確かな存在
私は子供が二人おり、どちらも発達障害を抱えています。
その子供達に『メッセージを送りたい』『一欠けらでもいいから何かを感じ取ってほしい』という気持ちから、この作品が生まれました。
初作品なので、まだまだ未熟ですが、これからも発達障害について学びながら作品を生み出していきたいと思っています。
出会い
雨がしとしと降っている。
公園の周りの草木は雨粒の衝撃に耐えるように、地面に向かい垂れ下がりそうになっては揺れながら本来の位置に戻ろうとする動きを繰り返している。
空はどんよりと曇っていて、地上の景色は薄暗くぼんやりとしている。
(いつになったら迎えに来てくれるのだろう?)
かなり使い古された木のベンチの下で、やはり使い古されたオモチャのロボットは薄暗い世界の中で考えている。
年季の入ったベンチは、そのうち修理されるなりして新しく生まれ変わることができるだろうが、オモチャのロボットがそうなれる可能性はとても低い。
木の板で組み合わされているベンチは板と板の間に隙間があり、その隙間から雨粒が地面を濡らしていく。
その隙間の真下にロボットは存在しており、何回も何回も雨粒が当たっては粒は更に細かく分けられて、地面に落ちていく。
(もしかして忘れられたのかな?)
長い時間そうしていると不安な気持ちも生まれてくる。
ロボットが公園で過ごすようになった頃は、木々の葉は緑色で統一されていたが、その葉は赤や黄色と様々な色に変化していくことを知った。
それくらい長い時間を、この公園で過ごしていた。
公園で馴染みの顔になった野良猫は、寒さからなのか姿を見せない。
遊具のどこかで雨宿りして身体を丸くさせているのだろうか。
気まぐれにロボットを転がして、遊んで飽きたら何処かへ行ってしまう野良猫を、思い出して不満に思う。
(どうせなら、雨が当たらない場所へ、転がしてくれれば良かったのに……)
オモチャだから寒さは感じないが、雨粒が身体に当たる衝撃は、気が散って落ち着かない。
ロボットがこの状態から解放されたのは、夜半過ぎだった。
翌日は朝から青空になり、遠くにある遊具がハッキリと姿を見せるようになった。
横たわったロボットの真上に居座っているベンチは、少しずつ色が変っていき、乾いていくのが分かる。
ロボットと遊具の間には広い運動場があり、そこでは朝からお年寄り達が集まり、賑やかにゲートボールを楽しんでいた。
(ケンちゃんが公園にサッカーボールを持って遊びに行こうとすると、お母さんにダメって注意されてたのに、どうしてあの人達のボール遊びは怒られないんだろう)
ゲートボールを楽しんでいるお年寄りを見るたびに、ロボットはそう思う。
ケンちゃんとは、ロボットといつも一緒にいた、七歳の男の子だ。
初めてロボットを手にした時のケンちゃんは、とても嬉しそうに、両腕に力を入れて抱きしめてた。
それからは、ケンちゃんのオモチャ箱の中が、ロボットの家になった。
時々、箱の中から出しては、ロボットの背中のスイッチを入れる。
すると、目を光らせウィーンウィーンと高い音を鳴らしながら、ゆっくりと前へ歩いていく。
その様子を嬉しそうに眺めて、満足するまで遊んでから、オモチャ箱に片付けられる。たまに片付け忘れてることに気づいたケンちゃんのお母さんが、代わりに箱に片付けることもあった。
気が付けば、いつも箱の一番上を、ロボットが占領していた。そして、その場所は、他のオモチャ達に対する優越感を、抱かせてくれていた。
公園とか家から近い範囲なら、ロボットも一緒に連れて行ってもらっていた。
いつもオモチャ箱とケンちゃんの遊び部屋しか知らないロボットにとっては、とても楽しみな時間だった。
遊びに夢中になる前に、ベンチの上や棚の上にロボットを置いていき、遊びの時間が終わると、いつもケンちゃんはロボットを持って帰宅していた。
たまに忘れて帰ることがあっても、夜になる前に取りに行っていた。
施設が閉まっていた時は、施設の職員が落し物として保管してくれており、何日か経っていたとしても、ケンちゃんは必ず取りに行っていた。
いつもそうだったこともあり、ロボットはどこかで安心していた。
今回の公園にしてもそうだ。
いつか迎えに来てくれると、ロボットは安心していた。
でも何か月も経ってくると、さすがに不安になってくる。
もしかしたら捨てられたのかも……という思いと、ケンちゃんが捨てるわけがない……という思いの葛藤を、繰り返す日々が続いていた。
その間にも、野良猫に突かれ転がされることを繰り返され、身体はドンドン汚れて、みすぼらしくなっていく。
ロボットは、自分で身体を動かすことはできないので分からなかったが、ある時、野良猫が動かしたはずみで腕が上がり、自分の薄汚れた腕が、視界に入ったことがあった。
その時に初めて、自分が泥や砂にまみれて、汚れていることを知った。
ボロボロの身体はこれ以上見たくないので、あえて考えないようにする癖が、自然と身についていた。
ゲートボールの時間が終わったみたいで、お年寄り達もいなくなり、公園の中は再び静かな空間になった。
青空が広がった今日みたいな日なら、小さな子供を連れたお母さんが何組か遊びにくるのだが、前日の雨の名残のせいか、誰も姿を見せてはいなかった。
来なくて正解だろう。遊具や砂場は乾ききってはいないし、陽の当たらない場所には水たまりが残っている。
「待ってよ!」
男の子の声をきっかけに、バタバタと何人かの走る靴音が聞こえた。
「早く来いよ!」
先に公園に着いた、黒いランドセルを背負った男の子達が、後から遅れてきている子に向かって呼びかけた。
「ちょっと公園で遊んで行こうぜ」
公園の入り口に、先に着いている子供達の中の一人が、周りに提案した。
周りの子供達は「いいよ!」と同意して、盛り上がっていた。
後から走ってきた男の子が、追いついたのを確認して、子供達は公園に入った。
一人の子が公園に入って、左横にある木製のベンチを見た。
「まだ完全に乾いてないよ」
その子は、ランドセルを置こうとベンチを確認して、まだ湿っていることを周りの子供達に伝えた。
「少しくらいなら大丈夫だって!」
公園遊びを提案した子が、ベンチの表面を見て、遠慮なくランドセルを置いた。
他の子供達も、それを見て次々とベンチに、ランドセルや手提げかばんを置き始める。
最初にベンチを確認した子は、次々とベンチに荷物を置いていく友達を見て、渋々という感じでベンチを触って確認し、一番被害が少なそうな場所を選んで置いた。
そして、最後にランドセルを置こうとした子は、先ほど遅れて公園に着いた子だった。
その時に、ふと、ベンチの板と板の隙間から、地面に横たわっているロボットのオモチャを見つけた。
気になって、ベンチの下に手を伸ばして、ロボットを拾い上げた。
「なんだよ、それ! きったねぇ!」
拾い上げた子の手の中にある、ロボットの存在にいち早く気付いた子が、眉をしかめてそう言った。
「誰かの忘れ物なんじゃない?」
眉をしかめている子の、左横にいる子が言った。
「忘れ物? そんなことあるかよ! 見てみろよ、ボロボロじゃねぇか! きっと捨てられたんだよ」
左横にいた子に、眉をしかめた子が反論する。
左横の子は、もう一度ロボットに視線を向けると、その反論を認めたらしく何も言わなくなった。
「おーい、なにやってんだよ! 早く鬼ごっこしようぜ! 時間がなくなっちゃうよ!」
遊ぼうと提案した子は、既にスタンバイ状態で広い運動場に立ち、仲間に向かって叫んだ。
何をして遊ぶかも、他の子達がベンチの周りにいる間に、何故か決まっていた。
どうやら、その子がこの仲良しグループのリーダー格らしく、他の子供達もリーダー格の発言に対して、意見する子は誰もいなかった。
ベンチの周りにいた子供達は、急いでリーダーの近くに駈け出して行く。
ロボットを手に持っていた子は、慌てて自分の手提げかばんの中にロボットを押し込んで、遅れないようにリーダーの近くに駈け出した。
五人の子供達は、賑やかに鬼ごっこを楽しんでいた。
その声を聞きながら、手提げかばんに押し込まれたロボットは、さっきの子供達のやり取りを思い出していた。
こんな汚れた身体だと、捨てられたって言われても仕方ないのか……
今まで自分で認めたくないと突っ張ってきたことを、子供達にハッキリと言われて、ロボットは不安に襲われていた。
そんなことを考えていると、身体の中心がギューッと締め付けられるような苦しさを感じる。
なんだろう? この感じ……
ロボットは、今まで感じたことのない苦しさに戸惑っていた。
鬼ごっこ遊びに満足した子供達は、息を弾ませながらトボトボと歩いて、荷物が置かれてあるベンチに向かった。
その足取りは重く、ベンチまで軽快に向かうような体力の残っている子は、誰一人としていなかった。
ベンチに辿り着くと、各自のランドセルや手提げかばんを手に持ち、帰り支度を始めた。
この時には、手提げかばんに入れた子を除いた子供達は、ベンチの下にあったロボットの存在を忘れていた。
公園を出て、途中で方向が違う子が出てくると、「じゃあな」「じゃあね」と声を掛け合いながら別れて行く。
その光景は何度か繰り返され、やがてロボットを手提げかばんに押し込んだ子とリーダー格の子の二人だけになった。
「そういえば、鬼ごっこする前にベンチでみんなで話したりしてなかなか来なかったけど、何してたんだよ?」
リーダー格の子が、ロボットを手提げかばんに入れた子に聞いた。
「あ……別に、たいしたことじゃないよ」
手提げかばんの子は、咄嗟にそう言って誤魔化した。
「なんだよ~。そう言われると、余計に気になるじゃねぇかよ~」
リーダー格の子は、口を尖らせて不満そうな顔をした。
「いや……。ほら、ベンチが濡れてたでしょ? みんな、濡れてない所を探して、場所取りしてたんだよ」
手提げかばんの子の説明は、少しだけ当たっていた。
濡れてない所を探してた子は確かにいたけど、みんなではなかった。
「あ、そういうこと……。なんだ、ホントに、たいしたことじゃなかったな」
リーダー格の子は、そう言って、カカカ……と笑った。
納得したリーダー格の子を見て、手提げかばんの子はホッとした。
正直に話すことに抵抗があった。これ以上、公園から持ってきたロボットを見せて、「汚ね―!」て反応されるのが嫌だったからだ。
「なんで、こんなの持って帰ろうと思ったんだよ?」て聞かれることも、なんとなく予想できたし、説明するのも面倒くさかった。
やがて、ロボットを手提げかばんに押し込んだ子の家が見えてきた。
ライトベージュの外壁に包まれた落ち着いた感じの家が、夕陽に照らされて少し赤みを帯びているように見える。
もう何度もリーダー格の子と一緒に帰ったことがあるので、その家が手提げかばんの子の家だということを、リーダー格の子は知っていた。
「じゃあな」
リーダー格の子が手を振り、手提げかばんの子が手を振り返した。
リーダー格の子の姿が見えなくなるのを確認して、手提げかばんの子は家の中に入った。
「ただいま~」
玄関先で、家の奥に向かって声をかけた。
その声に反応して、家の奥からパタパタと軽い足音を鳴らしながら、その子のお母さんが出てきた。
「おかえり」
お母さんは、優しい笑顔で子供を迎えた。
そんなお母さんを見ながら、その子は何やらもぞもぞと落ち着かない様子を見せた。
「なあに? テストの点でも悪かったの?」
いつもとは違う様子に気付いて、お母さんが背負っているランドセルに目を向ける。
ちょっとの変化も見逃さないわよ!と言わんばかりのお母さんの言葉に、その子はドキッとした。
「……あのね……公園でね……気になってね……持って帰ったんだけどね……」
その子は、弱弱しい声で、話を切り出し始めた。
時々、視線を手提げかばんに落としながら話す態度を見て、お母さんは手提げかばんを取り上げた。
かばんを広げて目に入ったのは、今までたくさんの砂や泥を被ってきたのであろうと思われる、汚れたロボットだった。
「なに、これ!」
予想通りのお母さんの反応に、その子は負けないように先程とは違い、声を強める。
「ベンチの下に落ちてたんだよ。汚れてるけど拭けばキレイになるよ。ぼくの部屋に置いてもいいでしょ?」
お母さんは子供の言葉を聞いて、その子の目線に合わせるために腰を落とした。
お母さんは反対なんだ……と、その子は察した。
いつもお母さんは説得しようとする時に、必ずと言っていいほど、このように子供の身長に合わせるように腰を落として、目線を合わせてくる。
「シンちゃん……公園にあったんでしょ? もし、誰かの忘れ物だったら? 今頃、持ち主の子か、その子の親が探しに来て困ってるかもしれないよ」
お母さんは内心、うまく言い聞かせることができた、と思っていた。
本当に気に入って持って帰ったとしても、それが人の物で勝手に持ち出したと気づけば、さすがにシンちゃんも悪いことだと思うだろう。
お母さんは、シンちゃんがそのロボットのオモチャを大事にし続けるかどうか疑問を感じていたし、結果ゴミになってしまったということを想像すると、迷惑この上なかった。
「でもね、これだけ汚れてるんだよ。ずっと取りに来なかったってことは、持ち主だった子は忘れてるよね?」
その反論は、公園での友達同士のやりとりを、再現しただけだった。
しかし、そのことを知らないお母さんは、その的を得たシンちゃんの返事に、次の新たな展開に持っていく考えが浮かばなかった。
お母さんは説得を諦めたというサインに、深い溜息を一つついた。
「わかった。汚れているのは自分でキレイにしてね。お母さんは手伝わないからね」
「うん!」
シンちゃんは早速、雑巾が置いてある脱衣所に、足早に向かって行った。
その後姿を見ながら、飽きてしまった様子が垣間見えた時にはコッソリと処分しよう、とお母さんは思った。
お母さんに、渋々でも納得してもらえたことが嬉しかった。
脱衣所の棚の上のバケツに掛けられている、乾いた雑巾を見つけて、シンちゃんは踵を浮かせて背伸びをしながら手に取った。
ロボットを、ゆっくり一回転させて、損傷の具合を確認していると、背中にスイッチがあることに気が付いた。
その下には、電池を入れる場所があった。
このロボットは電池を入れると動くんだ……と思うと、シンちゃんの喜びは更に増していった。
洗面台の蛇口をひねり水を出し、雑巾を濡らした。
固く絞った雑巾で、ロボットの身体の汚れを、ゴシゴシと落としていく。
後ろにスイッチがあることが分かって良かった……とシンちゃんは、手を動かしながら思った。
気付かなかったら、水道でジャージャー勢いよく、汚れを洗い流していくところだった。
電池で動くものは水に弱いってことを、幼稚園に通っていた時にお父さんに教えてもらった。
大切にしていた飛行機のオモチャを持ったまま外出して、うっかり水たまりに落として動かなくなってしまった苦い経験があった。
表半分を拭いて土臭い汚れを落として、再び雑巾を洗い固く絞った。
ロボットの身体を裏返して、またゴシゴシと拭き始めた。
あ、でもこのロボットは公園にずっと置いてあったんだ……もしかしたら雨に濡れて動かなくなってるかもしれない……
そのことに気付いて、シンちゃんの手がピタリと止まった。
汚れが落ちたロボットは、新品とまではいかないけれど、ほぼ鮮やかなメタリックブルーに包まれて、手足がグレー色で、ところどころに入っている模様は黒で統一されている。
全体的に丸みを帯びた形は愛らしく、でもただ愛らしいというだけでなく、どことなく格好良さも残していた。
色使いといい、全体の形といい、シンちゃんの好みだった。
改めてロボットを眺めて、その気持ちを確認すると、動くかどうかなんてたいした問題ではなくなっていた。
止めていた手を再び動かし始め、汚れが落ちた時のロボットの姿を想像しながら、夢中で作業を続けた。
汚れが落ちて、随分キレイになったロボットを、二階にある自分の部屋へ持って上がった。
ランドセルを、机の横にある背の低い収納ボックスの上に置いてから、ロボットの動作確認の為に、ベージュとブラウンの二色が組み合わされたジョイントマットの床に、ロボットを立たせてみた。
スイッチを入れてみる。しかし、何も変わらない。
やっぱり……、と思って諦めていると、ふとスイッチの下の電池を入れる四角い切れ目に目がいった。
電池は、どうなってるんだろう……
電池ボックスの突起に、親指をひっかけて押し上げてみた。
中は電池が入っておらず、空っぽの状態だった。
電池を入れたら動くのかも……と思い、階段を下りて、夕食の準備で台所にいるお母さんのもとへ向かった。
「お母さん、電池が欲しいんだけど……」
冷蔵庫から野菜を取り出しそうとしていた、お母さんの手が止まった。
「単三? 単四?」
シンちゃんは、お母さんの言葉が何を表してるのか、さっぱり分からなかった。
「なに? それ」
「電池の大きさよ。それが分からないと用意できないんだけど……」
電池には色々な大きさがあるのは知ってたけど、ロボットの電池の大きさは説明できなかった。
「ちょっと待ってて!」
そう言うと、バタバタと階段を駆け上がり、自分の部屋からロボットを持ってきた。
シンちゃんは持ってきたロボットを、お母さんに差し出した。
お母さんは電池ポケットを見ながら、リビングへと移動した。
リビングのテレビが置かれてある茶色いコーナーの引き出しから、電池のサイズを確認し始めた。
そして、合うサイズの電池を二本、ロボットの電池ボックスに入れていく。
「これで大丈夫だと思うよ」
お母さんは、シンちゃんにロボットを渡した。
「それにしてもキレイになったわね。持って帰ってきた時と別物みたい」
ニッコリと笑って、お母さんは夕食の準備の続きの為に、台所へ戻って行った。
お母さんに褒められて、シンちゃんは誇らしい気持ちになった。
自分の部屋にまた戻り、ロボットのスイッチを入れてみた。ロボットは、やはり動かなかった。
シンちゃんは少しがっかりしたけど、元々デザインが気に入ってたので、すぐに気持ちは切り替えられた。
それよりも、頑張って拭いたことでキレイになったとお母さんに褒められたことが、なによりも嬉しかった。
夕食の時間になり、シンちゃんはロボットの中に入れてた電池を持って、一階に下りて行った。
人の気配が無くなったシンちゃんの部屋を、ロボットは見渡せる範囲でキョロキョロと眺めていた。
灯りが消されたこの部屋の中は、はっきりと識別することはできないが、前にロボットの持ち主だったケンちゃんも同じ小学生だったせいか、どことなく懐かしい雰囲気があった。
ケンちゃんの部屋と比べると、机や本棚やベッドの周りは物が散乱することなく、全体的にさっぱりしていた。
汚れていたロボットを拭いている時も丁寧にモクモクと作業していたが、この部屋を見てもシンちゃんは、割と几帳面な性格だと窺える。
ロボットは、シンちゃんに拾ってもらったこと、自分でも見たくないくらい汚れていた身体をキレイにしてくれたことが、とても嬉しかった。
そのことを思い返すと、身体全体がフワフワと軽く、公園の周りを自由に飛び回っていた鳥のように空を飛べるかもしれない……、と思えるような不思議な感覚に浸っていた。
『よかったね』
突然、頭の中で聞いたこともない柔らかな声が聞こえて、ロボットは驚いた。
見渡せる限りに目を凝らして辺りを見ると、左横に置かれてある本棚の近くにボワーッと浮かんでいる、光の円球が存在した。
周りが薄暗いおかげで、光を放つ円球の存在は迷うことなく確認できるが、日中だと簡単に見つけられないかもしれないと思うくらい、その光は淡いものだった。
その光は、街灯の光が漏れて見えている訳ではなく、円球自身が光を生み出していた。その証拠に、円球の光は強弱を付けて動いていた。
ロボットは初めて見る、幻想的な雰囲気を醸し出す光の存在に、目が奪われていた。
すると、再び声が、頭の中で響いてきた。
『そんなに見つめられると、照れるんだけど……』
その発言で、声の主が、どこにいるのかが分かった。
でも、声は光の円球から聞こえてくるわけではなく、直接、頭の中に響いてくるのだ。
その現象も初めてで、ロボットはひどく狼狽していた。
『君が私と会うのは初めてかな? 私はいつも君を見ているんだけど』
少し寂しそうに、光の円球が言った。
ロボットは過去の記憶を辿ってみたが、この光の円球を見たという、記憶の欠片さえも見えてこなかった。
光の円球には申し訳ないが、ロボットは会うのは初めてだった。
(初めて……だと思う)
ロボットは、ハッキリと断言できなくて、自信無げにそう呟いた。
『そうか。それは残念だな』
ロボットの呟きに、光の円球が答えた。
(!!!)
ロボットの発する声にならない声に返事が返ってくることは、今までに一度も無かったことだったので、ロボットは驚愕した。
(ボクの言ってることが分かるの?)
『ああ、分かるよ。私の声が君に届いているようにね』
光の円球は、この状態は普通のことだよ、という雰囲気で、いたって冷静に答えた。
『私の名前はゼロ』
続けて、自己紹介を始めた。
ゼロ……
ケンちゃんと一緒に居た頃に、ケンちゃんが算数って勉強をしてる時に聞いたことのある言葉だ、とロボットは思った。
『まず、君には謝らなくてはいけないね。』
初めて会うのに、謝られるような身に覚えがない。ロボットは、ゼロの発言に違和感を覚えた。
『本来、君のようなオモチャという物には感情なんかないんだ。なんていうか……私の気まぐれでね……君に感情を入れてみたんだ』
(感情?)
『簡単に言えば気持ちかな……?』
言い換えられても理解できないロボットは、ただ、ただ、ゼロを見つめていた。
『気持ちってことも分からないみたいだね。なんて説明したらいいのかな?』
分かりやすく説明することを考えている間、朧げな光はゆらゆらと揺れ続けていた。
『たとえば、君はケンちゃんに公園に置いて行かれた。待っても待っても迎えに来てくれない間、君はケンちゃんに忘れられたのでは? て思わなかった?』
(そう……ずっとそう思ってた……)
『それが気持ちなんだよ。もともと、オモチャは気持ちを持っていないから、公園に置いて行かれたとしても、何とも思わないものなんだ。しかし、君は気持ちを持っているから、とても寂しい思いをした。本当に君には悪いことをしてしまったね』
(寂しい? 寂しいってなんだろう?)
