柊野別

〈英利おじさん〉が営む小さな喫茶店は、賀茂川沿いの幅狭い裏道から住宅地へ入り、山道にさしかかる手前に

 〈英利おじさん〉が営む小さな喫茶店は、賀茂川沿いの幅狭い裏道から住宅地へ入り、山道にさしかかる手前に流れる疎水のそばにひっそりと建っていた。
 美郷は、その店へ何度も足を運んでいる。初めて訪れたのは五歳の春で、父に手を引かれて東京から新幹線に乗り、京都駅からバスを乗り継いで、〈柊野別れ〉というパス亭で降りて歩いた。そして父の兄である英利おじさんと初めて対面したのだった。その次が小学校に入学して最初の夏休みで、父はこの時、京都駅からタクシーに乗せてくれた。その次が小学校五年生の冬休みで、美郷は初めて、骨に沁み入るような京都の冷気を体感した。
 どの場合も、必ず、ふたつ違いの姉・美浦が一緒だったが、美郷が中学二年生になって、父と母が離婚すると決めた秋の終わり、美郷は家の金を盗み、ひとり新幹線に乗った。英利おじさんは、ひとりで現れた美郷の、その切羽詰まった表情を見て驚きはしたが、すぐいつもの笑顔になって店内に招き入れ、事情は何も訊かず、熱いココアを淹れてくれた。英利おじさんはそういう人だった。
 その後も、美郷は何度もその店を訪れた。美郷と同じように、英利おじさんや店が大好きだった姉の美浦が、十九歳で、自らの命と引き換えに男の子を産んだ時、葬儀に参列してくれたことへの礼を述べるために訪ねた時、父と、その兄である英利おじさんが、普通の家庭とは少し事情が異なり、異父兄弟であることを知ったのだった。
 美郷のために熱いココアを作ってくれた後、産まれた男の子はどうなるのかと訊き、ぽつりと、
「おじさんと美郷ちゃんのお父さんは、父親が違うんや。一緒に暮らしたことも、ほとんどあれへん」
 と言った。
 普段、怒りとか哀しみといった感情を、ほとんど表面に出したことのない、目尻に皺がたくさんできる優しい顔しか見たことがない英利おじさんの、初めて見る寂しそうな表情に、美郷はどきりとしたのだった。
 いつ行っても、英利おじさんの店は、本物の煉瓦造りの重厚でがっしりした建物ながら、人を包み込む温かさと優しさに満ちていて、自分を待ってくれているような安堵感をもたらしてくれた。
 姉の死から七年がたった今、美郷はまた、英利おじさんの店の前に立っていた。
 美郷は、およそ十年前に、自分が家出をしてここへ駆け込んだことを忘れてはいなかったが、その日を思い出すこともほとんどなくなっていた。だが今日は久しぶりに思い出していた。服装も似たようなセーターとジーンズだし、同じような母のお古のボストンバッグを持っていた。何より今の美郷の気持ちが、あの時とそっくりだった。ほんの少しの戸惑いと後悔の念、良心のうずき。違う点は、両親への苛立ちが今では消えていること、季節が冬で、マフラーとコートを着込んでいること、そして、傍らにリュックを背負った将がいることだった。
 美郷は、店のドアに手をかけ、少しためらった。自分が今日ここへ来たことは、おじさんに報せていなかった。このまま中へ入らず帰ってしまおうか。ふとそんな考えが頭をよぎった。
 だが、今日は英利おじさんと逢って、話をしなければならなかった。逢って、父から託された物を渡さなければならない。美郷は、将のリュックを下ろしてやり、
「……ね、将、ちょっとそこの窓から、おじさんいるか見てみて」
 と声をひそめて言った。将はおとなしくうなずいて、
「おじさんいたら、入ってもいい?」
