もうこの世に未練なんて
もうこの世に未練なんて、ない―
高所から眺める夕日は、とても綺麗だった。空は雲ひとつなく澄み渡り、ビルの群れは夕日に照らされ陰影をつくり、
まるで絵画の世界に飛び込んでしまったような錯覚を覚える。
生きていれば、こんな綺麗なものが見える、とは思えなかった。この綺麗な世界が、自分をあざ笑っているように思えた。
最後に拝ませてやるよ、綺麗だろ。お前へのはなむけにはちょうどいいだろ。
小夜子には、地球がそういっているように思えてならなかった。
廃墟ビルの屋上。小夜子はその淵に立っている。
作法どおりに、遺書も用意した。靴も脱いで揃えた。後は、あの夕日に向かって、空に身を投げ出すだけ。
―さようなら、タカシ。
いざ、小夜子が飛び込もうとする直前、背後から大きく、ドアを開ける音がした。
こんなときに一体なんなんだと振り向くと、肩で息をしている男が、小夜子をにらんでいた。
小太りな男で、階段を走って上ってきたからか、汗がだくだくに流れていた。めがねも汗でずり落ちている。
「やっぱり! 君、ダメだよ!」
男は、ずれためがねを指であげながら、大股でこちらに向かってくる。
小夜子はため息をついた。男の目的には、検討がついていた。大方、小夜子がビルの屋上に立っているところを見て、
駆け込んできたのだろう。
「君、今、飛び込み自殺しようとしてるだよ! やめろよ!」
小夜子は、やっぱりか、と思った。誰に相談したとて自分の気持ちを変えられることはできないと思っているのに、
こんな誰ともわからない男に説得なんかできようはずがない。
「何? 自殺を止める気? そんなことしても無理だからね。未来にはいいことがある、とでも言う気? それとも何?
死んだら悲しむ人がいるぞ、とか? 笑わせないでよ。そんなこと、あんたに言われるまでもなく考えたわよ。
それでも死にたいのよ! ほっといて!」
小夜子はまくし立てるように言った。これで男も説得する気も失せただろう、と思ったが、
当の男は、困惑顔になっていた。
「君は… 何を言ってるんだ?」
小夜子は予想外なリアクションに戸惑った。
「何、って… あんた、あたしの自殺を止めようとしたんでしょ?」
男は、今度は考え込む顔をした。表情豊かな人間だ、と小夜子は思った。
「あー… 確かに、自殺を止めようとしているの、かな…?」
男は一人でぶつぶつとつぶやいている。小夜子は、なんでこんな男に止められなきゃいけないんだと、もどかしく感じていた。
男は、考えがまとまったのか、小夜子に顔を向けると、はきはきとした声で言い切った。
「確かに、自殺を止めていたね。ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ」
今度は小夜子が困惑顔になった。男は続ける。
「死にたきゃ、死ねばいいと思うよ。君の人生だし、僕、関係ないしね! でもね、今日だけはやめてほしいんだ。頼むよ! お願い!」
男は両手を合わせて拝むように、小夜子に言う。
小夜子がぽかんと口を開け、男が拝んだ状態のまま、しばらく時間が去った。数分経ってから、いや、小夜子がそう思っただけで
実際には数秒だったかもしれないが、ようやく小夜子は気を取り直して言葉を出すことができた。
「な、何言ってんの…? なんで、今日、やめなきゃなんないのよ」
男は、驚いたように目を見開いた。
「だって、今日は、僕がそこから飛び降りるからだよ」
小夜子はしばらく、男の言っていることが理解できなかった。
小夜子がようやく男の言葉を飲み込むと、ふつふつと怒りが込みあがってきた。
「なんで、あたしが、あんたのためにここをどかなきゃいけないのよ!」
