていることにだって、無闇に禁止を云い渡したりしてその反動が強く出たならば決して徳にはならないでしょう。ろくに検討もせず云われるままに圧力をかけ事故扱いで決着させたわけだから、当然引け目もある筈でしょう。現在のところ我々の動きは正式に再調査にでもならない限り、なんの意味もない動きなんですからね」
「そうッス。そういうことッス」
 猿橋が危機感のない軽い言葉で同意した。
「そうかも知れんが、再捜査まで持っていけるならいいができなければ何所かでまた圧力がかかって来るだろうさ。その時は相当きついものになるカも知れんぞ」と、高槻彰が忠告した。
「判っていますよ」
 遠藤はぶっきらぼうな言い方をした。「私達が事故扱いということで決着したこの一件を未だに調べているのは、一茂くんから示された疑問点を完全に無視した我が方の上層部に対する不満なんですよ。ことを丸く収めるだけならあっさりと手を引けばいいだけの話です。でもそれじゃ何の解決にもならないでしょう。一茂くんだってこれまでやってきたことが無駄になるわけだ。だからショウさんが私たちに気を遣って心配してくださるのは嬉しいけれど、やれる所までやってみようぜって発破かけてくれるほうがどれだけいいか。次に捜査にストップがかかるまでには白黒をはっきりつけたいものですよ。事件とか事故だとか云ってる場合じゃないでしょう。事件に決まってるんですよ」
 話をまとめるつもりで猿橋を引き継いだ自分の言葉に思慮に欠けるものがあるのに遠藤は気がつき頭を掻いた。
「……いや、警察官として言ってはならぬことを云ってしまいましたな。聞かなかったことにしてください」
「この車の中では建前など必要ないですよね。ショウさん」
 一茂が序重責から念を押す。
 老刑事は頷いて「勿論だ」と言い切った。

 猿橋弘毅の運転する車は自治会館を出発して町田街道から多摩ニュータウン通りと名付けられた新道に入った。時間にしておよそ三十分が経過していた。
 勾配の急な坂道の先には開通したばかりのトンネルが口を開け、片側二車線の舗装道路を飲み込んでいる。嘗てはこの辺りから多摩市へと抜けるためには丘陵を大きく迂回して小一時間を要し、まるで山間を切るような煩わしさがあった。それが完成したこのトンネルを利用することで、一部八王子市域を跨ぎわずか三十分ほどに短縮されたのである。
「ほら、もう南大沢です。あと二十分もかからんでしょう」
 ハンドルを握る猿橋が得意げな声を出した。
「便利になったもんだな」
 トンネルを抜けた先の景色を目にして一茂が唸った。
「でしょ。これからますます便利になりますよ、橋本界隈も。来月には京王線も開通して橋本まで直通運転になるし」
「直通運転になれば署最寄の多摩センター駅から十五分程度かな? 橋本が賑わえば一杯やるにも都合がいい。おまえいい店探しといてくれよ」
「了解!」
 若い二人の刑事たちはすっかり打ち溶け合い、その頭からすでに事件のことはどこかへ姿を隠してしまっているように見えた。
「ああ、そうだ」ふたりの会話に水を差すように高槻彰が口を挟んだ。「そういえばひとつ聞いておかなければならんことを忘れとった」
「何でしょうか?」猿橋は真顔に戻った。
「猿橋くんが今回の推理を展開するきっかけとなったのは、亡くなった加藤氏があの台風の晩誰かに呼び出されたということだと云ったね」
「そうです」
「それじゃその男が誰かということについては考えてみたのかい?」
「現在のところ憶測でしかないんですが……」
 猿橋は口ごもってルームミラーに映る遠藤大吾に助けを求めるような素振りを見せた。
「云いにくいんですが、隠し立てしても意味がないから申し上げましょう。実は朝川町役場のある男が浮かんでいるんです。しかし確かめたくともこれ以上入り込んで動くこともできないし、もしその男が手を下した事件だとしても動機すらはっきりしなくて」
 遠藤は眉間に皺を寄せた。
「動機については見当がつきますよ」
 ようやく出番が来たかとでもいうように一茂が遠藤大吾の言葉を止め「自治会館で私が瑞穂先輩に質問したこと覚えていませんか?」と、追い討ちをかけた。
 後部座席で遠藤大吾がごくりと喉を鳴らす気配がし、それに運転席の「マジに?」という叫び声が重なりあった。
 窓外に高槻彰と柏崎一茂の職場である多摩中部警察署の建物が迫っていた。

     2
 「なるほど。事件なのか事故なのかはともあれ、原因はショウさんたちが考える通りだろうな」
 書斎のソファーに高槻彰と柏崎一茂を腰かけさせ彼らと向きあって肱掛椅子にゆったりと腰を下ろした水木洋一郎は、二人の報告を聞き終えて大きく頷いて同意して「それにしてもそれほど金がかかるものなのかね? その法を無視してまで調査をうやむやにしようとするほど」と続けた。
「私も学生時代に調査を手伝った経験が幾度かありますがね。掛かるでしょうねぇ。勿論出土する遺跡の内容にもよるでしょうが、あれだけの広さに亘って調査するとなれば人件費だけでも一日当たり三百人から五百人という規模になるでしょうからね。しかも時間がかかる。おそらく五年とか七年という尺度でしょう。その上地権者には買い上げた土地の代金を支払わなくちゃならない。銀行からの融資で対応するんでしょうが、造成した物件に買い手がつくまでは業者には一円も入らないわけですからね。融資を受けた分の金利は調査が長引くほど膨らんでいくでしょうし……」
 一茂はそこまで説明して、テーブルの上で湯気を上げているコーヒーを美味そうに啜った。
「だがな、シゲ」高槻が口を挟んだ。「昇竜だって宅地造成や販売の面では知られた会社だろう。発掘調査が法的に義務付けられていることくらい百も承知のはずじゃないか」
「はい。その通りですよ。真っ当な造成を行うならばですけれどね。発掘にかかった費用だって販売価格に上乗せすれば良いわけですしね」
 一茂は含みのある言い方をした。
「そういうことか……ということはこういう図式も成り立つわけだ。昇竜は最初は遺跡調査も含めて正規の計画を立てていた。しかしそこに何らかの支障が出た。一刻の猶予もなく計画変更しなくちゃならんほどの支障がね。そうは云っても今更中止するわけにもいかんし、ニュータウンの本体工事の部分で手抜きを行うわけにも行かない。自ずと完成形とは無縁の遺跡の発掘調査の部分に目が行く」
「それだ。それですよ、ショウさん」
 一茂は目を輝かせて高槻彰を指差した。
 老刑事は一茂の興奮を戒めるように「まだそこまでしか考えとらんよ。法律で決められとる発掘調査を、如何に緊急事態だとはいってもそうそう簡単に取り止めることもできんだろうが」と云って睨んだ。
 しかし一茂は怯まなかった。高槻彰に対してたちどころに切り返してきたのである。
「何を云ってるんですか。ショウさん。これで遠藤さんやサルに圧力がかかったことが証明されたわけでしょう。佐波原市警察署に国が圧力をかけ、開発に便宜を図ったことの証ですよ」
「なぜそうなる?」
「だってそうでしょう。いくら埋文の調査をカットしようと決めたって、まさか駄々っ子みたいにごねてやめたりはできないでしょう。筋を通すはずですよね。いちばん手っ取り早いのは国からお墨付きをもらうことじゃないでしょうか? 『発掘調査の必要性を認めず』という然るべきポジションからのお墨付きですよ」
「……」
「現に、異例にも文科省関係による確認調査が入ったわけで、あっという間に確認を終え本調査の必要なしと決定させた。つまりこの遺構確認調査は本調査目的のものじゃあなく、昇竜があるルートを仲介して働きかけた依頼に応えたものだったに違いありませんよ」
 一茂は一気にまくし立てた。自分の体の中から炎のような熱気が立ち上ってくるように感じた。
「そうか。お墨付きを国から取って一気に造成を完了させてしまおうとした訳だ。その事を知った加藤が、昇竜に対して何らかの動きをした。真っ当な調査を造成計画に組み入れるよう申し入れるとか、あるいは恐喝するとか。多分そんな所でしょうな……それにしても昇竜に造成をそんなに急がせた理由はいったい何だったんだろうな」
 高槻彰が最後に囁くように云ったその疑問に答えたのは、意外にも水木洋一郎刑事課長だった。
「昇竜が銀行からの融資を受けて事業展開をしているのなら、急がなければならない要因があるのかも知れんよ。恐ろしい噂が聞こえてきている。戯言かもしれないが本当なら日本の景気が一気に冷え込むような……」
「本当ですか。でも不動産売買ですからね。資産価値はあるわけだから法を犯してまで急ぐことも無いように感じるんですがねぇ」
「どうかな」
 水木は渋い顔をして一茂を見た。
 一茂はその視線の強さに自分の迂闊さを知った。水木課長の言葉をにべもなく無視してしまったのである。
 その場の気まずさを取り繕ったのは高槻彰だった。
 高槻老刑事は間を取るようにひとつ咳払いして「まあともかくこの一件が単なる事故ではないのは明瞭でしょう」と、課長の注意を自分に向けさせた。
 水木課長は黙って頷いて高槻の次の発言を待った。しかし高槻の言葉は「材料は結構出揃ってきたと思うんです。これを提出して再捜査させることは……」と、尻すぼみで力のないものだった。
「だめだろうね」
 水木課長は高槻彰が予想したとおりの言葉を返し「そもそも管轄が違う。大きなお世話といわれるのが関の山で、情報は何も聞き出せないでしょう。反感を買うだけです。ショウさんもそう思うでしょう」と、残念そうな顔を見せた。
 高槻と一茂は同時に頷いた。二人とも推理が憶測の上に成り立っていて、その上証拠となるものがまったくないこともよく知っていた。しかしここで引き下がるわけには行かない。
「何とかなりませんか」
「お願いします」
 ふたりはすがりつくような目で刑事課長を見た。
刑事課長は顔をますます曇らせて「あなたたちが心配しているのは向こうの二人のことでしょう?」と、答のわかりきった質問をぶつけてきた。
「確かに向こうのふたりの立場は相当悪いものになるでしょうねえ。その何とか言う河川係長が自発的に口を開いてくれれば良いんだけれど、我々の方から勝手に訪問するわけにもいかんし」と独り言のように云って、考えをまとめようと目をつぶった。
「そうなんです。何を調べようにも堂々と入っていくことができないんですよ。大義名分がなくて」高槻彰は自嘲気味に云った。
「ショウさん、それは端から予測できたことでしょう」
 水木は少し愉快そうに笑った。老獪なはずの高槻彰刑事が珍しく頭を抱えて落ち込む様を見せているからだった。
「面目ない」
 高槻は頭をかいた。
「ところで朝川町河川係長の――ええと田辺明夫といいましたか――その男が加藤を呼び出した人物だと考えたのは何か根拠があってのことなんですか」
「裏が取れているわけではありません。ですが佐波原署の遠藤刑事、猿橋刑事による説明には信憑性があり、納得のいくものだと感じます」
「具体的に説明してください」
 水木刑事課長はすぐ後にある事務机に腕を伸ばし、置いてあったメモ帳を取った。