 美郷がうなずき返すと、将はドアの横の窓から中を覗き込んだ。同じ年の子ども達と比べるとやや小柄で痩せっぽちの将は、その細い首を伸ばして店内を見回した。ややあって、将は美郷を振り返り、大きくうなずきながら手招きした。それを見て、美郷がまたドアに手をかけようとした時、ドアが内側から勢いよく開いて、英利おじさんの細長い体躯が現れた。
 少し見ない間に、白髪が増えて、なぜかとても疲れているような英利おじさんが、心底びっくりしたといった表情で美郷を見つめ、将を見下ろした時、美郷は今日なんの連絡もせずにやって来たことを後悔した。将は嬉しそうにおじさんに飛びついて「来たよっ」と叫んだ。
「……将ちゃんやないか」
 英利おじさんはつぶやくようにそう言ってから美郷を振り返り、やっと笑顔になった。
「美里ちゃんも。急に、どうしたん?」
 その問いに美郷が何も応えないうちに、
「とにかく入りィな。ちょうどひと息ついたとこや」
 英利おじさんは将の手を引いて店内へ戻った。美郷もその後につづき、ほどよく暖房のきいた店内に入って、ほっとして上に着ていたものを脱いでカウンターのスツールに腰を下ろした。将も楽しそうに美郷の隣のスツールに、よじ登るようにして座った。
 英利おじさんの店の内部は小さいものの、六人が座れるカウンター席と、ドアを挟んで窓際に四人掛けのテーブル席がふたつあるだけの、ゆったりした配置だった。いつもはおじさんの淹れる珈琲めあての常連で賑わっているが、平日の午後早いこの時間に、他に客はいなかった。
「皿洗いしてて、ふっと顔上げたら、将ちゃんにそっくりな子ォが窓にへばりついとったから、びっくりして飛び出したんや。ほんまに将ちゃんやったから、びっくりしたでェ」
 カウンターに入りながら、英利おじさんは珍しく饒舌にまくし立てた。美郷が何も言わないうちに、
「将ちゃん、何にする? オレンジジュースがええか?」
 と訊きながらふたりの前に水をおいた。
「美郷ちゃんは? 珈琲か?」
「あ、ううん。カフェオレで」
「僕、珈琲」
 将が手を上げて叫んだ。すると英利おじさんは、カウンター越しに手を伸ばして、将の短く切り揃えた髪をくしゃくしゃに撫でた。
「こら坊主。珈琲はまだ早いでェ。ジュースにしとき。とびきりうまいオレンジ、絞ったるからな」
 そう言って笑った英利おじさんの表情には、もう一点の曇りもなく、その口調や将を撫でる手つきに、ふたりが訪れたことへの嬉しさが含まれているのを感じて、美郷はほっとした。
「この前来てくれた時は、えーと、五月の連休やったなァ? 将ちゃんが小学一年になりたてで……学校はどうや?」
 しきりに話しかけながら、英利おじさんは将のためにオレンジを搾り器で絞り始めた。途端に狭い店内は、珈琲の匂いに果汁の香りが混じり合い、独特の、だがいい芳香が立ちこめた。将が嬉々として学校の話を始めたのを横目で眺めながら、美郷は今日、ここへ来たわけをなんと切り出そうか、めまぐるしく考えていた。おじさんに話さなければならないこと、聞いてほしいことが、今日はたくさんあるのだった。美郷の両親は、離婚した後は独身を通し、再婚することはなかった。そのおかげで、美郷は割と頻繁に父親との交流をもった。将を遺して姉がこの世から去ったあとは、父も養育費を援助してくれた。その父に、会社からロンドンへの転勤が命じられたのはおよそ一年前で、準備や後任への引き継ぎなど慌ただしい期間を経て、父がロンドンへ旅立ったのは半年前のことだった。
 美郷は出発の日、成田まで父を見送るため、将を伴って出かけた。しばらく異国でのひとり暮らしを余儀なくされた父は、いつになく緊張した面持ちで娘と孫に別れの挨拶を口にした後、おもむろに機内へ持ち込むショルダーバッグから小さな紙袋を取り出し、
「これ、英利おじさんに渡しておいてくれ」