『そうか……君は感情の言葉を知らないんだね。ケンちゃんに忘れられたのかも? て思ったときに、身体が重くなったような気がしたり、どこかがキリキリ痛く感じたり、どこかがギューッて締め付けられるような苦しさを感じたりしなかったかい?』
(ああ……そうだ……そんな感じがした……)
『それが寂しいって気持ちを表す言葉なんだよ』
(そうか……ずっとずっと寂しかったんだ……)
ロボットは、公園で過ごしていた日々に、ずっと抱えてた苦しさを理解できた。
『そして君はシンちゃんと出会った。キレイに身体を磨いてもらって、君はここに居られることになった。今は、どんな感じがする?』
ゼロに聞かれて、さっきまで感じていた身体全体がフワフワする感覚を説明した。
『そう……それが嬉しいって気持ちを表す言葉なんだよ』
(そうか……ボクは今、嬉しいんだ……)
『身体全体が温かく感じるような時もあるかもしれない。それも嬉しいって感じている時なんだ。感じ方も色々で……』
その後も、ゼロはいろんな感情の言葉を、ロボットに教え続けた。
一つ一つ理解していくたびに、ロボットは今まで背負っていた重石を外していくように、身体が軽くなっていくのを感じていた。
ゼロの長い講習が終わり、『またね』と言って、ゼロはスーッと消えていった。
朧げな光は、いつの間にか部屋の周りを照らす、照明代わりになっていたことに気付いた。
ゼロが消えると、ロボットは再び暗闇に包まれた。暗闇に目が慣れるまでに少し時間がかかった。
――カチャ
部屋のドアノブを、回す音がした。
夕食の後に、家族団らんを過ごしたシンちゃんが、部屋に帰ってきた。
部屋の電気を付けて、手に持っていたノート数冊を、ランドセルの中へ入れた。
下のリビングで宿題をして、寝る前に持って上がるのが、シンちゃんの日課になっていた。
宿題はリビングのテーブルの上でするのが一番落ち着くし、分からない時はすぐにお母さんに教えてもらうことができるのが、魅力だった。
小学校に入ってからもずっと、シンちゃんの勉強机は、教科書や勉強道具やプライベートな物を収める収納としての役割はあるものの、机としての役割は果たしてなかった。
明日の用意を済ませると、シンちゃんは机の右端の奥側に置いたロボットに近づいた。
ロボットの前に来ると膝を折り、視線の高さを合わせた。
「ずっと君の名前を考えてたんだ。アレンはどうかな?」
シンちゃんはロボットに向かって話しかける。
「本に出てくる男の子なんだけど、かっこいいんだ」
「君は今日からアレンだよ。よろしく」
どうかな? と聞いたものの、自分の中で完結していた。
ニッコリと笑顔をアレンに向けたシンちゃんは、傍から見たら独り言を展開してる感じだった。
名前の報告が終わり満足したシンちゃんは、電気を豆電球の明るさに変えて、ベッドに入った。
寝つきが良いせいか、シンちゃんの寝息が聞こえてくるまでに、そんなに時間は掛からなかった。
(アレン……ボクの名前はアレン……)
アレンは、何度も自分に付けられた名前を繰り返していた。
名前があるだけで、特別な気がして、身体全体が温かくなった感じがした。
アレンは、この感覚が何であるか知っていた。
(今、ボクは嬉しいんだ……)
願い事
アレンの定位置が、シンちゃんの机の右端の奥側と決まってから、約半月が過ぎようとしていた。
朝起きてすぐに「おはよう」と声をかけ、学校から帰宅してランドセルを持って部屋へ入ると「ただいま」と声をかけ、夕食後の家族団らんを満喫して部屋に戻るとランドセルに明日の準備をしてから「おやすみ」とアレンに声をかける。
それが、ほぼ定番の日課になっていた。
アレンは、こんな風に存在を認められる行為は、初めてだった。
いつの間にかアレンにとって、シンちゃんは特別な存在になっていた。
ケンちゃんから受けた傷は、すっかり回復しているようにアレンは感じていた。
いつもは、時計が午後三時を過ぎた頃に学校から帰ってくるのに、今日は学校側の都合で、いつもより二時間早くシンちゃんは帰ってきた。
「ただいま」といつものようにアレンに向かって、今帰ってきたよのサイン(を送る。
だけど、今日のシンちゃんの動きは、いつもとは違い、なにやらソワソワしていた。
シンちゃんはランドセルを定位置に置くと、時計をチラチラ見ながら、お出かけ用の黒い生地にグレーのサイドラインが入ったリュックに、ゲーム機を入れたりしていた。
きっと予定より早く帰宅できたから、友達と遊ぶ約束をしたのだろう。
急ぎ気味なのに、いつもの帰宅したときのサインを忘れずにしてくれるシンちゃんが、アレンは嬉しかった。
「今日は一緒に出掛けるよ」とアレンを手に持つと、シンちゃんはリュックの中に入れた。
(え? ボクも一緒なの?)
驚いてるアレンに気付くはずもなく、シンちゃんは階段をドンドンドンと駆け下りて、お母さんに「行ってきま~す」と声をかけてから外へ向かった。
シンちゃんの速度は落ちることなく、足早に目的地を目指していた。
友達と待ち合わせていた公園に辿り着くと、既に仲良しグループのうちの二人が公園の入り口で話をしていた。その中にリーダー格の子がいた。
「よう!」
リーダー格の子が、手を挙げてシンちゃんを迎えた。
「まだあと二人来てないんだね」
シンちゃんは、そう言いながらリュックを入り口近くのベンチに置いて、リュックの中のアレンを取り出した。
「あれ? そのロボット……」
シンちゃんが取り出したアレンに、やはり前回も一番早くに反応した子が気付いた。
その子は普段から周りの動きをよく見ているのだろう。口は少々悪いが意外と神経が細かいのかもしれない。
「そう、ベンチの下にあったロボットだよ。気になったんで持って帰ったんだ」
前回、汚いとか散々な言われようだったこともあり、照れくさそうにシンちゃんが答えた。
よく気が付く子とリーダー格の二人が、シンちゃんの持っているロボットを興味深そうに眺めまわした。
「へぇ……キレイになったじゃん! さすがに新品とはいかないけどさ」
初めてロボットを見た時に、ゴミを見るかのように眉をしかめて不快な表情をしていた子が、今は、笑みを湛えた表情で、感心しながら見ている。
友達にも評価されて、シンちゃんは誇らしかった。
その二人のやりとりを、横で見ていたリーダー格の子は、なんのことだかさっぱり分からなかった。
「なんだよ!俺、何にも知らねぇよ。説明しろよ」
話に加われないリーダー格は、すっかりへそを曲げていた。
今までのいきさつをリーダー格に説明すると、リーダー格はシンちゃんが持っていたロボットをサッと取り上げ、回転させながら眺めた。
ふうん……と鼻から息を抜きながら言うと、シンちゃんの手にロボットを戻した。
「ボロボロの状態で落ちてたんだろ? 知らないと分かんねぇな。このロボットは、シンちゃんにとって大事な物なんだな」
目を細めながら優しい笑顔でそう言ったかと思うと、口を横に二カッと広げて、シンちゃんの顔に向かって、首だけニュッと近づけた。
「ま、俺の好みじゃないけどな」
リーダー格が意地悪っぽく言い終わる頃に、残りのメンバーも公園に走りながら入ってきた。
「お! 全員集まったな! じゃあ、いつもの鬼ごっこしようぜ!」
やはり、リーダー格の提案に、誰も反対する子はいなかった。
みんなリーダー格がお気に入りの鬼ごっこに反対する勇気がないのか、単にこの仲良しグループが鬼ごっこが大好きなのか、アレンは不思議に思いながら、鬼ごっこを始める前に置かれたベンチから眺めていた。
十二月に入ったばかりだというのに、気温は十五度に届こうという温かさだった。
あと三週間もすればクリスマスだというのに、季節感も何もあったもんじゃなかった。
クリスマスといえば、雪が降る中をサンタクロースが、トナカイが先導するソリに乗って夜空を駆け回るイメージだが、それは現実とはかけ離れた光景に思える。
それくらい、毎年この時期は、冬というよりは秋の終わりを感じさせるような、温かさが残っていた。
シンちゃんを含めた、仲良しグループの子供達は、ホワイトクリスマスを経験した記憶がない。
おそらく今年も、ホワイトクリスマスを味わうことはないだろう。
その暖かい日に、運動場で楽しそうに走り回っているシンちゃん達を見てると、なぜか徐々に不安が大きくなってきた。
さっきまで、シンちゃんと友達のやりとりに気を取られていたけど、冷静になってみると、ここはアレンが何か月も惨めな想いで過ごしてきた、公園でありベンチであった。
もうすっかり終わったことだと思ってたのに、ここに居ると平常心を保つことが難しく、身体中がざわざわと騒ぎ出していた。
(きっと大丈夫……シンちゃんは置いて行ったりしない……)
一気に加速して膨らもうとしている、不安という名の風船に対し、少しずつ空気を抜いていく魔法の呪文であるかのように、アレンは何度も何度も繰り返し、自分に言い聞かせていた。
「ニャー……」
とても聞き覚えのある鳴き声に気を取られた瞬間、魔法の呪文が途切れた。
鳴き声がした方向に目を向けると、ブランコの柵の側に立ちはだかっている木の幹の陰から、野良猫が顔をそっと覗かせた。
その野良猫は、いつもアレンを退屈しのぎの遊具として、雑に扱っていた猫だった。
猫はアレンの存在に気付いていたみたいで、ゆっくりとした足取りで、ベンチに近づいてきた。
(来るな! 来るな! 来るな!)
アレンは、猫が一歩、一歩と、前足を踏み出すたびに叫んだ。
アレンの中の風船が、制御不能になり膨らみ続ける。
このまま膨らみ続けると、風船は中の圧力に耐えきれずに、破裂してしまうかもしれない。
猫はアレンから目を逸らすことなく、近づいてくる。明らかに、狙いを定めた姿勢だった。
いつの間にか、猫とアレンの距離は、1メートルくらいに縮まっていた。
そのくらいの距離に縮まると、猫は歩みを止めて、動かなくなった。
でも、決して視線は外さない。
猫が視線を外さないので、アレンは視線を外せない。
いつ、飛びかかってくるか分からない……と思うと、緊張状態から解放されることはなかった。
その姿勢から、どのくらいの時間が経ったのだろうか。
ほんの五分くらいの僅かな時間だとしても、アレンには先の見えない、気が遠くなりそうな時間に思えた。
その均衡が崩れたのは、猫が頭から背中までの上半身を、地面に近づけた姿勢になった時だった。
(もうダメだ……)
アレンが諦めかけた時、アレンの身体がフワッと浮き上がった。
何が起こったのか分からずに、初めて猫から視線を外すと、シンちゃんの顔が真上にあった。
「ちょっと、喉が渇いたから休憩するね!」
シンちゃんは振り返り、運動場にいた他の子達に聞こえるように、大きな声で言った。
リュックから水筒を取り出すために、アレンを一旦ベンチに再び置いたが、ベンチと猫の間にシンちゃんが立ち塞がっていたので、アレンから猫の姿は見えなかった。
シンちゃんは、手早くリュックから水筒を出して、ゴクゴクと音を立てて勢いよく、水筒の中の麦茶を飲んだ。
「俺も休憩~」
リーダー格が、シンちゃんが水分補給しているのを見て羨ましくなったのか、ベンチに走ってきた。
他の子供達も釣られて、ベンチの周りに集まってきた。
集まってきた友達が荷物を取りやすいように、シンちゃんが立ち位置をずらした。
ずれたおかげで、アレンの視界が変り、さっきまで立っていた猫の方角が見えるようになったが、そこには猫の存在はなかった。
アレンは、子供達の隙間から、視界が利く範囲を見渡したが、どこにも猫の姿は見当たらなかった。
カバンやリュックから水筒を出して、子供達が勢いよく水分を取っている音が聞こえてきた。
その音が止んだ頃には、鬼ごっこは飽きたのか、シンちゃん達は、次の遊びを考えて話し始めた。
「もう走るのは疲れたから、走らないのにしようよ」
「ぼくも走らない遊びが良い!」
「じゃあ、ブランコ鬼ごっこでもする?」
「また鬼ごっこかよ~」
アレンは、自分の上で展開されている、子供達の話を聞いていた。
シンちゃん達は、話し合いのすえ、次はおとなしくゲーム機で遊ぶことに決まった。
グループの何人かが、体力を使う遊びを嫌がったためだった。
グループ全員が、ゲーム機を用意してきていたので、その提案はすんなりと決まった。
各自、カバンやリュックからゲーム機を取り出し始めた。
シンちゃんはアレンを持ち上げると、「危なかったね」と、周りに聞こえないくらいの声でアレンに囁いた。
そして、アレンをリュックにしまい込み、ゲーム機を取り出した。
(シンちゃんは、猫に狙われていることに気付いてたんだ……)
アレンは、黒いリュックの中で驚いた。
「何のソフトを持ってきたんだよ?」
シンちゃんの友達の声が聞こえてきた。
その声をきっかけに、またグループが賑やかに、話に花を咲かせ始めた。
張り詰めた緊張が続き、その疲れが出たのか、リュックの中でアレンは放心状態になっていた。
いつの間にか、アレンの中の不安という名の風船は、跡形もなく消えていた。
外は快晴のせいか、リュックの中に陽の光が漏れ、アレンの周りが暗闇に包まれることはなかった。
その日の夜、いつものように宿題の材料を手に持って、シンちゃんは自分の部屋に入った。
アレンは帰宅してすぐにリュックから取り出されて、いつもの定位置に置かれていた。
シンちゃんは、翌日の学校の支度を済ますと、アレンのもとへ移動した。
「今日は連れてって、ごめんね。どうしても友達にアレンを見せたかったんだ。前に汚い物扱いしてたからさ……。みんなの驚いた顔が嬉しかったよ」
その状況を思い出しているのか、シンちゃんは本当に嬉しそうな、満足気な表情をしていた。
それはアレンも同じ気持ちだった。
初めて公園に居たアレンを見る目は、誰もが不快そうな表情で、明らかに拒絶反応を示していて、大きく傷ついていた。
それが今日の公園での、あのシンちゃんの友達達の自分を見る時の笑顔……自分を受け入れてくれる反応は、とても久しぶりでとても嬉しかった。
久しぶりという表現だと軽すぎる。忘れかけていたことを思い出させてくれたぐらいの、長い年月が経っていたように感じていた。
「あの猫、公園に、いつもいるよね。まさかアレンを狙うとは思わなかったよ……。もう、公園には連れて行かない……。気を付けるね」
そう言って、シンちゃんの両手は、アレンの両腕を包み込んだ。
その体重をかけられた両手からは、シンちゃんが迂闊に公園に連れて行ってしまったことを反省しているのが、伝わってくるようだった。
シンちゃんは、部屋を薄暗くしてからベッドに入った。
シンちゃんの寝つきの良さは変わらず、すこし時間が経過しただけで、ベッドから寝息が聞こえてきた。
アレンは、シンちゃんに大事にされているのが分かり、とても嬉しかった。
(ケンちゃんみたいに、ボクを忘れたりはしない……。シンちゃんは、大丈夫だ……)
今は心の底から、そう感じることができた。
『優しい子に出会えて良かったね』
頭の中に柔らかい声が入り込んできた。
ゼロだ。
部屋の中を見回すと、初めて会った時と同じ、左側に置かれている本棚の近くで、朧げな光の円球が浮かんでいた。
(うん……。良かった……)
ゼロの言葉を噛みしめるように、ゆっくりとアレンは答えた。
『ずっと、言い忘れてたことがあってね。その……私の気まぐれで君に……いや、アレンに感情を入れてしまったお詫びに……願い事を叶えてあげるよ』
ゼロは、『君』という呼び方を変えて、『アレン』と言い直した。
約半月の間、シンちゃんが学校に行っている時間のほぼ毎日、アレンの為に色々な事を教えるという目的で、ゼロはアレンに会っていた。
でもずっと、ゼロは照れが入ってしまうのか『アレン』と呼ぶタイミングを逃し続けていた。
ゼロは、ようやく言えたことをアレンに笑われるかな?と思ったが、アレンはゼロが発言した内容に頭が集中しているようで、何の反応も示さなかった。
(願い事?)
『そう、願い事』
(そんなことを急に言われても……)
簡単に思いつくわけがなく、アレンは黙り込んだ。
暫く沈黙が続いたが、これ以上待ってもなかなか答えは出てこないだろうと判断して、ゼロが口火を切った。
『いつでも構わないから、思いついたら私を呼んで。呼んでくれたら、いつでも現れるよ。あ、でも、誰かが居たら落ち着かないから、誰もいない時にしてね』
ゼロの言葉が、不思議でたまらなかった。
誰もいない時が良いなら、なんで今現れてるんだろう? 今は、横に、シンちゃんが居るというのに……と思いながら、アレンは視線をシンちゃんに向けた。
アレンの考えてることをすぐに察して、ゼロが応えた。
『シンちゃんは、寝てるでしょ? 相手の意識がない時なら、別に構わないよ』
ゼロは、自分の存在を、他の誰かに気付かれさえしなければ、どういうシチュエーションでも構わないと考えていた。
(……そうなんだね。分かった……)
アレンは快く、了解! という気持ちにはなれず、歯切れの悪い返事をした。
回りくどい、分かりにくい言い方で誤解をさせたゼロに、不満を感じていたからだ。
『ま、そういうことで、よろしく』
アレンの返事を気にしてないようで、ゼロの口調は軽快だった。
やがて、ゼロの存在を現す朧げな光は、更に弱弱しくなり、周りの背景と同化していった。
再び部屋の中は、薄暗い豆電球の灯りを頼りにしないと、辺りが見えない空間になった。
静寂さを取り戻した部屋の中で、相変わらずシンちゃんの静かな寝息だけが聞こえている。
シンちゃんの家の周囲は、戸建て住宅が立ち並ぶ、いわゆる住宅街だった。
駅前や繁華街とは違って、一日を通して落ち着いていた。
日中でも、せいぜい子供の声やカラスの鳴き声が、時折聞こえるくらいだ。だから、夜になると尚更だった。
もし、外で大声で叫ぶ人が現れたら、近隣の住民が、何事か? と慌てて飛び出してくるのではないだろうか。
それくらい静かで、まるで時が止まっているような時間があるのだ。
だからこそ余計に、シンちゃんの寝息は、よく聞こえてきた。
(願い事……ボクの願い事ってなんだろう?)
今まで考えたこともなかったことなので、これだ! という答えは、すぐには出てこなかった。
アレンは、ふと今日の公園での出来事を思い出した。
野良猫に狙われて、ジリジリと近づかれた時は、(来るな!)と思った。でもそれは願い事だったんだろうか?
咄嗟に救いを求める願いは、ゼロが尋ねた願い事とは違うような気がした。
カァー、カァー、カァー……
窓の外では、カラスの鳴き声が聞こえてきた。
ブルルルル……
朝刊を配る、配達用のバイクの音も聞こえてくる。
いつの間にか、そんな時間になっていた。
カラスは、いつもシンちゃんのような人間よりも、ずっと早起きだ。カラスは、外が暗くなると同時に寝てしまうのだろうか。
時が動き出した音に、アレンはそんなことを思った。
窓の外は、まだ暗いのか、朝焼けに染まっているのかは、遮光カーテンによって分からない。
部屋の中は、相変わらず豆電球の薄明るさだけが頼りだった。
一晩考えて、アレンの中には、まだぼんやりとだけど、願い事の答えが出ていた。
―― これからもずっとシンちゃんと一緒に居たい ――
あれだけの時間を費やして、導き出した答えは、ただそれだけだった。
でも、それもゼロに伝えていい答えなのか、後から願い事をするなら別の方が良かったと後悔するのか、まだアレンの中では迷いの気持ちがあった。
ゼロは、時間が必要ならいくらでも待つ、と言ってくれた。まだ、決定してしまうのは早いかもしれない。
アレンは、揺るぎない答えが出てくるまで、じっくりと考えることにした。
ピピピ、ピピピ、ピピピ……
シンちゃんのベッドの頭の部分に、小物を置けるスペースがある。
そのスペースに鎮座している、目覚まし時計が鳴り始めた。時計の針は七時を指していた。
ガバッとシンちゃんは上体を起こして振り返り、目覚まし時計のスイッチをオフにした。
もうこの時間になると、薄青色に白いドット模様の遮光カーテンの生地の色が、更に薄い色になっていた。
遮光カーテンからでも向こう側が分かるくらいに、外は陽の光を浴びているのが分かる。今朝は快晴みたいだ。
シンちゃんは、カーテンを開けて、豆電球のスイッチを消した。
寝ているシンちゃんの足先でも届かないくらい、部屋の入り口側のベッドの端に、今日の着替えが置いてあり、シンちゃんはそれを手に取って着替え始めた。
いつも翌日の着替えを、お母さんが用意してくれていた。
着替え終わり、ランドセルを右肩に掛けると、アレンに向かって「おはよう」と声を掛けて部屋を出た。
今朝も、日課の挨拶をシンちゃんは忘れなかった。
アレンも(おはよう)と届かない声を掛けて、シンちゃんを見送った。
『まだ願い事は、決まりそうにないね』
ゼロの声が、頭の中に響いた。
見渡すと、本棚の近くに、光の玉の外側の輪郭だけが、ぼんやりと見えた。朝の光が射しこむ部屋の中では、そこだけしか確認することができなかった。
(決まるまで待ってくれるって言ったよね?)
