彼は誰時に

プロローグ

 ここは、どこだ?
 音のしない虚空の中、しっとりと湿り気のある闇に濡れて。
 目を開いた彼が最初に抱いたのはそんな疑問だった。昨日までの記憶が思い出せず、まとわりついてくる睡魔を持て余す。だけど慣れない枕は硬く、掛け布団の重みもシーツの薄さも何もかもが違和感に塗れていて、それが拭えなかった。壁からせり出した釘のように意識が引っかかって微睡みに身を任せられない。
睡魔はやがて散り散りになり、眠気も視界の靄も晴れてくる。もはや眠ろうという気にもなれなくて、彼は呆然と天上を見上げた。
 かつては白かっただろう天井は、黄ばみ果てた上に埃までこびり付いた醜態を晒している。そこから下ろされたレールに沿ってカーテンが走り、壁に代わってベッドの右手から正面までを緩い曲線を描きながら囲っていた。
 初めて訪れる場所だった。
 しかしどこかで見かけた覚えがあって、彼は記憶を底からひっくり返し総ざらいにする。思い出せそうなのに思い出せないじれったさに苛まれて、見つけ出すよりも早く限界が訪れる。
 集中が途切れると、部屋の底を這う冷気に気づいた。身を捩って布団を首もとまでずり上げる。
 少なくとも彼が意識を失う直前までは梅雨も終わろうとする時分だった。眠っていただけならば経過した時間は限られいるはずだが、触れる空気はあまりにも冷たい。まるで暗闇から体温を奪い去られているような錯覚さえ引き起こす。長い長い夜をかけて、じっくりと、その闇に取り込まれるように。
早く朝が来るようにと願った。日の光の温かさが恋しかった。だからこそ、手に入らなかったときのことが恐ろしくなる
 もしこのまま、朝が訪れなかったら?
 馬鹿馬鹿しいと、そう断じたら良いだけの想像なのに夜闇が空想には思えない質量で彼を押し潰そうとしていた。そこから抜け出せずに体温を吸い尽くされて、抜け殻さえも闇に呑まれる様子が瞼の裏に描かれる。
 彼は布団をきつく体に巻き付けて、想像をぬぐい去ろうと強すぎるくらいに固く瞼を閉ざした。訪れたのは濃密な闇で、彼を怠惰と安堵の中に沈める。
 酷い夢だった。だが、こうしていればじきに意識は途絶える。そして気づいたときには見慣れた自室で自分のベッドに寝ているものなのだ、と言い聞かせた。そうでなければこの見知らぬ景色に耐えられないから。
 しかしそうした安寧は一条の淡い光に切り裂かれる。
 瞼の些細な隙間から滲む、決して眩しくはない白い光。目を開くとそれは、少しだけ開いた窓から吹き込んだ風がカーテンを押し上げて届けてくる、遠い空の輝きだった。太陽そのものは見えずとも曙光は明けの空に染み渡って仄かに世界を照らし出す。
 そうして、見えなければ良かったものまでをも暴き出す。
 ずっと暗闇に潜み続けていた何かが彼の上にゆっくりと迫っていた。顔の輪郭はどこかぼやけていて、ただ人らしき形をしているそれがベッドに腕をついて迫り来る。軋む音が一つずつ、彼に近づいてきた。布と布の擦れる音が、足の指先に触れる。絶望を形にしたような冷たさが、彼を覆い尽くそうとしていた。
 こんなところで終わりたくはない。
 逃げようとした。叫ぼうとした。
 そんなことは叶わないと、どこかでわかってはいても。それでも彼は藻掻こうとして、気づいてしまう。体が動かない。喉は皮膚が凍り付いたように震えず、腕は脳の命令を聞き入れない。
 信じられなかった。
 いよいよ溢れかえった感情で胸が引きちぎれそうになり、恐怖が脳髄を駆けめぐって脳を犯す。
 だから必死に動かそうとして、その度に心から体が遠退いていくように感じた。だけどそうだというのに、重苦しい威圧感は質量を増す。『何か』が腕を上げる音が腰の辺りで鳴り、シーツの凹む感触が伝わる。次は脇腹、その次は胸へと距離を詰めてくる。吸い込んだ闇が肺の中に溜まって喉を塞ぎ、息ができない。