「だって。僕、ここから飛ぶの、前々から目をつけてたんだもの。有名なんだぞ、ここのビル。名飛込み自殺スポットって」
小夜子は男のしゃべり方に腹立たしさを感じた。
「あ、あたしだって、前からここに目をつけてきてたわよ!」
実際は今日たまたまよさそうなビルだなと思って上ってきただけだったが、売り言葉に買い言葉で、つい口から出てしまった。
自殺の名所だとも、まったく知らなかった。
「うそー。いつからだよ」男が口を突き出して文句言う。
小夜子は、一瞬逡巡したのち、「い、一ヶ月くらい前よ」と適当な数字をでっち上げた。
「やった! なら、僕のほうが先だ! 僕は3ヶ月前だもん」
男はふんぞりかえって誇らしげな態度をしたが、それがまた小夜子の鼻につかせた。
「そんなもん、いくらでもいえるでしょ! 証拠はあんの? 証拠は!」
「あるよ。ほら」
男は懐を探る。小夜子は、あんのかよ、と心で突っ込む。自殺願望者のくせに、用意周到すぎだろ、さっさと死ね、
と毒づく。
男が懐から出したものは、写真だった。今日と同じような綺麗な夕日だった。風景を見ると、確かに、この屋上から
撮ったものに間違いはなさそうだ。
男が「ここ見て」と指したところには日付が入っていた。確かに、今日から3ヶ月前の日付が入れられている。
「こ、こんなの、写真いじったかもしれないでしょ」
小夜子は苦し紛れに、証拠品に異議を唱えた。
「修正した証拠はない、って裏づけを見せてもいいけど…」
小夜子は、それもあんのかよ、と心で叫んだ。
「だいたい、君の一ヶ月前ってのには、証拠はあるのかい?」
小夜子は、言葉に詰まる。でっち上げの数字に、運よく出せるような証拠なんかあるわけもない。
「ってことで、いいね? 僕が飛ぶから。そこ、どいて」
男は鼻歌まじりに屋上の淵に近づき、靴を脱ぎ始めた。
「ちょ、ちょっと! 待ちなさいよ! 納得いかない! 納得いかない!」
小夜子が慌てて止めに入る。ここで先に飛ばれては、何か負けた気がする。自殺願望者に勝ち負けもないだろうが、
最後の最後に負けで終わるのも何か後味悪い。
「見つけたのはあんたが先でも、今日飛ぼうとしたのはあたしのほうが先なんだから、あんたが他移りなさいよ!」
男が口を突き出す。不満に思ったときの癖のようだ。
「君が、他移れよ!」
「あんたが移りなさいよ!」
どちらも譲る様子はなく、お互いににらみ合い、硬直状態に陥っていた。
しばらくにらみ合ったところで、男が一息をつけた。両手を軽くあげ、休戦の合図をした。
「わかった。わかったよ、冷静になろう」
小夜子も男にならい、一息つき、肩の力を抜いた。
男はしばらく考え込むように顎に手をおき、屋上をうろうろした。そして、何かを思いついたように、手を打った。
本当に表現が豊かな人間だと、小夜子は改めて思った。
「こうしよう。今日、どちらもここで飛ぶ」男が人差し指を立てて言う。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! そんなことしたらあんたと心中したみたいに見えるじゃない! 冗談やめてよ!」
すかさず、小夜子が返す。
男が立てた人差し指を左右に揺らしながら、チッチッと舌を鳴らす。
「落ち着きなよ。僕だって、あんたと心中したっていいことなんて何もない。それは避けたい」
「じゃぁ…」と小夜子が言いかけると、男はうざったそうに「聞けって」と人差し指を口に当てて、制す。
「幸い、ここのビルは両面で道路に挟まれている。一人が、あっち側、一人が、反対側から飛ぼう」
小夜子は、男に主導権を握られている気分がしてムカムカしたが、これ以上の妥協案を自分でも思いつけず、