 と言って美郷に渡した。
「何よ、これ?」
「詳しいことは手紙に書くから。頼んだぞ」
 父はそれだけ言うと、将の頭をめちゃくちゃに撫で回して急いで行ってしまったのだった。美郷の手には小さな紙袋だけが残された。父からの詳細を書き綴った手紙を待たなくとも、英利おじさんに渡すだけでいいのではないかと思いつつ、美郷は一応、待つことにしたのだった。そして半年も経ったおととい、勤めを終えて帰宅してみると、父からのエアメイルが届いていた。美郷はすぐ封を切って手紙を読み、自分も将も風邪を引いたことにして会社と学校を休み、新幹線に飛び乗ったのだった。
 そんなことに思いをめぐらせているうち、美郷の前に湯気の立つカップが置かれ、英利おじさんからきっかけを与えられた。
「そう言えば、美郷ちゃんのお父さん、いつ出発したんや?」
「もう半年も前だよ。去年の八月」
「そうか……俺も見送りしたかったなァ。あの時はバイトもおらんで、店休まれへんかったから……タカちゃんと逢っておきたかったなァ」
 おじさんは心から残念そうにつぶやくと、煙草に火をつけた。
「連絡とかは?」
「……手紙が、きて」
「タカちゃんが、手紙?」
英利おじさんは少し怪訝な顔をした。おじさんはいつも美郷の父のことを〈タカちゃん〉と呼んだ。確かに父は筆不精で、年賀状やメールの類もいっさい書いたことがない。美郷は父のことが都合よく話題に上ったので、思い切って言った。
「実は、私、お父さんから頼まれたの」
「何を?」
 英利おじさんは流しに煙草の灰を捨てながら、気楽そうに応じた。
「おじさんに、返しておいてくれって……」
 美郷は言いながら、誰もいないからと横のスツールに置いたボストンバッグの中を急いで引っ掻き回して紙袋を取り出した。
「返す……俺にか?」
 おじさんには腑に落ちないといった面持ちで美郷の差し出す紙袋を受け取った。将が、オレンジジュースを飲みながら、ふたりのやり取りを黙って見つめていた。
「これ何や」
「知らない。見てないもん。成田に見送りに行った時、いきなり押しつけられたの。こないだ手紙がきて、昔、おじさんに隠れて盗んだものだって書いてあった」
「……昔、ねえ」
「おじさんと一緒に暮らした時だって」
「一緒に暮らしたいうても、一か月くらいのことや。タカちゃんが来て、なくなったものなんてあったかなァ……」
 おじさんは考え込みながら紙袋を開け、中身を取り出した。藍染めのハンカチに何か小さいものが包まれていた。美郷は興味津々で身を乗り出した。その傍らでは将も、腰を浮かせて必死で覗こうとしていた。ハンカチで包まれていたのは、小さな手鏡だった。赤いうるし塗りの、てのひらにすっぽりとおさまるほどの大きさで、鏡の裏面には金色の鶴が描かれてあった。綺麗な細工ではあったが、どこの観光地のみやげ物屋にでもありそうな、ありきたりの手鏡で、美郷は少し拍子抜けした。将も、ぼそりと「なんだあ」とつぶやいた。
 だが英利おじさんは、手鏡を裏返したりして食い入るように見つめていた。その目には、明らかに動揺の色があった。
「それ、おじさんのなの?」
 美郷がそっと問うと、おじさんは鏡に見入りながらかぶりを振った。
「ほんとに、お父さんが盗んだの?」
「……ちょっと、違うかな」
 おじさんはやっと鏡から目を離し、美郷を見て力なく笑った。
「今日は、びっくりすることばっかりや」
 そうつぶやいて、おじさんは再び鏡に見入った。空いているほうの手に吸うことを忘れられた煙草を持ったままで、灰が音もなく落ちた。動揺は消えて、懐かしい思い出と再会したような目に変わっていた。
「何があったの」