 逃げられない、と彼は悟った。
 捕まった先に待っているものが想像できても、諦めばかりが心を浸す。
 迫り来た闇は明け方の空さえも塗りつぶし、広がって彼の視界を黒く染め上げる。吐きそうなまでに心臓が跳ね回っていて、そのとき彼の頬に冷たい何かが添えられた。
 引き裂かれそうなまでに凍てつくそれを震えながら動いた彼の眼球が捉える。
 手だ。白く血の気のない、手だった。
 歯はかち合って小刻みに音を立てていた。掴むシーツは自分の汗でじっとりと濡れて生温かい。だけど彼と鼻先が触れ合う寸前にまでで近づいたそいつが彼を凍り付かせていく。彼の胸に落とされたそいつの視線が奥にある心臓を刺し貫く。
 もう鼓動は正常を忘れて、停止と暴走を繰り返していた。なのに仄暗い暁光が少しだけ強く部屋に広まって、そいつの注意が顔へ集まってくるのを感じてしまう。
 見られている。
 揺らめく前髪の奥から眼差しが顔を嘗め回している。
 彼がどれだけ拒絶しようとも徐々に視界の明細は増してしまう。
 死に装束の白も、頬に添えられた青白い手も闇に浮き上がっていた。彼を覆うように広がる長髪は光を吸い込む底のない漆黒で、面差しは前髪の影に隠されている。
 そのまま隠れているようにと彼は願った。どうかこのまま朝が訪れ、日の光に押し流されてしまえば良いと思っていた。
 だけど彼女は消えようとしれない。冷気に混じって流れ込んでくる薄明が少しずつその容貌を暴き出してしまう。細い頬の輪郭が露わになる。それから艶っぽく膨れた唇と少し高い鼻が照らされ、しかし尚も光の届かない瞳の暗闇が見えてしまったとき、彼は――

一日目

 引っ越して二年と少しになるマンションから駅までは徒歩で、そこから人混みに分け入り、電車を目指して改札口に流れていく。そんな、特別なことなんて何もない環境が彼に与えられた日常だった。
 小さな田舎町を出身地に持つ彼だったが、その一帯では頭一つ抜けて勉強ができた。だから故郷に先生に勧められ、引っ越した先の進学校に推薦を受けて入学した。
 その才能を見込まれた故に与えられた待遇であり、望んだ立場である。
 だけどそれがどんなときでも気が抜けない、まかり間違っても留年などできない環境であると気づいてから随分と経つ。息苦しさに慣れることはなかった。だから時折、願ってしまう。
 休まる時間が欲しい。今は遠い昔のように。
考えていても気が沈むだけだとわかってはいた。だから頭から余計な思考を振り払い、ICカードを片手に急ぎ足で改札を抜ける。
そうして見上げることになるのは寄り集まった人々が上へ上へと蠢く階段。いつもの光景ながら辟易しつつ、彼も流れの中へ身をねじ込んでいく。立ち止まることも許されず熱気に溺れながら階段を上り切ると、今度は人の群れをより分けて通路の奥へと縦断する。その最中で彼は幾度となく小さな衝突を繰り返したが人々は無関心に、無感動に過ぎ去っていく。
ここにのっぺらぼうが紛れ込んだとしても誰も気づきはしないのだろう。
 そんな下らない考えを弄んでいると習慣のしみついた足が勝手に彼を目当ての流れの中へ放り込む。楽しそうな顔ではしゃぐ女子高生。眠そうな顔をしたサラリーマン。やけに厳しい目つきでヒールを鳴らすOL。本当は怠惰でありたい無数の人々の些細な義務感が集い、逃すことなく彼を運び出した。
 ここからは人の流れに身を任せるだけだ。考えることをやめて足ばかりを動かしているとそんなつもりはないのに他愛無い物思いが頭を占拠する。
昨日は思ったように勉強ができなかった。こんな失敗をするのはもう数えきれないほどなのに、後悔する感情はいつまでも擦り減らない。せめて夢や目標の一つでもあればこんな苦境も打破できるのだろうかとテレビや何かに取り上げられていた意欲溢れる少年や少女の姿を思い出す。年上も年下も含めて、夢を追いかける彼らの目は燃えていた。
