ジローに伝言

 昨日の夜のことだった。
 調査報告書を書き上げた私は、椅子の背もたれに預けるようにして身体を大きく反らし、背筋を伸ばした。長時間に渡るデスクワークのせいで、普段は使わない筋肉が強張ってしまっていた。首筋から肩にかけて入念に揉みほぐしてから、煙草をくわえて、最後の一本になったブックマッチで火をつけた。最初の一服を深く喫い込むと、血中濃度を上げたニコチンと酸素が、疲れ切った我が〝灰色の脳細胞〟に染み渡っていくのが感じられた。
 半分ほど煙草を喫ってから、今回の依頼に関する数字を足し合わせてみることにした。なんのことはない。活力を取り戻した〝灰色の脳細胞〟による余興、ただの気まぐれだった。
「五」億円の遺産相続に関する「三」人の身元調査は「一」カ月に及び、「四」ページにわたる報告書を仕上げるのに要した時間は、「三」時間――五、三、一、四、三、すべてを足せば「十六」になる。
 ――さてさて、ここが勝負所だ
 私は戯れに、右手の人差し指で机を二度叩いてから、デスクの上に目を走らせた。お目当ての灰皿には、喫い殻が「六」本あった。
 吸い殻の本数を加算すれば「二十二」――これでは、ブラックジャックは言うに及ばず、バカラであろうと、オイチョカブであろうと、勝利は見込めない。
 少しばかりの落胆をして、煙を宙に向かって吐き出した。そういえば、かつて十六歳の少年と簡単な賭けをして、私はあっさりと負けてしまっていたのだった。どうやら、ベイエリアと呼ばれる地域にカジノが建設されたとて、近寄らない方が身のためのようだ。新興の景気対策の波に乗れない我が身を慰めるように、残りの煙草をゆっくりと時間をかけて喫い、七本目になる吸い殻を――これでも、まだ勝ち目はない――灰皿の上に作った。博才に期待できない以上、一攫千金など夢のまた夢と諦めて、仕事に戻るしかなかった。
 ――トラブル・イズ・マイ・ビジネス
 〝事件屋稼業〟と言えば聞こえはいいかもしれないが、所詮は他人様の揉めごとで食っている〝野良犬のような稼業〟なのだ。そして哀しいかな、そんな稼業でも請求書を作らねば、稼ぎは手にできないのだ。私は、デスクの抽斗を開いて電卓を取り出し、いくつかのボタンを叩いて、経費を算出した。念のため、二度の検算をしてから、請求書に〝正当な〟金額を記入する。これで、すべての業務は終了だ。
 最後の一本になった煙草をくわえて、買い置きの箱形マッチで火をつける。今回は、戯れに余興などはせずに、今宵の晩餐について真剣に考えてみることにした。時計を見れば、日付が変わろうとしている。行きつけの〈オリオンズ〉や〈やまだ屋〉は店終いをする頃だ。残りは二十四時間営業の立ち食い蕎麦屋か、ファミリーレストランしかない。まだ少し余裕があるとはいえ、終電も近いことを考慮すれば、今日のところはこの煙草を喫い切ったら、自宅へ引き揚げた方がよさそうだった。
 そんな私の決心を逆撫でするように、デスクの電話が鳴り出した。こんな時間の電話などロクなものではない、と五回目のベルまでは放っておいた。しかし、再び五回数えても電話のベルは鳴り止まなかったので、私は渋々と受話器を持ち上げた。
「エミリちゃん、でーす!」
 受話器を耳に当てた途端に、若い女の声が私の耳に突き刺さった。こちらは、まだ名乗るどころか、「もしもし」と応えてさえいないのだが。
 ――ほら見ろ。ロクな電話じゃない
 私は、少しだけ受話器を耳から離して訊いた。「どちらに、おかけですか?」
「ねェ! 今日は、どーしたの?」
 私が受話器から耳を話したのも、彼女との会話が噛み合わないのも、すべては彼女の背後で流れている音楽のせいだ。つんざくような電子音に嬌声も混じっている。ディスコだか、クラブだか――この際、どちらでもいい――彼女はそういった場所にいるようだった。そして、興奮したかのように彼女の声が大きいのは、相当に酒が入っているからに違いない。
「〈ドゥーシュバッグ〉で、みんな待ってるんだよ!」
 日付が変わろうとしている頃合――つまりは、夜の街が一番賑わいを見せる時間帯だ。エミリという電話主が、〈ドゥーシュバッグ〉なる店で〝みんな〟と盛り上がっていることは、結構なことだ。存分に騒げばいい。ただ、私の知り合いに〝エミリちゃん〟なる女はいないし、彼女の言う〝みんな〟と〈ドゥーシュバッグ〉なる店で一席設ける約束をした覚えは、まったくなかった。
 私は少し口調をきつくして言った。「どこへ、かけている?」
 こちらの口調の変化に、気づいてくれたようだ。少しの間を置いて、答えが返ってきた。
「……ジロー、どうしたの? まだ、拗ねてるの?」
 拗ねているわけでもなければ、ましてや私の名前は――とにかく、タイミング良く彼女の背後に流れる音楽、いや騒音が途切れていた。この機を逃す手はない。
「生憎だが、俺はジローじゃない」
 受話器の向こうにいるエミリが口を閉ざした。なにかを話し出そうとする彼女の息遣いだけが聞こえてくる。私は恐る恐る受話器に耳を近づけた。
 エミリが言った。「――どーゆーこと? ジローは、どこに行ったの?」
 声のトーンは、今までより下がっていたものの、会話は未だに噛み合っていなかった。彼女に聞こえるよう、あからさまなため息をついた。
「ここには、ジローなんてヤツはいない」私は言った。「それに、ジローがどこに行こうと、俺の知ったことじゃない」
「ちょっとォ……それって、ヒドクない?」
 〝ひどく〟の発音は、最近流行りの平板なものだった。いや、それよりも夜中に、仕事に疲れ果てた中年男へ間違い電話をしていることは、〝ヒドク〟ないのだろうか。説教のひとつでもしてやりたい気持ちをグッと抑えた。
「ゴンさん! この人、意味わかんないんだけど……」
 ――やれやれ、意味がわからないのは、こちらの方なのだが……
「ねェー、ゴンさーん!」エミリは叫び続けていた。私の気持ちなど露知らず、受話器の向こうでは、新たな登場人物が準備をしているようだった。
 すかさず、少し声を高くして言った。「もう一度、言うぞ。とにかくだな、ここには――」
 私が声を高くしたからではないだろうが、受話器の向こう側がまた騒がしくなった。ただ、今回は音楽ではない。
 怒号、悲鳴――
 そういった類の音だった。先刻までの音楽以上に、耳障りが悪い。その音の中に混じって、男が〝動くな!〟と叫ぶ声も聞こえた。
「おい、なにが――」
「ジローに伝えて」私の問いかけに被せてきたエミリの口調は、今までで一番しっかりとしたものだった。「ここには、来なくていいって」
「どういうことだ?」
「お願いよ! ジローに伝えて!」
 電話は一方的に切られてしまった。
 試みにフックを叩いてみたが、平板な機械音が不通を知らせるだけで、受信履歴には「非通知設定」と表示されていた。「非通知設定」の電話など、受けるべきではなかったのかもしれない。しかし、我が事務所は「非通知設定」の電話を、門前払いできるような左手で団扇を振れる経営状況ではない。新たな依頼が舞い込んだわけではなかったとはいえ、この営業努力はいつか実を結ぶはずだ。盛大に煙を吐き出してから、受話器をそっと置いた。パソコンの電源を落として、煙草を灰皿で揉み消す。
 あらかたデスクの上の片づけを済まして、事務所のドアに手をかけた。不意に後ろ髪を引かれるような思いがした。
 ――用事があるのなら、明日の朝にでも、かけ直してくるだろう
 そう自分に言い聞かせて、私は事務所を後にした。