 少し間をおいて美郷が問いかけると、
「たいしたことやないんや」
 おじさんは短く答えて、鏡をハンカチでくるんだ。その時、ドアが勢いよく開いて、学生らしいがっちりした体つきの青年が白い息を吐きながら入って来た。
「マスター、おはようっす」
 と大声で言いながら、美郷と将を見て軽く会釈をしてカウンターの奥へ入った。アルバイトだろうと美郷が思った通り、
「近くの学生さんや。先月からバイトできてもろてるんや」
 と英利おじさんが言い、奥に向かって、
「加藤くん、悪い、ちょっと店番しててくれるかァ? ちょっと出てくる」
 と声をかけた。
「いいすよ。ごゆっくり」
 加藤と呼ばれた青年がエプロンをつけてカウンターに入るのと入れ替わりに、おじさんはエプロンを外してカウンターから出て、少し散歩でもしようと美郷に言った。将はスツールから飛び降りて、英利おじさんの手を握った。
 店を出ると、英利おじさんはひっきりなしに車が通る車道をさけて住宅地を抜けて、賀茂川ぞいの土手にでた。そこは広い遊歩道になっていて、ユニフォーム姿でランニングする一団や犬を連れた老人、少し遠くでスケートボードの練習をする若者達の姿が見えた。
 将はおじさんの手から離れ、まっすぐ土手を駆け下りた。橋のすぐ下を流れるところには、平らな丸い石が道のように整然と並び、真ん中にある中州を挟んで、対岸まで続いている。将は五歳の誕生日を迎えた冬に、初めてここを訪れた日から、この石づたいに対岸へ行ったりきたりして遊ぶのに夢中だった。
 将は慣れた足取りで中州まで石の上を飛び跳ねて行き、そこで立ち止ると美郷と英利おじさんを振り返って大きく手を振った。
「将ちゃん、大きなったなァ。元気で、ええ子や」
 英利おじさんは目を細めて将に手を振り返しながら言い、土手から川へ続く斜面に造られた石段に腰を下ろした。美郷もその隣に座った。よく晴れた日で、陽だまりはあたたかく、川面は陽光を浴びて目が痛いほど光を帯びていた。
「ほんまのお母さんのこと、知ってるんか?」
 おじさんは遠慮気味に聞いた。美郷はうなずいて、
「あの子、何か感じてるみたいだから……お姉ちゃんの写真みせて話したの。先月の誕生日に。お母さんは反対してたけど……」
 英利おじさんは煙草をくわえ、うなずきながら火をつけた。
「それがええ。早いうちに話したほうがええよ、将ちゃんのためや。他人から聞かされるくらいなら、美郷ちゃんが話して正解や」
「そうかな……」
「将ちゃん、あんなに元気やないか。無理してるようにも見えへんし」
「おじさんのとこに来ると元気なの。いつもあんなにはしゃいだりしないのに」
「将ちゃんのお父さんて、誰?」
「知らない」美郷はため息とともに言った。「お姉ちゃん、最後まで隠し通したのよ。私には、相手はスイスとか留学しちゃって知らないんだって言い張ってたけど……ひとりで育てるつもりだったんだもんね。まさか死ぬなんてお姉ちゃんも思ってなかったよね……」
「美浦ちゃん、あれで頑固なとこあったからなァ……」
英利おじさんはくつくつ笑って言った。
「まさか、産んだ途端に死んじゃうなんて思わなかった……」
 美郷は言って、将を目で追った。対岸へ渡った将は、石を拾っては川面へ投げていた。
「ほんまに大変なのはこれからや。美郷ちゃんが結婚とかしたら、お母さんがひとりで将ちゃんの世話するんやろ?」
 美郷はちらりとおじさんを横目で見た。
「おじさんも同じこと言うのね」
「誰と?」
「彼よ」
「誰のこと?」
「私の彼」
「え! 美郷ちゃん、彼氏おったんか?」
 英利おじさんは、今日、店に現れた美郷をみた時よりもっと驚いた顔で言った。
