ボクノオモイ

『俊ちゃん、何見てるの?』
 突然目の前に出された紙の文字を読んでから、僕は隣に座っている乃愛を見た。彼女は不思議そうに僕を見つめていた。
 ええと、何を見ていたんだっけ、と慌てて思い出そうとする。握っているボールペンをくるくると回し、ようやく思い出した答えを紙に書いた。
『空見てた』
 彼女はそれを見て、頭を上げた。僕も真似をして、上を向く。本当にキレイな空だった。ほのかに紅く、浮かんでいる雲が綿菓子のようでとても可愛らしい。視界の端に見える緑から、バサバサと飛び出していく鳥を見届け、目を瞑った。この公園のベンチから見る空が、僕は一番好きだった。なんだか、とても落ち着くのだ。
 頭を元に戻して乃愛を見ると、彼女はにっこりと微笑んでいた。訊かなくても、空の感想は分かった。
 僕の彼女、乃愛は耳が聞こえない。そのため、喋ることもできない。理由は聞いたことがないが、僕と出会う前からそうだったのだろう。手話はできるらしかったが、彼女は僕と筆談だけで会話をする。僕が手話を一から教わるのは負担になると考えてくれたらしい。
 そんなこと、別にいいのに。そう思ったが、僕は乃愛との筆談が楽しかった。だから素直に受け入れることにして、こうして毎日メモ帳を持ち歩いている。
『蝉の声、聞こえる?』
 僕はうんうんと頷いた。彼女はそっか、とでも言いたそうな顔をして前を向いていた。聞いたことのある蝉の鳴き声を思い出しているのだろう。
 こんな他愛のないことでも、僕は彼女との会話が好きだった。時間さえあれば、僕らはどこかに出かけて、たくさん話した。水族館や動物園など生き物に触れられるところが、彼女は好きだった。
 風が吹いて、ウェーブのかかった乃愛の黒い髪がなびいた。彼女が左手で耳にかけ直す。露わになった横顔に僕はつい目を向けた。頬が薄ら空と同じ紅に染まっているのを見て心臓の音が波打つ。最近、また一段と大人っぽくなったように感じた。
『仕事はどう?』
 渡された紙に僕は少し唸ってから、やっと読めるくらいの下手くそな字で答えを書く。
『そろそろ新曲を出したいと思ってる』
 乃愛はパチパチと手を叩いた。僕は思わず照れ笑いをして、彼女の頭を優しく撫でた。
 僕の仕事は一応、シンガーソングライターである。しかし売れないため、ライブハウスでのライブも少ない客の前で歌うばかりである。CDは出しても無駄という感じだった。ショップにも売り出してくれない。そのため、最近は音響のアルバイトがメインになってきてしまっていた。
 乃愛は、そんな僕の天使だった。彼女といる時はそういう不安な部分を忘れて一番安いでいられた。僕のだめなところも、彼女は優しく包み込んでくれた。
『どんな曲なの?』
 目を輝かせて、訊いてくる乃愛がとても愛らしい。本当に僕のことをこの子は応援してくれているのだ。そのまま抱きしめたいのをぐっと我慢して、僕は答える。
『まだ分からない』
 彼女が首を傾げたので、説明するように僕はその文の下に付け足した。
『新曲を出そうとは思ってるけど、いつ作るかは分からない。今はまだ何にも考えてないよ』
 理解したのか、乃愛はこくこくと頷いた。その姿がなんだか人形のようで、僕は思わず笑みがこぼれた。そっと手を伸ばし、もう一度彼女の頭を触ると乃愛は両手を握って「がんばって」のポーズをした。
 それから何十分もしないうちに乃愛が帰るというので、僕は手を振って彼女と別れた。一人になった帰り道で、バックの中に入れた会話を眺めた。今日もたくさん話したなあ、としみじみと思いながら、緩みそうになる口元を必死で直す。
 沈む太陽の前を鴉が飛んでいくのを見てから、僕は目を閉じた。目の裏側には紅が広がっていた。

