桃花物怪怪異奇譚 裸足童子とたぬきの姫君10

続きです。

桃花物怪怪異奇譚 裸足童子とたぬきの姫君10

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 「すごい」
 呟いたのは鈴だ。
 「鹿王は神々の愛し子ぞ。ヒトの憎悪などに汚されはせん」
 まるで我がことのように阿狛が得意げに鼻息を荒くした。しかし、当の鹿王はその柳眉を顰めている。
 「これは・・・。よろしくない」
 呟きながら蝙蝠扇を閉じると、その先端を榊の額の辺りに強く押し付けた。
 「よろしくないってどういうことだよ。榊さんは助かるのか」
 思わず声をかけると、鹿王はこちら背を向けたまま、むう、と唸った。
 「この方は、苦しい恋でもしていたのではあるまいか」
 その問いに答えられない光顕は、事情を知っていそうな桃井に視線を向ける。桃井は誤って虫でも飲み込んだかのような何とも言えない表情で、重苦しく口を開いた。
 「付きおうてた男が、あまりええ男やなかったんやと思います。私もあまり知りませんが、見えにくいところに痣を作っていたこともありました。もしかしたら暴力を振るわれていたんかもしれません」
 「マジで!?それって、DVじゃん」
 光顕は目を剥いた。しかし、今の榊の姿を見ていると、小和田に対する恨みのようなものは感じられない。むしろ、小和田を亡くしたことを悲しんでいる。
 「それ本当の話?小和田さんのこと?榊さん、小和田さんのことめちゃくちゃ好きだったみたいじゃん」
 「あれはな、好き嫌いっちゅうよりも、共依存関係やな。殴られても、研究成果盗まれても、それは小和田が自分を必要してくれてる証やからとか、言うとったな」
 「理解できねえ・・・」
 まさか、自分の身近なところでそんな問題が起こっていたとは。目を丸くする光顕をよそに、ふむふむと話を聞いていた鹿王が、やっと得心がいったと顔を上げる。
 「結論からいえば、なかなか難しいことになってきておる。この方、榊殿といったか。山神姫に同調しすぎて取り込まれてしまっておる。このままでは、この方は元に戻れぬ。そればかりか、山神姫がヒトの体を手に入れてしまうことになろう」
 鈴が光顕の隣で息を呑むのが分かった。
 「裸足童子様、それはつまり、山神姫を封じる術がなくなるということですか」
 震える声を絞り出した鈴を、光顕と桃井が音を立てて振り返る。
 「なに、それ。どういうことだよ」
 「そもそも、この世では妖怪や神仏よりも生きている人間の方がずっと強い存在なんです。神仏をどこかに括ったり、封じたりすることはできても、同じことを人間にはできないでしょう?山神姫がヒトと同じ実体を持ってしまえば、誰も手出しはできません。被害は今までの比ではありません。我々、沓部も手出しできない」
 「じゃあ、あの球体から榊さんだけを取り出せねえの?そうすれば実体云々の話はなくなるじゃん」
 「ですから!」
 焦れたように鈴が叫んだ。
 「それが難しい、と裸足童子様は仰っているんです。榊さんがあまりにも山神姫の御心に沿ってしまわれているんです。二人が同調して一つの存在になりかかってしまっている」
 「よくわかんないけどさ」
 脳裏に浮かんだ受け入れがたい結論を、光顕はそれでもあえて口にした。
 「もしかして、手の施しようがないって話をしてる?」
 「その認識であっています」
 「あってますって、お前なあっ」
 他人事のように聞こえる答えに、一瞬で頭に血が上る。声を荒げた光顕の肩を、桃井が強く掴んで制止した。
 淡々と答えた鈴の顔は、血の気を失い、紙のように白かった。華奢な肩がわずかに震えている。気丈に振る舞ってはいるがまだ子供だ。すっかり忘れてしまっていた。
 「悪い。ごめん。今のなしにして」
 「いえ、」
 謝った光顕の意図を察したのか、鈴は短くそう返したがその幼い顔には口惜しさが滲んでいた。案外、負けず嫌いな性質なのかもしれない。
 「これこれ、何をそこで揉めているんだい」
 場違いなほどのんびりとした声をあげたのは、球根と相対している鹿王だった。
 「ほんまに打つ手はないんでしょうか」
 独白に近い桃井の問いかけに、鹿王はふむと唸った。榊の額に当てていた扇をはらりと開き、自分の口元を覆う
 「難しい。まったく、どうしたものだろう」
 それは一瞬の出来事だった。鹿王の身体を覆っていた淡い光がすっと闇に紛れて消える。
 「鹿王!気を抜くな!!」
 阿狛と吽狛がギョロ目を更に見開いて、吠えるように叫んだ。しかし、汚泥の親玉はその一瞬の好機を見逃さなかった。鹿王の光に委縮して、なりを潜めていた触手がまたぞろ蠢きだしその中の何本か虫が這う勢いで、意気揚々と鹿王の四肢を捕える。それは皮膚が剥がれ落ち、肉は腐って溶けだしている無数の人間の腕だった。武骨な男のものもあれば、未だ幼い子供の腕もある。それらが、明らかな悪意と殺意を持って、鹿王の少年らしい薄い肩を掴む。腕を、足を、胴を次々捕えると捕食する動作で、己の本体へと引きずり込ん
だ。
 

