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6:25 朝の挨拶
夜勤明けの月曜日は、都内にある職場から近い自宅ではなく、そこから二駅先の彼の家に来るのがここ数ヶ月の習慣になっていた。
駅直結のスーパーは二十四時間営業で、市場から仕入れた生鮮食品が所狭しと並んでいて、この時間に夕飯までの買い物を済ませることができるのはありがたかった。
会計を済ませ、少し重たい袋を持って駅から徒歩五分の彼のマンションへ向かった。
合鍵を使って鍵を開け、小さめに挨拶をして中に入ると、物音ひとつしない無機質な空気が流れていた。
リビングへと続く扉を開け、袋の中からすぐに使わない食材を冷蔵庫に入れ、余っていた食材を取り出して朝食作りに取り掛かった。
「よし」
完璧と自画自賛する定番の和朝食が出来上がり、夢の中にいるであろうこの部屋の主を起こしに寝室へと向かった。
ドアを開けると、案の定布団の膨らみが見えた。
「おはよー、朝ですよー」
声をかけながらカーテンを開け、ベッドサイドへと腰掛けて彼の顔を覗き込む。
本を読みながら寝落ちしてしまったのだろう、ずれた眼鏡がかろうじて片方の耳に引っかかっていた。
少し前に今と同じことをして、テンプルを折ってしまったから気を付けなきゃと言っていたのにと少しへの字口になってしまう。
「そろそろ起きないと遅刻するよー」
こんな声かけで起きないことは分かっているが何度か呼びかけ、眼鏡を取ろうと手を伸ばすと、その腕を突然掴まれ布団の中へと引き込まれる。
「タヌキ寝入りですか。」
『朝ですよーって声かけられるまでは本当に寝てたよ。』
最初の呼びかけじゃないかと眉をひそめ、私の上に跨っている彼を見上げる。
「そろそろ起きて下さいな。」
『どうしようかなぁ。』
不敵な笑みを浮かべながらはっきりした彼の声色に、すでに覚醒してることが分かる。
「じゃあ、」
そう呟くと、上半身を勢いよく起こして彼を後ろへと押し倒した。
いつもなら彼に身を預ける私の反撃に、驚いた表情を浮かべた彼の耳元で、
「起きて、ね?」
と少し猫撫で声で囁き、耳朶を甘噛みする。
『…っ』
声にならない声が、彼の唇から溢れる。
『いつもやられっぱなしのくせに。』
「だからたまには、ね」
と笑顔で答える。
朝ごはん冷めるよ、と声をかけて彼の上から退けようとすると、腕を引っ張られて最初の体勢に逆戻りになる。
「ちょ、本当に遅刻するよ?」
『朝の挨拶』
え、と口を開いた瞬間、彼が目を瞑った。
私は小さく息を吐き、彼の両頬に手を添え、唇を軽く触れ合わせる。
唇が離れ、彼と視線が交わる。
『おはようございます』
「…おはようございます」
『やっぱり月曜日の朝はこの挨拶がないとね。』
「それ以外の日によく起きれてるよね、それが不思議ですよ。」
『何なら毎日起こしてくれてもいいよ?』
「…それはプロポーズですか?」
『そう、って言ったらどうする?』
「、え?」
彼の真剣な声色に、視線が離せなくなる。
『なんてね、冗談です。』
「でしょうね」
彼がベッドから降りて、大きく背伸びをする。
『でも、』
「ん?」
『そろそろする予定なので、心の準備、しといてね?』
「…っ!」
ベッドサイドに置いた眼鏡をかけてリビングに向かう彼の満足そうな笑顔は、朝日に照らされて輝いていた。
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8:39 日常
職場まではバスで約10分。もともと家から通勤時間が徒歩2分のアパレル商品を扱う倉庫内事務の仕事は、会社の統合によりバス通勤になった。
いつものようにドアの入り口近くの左側の席に座り、イヤフォンを取り出した。
お気に入りの曲を選ぶと、耳慣れたメロディーが流れてきた。
アルバイトから入った事務の仕事は、元々洋服が好きだった事もあるが、やりがいもあり、ほぼ残業がなかったのが何より嬉しかった。会社統合の際、社長直々に話をもらい、正社員になったのは半年前のことだ。だが、アルバイトの頃とは違う責任の重さがあった。
朝はミーティングから入り、掃除、ネット受注数の確認、お昼休憩を取る暇もなく作業に追われる。
夜は仕事が片付き次第の退社、そして社長の思いつきの飲み会や打ち合わせに付き合わされる。
定時なんてものはあってもないようなもの、気分で変わる上司や先輩の対応、何もかもがうんざりしていた。
昨日も布団に入ったのが深夜2時を回っていた。連日の疲れもあり、イヤフォンから流れてくる心地良い音楽に、1時間前に無理矢理覚醒させた脳ミソが瞼に指令を出した。