 その情報は一茂と高槻にしてもほんの二時間ばかり前に遠藤大吾から得たばかりだった。
 昨年あれこれと調べ歩いた末に加藤清志と『スナックぷうれ』にて接触した人物を柏崎一茂は昇竜土地企画建設に関わりある人物と見越していた。しかし遠藤たちが目星をつけたのは業者側ではなく朝川町役場内の人間だった。
 あの台風の中『スナックぷうれ』に加藤を呼び出しそしていずこへか連れ去ったのだからかなり大きな力を持つ人間だろう。
 遠藤と猿橋は町の権力者で土木部長の柳田邦信が『中津リバーサイドタウン』の建設に積極的に協力していることを調べ上げた。柳田邦信の妻がリバーサイドタウンの設計顧問として名を連ねていることも浮かび上がった。
 あれからの数か月のうちに新たに得た情報もあった。
 リバーサイドタウンの建設地域は高槻や一茂も見てきたとおり川沿の畑地が大半を占める。確かに暮の議会で第一種住宅地に変更されているが、昇竜が建設用地として買収の取り纏めを綿貫自治会長に依頼したころは地目も耕地だったはずである。地目変更を見越して大博打に出たとでも言うのか? きっと柳田土木部長による根回しが済んだと見たほうが正解だろう。昇竜はその確認をしてからニュータウンの建設計画を実行に移したに違いない。
 しかしそうはいっても建設にかかる謀議を、町の権力者といわれる柳田邦信が自ら足を運んで行うことも考えられない。おそらくメッセンジャー役の人間が存在するのだろう。
 加藤を『スナックぷうれ』に呼び出しそこから何処へか連れ去った防災用合羽姿の男として、両刑事が疑いの目を向けたのは河川係長の田辺明夫だった。
 ここまで調査して集めた材料から、メッセンジャー候補としてもっとも近い位置にいるのは田辺明夫だろうという結論に達したということだった。入所する前の素行がが偏見を持たせる原因なのかもしれない。制約された中での情報から安易に導き出した結論のようだけれども、かといって否定することもできないだろう。その上中津リバーサイドタウンが川沿地区という河川に沿った場所に建設を計画されていることも、田辺をその男と考える要因のひとつとなった。また男の着用していた防災用の雨合羽が、ぷうれのママの証言を参考に調べてみると朝川町役場土木部の備品に酷似していることから俄然信憑性を増した。
 あとは田辺本人から話を聞きさえすれば……
 しかしそうする名目がないのだった。
 高槻彰は遠藤と猿橋の口惜しそうな顔を思い起こした。

 要所でメモを取りながら老刑事の話しを聞いていた水木刑事課長が何かを思いついたように顔を上げた。
「ひとつやって見ましょうかね」
 水木洋一郎はいたずら小僧のような目をして二人を見つめた。
「え?」
「官民癒着型秘密作戦って言うやつですよ」
 高槻と一茂がきょとんとしているのを見て水木洋一郎は大きな声で笑った。

     3
 デスク上に置かれた電話機がくぐもった着信音を聞かせる。神奈川県佐波原市警察署刑事課長・鹿谷喜一は受話器を取った。
「はい。鹿谷です」
 出勤したばかりでまだペースの出ないうちに外線を回され、鹿谷は不機嫌な声を出した。
 受話器を通して鹿谷の耳に飛び込んできたのは、それとは正反対の歯切れのよい明るい声だった。
「あ、シカヤ課長ですか? 毎朝日報の門倉です」
「なんだ、カドちゃんか。暫くぶりだな」
 鹿谷は警戒を解いた。門倉雅彦は鹿谷が刑事課長に就任したころ、毎朝日報の佐波原支局に勤務する記者で、担当として頻繁に顔を出していた。物怖じしない明るい性格の彼は鹿谷のお気に入りだった。以来ほぼ五年の付き合いになる。それが三月ほど前からぷっつりと姿を見せなくなった。後任として配属された記者に尋ねると、突然本庁担当に変わったというだけで何も判らない。
 そうこうしているうちに時間が流れ年を越してしまったということなのだろう。
「すみません。挨拶もせずに突然消えちまって。近々元どおり担当に復帰します……」
「楽しみに待っているよ。ところで……今日電話をくれたのは?」
 鹿谷の声色が少し緊張する。
「ええ、実は……」
 門倉は思いきりタメをつくり、いい加減鹿谷が苛立ち始めるタイミングを見計らって「課長にお願いがありまして……」と、切り出した。

「ほう。それじゃあカドちゃんが追ってる談合疑惑に、うちの管轄で事故死した男が絡んでるってこと?」
 門倉の持つ受話器から流れ出る鹿谷の声は、隣室でデスク上に置いたスピーカーを通して、周囲を囲んだ四名の男たちにも明瞭に聞こえていああた。
「そう、そういうことなんですよ。でね、エンドウさんにも尋ねてみたんです。そしたらその男、今シカヤ課長も言ったように土砂崩れで死んだって云うじゃないですか」
「ああ、あの台風のときの土砂崩れで死んだ男の事か……」
 鹿谷刑事課長は昔に思いを葉馳せるような言い方をした。
「そうですそうです。加藤清志って名の埋蔵文化財センターに勤務していた男らしいんですがね。そいつが業者からの賄賂を受けとって入札に便宜を図ったりと色んなことをやってくれたらしいんですわ。相手は都内にある大手の測量業者でしてね、談合を取り上げれば二十社に及ぶ大規模な不正入札になる可能性も見えているんですよ……」
そこまで言って門倉は様子を窺うように一度言葉を止め、思わせぶりに声のトーンを下げると「その上談合組織は測量業界ばかりかゼネコンまでも組み入れた大掛かりなものになりそうな気配なんですよ」と続けた。
「そいつは大スクープだな、カドちゃん」
「はい。それでですね、シカヤ課長にお願いって言うのは、その辺りの情報を教えてはもらえないかってことでして……」
「談合疑惑のことなら何も知らんよ。悪いがね」
 鹿谷は逃げを打った。現実問題として不正入札など俎上に上っていない。
「でもエンドウさん云ってましたよ。加藤の死に関して事故死と結論が下されたのがいささか早すぎるんじゃないかって。まるで上のほうから捜査に圧力がかかったようだってね」
「まさか。そんなことあるわけがないよ。ははは、それはないよ、カドちゃん」
 鹿谷は力ない笑い声を聞かせた。
「ですよね。そりゃあそうですよねぇ……」
「そうさ。現に加藤の死に関しては俺だって不審点ありってことで、遠藤くんに捜査続行を命じているくらいなんだ。まあ、今のところ事故死扱いだから情報は流してやってもいいが、その他は本当に何も分からんよ」
 スピーカーから流れ出したここまでのやり取りを聞いて、水木洋一郎、高槻彰、そして柏崎一茂の三人はお互いの顔を見合ってにやりとした。
 もうひとりグレーのパンツに薄茶色のジャケットを着た長身の若者だけが仏頂面で立っている。男は水木刑事課長の一人息子、宏である。程なく通話を終えた門倉がドアを開けて顔を出した。
「水木さん。あんな感じでよろしかったですか?」
 門倉は心配そうに水木刑事課長を見た。
「ああ。なかなかの名演技でしたよ、門倉さん。ありがとう。朝早くからすまなかったね」
「門倉さん、本当にすみませんでした」
 水木刑事課長が頭を下げるのを見て宏も父親に習った。
「とんでもない。談合疑惑なんていうスクープまでいただいた。気にするなよ、宏」
 門倉は毎朝日報の後輩記者である宏の肩を叩いてから刑事課長に視線を向けて「しかし課長さんも思い切った手を打つんですね」と笑った。
「本当だよ。違法じゃないのかい、こんな捜査の仕方は。親父の不始末で門倉先輩に迷惑がかかるなんてことになったら嫌だからな」
 宏が父親に向かって強く云った。
「心配するな。違法捜査なんかじゃない。第一、事件じゃないんだから、この件は……」
「何も心配なんかしていませんよ、課長さん。それでは私たちも仕事がありますのでこれで失礼します。情報いろいろありがとうございました。行こうか、宏」
 門倉は宏を従えて多摩中部警察署の取調室から出て行った。