おそらくアレンの口調は、ゼロには拗ねているように聞こえただろう。
『もちろんだよ。急かすつもりはないよ。そうじゃなくて、言い忘れてたことがあったからね。』
言い忘れてたことって、なんだろう。
願い事の内容に約束事でもあるのだろうか。それとも、願い事を叶えたら、泡となって消えてしまうのだろうか。
アレンは、ケンちゃんの家で、ケンちゃんのお母さんが読み聞かせていた、人魚姫の物語を思い出した。
物語の内容は、もっと細かい事情があるし、願い事も叶っているのか怪しいところだが、アレン独特の人魚姫の物語だと、そういう解釈になっていた。
『アレンって良い名前だね』
言い終わると同時に、ゼロの姿がスーッと消えた。
あれこれ心配していたアレンは、言い忘れを聞いた瞬間(なんだ、そんなことか)と思ってしまった。
でも時間が経ち、落ち着いた状態で思い出すと、それは最高に嬉しい言い忘れだった。
あまりの嬉しさに、アレンはゼロの言葉を、何度も何度も反芻した。
もし表情が分かるなら、間違いなくニヤケた顔になっていただろう。
気付き
「ただいまー!」
シンちゃんの帰宅した挨拶が、階下から聞こえてきた。
その声は、アレンがいる部屋まで届くくらい、大きな明るい声だった。
いつもこんなにハッキリと聞こえることはないのに、とても機嫌が良いのだろう。
快活な声は、聞いてて気持ち良いものだった。
アレンは、明るい表情で部屋に入って「ただいま」と声を掛けられるのを、心待ちにしていた。
しかし、なかなか部屋へ入ってくる気配がない。トントントンと、小気味よく階段を上ってくる音がすることはない。
お母さんとの話が、長くなっているのかもしれない。そういうことがあっても、何ら不思議なことはない。
アレンは、階段を上ってくる音を待ち続けた。
「もう、いいよ! 」
階下から、いきなりシンちゃんの大声が聞こえた。
その声は、先程までの快活な声とは違って、怒りをにじませた声だった。
心待ちにしていたアレンは、動揺した。
何があったんだろう……下で何が起こってるんだろう……
ドン!ドン!ドン!ドン!ドン!
明らかにいつもとは違う、強く踏み鳴らして階段を上ってくる足音が聞こえた。
階段の次には廊下を、大きな音を立てて歩いてくる。
その音が部屋の前で止まると、ガチャと部屋に入ってくるなり、バタン!と勢いよくドアを閉めた。
部屋に入ってきたシンちゃんの顔は、眉間に皺を寄せ、目を細めて、口は真一文字になっていた。
それは、アレンが一緒に暮らすようになって、初めて見る顔だった。
いつもならランドセルは定位置に収めるのに、片手でランドセルを引き剥がすと、床にそのままドスンと落とした。
その後すぐに、左横にあるベッドにドサッと身を投げた。
アレンは、何があったのか心配だったが、シンちゃんの後頭部しか見ることが出来なかった。
例え顔を見ることができたとしても、何かをしてあげることなど出来はしなかった。
その後を追うように、トン、トン、トン……と階段を上る足音が聞こえた。
静かに入ってきたのは、シンちゃんのお母さんだった。
お母さんは、床に仰向けになったランドセル、ベッドに突っ伏してるシンちゃんの姿を見て、重い溜息を吐いた。
「ごめんね。前から約束してたのに……シンちゃんが、とても楽しみにしてたのも、よ―く分かってる」
お母さんが話し始めても、シンちゃんはピクリとも動かなかった。
「ほんと、突然だったのよ。埼玉の伯母さんが入院してて、その伯母さんの手術の日と、シンちゃんと約束してた日が、被るとは思わなかったのよ」
「なんで、お母さんなの? ミヨちゃんが行けばいいのに……」
強い口調ではあったが、階下で聞こえてた叫ぶような強い口調と比べたら、シンちゃんの声は幾分か落ち着いていた。
ミヨちゃんとは、埼玉の伯母さんの一人娘で、シンちゃんと年が一回り以上離れている。
会うとシンちゃんと一緒に遊んでくれる、面倒見の良いお姉さんで、一人っ子のシンちゃんは、本当のお姉ちゃんだったら良いのに……、と何度も思ったことがあった。
そのミヨちゃんが社会に出て働き始めると、忙しい日々を過ごすようになったせいか、シンちゃんと会う機会は、徐々に無くなっていった。
「ミヨちゃんが働いてるのは知ってるでしょ? ミヨちゃん、その日は大事な仕事が入ってダメなのよ。」
ミヨちゃんが小さい頃に、お父さんは病気で亡くなっていた。
シンちゃんは、ミヨちゃんのお父さんを、ミヨちゃんの家に置いてある遺影でしか知らなかった。
「……ミヨちゃんは、仕事とお母さんと、どっちが大事なの? 」
もちろん肉親が大事に決まっているが、仕事に対する責任を認識しているミヨちゃんにとって、それは苦渋の決断だったことを理解するには、十一歳のシンちゃんには難しかった。
だから迷惑を承知の上で、兄弟もいないミヨちゃんは、シンちゃんのお母さんに頼みにきたのだ。
「どっちも大事なの。シンちゃんが大人になったら分かると思うけど……」
分かるもんか! 心の中でシンちゃんは、そう言い返していた。
あれだけ楽しみにしていたのに。一か月も前から約束して、あと何回寝たら……と指折り数えて待ってたのに。
その約束の日まで、あと三日も無い、という所まで来てのキャンセルは、とても残酷だった。
「……手術の日って、別の日にできないの?」
シンちゃんのその言葉に、今度はお母さんが怒り始めた。
「伯母さんは病気なのよ? 命が掛かってるのよ? シンちゃんと約束したディズニーランドは、またいつでも行けるでしょ?」
とても強い口調で責めるお母さんに、シンちゃんの身体がピクッと反応したが、突っ伏したままの姿勢は崩さなかった。
「……シンちゃんが、そんな酷いことを言うとは思わなかった……」
意気消沈した様子で、低くそう言い放つと、お母さんは部屋を出て行った。
部屋を出て行ったのは、背を向けていたシンちゃんでも分かった。
怒りに任せたとはいえ、自分でも酷いことを言ったことは分かっていた。
シンちゃんも、すんなりと諦められない理由があった。
シンちゃんのお父さんの仕事は、とても忙しくて、いつも日が変りそうな時間に帰ってくる。
お休みは平日と日曜日の組み合わせだから、なかなか遠出のお出かけができなかった。
ディズニーランドは、距離にしたら決して遠出には入らない。
でも朝早く出発して、開園前にスタンバイして、閉園近くまでランド内を満喫することを考えたら、立派な一大イベントだった。
お父さんの会社は珍しく、毎年設立記念日は、休みが取れるようになっていた。
でも、部署によっては忙しい時期と重なっていたら、その休みを取れずに出勤する人が何人かいたりする。
たまたま、お父さんの部署は、今年のこの時期は、仕事が落ち着いていた。
たまたま、その設立記念日が土曜日だった。だから、連休が取れるからと、ディズニーランドを計画したのだ。
このたまたまが、今度はいつ訪れるのだろうか。
もうその時には、シンちゃんは小学校を卒業しているかもしれない。
日帰りで行ける東京に住んでいるのに、シンちゃんはディズニーランドは二回しか行ったことがない。
前に行った時は、シンちゃんが四歳の頃で、身長制限で乗れるアトラクションも少なかった。今回は全部制覇するぞ! と意気込んでいたのだ。
そんな忙しいお父さんでも、シンちゃんはお父さんが大好きだった。
休日が合う日曜日は、積極的にシンちゃんの希望を叶えようと努力してくれていた。
その姿勢は、幼いながらも、シンちゃんには伝わっていた。
だから、なかなか遠出できないことで、お父さんを責めたりしない。
友達の、旅行に出掛けた話を聞いて羨ましく思っても、お父さんに文句を言ったりしない。
そんな環境の中にいるお父さんが、ディズニーランドに行こうと誘ってくれた。これは奇跡だった。日頃、不平不満をお父さんに向けない自分へのご褒美だと、シンちゃんは感じていた。
それが、まさか、お母さんから「行けない」という発言が出ることになろうとは、夢にも思いもしなかった。
それだけに、シンちゃんの怒りは収集がつかなかった。仕方ないと分かっていても、怒りの矛先はお母さんに向けられた。
そうしないと、シンちゃんのバランスが取れなくなっていた。
「お母さんなんて、いなくなればいいのに……」
思わず、口を衝いて出た。
ずっと部屋の中で動向を伺っていたアレンは、背中越しに囁くように呟いたシンちゃんの言葉を聞き逃さなかった。
いつもなら寝る少し前くらいに自分の部屋へ帰ってくるのに、今夜のシンちゃんは早い時間に帰ってきた。
お母さんと二人だけの食事は会話が無く、下ですべきことを淡々とこなして上がってきたからだった。
今日は宿題が出なくて良かったと、シンちゃんは思った。
あんなことがあった後で、平然とお母さんと一緒の空間で、宿題なんてする気は起きなかった。
それでも翌日の時間割だけは済ませてから、電気を落としてベッドに入った。
アレンは、帰ってきてから一言も自分に話しかけてくれないことが寂しかった。
こんなことは、シンちゃんと一緒に住むようになってから、一度もなかった。
それだけに、寂しさはより一層、大きく感じられた。
いつもより早い時間なのに、シンちゃんの寝息が聞こえてきた。
帰宅してからの落胆した気持ちを癒すように、身体が休みなさい! というサインを出したのかもしれない。
シンちゃんは、疲れ切っていた。
アレンは、部屋の出入り口に近い、クリーム色の壁の一点をジッと見つめていた。
見つめながら、この部屋で行われた口論の末、お母さんが部屋を出て行った後に呟いたシンちゃんの言葉を、何度も思い出していた。
近所の家で飼われているのか、犬が遠吠えをしている。
シンちゃんの住んでいる小さな世界は、暗闇に包まれると時間が止まり始めていくのに、こんな事は珍しかった。
犬を飼っている家庭が近所にいたんだ、と発見があるくらい、いつもなら時間が止まり始めていくのだ。
だが、壁の一点を見つめ続けているアレンには、そんな犬の鳴き声は全く聞こえてはこなかった。
いつもより早く寝たせいか、目覚まし時計が鳴る音よりも早く、シンちゃんは朝を迎えた。
昨日のことを引きずっているのか、学校へ行く準備の動作は、のろのろとしていた。
一日の始まりだとは思えない光景だった。
年老いた人が荷物を抱えるように、ゆっくりとランドセルを持ち上げて、シンちゃんは部屋を出て行った。
今朝も、アレンに声を掛けることはなかった。
窓の外から、小鳥の鳴き声が漏れ聞こえてくる。
多分、今日も良い天気なのだろう、とアレンは思った。
多分と予想を立てるしかない状況だった。
遮光カーテンは開けられていないのだから。
今朝のシンちゃんを見て、アレンの決意が固まった。
(ゼロ……ボクの声が聞こえる?)
アレンが、ゼロを呼んだ。
暫く待ってみたが、反応はなかった。
(ゼロ! ゼロ!)
今度は、叫ぶくらい大きく、ゼロを呼んだ。
ゼロの高く柔らかい声は聞こえてはこないけど、いつものアレンから見て左側の本棚の近くに、薄い輪郭の円球の光が存在を現した。
その円球の色が徐々に濃くなり、そのうち輪郭だけでなく、ハッキリとした円球だと分かるくらいに光が強くなっていった。
辺りが、薄暗いせいもあるのだろう。初めてゼロの登場の仕方を見たアレンは、新鮮に感じた。
(出てくる所は、いつも一緒なんだね)
アレンが、少し茶化す感じでゼロに話し掛けた。
ゼロは何故いつも同じ場所から登場するのかは、偶然ではなく、アレンから気付かれやすい位置を計算してのことだった。
本来なら真正面が一番気付かれやすいのだが、真正面という位置は、相手に威圧感を与えてしまうので、警戒される可能性が高い。
そこまで考えての行動なのだが、ゼロは何も言わなかった。
(ゼロ……?)
何の反応も返してこないことに、アレンは不安を感じて、再び相手の名前を呼んだ。
『聞こえてるよ。私を呼んだってことは、願い事が見つかったんだね』
返ってきたゼロの声は、とても落ち着いていた。
(うん、見つかったんだよ!)
ゼロの声とは対照的に、アレンは嬉しそうだった。
(シンちゃんが困っているんだ。ボクはシンちゃんを助けてあげたいんだ)
(ボクの願い事は、シンちゃんのお母さんを、シンちゃんの前からいなくさせてほしいんだ)
アレンの声は、正義感に満ち溢れていた。
(ボクを助けてくれたシンちゃんを、今度はボクが助けてあげたい)
さっきまでの勢いを落として、ゆっくりと伝えていくアレンの声は、とても真剣だった。
伝え終わると、アレンはゼロの反応を待った。
アレンの期待していた反応はなく、また時が止まり始めた。
シンちゃんの目覚まし時計は、時計らしいカチカチという音を立てて時を刻まない。
寝つきが悪い人には、優しく思えるくらい、静かな時計だった。
何の音もしない。この部屋は無音だった。
『……本当に、それでいいのかい?』
ようやく返ってきたゼロの言葉は、予想もしていないことだった。
正義感に満ち溢れて、揺らぐことはない強い気持ちを抱えていたアレンだが、さすがにその一言で動揺した。
自分の願い事は間違っているのだろうか? アレンは、この部屋で起きた、シンちゃん親子のやり取りを思い返した。
シンちゃんは疲れ果てた様子で、この部屋へ帰ってきた。その原因は何だったか。そして、シンちゃんの口から衝いて出てきた言葉。あれが全てを物語ってるのではないのだろうか。
シンちゃんのお母さんが、シンちゃんをあんな状態にさせた。そして、シンちゃんは、お母さんがいなくなればいいと願っている。シンちゃんを苦しめているのは、お母さんだ。
何故、ゼロに確認されたのかが分からないくらい、理にかなっている願い事だと、アレンは思った。
(うん。それでいい……)
再び気持ちを強く持ち、アレンは答えた。
『……分かった……』
そう言うと、ゼロはゆっくりと消えていった。
全く予想していなかったゼロの様子に戸惑っていたが、願い事を聞く時は慎重な雰囲気になるんだろうと、アレンは考えることにした。
締め切られた遮光カーテンでも、陽の光は完全には遮断できない。
公園に居た時は、公園の入り口付近に街灯が設置されていて、夜になると灯りが点くので、完全に闇に覆われることはなかった。シンちゃんの部屋も、夜は豆球が活躍するので、闇に覆われることはない。
アレンは、本当の闇を、まだ知らなかった。
薄暗い部屋の中で、アレンは願い事が叶った時のことを想像していた。
シンちゃんの笑顔が、また見られるかもしれない。自分に話しかけてくれる日が、再び訪れるかもしれない。
そう思うと、アレンはワクワクした。
シンちゃんの勉強机の最右奥には、ナチュラルウッド調のフォトフレームが置かれていた。
フォトフレームの下枠の木目の部分には、シンちゃんの誕生日時と、生まれた時の身長と体重が、彫刻されていた。
シンちゃんが生まれた時に出産祝いにと、親族からプレゼントされた物だった。
最初は、シンちゃんが赤ちゃんの時の写真が飾られていたのだが、物心がつくと、自分の部屋に自分の赤ちゃんの写真が飾られていることに抵抗感が出てきて、今ではシンちゃん自身が気に入って選んだ写真が飾られていた。
そのフレームの中には、ディズニーランドのシンデレラ城をバックに、楽しそうに笑っている四歳のシンちゃんを真ん中に、両脇には同じく楽しそうに笑っている両親の写真が収められていた。
そのフォトフレームの左横に立っているのが、アレンという配置になっている。
アレンが立っている場所からは、完全な死角になっていた。
同じくらいの高さなら気付いたかもしれなかったが、フォトフレームはアレンの胸あたりの高さしかなかった。
初めてシンちゃんの部屋に入った時と、初めてシンちゃんと外出した時の二回しか、アレンの視野が変る機会はなかった。
公園で猫に襲われかけた時以来、シンちゃんはアレンを連れ出すことはしなかったからだ。
その貴重な機会を逃していたアレンは、フォトフレームの存在を知らず、元のシンちゃんに戻ってくれるのを楽しみに待っていた。
二時間目の授業が終わり、二十分間の中休みの時間が始まった。
いつもなら、学校外でも遊ぶ仲良しグループが校庭に集まって、サッカーをしたり鬼ごっこをしたりと遊びに興じるのだが、シンちゃんは机から離れる気配がなかった。
学校は、自宅から歩いて十分かかるかかからないかの距離で、しかも上り下りの坂もなく、通うには最適な所にあった。
その短い登校距離が、今朝のシンちゃんには長く感じられた。
昨日のショックから立ち直ることができずに、学校内では淡々と時間だけが経過していた。
「シンちゃん! 行かないの?」
仲良しグループに属している、周囲の変化にいち早く気付く友達が、シンちゃんの側に来て声を掛けた。
「今日はいいや。ヨッシー、行っておいでよ」
ぎこちない笑顔をヨッシーに向けて、シンちゃんが答えた。
彼の名字は吉岡というので、友達からはヨッシーと呼ばれていた。
ヨッシーは、ヒョロッとした小柄な体系をしている。
前にクラスメートが「ご飯、食べてるの?」と、何気なく聞いたことがあった。
ヨッシーは、「食べても太らないんだ」と、答えていた。
確かに、その通りのようで、給食の時間には普通に食べるし、気に入ったおかずが出ると、お替わりを積極的にしている。
ぽっちゃりした体型を気にしている一部のクラスメートに、その体質を羨ましがられていた。
「珍しいね。具合が悪いの?」
「え? そんなことないよ」
「そう? なんか朝から元気なさそうだったから……」
ヨッシーは、登校してきてからの、シンちゃんのいつもと違う様子を気にしていた。
さすが……と、シンちゃんはヨッシーの洞察力に感心した。
「早く行かないと休憩時間が終わっちゃうよ。他の皆は校庭で待ってるんでしょ? 今日は気が乗らないだけだから……」
大したことないよ、というポーズを取るために、シンちゃんは、また、ぎこちない笑顔を向けた。
ヨッシーは、納得いかないという表情をしながらも、校庭の方向に足を向ける。
自分の元から離れていくヨッシーを見て、シンちゃんはホッとした。
気にかけてくれる友達が、今日は鬱陶しく感じられた。
帰りの会も終わり、下校時間が始まった。
本来なら嬉しい時間の始まりのはずなのに、今日は憂鬱な時間の始まりになっていた。
友達と遊ぶ気にはなれなかったし、かといって家に真っ直ぐ帰る気にもなれなかったからだ。
余計なことを考えずに座っているだけでいい、授業中の方がマシだった。
周りを見渡すと、この場から早く解放されたかったのか、大半のクラスメートがサッサと教室から姿を消していた。
まだ教室に残っている一部のクラスメートも、解放された喜びの余韻に浸っているのか、楽しそうに談笑していた。
その中に取り残されたように、シンちゃんは意味もなく、机の中の道具箱の中身を整理していた。 今すぐにする必要などなかったが、何か作業をしていると気がまぎれた。
「帰らないの?」
ランドセルの紐を片方の肩に掛けた状態で、ヨッシーが声を掛けた。
顔を上げてヨッシーと目が合うと、無意味な作業を続けている気恥ずかしさから、すぐに視線を落とした。
「先に帰っていいよ。まだ、することがあるから……」
視線を道具箱に向けたまま、返事をした。
「することって、お道具箱の整理? さっきから中の物を、右にやったり左にやったりしてるだけに見えるけど……」
ヨッシーの言葉に、シンちゃんの心臓が跳ね上がった。
自分の無意味な作業をしてることを、見事に当てられたからだ。
「帰りたくなさそうだけど、お家でなんかあったの?」
ヨッシーの更なる言葉に、再びシンちゃんの心臓が跳ね上がる。
ヨッシーの鋭い観察眼や勘の良さに、かなわないな、と心の中で苦笑いした。
大人になって探偵か刑事にでもなったら、活躍するんじゃないだろうか。
「昨日ね……」
シンちゃんは観念したようで、昨日からの元気がない原因を話し始めた。
「それはショックだよね」
話を聞き終わったヨッシーが、開口一番にそう言った。
「でも、伯母さんの手術も同じ日なら、仕方ないよね」
ヨッシーは考えながら、慎重に言葉を続けた。
そんなことは分かっている。誰が悪いわけじゃない。でも、あんなに楽しみにしていたのに……。
別の日にしようと簡単に解決できれば、こんなに大きなショックを引きずらないのに。
次に行けるチャンスが、何年後か分からないのが、大問題なのだ。
「仕方ないのは分かってるよ。でも前にディズニーランドに行ったのは4歳の時だよ。その日に行けなかったら、次は何歳に行けるか分かんないんだよ」
「そうなんだぁ……」
そう言うと、ヨッシーはシンちゃんの机を挟んで向かい合い、前のめりで話を聞いていた姿勢から上体を逸らして、校庭が見える窓に視線を向けた。
校庭の木々は、連日の温かさから葉をほとんど落とすことなく、薄く色づいた身頃を纏っていた。
陽の光を浴びて、葉の色は、よりハッキリと主張しているように見えた。
ヨッシーは、気が塞いでいるシンちゃんに、どう話を切り出して行けばいいのかを考えていた。
「まだ居たのかよ! 」
声に反応して振り返ると、仲良しグループのリーダー格が、黒板側の出入り口から顔をのぞかせていた。
「あ、あっちゃん、今終わったの? 」
ヨッシーが、リーダー格に聞いた。
リーダー格は下の名前が篤志なので、友達からは「あっちゃん」と呼ばれていた。
あっちゃんは三年生の頃は同じクラスだったが、五年生に進級した時にクラスが別れたのだ。
いつも遊んでいる仲良しグループは、全員が同じクラスを経験しているわけではないが、シンちゃん達五年生の学年は二クラスしかないため、クラスの垣根を越えて仲良くなることが多かった。
二クラス合わせても六十人前後しかいないため、自然と顔見知りになっていくのだ。
あの子、誰? と思うのは、転校生が来たときくらいだった。
「いいよなぁ、ヨッシーのクラスは。俺のクラスは終わるのが、いっつも遅いんだよな」
ヨッシーとシンちゃんの側へ向かいながら、あっちゃんは愚痴ってた。
「だいたい、桜井先生の話は長いんだよ」
あっちゃんの愚痴が終わる頃には、ヨッシーとシンちゃんを挟んだ机の横に到着していた。
「で、何で残ってたんだよ?」
あっちゃんに尋ねられて、ヨッシーは黙ったままシンちゃんに話してもいい? と、目で確認した。
すぐに答えが返ってこない、ぎこちない二人のやり取りに、あっちゃんは唇を尖らせた。
「なんだよ。内緒の話かよ」
「違うよ。さっき話してたのは……」
シンちゃんが否定して、ヨッシーに話した内容を再び話し始めた。
「仕方ないことだけど……。まぁ、ショックだよなぁ」
ヨッシーとほぼ同じ回答が、あっちゃんの口から出た。
その後、再び沈黙が続く。
ヨッシーもあっちゃんも、なんて声を掛けていいのか分からず、慎重になっていた。