彼からすれば少し、眩しすぎるほどである。
 固い床を踏みしめて、彼は階段を下っていった。プラットホームに出ると俄に日差しの色合いが増し、溜まらず目を細める。
 目指す場所も自分の足下も見失い、そんな彼はふと屋根と屋根の隙間、レールの直上に覗く、吸い込まれてしまいそうなほど透き通った空を見上げる。
 こうして空の青色の起源を探していれば少しだけ現実を忘れていられる。その様がさながら、酸欠に喘ぐ魚のように哀れだとしても。道具も不思議な力もない彼には、この街の塵が舞い上がった雲の向こうさえ見通せないのだけれども。
 ――まもなく、三番線に列車がまいります。危ないですから……
 プラットホームに列車の到来を告げるアナウンスが響いた。彼の夢想は断ち切られ、避けることのできない日常を運んでくる音がする。当たり前のことながら彼が疲労を隠せないでいると、そんなことにはお構いなしに遠くでレールが震え出す。やがてホームに差し込む光が少しだけ閉ざされて、無粋な騒音で喚き散らしながら列車が滑り込んでくる。
 周囲が列車の空席や携帯電話に注目する中、彼は呑み込まれていくレールに目が惹き付けられていた。そこと電車の狭間に、夏の学校帰りに見かける自販機のような、思わず手が伸びてしまう魅力を感じる。
 無論、感じるだけのことでしかないのだが。
 初めから、そんな行為に打って出る勇気がないことは彼自身が一番よくわかっていた。そうできるだけの意志があれば生きることだってもっと容易くなるだろうに、と溜め息をつく。
 そうこうしている間に列車は停まり、気体が吹き出す音と共に扉が左右に開かれた。もう人で溢れかえっている車内に、なおも彼の前で並ぶ人々が雪崩れ込んでいく。当然のこと彼もその流れに捕まっているわけで、無言で迫る誰かの熱気に押されてつんのめりつつ乗車していく。だが入って二歩目で人だかりに行き当たり、しかし立ち止まろうにも得体の知れない強迫観念に駆られた人の波が彼を奥へと押しつぶしていく。圧迫感に吐き気さえ催しながら熱と肌と布に揉みくちゃにされ、落ち着いた頃には電車が走り出していた。
 とは言っても、まだ暑苦しいのは変わらない。息をするにも難儀する圧力の中で彼は、必死に辺りを見回した。どこかに逃げ込める隙間が欲しかった。
その最中にも押し合って、彼と周囲の位置関係は流転し続けた。
 そしてどんな偶然が働いたのだろうか、彼はある開けた空間に吐き出される。
そこは一人分だけの空席が目の前にある、小さな間隙だった。
 座ったときのことを考えて立っているのが気怠くなりながらも、彼は最後の良心によって周囲を確かめた。理由は知れないが、誰もそこに座ろうとはしていない。
譲るべき相手がいないとわかると、もう気を配るのは面倒で、彼はすぐさま重たくなった腰を小さな幸運に納めた。普通列車の座席に座り心地など期待していなかったが、クッションに尻を沈めると力が抜けて思わず安堵の息が漏れてしまう。
 肩の重さを自覚して、彼は膝に肘を乗せた。伸し掛かる重力にあらがうこともせず、そのまま身を任せる。よほど眠気や疲れが溜まっていたのか、それだけで彼の視界が両端から黒ずみ初めて、微睡みがじわじわと彼の脳を浸食し始めていた。とろとろ意識が溶け出して、生温くも心地よい感覚に包まれる。
 気を抜くと今にも、眠りに落ちてしまいそうで。
 だけどもし眠ってしまったら目的の駅で寝過ごしてしまうかも知れないと意識の片隅で最後の自制が働く。
それでも消え行く意識の中で、ふと彼は思い至ってしまった。
瞼が少しも閉じていない。
ならば自分の視界を閉ざそうとするこれは何なのだろうか?
