桃花物怪怪異奇譚 裸足童子とたぬきの姫君11
続きです。現代っ子がちょっと頑張ります。
桃花物怪怪異奇譚 裸足童子とたぬきの姫君11
「いやはや、困ったものよ。なんだってそなたはそう無鉄砲なのであろう」
頭のうえで、のんびりとした声が聞こえる。どうやら光顕は仰向けに倒れ込んでいるようだ。恐る恐る目を開けると、そこには鹿王が呆れ顔で、光顕の顔を覗き込んでいた。
「鹿王、お前、無事だったのか!」
勢いよく起き上がると、酷い眩暈がした。暫く目を瞑って、天地が無茶苦茶に鳴動するような眩暈に耐える。吐き気がひどい。三半規管に異常を来しているのかもしれない。光顕は、今度は身を丸めるように蹲り、何度もえずいた。胃に吐くものがないのか、僅かな胃液が食道の粘膜を舐めるようにせりあがるものの、吐瀉するまでには至らない。吐き気は一向に治まらず、ひどい悪寒がした。
「まだ残っていたか。大分取り除いたのだが。全く、手がかかるのう」
やれやれと声に出しながら、鹿王が蹲る光顕の蝙蝠扇で額を押して、顔上げさせる。視界に入った鹿王は、あの汚泥に呑まれた気配など微塵もなく、すっきりと綺麗なままだった。
「お、お、お前」
未だ止まらない吐き気に苦しみ、えずく合間に声を発そうとするがうまくいかない。
「よいよい。暫く黙っておれ」
光顕の額を扇で押したまま、鹿王はなにやら光顕の知らない難解な言葉を並べた。 何かの呪文のようだった。瞬間、胃の底が猛烈に熱くなり、マグマのように重くどろりとした物体が、胃の中で蠢いた。光顕の意思とは別に身体が瘧のように痙攣し、こみ上がってきそのマグマが、身体の内側の粘膜をじわりじわりと焼きながらせり上がってくる。内臓を内側から炙られる。その苦痛と恐怖に、光顕は七転八倒した。転げ回るうちに、嘔吐感が酷くなり、下を向いて何度かえずいたかと思うと、吐瀉物が口と鼻から滝のように溢れかえる。光顕は吐いたそれは、例の赤黒い汚泥だった。最後まで吐き切ると、驚くほどすっきりした。光顕はようやく頭をあげる。
そこには、何もなかった。
ただ闇雲に白かった。茫漠とした白い空間がどこまでも広がっている。不意に足下から轟音が響いたかと思うと大の男が一瞬で吹き飛ばされそうな猛烈な暴風が、光顕の鼻先を掠め、舐めあげるように虚空の彼方に消えていった。思わず、尻もちをついた光顕の後方、遥か彼方では、どこからか吹き荒れる暴風だけが無数に立ち登り、轟々と螺旋を描きながら上昇と下降を無秩序に繰り返していた。そんな不可思議な空間に、ただぽつんと光顕と鹿王だけが存在している。
「ここは、どこだ」
独り言のように呟くと、鹿王が扇で口元を覆いながらおっとりと答えた。
「空界。空(から)の世界と書く」
「空界?」
鹿王は幼子に言って聞かせるようにゆっくり話し始めた。
「生もなければ死もない。神々もいない。始まりもなければ終わりもない。一切が空の世界。御方々もここには干渉できない。まあ、私の秘密基地みたいなものよ」
「秘密基地……異次元空間みたいなものか?」
光顕は茫漠としたその世界を見回した。鹿王は、はて、と幼げな所作で首を傾げた。
「イジゲンクウカンとはいかなるものかよくわからぬが、解りやすく言うと、ほら、光顕があの穢れを打った徳利の中ということだ」
「は?」
全く解りやすくない説明に、光顕は間の抜けた声を上げた。
「何を素っ頓狂な声をあげる。あれを見るがよい」
鹿王が扇で頭上を指し示す。よくよく目を凝らせば、空にも似た頭上の空間に黒い星のような点が、うっすらと見えた。
「あれが徳利の入口だ。しかし、光顕、あの穢れ相手に徳利で応戦するとは、なかなか肝が据わっているではないか。愚かしくもあるがな」
そう言って、扇で口元を隠したまま、肩を震わせる。
「おい、笑うな。こっちは必死だったんだよ」
落ち着いて考えてみると確かに徳利はないだろうと自分でも思う。
「しかし、まあ、そのおかげで光顕のような唯人がここに来られたのだからよしとせぬか」
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鹿王は、光顕の前にスラリと開いた扇を出す。六本の黒い骨組に支えられた扇の中央には、いつの間にか、赤ん坊の拳ほどの大きさがある緑色の丸い石が乗っていた。
「なんだこの石は」
「翡翠玉。手に取ってよく見るといい」
翡翠といえば宝石の一種ではなかったか。光顕は輝石の類にとんと疎いが、この大きさの翡翠ともなるとかなりのお値段がするのではないか。
落して、欠けさせでもしたら大ごとだ。
なかなか手を出さない光顕に焦れたように、鹿王がずいっと扇を光顕の近くに差し出す。そうまでされては断れまいと、光顕は言われるままに翡翠を摘み上げて、手のひらに乗せる。つるりとした滑らかさと、冷たい感触が手のひらに心地いい。そう思った瞬間、石のなかで黒い何かが蠢いた。思わず、石を落しかけ、慌てて両手で持ち直す。
「なんだ、この黒いの」
黒い影は石の模様のようにも見えたが、明らかに、意思をもった生き物がのたうつように、石の中で蠢いている。
「まさにそれが山神姫の本体」
鹿王が白い手を伸ばし、労わるように石を撫でると、中の黒い影は落ち着いたようにすっと姿を消した。