それに逆らわず閉じようとした瞬間、降りるバス停名のアナウンスが流れた。
瞬時に目を開け、190円の回数券を握りしめ、前方の出口へと向かう。
バスから降りると同時に、冷たい北風が頬を叩いた。暦の上では春といっても、まだまだ風は冷たかった。
イヤフォンを取り、深呼吸をしながら、重い足を会社へと一歩一歩踏み出す。
今日は何時に帰れるだろうか、そんな事を考えながら。
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15:00 約束
いつからすれ違っていたのだろう。
それすらも分からなくなるほど、もう完全に私と彼は背中合わせになって、別の方向を向いていた。
気がつけば付き合って五年、待ち合わせの時間に来なくなったのはいつからだったのだろうか。
そんなことも覚えていないくらいの長い時間が、私たちにの間に流れていた。
そして気づけば、彼の隣には新しいパートナーがいた。
連絡をしてくるのはいつも彼で、それに淡々と答える私。
約束をして、窓際の席で待ちぼうけをして、氷で薄まったミルクティーを飲む。ドタキャンされることもしばしばで、私はその度に気持ちを切り替えるようにミルクティーを再度注文する。
もうそれは一種の流れ作業のような気がした。
だけど今日は私から、駅前にできたばかりの新しいカフェに、と場所を指定した。
会う日を決めたときから何を着ていこう、髪型はどうしようか、メイクは濃く見えないように、そんなことばかり考えていて地に足が着いていないような感覚もいつからかなくなっていて、窓に映る顔はベースと眉とリップだけだった。
彼のための気持ちをどこに置き忘れてきてしまったのだろうかと考えるが、それを遮るように机の上に置いてあったスマートフォンが震えた。
『これから向かう 大通りのファミレスに移動して欲しい』
絵文字も句読点もない淡々とした文書に、心の奥からじんわりと冷たくなっていく。
その無鉄砲なメッセージに返信はせず机に伏せて置くと、私の手には薄っすらと汗をかいていた。
隣を通った店員を呼び止め、ミルクティーを再度注文する。
しばらくして運ばれてきた新しいミルクティーの代わりに、氷で薄まったミルクティーのグラスを差し出すと、店員は一礼してそのグラスを持ってカウンターの奥へと消えた。
運ばれてきたミルクティーに手をつけず、伝票を掴んでレジへと向かった。
「伝票をお預かり致します。」
先程新しいミルクティーを持ってきてくれた店員のはきはきとした受け答えが、刺さって抜けない棘のように深く心を抉っていく。
会計を済ませレシートを受け取ると、側にあったボールペンで文字を書いて、不思議そうにこちらを見ていた目の前の彼女に手渡した。
「私の彼を、宜しくね?」
「……っ」
彼女はきっと分かったのだろう、マスカラを綺麗につけた目を見開いて、一瞬驚いたような怯えたような顔をした。
出入口の自動ドアが開いたとたんに耳に入ってくる雑音が、店内に流れていたBGMよりも心地よかった。
握りしめていたスマートフォンで先程のメッセージを呼び出すと、別れの一言だけを打ち、そのままトークルームごと削除した。
背伸びをすると、日差しがめいいっぱい降り注いでいて、風船を膨らますように深く息を吸い込んだ。
そのままの勢いで走り出し、太陽が照らす坂道を軽い足取りで登っていった。
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15:58 未来の約束
「先生、私、明日からここに来ないんだよ?」
私は今日、この学校を卒業する。
このカウンセリング室は、主要校舎から少し離れている為人気もなく静かだ。
ブラウンよりも少し明るい使い込まれた革のソファーにアンティーク加工の施された木製の長机、目の前には先生の机とその後ろの窓から見える木々、ここが私の特等席だ。
『うん、分かってるよ。さっきから何回目?』
机に寄りかかり、少しだけ笑って持っていた黒のマグカップに口を付ける。
中身はきっと、私が飲めないブラックコーヒーだろう。
その姿はこの2年間、何度も見てきた筈なのに、少しだけ遠い気がした。
「寂しくないの?私に会えなくなっても。」
先生を見つめながら、ソファーの背もたれから前のめりになって少しだけ甘えるような声色で言った。
『どう思う?』
意地悪そうに口角を上げた先生と目線が合った。
それに耐えきれなくなって、目線を反らして花柄のマグカップの中のココアを見つめて、
「じゃあ、餞別ちょうだい。」と言った。
『何がいいの?』
優しい口調になった先生の目を見つめながら言った。
「キス、して」
絡み合った視線を外さないように、一度だけ瞬きをした。