 あやふやな思考でそのことを思案しようとした彼なのだが、黒色が車内の光景を塗りつぶし、見る見る滲んでいく。やがて立ち並ぶ人々の腕と背中しか見えなくなり、彼らの隙間にちらつく、窓から流れ込む陽光ばかりが眩しく瞬く。しかし黒色はそれすらも遮っていき、やがて世界から彩りが失われていく。
持ち堪えようとしたが、既に手遅れだった。彼に力はなく、意志もない。
 そして光の最後の一片が途絶えたとき、彼の意識もまた闇に閉ざされた。

二日目

 それから通りすがりの人々の連絡があって病院に運び込まれた、という話だけは医師から聞いたものだった。そこを覗けば全てが彼自身の記憶であり、回想である。
 ひとまず経緯を振り返った彼は、ベッドの上で上体だけを起こしながら意味もなく窓の外を眺めた。晴れやかな空の下、自ら光を発するように輝かしい白さの雲が流れていく。
 朝一番で飛んできた母親が帰って行ったのはつい今し方のことだ。地元の病院に移ったらどうだと、そんな提案を切羽詰まった様子で勧めてきて、彼は宥めるのに相当の苦労を要した。
 だから落ち着いて状況の把握に取り組めたのは今になってからのことである。ただ思い返しても何もかもが彼の手を離れていて、どこか、自分に起きたことなのだという実感がなかった。
なかったけれども、打ち消せない肌寒さが蘇る。
「夢ではない、よね……」
意図したわけでもないのに、夢とも現ともつかない明け方の一幕を思い出していた。
 静かな病室、舞い上がったカーテンの向こうに溢れる淡い朝焼けの色、そしてそれに照らされて静寂を破る黒い影。
 大して意識せずとも、精細に思い起こされる。それほど時間もかからなかった。そうだというのに彼は暫く、動かなかった。というよりは、動けなかった。
 柔らかい日溜まりに浸かっていれば少しは、冷え切った体のどこかも暖まるのではないかと、そんな期待をしていた。残念ながら日の光は心の中までは差し込まず、彼は蹴散らしていた布団を手繰り寄せる。それを抱え込んだ膝と肩に纏って彼は、抑えきれない寒さに耐える。そうでもしないと、震えは止まってくれそうになかった。
 これが普段だったならば何も食べられなくなるまで腹を膨らませ、後は布団で寝てしまうことだってできた。眠くなるまで無心に頬張れば、多少の辛いことは忘れていられる。三大欲求の二つに従うだけの安直なその場しのぎだったが、ひとときの安らぎを得ることはできた、はずなのだ。なのにその、彼を幾度となく和めてきた些細な真実が、まるでこの場には当てはまらない。
 眼前にある、ベッドの脇から延びる収納式の机に置かれた盆とそこに並んだ食事を見下ろしながら彼の表情が歪む。
 彼の箸が多少の意欲のために動いたのは最初の一口を運ぶまでだった。それからもう箸を握っている気にもなれなくて、盆の上に転がしてしまった。
 米も味噌汁もまだ湯気を上げていて香りを嗅げば食欲がそそられるのだ。そう、匂いを嗅ぐだけならば。だけど口に入れた瞬間、全てがだめになってしまう。
 病院食が味気ない、なんて話の通りだったからいけないのではない。
 というより、今の彼にはどんな味も障害にならない。
 そもそも、何を食べても無味にしか感じられないのだから。
 味噌汁を飲むとまるでヘドロでも流し込まれた気分になった。水にだって味はあるはずで、味覚の消えた舌で飲む味噌汁はそれよりもずっと無機質に感じられる。ご飯にしてもそれは変わらない。仄かな甘みを感じられなくなって、粘つく粒は噛み潰す度に不快感が溢れた。