その沈黙の中、ヨッシーは同じ立場の仲間ができたことで、少し気が楽になったことを感じていた。 一人で抱えるには、重い問題だと感じていたからだ。
気が付けば、周りで談笑していたクラスメートも帰宅したようで、クラス内はこの三人だけになっていた。
L字型の造りの学校の、折れ曲がった廊下の辺りから、生徒の話し声が聞こえてきた。
距離にしたら、かなり離れているのだが、何人かの声がシンちゃん達の耳に届いた。
でも、その会話の内容は、ハッキリと聞こえるわけではなく、ただ声が発する音だけが聞こえていた。
「俺さ……」
重い空気の中、沈黙を破ったのは、あっちゃんだった。
「俺さ……去年、ディズニーランドに行ったんだよ。でも、俺の父さんも母さんも貴史もジェットコースターが苦手でさ、絶対マウンテン系の乗り物には乗りたがらないんだよ。俺も未だに乗ったことなくてさ」
あっちゃんの発言の中に出てきた貴史は、同じ小学校に通う一年生の、あっちゃんの弟だ。
近くでみると目元とか口元とか細かい所は似てないけど、遠目にみると兄弟だと分かるくらい雰囲気が似ていた。
「シンちゃんから見たら贅沢かもしんないけど、俺は乗りたい物に乗れなくてさ……。毎回行ってもなんかつまんなくてさ……。貴史はまだ小さいから仕方ないんだろうけど、父さんも母さんも乗れないってのがさぁ……。友達とかが、スペースマウンテンとかビッグサンダーマウンテンの話を楽しそうにしてるのを見ると、なんか悔しくてさ……」
ヨッシーもシンちゃんも、あっちゃんの発言に驚いていた。
いつも仲間を引っ張っていく強気なあっちゃんが、マウンテン系の乗り物に一回も乗ったことがないのが意外だった。
その理由も、状況は違えど、シンちゃんと同じ親優先の都合なのだ。
「なんか、関係ない話だったな……」
あっちゃんは手で頭をポリポリ掻いて、照れくさそうに苦笑いした。
「そんなことないよ!」
すぐにシンちゃんが否定した。
「ぼくは、今回行くはずだったディズニーランドで、今まで乗れなかった乗り物を、全部乗るつもりだったんだ。もし、あっちゃんみたいにお父さんやお母さんに反対されたら、すごくガッカリしたと思うよ」
あっちゃんの気持ちに同意することを伝えるために、シンちゃんは顔を上げ、力を込めた目で、あっちゃんを見つめた。
そんなシンちゃんを見て、あっちゃんは自分の悩みを理解してくれたことが分かり、表情が明るくなった。
「そうだよな! 親って勝手だよな!」
いつもの強気な、あっちゃんが戻った。
「そうそう! なんでもかんでも親の都合でさあ!」
しんちゃんも真似して、親の不満を声に出した。
「むかつくんだよなあ! 言い返すとすぐに、言うことを聞きなさい! て怒るんだぜ。たまんねぇよなあ!」
「ほんと! 酷いよね!」
あっちゃんとシンちゃんは、溜まっていた日頃の親に対する不満を、ぶつけ合い続けた。
傍から見ると、発言の内容はともかく、とても楽しそうに見えた。
ヨッシーはその中に加わりたかったが、具体的な不満がすぐには出てこなくて、タイミングを逃したことが少し寂しかった。
でも同時に、沈み切ってたシンちゃんに笑顔が出てきて、ホッと安心もしていた。
空気を一変させたあっちゃんを見て、さすがだな……、と改めてリーダーの資質を認識させられた気がした。
愚痴大会が終了したころには、スッキリした表情でいつものシンちゃんに戻っていた。
自分だけじゃなく友達も親に対して我慢していることが分かり、気持ちが軽くなったからだ。
「帰ろうか」
あっちゃんの一声で、ヨッシーもシンちゃんも帰る準備を始めた。
ランドセルを抱えて歩き出す足取りが、嘘みたいに軽くなっていることを、シンちゃんは感じていた。
校門を出て、延々と続く少し狭く、横並びだと二人がやっとな幅の歩道を、三人は固まって歩く。
暦の上では十二月といっても、本格的に冬の寒さとは程遠い気配を感じるのに、陽の出ている時間は、確実に短くなっていた。
四時半を過ぎた周囲の景色は、オレンジ一色に染まり、夕刻であることを示していた。
「また次に行ける時があるよ」
一番後ろを歩いていたヨッシーが、シンちゃんに声を掛けた。
「そうだね」
にこやかにシンちゃんが答えた。
すると急に、先頭を歩いていたあっちゃんの足取りが止まった。
先頭が止まった影響で、後ろを歩いていたシンちゃんとヨッシーも止まらざるを得なくなる。
二人が不思議に思っていると、あっちゃんがクルリと振り返った。
「高校生になったら、みんなでディズニーに行こうぜ!」
ニヤリと笑って、あっちゃんが提案したが、ヨッシーもシンちゃんも、そんな先のことは想像できずに思考が止まる。
「うちの従兄の兄ちゃんが高校生の時に、友達だけでディズニーに遊びに行ったんだよ。俺達も、そうしようぜ!」
あっちゃんの説明を聞いて、思考が止まっていた二人のテンションが一気に跳ね上がった。
「高校生になったら、友達だけで行ってもいいの!?」
「そうだよ! 俺、その時は、絶対にマウンテン系の乗り物、全部乗る!」
「ぼくも! 全部乗る!」
三人は、友達だけでディズニーの中を周る姿を想像して、ワクワクしていた。
三人とも早く高校生にならないかなと思いながら、ディズニーの園内の乗りたい物の希望を言い合い、周り方をシミュレーションしながら、それぞれの家へ帰宅した。
「ただいま~」
玄関のドアを開けて、帰宅の挨拶をした。
まだ頭の中は、友達とディズニーの園内を巡っている余韻が残っているせいか、シンちゃんの発する声は快活だった。
いつもなら、反応してすぐに玄関先に現れるか、手が離せないくらい忙しい状況なら返事だけはするのに、お母さんの気配は全く感じられなかった。
シンちゃんは不審に思いながら、スニーカーを脱いで、家の中に入っていった。
リビングに入ると、いつもならシーリングライトが点いて、足りない明るさを補ってくれているのに、部屋の中は窓から差し込む夕陽の明るさだけを頼りに、全体が薄暗さに包まれていた。
どこかに出掛けてるのだろうか? と、シンちゃんはキッチンカウンター脇のダイニングテーブルや、リビング用の低いガラステーブルを確認して周った。
家の中に誰もいない状態で、どこかに出掛ける時は、必ずどちらかのテーブルにメモ書きをした用紙をセロテープで貼り付けて行くのに、その用紙はどこにも存在しなかった。
その時、ふとシンちゃんは気付いた。玄関の鍵が開いていたことに……。
このような状態で出掛ける時は、必ず鍵を掛けて出掛けるので、シンちゃんは合鍵の隠し場所を知っていた。
ドアに鍵が掛かっていれば、お母さんが外出していることが分かり、合鍵で家の中に入るのだ。
それが日常になっていたので、今回みたいな状況に、違和感を覚えた。
防犯に対して神経を遣うお母さんの性格を知っているので、シンちゃんの違和感は更に強いものとなっていく。
「お母さーん!」
シンちゃんは、お母さんを呼びながら、家の中の部屋という部屋を、片っ端から捜し始めた。
部屋といっても、一階はシンちゃんが立っている、この十六畳のリビングキッチンくらいで、あとは脱衣所と浴槽とトイレくらいだ。
一階にお母さんは確認できなかったので、すぐに二階へ移動する。
二階に上がって最初に、収納がメインで気持ちばかりのお父さんの書斎スペースが併用されている部屋に入り、次に両親の寝室に入り、最後に自分の部屋に入った。
お母さんは、どこにもいなかった。シンちゃんが確認して周った場所が、この家の全てだった。
シンちゃんはランドセルを抱えたまま、最後に飛び込んだ自分の部屋の入り口の近くで、力尽きたように、膝から崩れ落ちた。
「……どうしよう……」
小さく呟いたシンちゃんの目は虚ろで、焦点が合っているのか分からない状態で、遠い先を見つめている。
「……昨日、いなくなればいいって言ったから……」
そう呟くと、シンちゃんの右目から一筋の涙が零れ落ちた。
普段のシンちゃんなら、お母さんにしては珍しいな、くらいの気持ちで帰ってくるのを待っていられただろうが、昨日の暴言の後のこの状況はタイミングが合いすぎていた。
シンちゃんは混乱して、冷静さを保てなくなっていた。
両肩で抱えていたランドセルを床に落とし、両手で頭を抱えた状態で床に頭を擦り付け、丸みを帯びた姿勢をとった。
地震が起きたと想定した避難訓練で、幼稚園の頃から教えられ続けた、机の下で作る姿勢のように。
今、自分に起きている災難から身を守る術のように。
無意識に、シンちゃんはその姿勢を作った。
そして、その姿勢を維持したまま動かなくなった。
ドアを開ける音と共に、シンちゃんの帰ってきたことを知らせる声が聞こえてきた。
いつものシンちゃんのトーンに、アレンは嬉しくなった。
そのうち自分の部屋に入ってきて、ニッコリと優しい笑顔を向けて、「ただいま」と声を掛けてくれることを想像しながら、アレンはその時を待っていた。
しばらくすると、階下から移動しながらバタバタと小走りするような足音と、ドアをバタン、バタンと開閉する音が聞こえてきた。
その音は荒っぽさを秘めていて、アレンは下で何が起きてるのかと、不安の種が芽を出し始めていた。
その足音は階段を上り、今度はアレンが居る、周りの部屋のドアを開閉する音が始まった。
音が徐々に近くなってくる度に、アレンの不安の芽が、茎へと変化し、ニョキニョキと成長していく。
この音を出しているのは、シンちゃんだろうか。それとも、違う人が家の中に入ってきているんだろうか。
そう思っていると、アレンの居る部屋を勢いよく開けて、シンちゃんが姿を見せた。
シンちゃんは、瞳だけを左右に動かして部屋の中を見回すと、床に崩れ落ちた。
「……どうしよう……」
シンちゃんが発した声は小さく、アレンが注意していないと聞き逃してしまいそうなくらいだった。
玄関先で聞こえた声は幻聴だったのかと思うくらい、目の前に現れたシンちゃんは悲愴な面持ちをしていた。
「……昨日、いなくなればいいって言ったから……」
再び、微かに聞こえるくらいの声でそう言うと、右目から涙が頬を伝って落ちていった。
アレンは、それが涙だということを、ゼロに教えられて知っていた。そして、それは悲しい時にも嬉しい時にも出るものだということも。
今、目の前で見ている涙は、悲しい時の涙だとアレンは思った。とても嬉しいと思える表情ではなかったからだ。
シンちゃんの発言から、お母さんを捜していることが分かった。
家の中を駆け回る音の正体が分かっても、アレンの不安の茎が成長を止めることはなかった。
先程までの茎とは違い、疑念が加わった別の複雑な形へと変化して、更に成長を続ける。
いなくなってほしいと願っていた人がいなくなったというのに、なんで笑顔を見せてくれないのか。 そんなに泣くぐらい悲しいのなら、どうして「いなくなればいい」と発言したのか。
アレンは、混乱していた。
やがて、シンちゃんは、頭を抱えて身体を丸めたまま、動かなくなった。
その姿を見て、アレンは公園で何か月も過ごしていた時に見かけた、ダンゴムシを思い出した。
公園に、お母さんに連れられて遊びに来た小さな子供が、動いているダンゴムシを捕まえようとすると丸くなる、あの形だ。
いろんな子供がダンゴムシを見つけると、捕まえようとする動きを見せるのを、何度となくアレンは見ていた。その時に取る、ダンゴムシの動作も。
あるお母さんが「ダンゴムシは、敵から自分を守るために丸くなるのよ」と、子供に教えていた。
シンちゃんは、何から自分を守ろうとしているのだろうか。もしかして、敵と思われてるのは、ボクなのだろうか。
アレンの茎は、空に届きそうなくらいに伸び続けていく。
『困ってるみたいだね』
アレンの茎が空に到達する前に、ゼロの声が聞こえた。
もう、アレンはゼロの姿を捜すことなく、ある一点へ視線を移動させる。そして、そこにゼロはいた。
(今、出てきていいの?)
防衛体制のように固まっているシンちゃんを気にかけながら、アレンは尋ねた。
『シンちゃんは寝てるから、大丈夫だよ』
ゼロの落ち着いた声が届く。
シンちゃんは、あの姿勢で眠っていた。床に頭を付けているので、アレンには分からなかった。
『シンちゃんを助けてあげることができた?』
ゼロの問いに、返答することはできなかった。
本気でシンちゃんの為に、何かをしてあげたかった。シンちゃんが苦しんでいることから、助けてあげたかった。シンちゃんには、いつも笑顔でいてほしかった。
ただ、それだけだった。
でも、今、目の前にいるシンちゃんは、何も変わってない。
シンちゃんを悲しませたのは、お母さんだ。そのお母さんがいなくなっというのに、今度はシンちゃんは、お母さんを求めて悲しんでいる。
そして今、シンちゃんを悲しませているのは、ボクだ。
ゆっくりと、アレンは今までの状況を整理していた。
でも、何回繰り返し整理しても、どうしてこんな結果になってしまったのか分からなかった。
(ゼロ……分からないんだ……。ボクは、シンちゃんを助けてあげたかったのに……)
その声は、時折強い風が吹くと消えそうになりながら耐えている、ゆらゆらと揺れる蝋燭の炎のように、不安定な声だった。
『そうだね。アレンは、シンちゃんを助けたかったんだよね。それは分かるよ』
優しくゼロは、そう言った。
『人間って、とても複雑でね。言葉で言ってることと気持ちが別な時があるんだよ。だから、言ってることを、そのまま受けとめてはいけないんだ』
少し間をおいて、続けられたゼロの言葉に、アレンは愕然とした。
言葉で言うことと気持ちが違うだなんて、なんて難しいことだろう。
シンちゃんが分からなくなった原因はそこだと、アレンは気付いた。
(ボクは、きっとこれからも、シンちゃんを分からないままなんだね。どんなに一緒に居ても、分かってあげられないんだね……)
―― ロボットの分際で、人間を理解しようとすることはできない ――
そう突きつけられたようで、アレンは悲しくなった。
空まで届きそうなくらいに伸びていた、アレンの複雑な形に変化した茎は、根元からバッサリと鋭利な刃物で切り倒される。
切り倒された場所は、土の色を濃くした澱んだ底なし沼だ。
切り倒された大きく育った茎は、水を含んだその重みから、少しずつ沼の底へ向かって沈み始める。
こんな、どうしようもない絶望に陥れたゼロに対して、じわじわと悲しみから怒りへと、アレンの気持ちが変化していく。
(ボクに感情とやらを入れて、どうしたかったの? ゼロの気まぐれで、なんでボクはこんな酷い目に合わなきゃいけないの?)
少しずつ怒りが湧き上がってきていたのが、言葉にすることで、一気に吹き上がった。
『申し訳ないと思ってる……。でも、酷い目に合わせようなんて、思ってなかった』
アレンの吹き上がる怒りを少しでも落ち着かせようと、ゼロはゆっくりと答えた。
『君がロボットだから、理解できない訳じゃないんだ。君は、勘違いしてるかもしれないけど、同じ人間同士でも、今の君と同じように、分からないことは沢山あるんだよ』
ゼロの発言に、アレンは呆然とした。
(……同じ人間同士でも分からないの?)
『そう……だから、喧嘩だってするし、間違えることだってある』
そう言い終わると、ゼロは大きく一呼吸するように間を空けた。
『でも、完全じゃないけど、相手の気持ちを分かる方法はあるよ』
(その方法って、ボクにもできることなの?)
『もちろんだよ』
優しく返したゼロの言葉は、沼の底へ沈もうとするアレンの茎にロープを巻き付けて、対岸から引き揚げようとしてくれているようだった。
『分かりたい相手……アレンの分かりたい相手は、シンちゃんだよね? シンちゃんを見ることだよ』
(シンちゃんを、見る?)
『そう。シンちゃんの動作、顔の表情や変化とか……。言ってる言葉だけに惑わされずに、注意して見てると、相手の気持ちが、なんとなく分かってきたりするんだ』
(注意してみても、なんとなくしか分からないんだね)
『そうだね……気持ちが顔の表情に出る分かりやすい人もいれば、気持ちを隠そうとしている人もいるから……。本当に、いろんな人がいるから、ね……』
(そんなに、いろんな人がいるのか……。相手の気持ちを分かる方法が、なんとなくしかないなんて、人間て大変なんだね)
『そうだね。大変かもね』
(そんな、大変なこと……。ボクにできるのかな?)
アレンは弱気になった。
同じ人間同士でも、相手を理解することに苦労しているのに。ましてや、自分はロボットなのに。
身体全体が揺さぶられるような感情というものがあると分かったのだって、そんなに前の出来事でもないのに。
『できると思うよ。シンちゃんは、分かりやすいから……』
そうか。ゼロから見ると、シンちゃんて人間は、分かりやすいのか。
そう思うと、アレンは自分次第で、なんとかなるような気がしてきた。
ゼロによって対岸から引き揚げられたアレンの茎は、薄日に包まれていた。
(ゼロ……ボクが言った願い事なんだけど……)
アレンは、朝、自信に満ちた声で願い事を言ったことを思い出すと、恥ずかしさからゼロに話しかける声が弱弱しくなる。
『あぁ、気にしなくても大丈夫だよ』
今度はゼロが、自信に満ちた声で答えた。
バタンと階下から玄関の扉が閉まる、独特な音が聞こえてきた。
次に、パタパタ……と軽やかに移動する足音が聞こえてきた。
この音はもしかして……アレンは期待しながら、発する音を追いかけた。
足音はやがて、階段を上り、シンちゃんの部屋の前でピタリと止まった。
部屋の扉が開き、シンちゃんのお母さんが姿を見せた。
シンちゃんのお母さんを見て、アレンは、取り返しのつかないことをしてしまった、という罪悪感から解放された。
お母さんは扉の近くで、部屋に侵入することを防ぐように、うずくまっているシンちゃんを見て、驚いた。
「こんなところで何してるの? シンちゃん?」
お母さんは、そう言いながら、シンちゃんの丸まっている上体を開かせ、開いた上体をお母さんは腿で支えた。
天井を仰ぐ恰好のシンちゃんに話しかけたり、おでこを触って体調を確認したりしている。そのお母さんの顔つきは、とても真剣だった。
何度目かの呼びかけで、シンちゃんの瞼が開いた。
シンちゃんは開いた瞼の先にある、お母さんの姿を見て、お母さんにしがみついた。
その力がとても強かったのか、お母さんはバランスを崩して、尻餅をついた。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
しがみついたまま、シンちゃんの口からは、何度も謝罪の言葉が繰り返された。
最初は、お母さんは訳が分からず呆気に取られていたが、優しい顔つきに変化すると、シンちゃんの謝罪の言葉に合わせて、シンちゃんの頭を撫で始めた。
頭を撫でる行為は、アレンもシンちゃんに何回かしてもらったことがあった。
それをしてもらうと、いつも身体中が温かくなる、大好きな行為だった。
目の前にいるシンちゃんとお母さんは、お互いに大切だと思っているんだ、とアレンは感じた。
ハッキリと言葉にしたわけではないけど、それがなんとなくだけど伝わってくる。
ゼロの言ってたことは、こういう事だったのかな……。アレンは、感覚で理解した。
自分はシンちゃんを分かったつもりで、とんでもない願い事をして、取り返しのつかないことになるところだった。
アレンは、この先も笑顔を無くしたシンちゃんを見続けることを想像したら、とても怖くなった。
「お母さんが、テーブルにメモを置いてなかったから、家に帰ってこないんじゃないかと思ったんだよ」
興奮していたシンちゃんが落ち着きを取り戻すと、何故こんな状態になったのかを、シンちゃんは説明し始めた
「え?メモなら、いつも通りに置いたわよ」
「どこにもなかったよ!」
「置いて出掛けたんだけど……。おかしいわねぇ」
お母さんは怪訝そうな顔で、本棚に視線を移動した。出掛けるまでのいきさつを、思い出しているようだった。
本棚に視線が移動したことで、アレンはゼロのことを思い出した。
一瞬ヒヤッとしたが、余計な心配だったようで、ゼロはとっくに姿を消していた。
「玄関に鍵も掛かってなかったよ」
「鍵も掛けたわよ! 掛かってるかどうか確認したもの!」
お母さんはムキになり、口調が強くなった。
「……それにしても変よねぇ……。メモも置いたし、鍵も掛けて出掛けたのに……」
思わず子供相手にムキになってしまったことを取り繕うように、お母さんは、さっきとは違う口調で話を続けた。
シンちゃんも不思議に思っていた。
お母さんが、うっかりしてしまったとしても、メモも残さず、鍵も掛けず、と続くことの方が珍しい。
メモを残し忘れる可能性はあっても、防犯意識の高いお母さんが鍵を掛けずに出掛ける可能性は、極めて低い気がした。
とりあえず、お母さんは帰ってきたし、理由も大したことなかったので、シンちゃん自身は気にならなくなっていた。
横では、お母さんは自分の行動を思い返しては納得がいかないという様子で、ウーンと低い声で唸っている。
シンちゃんがベッドの目覚まし時計に目をやると、針は六時を過ぎていた。
お母さん自身の問題は、解決の糸口が見えそうもないので、シンちゃんが区切りをつけようと話しかけた。
「もう、いいよ。済んだことだし……。それより、なんだか、お腹すいてきちゃった」
そのシンちゃんの言葉に反応して、お母さんは時計に目を移した。
「もう、こんな時間! そうね、そろそろ夕食の準備をしないとね」
その言葉に、シンちゃんはギョッとした。
「今から夕食の準備なの?」
悩み続けているお母さんの区切りにしようと話しかけたことではあったが、お腹が空いてきてるのは事実だった。それだけ、帰宅してから濃い時間を過ごしたということを、シンちゃんの身体はサインしていた。
するとお母さんは、シンちゃんの顔の近くに、ジャンケンのグーの形から親指だけを立てたポーズを見せた。
「今日は遅くなるかもって思って、惣菜を買ってきたのよ。そんなに時間はかからないわよ」
そんなの想定済みさ! と言わんばかりの姿勢に、シンちゃんは苦笑いした。
お母さんは何事もなかったかのように、軽やかな足取りで階段を下りて行った。
お母さんが部屋を出るのを見送ってから、自分の横に転がってるランドセルを取って、連絡帳を探し始めた。
連絡帳を開いて、再びシンちゃんはギョッとした。
「宿題、やってなかった!」
大きな声でそう言うと、宿題の材料一式を用意して、リビングで宿題をするために、慌ただしく部屋を出て行った。
再び部屋の中は静かになった。
でも、今は、この静けさは嫌じゃない。
アレン自身が、安定した状態になったから思えることだった。
結局、今日一日閉ざされたままの遮光カーテンも、今では全く気にならなかった。
(ゼロ……ゼロ……いるんでしょ?)