22
「鹿王!」
 「裸足童子様!」
 光顕と鈴が同時に叫ぶ。鹿王を飲み込んだ本体はまるで咀嚼するかのようにゆっくりと上下運動を繰り返す。
 「バカ!ぼんやりしてるからだ!」
 光顕は腐肉の塊に丸呑みされた鹿王を罵ると、鈴が持ってきていた徳利を片手に汚泥の海と化した居間に飛び込んだ。なぜ徳利を掴んだかは光顕自身にも分からなかった。
 腐肉が光顕の足にべとりと絡まり、ズボンの裾から入り込む。直接皮膚に触れた部分に焼けるような痛みがあった。溶かされているのだろう。焼きゴテを押し付けられたような痛みに、身体が硬直する。息をするたびに胸を焼くような酷い臭気には慣れようもなく、頭の芯がすっと冷たくなった。汚泥は自らやってきた獲物を嬉々として迎え入れた。触手が束を為し、大きな波となって、光顕を頭から呑込んだ。自分の名を呼ぶ桃井の声と、鈴の悲鳴が聞こえた気がしたが、それも定かではない。聞き及ぶより早く、光顕の身体は完全に汚泥に呑みこまれた。
視界が奪われる。呼吸ができない。口腔、鼻腔、目の粘膜、身体のもっとも柔らかい部分から汚泥の浸食が始まり、激痛が襲った。焼けた皮膚が爛れ、滑り落ちていく感触に耐えられず、歯の根がカタカタと踊る。
なんで俺はこんなところに
 反射的にえずいた瞬間、また口腔に大量に腐肉の塊が入ってくる。身体が崩れていくことがはっきりと認識できた。
 もう嫌だ。鹿王なんて放っておけばよかった
 後悔した瞬間、腐った肉の海のどこかで、誰かが笑った気がした。嘲笑だった。自分達と同じところまで落ちてきたものへ向けた暗い喜びの声。
 お前も仲間だ。ともに他人を呪うがいい。苦しかろう、憎かろう、妬ましかろう。自分はこんなにも苦しい。苦しみにのたうつ醜い姿を晒しているのに、世界が未だ美しいことが許せない。
ふざけるな
呑まれそうになる意識の中、光顕は目を真っ赤に血走らせて思い切り叫んでいた。
ふざけるな ふざけるな ふざけるな
誰がお前らなんかに飲まれてやるものか。俺は絶対お前らの同類にはならない。
例え自分が非業の死を遂げたとしても、他人のそれを望むようなことが許されていいわけがない。
自分は絶対そんな無様なまねなどしない。
我を忘れるほどの、強い激情だった。怒りに似たその感情の始点は、矜持とよばれるものであろうか。
 一瞬でも苦痛を忘れるほどの怒りにまかせ、光顕は、せめて一矢報いてやろうと汚泥の中で徳利を握りしめる。そしてそれを思い切り叩きつけた。
 瞬間、眩いばかりの光が視界に溢れ、光顕は思わず目を瞑る。光は突風を伴い、光顕の体は絡みつく汚泥ごと大きく吹き飛ばされた。

桃花物怪怪異奇譚 裸足童子とたぬきの姫君10

桃花物怪怪異奇譚 裸足童子とたぬきの姫君10

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • ホラー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-01

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