 それらは全て、彼自身の選択の結果である。
だとしても、易々と甘受するには苦痛が伴った。あの夜闇と曙光が入り交じった世界のことを思い出して、彼は何度も後悔させられる。
 夜明け前の薄闇の中、現れた暗闇の主は彼にこう告げたのだった。
「これから一日に一つずつ、あなたの五感を奪う。その全てが乗っ取られた時、その体はわたしのものとなるわ」
 あまりにも唐突で身勝手な宣言だった。だけどその時の彼は、覗いてしまった容貌に言葉を失っていて、反論さえもままならなかった。だからその少女に、一方的に質問を突きつけられてしまう。
 つまりは、
「どの感覚から奪えばいい?」
 なんて、笑い出してしまいそうなほどに間の抜けた死刑宣告。自分の体をどこから解体するか尋ねられるようなものである。体を乗っ取るつもりならば彼に意見など求めずに、最初から最後まで勝手に振る舞えば良かった。もしそれが、別の意図があってのことだとしたら恐ろしく残酷なやり口だとも彼は思った。
 いくら彼が自分の生に絶望していても、即答などできるわけがない。
 しかし彼女が直後に語った言葉が、一瞬にして彼の中に選択の基準が築き上げる。
「奪われた感覚でなら夜明けの時間以外でもわたしを認識できる」
 その時、彼の口は考えるよりも早く動いていて、自分で自分が言ったことを理解するのに時間がかかった。それほどのものが彼の中で渦巻いて、彼女の知覚を拒絶した。
 味覚ならば他人を認知するのに役立つとは思えない。
 そうして選択した果てが、この味の抜け落ちた食事だった。現代社会においてならば最も生存に役立てる機会の少ない感覚とはいえ、生まれてしまった空洞は風が吹き抜けすぎてうそ寒い。時間が立てば立つほどに彼はその大きさを実感させられた。
 だけどいつまでもこうしてはいられない。彼には時間がないのだ。彼は味が消えた味噌汁と白米と漬け物の残りを掻っ込んでざっくばらんに噛み砕き、水で流し込む。
 満ちていく朝日に薄まりながら彼女はこう言い残していた。
「もし、体を奪われたくなければ、わたしの名前を探り当てなさい。そうすればわたしは消えるから」
 質の悪い冗談だとは、彼も思った。五日間、布団に潜り込んで丸くなっていれば全てが終わっているのではないかと、本気で考えもしたのだ。しかしながら彼には親への恩があり、或いはそうしたものの姿を借りた生への執着がある。
 まだ死ぬわけには行かないと、それが彼の出した結論だった。
 そのためにはまず手始めに、手持ちの情報を整理しておきたかったがための先ほどの回想である。現状、彼にわかっているのは恐らく彼女が女性であろうことだけだった。他にも不確かな直感のようなものが働いていたが、どれも確実とは言い難い。
 あまりにも自分の情報量が頼りなさ過ぎて、溜め息すら出てきそうになかった。だからその名残を鼻から吐き出しつつ、彼はふと気づく。
 あの時、鼻孔を擽る香りが漂っていた。今はどこにもそんなものなんて感じられなかったけれども、あの少女は微かな花の香りを纏っていた。
 それは単に甘いのとも違う、不思議と心が和む香り。吸い込むだけで緊張が解れる軽やかな匂い。
 記憶の欠片が小さく煌めく。昔、姉に引きずられていった香水専門店で彼は似たような匂いを嗅いだことがあった。原料となる花の香りが控えめすぎて、その人が立ち去ると初めて嗅ぎ取ることができるという変わった香水。店主が自ら精製したものでそこでしか手に入らず、値は張るが遠くから買い求めにくる人も多いと聞いていた。