    ◆

 ギターを床に置き、手で仰ぎながら、僕は冷蔵庫に向かった。冷えた麦茶をガラスのコップにいれて、一気に飲む。リビングの隅で静かに首を回している扇風機を見て、小さくため息を吐いた。クーラーが欲しい、と思ったのはこれで何度目であろうか。
 曲作りは順調ではなかった。いい感じのメロディーが思い浮かぶのは、大抵バイト中であり、終わる頃にはほとんど忘れてしまっていた。
「……だめだ」
 必死にメロディーを出そうとすると、聞き覚えのあるものや「何だこれ」と思うものばかりで、なかなか進まない。メロディーのあとには、歌詞も付けなければいけないし、それから覚えてきちんと練習して、次のライブには発表できるようにしなければいけない。時間はなかった。こんなところで手こずっている場合ではないのに、どうしようもできないもどかしさだけが残る。
 再びギターに触れようとした時、ケータイが勢いよく鳴りだした。ちらりと画面を見ると、メールの送り主は乃愛だった。
『近くに用事があって出かけるので、帰りに俊ちゃんの家に寄ってもいいかな?』
 少し迷ったが、このまま曲作りに専念してもあまり良いことはなさそうなので、僕はすぐにオーケーのメールを送った。今から乃愛が来ると思うと少し気分が楽になった。
 そこら中に散らばっていたメモ用紙を拾い上げ、くしゃくしゃに丸めると、すべてをゴミ箱に捨てた。溜まった紙屑を見つめて苦笑いをしたあと、ふっと息を吐く。これでまた一からやり直しだ。
 ベランダの近くの木に止まった蝉が、残り少ない生涯を訴えるように大きく鳴いていた。


 乃愛が来たのは、それから一時間後くらいだった。汗ばんだ彼女のおでこが外の暑さを物語る。近くに置いてあったタオルでその汗を拭いてあげたとき、無意識のうちに一瞬顔が緩んでしまったらしい。
『服、どこか変?』
 そう訊かれて、僕は慌てて首を横に振る。着ていた紺と白のワンピースが変どころか彼女によく似合っていた。乃愛からペンを取り上げ、ちょっと照れくさかったが、『可愛いよ』と書くと、彼女は安心したように微笑んでくれた。
 ただでさえ暑いのに、僕の体温はさらに上がったように感じた。誤魔化すために手で仰ぐと、乃愛はバックの中から扇子を取り出し、パタパタと仰いでくれた。僕はその柔らかな風を受けながら思わずお辞儀をする。
『新曲はどう?』
 僕に紙を渡すと、彼女はギターを指差した。忘れられてほっとかれたそいつは、静かにその場で僕の帰りを待っているようであった。僕はそいつを見つめてから眉間にしわを寄せ、少し考えた。
『全然だめ』
 なんて書くと、乃愛はきっと反応に困ってしまうと思ったが、あえてそう書いて渡した。窺うように顔を覗き込むと、予想どおり乃愛は少し難しい顔をしていた。
『どんな曲を作ったらいいかな?』
 慌ててそう付け足すと、彼女は微笑んで僕を見た。とても無邪気な笑みであった。
『俊ちゃんのラブストーリー』
 返ってきた丸文字に思わずええっ、と声を上げる。彼女がまた小さく微笑む。僕は頭を掻いて、唸った。普段作るのは未来に向かう人の曲やら友達に対する曲やらで、恋愛に関する曲など作ったことがなかった。らぶすとーりーがテーマの曲などとても想像できなかった。しかし、乃愛の喜ぶ姿が目に浮かんだ瞬間、『じゃあ、挑戦してみようかな』と書いていた。
 乃愛は両手をバンザイした。ぷっと吹き出した僕を、白く細い腕を天井へ伸ばしたまま睨む。僕は彼女の腕を掴んでぐいっと自分の方へ引っ張った。簡単に近くに来た彼女を抱きしめる。突然のことに恥ずかしかったのか背中をとんとんと叩かれたので、仕方なく体から乃愛を離す。
 頬を紅く染めた乃愛が、気を紛らわすようにギターをちらちらと見つめている。拗ねたように静かにしているギターを持ってきて、少し簡単なメロディーを弾いてやると、彼女は口の形を「お」にして興味津々にこちらを見つめた。
『触ってみる?』
 目を丸くして、頷いた彼女の手を弦に触れさせる。現れた音が小さく響いた。でも、それは乃愛には聞こえない。その事実に胸が疼く。
 顔を下に向けたままギターから手を離し、床に落とされていたボールペンを拾い持つと、乃愛は少し迷うように紙の上で円を描いてから言葉を綴った。書き終わっておずおずと出された言葉を見て、息を呑んだ。
『俊ちゃんの歌が聴きたい』
 丸っこい字がやけに沁みて、僕はまたそっと彼女を抱きしめた。乃愛はペンを握ったままの手を浮かせて戸惑っていたが、やがて何かが落ちる音がした後しがみつくように抱きついてきた。爪が背中に刺さり、少し痛みを感じる。その痛みと心の底から湧き上がるものとの区別がつかず、僕はううっと声を漏らした。
 僕だって、聴かせてあげたいよ。
 そんな風に思ったって、こればっかりはどうしようもなかった。耳が聞こえない彼女にとって「音楽」というものは無縁なものなのだ。僕の歌だけでなく僕の奏でる音も、僕の時々こぼす言葉も全部本当は彼女に聞いてもらいたくて仕方がなかった。乃愛がどんな声なのか、どんな風に話すのか、どんな笑い声で、どんな歌声で、どんな・・・・・・どんな風に僕を呼ぶのか、知りたかった、聞きたかった。時々僕は乃愛と話す夢を見る。とても幸せなのに、いつも罪悪感でいっぱいにある。声が出なくたって、すごく好きなのに、今のままでもとても幸せなのに、僕は乃愛の耳が聞こえたら、声が出たらどんなにいいだろうと思ってしまうのだ。
 鼻を啜りながら、胸の奥で謝った。ごめん。乃愛、ごめん。
 しばらく抱き合ったあと、僕は体を離した。彼女は寂しそうに笑い、僕の後ろに落ちたメモ用紙を再び手に取った。
『困らせるようなこと言って、ごめんね』
 謝られたことが嫌だった。僕は彼女の両手首を掴んですばやく首を振り、その紙を貰うと裏側に大きな字で書き込んだ。鼻水が出てくるのを必死で阻止する。
『リクエストどおりの曲を作る。そして絶対聴かせるから』
 自分の顔の横で見せると、驚いたように彼女は口を開けた。しかし、返ってきたのは、
『楽しみに待ってるね』
 という言葉だった。