すぐ近くにいるような気がして、ゼロを呼んでみた。
『いるよ』
返事と同時に、光る球体が姿を見せた。
(ゼロが言ってたことが、分かったような気がした。注意して見てたら、シンちゃんもお母さんも、お互いに大切に思ってることが、なんとなくだけど、分かった気がしたんだ)
『そう。良かったね』
なんとなく……という表現しかできない曖昧なことを、少し分かったような気がして、アレンは嬉しかった。
この感覚を、忘れないようにしようと思った。
(シンちゃんのお母さんのメモと、鍵が掛かってないようにしたのは、ゼロでしょ? )
『そう……。後悔するような事になるかもしれないと思って、様子を見ることにしたんだ……。君には、申し訳ないことをしたね。願い事を叶えてあげると言ったのに……。勝手なことをして……』
アレンの為とはいえ、勝手に判断して行動したことは、自分の誠意を伝えてないような気がして、ゼロは後ろめたかった。
結果的には良かったかもしれないが、アレンを無視した行動だった。
(ありがとう。もし、願いを叶えてくれてたら、ボクは二度とシンちゃんの笑顔を見ることができなかったよ)
歯切れの悪いゼロの言葉に、アレンは感謝の言葉で返した。
シンちゃんを助けてあげたいと思って起こした行動が、彼を更なる窮地に陥れることになるとは予想もしなかった。
確かに、ゼロが取った行動は勝手なことではあったが、そのおかげでアレンは救われたのだ。
今となっては、ゼロには感謝の気持ちしかなかった。
『よかった……』
安心したように、ゼロは小さく呟いた。
階下から時折、シンちゃん親子の笑い声が聞こえてくる。
再び、いつもの日常が始まった感覚に包まれ、アレンは心地よく、その声を聞いていた。
ゼロは、『よかった……』と言ったきり、黙ったままだった。
用件を伝えたら、いつもなら消えていなくなるのに、ゼロは黙ったまま定位置を、ゆらゆらと漂っていた。
まだ伝え残したことでもあるんだろうか。
そうアレンは思っていたが、ゼロは話しかける様子もなく、ただゆらゆらと存在しているだけだった。
アレンは、その状況に違和感を覚えて、自ら話しかけた。
(何か、言いたいことがあるの?)
話しかけても、何の反応も返ってこない。
ボクの言葉が届いてないんだろうか、とアレンは再び話しかけようとした。
『いや、ないよ……。ちょっとボーッとしてた』
苦笑いをしながらゼロが返事をした。
(え? ゼロでも、そんなことがあるんだ!)
あまりにも意外な結果に、アレンは過剰に反応した。
いつも困った状況になると、登場してはサポートしてくれるので、アレンの中では頼れる存在として認識していた。
だから、こんな隙を見せるゼロにとても驚いたが、同時に親近感が湧いた。
『そうだね。また、何かあったら、いつでも私を呼んで』
そういうと、ゼロは姿を消した。
いつもは余韻を残しながらゆっくりと消えていくのに、今回は急ぎ気味に姿を消したように見えた。
恥ずかしかったのかな……。アレンは、そうゼロの行動を捉えた。
選択
土曜日は学校が休みなので、いつもより三十分遅く、シンちゃんは起きた。
ベッドから起きて用意されている今日の服を着ると、勉強机に居るアレンに向かって「おはよう」と朝の挨拶をしてから部屋を出た。
一階に降りると、朝食がダイニングテーブルに用意されていて、お母さんは既に食事を始めていた。
「おはよう」
お母さんは、コーヒーカップを片手で持った状態で、シンちゃんに挨拶をした。
「おはよう」
シンちゃんは挨拶を返して、自分の席に座った。
特に、座る場所を家族で話し合って決めたわけでもなく、自然とお互いに心地良い場所ができていた。
お母さんは、すぐに移動できるようにキッチンの一番近くの席、お父さんはゆっくり寛ぐことができる人が行き来しない奥の席、シンちゃんは安心できるお母さんの向かいの席が、定位置になっていた。
「今日は……ごめんね」
お母さんが、シンちゃんの顔色を窺うように言った。
仕方ないこととはいえ、お母さんはシンちゃんの楽しみを奪ってしまったことを気にしていた。
シンちゃんは、お母さんの言葉に少し驚いた。
シンちゃんの中では、とっくに解決していて、今日という日を迎えても何も動じることはなかった。
「別に、もう気にしてないよ」
お母さんを安心させようと、シンちゃんは笑顔で返した。
その笑顔は、無理に作ったものではなかった。ずっと気にかけてくれてたことが、嬉しかったからだ。
お母さんは穏やかな表情を見せて、自分が使った食器を片付けるため、席を立った。
「そろそろ出掛ける準備をしないと……」
リビングの時計を見てそう言うと、手早く洗い物を済ませて部屋を出て行った。
支度が終わると、お母さんはまだ朝食をとっているシンちゃんに声を掛けるため、シンちゃんの居る部屋のドアから顔だけを覗かせた。
「行ってくるね。そのうちお父さんが起きてくるからね」
一人で食事をとっているシンちゃんを見てお母さんは、お父さんが家にいるから大丈夫よ、という気持ちを付け加えて声を掛けた。
シンちゃんが一人で食事をとっている姿は見慣れていなかったし、なんだか寂しそうに感じたからだ。
「うん。行ってらっしゃい」
にこやかに手を振り、平気だよ、という態度をお母さんに見せた。
お母さんは安心して家を離れた。
お母さんが家を出たのとタイミングを合わせたかのように、お父さんが一階に降りてきた。
「おはよう」
シンちゃんは部屋に入ってきたお父さんに、声を掛けた。
「おはよう。お母さんは、もう出掛けたのかい?」
そう言いながら、お父さんの視線は、流し台の脇に置かれている水切りラックに向けられていた。
「うん。もう出掛けたよ」
「そうか……。そういえば、伯母さんの手術は十一時だって言ってたな」
お父さんは部屋の中央に掛けられている時計を見てから、朝食をとるべく席に着いた。
「せっかくの休みだし、二人でどこか出掛けようか?」
「ほんと!?」
お父さんの提案に、シンちゃんは身を乗り出して喜んだ。
本来なら従来の予定のまま、ディズニーランドにお父さんとシンちゃんの二人だけで行くことは可能だったのだが、シンちゃんの両親は一大イベントは家族一緒に行動するという考えを持っているので、その選択は頭から無かった。
それは、家族で共有できる思い出を大事にしている、ということでもあった。
「でも、天気予報だと昼前から雨が降るみたいだから、天気が悪くても大丈夫な所にしないとな」
シンちゃんの喜ぶ姿に満足すると、お父さんは考えるように、そう言った。
シンちゃんも起きてから、それはなんとなく感じていた。
シンちゃんがベッドから離れ、カーテンを開けると、外はどんよりと曇っていて、いつ雨が降ってもおかしくない状態だった。
二人が朝食をとっているこの部屋は、暖房をつけているため、カーテンは閉められたままだ。
朝から陽が入らず、部屋の中が寒かったので、お母さんが暖房をつけてたのだ。
冷暖房機器を稼働させている時は、カーテンは閉めたままにすることが、シンちゃん家族の節電対策になっていた。
シンちゃんは外の様子が気になり、閉められているカーテンを少しスライドさせて覗いてみた。
大きな掃き出し窓は、外と気温差があるせいか曇っていて、外の景色がぼんやりとしか見えなかった。
シンちゃんは、窓を少しだけ開けてみた。
雨の粒は見えなかったが、地面は明らかに湿っていた。
地面が湿っている原因が雨のせいなのか確認するために、シンちゃんは窓の上の庇より向こう側へ手を伸ばそうと、窓枠をしっかり掴んで体制を傾けた。
しばらくその体制でいると、手のひらに雨粒が何滴か当たった。
「お父さん。もう雨が降ってるよ」
シンちゃんは、傾いた体制を戻す前に、お父さんに教えた。
「え? もう降ってるの?」
予想より早く降り出した雨に、お父さんは少し驚いた。でも、もともと天気が悪いのは予測済みだったので、驚きは少しだけだった。
「どこか行きたい所はある?」
お父さんに聞かれて、シンちゃんは自分の行った経験のある場所を、あれこれ思い出し始めた。
窓を閉めると、シンちゃんはリビングとダイニングキッチンの間の空間を、ゆっくりと歩き出す。その歩みは円を描き、その円は何重にも描かれていく。
これは、シンちゃんが考え事をしてる時の癖だった。
じっとしているよりも、身体を動かしている方が思考が活発に働くような気がするのだ。
くつろげる自宅だからこそ出てくる癖で、外出先でその癖をまだ披露したことはなかった。
考えているシンちゃんを見て、お父さんも自分のスマホを手に持ち、子供が喜びそうな場所の情報を調べていた。
やがて、シンちゃんの円を描く歩みが止まった。
「久しぶりに科学技術館に行きたい!」
お父さんの居る方へ身体を向けて、シンちゃんが言った。
「科学技術館か……」
お父さんは、なるほどと思った。
館内の展示されている物は、どれも好奇心をくすぐる物が多いし、その日に行われる実験や工作のショーも魅力的で、お父さん自身も好きな場所だった。
「いいね。お父さんも行きたくなってきたよ」
賛同するお父さんの表情も、活き活きしていた。
「そうと決まれば、早く支度しなきゃな」
そう言って、お父さんは残りのご飯を急いで食べ終わると、パジャマ姿から変身するために二階の衣類が置かれている部屋へと向かって行った。
シンちゃんも、お出掛け用のリュックを取りに、自分の部屋へ向かった。
部屋に入り、リュックを手に持つと、アレンに言葉をかけた。
「パパが科学技術館に連れてってくれるんだ! こんな事が起こるとは思わなかったよ!」
興奮状態のシンちゃんの声は、高くなりすぎて時々裏返ることもあり、何て言ってるのかアレンには分かりにくかった。
「じゃあ、アレン……行ってくるね」
ご機嫌な笑顔を見せて、シンちゃんは部屋を出て行った。
結局、シンちゃんの言ってることは、はっきりとは分からなかったが、パパが何処かへ連れて行ってくれることと、シンちゃんがとても喜んでいることは理解できた。
ものすごく嬉しい時の声って、こんなに乱れるんだな……と、アレンは思った。
でも、シンちゃんの笑顔を見ることができて、アレンは嬉しかった。
あれから三日が経った午後二時過ぎに、シンちゃんの家にミヨちゃんが訪ねてきた。
ミヨちゃんは、チャコールグレーの身体のラインがすっきりして見えるAラインコートを身にまとい、手土産用の洋菓子店の紙袋を持っていた。
「今日は仕事が休みなんで、朝から病院へ寄ってきたんです」
「わざわざ訪ねてくれたの? せっかくのお休みだったのに……」
「いえ。手術の日に立ち会ってもらった、お礼の挨拶に伺おうと思ってたんで……」
シンちゃんのお母さんは、ミヨちゃんを「どうぞ」と家の中のリビングに案内した。
リビングの中は、南側の大きな掃き出し窓から陽の光が射しこんで、それだけで部屋の中は十分温かかった。
「これ、よかったら、みなさんで食べてください」
ミヨちゃんは、ダイニングテーブルの上に、持ってきた手土産を置いた。
「わざわざ、ありがとう」
そう言って、シンちゃんのお母さんは、手土産を手に取って中を見る。
中には、色々な種類のケーキが彩り良く六個入っていた。
「美味しそうね! 良かったら一緒に食べない? コーヒーを用意するから」
シンちゃんのお母さんが笑顔で提案したが、ミヨちゃんはパーの形にした片手を身体の前に出して、断わりのポーズを見せた。
「いえ、お昼ご飯をしっかり食べてきたんで……。みなさんで食べてください。……コーヒーは、貰いますね」
丁重に断られてしまったので、シンちゃんのお母さんは少し残念に思いながら、ケーキの箱を冷蔵庫の中へ収めた。
ミヨちゃんは、近くの椅子の背にコートを掛けてから座った。
「シンちゃんは、まだ学校なんですか? 」
「今日は六時間授業だから、帰ってくるのは四時くらいかな」
コーヒーメーカーをセットしながら、シンちゃんのお母さんは返事をした。
準備が終わると出来上がるのを待つ間、ミヨちゃんの向かいの椅子に腰を下ろした。
シンちゃんのお母さんが座ったのを見届けると、ミヨちゃんは姿勢を正してから頭を下げた。
「母の手術の日は立ち会ってもらって、ありがとうございました。本当に助かりました」
いきなり頭を下げられて、シンちゃんのお母さんは面食らった。
「そんな、気にしないで……。頭を上げてくれる?」
笑い声を少し含ませて、明るい感じでシンちゃんのお母さんが応えた。
「手術が上手くいって良かったわね」
ゆっくりと顔を上げたミヨちゃんに、シンちゃんのお母さんは優しく微笑んだ。その笑顔につられてミヨちゃんも微笑んだ。
「あれから、お姉さんの具合はどう? 」
シンちゃんのお母さんが真面目な顔つきに変わり、ミヨちゃんに尋ねた。
埼玉の伯母さんとは、年が六歳離れた、シンちゃんのお母さんのお姉さんだった。
手術に立ち会った時に、手術の内容や状態などは医師から説明を受けていたが、その後はまだ一度もお見舞いに行っていなかった。
お姉さんがいる病院は、平日の面会は午後からなので、会いに行く時間が取れないのと、ミヨちゃんが仕事の帰りに、僅かな時間でも毎日通っていると聞いていて、安心していたからだ。
「順調に回復してるみたいです。このままいけば、来週の月曜日には退院できるでしょうって、担当医に言われました」
「そう。良かった」
シンちゃんのお母さんは心底安心すると、セットしたコーヒーメーカーの様子を見るため、席を立った。
しばらくすると、長方形の木製のトレイに二人分のコーヒーカップを載せて、シンちゃんのお母さんが戻ってきた。
「どうぞ」とミヨちゃんの前にコーヒーカップを差し出し、「ありがとうございます」とミヨちゃんは軽く会釈した。
「それで、結果は出たの? 」
「まだなんです。退院した後また診察に行くので、その時に分かるとは思うんですけど……」
「そう……。でも、とりあえず、手術が成功して良かった」
「ホント、良かったです」
ミヨちゃんのお母さんは、働いている職場の健診で、胃粘膜下腫瘍を指摘された。
大きさは3センチ弱で、自宅近くの病院で再検査をして経過観察を勧められたが、ミヨちゃんはその判断をすんなり受け入れることができなかった。
その後、色々調べていくと、腫瘍が小さいうちなら腹腔鏡手術が受けられること、大きさが5センチ以上になると開腹手術の可能性が出てくることが分かってきた。
医師の見解はそれぞれで、ミヨちゃんのお母さんくらいの大きさの腫瘍だと、経過観察と手術と判断が分かれるようだということも分かった。そして、悪性だと腫瘍が大きくなることも……。
それはミヨちゃんにとって、大きな不安材料だった。
腫瘍が大きく育たないように祈りつつ経過観察で過ごす日々を想像してみたが、耐えられる自信がなかった。
ある日、ミヨちゃんはその病気を専門的に扱っている病院を見つけた。
その病院の場所は同じ埼玉県にあり、電車を乗り継いでも一時間も掛からない距離にあった。
ミヨちゃんは、すぐにお母さんに話を持ち掛けてみた。
その時に、お母さんも経過観察に不安を感じていたことを知った。
同じようにお母さんも医師の提案に迷いが生じていたことが分かり、ミヨちゃんは安堵した。
もし、お母さんが医師の提案と同じ考えを持っていたら、説得して相手を納得させる方向へ持って行く努力が必要になってくるからだ。
親子で同じ思いを抱えていたので、話はスムーズに進めることができた。
後日、二人で専門の病院に、経過観察を勧めた病院から用意してもらった紹介状と検査データを持って訪ねた。
その病院で改めて検査した結果、腹腔鏡手術を勧められた。
ミヨちゃんもお母さんも、その病院は同じ症例の患者の腹腔鏡手術を数多く行っているので、経験豊富で信頼できるという思いから、医師の話を素直に受け入れた。
良性にしろ、悪性にしろ、大きくならないうちに腹腔鏡手術で切除した方が、身体への負担は軽く済むはずだ。なるべく開腹手術は避けたかった。
様子を見ても腫瘍が無くなる可能性は極めて低いことが、ミヨちゃんとお母さんの決意を後押しした。
そして緊急ではないので、前もって手術の日を決めることができたのは良かった。お母さんもミヨちゃんも働いていたから、あらかじめ調整することができた。
ここまで順調に進んでいたのに、まさかこのタイミングでミヨちゃんの仕事場で緊急事態が起きるとは思ってもいなかった。
職場の上司も同僚達も、前もって聞いていた事情なので、「休んでいいよ」と言ってくれていたし、その雰囲気は伝わっていた。
でも、人手が足りずに困っている状況も伝わっていたので、ミヨちゃんはその間で相当悩んでいた。
彼女の中に、もう少し図太さがあれば、こんなに悩むことはなかっただろう。
職場の人たちは彼女の事をそこまで考えてはいなかっただろうが、ミヨちゃん自身が居心地の悪さを感じていた。
そんな時に、ミヨちゃんの携帯に、入院した母の様子を聞くために、シンちゃんのお母さんから電話が入った。
思わずシンちゃんのお母さんに、駄目で元々のつもりで手術の立ち会いをお願いしてみる。
シンちゃんのお母さんは事情を知ると、快く引き受けてくれた。
そのことを、ミヨちゃんは本当に感謝していて、手土産のケーキでは足りないくらいだと思っていた。
ミヨちゃんは、シンちゃん家族が同じ日にディズニーランドを計画していることは知らなかった。
シンちゃんのお母さんが、何も言わなかったからだ。
もし、シンちゃん家族の事情を知ったら、ミヨちゃんはすんなりと諦めて、会社を気にしながらも休みをとっていただろう。
「今度の土日のどこかで、シンちゃんと一緒に、お姉さんのお見舞いに行こうかな」
コーヒーカップを口元近くに持って行った状態で、シンちゃんのお母さんが呟いた。
「ぜひ。母もその頃は今より元気になっているので、きっと喜ぶと思います」
明るくミヨちゃんが答えた。
順調に回復すれば、土日あたりだと退院前くらいのタイミングなので、会いに行ってもお姉さんの負担は少ないだろう。
シンちゃんもお姉さんに会うのは久しぶりだろうし、良いかもしれない。
もし日曜日にすれば、パパもお休みだから家族で行くのも良いかもしれない。
シンちゃんのお母さんが、週末どうするかを考えていると、ふと別のことが気になった。
「そういえば、ミヨちゃんの仕事は落ち着いたの? 」
「おかげさまで、日曜日に目処がついたんで……。母の退院日は、しっかりと休みを取らせてもらうつもりです」
両肩をすくめて、茶目っ気たっぷりな笑顔を、シンちゃんのお母さんに見せた。
「良かったわね」
その余裕あるミヨちゃんの姿を見て、安心した。
シンちゃんのお母さんは、お姉さんが結婚してミヨちゃんが誕生した時から、ずっとミヨちゃんの成長を見守ってきた。
ミヨちゃんが喋れるようになると、お姉さんはまだ独身だった妹を気遣って「ユキ姉ちゃん」とミヨちゃんに呼ぶように教えた。
ユキとは、シンちゃんのお母さんの名前だ。
ミヨちゃんに小さい頃からずっと「ユキ姉ちゃん」と呼ばれ続けたユキにとって、ミヨちゃんは可愛い姪っ子だった。
その可愛い姪っ子が助けを求めてきた時は、なんとかしてあげたいと強く思った。事情が事情だけに尚更だった。
その可愛い姪っ子もすっかり大人になって、気付けば「ユキ姉ちゃん」と呼ばなくなってしまった。珍しくしく呼ぶことがあるとしても「ユキ姉さん」だ。