仕方がなしにうなずいた。
男は案に付け足す。
「ただ、これも同時に飛んだんじゃ、ダメだ。最近の警察は優秀だからな、いつ死んだかもたちどころにわかっちまう。
そしたら、別々に飛んだ心中ってことで、逆にマスコミの餌食になっちゃうかもしれない」
小夜子は、最近の警察はそこまで優秀なのかと、いぶかしく思いもしたが、確かめようがないので、そういうものなのだと納得することにした。
確かに別々の場所から同時に飛んだことがバレたら、そのおかしさが際立っているだけに、マスコミになんて言われるかわかったものじゃない。
『心中の最後に喧嘩したカップル!?』
『お互いの肉片は見たくなかった!死体は語る!?』
…なんて活字がスポーツ紙にでも躍った日には、死んでも死に切れない。小夜子はそう思うと、少し身震いをした。
「だから、時間も別々にしよう。片方が飛んだら、少なくとも、そうだな、3時間くらいは時間を空けよう」
相手が美形ならまだしも、こんな不細工とでは、死んだ後でも話題を同じくしたくない。
小夜子は、男の考えに全面的に賛成した。
「そうね。…でも、どうやって、決めるの?」
男がわが意を得たりとうなずく。
「そこは、公平にじゃんけんしよう」
「じゃんけん!? そんな、死に際まで負けを味わうなんて、イヤよ!」
小夜子は顔を振り振り拒絶する。
男は意外そうな顔をして、
「なんで負けるって決め付けるんだい。勝つかもしれないのに。でも、まぁ、いいさ。ただじゃんけんするだけじゃ僕だって不公平だって思ってる。
だから、じゃんけんに勝ったほうが、場所か時間のどっちかを先に選べる。場所を選んだら、時間の選択は相手に譲る。逆もまた然り。どうだい?」
小夜子は考える。両側を道路に挟まれているとはいえ、片方は夕日に照らされ、日当たり抜群。道路も広く、飛び降り自殺の悲壮さが充分にアピールできる。
発見者のトラウマとか、片付ける人の苦労とか、そんなことは知ったこっちゃない。後の人のことを考えられる人間なら、そもそも自殺なんかしようとしない。
反対側の道路は、道路というよりビルに挟まれた通路と呼ぶに相応しく、暗いし、狭い。飛んだところでしばらく人に発見されないかもしれないし、
飛ぶ途中で隣のビルに当たるかもしれない。どうせなら、着地の瞬間まで余計な痛みは感じたくない。
時間については、やはり、先がいい。後から飛ぶと、後追い自殺みたいな気がして気分が悪いし、飛び降り自殺で死んだ状態を見ると、やはり躊躇して
しまうかもしれない。見なきゃいい、と言われるかもしれないが、どうしても見たくなってしまうのが、人間だ。
そう思うと、どちらを選ぶかは悩みどころだ。いい妥協案だ。
この男、なかなかのアイディアマンだな、と小夜子は思った。それだけに、この男を自殺にまで追い込んだからにはよほどのことがあったんだろうな、と思いもした。
とりあえず、悩むのならば、じゃんけんをし終わってからだ。
小夜子は、男の案に賛成の意を表した。
「よし、じゃぁ、さっそくやろうか」
男は肩を慣らし始める。
小夜子は、何を出そうかと迷った。人生最後に出す手として、何がいいだろうか。小夜子は、あいこになって何回続こうと、ひとつの手を出し続けることに決めていた。
人生も終わろうとしているときに、選んだことが間違っていたなんて、思いたくない。
小夜子は、チョキを出すことにした。ピース。平和。いいじゃないか、自分が出す最後の手がピースだなんて、皮肉が利いている。
小夜子が決意をして男を向くと、男は手を変な風に組み合わせ、組み合わせの隙間から目を覗かせて小夜子を見ていた。
「何やってんの?」
「知らないのかい? これは、狐の窓といってね、この穴から覗くと真実が見えるんだ! 僕には君の手が丸わかりだね!」