 毎朝日報の門倉との会話を終え受話器を置いた鹿谷刑事課長は、忌々しそうに舌打ちしてデスクで打ち合わせ中の遠藤大吾と猿橋弘毅を呼んだ。
「ミーティングルームに」
 鹿谷は二人が課長席に向かおうとするのを制して課の一隅にあるドアを指差した。二人はお互いの目を見て頷き合うと、云われるとおりミーティングルームのドアを開け部屋に入った。鹿谷課長の口調から推測すれば虫の居所は相当良くないと見える。遠藤も猿橋も事故扱いになっている案件の無断捜査についてかなり強く注意されるだろうと覚悟を決めた。やはり自治会で仕掛けたトラップの効果はあったということだ。自治会が然るべき人間に遠藤たちの動きを密告して、そこから鹿谷刑事課長に圧力をかけているのだろう。さて鹿谷が自分たちにどのようなどんな指示をするのか、あるいは処分を申し渡すつもりなのか興味のあるところだった。
 部屋の中央に置かれた会議用の長机の一辺に並んでパイプ椅子に腰掛けた両刑事は神妙な面持ちで上からの沙汰を待っていた。興味があるのはその通りだが、ここに至ってはもうどうあがいても始まらないのである。
 さほど待たせもせずドアがノックされ鹿谷刑事課長がドアを開けた。刑事課長は遠藤大吾の正面にパイプ椅子を運び腰かけると、フウとひとつ息を吐いた。
「一体全体どうなってるんだ? それほどまでにあの出来事に不審点があるというのか?」
 鹿谷は少し興奮して云った.事故扱いにしてから積極的には何の行動もしていなければ報告も聞いてはいないので、顛末がまったく分からない。そこに持ってきて今朝のあの電話である。その上、出掛けにもうひとつ自宅に電話が入っていたのだった。
「何かありましたか?」
 遠藤はとぼけて言った。
「今朝早く、署長から自宅に電話が入った。用件は、事件性なしと決定した件を刑事課の人間が未だに嗅ぎまわっているらしいが即刻中止させろ、ということだった」
「理由を聞いてみたんっすか?」
 猿橋が口を出す。
「署長直々の命令だ。その必要はない」
「だから課長はだめなんっすよ」
 猿橋がなおも口を尖らせるのを見て遠藤が「黙っていろ」と一喝した。
「署長からそういわれた矢先、今度は門倉からの電話だ」
「門倉? ああ毎朝の」
「ああ。その門倉が言うには、あの事故死した加藤という男が不正入札に関わっていたというんだが、それについておまえたち何か掴んでいるか?」
遠藤と猿橋は同時に頷いた。
「それどころじゃないかも知れない……」
 猿橋がさく呟いた。
 この呟きに対する鹿谷の言葉にふたりの刑事たちは耳を疑った。
「そうか。ならば話は別だな。我々の職務を考えれば如何に署長の声とは言え調べを中断することもできまい。これまでおまえたちが調べたこと総てを報告書にまとめて提出してくれ。今日中にな」
 鹿谷刑事課長はきっぱりと言い切ったのである。
 遠藤も猿橋もその顔から喜びを隠すことができなかった。高槻刑事たちふたりが、鹿谷の口からこの言葉しか出ようのない何らかの根回しをしてくれたのだろう。それを確信したふたりの胸は感謝の念でいっぱいになった。

     4
 鹿谷刑事課長に命じられたとおり、遠藤大吾と猿橋弘毅のふたりはその日の内に報告書をまとめた。報告書と云っても調査の結果判明した事項は少なく、多摩中部署のふたりと話し合って出した推理の過程でしかないような、なんとも頼りないものだった。提出すると刑事課長はさすがに渋い顔をして「これじゃまるでおまえたちの想像話じゃないか」と不満を口にした。
「事件じゃないことになってるから調べてみたくとも令状も取れない。いったいどうしてなんでしょうね」と猿橋が嫌味たっぷりな言葉を返した。
 刑事課長は笑って報告書の確認欄に印を押した。