 それが昨日の夜のことだった。
 今朝になって事務所に戻ってきた私は、いつものように申し訳程度の流しで淹れたコーヒーを手に、デスクへと腰を降ろした。電話を操作してみると、〝エミリちゃん〟の「非通非設定」の着信から後は、履歴は記録されていなかった。当然、留守番電話の録音もない。
 昨晩の電話は、やはり質の悪いイタズラ電話だったのだ。そう思い定めて、私は淹れたてのコーヒーを一口飲んで、一階の郵便受けから持ってきた朝刊を広げた。対案も出さず反対だけを口にする野党と、説明責任を果たさない与党による茶番劇のような政局は斜めに読み飛ばした。それから、運動面で我らがマリーンズの昨日の試合結果をチェックした。昨日のマリーンズは打線が振るわず連勝がストップ、念願の五割復帰とはいかなかった。私は今日のランチ候補から〈オリオンズ〉を外した。〈オリオンズ〉のランチタイムサービスは、マリーンズの結果如何で様変わりしてしまうのだ。
 それから三面記事まで読み進めると、ある記事が私の目に留まった。盗作疑惑で沸き返る五輪のエンブレムに関する記事ではない。片隅に小さく掲載された薬物に関する記事だ。


 『渋谷でドラッグパーティー開く クラブ店長らを逮捕

 警視庁渋谷署は9日、大麻などを使ったドラッグパーティーを開いた疑いで住所不定、クラブ「ドゥーシュバッグ」店長、嶋田学容疑者(三六)と、東京都目黒区下目黒5、同店店員の原進(三三)を大麻取締法違反などの疑いで逮捕し、同日未明から渋谷区円山町の同店などを捜索した。
 調べでは、嶋田容疑者らが同店で開いたドラッグパーティーには一〇〇人ほどの日本人や外国人のほか、アートディレクター、ゴンザーガ・ヤツさん(四二)=本名・谷津義雄=や、モデルでタレントの鶴田エミリ(二九)さん=本名・鶴田絵美李=らも参加しており、同署では事情を聴取している。』