より深く記憶を呼び起こし、その微細な欠片を寄せ集める。
 その店は、辺鄙な地方の市街の表通りから外れた薄暗く狭苦しい路地にひっそりと開かれていた。個人が経営する小さな店で、店主と顧客が顔馴染みであることは十分に考えられる。情報源としての見込みは確かだった。
もちろんのこと、こんなのは全て徒労に終わる可能性だってあった。だけど万が一、彼女の言うとおりになったとしたらこのままでは彼の体が乗っ取られる。それはつまり、そういうことなのだろうと、どうしようもなく避けがたい想像が彼の脳裏を過ぎっていった。凡人らしく、真正面から立ち向かう力のない彼は、彼女の発言を鵜呑みにするしかなくなる。
 そうすることに課題が多いのも事実だったが。
 彼は布団を蹴り飛ばし、悩み始めた。どうにか看護師の目を掻いくぐって外出しなければならない。おまけに昼食の時間にまで帰って来られなければ面倒な騒動になる。もしこんなところで余計な騒ぎを起こしたら親や看護師たちに迷惑が――
 そうまでして自分は良いように見られたいのだろうかと、思わず彼は失笑していた。
 じきに死ぬ人間が体面など気にかけ、何の意味があるだろう?
 考え出すと馬鹿らしくて、細かな計画を立てる気にもなれなかった。彼はベッドの脇にあるラックから財布を取り出して中身を確かめる。
「行けそう……だな」
 カーテンを閉めると昨日も着ていた制服に着替えた。平日にこの服装はまずいだろうかと着替えの入手先を思案する。だけど家に帰ろうにも叔父や叔母への言い訳が思いつかず、仕方がないので適当に中古の衣類を買うことにする。
 迷うべきことなど、もうなかった。
 これからの未来を切り捨てて、いつまで続くかわからない『今』を希求する旅へと彼はさまよい出す。
 まだ何も見えてこない彼方の霊の墓を目指して。


 電車に揺られて三時間弱。
 彼が向かったのは小さな田舎町だった。駅の改札が人の手で行われていたり、駅前にはおよそ繁華街といった賑やかな場所もなかったりと、よくある寂れた地方の枝葉である。
 電車を降りた彼は駅員との会釈も程々に、町へと繰り出した。目指す店は駅から歩いて十分ほどの商店街にある。そこは地元民同士の縁だけで存続してきた、古い店ばかりが目立つ区域だった。
 駅前のロータリーを抜けた先には、チェーンの居酒屋や軽食店が一見ずつ、見て取れる。他に飲食店だと寂れた洋食屋が一件あるだけ。ロータリーにはタクシーの一台も停まっていない。
 眺めているだけでもうら寂しくて、しゃがみ込みたくなる光景から目を逸らすと彼は真っ直ぐに歩き出した。道順は頭に入っている。
 駅前から延びる、この一帯では比較的広い道を進んでいった。国道を越え、墓や寺が道の脇に過ぎ去り、やがて足下の歩道の石畳が痛み始める。人よりも雑草で賑わう一帯が過ぎ、程なくして今にも倒壊しそうな民家と個人経営の小さな店がひしめく通りに出た。
 そこが目当ての商店街である。
 早速彼は、記憶と目の前の光景を照らし合わせながら歩みを進めた。郵便箱のような大きさと形状の怪しげな自販機も道の岐路にて高らかに佇む仏像も変わりがなくて、かつての風景と重なる。
 記憶に間違いがないことを確かめると、今度はすし詰めになっているいくつもの店を見渡した。表通りに例の香水店はない。昔からの老舗が多すぎて、空間的にも雰囲気的にも新しいものを受け入れられる余地などそこにはなかった。