 書類を出し終えた二人は午後七時に署を退出し、どちらから誘うともなく行きつけの居酒屋に足を運んだ。
 さすがに署からは電話しづらいので、遠藤は居酒屋の公衆電話から多摩署に伝話を入れた。珍しく高槻彰が内勤していて電話口に出た。
 遠藤は朝からの顛末をかいつまんで伝え、それを聞いてほっとした高槻彰が口を開くより先に「ショウさん、いろいろと根回しをありがとうございました。明日早速サルと河川係長に当たってみるつもりです」と感謝の気持ちを伝えた。
「ああそうですか。後で様子だけ教えてください」
 高槻彰はそれだけしか云わなかったが遠藤はその中に「十分に注意してください。何分にも事件と決まったわけじゃないんですから」という忠告が込められているのを感じ取っていた。
 話を終えて店内を見渡すと先に入った猿橋が一番奥の席から手招きしている。遠藤は
親指と人差し指で丸を作ってみせた。
 猿橋は顔を突き合わせる形で腰を下ろした遠藤が出されたお絞りで顔を拭う様子を見て、愉快そうに笑った。
「ばかやろう。おまえだってすぐにこうなるんだよ」
 猿橋の笑いの意味に気付いた遠藤が口を尖らせた。
「ならないっス。絶対に……。百年たっても……」
 猿橋は減らず口を叩いてまた大きな笑い声を上げた。そしてその笑いはいつの間にか遠藤をも包み込んでいった。
 今までの苛立った気持ちを笑い話に変えてビール二本と二合徳利一本が空いたころ、思いがけないことが起こった。引戸が開いて一組の男たちが入ってきた。店員が三名の男たちを遠藤と猿橋の隣のテーブルに案内した。
 遠藤大吾が何気なくその客たちのほうに目を向けたとき、三名の内で最も年長に見える男と目が合った。
「あっ、ご苦労様です」
「その節はどうも」
 遠藤大吾とその男はお互いに驚いてしどろもどろに挨拶を交わした。
「刑事さんもこんな店で飲まれるんですね」
 始めにそう切り出したのは川沿地区自治会長の綿貫信一郎だった。そしてあとのふたりも遠藤大吾は面識があった。ひとりはやはり自治会の杉崎健二で、この男のことは猿橋も顔を覚えている。もうひとりも何処かで一度顔を見た記憶はあった。記憶を手繰り寄せるように視線を宙に漂わす。やがて遠藤の頭の中で男の顔と名前とが重なった。驚いたことにその男こそ明日話を聞くために訪問しようとしていた朝川町の河川係長・田辺明夫であった。
「我々もまあ言うならば普通の公務員ですからね」
 遠藤は小さく笑って相手の出方を伺った。
「ああそれじゃ遠藤さん、どうでしょう私たちも今晩は完全なプライベトなんですよ。如何ですか、もしよろしければご一緒に?」
 綿貫は思いついたように云って遠藤を見つめた。
 慌てた猿橋が「いや、私たちはもうそろそろ……」と口に出そうとするのを遠藤は制した。
「そうですな我々も暇だし,それも楽しいかも知れませんな」
 遠藤か綿貫の申し出に応じるとすぐ傍にいた店員に声をかけ、テーブルを寄せてひとつにさせた。
 五名それぞれにジョッキが回わされ、綿貫の発声で宴が始まった。それは追うものと追われる者、或いは勘違いしている者とされている者による盛り上がることのない不思議な宴席になりかけた。共通項はといえば事故か事件かで頭を悩ませているあの1件しかないのだ。必然的に話題はその方向に向けられることになる。
 半ば強引に話をそこに持って行ったのは川沿地区自治会長の綿貫信一郎だった。
「ところで遠藤さん。調べになられていたことはもう解決されたのですか?」
「あれは本来の仕事とは違いますからね」遠藤ははき捨てるように云った。
「どういうことです? 昨日はあんなに真剣に話し合っていらしたのに……」
 遠藤の答がよほど意外に感じたのだろう、綿貫は言葉を変えた。
「確かに昨日申し上げたようにあの件に我々は今もまだ疑問を持っています。しかし公的には事故として解決済みになっているんですから急いで蒸し返す必要もありません。あとは手の空いたときに個人的に調べを続けながら、少しでも納得がいく結末が見えたならそれで良しとしよう……そう考えておるんですよ」
「そういうことなんですか」
 自治会長は拍子抜けしたような声を出した。
「なんだか残念そうですね。何かご存知のことでもあるのでしたらお聞かせください。まあ仮に再捜査となったにせよ物証も何もないわけだから、今更ってとこなんですがね」
「いえいえ、決してそういうつもりで尋ねたのではありません。功を奏さないことを承知の上で調べを続けておられるとは大変なお仕事だと思いましてね」綿貫は遠藤のグラスに熱燗を注ぎながら返事をし、ふと興味が湧いたように「この一件のいったいどんなところが遠藤さんの不信の原因になったのですか?」と聞き足した。杉崎健二と田辺明夫も聞き耳を立てている様子だった。
 遠藤大吾は少し思案するような表情を浮かべ、ひと呼吸おいてから頷いた。
「操作の内容に関することだから本来機密事項なんだろうが……まあいいか。正式な捜査じゃないしな」
 グラスの酒で唇を湿らせて、遠藤は射竦めるめるような視線を三名に向けた。
 猿橋が面白そうにニヤニヤしている。
「実はですよ……亡くなった加藤さんはあの台風の最中誰かにスナックに呼び出され、さらにそこから何処かへ連れ去られているんです。つまり我々はその男が何か知っているはずだと……」
 遠藤の話を聞いていた田辺明夫が突然「ええっ」と大声で叫んで、激しくむせ返った。
 朝川町河川係長・田辺明夫は突然驚いて目を丸くしている刑事たちに追い討ちをかけた。
「それ、俺です。加藤いう人を『ぷうれ』から連れて出たのは俺ですよ。でもそれがなぜ」
 田辺の発言に遠藤と猿橋の動きが止まった。遠藤のほうから問うたとしても知らぬ存ぜぬを決め込むだろうから、話の何処かに綻びを見つけてそこから崩していけば……。そう考えていたのである。『致命的間違い』という言葉が遠藤の脳裏を掠めた。

第八章 まほらの轍

    1
 年が明けて早くもひと月が過ぎようとしていた。
一月最後の月曜日。世田谷区、甲州街道沿いの昇竜土地企画建設の七階に設けられた特別会議室には、課長職以上の管理職およそ二十五人、及び代表取締役社長の黒沼久そして五名の役員たちがみな沈痛な面持ちで集まっていた。部屋は会議室というよりむしろ小講堂というほうが的を射た造りで、ステージと聴講席という形になっている。ステージ上には長机が並べられ、黒沼社長と緊張気味の上川裕樹そして広瀬専務及びその他の役員たちが聴講席を見下ろす形で席に着いている。
 聴講席に並んだ管理職たちは中津リバーサイドタウンに何かトラブルが生じたことを感じた。
 昨年秋に説明会を大盛会の裡に終了させた『新構想によるニュータウン・中津リバーサイドタウン』は、その後順調に計画を進行させていた。上川裕樹が部長職待遇でリーダーを勤めるプロジェクトチーム『チーム・中津』が組織され、ニュータウンの建設から分譲までを任された。総勢二十名の精鋭たちからなるチームで、広瀬専務が担当役員として統括する形である。耕地から住宅地への地目変更なども問題なく承認され,新型都市はチームの指揮の下に宅地化のための基礎工事を開始していた。上流方に高層住宅地区、下流方に戸建地区そしてその中間に大規模ショッピングモールを配置した新都市は、まず始めに戸建地区を来年四月、高層住宅地区についても一年と空けずに商品化する計画になっている。
 総てが順調に流れていたニュータウンなのだ。会社が進めている大型プロジェクトもほかにはこれと云って見当たらない。だから会議に急遽呼び出され列席している管理職たちが軌道に乗ったはずのプロジェクトに何らかのトラブルが発生したことを直感的に悟ったとしても何の不思議もない。だがそのトラブルは単に中津リバーサイドタウンという企画開発事業だけではなく、社会総てを巻き込んだ経済障害となっていくことになるのである。
「本日は急遽参集頂き申し訳ありません」
 出席者が出揃ったのを見計らって会議室が施錠され、広瀬専務が役員を代表してステージ中央に置いた演壇へと進んだ。マイクロフォンの前に立った広瀬は聴講席を見渡し、もっともらしくひとつ咳払いをしてから話し始めた。
「ご参集いただいたのはかねてより着手しております中津リバーサイドタウンの造成分譲計画に関しまして、世相の動向からその計画の一部を変更しなければならない状況になることが懸念され、会社は速やかにこれに対処するため先週『チーム・中津』の諸君と緊急会議を数回開催しました。会議の結果これから配布します資料に明示した諸点につき見直し変更とすることを決定しました。変更の具体的内容は資料に纏めてありますので、各自目を通していただきたいと思います」
 演壇上のマイクロフォンを通してスピーカーから歯切れはよいが有無を言わせぬ広瀬の言葉が流れ出す。その横暴とも思える口調に出席者たちから不満の声が沸いた。
 広瀬は構わず「資料を」と短く命じた。ステージ横についた控え室のドアが開き若い二名の女性職員がコピー製本した資料を持って現れた。全員に資料を手際よく配布し終え、彼女たちは控え室に戻っていった。
「配布した資料は変更する各点を簡略にまとめたものなので、チーム以外の管理職の皆さんも以前のパンフレットの内容と比較し熟知の上、お客様の対応に齟齬のないように注意してください」
 広瀬専務は一度言葉を区切ると着席している黒沼社長に目を向けた。
 黒沼久は真顔で頷き椅子から腰を上げた。
「それでは今回の変更に至った経緯を社長のほうからご説明がありますのでお聞き願います」
 広瀬はそういって演壇を黒沼社長に譲った。
 代表取締役社長黒沼久は、事のあらましを要約して説明した。それは高騰を続け巨万の利益をこの業界にもたらしたいわゆるバブル経済に崩壊の兆候が見られ、今となってはもう避けようがないというものだった。
 土地は持っていれば必ず値が上る。時期を見計らって売却し、その金で再び土地を買う。これを繰り返すことで業界は力をつけた。銀行もそこに目をつけ、不動産取得のためならば融資は惜しまない方針を採った。いわゆる土地神話である。だが地価の高騰は毎日を普通に暮らす一般人たちから、マイホーム取得の夢を奪い去ってしまったのである。
 ほんの些細な気の緩みがたちどころに負け組みへの転落を招くこの業界にあって、いささか強引とも思われる方法で業績を伸ばしてきた昇竜だった。国がいかなる対策を講じる腹なのかということくらいは、当然情報として掴んでいた。だからその対策が講じられる前に、表向きは利益の還元という触れ込みで格安ニュータウンの造成販売計画を実行に移したのである。もともと少し難点のある土地を安く買占めて造成する計画である。完成した商品は地価の低い分買い得感がある価格設定することが可能だろう。買い手は上昇する一方の土地価格に麻痺しているから、それは格安なものとして受け入れられる筈である。
そしてほんの二週間ばかり前まで、計画は順調に進んでいた。
「誤算だったのは国の動きがこれほど早いとは考えなかったことでした」
 黒沼社長は唇をかむような言い方をして列席している管理職たちを見渡した。
「不景気が長く続くことになるかもしれません。急務となるのは如何に会社の背負うものを軽くするかということです。幸いにも現在当社では融資等による負債額はそれほど多くはありません。しかし仮に総量規制と公定歩合の見直しとが同時に実行されたりすれば、融資残高に対する金利も馬鹿にならん額になります。とにかく急を要するのです。どの業者も慌てて売りの方向に突き進むでしょう。値崩れも起こる。銀行からの融資に規制がかかるから分譲も簡単にはいかない。当社は今後見通しが立つまで、売り優先の方針を採ることにします。『チーム・中津』の諸君は最も大変かも知れない。当初の計画では一年をかけて造成完了後に販売開始の予定でいた訳ですからね。しかし一年間も悠長に待っていることはできません。分譲区画を鳥瞰図か何かで表現して予約販売を開始してください。今までのような新物件の取得を主とする方針は時期が来るまで見合わせます」
 黒沼社長は静かに話をまとめ、淋しそうに退席して行った。