男は真剣そのもので、狐の窓とやらから一生懸命小夜子を見ていた。
小夜子は男の姿を見て、こらえきれず噴出してしまった。
「あはははは、なにそれ。 あんた、変な男だねぇ」
一度笑い出したらとまらず、小夜子は笑い続けて涙が出てきた。男は、相変わらず狐の窓から覗いたまま「ホントなんだぞう」と抗議した。
「よし、わかった」
男は狐の窓を解くと、さっそくじゃんけんの構えを取った。
小夜子も、同じく構えた。
「あんた、名前は?」最後の相手の名も知らないのは、和魂が廃る。大和撫子でもなんでもないが、と小夜子は自分で注釈を入れる。
「はやしだ」
「はやし、ね」
「ちーがーう! は・や・し・だ、だ!」男が口を突き出す。
「林田ね」ややこしいな、と小夜子が思う。
「きみは?」今度は林田が問う。
「月見よ」
「月見、ね。人生最後の勝負相手として、その名を頭に刻んどいてやる」
「あたしもよ。といっても、あと数時間の間だけどね」
小夜子はふっと笑う。林田もそれを受けて笑った。
小夜子は思う。こんな男が身近にいたら、人生ももう少し楽しかったかもしれない、と。
すべてはタカシに溺れてしまった自分がいけないと思いつつも、タカシを憎らしく思ってしまう自分もいる。
いずれにせよ、もう終わる。せめてこの最後の勝負だけは、勝って終わらせたい。この平和の象徴で。小夜子は強く祈る。
「いくぜ」林田が言う。小夜子がうなずく。
「じゃーん…」林田が先導する。「けーん…」小夜子を後を追う。
「ぽん!」
二人の声が合わさったとき、お互いの最後の勝負手が揃う。
小夜子の指の数は、二本。
林田の指は、五本だった。
林田が手のひらを睨みながら、膝から崩れ落ちた。
「やったぁ!」
小夜子は飛び跳ねた。最後の最後に勝った。有終の美とは、こういうことを言うのだろう。小夜子の心は晴れやかだった。
対する林田は、狐の窓を使ったにもかかわらず負けたことに理解できないのか、開いた手を睨みながら、「なぜだ。なぜだ」と
怨念のようにつぶやいていた。
林田は、目をつぶり、開いた手を握りしめると、意を決したように、立ち上がった。
「おめでとう。君は最後の勝負に勝った。僕の負けだ。人生最後にだまされて終わるとは思わなかったよ。
狐の窓を教えたアイツを恨んで、僕は落ちることにするよ」
相変わらず、面白い男だ。小夜子は微笑ましく感じた。
「さぁ、選びたまえ。時間か、場所か」
そう、小夜子には選択する権利がある。夕日の当たるほうに飛ぶか、先に飛ぶか。小夜子は先ほど考えていたことを思い返す。
小夜子は決心した。
「決めたわ。あたしは、こっちから飛ぶ」
小夜子は、夕日の照らすほうを指差した。小夜子が選択したのは、場所だった。
「ええええええ。僕もそっちがよかったのにいいい」
林田が盛大にブーイングを鳴らす。
「自分が出した案でしょ」
小夜子に突っ込まれると、林田は言い返せず、口元でごにょごにょしていた。
「ちぇ。まぁ、いいや。僕は時間を選べるんだな」
林田は顎をさすり、続けた。
「よし、僕は先を選ぼう。先に、飛ぶ」
やはり、そうだろうな、と小夜子は思った。先に飛んだのを見せられては、後に飛ぶほうはより気が引けてしまう。
「それじゃ… こっちだな」
林田は、夕日の照らす反対側の淵まで歩く。すでに夕日も傾いている。小夜子が飛ぶころには、空には月も現れているころだろう。
小夜子は、それはそれで情緒深いかもしれない、と感じた。自分の名前に縁ある死に方、夜に月を見ながら、なんて。
林田は、淵に立ち、下を眺める。すでに辺りは暗くなり始めているため、着地面はよく見えない。通路には街頭もないため、