「今年に入って、結婚しようって言われたの」
「結婚、するんか」
「まだ迷ってるの」
「迷ってる。何でや?」
 美郷はため息をついて、今日ここへ来た、本当の理由を話し始めた。美郷の恋人は、同じ会社で机を並べる同僚だった。美郷が高校を卒業して入社した時、彼もまた大学を出て入社したので、同期ではあっても五歳年上の温厚な青年だった。姉の遺した子を育てていると打ち明けてはいたが、さして重要に受け止めてはいないようで、美郷に結婚話を持ち出した時も、子どもはお母さんが育てるんだろ、と軽く言ったのだ。そうではない、将は美郷にとってただの甥っ子ではなく、もっと大きな存在なのだ。結婚するからといって、あっさり実家に(それも母親ひとりしかいない家に)おいてくるには、美郷の心を占める割合は大きすぎたのだ。それを正直に言うと、彼は心配ならしょっちゅう実家へ行けばいい、近いところに住めばいいじゃないかと言った。確かにその通りだった。深刻に考えることはないのかもしれない。そう思いつつ、どうにも割り切れない胸のつかえを取り除くことはできなかった。
 英利おじさんは黙って話し終わるのを待ち、また新しい煙草に火をつけると深々と吸い込んで、
「それが、迷ってる理由?」
 と訊いた。美郷はうなずいて、
「でも、これで私が結婚を断ったりしたら、今度は将がすごく気にすると思って。私、これ以上、将に気を遣わせたくない」
「そうやって美郷ちゃんが気を回してるのを知って、将ちゃんがますます気ィ遣うことになるわけや」
 おじさんは笑いながら煙を吐き出した。それもその通りだった。
「世間のやつらは、あることないこと噂しよる。犠牲になるのは、いっつも子どもや。何も悪くないのに……自分の存在が、まわりの人間に迷惑かけてるかもしれへんという不安は、将ちゃんがこの先ずっと背負っていく荷物や。これはどうしようもあれへん」
 それこそ、美郷が英利おじさんに打ち明けたかったことだった。父からの手紙で、英利おじさんと将が、とてもよく似た境遇だと知ったからこそ、美郷はおじさんに逢いに来たのである。美郷は正直にそれを言った。
「どうしたらいいと思う?」
 英利おじさんは煙草を捨て靴先でもみ消し、ポケットに入れていた手鏡を取り出した。
「俺、タカちゃんと暮らしてた時のこと、覚えてる。タカちゃん、母親に捨てられたと思い込んで、いっつも暗い顔しとったなァ」
「その鏡、ほんとにお父さんが盗んだの?」
「ちょっと違うな。きっと拾たんや。それに、俺のやないし……」
「拾った……」
「俺と美郷ちゃんのお父さんが、父親が違うってことは知ってるやろ?」
「うん……」
「俺は、母親が十七か十八の時に産んだ子どもや。結婚なんてしてへん。そうやって産んだ子を、自分の両親、つまり俺の祖父母のとこへおいて、知らん顔して別の男と結婚して生まれたのがタカちゃんや。俺は、十五になるまで、自分の親のことは知らへんかった。じいちゃんとばあちゃんが育ててくれたんや」
 英利おじさんは、川の向こう岸でひとりで遊んでいる将のほうを見ながら、その実もっと遠くを見ているような、それともいっそ、目の前の水の流れを見ているような、不思議な目をして言った。やはりおじさんの口調は柔らかで、自分を捨てた母親への恨みつらみは、たとえ抱いていたとしても、表情からは読み取れなかった。

── 初めて自分の弟を見た、第一印象は、自分に似たところがまったくないなというものだった。生まれた時から祖父母に育てられ、中学生の時に子どものいない親戚夫婦の養子とり、そのどちらからもよくしてもらっていたので、自分の母親のことはまったく気にしていなかった。
