記憶の灰
「なんで煙草なんて吸っているの?」
彼女にそう聞いたことがある。
「なんでだろうね。逃げてるのかも」
そう言った彼女は少し困ったような顔をして、薄く笑った。
『記憶の灰』
あの頃の僕らは男女交際をしていた訳ではなく、キスはおろか、手を繋いだことさえなかった。けれども、煙草の味は知っていた。
もっとも、僕の場合は、彼女からもらった煙草の一本すら吸いきれず、初めの一口を味わった後は、ただただ咥えていることしかできなかった。
「……ひどい味だね。吸い続ければ慣れるものなのかな」
「うん。吸い続ければじきに慣れると思うよ。だけど“慣れるもの”でもないと思う。君には吸ってほしくない……かな。吸い続けている私が言えたことじゃないんだけど」
「ふうん。その期待に応える訳じゃあないけれども、どうやらこの一本で充分みたい。僕には合わないらしい」
「あはは、そっかそっか。よかったよ」
初めて煙草を吸った時の場所、匂い、喉の痛み、彼女の声。随分と昔のことに思えるそれらは、かすれた色合いであろうとも、鮮明に思い出すことができる。僕はこの時、彼女のことをもっと知りたくて、すぐ隣の彼女へあと少し近づきたくて、煙草の話題を振ったのだ。結果として、初めて口にした煙草は僕に苦痛ばかりをもたらしたのだが、それでもまた少し彼女を知れたのでは――そんな充足感が僕を包み、満ち足りていた。
「逃げてるいのかも、か」
当時の彼女が何を思い、何から逃げていたのかはわからない。彼女は多くを語らない人であったし、そんな彼女だから僕は多くを問えなかった。ただ、その言葉、その一言は、今になってぼんやりと理解できた気がした。
僕の人生で二本目となる煙草に火をつける。本当は彼女のために買ってきたもので、僕が、ましてやこんな場所で吸うことになるとは思わなかった。
大人になった今、不謹慎だと苦い顔をする人はいても、注意する人はいない。隣に居てくれる人はいても、隣に居てほしいと願った人はもういない。わざわざ歩いて県境の土手までいく必要も、もうない。
「いったい、何から逃げているんだろうね、僕は」
そんな疑問とともに、煙草の箱を彼女の前に添える。咥えた煙草から落ちた灰は風に舞い、僕の横をすり抜けるように消えていった。
記憶の灰