 確かに売出しを一年早め今年四月より開始させるならば、積算した分譲価格を多少下回って販売したとしても完売すればそれなりの利益を見込むことさえできる。
 一時間後、多摩支店へ戻るために乗車した相模原線のシートに腰かけて、上川裕樹はそんなことを考えていた。それは上川裕樹にとって苦心して立案し計画し設計した夢のニュータウンとはまったく異なるものになる。しかし、不思議なことに怒りはまったくなかった。如何に理想を掲げようと、国という得体の知れない力の前には抗う術もなく方向を変えられてしまうのだ。ならば造って、売って、利益を出す。それだけを考えてさえ居れば良いではないか。連日の会議で疲労した裕樹の頭には、そんな醒めた考えしか浮かんではこなかった。
 ふと目を上げると『相模原線調布ー橋本・三月二十九日全線開通予定』と記された中吊りがゆらゆらと揺れていた。

    2
 多摩中部署の高槻彰刑事と柏崎一茂刑事が、田辺明夫についての情報を佐波原署の刑事たちから知らされたのは、門倉記者による根回しをしたときから数えると二週間ばかりの日が過ぎた頃だった。
 高槻たちがした工作の甲斐あって佐波原署でも案件に継続捜査の許可が出たというこ とである。ならば調べは向こうの二人に任せるのが筋というものだろう。多摩中部署から見ればはあくまでも管轄外の出来事なのだ。高槻も一茂も自分自身にそう言い聞かせて、逸る気持ちを抑えたのだった。
 そんな折、放火によると思われる火災がわずか五日間に三件も発生し、新築家屋ばかりが全焼した。手口が似ていることと、三軒目の火災の後で署に犯行声明が届けられたことから今後ますますエスカレートすることも案じられた。署では非常警戒体勢を布いて犯人検挙に力を入れた。
 張り込みを続けて十日目の深夜、四件目の火災が起きた。火元はまったく人影のないごみ集積所で明らかに不審火であった。しかし多摩中部署の対応はこれまでとは異なっていた。近辺のガソリンスタンドからの聞きこみ情報で容疑者を特定し、監視を行っていたのである。現行犯だった。犯人は呆気なく逮捕され、残務を終了させて捜査本部も解散した。
 気が付くと一月も終ろうとしている。
 久しぶりに署内でのんびりしたひと時を持った高槻と一茂の話題は当然のことのように加藤清志の一件になっていく。それは抽斗の中にしまいこんで忘れていた古い写真でも見つけたときのように、二人の心を一気に数週間前へと引き戻した。
 防災用雨合羽を着用して加藤清志をどこかへ連れ出した男は、きっと朝川町役場の田辺明夫という河川係長に違いない。電話で遠藤大吾は翌日早速当たってみると云っていた。結果はすぐ連絡すると遠藤は張り切っていたから高槻彰も内心楽しみにしていたのだが、結局連絡はなかった。約束を違えるような男ではなかったので気にはなっていたのだが、そのうちこっちの仕事に忙殺され、こちらから確認することもなく日が流れてしまったのである。
「明日にでも立ち寄ってみようか」
 高槻彰が口を開いた。
 柏崎一茂は大きく一度頷き「都合と落ち合う場所聞いときます」と云ってデスク上に置いたプッシュホンの受話器をとった。

 楽しみにしていたほぼ二十日ぶりの再会だったが、花富士の小座敷に入ってきた遠藤と猿橋の表情は冴えなかった。夫々握手を交わして席に付いた。しかし遠藤と猿橋の挨拶は顔つきが示すとおり歯切れのよいものとはいえなかった。
 もともとあの台風の最中、何があったにせよ、物証となるべきものは何一つ残されてはいない。しかも一度は事故ということで結着した出来事である。いかに名推理をして見せたところで覆すのは容易ではないことくらい彼らも理解してはいただろう。多分自分たちの意気込みと比べて返ってきた答えがあまりにも意外なものだったということなのだろう。
 田辺係長にあたりさえすれば一気に真相解明まで持っていける。その目論見が外れたということだ。向こうの出方によってなおさら謎を多くしたというのならふたりの落胆は大きいに違いない。柏崎一茂はそう直感し、ふたりの口が開くのを待った。

「とんだ失敗をやらかしてしまいました」
 遠藤大吾が重い口を開いた。今にも消え入りそうな声だった。
「先日話しましたように、朝川町側での事件と見れば次々と辻褄が合ってくるものですから、自分たちの推理に酔って舞い上がっていたようです。田辺さえ落とせば一気に追い込めると……甘く考えていました」
「どういう話だったんです。いったい」
「サルと打ち合わせを兼ねて一杯やっていた所たまたま入ってきたのが自治会長の綿貫信一郎、杉崎健太の弟の健二、そして田辺明夫河川係長。この三人だったんです。今のところ別に事件ではないのですから彼らは容疑者というわけではありません。そこで同じテーブルについてざっくばらんに話をして情報を得ようと考えたんです」
「なるほど。ここは千載一遇の好機だというわけだ」
 高槻彰が大きく頷いた。
「そこであの晩加藤の自宅に電話を入れて『スナックぷうれ』まで呼び出し、そしてその『ぷうれ』から連れ出した男が居ることを明かしたんです。警察では加藤の死を不審死として見直していて、その男を重要参考人として探していると匂わせたんです。田辺を怪しんでいる気配を見せながら……。当然真っ向から否定してくると思っていました」
「じわじわとプレッシャーをかけようというわけだ。相手を焦らせてボロを出させようという作戦だな」
「そのとおりです」
 遠藤は首を縦に振って「すると田代が突然話し出したんです。こちらが何も仕掛ける前にですよ」と本題に入った。

 遠藤大吾の語る田辺明夫の話は驚愕すべきものに違いなかった。田辺が云うには、加藤清志を『ぷうれ』から連れ出したのは自分に間違いない。しかし田辺が『ぷうれ』に呼び出したと言うのは誤りで、むしろ加藤から『ぷうれ』に迎えに来いと命令されたようなものだ。ましてやこのことで疑いをかけられるなど心外だと、怒りを露にしたという。
 その後、田辺の発言を皮切りに三人夫々が知っていることを話した。それらを取りまとめてみると次のようなストーリーが組み立てられた。それが遠藤と猿橋を自己陶酔の世界から屈辱の領域に突き落としたのである。

 遠藤大吾と猿橋弘毅が綿貫信一郎から聞きだした、彼と加藤清志との繋がりを纏めると次のようなものになる。
 綿貫信一郎が昇竜土地企画建設から所有する土地を買収したいと相談されたのは丁度一年前、昨年の一月のことだった。計画しているニュータウン建設のため、まとまった土地を確保しなければならないので地区の地権者の取り纏めに協力してほしいというのである。
 そのころ綿貫は難病を患った父親の入院治療にあてるためのまとまった金が必要になっていたので、昇竜に持ちかけられたその話に心を動かされた。水害にも幾度も見舞われたほどの、暴れ川に沿った痩せ地である。復旧保障も微々たるものしか出ないし、痛い目に遭うことも多い。代々の所有地という考えに固執することもなかろうと手放すことを考え始めた矢先だった。生まれ育った土地であるし愛着があるのも事実だったが昇竜が提示するもの条件は驚くほどの好条件だった。新システムのニュータウン構想にも惹かれるものがあり、好機到来とばかりに綿貫は用地買収の取り纏めを引き受けたのだった。
 それから二ヶ月間程、昇竜土地企画建設から何の連絡もない日々が続いた。用地取得に関する行為も会社から指示があるまで何も行動を起こさないでくれという約束を守って苛立っていた綿貫にその男から始めて電話連絡が入ったのは梅の花が綻ぶころだった。
「考古学者の加藤です」
 男は名乗り、「所有地の売却をお考えのようだがお止しなさい。あの会社はわが国有数の遺跡を破壊しようと企んでいる」などと意味不明のことを言って電話を切ったという。
 その後、梅雨明けのころに男は一度だけ連絡をしてきたが、このときも土地を売るのは止せと同じことを威圧的に繰り返しただけだった。
 それから間もなくして加藤はあの台風による土砂崩れに巻き込まれることになる。
 台風の後すぐに昇竜から用地取得を開始してほしいとゴーサインが出ているので、きな臭い気がしないこともない。しかし綿貫と加藤の間には大きな利害関係があるとは考えられず、ここまでの自治会長の話は疑うこともあるまいと思われた。