    ◆

 さっきから、同じメロディーがヘッドフォンから流れている。なんとか四六時中考えてやっとベースができたわけだが、これに合う歌詞をこれから考えなければいけなかった。
「隣の、君」
 呟くように歌って、ため息を吐く。納得のいく詞が浮かばない。せっかくメロディーが決まっても、なんとなくで歌詞を付けるわけにはいかなかった。もちろんどの曲に対してもそうではあるが、今回は特に慎重になっていた。耳が聞こえなくても、大切な人への贈り物には変わりない。そう簡単に言葉を選ぶことはできなかった。
「のあ……」
 恋人の名前を口にして、熱くなる。思わず机に広げたノートの上に額を押しつけた。そのまま目を閉じると、脳裏に乃愛が現れて、彼女との時間がふわふわと通り過ぎていった。数々の筆談、公園の空、イルカとの触れ合い、帰り道のアイス、ジュースのおごりジャンケン……。
「たとえ、君が僕の声を聞けなくても」
 彼女が微笑む。彼女が頬を膨らませる。彼女が走る。彼女が僕を見る。彼女が僕の作った料理を食べる。彼女が僕に抱きつく。
「たとえ、僕が君の声を聞けなくても」
 体を起こし、バックに入れてあった会話たちを取り出して眺める。丸っこい字が、その時その時のシーンを語っていた。
 『オレンジジュースがいいかな』『ミントアイスって美味しいの?』『俊ちゃんのバカ』『楽しかったよ。ありがとう』『オムライスが食べたいです』『誕生日おめでとう!』『だいすき』
「僕の想いは、届いているはずだ」
 できた。そう口に出してから、急いでノートに歌詞を書き込む。あとはこの雰囲気で他の部分の歌詞を考えれば。唾を思い切り飲み込んで、机の上に置かれた『だいすき』に目をやる。鼻歌を歌いながら思いっきり伸びをしたあと、再び歌詞を考え始めた。曲が完成するのが僕自身とても楽しみになっていた。