ユキは仕方ないと分かってはいたが、それが寂しかった。
「ただいま」
玄関先から声がした。シンちゃんが帰ってきたのだ。
シンちゃんを出迎えるために、ユキは玄関に向かった。
「おかえり。今、ミヨちゃんが来てるのよ」
「あ、ミヨちゃんだったのか……。知らない靴があるから、誰か来てるんだなって思ったんだけど」
シンちゃんは、黒いスエード調のショートブーツを見ながら言った。
ユキと一緒にリビングに入ると、ミヨちゃんは「シンちゃん、お帰り」と笑顔で迎えてくれた。
久しぶりに会うミヨちゃんは、一段と大人の女性になっていたが、柔らかくて優しい印象はそのままだった。シンちゃんは、それが嬉しかった。
「ミヨちゃんだ!」
思っていたことが、つい、シンちゃんの口から飛び出した。
ユキもミヨちゃんも、シンちゃんの反応が面白くて笑った。
「ミヨちゃんが、ケーキを持ってきてくれたのよ。食べる? 」
「うん!」
ユキがシンちゃんに聞くと、シンちゃんは目を大きく輝かせて、大きく頷いた。
冷蔵庫から出されたケーキの箱の中を覗くと、どれも美味しそうな、違う種類のケーキが並んでいた。
シンちゃんは真剣な顔で、どれにしようか、選び始めた。
視線を何度も往復させて、一番食べたいケーキを探す。
しかし、チョコレートケーキと、フルーツが何種類も載ったケーキの二個が候補に残ってしまい、頭を悩ませていた。どちらも同じくらい魅力的だった。
なかなか選びきれないシンちゃんに、ユキが見兼ねて「どのケーキで悩んでるの?」と尋ねた。
チョコレートケーキとフルーツがたくさん載ったケーキで悩んでいるのが分かると、ユキは「チョコレートケーキは、シンちゃん用に取っておいてあげるね」と助け舟を出す。
そのおかげで、フルーツが何種類も載ったケーキにすんなりと決まった。
「美味しい!ミヨちゃん、ありがとう!」
一口食べて、シンちゃんがお礼を言った。
嬉しそうにパクパクとケーキを食べているシンちゃんを、ユキもミヨちゃんも笑顔で見ていた。
あっという間に食べ終わり、横に用意されたリンゴジュースを飲み終わると「ごちそうさま」と言葉を添えた。
「どういたしまして」とミヨちゃんは返事をした。
シンちゃんは椅子から立ち上がると、ミヨちゃんが座っている横に移動した。
「ぼくの部屋に来て! 見せたい物があるんだ」とミヨちゃんを誘った。
ミヨちゃんは「いいよ」と返して、シンちゃんと一緒にリビングを出た。
階段を上りながら、楽しそうに「なにかなぁ?」とミヨちゃんは、シンちゃんの見せたい物を推理していた。
シンちゃんは、それを見た時のミヨちゃんの反応が楽しみだった。
「どうぞ」とドアの前で促されて、ミヨちゃんは部屋のドアを開けた。
シンちゃんの部屋に入るのは、これが二回目だった。
最初に入ったのは、シンちゃんが小学校に入学した年の、五月の連休の時だ。
「遅くなったけど入学のお祝い」とミヨちゃんは言いながら、ゲームソフトをシンちゃんに渡した。
そのゲームソフトは、シンちゃんが前から欲しかった物で、「なんで分かったの? ミヨちゃん、凄い! 凄いよ!」と、ミヨちゃんの不思議な力に尊敬の念を抱きながら、シンちゃんは大喜びした。
予想以上に喜んでくれたのと、「凄い!」を連呼されるのとで、ミヨちゃんは事前にユキ姉ちゃんから、シンちゃんの欲しい物を教えてもらっていたことを言い出せなかった。
少し後ろめたい気もしたけど、一目置かれる立場は気分が良いので、そのまま黙っていることにした。
その時以来なので、四年ぶりだった。
初めて部屋の中を見た時と同じで、模様替えされることもなく整頓されてあり、全体的にすっきりしていた。
唯一違うのは、自分の部屋だという主張が感じられるようになったことだ。
前は、子供部屋の紹介カタログを切り取ったように、与えてもらった感が強かったが、今は部屋の中を見ると、シンちゃんがどんな事に興味があって何が好きなのかということが、垣間見える。
見た目も大きくお兄ちゃんらしくなっていたが、中身もそれに伴って成長していることが伝わった。
「きれいにしてあるんだねぇ……。偉いね」
ミヨちゃんは、部屋の中をキョロキョロと見回しながら言った。
シンちゃんは、お母さんにも友達にも言われ慣れてる褒め言葉だったけど、何度言われても気持ち良いものだった。
「へぇ……。シンちゃん、ロボットが好きなんだ」
机の上に置かれてあるロボットに、ミヨちゃんの目が留まった。
「凄い好きってわけじゃないんだけど……。そのロボット、公園に落ちてたんだ。泥だらけで汚れてたんだけど、なんか凄く気になって、持って帰ったんだ」
「そうなの? そんな風に思えないくらい、きれいだよ。シンちゃんが、きれいにしたの? 」
中古感はあるが、そんないきさつがあったとは思えないくらいの状態だったので、ミヨちゃんは驚いてシンちゃんを見た。
コクンと頷いたシンちゃんに、ミヨちゃんは感心した。
「凄いね! それくらい、シンちゃんが気に入ってる物なんだね」
ミヨちゃんは、自分が言った言葉にピンときた。
「もしかして、見せたい物って、このロボット?」
「当たり!」
シンちゃんは照れくさくなって、ふざけた感じでそう言った。
「やったー! 当たった!」
ミヨちゃんも、そのノリに合わせた。
シンちゃんは、お気に入りのロボットを見せたい気持ちもあったが、自分がきれいにしたことを披露したい気持ちもあった。
褒めてもらうことを期待してミヨちゃんを誘ったのに、予定外の事も含めて褒められ続けたことで、なんだか照れくさくなってしまった。
顔が赤くなっているような気がして、自分の頬に手を当てた。その手に熱さが伝わった。
「あの……。トイレに行きたいから行ってくるね」
気恥ずかしさでいっぱいになった状態で、ミヨちゃんの前に居るのが辛くなり、シンちゃんは唐突にそう言って部屋から出て行った。
顔を赤らめながら、ぎこちない動きで部屋を出て行ったシンちゃんを見て、ミヨちゃんは相手に聞こえないように、小さく笑った。
シンちゃんが出て行った後、ミヨちゃんは部屋を改めて眺めた。
本棚は、五段に分かれており、棚板の高さが調整できるようになっている。
その一番下には、子供向けの百科事典が何冊か揃えられている。これは両親が子供のためにと用意したものだろう。
二段目には、シンちゃんが好きで買ってもらっているマンガ雑誌があったり、幼い頃に読んでもらったのかもしれない絵本が何冊か並べられていた。
三段目には、学校関係の教材が並べられていて、四段目には卓上カレンダーやら地球儀やらゲームソフトを収納した箱が置かれていた。
地球儀は、社会の時間に教材で初登場した時に、地球の全貌を知ったような気がして感動したのだ。
ゆっくり地球儀を回して眺めたかったのだが、授業という限られた時間の中で、しかも班ごとに一個しか使えなかったので、それは難しかった。
そのうえ、授業が終了するとすぐに回収されるし、授業の内容に沿って地球儀を率先して回す子も大方決まっていたので、触れる機会も少なかった。
授業中だというのに、先生の話をろくに聞かずにグルグルと地球儀を回して注意される子が何人か出るくらい、地球儀は人気があった。
そんな人気ある地球儀は、授業が進んで行くうちに姿を消してしまった。
それ以来、シンちゃんは自分の地球儀が欲しくてたまらなくなった。
両親に伝えると、「良いことだ」と絶賛されて、誕生日でも記念日でもない何の関係もない日にプレゼントされた。
欲しいとお願いしてからプレゼントが手元に届くまで、時間はあまり掛からなかった。
学習教材だからこその力であって、ゲームソフトとなるとそうはいかない。
そんないきさつを経た地球儀と、即効性は期待できないけど思い入れのあるゲームソフトを収納した箱と、何の思い入れもない卓上カレンダーが、仲良く同じ段に並べられていた。
最上段の五段目を見ると、何も入ってなく空っぽだった。
五段目は、これからシンちゃんの成長と共に、何かしらが埋められていくのだろう。
ミヨちゃんは、この五段目には何が入るのかが興味あった。
機会があれば、またこの部屋を訪ねたいと思ったが、五段目に何かが収められている頃にはシンちゃんは思春期真っ盛りで、部屋を訪ねさせてくれないかもしれない。
同性ならともかく、相手は異性の男の子なので、その可能性はあった。
機会がなければ、ユキ姉ちゃんに連絡して教えてもらおうとミヨちゃんは思ったが、できれば自分の目で確認したかった。
そして、勉強机に目を移した。
先程紹介してもらったロボットの隣にある、写真立てに目が留まった。
写真立てのフレーム枠に、誕生日時と生まれた時の身長と体重が彫られているのに気付いて、ミヨちゃんは驚いた。
こんな素敵な写真立てがあるんだ。出産祝いに良いかもしれない……と思い、今後の参考にさせてもらう。
そのフレーム枠の中には、シンちゃん家族がディズニーランドに遊びに行った記念写真が飾られていた。
叔父さんもユキ姉ちゃんもシンちゃんも、満面の笑顔で顔を寄せ合っていた。
最初は写真の笑顔に釣られて微笑んでいたが、次第に悲しそうな表情に変化していく。
あと何年、自分はお母さんとこんな風に過ごすことができるんだろう……。
お母さんの手術は成功したけど、検査の結果はまだなのだ。
腫瘍が良性なのか悪性なのか……。
本当の意味での安心を、ミヨちゃんはまだ得られてはいなかった。
当たり前に、親子でこれから先もずっと生きていけると思っていた。
お母さんが病気になって初めて、その関係はいつ失ってもおかしくないのだという現実を知った。
まだ二十五歳と若く、お母さんを失うと家族がいなくなってしまうミヨちゃんにとって、その現実は重く辛すぎた。
悲痛な思いから表情は歪んでいたが、シンちゃんがトイレから戻ってくることを想像して、涙が出そうになるのを踏みとどめた。
「ただいま」
気持ちを立て直したシンちゃんが、笑顔で自分の部屋に戻ってきた。
「おかえり」
ミヨちゃんは返事はしたが、顔は写真立ての方向を向いていた。
歪めていた表情から笑顔に戻るには、少し時間が必要だった。
「ミヨちゃん?」
自分が戻ってきても一向に振り向いてくれないミヨちゃんに、シンちゃんは不思議に思い、呼びかけた。
シンちゃんの呼びかけを聞いて、ミヨちゃんは写真立てを指さした。
「この写真、素敵ね。ディズニーランドに行った時のでしょ?」
「うん」
ミヨちゃんの口からディズニーランドの名前が出て、シンちゃんは戸惑った。
ミヨちゃんの口から普通にその名前が出たことで、シンちゃんはユキが、伯母さんの手術の当日とぶつかったシンちゃん家族の予定について、何も教えていないことが分かった。
もう終わったこととはいえ、ミヨちゃんの口からディズニーランドの名前を聞くと、心の奥底に仕舞われていた、モヤモヤを抱えた箱がウッカリ飛び出してしまいそうで、シンちゃんは慌てて話を変えた。
「もうすぐ五時だね。宿題があるから、下に降りるね」
「え? 宿題は、ここでやらないの?」
「なんか、一人だと落ち着かなくて……。いつも下に降りてしてるんだ」
「そうか。分からないことがあると、お母さんに聞けるし、その方がいいかもね」
そう言って振り向いたミヨちゃんの顔は、いつもの笑顔だった。
シンちゃんが宿題の材料一式を手に持つと、二人で下に降りて行った。
再びシンちゃんの部屋は、静かな空間へと戻った。
アレンは、二人のやりとりから、自分の横にシンちゃんがディズニーランドに行った時の写真があることを知った。
その写真を見ようとアレンは視線を移したが、視界に入ってくることがないので、写真を直接見ることができなかった。
だけど、ミヨちゃんが写真を見ながら、苦しさから歪めていた表情は忘れられなかった。
―― 人間は、言葉で言ってることと気持ちが別な時がある ――
以前、ゼロから教えてもらった言葉を思い出した。
今までは、なんとなくという曖昧な感じでしか捉えることができなかったけど、初めてその場面を目撃した。
シンちゃん家族の写真を「素敵ね」と言ってるミヨちゃんの言葉と、その時の表情はバラバラだった。その時の表情は、無理に笑顔を作ろうとしている、ぎこちない表情だった。
シンちゃんが戻ってきたのが分かると、ミヨちゃんは笑顔を作る練習を始めた。
ぎこちない笑顔から周りが気付かないくらいの笑顔に戻るまで、ミヨちゃんはボクの横にある写真の辺りを見ていた。
そして、戻った笑顔のまま、振り返りシンちゃんを見た。
ミヨちゃんは、自分の本当の気持ちを、シンちゃんに隠している。
そして、シンちゃんも自分の本当の気持ちをミヨちゃんに隠している。
ミヨちゃんの口からディズニーランドの名前が出たのを聞いて、シンちゃんは少し困った表情になった。
アレンは、ユキとシンちゃんの口論を目撃しているので、ディズニーランドに行けなくなった原因がミヨちゃんであることを知っていた。
シンちゃんもミヨちゃんも、お互いに自分の気持ちを隠しているから、理解し合ってはいないんだ。
同じ人間同士でも気持ちを隠すことがあるんだ。
―― 人間てとても複雑でね ――
―― 同じ人間同士でも分からないことはたくさんあるんだよ ――
―― だから喧嘩だってするし、間違えることだってある ――
ゼロから言われた言葉が、次々とアレンの中に蘇ってきた。
自分がロボットだから、人間の気持ちを理解できないという考えは、関係なかったことを思い知らされた。
(ゼロ、ゼロ)
アレンはゼロを呼んだ。
『なに?』
ゼロが姿を現した。
(ゼロの言う通りだったよ。人間って自分の気持ちを隠そうとすることがあるんだね。だから、人間同士でも分からなくなったりするんだね)
『そうだね』
(でも、なんで、隠したりするんだろう? そんなことしなければ、分からなくなったりしないのに……)
『隠すことが必要な時もあるんだよ。相手のことを考えた時に、それが必要になることもあるんだよ』
(相手のことを考えた時? )
『そう。前に、アレンがシンちゃんを助けてあげたいって考えてたようにね』
『だけど、本当の自分の気持ちを伝えて、相手が困るようなことなら、伝えずに隠そうとする。大切な相手なら、尚更そうするだろうね』
(でも、ゼロは『シンちゃんは分かりやすい』って言ってたけど、シンちゃんも気持ちを隠すことがあるんだね)
『それは、ミヨちゃんを大切に思ってるからだろうね』
(そうなんだね)
『でも、シンちゃんが気持ちを隠してることに気付くなんて、凄いよ! アレンはシンちゃんを理解していってるよ』
ゼロは、アレンの進歩を褒めた。
本来なら嬉しくなるはずなのに、アレンは苦しくて歪んでいるミヨちゃんの表情が気になって、手放しで喜ぶことができなかった。
(人間ってとても複雑だけど……強いね……)
褒められたことに反応しないで呟くアレンを見て、ゼロは不思議に思った。
『なんで、そう思ったの?』
(ミヨちゃんを見て、そう思ったんだ。苦しそうな顔をしてるのに、シンちゃんが戻ってきたら、頑張って笑顔を作ろうとするんだよ。自分の苦しさを隠そうとするのを見たら、強いな……て思った)
『そう……』
(強いし凄いなって思ったんだけど……。なんでだろ? なんか悲しくなってきて……。へんだよね?)
アレンは苦笑いしているような、寂しそうな口調で言った。
アレンの話を聞き終わった後、ゼロはしばらく黙り込んだ。
ゼロが黙り込んでしまうと、静かすぎるせいか、階下から発生する音がよく聞こえてきた。
玄関先に向かう複数の足音。会話の内容はハッキリとは分からないが、玄関先で何やら話をしている声。
「またね!」というシンちゃんの声だけは、ハッキリと聞こえた。その後に、玄関のドアの開閉の音。
おそらく、ミヨちゃんが帰ったんだろう……と、アレンは思った。
何も言わないゼロと一緒の空間を、気まずく感じていた。
黙り込んでしまったゼロとの会話の糸口になるかもと思い、アレンが話しかけた。
(ミヨちゃん、帰ったみたいだね)
でも、ゼロの返事はなかった。
(ゼロ?)
さすがに何も反応を示さないことに不安を感じて、アレンは名前を呼びかけた。
『前に、アレンは私に、感情を入れたことを酷いと責めたよね』
(……うん)
かなり前の出来事を蒸し返されて、アレンは戸惑った。
もう終わったことだと思ってたけど、ゼロはずっと気にしてたのだろうか?
言い過ぎたかもしれないと、アレンは気にし始めた。
『あれから考えたんだ……。今日みたいに、悲しい想いをしたり、辛い想いをすることが、これから先もたくさん出てくると思うんだ……。』
(そうだね……。でも、シンちゃんを理解していってるって、ゼロは言ってくれたよね。嫌な事ばかりじゃないよ。きっと……)
落ち込んでいるのかもしれないと思い、ゼロを励ます言葉を掛けた。
そう言いながらも、アレンは苦しそうなミヨちゃんの顔が、焼き付いて離れない。
『もちろん、そうだよ』
アレンがシンちゃんを理解していってることは確かなので、ゼロはそのことに関しては肯定する。
『でも、シンちゃんやミヨちゃんのように、気持ちに気付いてあげられても、アレンは見守ることしかできない。そのことが、そのうちアレンを苦しめていくような気がするんだ』
(………………)
ゼロの意見に対して、返す言葉が見つからなかった。
ミヨちゃんの顔が今もずっと離れないのは、そういうことなのかもしれない。
悲しい気持ちから抜け出せないアレンは、ゼロの言ってることが正しいような気がする。
だけど、その原因が何なのかハッキリとは分からない。分からないから、ゼロの発言が正しいと断定はできなかった。
『アレンが望むのなら、感情を無くして普通のロボットに戻してあげる。その方がいい?』
突然のゼロの提案に、アレンは驚いた。
(感情を無くすことって、できるの?)
『私が感情を入れたんだから、無くすことだったできるよ』
ゼロは自慢気に言った後ですぐに、この状況にそぐわない態度を取ってしまったことを後悔した。
『アレンにしてしまったことは、申し訳ないと思ってる。でも、君を苦しめるつもりは、なかったんだ』
アレンに誤解されないように、ゼロは続けて自分の気持ちを伝えた。
(分かってる)
意地悪な考えでしたことじゃないことくらい、アレンはよく分かっていた。
アレンが根気よく、感情とは何か? を教え続けてくれたおかげで、自分の気持ちというものが理解できるようになった。
それができるようになると、今までは訳が分からなくて不安でしかなかった、自分を振り回していた大きな感情の波に対して、落ち着いて整理することができるようになった。
大好きなシンちゃんの気持ちに気付いてあげられることが、徐々にだけど、できるようになった。
そして、困った時には、いつも側にいて、支えてくれた。
そこまで自分のために動いてくれたゼロが、自分を苦しめるためにしたことだとは、アレンは、はなから考えていなかった。
『アレンは、どうしたい?』
再度ゼロに聞かれて、アレンは言葉に詰まった。
こんなに苦しい想いをしなくて済むのなら、どんなに楽だろう……と、アレンは思ったが、簡単にその返事をすることに対して、何かがアレンの中でひっかかっていた。
それが何なのかは分からない。でも、感情を無くしてしまったら、もう二度と戻ることはできない気がする。
それだけは、ハッキリと確信できた。
(今すぐ、返事をしないとダメかな?)