 それでは河川係長の田辺明夫と加藤清志との繋がりはどうか?
 これも希薄といえば希薄なのだった。田辺が加藤をスナック『ぷうれ』から連れ出したことは本人の証言もあり間違いないであろうが、彼を信じるなら加藤とはこのときが初対面だったという。ならばあの台風の夜にぷうれにその初対面の男を呼び出し、そして連れ出したのは何の目的だったのだろうか。この疑問に対する田辺の答えこそ遠藤たちが最も関心を持つものだった。だが田辺明夫の言葉は「自治会館まで加藤を案内すること」であった。
 田辺は加藤が自治会館に行こうとする理由については何も知らなかった。ただ柳田土木部長に加藤を会館まで連れてくるよう命じられて、どこに迎えに行けばよいかを確認しようと加藤の自宅に電話を入れたというのである。雨合羽を着て『ぷうれ』に顔を出したのは加藤から指定されたのが『ぷうれ』だったというだけの理由であった。
 それでは柳田邦信土木部長と埋蔵文化財センター調査課長だった加藤清志との間にはどのような関係があったのだろうか。田辺が云うには、加藤は度々電話で柳田に連絡を入れて、面会を申し込んでいたということだった。しかし加藤が柳田と会って何を話そうとしていたのかは田辺明夫が知る限りでは、川沿地区の文化財確認のための調査が国の手によってあまりにも簡略な方法で行われ、本調査の必要なしと決定されたことに対する不満だろうということだった。このことは後日柳田土木部長に会って質問したがまさしくその通りだと本人も認めるところだった。
 あの日の夕方、電話で土木部長から「加藤が会いたい、話がある、としつこい。これから自治会館に入るので夜十時頃に来られるなら会ってもよいと伝えてくれ。それでもし来るというなら、悪いが男がいう待ち合わせ場所まで迎えに言って、自治会館まで運んでくれ」と指示されたということだった。
 柳田から命じられては断ることができない田辺はタクシーに乗ってぷうれまで行って店の前で待たせ、連れ出した加藤に柳田の待つ場所まで送るからと乗車を促した。しかし加藤は車で来ているので自分の車で向かうと云ってタクシーはそこでキャンセルしている。この顛末もタクシー会社に問い合わせ、事実確認を済ませている。
 田辺は加藤の大きなランクルの助手席に乗り込み、道案内しながら加藤の運転する車で川沿地区自治会館へと向かった。しかしその晩加藤は自治会館に到着することはなかったのである。
『とまり木夢灯り猿橋が直感した通りになりそうに思われた。
 だが自治会館へとハンドルを操る加藤が結局柳田邦信と面談することなく終わったと証言したのは田辺明夫自身だった。

 中津川北側の橋を朝川町に向かって渡り始めた二人は、激しく雨がフロントガラスを叩くく中を注意意深く近付くと若者が大きな懐中電灯を振って停車の指示をしていた。
 加藤は路側帯に寄せて車を止めた。
 車を停車させた男がゆっくりと歩いてきて運転席側に回りかとうのすぐよこの窓をコツコツ叩いた。加藤は不審な目をして窓を細く開いた。雨の飛沫がランクルを打つ音と、
川の流れが発する轟音が胃の腑を持ち上げるように響いた。
 車を止めた若者は、自治会の杉崎健二と名乗り「加藤先生ですね」と確認した上で用件を切り出した。
「この天候ですので今晩の約束はキャンセルにしようと柳田先生から連絡がありました。本日は柳田はこちらへは参りません。」
健二の言葉に加藤は激怒して大きな声を出した。わざわざ台風の中を呼び出しておいて、今更中止とは何様のつもりなのか、ということだ。加藤の怒りには頷けるものがあった。
「勝手を云って申し訳ないと柳田も申しておりました。ただ柳田といたしましても国の手によりまして真っ当な遺構確認を実施して出させた結論です。あくまでも横車を押されるつもりな埋文センター理事長に苦情申し立ての筋道を通させていただくと申しておりますのでご承知置きください」
 健二は柳田から電話で指示されたとおりの台詞を加藤清志にぶつけた。
 加藤は唇を?んで一瞬口惜しそうな顔をして見せ、それじゃこの男は君のほうで送っていってくれ。俺はこれから寄る所がある」
『了解しました。田辺さん。それでは私の車に移動してください」
健二はそういって田辺を乗り換えさえてから加藤に「ところでこんな遅くにどちらへ」と聞いてみた。
 加藤は不機嫌な声で「佐波原の調整区域にちょっと気になることがあってな。……まあ、こっちのことだが」と言い捨ててランクルをユーターンさせた。

     3
 高槻彰のグラスに鮭を注いでいた柏崎一茂の手が止まった。
「そんな馬鹿な話があるもんですか。誰かが嘘をついているに決まっていますよ」
 一茂は叫んだ。重要参考人と云ってよいほどのランク付けをしていた人物からの情報がその人物のみならず事件そのものをも否定しようとしているのである。
「猿橋くんの推理に基づいて、加藤は佐波原の市街化調整区域には立ち入っていないという大前提で再捜査に臨んだわけだね」
「はい。それを自分に言い聞かせながら進めていたのですがね」
「結局最後には調整地に戻ってしまった。まるでメビウスの環だね、こいつは」
「そのとおりです、まったく」
 苦虫を噛み潰したような顔で頷く遠藤大吾大吾だったがその瞳には明るい色が宿っている。
 高槻彰はそれを見て安心したように「まあ飲みなさいや」と銚子の酒を勧めた。
「それにしても遠藤くんの所の鹿谷喜一という課長もなかなかのものだ……」
 半ば独り言のように呟いた高槻に一茂と猿橋は訝しげな目を向けたが、遠藤大吾だけはその言わんとすることを理解していた。
「そのとおりなんです。馬鹿みたいですよ、簡単に捜査続行の許可など出せるはずがないんです」
 遠藤大吾は捜査続行を許可したときの鹿谷刑事課長の頼もしい顔を思い出した。あの力強さは部下たちが真相に近づいていることを知った誇らしげな気持ちから生じていたのではなく、逆に何も掴んではいないことを確信した安心感の表れに違いない。気が済むまで調べさせてある所でぷっつりと打ち切ってしまえばよいではないか。門倉記者が言っていた贈収賄疑惑だって何処にでもある話だし、今更騒ぎ立てることもない。
 きっと鹿谷刑事課長の頭の中を覗けばそんな絵が見られるのではないだろうか。遠藤大吾はそう思った。
「そうだな。確かに馬鹿みたいだ。俺たちが仕掛けた芝居も同じだよ。……だがおかげで相当なことが判ったんじゃないのかな」
 高槻彰は遠藤と猿橋を交互に見た。猿橋は意味がわからずぽかんとしていたが遠藤大吾は楽しそうな笑い声を出した。
「何が判ったと?」
 一茂が口を尖らせた。
「判ったよ。いろいろとね」
一茂の質問を遠藤が受けた。
「まずこの出来事のベースになっているものだよ。それは思ったより巨大なものかもしれない」
「どういうことです?」
「例えば建設業界と国の癒着構造のような、いやもしかしたらもっと大きなものかもしれない。今回の件で一茂くんは埋文センターと学図舎との癒着関係を突き止めた。その構造を国のレベルにまで巨大化したものと私は考えているんです」
「何でそんなことが?」
「力関係といった所かな。いくら田舎警察とは言え市町村の横車くらいでは佐波原署はぼきひおやあさいじゃい動かないからね。もっと上のほうからの得体の知れない力が働いているのだろう」
「遠藤さんの頭のなかにあることを具体的にそのまま話していただけませんか」
 一茂がじれったそうに詰め寄った。
 遠藤大吾は少し困ったような渋い顔を見せたが、高槻が笑って頷居ていることに気がついて腹を決めた。
「私はこう考えているんですよ。佐波原市埋蔵文化財センター調査課長加藤清志の死は第三者により故意にもたらされたもの、もしくはそれに極めて近い状況で発生したものだと。平たく云えば殺人って事ですよ」
 はっきりそう言い切ってから遠藤大吾は少し口調を弱めて「いや少し語弊があるかも知れん。過失致死の意味合いも残して起きましょうか」と、付け加えた。
「遠藤さんがそう結論する根拠は何なんですか?」
 一茂が子供のように先を急かす様子を見て遠藤は笑った。
「それはやはり柳田邦信との面談をすっぽかされた加藤が、市街化調整区域に調べたいことがあると捨て台詞を残して現場へ向かったと言う田辺明夫の証言です。どう考えてもあの台風の中で現場確認など不自然極まりないでしょう」
「私もそう思います。ならば遠藤さんは……」
 一茂は大きく頷いて遠藤大吾に鋭い視線を向けた。
 遠藤はグラスを干すと一茂を見つめてニヤリと笑った。
「十中八九、田辺明夫と杉崎健二の手によるものと見て構わんでしょう」
「でも、彼らにどのような動機があると……?J
「動機? ありはしませんよ、そんなものは。ただ道具として使われただけでしょうからね」
「なるほどね。つまりこういうことですか。昇竜が町の土木部と結びついていて、ニュータウンの建設を早めるために足かせになりそうな発掘調査を無視しようとした。それに気がついた加藤先輩が脅迫まがいの動きをしたことで……」
一茂が遠藤大吾の同意をも求めるように謂うと遠藤は少し言葉を捜すように首を傾げた。
「なにかちがうんですか?」一茂は遠藤を見つめた。
「いや、その通りだろうがね……。私はね、話はそこで止まらんように思うんだよ。そう思わないかな? だって現実に国が乗り込んで確認調査をしているんだろう。本調査の必要はないというお墨付きは、国から出ているんだ」