    ◆

 午後4時半。時間的には夕方だが、夏はまだまだ明るく、まるで昼のような感覚になる。今日、僕は地元から電車で二駅ほど離れた小さなコンサートホールを借りていた。呼んだお客はただ一人、乃愛だけであった。
『コンサートホールなんて、初めてだよ』
 ステージ上で練習している僕にも見えるように、彼女はスケッチブックにでかでかとそう書いて掲げた。最前列の真ん中に座る乃愛の笑顔とその文字ははっきりと目に映ったのだが、緊張のせいか上手く笑えない。胸に手を当てると、びっくりするほど鼓動が早かった。おまけに足も震えている。
 僕は一旦深呼吸をし、ギターを鳴らした。ホールに響いたその音を、乃愛は感じてくれただろうか。
 正直なところ、かなり不安だった。「聴かせる」と言ったって、僕に彼女の耳を治すことなんてできないのだ。僕が曲を披露したところで、乃愛には一切聞こえない。そう分かっていても、僕は歌いたかった。彼女がそれを望むのなら、僕の想いを歌で届けたかった。
 乃愛をちらりと見て、僕はふっと笑った。彼女の掲げたスケッチブックには『俊ちゃん、大丈夫だよ!』の文字があった。僕の不安は、乃愛にバレバレだったみたいだ。
『ありがとう』
 ステージから降りて駆け寄り、スケッチブックに大きく書き込む。彼女は嬉しそうに笑った。頬が紅く染められているのに気がつき、僕もつられて恥ずかしくなる。
『タイトルは』
 ページをめくり、新しく現れた真っ白にキュッキュとマジックと紙の擦れる音だけがする。覗き込んできた乃愛に、構わず続きを書く。
『ボクノオモイ』
 彼女が顔を上げた。顔から火が出るほど恥ずかしがったが、 そんなことを言っている場合ではない。これだけじゃ、まだ何も伝わってない。本番はこれからなのだ。
 ポンポンと乃愛の頭に触れると、彼女は僕の片手を握って離した。一瞬感じた柔らかく、暖かい感触に僕はにやけてしまったかもしれない。誤魔化すように乃愛に背を向けてステージに上がると、置き去りにしていたギターを背負い、深呼吸をして息を整える。乃愛と目を合わせ、彼女が答えるように頷いたのを合図に、僕は静かに弾き始めた。
 考えに考えた末、バラード調のメロディーに決めた。僕にしては珍しい曲調だったが、これが一番乃愛に届くと思ったのだった。歌詞はこっぱずかしいくらい直球だが、案外気に入っている。しっとりと、乃愛の希望であった「僕のラブストーリー」を奏でた。耳の聞こえない恋人と男の、哀しく、でも愛おしい日々と想いを素直に綴った、物語。
 乃愛は途中から目を閉じていた。口元が少し緩んでいるのが見えて、僕は嬉しくなった。
 彼女は、感じている。きっと、きっと……。
 五十人くらい入れそうな黒いホールに、ステージ上で歌声とギターの音色を響かせる僕。最前列の真ん中で「聴く」彼女。不安は歌っているうちになくなった。耳が聞こえないことなんて、悩まなくてよかったのだ。お互い、声が聞けなくても、
「僕の想いは、届いているはずだ」
 ギターの余韻が、ホール内に残る。いつの間にか目を開けていた乃愛が手を叩いた。僕の音に変わり、そのパチパチという音が響く。緊張で噴き出した手汗をズボンで拭きながら、僕は笑った。共に歌ってきた相棒を床に置き、額の汗をぬぐう。まだ大きな音を立て、止まないその拍手に、僕は再び微笑した。
「届いたよなー?」
 大きな声でそう叫ぶ。すると、乃愛がステージに勢いよく上がってきた。そのまま僕の胸に飛び込んだ彼女の口から「届いたよ」と聞こえた気がした。

ボクノオモイ

ボクノオモイ

耳の聞こえない彼女に、僕の想いを「歌」で届けたい。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-02

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