弱気な口調で、ゼロに聞き返した。
アレンの躊躇う様子を見て、ゼロは意表を突かれて動揺した。
簡単に出せる答えだと思っていたからだ。
アレンが何故、躊躇う必要があるのかが分からなかった。
『返事は、いつでもいいよ。答えが決まった時には、私を呼んで』
(分かった……)
アレンがそう言うと、ゼロは消えて行った。
消えて行くゼロの姿を見送りながら、アレンは自分がどうしたいのか全く分からなくなっていた。
決断
日曜日にシンちゃん一家は、伯母さんの入院している病院へお見舞いに行った。
ユキは土曜日も考えたのだが、シンちゃんのお父さんが一緒に行きたいと申し出たので、お父さんの仕事が休みの日の日曜日に決定した。
車で移動すると、病院までは一時間も掛からない距離だった。
でも、外で昼食をしようということになり、早めに出発することにした。
病院に到着した時は、面会の時間に丁度良かった。
面会用の入り口から入り、受付で伯母さんの病室を確認して、伯母さんの居る部屋へ移動した。
部屋は六人部屋らしく、入り口の脇には六人の名前が印字されたプレートが貼ってあった。
橋本和恵という名前を確かめてから、一家は部屋の中へ入った。それが、伯母さんの名前だ。
和恵のベッドは、入り口から見て左奥の窓に近い場所にあった。
そのベッドの上で、和恵は横になって文庫本を読んでいた。
シンちゃん一家がベッドの近くまで歩み寄るが、本に夢中になっているのか、和恵が気付く様子はなかった。
「お姉さん」
ユキが、和恵の足元で声を掛けた。
その声に反応して、和恵は顔を上げた。
「ユキ」
和恵は妹の登場に驚いたが、横にいるシンちゃん達を確認すると、笑みを浮かべた。
「みんな、来てくれたの? ありがとう」
嬉しそうに出迎えられて、ユキは安心した。
今日お見舞いに行くことを伝えてなかったからだ。
前もって伝えた方が良かったかもしれない、と病院に向かう車の中で思っていた。
「お姉さんが元気そうで良かった」
シンちゃんのお父さんが、優しい表情でそう言った。
「健一さんも……。久しぶりね」
和恵は、懐かしそうに返事をした。
健一も和恵も仕事をしているため、会う機会はなかなか訪れることがなく、本当に久しぶりの対面だった。
病院のお見舞いという場面に慣れてないシンちゃんは、病室内の独特な雰囲気に呑まれて緊張していた。
その緊張は、病院の廊下を移動している頃から始まっていた。
そのうえ、初めて見る化粧をしていないパジャマ姿の和恵の姿は、更に独特な雰囲気を作り出す演出効果を生み出していて、シンちゃんはどうしていいか分からずに固まっていた。
「シンちゃん、ちょっと見ない間に大きくなったね」
強張った表情のシンちゃんに、和恵は優しい笑顔で声を掛けた。
すっぴんの和恵に違和感があったが、優しい笑顔は見慣れたいつもの和恵だったので、シンちゃんの緊張が少し緩んだ。
だけど、返す言葉が見つからなかったので、シンちゃんは返事の代わりに笑顔を和恵に向けた。
「身体の具合はどう?」
ユキが、和恵に聞いた。
「だいぶ良くなったわよ。順調に回復してるおかげで、明日退院するのよ」
和恵は嬉しそうに答えた。
ミヨちゃんが家に訪ねてきた時に、順調に行けば月曜日に退院の予定だと聞いていたので、予定通りに退院できることを知って、ユキは安心した。
「この前、ミヨちゃんが家に来て、同じことを言ってたから、順調だと月曜日に退院することは知ってたんだけどね。でも、良かった……」
「ミヨが、ユキの家に行ったの?」
何も知らされてなかった和恵は驚いた。
「そうなの。手術当日に私が立ち会ったことを、直接会ってお礼が言いたいからって、わざわざ訪ねて来てくれたの」
「そうだったの……。あの子、何にも言わないから……」
「ミヨちゃん、毎日会いに来てくれるんでしょ?」
「そうなの。仕事の帰りに、短い時間でも会いに来てくれるの」
「ミヨちゃんは優しくて良い子だよね。お姉さん、感謝しないと罰が当たるわよ」
からかうようにユキが言うと、和恵はフフフ……と笑った。
「明日はミヨちゃんが来てくれるんでしょ?」
「明日は仕事の休みを取ったって言ってたから……。来てくれると助かるわ。入院の時の荷物とか持って帰らないといけない物があるし……」
「大丈夫!きっと来てくれるわよ。お姉さんが手術した日に取れなかった分、休みを取るって言ってたし、仕事も落ち着いてるとも言ってたから……」
自信満々にユキは言い、和恵を安心させる。
ずっと和やかな表情でいた和恵は、急に真剣な面持ちになり、ユキを見つめた。
和恵の変化に気付いたユキは、自分が何か変なことを言ってしまったのかと不安を感じた。
「手術の日は、ミヨの代わりに立ち会ってくれてありがとう。ミヨの事情を知ってたから、あの子には一人でも大丈夫って言ったんだけど……。正直、ユキが側にいてくれて、とても心強かった。本当にありがとう」
そう言った後、和恵の視線はシンちゃんと健一に移った。
「健一さんにもシンちゃんにも迷惑をかけてしまって……。ごめんなさいね」
和恵は、健一とシンちゃんに向かって会釈した。
「気にしないでくださいよ。その日は僕も仕事が休みだったし、特に予定もなかったんで……」
咄嗟に、健一は明るく返した。
特に予定がなかったなんて……。
シンちゃんは、お父さんの嘘を聞いて、複雑な心境だった。
でも、ここで、本当はディズニーランドに行く予定だったってことを、和恵に知らせる気はなかった。
迷惑をかけてしまったと謝っている人に対して、追い討ちをかけることはできない。
シンちゃんの気持ちを複雑にさせているのは、健一の発言と態度だった。
葛藤しながらも折り合いをつけた自分の気持ちを、お父さんに軽くあしらわれたような気がしたのだ。
「シンちゃん?」
和恵が、シンちゃんに声を掛けた。
和恵は心配そうな顔で、シンちゃんを見ていることに、シンちゃんは気付いた。
考えてることが顔に出てたのかもしれないと思うと、シンちゃんは慌てた。
「何でもないよ。伯母さんが元気になって良かった」
咄嗟に笑顔を作って誤魔化す。
「ありがとう」
微笑んでいる和恵を見て、シンちゃんはホッとした。
病院を出たら、お父さんに文句を言ってやる!ということで、シンちゃんは自分のモヤモヤした気持ちに決着をつけた。
「お姉さん、気にしないでいいのよ。困った時は、お互い様なんだから……。それより、お土産、持ってきたの! あれ? お見舞いにお土産って言い方は変よね? 何て言えばいいんだろう? 」
後半、独り言のようにブツブツ言いながら、ユキは持ってきた品物を、小さな紙袋から取り出した。
「これ! お姉さんが前に使ってみたいって言ってたメーカーの保湿パック!」
ユキは自信満々に、お姉さんの前に品物を差し出して見せた。
疑問に感じていた、お土産の言い方は大した問題ではなかったようで、解決しないまま忘れ去られようとしていた。
健一もシンちゃんも、そんなユキの行動には慣れっこなので、適当に受け流す。
「あぁ……。そう、これ、前から気になってたのよ」
目の前に差し出された品物を見て、和恵の目は活き活きとしていた。
「病院の中って乾燥しやすいでしょ? 本当なら、もっと早く持ってくれば良かったんだけど……。明日、退院だもんね」
少し残念そうに、ユキは言った。
「そんなことないわよ! ありがとう! みんなが帰った後に、さっそく使ってみるわね」
和恵の声も、表情も、シンちゃん一家がお見舞いに来てから一番じゃないかと思う、元気の良さだった。
「ぜひ、後で使ってみて! 明日、退院だもんね。普段と化粧のノリが違って、キレイになっちゃうかもよ~」
和恵の右腕に、人差し指をツンツンさせながら、ユキが言った。
こんなに喜んでくれるとは思わなかった。手土産をこれにして良かった。
ユキは大満足だった。
この二人のやり取りを見て、健一もシンちゃんも、姉妹の仲の良さを感じていた。
兄弟のいないシンちゃんは、羨ましく思った。
病院を出ると、シンちゃんはあまりの寒さに慌てて脱いでいたダウンジャケットを着込んだ。
入院患者がパジャマ姿で過ごせるくらい、病院の中は暖房が効いていた。
健一とユキは予想していたようで、シンちゃんより先に防寒着を身に纏っていた。
専用駐車場に駐めている車を目標に歩きながら、シンちゃんは横にいる健一に、病院内での和恵とのやり取りに対して文句を言った。
「伯母さんに、特に予定もなかったって言ってたけど、ぼくはディズニーランドを凄く楽しみにしてたんだからね」
健一は冷静に、シンちゃんの言葉を聞いていた。
「仕方ないだろ? じゃあ、伯母さんの前でホントの事を言えばよかった?」
この健一の返事に、シンちゃんは意地悪さを感じた。
仕方ないのは分かってるけど、後半の健一の言葉は明らかにシンちゃんを困らせることだった。
「仕方ないのは分かってるよ! ただ、お父さんの言い方が嫌だったんだよ!」
シンちゃんは、気持ちをスッキリさせたいだけだった。
シンちゃんの文句に対して、健一が一言「ごめんね」て言ってくれたら済んだことだったが、健一の反論は余計シンちゃんの不満を募らせた。
シンちゃんは歩く速度を上げて、不満を態度に表した。
誰よりも早く置いてある車の前に辿り着いたが、車の鍵を持っていないので結局、健一を待つ形となってしまう。
不満を募らせたまま、シンちゃんは後部座席に乗り込んだ。
一番最後にゆっくりと運転席に座った健一が、ルームミラーに目を向けた。
明らかにシンちゃんが不機嫌なのが分かる。
健一は、シンちゃんが求めている言葉を、なんとなく分かっていた。
もし、ここで、「ごめんねって言えばいいの?」て言ったら、更に怒るんだろうな。
その場面を想像して、健一は心の中で苦笑した。
でも、さすがに大人げない態度はどうかと思うので、健一は想像の中だけで収めた。
車をゆっくりと移動させながら、駐車場を抜け、本道へと出る。
速度を上げて、周りとの流れに合わせながら、健一は一瞬だけ再びルームミラーに目を向けた。
浮かない表情で、シンちゃんは窓の外の景色を眺めていた。
健一は前を向いたまま、シンちゃんに謝ることにした。
「シンちゃんがディズニーランドを楽しみにしてたのは、よく分かってるよ。お父さんの言い方が良くなかったね。ごめんね」
健一の謝罪の言葉を聞いて、シンちゃんの視線が窓から健一の後頭部に移る。
求めていた言葉を健一から受け、シンちゃんの不満が一気に解消された。
にこやかな表情に変化したのをルームミラーで確認して、健一は子供らしいシンちゃんの態度に和んだ。
小学五年生といえど、まだまだ子供である。
車内に和やかな雰囲気が漂っていた中、ユキが割って入ってくる。
「ごめんね! ディズニーランドに行けなくなっちゃって! シンちゃんには悪いことしたなって思ってるのよ!」
元々の原因を作ってしまったユキは、助手席からずっと様子を窺っていたが、とうとういたたまれなくなってしまい、シンちゃんに詫びた。
振り返って謝罪するユキに、シンちゃんは慌てて否定した。
「いや、別に行けなかったことを怒ってたわけじゃないんだよ。もう済んだことだし……」
その後、シンちゃんは何に対して怒っていたのかをユキに説明することになった。
一通り説明すると、ユキは「あ、そういう事だったのね」と納得して、進行方向へ姿勢を戻した。
車内にまた、和やかな空気が流れ出す。
シンちゃんもまた、窓の外の景色に視線を戻した。
さっきとは違い、外の景色が色鮮やかにハッキリと見える。
あ、あのお店、ここにもあるんだ……。
それは、シンちゃんのお気に入りの回転寿司のお店だった。
たまに家族で利用していて、そのお店があちこちにあることは知っていた。
また食べに行きたいな……。
そんな感じで、発見を繰り返しながら流れていく外の景色を楽しんでいた。
暫くすると、ふと、病室での伯母さんの姿が頭に浮かんだ。
化粧っ気のない、血色が悪そうな顔は、明らかに具合が良くなかったことを表してた。
そう、シンちゃんは捉えていた。
病人でなくても、普段から化粧している人がしていないと、顔色が悪く見られることがあるので、明らかに今でも具合が悪いとは言い切れなかった。
対策として、顔色を悪く見せないように、化粧をする時に頬紅を塗ったりと工夫するのだが、そんなことをシンちゃんが知るはずもなかった。
シンちゃんは、伯母さんは病院に入院しなくてはいけないくらいの病気だったんだ、ということを見せつけられた気がした。
ユキから話で聞いた時は、なんで伯母さんの手術の日が同じ日なんだよ! くらいにしか思ってなかった。
―― 命が掛かってるのよ ――
以前、ユキと口論した時の、ユキの言葉をシンちゃんは思い出す。
その言葉の重さを、今更ながら感じ始めていた。
伯母さんの病気に対して、ディズニーランドに行けなくなったことで文句を言っている自分を思い出して、徐々に後ろめたい気持ちが込み上げてくる。
病院の中での健一に対してもそうだ。
伯母さんに気を遣わせないようにした健一の言葉に、ムッとしてしまって、ついさっきまで健一に謝罪の言葉を求め、責めた。
ミヨちゃんに対しても、手術の日に仕事を選んだことに疑問を感じていた。
自分のお母さんなのに心配じゃないのか? と思っていた。
でも、ユキと和恵の会話で、ミヨちゃんが仕事で遅くなって面会時間がわずかしかなくても毎日通っていることを知って、ミヨちゃんが本当に和恵を心配していたことが分かった。
お父さんも、お母さんも、ミヨちゃんも、伯母さんを心配しているのに……。
まだどこかで、行けなかったディズニーランドに拘っている自分に、情けなさを感じた。
じわじわと、シンちゃんの心の中を罪悪感が占領していた。
それと比例するように、ずっと眺めていた窓の外の景色は、徐々に色を無くしていく。
やがてそれは、シンちゃんの瞳に映らなくなっていた。
病院から帰宅するとすぐに、シンちゃんは自分の部屋に入った。
「ただいま」
シンちゃんは、そう言いながら、まっすぐアレンの元へ向かった。
アレンの元へ進んで行くシンちゃんの表情は、暗く沈んでいた。
勉強机に辿り着くと、膝を床に着けた。
シンちゃんとアレンの目線の高さは、ほぼ同じになる。
「伯母さんに会ってきた。僕はディズニーランドに行けないのは、伯母さんとミヨちゃんのせいだって思ってた。もうとっくに諦めたことなんだけど、どこかでずっとそう思ってたんだ。でも、伯母さんに会ったら、酷いことを考えてたんだって分かった」
一気にそう言うと、シンちゃんは勉強机に顔を埋めた。
「お父さんも、お母さんも、ミヨちゃんも……みんな、優しいのに……。ぼくは、自分のことばっかり……」
自分のことしか考えることができないことに、嫌気がさしていた。
勉強机に顔だけ埋めているシンちゃんに、アレンは(そんなことないよ。シンちゃんは優しいよ)と慰めてあげたかった。
だけど、声をかけてあげることも、シンちゃんに触れてあげることもできない。
腕が動けば届きそうなくらい、こんな近くにシンちゃんがいるのに。
アレンは見守るしかできないことに、もどかしさを感じた。
―― 見守ることしかできないことが、そのうちアレンを苦しめていくような気がするんだ ――
前にゼロにそう言われたことがあったな……と、アレンは思った。
その時は、言ってる意味がよく分からなかった。
シンちゃんと一緒にいられることが嬉しい。
毎日のようにシンちゃんに話しかけられることは、自分の存在を認めてくれているようで、嬉しい。
今までは、アレンはその嬉しさだけで、十分満足だった。
でも、今初めて、ゼロの言ってた意味が分かったような気がする。
公園で不安な気持ちでいたのを助けてくれたのは、シンちゃんだ。
家の中に居場所を作ってくれたのは、シンちゃんだ。
モノとしてではなく、アレンという名前を付けてくれて、アレンとして接してくれたのは、シンちゃんだ。
シンちゃんは、十分優しい気持ちを持ってる。
それを、伝えたいのに、教えてあげたいのに、アレンにはその術がなかった。
自分はシンちゃんのために何もしてあげられない。
そう思うと、ゼロの言葉が蘇り、何度もアレンの中で繰り返された。
―― 望むのなら、感情を無くして普通のロボットに戻してあげる ――
ピピピ、ピピピ、ピピピ……
シンちゃんの頭の上の、目覚まし時計が鳴っている。
目覚まし時計の音を止めて、シンちゃんはベッドから起き上がった。
ベッドから離れると、真っ先にカーテンを開けた。
窓から外の景色を見ると、空は曇っているせいか、朝七時の時間帯でも薄暗かった。そこから下に視線を向けると、家々の屋根も地面も雪で覆われていて、白い世界が広がっていた。
「わぁ! 積もったんだ!」
外の雪景色を見て、シンちゃんは興奮していた。
「おはよう、アレン。雪が積もってるよ」
振り返り、アレンに朝の挨拶をすると、学校に行く支度を始めた。いつもより、その動作はキビキビとしていた。
アレンは雪を見たことがなかったので、シンちゃんに報告されて、どんなものなのか見てみたかった。
「中休みの時間に雪合戦ができるよ。あっちゃん達に言わなくちゃ!」
アレンの気持ちに気付かないシンちゃんの声は、高くなり過ぎて、時々裏返りそうになっていた。
その声で、シンちゃんが凄く嬉しいんだと分かる。
ランドセルを背負うと、勢いよく部屋を出て行った。
シンちゃんがいなくなり、雪を見る機会が無くなったことを、アレンは残念に思った。
東京では、雪が降るのは年に数回くらいだし、雪が積もるということは、更に確率が低いことだった。
だから、その数少ない機会に出会えたことに、シンちゃんが興奮するのも無理はなかった。
アレンは残念に思いながらも、シンちゃんが朝の挨拶をしてくれたことが嬉しかったので、すぐに気持ちを切り替えることができた。
本棚に飾られてある卓上カレンダーは、二月になっていた。
ゼロは、アレンに提案して以来、姿を現さなくなった。
アレンの返事を待っているのだということは、アレン自身も分かっていた。
伯母さんのお見舞いから帰ってきて、落ち込んでいたシンちゃんは、自分の中で気持ちの整理がついたのか、翌日にはいつものシンちゃんになっていた。
周りの助けを借りずに自分を立て直していった、そんなシンちゃんを見て、アレンは人間の強さを再認識した。
気が付けば、ゼロの提案から二ヶ月が経っていた。
アレンの中には、考え抜いた上での結論が出ていた。
(ゼロ)
落ち着いた声で、アレンはゼロを呼んだ。
アレンの呼びかけを待っていたかのように、ゼロの存在を現す光の玉は、すぐに姿を見せた。
(ボクは、どうしたいのか、分かったよ)
アレンの言葉を聞いて、光の玉はゆらゆらと揺れ動いていた。
『ようやく分かったんだね。元のロボットに戻るんだね?』
ゼロの声も落ち着いていた。
(いや……。このままで、いいよ)
アレンは小さな声で呟いた。
予想外の答えにゼロは驚いた。声には出さなかったものの、光の玉が一瞬見えなくなりそうなくらい、薄く霞んだ。
それは、明らかにゼロが動揺している証拠だった。
『よく考えたんだよね? アレンには、たくさんの時間をあげたつもりだよ』
どうしてそういう答えを導き出したのか分からない、と言わんばかりの発言だった。
それもそのはず、アレンが選んだ道は、困難なことが多く待ち受けているからだ。
自分の努力では乗り越えることができない、という絶望を体験したはずなのに。
(そうだよね。元のロボットに戻る方が楽だよね)
苦笑した声で、アレンは言った。
『分かってるなら、どうして……』
(本当に、いろいろ考えたんだよ)
アレンは今まで考え続けた自分を思い出しながら、ゆっくりと話し始めた。
(このままでいることは、今まで体験した悲しみや辛さを、これからも体験することになるだろうし、大切なシンちゃんに何もしてあげられないことで苦しくなることだってあるだろうね)
『………………』
今まで意見していたゼロは、もう何も言わなかった。
(でもね……。それ以上に、シンちゃんが分からなくなることの方が、嫌なんだよ)
そう、発した声は、とても苦しそうだった。
(ボクが元のロボットになるってことは、何も感じなくなるし分からなくなるってことなんだよね? それって、シンちゃんのことが分からなくなるってことなんだよね? 今まで一緒にシンちゃんと過ごしたことを全部忘れちゃうってことなんだよね? )
矢継ぎ早に、ゼロに質問をぶつけた。
『……そのとおりだよ……』
ゼロの声は、質問をぶつけていく毎に強い口調になっていくアレンとは、対照的だった。
(やっぱり、そうなんだね)
何ヶ月も考えている間、アレンは元のロボットになることを想像していた。
元のロボットといえば聞こえは良いかもしれないが、モノになるということだ。
オモチャという種類の名前が付いた、ただのモノだ。
モノになるということは、何もかもが分からなくなるのでは……と、アレンは危惧していた。
その不安が、ゼロの返事によって的中した。
そのことが分かると、アレンの中の迷いは一切なくなっていた。
(感情を無くすことも、このままでいることも、どちらもボクにとっては辛いことなんだろうね)
どちらの選択も辛いこと……。ゼロの中には、そんな考えは全くなかった。
(ゼロの気持ちは分かるけど、今まで辛いことばかりじゃなかったんだよ。シンちゃんの側にいて楽しかった。シンちゃんの気持ちをボクに話してくれるのは、ボクを必要としてくれてるからなんだと思う。それが、とても嬉しかった)
そのことに気付いたのは、いつだったかアレンは思い出せなかったが、随分と時間が経っているように感じた。
毎日のように声を掛けてくれるのは日常になっていたが、何かの出来事がある度に、シンちゃんはアレンに話しかけていた。そして、その状況は、徐々に増えていった。
とりとめのない話から深刻な悩みまで、シンちゃんの話をアレンはいつも聞いていた。
時々、「アレンはどう思う? 」て聞かれて困ることはあるけど、答えが返ってこないと分かってるのに自分に意見を求めてくる。
でも、アレンが反応できなくても、それに対してシンちゃんの態度や接し方が変わることはなかった。
そんなことを経験しているうちに、シンちゃんに必要とされているのかもしれないと、アレンは気付いたのだ。
(このままでいることは、決して嫌なことばかりじゃないんだよ。でも、元のロボットに戻ったら、大切なシンちゃんが分からなくなって終わりなんだよね)
何も言わずアレンの話を聞いていたゼロは、しばらく会わない間にアレンが成長していることに驚いていた。
ゼロはアレンの前に姿を見せないだけで、ずっとアレンを見ていた。
シンちゃんがアレンを必要としているのは、ゼロも感じていた。
だけど、アレンがそのことに気付くとは、思いもしなかったのだ。
それだけ、シンちゃんの気持ちを理解しようと努力していたということだけど、アレン自身の成長もなければ、そのことに気付けなかっただろう。
どれだけ、アレンがシンちゃんを大切にしているかが、ゼロはよく分かった。
『そうだね。でも、アレンが選ぼうとしている答えは、決して楽ではないよ』
念を押すように、ゼロは言った。
決して良いことばかりが待ち受けている訳じゃない。
このままでいることは、シンちゃんの側にいる実感はあるかもしれないけど、良いことがあると同時に辛いこともあるということだ。
元のロボットに戻るのは、シンちゃんを失うし、その瞬間は辛いかもしれないけど、その瞬間だけだ。
アレンが選ぼうとしている答えは、相当の覚悟が必要なことだと、ゼロは感じていた。
(そうだろうね。でも、良いこともあるから……。そのことを忘れないようにしていけば、大丈夫だと思うんだ。それが、簡単なことじゃないことも分かってるけどね)
その言葉を聞いて、アレンにはその覚悟ができていると、ゼロは判断した。
ゼロには、あえて自分を困難な方向へ追いやるアレンの考えは理解しがたいが、とても興味深かった。
『そこまで分かってるのなら、もう何も言わないよ』
ゼロの声は、さっきまでの熱の入った言い方とは異なっていた。
『フフ……』
鼻から息が抜けるような、ゼロの短い笑い声が聞こえた。
『君とは長い付き合いになりそうだね……』
諦めが入ったような、スッキリしたような、複雑な想いが入り混じった口調で、アレンに言った。
その言葉を聞いて、アレンは驚いた。
答えを出した時点でゼロとの別れがくるかもしれない、と思っていたからだ。
『君が元のロボットに戻ると答えたら、お別れを言おうと思ってたんだ。これ以上、君を見届ける必要はないからね』
『まさか、別の答えが返ってくるとは思わなかった。予想してなかったよ』
笑いながら言う、ゼロの光の玉は、ゆらゆらと揺れていた。
(これからも会ってくれるの? )
アレンは、弱弱しい声でゼロに確認した。アレンも、これは予想外の展開だった。
『会いたくなったら、私を呼んで。アレンも、話し相手が必要でしょ?』
(話がしたくなったら、いつでも呼んでいいの?)