 新聞をデスクに置いて、煙草をくわえた。上着を探って、事務所に来る道すがらでブックマッチを買い忘れたことに気づいた。軽く舌打ちをしてから、買い置きの箱形マッチで火をつける。
 最初の一服を天井に向かって吐き出して、昨晩かかってきた〝間違い電話〟について、記憶をたどってみた。
 ――〈ドゥーシュバッグ〉で、みんな待ってるんだよ!
 〈ドゥーシュバッグ〉なる店は、どうやら実在したらしい。その〈ドゥーシュバッグ〉から、電話がかかってきたのは、ちょうど日付が変わる頃のことだった。新聞用語では、その頃合いを〝未明〟と言う。
 ――エミリちゃん、でーす!
 ――ゴンさん! この人、意味わかんないんだけど……
 〝エミリちゃん〟は〝鶴田エミリこと、鶴田絵美李〟で、〝ゴンさん〟は〝ゴンザーガ・ヤツこと、谷津義雄〟に違いない。とすれば、電話が切れられる前の騒ぎは、〝ガサ入れ〟のあったまさに〝そのとき〟、と考えていい。
 警察は〈ドゥーシュバッグ〉に置かれた電話の通信記録を捜査して、〈ドゥーシュバッグ〉から最後に発信された電話が、どこ宛てのものかをつきとめるだろう。
 そして電話の相手は、彼らにとって重要参考人となるはずだ――
 これから身に降りかかるであろう出来事は、いくら予想してみても、どれも喜ばしいことではなかった。
 ――トラブル・イズ・マイ・ビジネス
 私は胸の裡で呟いて、煙草の煙を吐き出した。
 ドアがノックされたのは、コーヒーを飲み干して、新しい煙草に火をつけたときだった。私はくわえ煙草のまま「どうぞ」と応えた。
 ドアを開けて入ってきたのは、ベージュのパンツスーツを身につけた小柄な若い女だった。彼女は事務所に入るなり、肩に下げたバッグから手帳を取り出した。ハリウッド映画の刑事よろしく、私に向かって開いてみせる。突き出された手帳に貼りつけられたバッジが、彼女の稼業を示していた。そうでもしなければ、飛び込む先を間違えた化粧品のセールスレディのように見える。
「渋谷署の川田です」
 女刑事――川田が名乗るのに合わせて、太鼓腹をした色白の中年男が事務所に入ってきた。川田が開けっ放しにしていた事務所のドアをそっと閉めて、彼女の隣に並んだ。川田の頭は、男の胸の高さぐらいのところにあった。男の体重は、川田の三倍はある。
「冬木といいます」しゃがれた声で、男――冬木が自己紹介した。愛想の良い口調だった。だからといって、彼は巡業のチケットを売りつけに来た廃業したての相撲取りには見えなかった。長年のぶつかり稽古の結果、張り出してしまったかのような額の下にある細長い目の奥は、あの稼業独特の〝色〟をしていた。
 手帳をバッグにしまって、川田が言った。「あなたは――」
 名前を確認されたので、私は「それで、間違いない」と答えてから言った。「なんの用でしょう?」
「お話をおうかがいしたいのですが……よろしいですか?」
 私は「どうぞ」と、デスクに座ったまま答えた。
「とにかく、正直に話してもらえるかしら?」川田が顔の前を手で払い、顔をしかめた。
 彼女が見せたのは、〝嫌煙家ども〟がよく見せる仕種だった。私が吐き出す煙は、まだそこまで事務所に充満していないはずだ。なにせ、今日はまだ二本しか煙草を喫っていない。
 私は言った。「こう見えて乙女座で、血液型はAB型。好きな食べ物はカツカレーで、嫌いな食べ物は干しぶどうに、プリンに――」
「ふざけないで!」川田が声を上げた。眉間に深いしわを寄せている。
 〝正直〟に答えたつもりが、川田が求める回答ではなかったようで、彼女には悪ふざけをしていると思われてしまったらしい。
「あなたはわたしがする尋問に、ちゃんと答えてくれればいいの」
 どうして、あんな悪ふざけをしてしまったのか。どうも、生来の天邪鬼な血が騒ぎ出している。とにかく、私はくわえ煙草のまま頷いて、川田に質問を促した。