「光顕が急に触ったから驚いたのであろう」
「お前が触れって言ったんだろうが」
「ここは、もともと神堕ちした山神姫を匿っていた場所なのだよ」
光顕の苦情を綺麗に無視して、鹿王が話始める。
「山神姫は神籍を失ってしまったがゆえにお山には戻せなんだ。何より大地を穢された地の神々が大層ご立腹なさり、山神姫を八つ裂きにせよと命じられた。しかし、私にはそれが哀れに思えてねえ。ここでこっそり眠らせておったのだよ」
「ここって、徳利のなかでってことか」
鹿王は大きく頷いた。
「この徳利は私が、山神姫の徳利を模して作ったものだけれど、彼女の御山の土を使ったから、居心地は悪くないはずだ。しかし、天津ヶ原のお方々も私がこれを手元に置くことについてはあまりよいお顔をされないものだから、沓部の民に頼んで山神姫を祀ってもらっておったのだよ」
沓部の民と聞いて不意に、目の前の鹿王同じ容姿を持つ少女のことが思い出された。
「その沓部って、今日、来たあの子のご先祖か」
「さよう。あの娘は当代の沓部の、つまりこの徳利と山神姫を祀ることを生業としている一族の娘。千と百年前、山神姫の守り人を一族に頼んだとき、私の力を少し分けたから私との繋がりも深うて。ここで数千年の時間をかけてゆっくりと浄化してやるつもりであったのだが」
鹿王はそこで一度言葉を切り、悩ましげに溜息をついた。
「その徳利が山崩れのせいで割れちまったってことかよ」
悪いことは重なるものだねと、鹿王はおっとりとした声で、再度溜息を吐く。
「そのうえ、愚かにも、山神姫を断ち切るために桃井に封印させていた箱が開けられてしまった。更には男しか襲わない山神姫のすぐ傍に、男に酷い目に遭わされている女がいた」
「榊さんのことか。あの人は、榊さんは今どうなってるんだよ。他の男みたいに」
溶けてしまったのか
光顕が言葉を濁したその先を鹿王は左右に頭振って否定した。
「まだ生きておる。あの穢れのなかで。山神姫は女は殺さぬ」
「なんだ、よかった。生きてんのか。どうやったら助けられるんだ」
勢い込んで身を乗り出した光顕の額を閉じた扇の先で押し返しながら、鹿王はうむ、と唸った。
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「生きてはいる。しかし、そのことで話はさらにややこしくなっておるのだ」
「は?どういうことだ」
つまり、と鹿王は話を続けた。
「さっきも沓部が言っておったが、その女と山神姫は同化してしまっておる。更に悪いことに、ほら、見るがいい」
鹿王が、石のなかの山神姫を指す。黒い染みは、うねるような動きを繰り返しながらぐるぐると同じ周期で石の中で円を描いていた。
「本来なら閉じた世界のなかで眠っておるはずの山神姫が目覚めてしもうた。こうなると、世界を閉じてしまったことが仇になるのじゃ」
「なにがどう更に悪くなっているんだ」
鹿王の説明がひどくまだるっこく感じ、光顕は性急に結論を求めた。
「つまり」
光顕の焦りに頓着ない様子で鹿王が優雅に扇を開く。
「山神姫は閉じた世界で、己が経験した苦痛を繰り返し繰り返し延々と体感し続ける。そうなれば山神姫の悲嘆は何十倍にも増幅して膨れ上がり、榊と融合し実体を得たあの穢れに力を供給し続けるのじゃ」
「それって、要するに」
光顕は自ら導き出した結論に戦慄した。
「さっきの何十倍もの規模のアレができあがるってことか。しかも、封じる方法もない?」
「そういうことよ。ようやく理解したか。まったく、手のかかる男よ」
「悪かったな理解力がなくて」
反射的に言いかえしながら、それでも光顕は訪れる光景を想像して、身震いをした。汚泥が街中に溢れかえったとしたら。
京都が壊滅する。いや、京都だけに留まらない。人を飲み込むたびに肥大化するアレが日本中を埋め尽くすことになるかもしれない。
「自衛隊が出動するレベルの話じゃないか」
その自衛隊だって、この科学が進んだ昨今でも、いや、なんでも科学に頼る今だからこそ、対神堕ち怨霊相手の兵器なんて持ち合わせていないだろう。京都を封鎖し、汚泥の拡散を防げるかどうかぐらいのものだ。
「何か、何か方法はないのか」
光顕の問いかけに、鹿王は綺麗な形の眉を上げて、微かに笑った。
「頼みさえすれば、全ての願いが叶うと思うか。祈るだけで全ての災いが福に転じるとでも?」
それはとても穏やかな笑みだった。その分、光顕ははっとなる。自分は今、考えることを放棄し、すべてをこの少年に預けて投げ出そうとした。不思議の力に守られたこの少年になら、何とかできるだろうと全力で縋った。
なんて情けない。
光顕は自分で自分を恥じる。しかし、いくら考えても、事態を好転させる方法など思いつかなかった。今のこの状況は、光顕の知る日常とあまりにもかけ離れている。
何を為すべきで、何をしてはいけないのか。それすらもわからなかった。
それでも、俺がなんとかするしかない。今、それができるのは俺に限られているに違いない。何の根拠もないが、そう思った。
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