余計に暗さを際立たせている。
「月見さん」林田が底を見つめながら、小夜子の名前を呼ぶ。
「はい」
「暗いね」
「そうだね」
「高いね」
「…そうだね」小夜子は、雲行きの怪しさを感じた。
「…暗いね」
「それ、さっき聞いたけど」
「…高いね」
「…それも、さっき聞いた」小夜子は確信した。「あんた、まさか、怖気づいたんじゃないでしょうね?」
林田がこちらを向く。
「そ、そんなわけないだろう!? 死にたくて死ぬんだぜ!」
いきり立って言う林田の目が泳いでいた。完全に、ビビッている。
小夜子は、大きくため息をつく。
「…あたしが先に飛んでいい?」
「だ、ダメだよ! そんなの、ずるいじゃないか!」
林田が顔を真っ赤にする。
「なら、さっさと飛びなさいよ。後がつかえてるんだから」
小夜子は腕を組みながら、林田に文句言って急かす。
「わ、わかってるよ…」
再び、林田がビルの淵に立ち、底を覗く。汗が止まらないのか、何度もずり落ちるメガネを、震える手で何度も上げる。
たまにえづいている。
小夜子は林田に少しでも好感をいただいた自分を後悔した。情けないなぁ、と声に出さず、唇だけを動かして言った。
林田は大きくひとつ深呼吸をした。
「飛ぶぞ!」と叫ぶ。
「うん」さっさとしろ、と続けたくなる。
「飛ぶからな!」
「わかったから」いらいらが募る。
「サン、ニイ、イチで飛ぶからな!?」
「早く!」
「サン!」
小夜子の怒声にうっかり反応してしまったかのように、林田の口から数字が飛び出した。林田自身も予期してなかったのだろう、
小夜子を見てへらへらしていた。
「ニイ」
小夜子が、容赦せん、とばかりに、数字を続けてあげる。林田は、へらへら顔をそのまま苦笑いに変えたためか、
引きつった笑い方になっていた。
林田は肩を落とし、着地面をちらっと見て、目をぎゅっとつぶった。
林田は大きく息をためると、「イチ!」と大声で叫び、膝をぐっと曲げた。
小夜子は、ついにいくのか、と息を呑んだ。
林田は曲げた足をばねのように伸ばし、宙に飛び出した。
後方へ。
「こえええええええ。こええええよおおおおおお」
ビル屋上の床に尻餅をついて、林田は泣き喚いた。
小夜子は、額に手を置いた。なんと、情けないやつだ。往生際が悪すぎる。
「あんたねぇ…」
林田はまだ喚いていた。「こえええ」の他に「たけえええ」と「くれえええ」の2つを加えた3ワードを入れ替えで繰り返していた。
たまらず「うるさい!黙れ!」と一喝すると、びくっと震えてそのまま止まった。
「なんなのよ、あんた…」と嘆息すると、
「いやぁ、えへへ…」と上目遣いで媚びるように笑った。
小夜子は、林田の首元を鷲づかみ、引っ張り上げた。林田は苦しそうに、ぐへぇ、と漏らす。
「あんた、死ぬ気、ホントにあんの!? 先に死ぬなら、さっさと死んでくれないと、あたしが困るんだよ! 後がつかえてるって、
何度言えばわかんだよ! わかってんの!?」
小夜子が林田の首元を引き締めてぐいぐい揺らすと、林田はそのたびにぐえぐえ言っている。次第に林田の顔が真っ赤になって、
小夜子の手をぱんぱん叩く。
小夜子は手を離す。林田がどすんと音を立てて、床に落ちた。
「死ぬより先に、殺されるかと思った…」林田がむせながら言う。
「お望みなら、殺してあげるわよ。ったく」
小夜子はあきれ返った。林田は、大の字で寝転がりながらまだ息を整えていた。
小夜子は、林田に対して疑問に思っていたことを、この際だからと聞いてみることにした。
「林田さん、なんで死のうと思ったわけ? どうせたいしたことないんでしょ?」
これから死のうとする人間に対して、死ぬ理由が大したことない、だなんてかなり失礼なことは小夜子自身もわかっていた。
小夜子自身、そう言われたら激昂するに違いない。
しかし、林田を見ていると、小夜子にはとても死にたがっているようには思えなかったのだ。
予想通り、林田はムッとした表情でこちらを見た。
「大したことないなんて、よく言ってくれるよ」
「じゃぁ、それ相応の理由を教えなさいよ」
林田は言うか言わないか少し迷っていたが、言うことに決めたようで、小夜子に話し始めた。
「僕はね、借金がね、けっこうあって」
小夜子は、借金が理由か、そんなの自己破産でなんとかなりそうなのに、と思ったが、黙って先を聞くことにした。
「その借金が50億ぐらいあってね。無収入状態だから、利子が膨れ上がる一方で、返すあてなんてまったくなくてさ。闇金もあるし、
まっとうな金融機関、ま、銀行のことだけど、その借金も大半で。あ、なんでこんなに借金があるかっていうと、会社起こしたんだけどさ、
まったく売上たたなくて。それも、銀行と闇金と不動産がぐるになって僕をだまして起こさせた会社だからさ、そもそも売上なんか立つわけなくて」
林田の話は、だんだんと不穏な空気を漂わせていった。
「うちさ、けっこうな資産家だったんだけど、そのおかげで、根こそぎ財産取られて。タイミング悪く、両親が事故に遭って死んじゃってさー。
しかも親父が不倫して隠し子いたみたいで、遺書も残してて財産は全部そっちの子にいくようにしててさ。僕も遺留分だけはなんとか取ったんだけど、
会社の借金でそれも没収。弁護士に頼んでみたんだけど、その弁護士が無能でさ、金だけ取ってくのにぜんぜん働かねぇでやんの。後でわかったんだけど、
その弁護士もぐるだったみたい。面白いよね」
林田は笑うように語っているが、小夜子は空いた口が塞がらない。
「んでね、妹がいたんだけど、当然、風俗に落ちていったし、そこで薬にハマっちゃって、今、精神病院にいる。僕を見ても兄貴だとわからないみたい。
奇声しか上げないし。借金逃れるために色々と逃亡もしてみたんだけどさ、つかまった闇金がさ、けっこうな規模で展開しているとこで。全国津々浦々に
事務所かまえてて、情報のネットワークがすごいのね。移動しても2~3日あれば、見つかっちゃうんだ。偶然出会ったキャバ嬢と恋仲になったんだけどさ、
借金の方に誘拐されて。また他で借金して作った金で、彼女を解放しようとしたんだけど、すでに誘拐犯とデキてやんの。ストックホルム・シンドロームってやつ?
ホントにあるんだーって感心しちゃったよ」
林が「それでね…」と言ったところで、小夜子は「もういい」と続きをとめた。
「もう、いい。もう、わかった」
小夜子は、話を聞いているだけで憔悴していた。
「よく、今まで生きてたわね」
林田は、笑う。
「だって、死んだほうが彼らには得だもん。生命保険の受け取り先、彼らだし。それでも死のうと思ったのは、さすがに46都道府県回って見つかっちゃうんだもん、
最後のこの47個めでも見つかっちゃうだろうし、もういいかなって。なんでだかパスポート作れないから、外国にもいけないし」
なんて壮絶な人生だろう。そこまでどん底まで落ちたならば、さすがにもう死んでもいい気がする。というより、死んだほうがいい気がする。
「それ、ホントなの?」
想像も及ばな過ぎて、つい口から出てしまった言葉だが、林田が口を突き出して答える。
「そこ、疑うー?」
小夜子が、そうじゃないけど、と言い出す前に、林田は嬉々として懐からなにやら書類だかを取り出し、床に並べだした。
「これがね、借金の履歴。ほら、雪だるま式のいい見本でしょ? そんでこれ、妹の病院の入院代の請求書。で、これらが督促状。見てよ、この文。ただの脅迫だよね」
あっけらかんと笑う。床は自殺理由の見本市みたいな状態になっていた。
「それでも、妹さんがいるなら…」
「あ、昨日死んだよ。死亡診断書、見る?」
林田は何事もなかったように言う。小夜子は、力なく首を横に振った。
彼に比べてあたしの理由なんて、と小夜子は自分の死の理由を思う。
「月見さんは? なんで?」
「あ、あたし? あ、あぁ、林田さんと似たようなものよ」
小夜子はうそをついた。林田は「そうだよねー」と笑っていた。
小夜子の自殺の理由。本当は、大好きだった彼に捨てられたからだった。
中学のときから大好きで付き合った彼、それがタカシだった。それから10年付き合って、このまま結婚までするものだと思っていた。
そう思っていたのは、自分だけで、タカシは小夜子と付き合っているときからずっと他に彼女が何人もいた。ずっと自分だけだと思っていた小夜子は、
タカシの中では3番目くらいだった。タカシにベタ惚れだったから、都合がよいと思ってずっとキープしていた。
恋は盲目、とはよく言ったもので、小夜子はまったく浮気を疑っていなかった。偶然、街で他の女とラブホテルから出てくるのを見るまで、ずっと。
信じていたものに裏切られた。だから、遺書にも恨み言を書き連ねて、タカシにも報いがいくようにしようと思っていたのだ。
小夜子が死にたい理由なんて、そんなものだったのだ。林田に比べれば。
それでも、死にたい。それが小夜子の願いだった。
「さて、と…」
林田が立ち上がる。顔からは笑顔が消え、ビルの下を見つめる目にもさっきまでの恐れはなくなっていた。
林田は飛ぶ覚悟を決めたんだ、と小夜子は悟った。思いを吐露したことで、すっきりとしたのかもしれない。
林田がこちらを向き、小夜子の目をじっと見つめる。
小夜子は、その真剣なまなざしに強く鼓動を打った。
「月見さん…」
林田に名前を呼ばれ、鼓動がひとつ高鳴った。ここで、一緒に飛ぼうって言われたら、うん、と返事してしまうかもしれない。心中と思われてもいい、
と小夜子はときめいていた。
林田はまっすぐに小夜子を見つめている。
辺りが暗くなってよかった、顔が赤くなっているかもしれない。小夜子が恥ずかしさに耐えられなくなり、顔を背けようとしたその矢先だった。
突如、林田の顔がへらっと崩れ「明日にしよっか」と言った。
小夜子は、一瞬、何を言われたのかわからなかった。
アシタニシヨッカ?
「今、なんて?」小夜子が恐る恐る聞き返す。
「えー、明日にしよっか、って言ったんだよう」
林田が笑いながら、後ろ頭を掻いている。
この期に及んで、と小夜子は怒りを覚えそうになったが、怒りのボルテージはさざ波程度しか沸き起こらず、その代わり、腹の底からは、おかしさがこみ上げてきた。
小夜子はもう、笑いが止まらなかった。
笑って、笑って、笑いまくった。
涙は流れ、呼吸は乱れ、それでも笑った。
林田も、それに釣られて、へへへ、と笑っていた。
「いまさら、明日にしよう、とか。あんた、アホでしょう」
小夜子は、笑いをどうにか抑えつつ、涙をぬぐいながら言った。
「えー、そうかなぁ。僕、けっこうやっちゃうんだよなぁ、明日にしようって」
林田は恥ずかしかったのか、しきりに汗を拭いている。
きっと、林田は、毎回本気で死のうとして、でも死ぬ間際になって死ぬのにビビることを繰り返してきたのだろう。小夜子は、毎回往生際が悪そうに
している林田の姿を思い浮かべて、またおかしさがこみ上げてきた。
「そうだね、明日にしよっか」
小夜子も、口にしてみた。
なんだか、体が軽くなったような気がした。
明日にしよう。
結論を先延ばしにしているだけのような、後ろ向きな言葉なのに、なんだか、未来を感じさせるステキな言葉に思えた。
明日またダメだったら、明後日でもいい。そうやって結論を先延ばしにしていけば、もしかしたら、よくなるかもしれない。
それでも、何も変わらないかもしれない。
何も変わらず、また死にたくなるかもしれない。
そうなったら、そのとき、また思おう。
明日にしよう、って。結論は、また明日。
すっかり夕日も落ちきって、辺りは真っ暗になっていた。
ふと夜空を見上げると、目いっぱいに星が輝いていた。
さっきまで嘲笑っていたはずの地球が、両手を広げて小夜子を迎えるように微笑んでいる気がした。
双眼鏡の先には、二人の男女が、談笑していた。盗聴器から聞こえる声からすると、二人はこれから夕食を食べいくようだ。
ツキミという女がおごってあげる、と言っていた。
ピピピと機械音が鳴った。携帯電話の着信音だった。
男はポケットから電話を取り出す。
「もしもし」
「首尾はどうだ?」
「うまくいったよ」
「けっこう、イチかバチかだったんじゃないのか?」
「そうでもないさ、ハヤシダはそもそも死ぬ度胸なんかないしな。問題はツキミだけど、あの子には、ハヤシダの話を聞かせれば自分の視野が
どれだけ狭かったか、わからせることができると思ってたからな」
電話の向こうの男が、ふん、と鼻を鳴らす。
「そんなこと言って。ツキミが飛び降りる前に、ハヤシダが間に合わなかったらどうするつもりだったんだよ」
男は冷や汗をかく。確かに、あれはかなりギリギリのタイミングだった。ハヤシダがドアを開けてツキミが止まったのを見て、胸を撫で下ろした。
「それでも頑張ったんだよ! ハヤシダにそれとなく、自殺の名所を教えて、そこに行くように仕向けるのには、ずいぶん苦労したんだ」
電話の向こうの男が笑う。
「はっはっは。でもまぁ、よくもそんな回りくどいやり方したもんだな」
「仕方ないんだよ、ツキミは説得されて自殺をやめるような女じゃなかった。回りくどくても、斜め上を行く方法が必要だったんだ」
「ま、成功おめでとう。それと、次の依頼の話だが」
「えぇ!?」男が嫌そうに声を上げる。「もうかよ!? 今終わったばかりだぞ!」
「仕方ないだろ、この日本に毎年どれだけの自殺者がいると思ってんだ」
男がため息をつく。
「わかったよ…。で、次のターゲットは?」
「モリタという女性だな。仕事がつらすぎてうつ病になってるな。目標時刻は… あ」電話の男が含むように笑う。「今夜の20時だってよ」
「20時って、あと3時間もないじゃねぇかよ! てめぇ、わざとだろ!」
男がいきり立つと、電話の男は交わすように返す。
「ま、恨むなら日本という社会を恨みな」
男がため息とともに肩を落とす。
「わかったよ。人命救助とあらば、どこへでも、ね」
「よろしくな、GKB47さん」
終。
もうこの世に未練なんて
最近、偶然Yahoo!で見た、自殺対策推進室の話。GKB47という、自殺という暗い話題にはあまりにも明るすぎるキャッチ。
でも、僕は嫌いじゃありませんでした、GKB47。アイドルグループにちなんではいますが、どこか政府の裏組織的な臭いを感じさせるネーミングだな、と。
KGBみたいにね。思えば、GKBもKGBのアナグラムですね。
また、折りしも、C-1グランプリというコピーライターの登竜門みたいなコピーコンテストの過去受賞作を覗いていたときに、ちょうど「自殺を止めるコピー」
というものがあり、それを見てインスピレーションを沸かせていただきました。
グランプリを獲得した方、使わせていただいちゃいました。ありがとうございました。
そのふたつのキーワードを掛け合わせて、今回の作品を書きました。
楽しんでいただいたならば、幸いです。