 一茂は遠藤の言葉に息を呑んだ。遠藤はさらに話し続けたが一茂は自らの世界に入り込んで扉を閉ざしたように黙り込んだ。そしてその世界の中に遠藤の言葉と自分の考えとが重なり合って響き渡るように感じた。
 通常なら遺跡の発掘調査は昇竜土地企画建設が地方自治体の教育委員会に下駄をあずけ、もし教育委員会で直営実施することができないときには自治体から埋文センターなどに委託するのが普通である。
 建設工事は発掘調査対象外地区や、調査が終了した地区から進んでいくことになる。
 発掘調査にかかる経費は中原因者負担と言って中津リバーサイドタウンの場合昇竜土地企画建設になる。確かに巨額なものになるだろう。用地買収に関する融資等もあるだろうから、調査が長引くようならその金利も馬鹿にならないはずだ。しかしそれは建設段階のことで、竣工して売り出す時点では相対的経費から売り出す価格を設定するはずだからまた別の話であろう。
 それなのに中津リバーサイドタウンの建設では、工程の中から発掘調査という項目をを完全になおざりにしてまで竣工を急ごうとするのだろうか。
 中津リバーサイドタウンは用地買収が極端に低く済んだと聞いている。多少埋文調査費の額が大きくとも、また期間がかかろうとも総戸数に振り分けるならそれほど目に付く金額にもならないと思うのだが……。
 このことに思いが至ったとき一茂は心臓が苦しいほど大きく波打つのを覚えた。

 一茂の頭の中に直に響いていた遠藤の話も終わり、花富士の座敷は一瞬沈黙が支配した。
静まり返った空気の中に四人の呼吸音だけが鮮明に聞こえた。だが沈黙の中で高槻彰、柏崎一茂、遠藤大吾、猿橋弘毅の四人は皆同じことを考えていた。
 民間企業はしたたかである。経費が嵩もうが計画に乱れが生じようが、あらゆる手立てを講じて危機を回避しようとする。そして何とか生き延びていくものだ。しかしそれは経済基盤が土台を支えてくれているときに限ってのことだと気がついている者は意外に少ないのではないだろうか。
 中津リバーサイドタウンは新しい街区運営システムを採択したニュータウンで、朝川町の権力者柳田邦信が後ろ盾についているプロジェクトである。通常ならば遺跡の発掘調査も当然建設の工程に含められていて然るべきなのだが、柳田邦信の父親である国会議員柳田宗助を通して「近いうちに経済基盤を根底から揺るがすような国家的動きがあるので動き始めているプロジェクトは一刻も早く竣工させたほうが安全だ」というような情報が入ったのだろう。
 加藤清志から提案された遺跡の調査をどうすべきか昇竜の黒沼社長は予てより懇意にしている柳田土木部長に意見を求めた。.
 今更何年もかけて調査などやって入られないと判断した柳田邦信は、文科省副大臣である父宗助の力を利用し国による遺跡確認調査を実施させ事実認定として本調査の必要なしのお墨付きを提出させた。後は加藤がどう動くのか。その過程で何を知るのか。開発行為を行おうとしている側から見るならば気がかりなのはそのことくらいだろう。
 刑事たちの内で一番体躯のがっしりとした一茂が沈黙を破った。
「で、どうする考えですか?」
一茂のこの問いかけに遠藤大吾は少し寂しそうな目をして「こんなところでもういいんじゃないかな」と呟いた、そして遠藤のそのひとことに異を唱えるものは誰もいなかった。

 自分たちがようやく辿り着いた筋書きは、どの部分を取り上げてみても憶測である。きわめて真相に近いだろうという自負こそあれ根拠があるわけではない。それに事件の向こう側にはなにやら得体の知れない巨大なものが蠢いているようだ。きっとここはその入り口にすぎないのだろう。
 刑事たちは直感し、好奇心も手伝ってこのまま捜査を続けたいという衝動に駆られた。だが彼らは皆今はまだそのときではないと自分を抑えるだけの分別を持っていた。迂闊に動いては総てを封じ込まれてしまう可能性もあるのだ。なにしろ公式にはいまのところ事件など何も起こってはいないのだから。
 ここは耐えて待っていれば必ず真相に近づく好機が訪れる。刑事たちは四人ともそう自分に言い聞かせて唇を?んだ。

    4
学生同士の些細な口論が原因となった傷害事件の検証から戻った高槻彰と柏崎一茂は、夫々のデスクの上に見慣れぬ封筒が置かれていることに気がついた。封筒は白色の大判で、高槻彰様、柏崎一茂様と宛名が達筆な筆文字で記されていた。
 一茂は席について封筒の中から厚手のパンフレットを取り出した。パンフレットには『現地説明会のご案内』とタイトルがついた案内文が添えられていて、ざっと目を通してみると来月二十日から三日間の予定で中津リバーサイドタウンの現地説明会を開催する旨の案内だった。以前聞いていた話ではニュータウンの販売開始が次年度ということだったからいささか早すぎる気がしないでもなかった。
 パンフレットを手に取る。A四判サイズのしっかりした小冊子風の仕上りで、川沿地区を上空の雲間から覗く俯瞰航空写真を上部に置いた白基調の表紙には『新型都市への誘い・中津リバーサイドタウン』というタイトルが燃えるような赤文字で印刷され、反対に造成業者名は冊子の下隅に小さく目立たぬように紺色の文字でレイアウトされている。
 表紙を捲ってみる。第一ページに『夢のマイホームを!中津リバーサイドタウン、予約受付開始』と大見出しが踊っていた。一茂はぱらぱらとページに目を走らせパンフレットを閉じた。奇妙に思うほど地味な作りの案内書だった。
「なんでしょうかねえ、ショウさん」
 一茂は斜め前のデスクに着いて一茂のほうに目を向けている高槻刑事に声をかけた。
「何が?」
 まだパンフレットに目を通していない高槻はとぼけた声を出した。
「昇竜で早くも中津リバーサイドタウンの販売開始だそうですよ。予約受付って形ですが」
「だってあれは最初は賃貸ってことだったろうが」
「そうっすよね。でも分譲予約受付け開始ってなってますよ……」
「何かあったのかも知れんな。新たな動きが」
「ショウさん。四月二十日から現地説明会があるらしいです。行って見ませんか」
 一茂から誘われた高槻はめずらしく首を横に振った。
「シゲ。今回、俺は遠慮しとこう。まだ何も見えてこない内から二人して姿を見せては警戒されるだけだからな。今度の催しで何か問題が出るようなことがあれば、今度は失敗できないわけだからなその辺のことを自覚して動いてみてくれ」
 高槻彰はそこまで云って一度言葉をとめると、意味ありげににやりと笑って一茂の目の奥を覗きんだ。
 一茂は笑顔を見せた。
「そこまで読まれていましたか」
「当り前だよ。年季が違う」
 高槻彰は一茂を励ますように少し笑って「辛い所だな」とその肩をぽんと打った。

 今思えば初めから見えていたはずなのだ。本調査の必要の有無を裁断する文化庁が各市町村や個別の企業の都合でその基準に手心を加えることなどあるはずがない。しかしそれが直轄する大臣からの指令だということになると話が違ってくる。上からの圧力に抗うことができずに、本調査は不要というのお墨付きを出してしまったということだ。勿論朝川町土木部長の柳田邦信が文部科学副大臣柳田宗助の実子であることなどなんの関係もない。いつも通りただ自分たちより上位の椅子に座る者からの命令だということ。それだけの話だった。
 ところが思いもかけないことに、国が行った確認調査の結果に基づく裁断に意義を唱える考古学者が現れた。
 加藤清志である。
 加藤は昇竜がニュータウン造成を計画していることを掴んでおり、国による確認調査が実施されるより以前から対象区域の発掘調査を佐波原埋文センターで実施させてほしいと望んでいた。その事を昇竜に申し入れた所昇竜は独自に手を打ち確認調査を終了させ、本調査不要と結論を出した。遺跡確認調査が終了した以上、用地買収から始まる造成がいよいよスタートするということだ。加藤が何を持って国が実施した確認調査に不満を表しているのかは定かではないけれども、考古学上貴重かもしれない遺跡が攪乱されているという理由だけで握り潰されることになったのである。
 加藤清志がその後どう動いてなにを知っていくのか。それとも今は自分の意見が無視されたことから少し反発しているだけで、やがては国が実施したことだからという冷静さを取り戻すのか。いずれにしても暫くは監視の目をつけておく必要があったのだろう。……