 ところが、平穏な日々はいきなり破壊されたのだった。受験が間近に迫った冬のある晩、僕はいきなり実母と異父弟に対面した。あいた口がふさがらない、とはまさにあの状況だろう。玄関で人の声がしたと思い、開けてみると、ミンクのコートを着て、ものすごい派手な化粧をした女が、男の子の手を引いて立っていた。その女は、「おうい、ヒデ、誰や?」と言いながら出てきた養父に、いきなり「英利の母親です」などと言ったのだ。それを聞きつけて、養母が血相を変えて飛び出してきた。女の顔を見ると顔をひきつらせ、今頃になって何の用だと詰め寄り、女を連れて外へ出てしまった。男の子は玄関に取り残された。ひどく居心地が悪そうに、うつむいて、しょっていたリュックを下ろして中身を探ったりしていた。そして、ひどく寂しそうだった。それが僕の胸を詰まらせた。
 こんな寒いとこにいたら風邪を引く。養父がそう言って男の子を家に上げた。そのひと言で、男の子目に涙が滲んだ。それがタカちゃん──孝明だった。



「ちょうど、将ちゃんと同い年やったかな。将ちゃんは、タカちゃんによう似てる」
 英利おじさんはそう言って新しい煙草に火をつけた。



── タカちゃんを炬燵に入らせ、蜜柑だのお菓子だの振る舞っている間に、養母が怒り心頭で帰って来た。母親は、一か月だけ預かってほしいと頼んでどこかへ行ってしまったとおいうのだ。男の子にも、産んだきり一度も逢いに来なかったもうひとりの息子にも、ひと言もなしに。
「たった一ヶ月やろ? まあ、ええやないか」
「あんな、そんな呑気なこと言うて。あの女はなあ」
 養母はそこで僕を見て慌てて口をつぐみ、もう遅いから休むように、とりあえずその子を同じ部屋で寝かせるようにと言って、半ば追い出すように二階へ急き立てた。普段、めったに怒ったりしない養母の、怒気を含んだ表情に驚き、僕はおとなしくタカちゃんを連れて自室へ入った。ひとつしかない布団を敷いてやり、僕はもう少し勉強するから先に寝るようにとタカちゃんに言った。幼い弟は無言だった。名前や年齢を訊いても何も応じ返さず、終始、うつむいたままだった。階下からは養父母の諍う声が途切れ途切れに聞こえ、タカちゃんの表情をますます曇らせた。
「心配せんでええから、早う寝な」
 僕が言うと、タカちゃんは目に涙を浮かべ、声を殺して泣き始めた。
 僕はその夜、生まれて初めて母親のことを憎んだ。僕は、あの派手な身なりの、幼い子を置き去りにした女が、自分の母親であるとはとうてい信じられなかった。僕が実母のことを、今まで想像すらしなかったと言えば嘘になる。僕はもの心ついた頃から、しょっちゅう想像を膨らませては、自分だけの母親像を作り上げていた。母は儚げで控えめで清楚な、つまり男なら皆そうあってほしいと願うだろう〈聖母〉のイメージそのままの女で、おそらくやむを得ない理由で、泣く泣く僕を捨てたのだと思っていた。だが今夜、突如僕の前に現れたのは、下品で俗物で、子どもを捨てても平気でいそうな女だった。僕はあんな女から産まれたなどと思いたくなかった。
 僕より怒りや不快感を露わにしたのは養母で、タカちゃんがいる間、ずっと不満を呑み込んだ顔で接し続けた。養父は子どもに罪はないのだと、タカちゃんに優しかった。タカちゃんはずっと押し黙ったまま、学校へも当然行かず、部屋に閉じこもっていた。
 養父は少しでも養母の気を晴らそうと、ある晩、みやげを手に帰宅した。ところがそれさえ、養母の怒りをあおってしまった。養母は、夫の鞄から、包装紙にくるまれた赤い手鏡を見て、あらぬ誤解をして逆上したのである。
「これはお前に買ったんや。他の女にと違うで」