息を漏らして『そんなすぐ済むものでいいの?』と笑った。
黒のマグカップを寄りかかっていた机に置き、私の座るソファーへ近づいてくる。
「うん。最後の思い出だから、大人のキスね?」
煽るようににっこり笑って言った。
『後悔するなよ?』
目つきが変わった先生に右手を掴まれ、ソファーの背もたれへ倒される。
先生と私の顔の距離がゼロになる。
性急に口付けられ、息継ぎをしようと口を薄く開いたと同時に、先生の舌が入ってくる。
歯列をなぞり、私の舌を捉えて絡みとる先生の舌は、獲物を食らっているようだ。
聞こえるのは、先生の白衣と私の制服の衣擦れの音と水音。
感じたのは、舌から伝わる先生の熱と、右手に相反する冷たい感触。
どれくらいそうしていただろうか。ほんの数十秒なのか10分だったのか、それすらも分からないくらい、私の息は上がっていた。
『未来の約束、いらない?』
私の口の端から溢れる唾液を指で拭って、先生に掴まれたままの右手を目の前に差し出される。
私が薬指に光るシルバーリングを確認するのは、二回目のキスの後だった。
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22:54 悪魔の誘惑 ※
『帰ンの?』
昨日行ったばかりのネイルを触りながら、布団の中から起き上がった気配を感じて目線をそちらへと向けた。
「これ、吸い終わったらね。」
2本指で挟んでいたタバコをらひらひらと見せて、またネイルに視線を落とした。
今回はシンプルに、モデルさんがSNSに載せていた写メを参考にして、白のフレンチのみにした。ただ、左手の薬指だけショッキングピンクのフレンチになっている。
ラメもストーンもないシンプルなネイルを眺めていると、いつの間にか一糸纏わぬ姿の彼が目の前に立っていた。
「どうしたの?」と言い終わる前に、左手に挟んでいたタバコを消され、さっきまで事情をしていたベッドへと押し倒された。
『帰ンの?』またそう言うと、左手の薬指の先に口付ける。
眉を顰めた私の顔を見て、臨戦態勢を意味する卑猥な言葉を呟き、浮かべた笑みは悪魔そのものだと思った。
数時間前につけた首筋の痕にまた吸い付き、まだ潤っている密部に指を入れる。
「お兄さんに見つかったらどうするの?」
息を乱した私に、その指を舐めながら彼は言い放った。
「さぁ?兄貴にバレたら、二人で駆け落ちでもしよっか、姉さん。」
左手を取り、薬指に光る結婚指輪を舌でなぞった瞬間に入ってきたペニスを締め付けて、私はイった。
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0:00 君がもう一度目覚める前に
ふと覚醒し、反射的にサイドテーブルに置いてあるスマートフォンのホームボタンを押すと、もうすぐ日付けが変わろうとしていた。
腕枕で少し感覚が鈍くなっている腕を彼女の頭の下から静かに抜き、バッグから白い箱を取り出した。
綺麗に作られたリボンをとき、中から現れたベロア調の箱を開け、月明かりに照らされて光を放つそれを見つめた。
いたってシンプルなストレートアームの真ん中に光る彼女の誕生石は、太陽の光や蛍光灯など光源の違いで異なる波長の光を吸収し、色が変わるカラーチェンジストーンを使い、石の輝きを引き立たせ、カットの際に失われる原石を最小限に留めることができるプリンセスカットを施してある。
普段装飾品をあまり身に付けない彼女に初めて贈るそれを指で掴み、彼女の手を取って、薬指にはめる。
彼女の指におさまった指輪は、初めからそこにあったかのように違和感がなかった。
そのことに少しだけ、心臓の鼓動が早くなる。
今まであった感情とはまた別の黒い感情が沸々と心の中を支配していく。
数ヶ月前、彼女を職場に迎えに行った際客らしき男性と楽しそうに話す彼女を見て、自分の中に沸き起こった感情に驚いた。
キスをしていたとか、ホテルから出てきたなんてことではない、ただ普通に店員とお客の世間話をしていた場面だったが、自分の中に生まれた感情はずっと消えないでいた。
彼女の指に光るそれを指でなぞり、じっと見つめる。
虫除け、とでも言うのだろうか。
そんな事を伝えたら、きっと彼女は笑うだろう。
今は閉じている瞳を細めて、俺の好きな笑顔で笑い飛ばしてくれるだろう。
その笑顔を思い浮かべ、口元を緩ませる。
おでこにかかっている前髪を指で梳き、キスを一つ落とす。
「誕生日、おめでとう。」
目を覚まして左手を見た瞬間の彼女の表情を思い浮かべながら、ゆっくりと瞼を落とした。
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