「ただいま。踊りました」
 ドアの開く音が聞こえ外勤から戻った若い刑事が元気のよい挨拶をした。
「いやあ何か大変っすね」若い刑事は自席に着くなり何の脈絡もなく付け加えた。
「何がそんなに大変なんだ?」
 何が大変なのか分らず、高槻が面倒くさそうにたずね返す。
「……何がって、何のことかは良く分りませんけどね……。総量規制、総量規制ってニュースでテレビも新聞も溢れかえってますよ」
「総量規制? 何のことだろう」
 一茂は立ち上がって休憩所のラックから新聞を一部持ってきた。そのニュースは探すまでもなく第一面にでかでかと載っていた。
「ちょっと待ってください」
 要約して高槻刑事に説明しようと記事を読み進めるうちに、一茂の様子が変わった。
「ショウさん。これですよ」
「何のことだ?」
 不思議そうに一茂の顔を覗き込む高槻彰に一茂は目を通していた新聞を差し出した。
「何がって……。中津リバーサイドタウンですよ。こんなにも早めて予約分譲の受付を行わなければならなかった理由は、きっとこれなんですよ」
 一茂はひとつ大きなため息をついた。「地価が暴落するんですよ。この先……。
 一茂は頭の中に澱んでいた霧が晴れていくように感じた。

 平成二年三月二十七日。大蔵省銀行局長による一件の通達が各銀行に対して出された。
『不動産融資総量規制』である。
 実体がないにも拘らず高騰を続ける不動産バブルを基盤とした経済は、見掛けばかりの大きな繁栄を見せている。しかし実際には既に修復不能と思われるところまで疲弊しきったその末期の姿を見せ始めていた。この経済状況を是正しようと国が投じた一石がこの不動産融資総量規制の通達だった。要するに大蔵省は投機目的の不動産売買を厳しく制限する目的で各銀行に宛てて土地取引に関する融資を大幅に制限するよう通達を発したのだった。この通達は土地の売買を単に繰り返すことによって巨大な利益を手中にしてきた者たちに大打撃を与えるものとなった。土地神話は一夜にして終わりを告げた。それどころか融資を受けて土地取引を大きく展開していたり、不動産部門から上る利益を返済金に当てて設備投資等の費用を借り入れたりしていた多くの者たちもまたこの日を境に地獄に転落することになった。地価が購入時より大幅に急落して、銀行への返済額さえ確保することが難しくなってしまったのである。特に昇竜の場合大規模に用地の買収を行っている。部分的にだが治水工事や分譲区割りを行ってもいるのだから支出も巨額となろう。先行して融資を受けた上での事業ではあろうが先々地価の下落は否めないから、それが目立つ前に勝負を賭けざるを得ないというところか。

 。一茂は思いついたままを高槻に説明した。「だからこそこの時期に売り出しを開始して底が見える前に決められるだけ決めてしまおうってことでしょうよ」
 高槻は煙草に火をつけ天井に向かって煙を吹き出した。
「濡れ手で粟なんて許されるわけがないってことだよ」
 高槻はピントの外れたようなことを云って笑った。

 机上の電話が鳴った。
「はい。刑事課」
 一茂が受話器をとった。
「一茂さんですね。俺です」
耳に飛び込んできたのは猿橋弘毅の弾むような声だった、
「おう。サルか。元気だったか?」
「はい。一茂さんもお元気そうで……。所で一茂さん、明後日二十九日は時間の都合つきますか? 夜七時ころから」
「今のところ大丈夫だと思うが……」
「佐波原線が開通するんですよ。いよいよ。橋本まで出てきませんか? 以前、いってたでしょう。どこか良い店を探しておけって」
 猿橋弘毅は屈託のない笑い声を受話器を通して送ってきた。
「すぐに探しましてね。もう決めちゃいました。いいですね。駅の改札口で待ち合わせしましょう」
 電話は一方的に用件だけ伝えて切れた。
 暗澹とした気持ちになりかけていた一茂は猿橋の笑い声に気持ちが癒されるのを感じていた。







    エピローグ
 四月二十日朝川町川沿地区は何処までも青空が広がっていた。多摩中部警察署の柏崎一茂はひとり中津リバーサイドタウンの現地説明会が開催されるはずの場所に足を運んでみた。話題を呼んだニュータウンの現地説明会である。現場は大勢の客で賑わっていることだろうと考えていた。ところがタクシーで近くまで来て様子を窺うと妙に深閑としている。人の姿が見当たらないのだ。
 現地には何処までも続く川沿の平地が雑草を薙ぎ倒し地肌を曝して広がっている。流れの音を聞きながら少し歩くと、わずかな一角だけ宅地の形に区割りした造成地の姿を見せている場所に出た。
 本来なら分譲予定区画の造成が終った後に現地と対比させながら分譲予約を受付けるべきだろうが、そんな悠長なことも言っていられぬほど事態は急変したのである。埋蔵文化財の発掘調査を無視したのも用地買収を人望の厚い綿貫自治会長に取り纏めさせたことも、当初賃貸の計画で踏み切った造成地を急遽分譲に変更した理由も、すべて近いうちに不動産の急激な値崩れと長い不況に見舞われるという分析からに違いない。けれども一茂のそのような推測にしても現実の経済社会の前にはまだまだ甘いものだった。
 一茂は造成した区割りの隅に一枚の看板が立てられているのに気がついた。
『本日開催予定の中津リバーサイドタウンの現地説明会は都合により中止いたします』
 看板にはそれだけが一方的に書かれ、他には何の説明もなかった。
「無駄足を運んだ」と、腹を立て帰ろうと歩を進め始めたとき、一茂の目はひとりの女の姿を捉えた。
 瑞穂だった。瑞穂は何かをひたすら放り投げていた。
 何をしているのか興味を持って近づいてみると、瑞穂は土器片の詰まったビニル袋を左手に持って、中から縄文土器の欠片をつまみ出すと一つひとつ思いを込めるように周囲に向かって放り投げているのだった。
 いたたまれなくなって歩み寄る一茂の気配に瑞穂は振り向いて、それほど驚いた様子も見せず「ああシゲくん」と、せつなそうに笑ってみせた。
「贖罪ですか、加藤先輩への?」
 一茂は憐れむように云って左掌を上にして瑞穂のほうに差し出した。
 瑞穂は一茂の掌に土器片を半分ほど乗せた。
 一茂は瑞穂と並んで立ち、土器片を抛った。
 一茂が放り投げた縄文の欠片は放物線を描いて、動きを止めた造成地に幾重にも重なって醜悪な姿を曝している無数の轍の中に吸い込まれ、消えていった。
             

まほらの轍

私も多分そうだったろうが若く血気盛んなころは仕事に対しても妥協という二文字はなく、納得のいかない方針変更など考えられないことだった。たとえそれが会社命令だったとしても、一歩も譲らず突っ張りとおしたかもしれない。それが次第に他と協調するということを覚え、利益や個人的損得を重視した行動をとるようになっていく。それでも結構上手くいくものだし、いやそのほうが八方丸く収まることが多いのだから困り裳のである。そのうちかつての頑固だった自分は影を潜め柔軟な大人へと変貌を遂げるのである。特に力を持った上司の声があれば何も考えることなくその指示に従ってしまうことがある。
 本書の柏崎一茂と高槻彰の両刑事にしても他署管轄の事件だからこそあれこれと動き回るが結局一線を越えることはできない。
「長いものには巻かれたほうがいい」ということだろうか……

まほらの轍

台風による大雨で中津川の一部が氾濫した。そして小規模な土砂崩れが発生、それに巻き込まれたような格好で男の死体が発見される。身元は佐波原姉市埋蔵文化財センター調査課長の加藤清志だった。 多摩中部署の刑事柏崎一茂は加藤の死を佐波腹署の若手刑事猿橋弘毅から知らされ驚いた。加藤と一茂とは大学時代に入っていた考古学研究会で先輩後輩の間柄だった。加藤を知る一茂は用心深い加藤が、台風による豪雨で土砂崩れを起こすような危険区域に立ち入るはずがないと疑問を口にした。だが佐波原署は威圧的に事故としてt結論付けてしまう……

  • 小説
  • 長編
  • サスペンス
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-10

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted