オバケ
『土曜日の午後のこと』
私は寝室の窓際で本を読んでいた。
お昼寝から目覚めたばかりの息子“笙”は、布団の上で仰向けになりながら、なにやら誰かの名を呼ぶように歌を歌っている。
ぐっすり寝たからなのか、実にご機嫌な様子だ。
午後四時を少しまわっても、外はまだ西日が熱く眩しかったが、東側に面したこの部屋の窓から入る風は涼しい。良い夏の午後だ。
ふと、笙が「カワセンセー、カワセンセー」と言い出した。
担任の川崎先生のことだ。まだまだ口が回らないのだろう、呼びづらい人の名前は短縮してしまうのだ。
「保育園、楽しかったかい」私がそう聞くと、笙は元気良く「ウンッ!」と答える。
そして次に、もう一人の担任、阪口先生の名を呼び始めた。
「サーカ、サーカ、サカセンセー!!」
喋り初めのころ、笙は《さかぐちせんせい》とはっきり発音できず、「サァガ、グゥギェ、シェンシェー!!」と、どこの国の人の名を呼んでいるのかわからない滅茶苦茶なことを言っていた。
未だにはっきりと発音出来ているわけではないが、あの頃に比べたら、本当によく喋るようになったものだと目を細める。
お昼寝の間、楽しかった園の夢でも見ていたのか、笙はまだ先生方の名を呼んでいる。
「サカセンセー、サカセンセー、バイバーイ。バイバーイ!」
そう言いながら、天井に向って手を振り始めた。
今日は余程楽しかったのだろうか。いつまでも手を振っている。
「なんだ、阪口先生の生霊でも来ているのかい」と、縁起でもなく、更に二歳児にわかる筈も無い冗談を言う私。
すると笙はいきなり、「オバケ!オバケ!」と言い出した。
そういえば、この年頃では何が怖いのだろうと考える。
悪戯をして、私や妻に叱られる時など、べそをかいているのを見ると、それはやはり怖いということなのだろうか。
しかし、暗闇を怖がることもない。オバケも怖いことなど無いだろう。
それは成長するにつれ、様々な情報を得ることによって刷り込まれる恐怖であり、畏怖とも言える本能的に感ずる怖さを感じる機会はまだ無いだろう。
もしオバケが目の前に現れたとして、それが怒った時の妻のような顔でもしていれば別だが。
そんなことを考えながら、「笙クンは、おばけ怖いの?」と聞いてみた。
「オバケ、コワーイ」笙はそう答える。
保育園で季節柄、そういう子供向けの絵本でも読み聞かせるのだろうか。
それとも、少し年上の園児達と遊んでいて教えられたのだろうか。
「オバケ、イター!オバケ、イター!」と、笙は誰もいない茶の間を指差した。
不意をつかれてそういうことを言われると、さすがに驚く。
これが夜中だったら、いい年をして私も怖がっただろう。しかし面白い。あとで妻に報告しよう。
笙を連れてプーやん(犬)の散歩へ行き、戻ってきてから程なく、妻が仕事から帰ってきた。
それと入れ違うように私は近所の施設へ勉強会に出かけた。
勉強会は一時間半ほどで終わり、私は帰ってから一人遅めの晩御飯を食べていた。
そういえば《オバケ》の話を妻にしていなかったと思い出し、それを話すと、私が出かけている間にも、笙は誰もいない空間を指差し、「オバケ、イター!」を連発していたらしい。
ちっちゃい子って、幽霊が見えるって言うから、本当だったら怖いよね……。
そんな半分冗談のような話を妻としながら笑った。
『その夜のこと』
二十二時近く、宵っ張りの笙を寝かしつける為、家族三人と一匹で寝室にいた。
まだまだ遊び足りないのか、まだ眠くない笙は目を時たま瞑り、そして見開き、寝相をあちこち変えている。
妻はウトウトと眠りかけている。私はまとめておきたいテキストがあるので、まだ眠るわけにいかない。
プーやん(犬)に変化がおきた。
涼しい風の入る窓側で寝ていたのだが、いきなり飛び起きて部屋の入り口へ駆け寄り、そこから寝室の常夜灯の灯が届かず暗い空間になっている茶の間へ向って、低く唸り始めたのだ。
すると笙が起き上がって、飛び込むように茶の間へ駆けて行ってしまった。
我が家の庭は、近所に住むキタキツネの通り道になっているので、そのキツネがベランダの外に来ているのだろうか。
それだとプーやんもつられて行くはずだが、寝室の入り口から動こうとせずにただ、唸っている。
振り返って妻を見ると、もう寝入っているようで何も気づいていない。
(笙、こっち来てネンネしなさい)そう言おうとした途端、茶の間の奥から笙の声がした。
「オイデー、ネエ!、オイデー!」
暗闇の中、誰を呼んでいるというのだろう。
情けない話だが、私は動くことが出来なかった。
暗闇の向こうに原始的な畏怖を感じ、身体が震える。
我が家の茶の間に何かがいるのだ。
笙とプーやん(犬)にしか見えない何かが。
何かとはいったい何なのだ。
暗闇の中に笙の姿が浮かび上がった。一瞬だが背中に悪寒が走る。
いや、笙が茶の間から寝室に戻ってきただけなのだ。諦めたような顔をしている。
そして何事もなかったように布団へ潜り込む。
プーやん(犬)も唸り声はもうたてていなかった。
笙はおしゃぶりをくわえ直し、仰向けになって天井をじっと見つめている。
私はそんな笙に何と声を掛けていいものやら考えてしまう。
「ショウクンネェ、ショウクン」
笙は何かを訴えたい時、必ずこの言葉から始める。
「ショウクンネェ、オバケ、イタノ」
「おばけ、いた……の?」
ついそう聞き返してしまった私の声は、少し震えている。
「ウン」
笙はそう答えた。
『名前のこと』
私は、ある事を思い出した。
小さい子には、大人には見えないものが見える。それは、成長するにつれて見えなくなっていく。
そして見えないものの大体は消えていく。しかし、絶対にやってはいけないことがある。
「《それ》に名前をつけてはいけない」というものだ。
何故なら名前を付けると、見えないものの力が増し、《その家、その家族から離れない存在》になるというのだ。
《見えないもの》とは、一体なんなのだろう。
よく幽霊とか妖怪と呼ばれているものなのだろうか。この話は何かの本で読んだはずだ。
誰の、何という本だったのか、そして何と書いてあったのか、はっきりと思い出せない。
もっとしっかり読んでおくべきだった。
今夜のことは、妻には話すまい。
笙がもっと大きくなって、怖い話しをせがんだとしても、今夜のことだけは話すまい。
ふと、笙がこちらをじっと見ている。
いや、私を見ているのではない。私の向こうにある茶の間を見ているのだ。
そしてこう言った。
「○×▲□※、バイバーイ、○×▲□※、バイバーイ」
はっきりとは聞き取れないが、笙はすでに《それ》に名前をつけていた。
思わず私が後ろを振り返ると、暗い茶の間の奥で、これから《はっきりと形作られていくのであろう何か》が、確かに動いたように見えた。
そしてそれは、私に対してニヤリと笑ったような気がした。
了
オバケ