 と養父がいくら言って聞かせても養母の怒りはおさまらず、さすがの養父もキレて、なんと養母を殴って黙らせ、手鏡を二階から外へ投げ捨てたのである。養父は、僕に対しても手を上げるようなことは決してない、気持ちの優しい人だった。養母の激しく嗚咽する声は尾を引いて、夜中まで絶えなかった。
 翌日、僕が暗い気持ちで学校から帰る途中、珍しくタカちゃんが外で遊んでいるのを見かけた。河原でひとり、石を投げたり、何か光るものを太陽に反射させ、川面に光を当てたりして遊んでいた。僕は何気なく近寄っていき、声をかけた。その時、タカちゃんの手にあるのが、昨夜の騒動の原因となった手鏡であることに気づいた。タカちゃんは僕を見てとっさに逃げ出した。僕は慌てて追いかけ、肩をつかんだ。タカちゃんは僕の手から逃れようと暴れた。
「お前、その鏡、どこで拾たんや」
「放せよ!」
「返せよ、それは捨てな。また父さんと母さんが喧嘩するんや」
「嫌だ、これ僕のだ!」
「返せって」
「嫌だ!」
 僕は、嫌がるタカちゃんの手から無理やり、鏡を取り上げようとして、その拍子に鏡が僕らの手から川の流れの中へ、弧を描いて飛んでいってしまった。
「あ!」
 僕らは同時に声を上げ、川辺まで走った。鏡はどこにも見当たらなかった。と、タカちゃんが大声で泣き出した。家へ来て以来、タカちゃんが声を上げることなどなかったので、僕はすっかりうろたえてしまい、
「悪かった。俺が探してやる。だから泣くなって」
 と言って、急いで靴下と靴を脱ぎ、学生服の上着も脱いで腕まくりをして水に入った。びっくりするほど冷たかったが、タカちゃんを泣き止ませるには、あの鏡を探すしかなかった。僕は鏡が落ちたあたりまで行き、石をひっくり返したり、底をさらったり、あちこち探した。いつの間にかタカちゃんも水の中へ入っていた。
「危ないで。水も冷たいから、上がって待っとき」
「僕も探す」
 タカちゃんはきっぱり言って、水底に手を突っ込んだ。やれやれと思いながら僕はタカちゃんの好きなようにさせた。だがふたりで探しても、鏡は一向に見つからず、夕暮れになって、僕がもうあきらめようと言いかけた時、タカちゃんのほうから「もうやめた」と言いだして、さっさと川岸に上がり、靴と靴下を手に持つと、裸足で家とは反対方向に歩き出した。僕は慌てて、
「おい、どこへ行くんや」
 と大声で訊いた。タカちゃんは振り向きもせず、負けじと大声で、
「お母さんとこに帰るんだ」
 と応じ返した。僕も急いで岸に上がり、
「待てよ、おい。お母さんとこ帰るって、居場所知ってるのか?」
 と追いかけた。


 話はまだ途中だったが、そこで中断したのは、じっと耳を傾けていた美郷がいきなり立ち上がり、「将は?」と叫んだからだった。見ると、さっきまで対岸にいたはずの将の姿が消えていた。
「……まさか」
 少しの間、川面を見つめた美郷は、声にならない叫び声を上げながら駆けだした。英利も後を追おうと踏み出した時、後ろから聞きなれた声で呼ばれた。
「おじさん、見て、きれいな石いっぱい拾ったよ。ねえ、これ遠くまで飛ばせるかな……お母さんは?」
 英利は、しばし、将と、その小さなてのひらに載った石ころを声もなく見つめていたが、やがて堪えきれなくなり、くつくつと笑った。将は、ぽかんと見上げている。

柊野別

柊野別

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-09

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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