期待を抱いた口調で、アレンが聞いた。
『そんなに暇してるわけじゃないんだけどね……』
苦笑まじりに、ゼロは期待しすぎないように、軽くアレンに釘を刺した。
それを聞いて、ゼロは姿を現さない時は何をしてるんだろう? と、アレンは不思議に思った。
いつも困った時に姿を現しては助けてくれるので、常にずっと見てくれてるのだと、勘違いしていた。
『もし、呼んでも現れなかったら、忙しいんだと思って、ガッカリしないでね。でも、できるだけ会いに来るから……』
(分かった。……ありがとう)
もう会えなくなるかもしれない……と思っていたアレンには、その言葉は十分すぎるくらい嬉しかった。
何もない、黒く覆われた空間に、ゼロの光の玉はポツンといた。
周りが黒一色なので、どこまでが空間なのかは分からない。
狭いのか、果てしなく感じるくらいに広がっているのか。
その空間の中に、光の玉だけが、外側の輪郭部分の光の強さを変えながら浮かんでいる。
それはまるで、厳かな儀式がこれから始まるような、そんな雰囲気を醸し出していた。
やがて、ゼロを何十倍にもした大きな光の球体が、姿を見せた。
ゼロ自身の大きさは、例えるなら大人が使用するソフトボールくらいだ。
それの何十倍にも膨れ上がった光の球体が、ゼロの前に現れる。
大きさは異なるが、発する光の強さは、ゼロと似ていた。
『ご報告します。今回のR4の実験ですが、予想外の結果となりました』
ゼロは、自分の何十倍もある光の球体に向かって話し始めた。
『モノに感情を入れてみるという実験に対して、大方の予想では〈元のモノに戻ることを希望する〉若しくは〈錯乱状態などにより精神面に何らかの支障が出る〉と言われてましたが、R4は〈このままの状態でいる〉ことを希望しました』
ゼロの報告を聞いて、何十倍もの大きな球体の光が、一瞬見えなくなりそうなくらい薄く霞んだ。
予想外の結果に驚いているようだった。
『これまでのR1からR3までの結果と違い、初めてのことです』
今までR1から実験を重ねて、どの実験も予想していた通りの結果となっていた。
『おそらく人間に必要とされているという意識が、R4を踏み留まらせたものだと思われます』
ゼロの発言に、再び大きな球体の光が薄く霞み、光が安定すると、ゆらゆらと揺れ始めた。
『はい。そうです。その意識が生まれるということが、実に興味深いと思いませんか? R4は成長をしていると思われます』
『そこで、お願いがあります』
一呼吸おくことなく、ゼロは話し続けた。
『私に、この任務を継続させてください。今回の結果は、まだ通過点に過ぎません。R4が、どこまで今の状態でいることができるか、どう成長していくのかを見ていきたいのです』
自分の希望していることを説明した。熱が入っているせいか、その口調は強くなっていた。
大きな球体は微動だにしない状態で、ただ時間だけが過ぎていった。
ゼロの要望に対して、どうするかを考えているようだった。
アレンと交流するにつれ、ゼロはアレンに対しての興味が強くなっていたし、アレンが自分を必要としていることも感じていた。
ここまで築き上げた関係もあり、この任務を継続するとしたら自分しか適任者がいない、という自信がゼロにはあった。
大きな球体から出る答えを待つ時間が、じれったかった。
やがて、大きな球体が動き始めた。
その答えは、ゼロを大きく喜ばせた。
『ありがとうございます! きっと更に面白いデータ材料が得られると思います』
力強いゼロの返事に、大きな球体が更に大きく、ゆらゆらと反応した。
どうやら、ゼロの発言に満足しているようだった。
『はい。また何かありましたら、ご報告します』
ゼロが言い終わると、大きな球体はゆっくりと消えていった。
今となっては、任務としての更なる大きな期待を寄せられた喜びなのか、任務を超えてアレンとの関係を継続できる喜びなのかは、ゼロの中では分からなくなっていた。
だけど、これからどう成長していくか見えない、未知数な能力を秘めているアレンの存在に、ゼロが強く惹かれているのは確かだった。
ジジジジジジ……。
家の中にいても、アブラゼミの鳴き声が聞こえてくる。
シンちゃんの満喫した夏休みも、残り一週間となっていた。
宿題は大方片付いていたが、あと一冊の読書と読書感想文が残っていた。
夏休み中に本を三冊読む課題はまだ達成していなかったが、読書感想文を書く対象の本は既に決まっていた。
なので、最後の一冊の本は読める所まで読んで、教室で配布された記録ファイルに書き込もうと思っている。
とりあえず、読書感想文を書いたら宿題が終わるのだが、得意な作業ではないため、シンちゃんの腰は重かった。
今日は午前中に学校のプール教室があった後なので、尚更だ。
昼食を取って、お腹が満たされた後に襲ってくる気だるさと戦いながら、自分のベッドにうつ伏せ状態で、最後の課題の本を眺めている。
とても集中して読める状態ではなく、ただなんとなく活字を目で追っていた。
明日、読書感想文を書こう……と、思いながらベッドに横たわっている状態ではあるけど、それは傍から見れば一応勉強している格好にはなっていた。
果たして明日には読書感想文を終わらせることができるのだろうか? 明日もプール教室の予定が入っている。
「あ――! 暑い!」
部屋の窓を開けてはいるものの、夏の午後の暑さには敵わなかった。
シンちゃんは不機嫌そうに言ってベッドから起き上がると、扇風機のスイッチを入れて、ベッドにこれから自分が横たわるであろう姿を想像して、扇風機の首振りの範囲や角度をセッティングし始めた。
再度、ベッドに横たわって扇風機から送られてくる風の確認をすると、不満が解消されたのか、閉じた本を開いて視線を落とした。
シンちゃんの部屋にはエアコンは備え付けられてなかった。
自分の部屋で勉強することがなく、ほぼ寝るだけのための部屋となっているため、ユキと健一に今は取り付ける必要なし! と判断されていたからだ。
部屋の窓は南向きのベランダに通じる大きな掃き出し窓と、本棚の横に小さな小窓が設置してあり、二か所の窓を開けることで風の通り道ができる。
寝苦しい夜は、扇風機の首を回しながら身体に風を当てる。
これで今のところは、夏を乗り切れていた。
シンちゃんが本の活字を上から下へと眺めている動作を続けている所へ、コンコンと入り口のドアをノックする音が聞こえてきた。
その音に反応してシンちゃんが首だけ振り返ると、ユキが立っていた。
「埼玉の伯母さんとミヨちゃんが来てるから、下に降りておいで」
明るい声でユキが誘った。
伯母さんとミヨちゃんは、いつ家に来たんだろう? 玄関のチャイムは鳴ったんだろうか?
シンちゃんは不思議に思った。
「玄関のチャイムは鳴ったの?」
「鳴ったわよ。気付かなかった?」
玄関のチャイムに気付かないくらい、本にのめり込んでいたんだろうか? と思ったが、すぐにこの考えは否定した。その証拠に、本のあらすじが、全く頭に入っていなかった。
せいぜい、話の主人公は悟という小学六年生の男の子くらいしか分かっていない。
「勉強中だったの? 切りの良いところで降りて来てね」
ユキは、シンちゃんの頭の近くに開かれてある本を見て、そう告げると、部屋を出て行こうとした。
「待って! 一緒に行くよ」
ガバッと起き上がって、シンちゃんは部屋の入り口に向かった。
二人は階段を下りて、和恵とミヨちゃんのいるリビングに向かった。
リビングに入ると、室内はエアコンが効いてヒンヤリしていた。
決して設定温度を低くしてあるわけじゃないけど、湿気が取れた部屋の中は快適だった。
「シンちゃん、夏休みなんでしょ?」
ニコニコしながら、ミヨちゃんが声を掛けた。
ミヨちゃんは、淡いブルーの色地に花柄の涼しげなワンピースの上に、白い編みレースのカーディガンを羽織っていて、柔らかい笑顔によく似合っていた。
対して、和恵は白のシャツに黒のパンツ、上に薄いグレーの羽織物と上品な雰囲気があった。
シンちゃんは、和恵の変身ぶりに驚いていた。
目の前にいる和恵は、お見舞いに行った時の和恵とは別人だった。
「うん、夏休み。あと一週間だけどね」
「宿題は終わったの?」
「まだ……。読書感想文が残ってるんだ」
「大変そうなのが残っちゃってるんだね。頑張ってね」
シンちゃんとミヨちゃんのやり取りが終わると、ユキが両手で包装された物を抱えてシンちゃんの前に見せた。
「伯母さんとミヨちゃん、那須高原に旅行に行ったんだって。そのお土産を貰ったのよ」
その包装紙にはチーズケーキと書いてあった。
「わあ、チーズケーキ大好き!」
シンちゃんは包装紙を見て、すぐに反応した。
「良かった! 二つ持ってきたから、たくさん食べてね」
そう言いながら、ミヨちゃんは同じ品物を紙袋から出して見せた。
「二つも? ありがとう!」
無邪気に喜ぶシンちゃんを見て、和恵とミヨちゃんは嬉しそうに顔を見合わせた。
「じゃあ、コーヒーを入れるから、ケーキを皆で頂きましょう」
ユキがチーズケーキを抱えたまま、カウンターへと向かった。
「あ、私とミヨはコーヒーだけで……」
和恵が、ミヨちゃんの顔を見ながらチーズケーキを断った。
「そうなの?」
前回に引き続き、またしても断られてしまい、ユキは少しガッカリする。
「私達の分は別に買ってあるから……。シンちゃんとユキで食べたら?」
和恵に提案されても、大人二人、ましてや客人の前ではなんとなく食べづらい。シンちゃんは子供の特権として気にしなくていいのだろうけど。
そんなことを考えながら、ユキはカウンターに置いたチーズケーキの包装紙を見つめていた。
「私達の事は気にしないで食べたらいいじゃない。ユキはケーキ、大好きでしょ? 私の前で遠慮なんかしないでよ」
ユキの残念そうな顔を見て、苦笑いしながら和恵は言った。
そうか……。客人といっても相手は自分の姉だ。何を今更……、て思われるのは、もっともだ。それに今回は、ミヨちゃん一人が食べない状況でもないし。
「そうね。じゃ、遠慮なく頂くわね」
和恵の言葉に納得して、ユキは機嫌良くお茶の準備を始めた。
暫くすると、部屋の中にコーヒーの香りが漂ってきた。
シンちゃんはコーヒーの良さが分からないけど、この香りは嫌じゃなかった。
「シンちゃん、お見舞いに来てくれて、ありがとう」
和恵はシンちゃんに向かって礼を言った。
「伯母さん、元気になって良かった」
社交辞令ではなく、本心から出た言葉だった。
すっかり顔色も良くなり、いつもの見慣れた和恵に見えたからだ。
メイクで顔色を良く見せる技があることを、相変わらずシンちゃんは知らなかった。
「ありがとう。もう、すっかり元気よ。旅行に行けるくらいにね」
そう言いながら、和恵は右腕で力こぶを作るようなポーズを見せた。
その様を見て、シンちゃんもミヨちゃんも笑った。
「どうぞ」
タイミング良く、ユキがトレイに乗せたコーヒーカップ三人分と、切り分けられたチーズケーキ二人分と、シンちゃん用のリンゴジュースをダイニングテーブルの上に置いた。
リビングのソファーで談笑していた三人は、ユキの合図でダイニングテーブルに移動した。
「美味しそう!」
移動しながら見えてきたチーズケーキに、シンちゃんが反応した。
適当にそれぞれ席に着くと、シンちゃんの「いただきます」の挨拶をきっかけにティータイムが始まった。
「美味しい!」
チーズケーキを一口食べて、シンちゃんが言った。
その後に続いて、ユキも同じ反応をする。
「美味しいでしょ?」
ニヤリと笑いながら、和恵は二人の反応に満足した。
「お土産選んでる時に試食して美味しかったのよね。おかげでユキ達のお土産が、すぐに決まったのよ」
和恵は隣に座っているミヨちゃんを見ながら話した。
「そうなの。思わず、うちの分も買ったんだもんね」
ミヨちゃんも和恵を見ながら、言葉を返した。
しっとりとしてコクのあるチーズケーキの味の魅力に、四人共とりつかれていた。
ティータイムが終わると、和恵とミヨちゃんは「そろそろ帰るわね」と席から離れた。
ユキはテーブルの上の食器をトレイの中にまとめてカウンターに置き、その近くに置かれてある買い物用のバッグを手に取った。
「シンちゃん、お留守番しててくれる? ママは、お買い物して帰るから……」
「うん。分かった」
伯母さん達を途中まで送って買い物をして帰るなら一時間くらいかな……と、シンちゃんは思った。
シンちゃんの家から和恵達が乗る電車の駅まで、歩いて十分くらいの距離だ。
その駅の近くにユキがよく利用するスーパーがあった。
その間、この涼しい部屋に移動して課題の本を読むことにしよう。今なら、本が進みそうな気がする。
シンちゃんは頭の中で、この後の段取りを考えていた。
玄関先で、和恵とミヨちゃんに「またね」と挨拶をして、ユキに「いってらっしゃい」と声を掛けて送り出した。
玄関のドアが閉まり三人の影が見えなくなると、シンちゃんはリビングで本を読み進めるために、自分の部屋へ本を取りに行った。
ユキ達三人は、閑静な住宅街を横に並んで、それぞれ日傘を差し、駅に向かって歩いていた。
時刻は四時過ぎだというのに日差しの強さは衰えることなく、蒸し暑かった。
ジジジジジジ……と、相変わらず元気そうにアブラゼミが鳴いている。
シンちゃんには「お買い物」と伝えたが、ユキは特に必要な買い物は無かった。
ユキが必要としていたのは、和恵達とだけで話す時間だった。
和恵達が家に訪ねた時間は、タイミング悪くシンちゃんのおやつタイムと重なったため、すぐにシンちゃんを呼びに行くことになり、和恵達と三人で話す時間が取れなかったのだ。
それが心残りで、玄関先でそのまま別れるということができなかった。
それを和恵もミヨちゃんも感じているのか、歩く速度はゆっくりだった。
「お姉さん、あれから体調はどう?」
「旅行に行けるくらい良くなったわよ。まだ、時々、手術した傷が痛むけどね。でも、その回数も減ってきてるの」
「そう……。良かった……」
家に訪ねに来るまでに、和恵の状態はミヨちゃんから電話で聞いていたので、大体分かっていた。
退院後の初めての診察で、医師から「平滑筋腫」と告げられ良性の腫瘍だったこと。
手術の傷が痛むので、診察の時に痛み止めを処方してもらったこと。
今回の事で、ミヨちゃんは色々考えさせられ、親子の思い出を増やしていこうと那須高原の一泊旅行を計画したこと。
腫瘍が良性だと分かった時は、電話越しにミヨちゃんと喜び合った。
ミヨちゃんがこれまで抱えていた辛さや重さを聞いた時は、電話越しで貰い泣きした。
いつの間にか、姉の和恵よりミヨちゃんと接する時間が増えていたことに、ユキはふと気付いた。
でも、病状も落ち着いたことで、これからは電話で接する時間も減っていくだろう。
「温泉には入ったの?」
「入ったし、露天風呂も楽しんだわよ。これも手術の傷口が小さく済んだおかげね」
「そんなに気にならないくらいの傷口なの?」
「そうよ。もうほとんど目立たないわよ。見る?」
そう言いながら、和恵は両手でシャツを捲ろうとする仕草を見せた。
「今でなくていい! また今度ね!」
ユキはギョッとして、慌てて断りの言葉を掛けた。
「お母さん!」
ミヨちゃんも、すぐに和恵を嗜めた。
駅も近くなり人の往来も増えてきたこの場所での和恵の行動に、二人とも驚かされる。
二人の慌てた様子に、和恵は大笑いした。
「そうね。さすがにここじゃあ見せられないわね」
行き交う周りの人達を見て、和恵も納得した。
「今度、写真を撮って携帯に送るね」
よほど見せたいのか、和恵は新たな提案を持ち掛けた。
「……待ってるね」
正直、それもどうかと思うが、見たい気持ちもあったので、和恵の提案をユキは受け入れた。
横でミヨちゃんがクスクス笑っていた。
実際に会うと、和恵は予想以上に元気そうで、ユキは安心した。
ユキが買い物から帰宅したのは、シンちゃんが予想していた通り、約一時間後だった。
ユキがキッチン側のドアから室内に入ると、シンちゃんはリビングのソファーにゴロンと横になって課題の本を読んでいた。
キッチンからリビングは繋がった一つの大きな空間となっているので、その光景はすぐにユキは確認できた。
「おかえり」
音でユキが同じ空間に加わったことが分かり、シンちゃんは態勢を変えることなく声だけでユキを出迎える。
この快適な空間で本を調子良く読み進めている、このペースを崩したくはなかった。
夕食までの残りの時間で、本の半分以上は読めるかもしれない。
時計を気にして一瞬視線を移動させ、またすぐに本へと意識が戻った。
ユキも読書に集中しているのが分かり、「ただいま」とだけ返すと、食事の支度に取り掛かった。
「御飯よ」
夕食のおかずをダイニングテーブルに並べ終えて、ユキがソファーに横たわっているシンちゃんに声を掛けた。
その声を聞いて、シンちゃんは読んでいる本を数ページめくった。
あと5ページで一つの章が終わることが分かると、そこまで読んでしまおうと思った。
「あと、もう少しだから、待って」
シンちゃんの返事を聞いて、ユキは茶碗にご飯をよそうのを止めて、スマホを操作し始めた。
画面にはメールが一件来ているお知らせサインが付いていた。
それは姉の和恵からだった。
―― 今日は楽しかったよ。明日からミヨも私も仕事が始まるけど、頑張るね。――
その短いメッセージの下に、お腹をアップした画像が添付されていた。
一面肌色だが、駅に向かう道のりで手術の傷のやり取りをしてたことと、ヘソの存在によって、それが何の画像だかが、すぐに分かった。
この画像の中に手術の傷跡は、すぐには見つけられないくらいの大きさだった。
姉さん…………。
本当に送られてきた画像を見て、ユキは苦笑いした。
距離を調整して自分で確認しながら何度も撮ったんだろうか。それともミヨちゃんに頼んで撮ってもらったんだろうか。もし、ミヨちゃんに頼んだのなら、きっとミヨちゃんは呆れてたに違いない。
画像が出来るまでの工程を想像すると、とても面白かった。
「なに?その写真」
背後でシンちゃんが質問した。
残り5ページを読み終わりダイニングに移動したシンちゃんに気付かず、ユキは驚いた。
シンちゃんは移動する時に、ニヤニヤとスマホを眺めているユキが気になり、背後から覗いたのだ。
「伯母さんのお腹」
「えっ?」
ユキの答えにシンちゃんは絶句した。
シンちゃんの反応は、もっともだとユキは思った。
「手術したお腹の傷が分からないでしょ? 最近の手術は凄いねぇ」
ユキの説明で、何でユキがその写真を眺めていたのかが納得できた。
手術と言えばメスで切る、そういう場面をテレビで何度も見ていたので、シンちゃんのイメージは、いつの間にか出来上がっていた。
でも、その写真には、どこにも切られた跡が無かった。
「ほんとだ。全く分からないね」
食い入るように写真を見て、シンちゃんは同意した。
シンちゃんの中で、手術のイメージが変化した。
素直に医療の進歩に感心しているシンちゃんを見て、これが誰が撮った写真で誰から送られてきたのかは、和恵の名誉の為に言わないことにした。
「じゃあ、ご飯にしよっか」
ユキはスマホの画面を閉じて、振り返り、シンちゃんに笑顔を向けた。
下での用事を全て済ませると、シンちゃんは片手に本を持ち、自分の部屋に入った。
日中の暑さの余韻が残っており、部屋の中を一歩足を踏み入れると、むせかえるような暑さが襲ってきた。
二か所の窓からは風が吹いている気配はなかった。
今夜も扇風機を回して寝なくちゃ……そう思いながら、シンちゃんは定位置に存在するアレンに近づいた。
そして、いつものように、膝から下を床に着けて、アレンと目線を合わせる。
「今日ね、埼玉の伯母さんとミヨちゃんが来たんだ。旅行のお土産のチーズケーキが、とっても美味しかったんだよ。それとね…………」
今日あった出来事を、シンちゃんはにこやかな表情で話し始める。
アレンは表情で表現することはできないけど、もしできていたらきっとシンちゃんと同じ表情をしているだろう。
今夜も自分を必要としてくれていることに、アレンは喜びを感じている。
確かな存在
発達障害そのものをテーマにした作品ではないので、特性について触れてはいますが、ハッキリと分かりにくかったのではないかと思います。発達障害を抱えている旦那さんに読んでもらったのですが、ストーリーが分かりにくいとの感想でした。そういう意味では失敗作だと思います。
でも、このまま埋もれさせるのもどうかと思い、作品を出すことにしました。
読んでいただいた方に何かしら感じる物があったとしたら、すごく嬉しいです。
最後まで読んでくださった方には心から感謝します。
お付き合いくださり、ありがとうございました。