 川田が言った。「昨日の夜、日付が変わる頃ね。その時間帯に、電話がかかってこなかったかしら?」
「その時間なら、間違い電話が一件あった」
「間違い電話? 今さら嘘を言っても、無駄よ」川田が胸を反らして言った。勝ち誇ったかのように、彼女の唇の端が上がっている。
 寝かしつけていた天邪鬼が目を覚ましたのは、どういうわけなのだろう。目の前に立つ小柄な女が憎むべき〝嫌煙家の一味〟だからか。それとも、化粧品のセールスレディのような女刑事が見せた不遜な態度のせいだろうか。いや、違う。このご時世、〝嫌煙家〟に出くわすことなど珍しいことではない。それに、彼女は恥ずかしげもなく見せつけたバッジのことを、二十時四十五分頃に水戸のご老公とそのお供が見せつける〝なにか〟と勘違いしているだけだ。
 ――ジローに伝えて。ここには、来なくていいって
 ――お願いよ! ジローに伝えて!
 そうだ。私は電話の最後に、エミリから伝言を頼まれていたのだった。それを、まだジローには伝えていない。しかし、ジローというのは、どこの誰なのだろう。新聞にその名前はなかった。
 ――それを探すのがお前の〝稼業〟だろ? 探偵
 私は灰皿の縁で煙草を叩いて灰を落とした。
「嘘じゃァない。昨日の夜、ここにかかってきたのは、間違い電話だ」
「そう。では、どういう内容だったのか、教えていただけるかしら?」
「商売柄、答えられることと、答えられないことがある」
「なにを言ってるのかしら?」今度の回答を聞いて、眉間のしわをさらに深くさせた。「あなたの仕事には、守秘義務というものはないのよ」
「法律の問題じゃァない」
「どういうこと?」
 私は答えずに、煙草を喫い続けた。
「まさか、ポリシーを曲げたくない……とか、そういうことなのかしら?」
 敵意剥き出しの目を、煙の向こうに見据えて、私は答えた。「俺が、話したくないだけだ」
「あなたねェ……」川田がグッと奥歯を噛み締めて、鼻から大きく息をついた。顔に赤みが差している。「わたしたちのことを、なんだと思って――」
「事情聴取に来たお巡りさんだ」
「いい加減にしないさいよ……」奥歯を軋ませるように、川田が呟いた。
「まァまァ」冬木が、今にも飛びかかってきそうな川田の肩を優しく叩いた。「ここで、立ち話を続けてもしょうがないようだ」
 川田が冬木を見上げた。冬木の細長い目が垂れ下がっている。川田と目を合わせ、冬木がゆっくりと頷いた。川田の顔から赤みが消えていく。
「確かに、そうね。ここでお話しするのも、なんだから――」
 私は川田に先を言わせなかった。「ここで話してもらっても、俺は構わないよ」
「いいえ」川田は即座に、私の提案を否定した。「それは、こちらが決めることよ」
「おいおい、俺はまだ参考人のはずだぜ」冬木に向かって言った。
 冬木は表情を崩すことなく、目尻を下げたまま首を横に振った。「それは、我々が決めることですから」腹立たしいほど、愛想のいい口調だった。
「さァ、署に同行してもらうわよ」川田が肩をいからせた。
 冬木が一歩下がって事務所のドアを開ける。〝どうぞ〟と言わんばかりに、左手を振った。芝居がかった仕種で、事務所の外を指し示す。
 ――トラブル・イズ・マイ・ビジネス
 厄介事という〝招かれざる客〟を扱うのが、私の稼業だった。
 それにしても、ジローに伝言を届ける件、一体誰が依頼料を払ってくれるのだろう?

ジローに伝言

ジローに伝言

昨日の夜のことだった。 一カ月に及ぶ調査の報告書を書き上げた私に、一本の電話がかかってきた。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-04

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