 だから彼は、そんな店と店の隙間、初めて通れば見過ごすことは間違いない細い路地に入り込む。薬局と民宿の間に開かれたそこは淡く光るような苔が道の両脇に群生していて、薄暗い中へと彼は誘われていった。
 道の幅は狭く、またそのせいで二階建てまでの建築物しか存在しないのに酷く日当たりが悪かった。およそ視界は民家の木の柵に埋め尽くされていて、そんな小道が無限に続くようにも思われる。
 しかし歩を進めていくと、一件だけ柵もなく、敷地の割には背丈も低い木造の店の硝子戸が見えてくる。頼りない木製の壁に風で吹き飛ばされそうな屋根を載せたその店の周りだけは日が差し込んでいて肌にも滓かな熱が滲み、陰気な雰囲気が払拭されていた。
 彼はその明るさに誘われて、店に近づいていく。
 微かにくすんだ扉の硝子の向こうには立ち並ぶ棚が見えた。立てつけの悪そうな引き戸開くと冷たくて少し埃っぽい空気が流れて出してくる。だがそんなことなど忘れてしまうほどに、そこに混じった幾千もの花の香りが彼を包み込んだ。数え切れないまでに多様なのに絡み合った香りは甘い心地よさだけを残して霧散していく。どんな人間でも気を緩めてしまうだろう感覚に、彼の脳は痺れを覚える。
 甘い香りに酔いながら、彼は店に入った。
 それら香りの元となった小瓶が、壁沿いと、店の中央で背中を合わせている棚の中に無数に並べられている。店の前とは対照的に店内は薄暗く、色褪せた木の床に落とされた陰の色の深さには積み重なった時間が透けて見えた。
 こんな平日に昼間だから他に客はいないものの、彼が姉とここを訪れた日には狭い店内にそれなりの数の人間が出入りしていた。そうした帰り際に手荷物の増えない客はなかった。こんな平日の昼間でなければ、もっと客の賑わう人気店なのだろう、と彼は一人結論づけて思考を断ち切る。
 この店が繁盛してようがしてまいが、彼の目的は変わらない。
「こんにちは」
 挨拶は意識して、彼の方から投げ掛けた。
「こんにちは」
 木目が目立つ古めかしい机の向こうに立った、古めかしい店を経営している割には若い女性が挨拶を返してくる。髪を纏めて藍色のエプロンを着たその人は時間を忘れたように穏やかな笑みを浮かべていて、それが溌剌に弾けると彼は僅かに肩をびくつかせた。
「どうしたの、こんな店に来て。偶々入っただけ? それとも彼女への贈り物?」
 事情を明かすわけにも行かず、他の言い訳を考えるのも面倒だった彼は「そんなところです」と曖昧に茶を濁した。明るい人間は苦手である。暗い自分が置き去りにされていくのを強く実感させられるから。
 そんな彼の様子をどう受け取ったのか、女性は納得したように鼻を鳴らした。
「ふむふむ。そっか。よく男の子がこんな店を知っていたね」
 言われてみれば、少々不自然な状況ではある。これに関しては口ごもりたくなる事情があるわけでもないので、彼は正直に事実を語った。
「前に、姉の買い物に付き合わされたことがあって。それで来たんです」
 彼の姉はどうしてか、友人とでも一緒に来れば良かっただろうに頻繁に彼を連れ出す。しかも荷物持ちや雑用といった意味のある同伴者として引っ張り出されることすら稀で、ただなんとなく、そんな理由にならない理由で彼は振り回された。
 こんな根暗な自分と連れ立っていて何が楽しいのだろうか。そんな疑問を今日もあの日も抱かないではいられなかった。
 ともかく、彼はここで余計な物思いは振り払って、本題に入ることにする。
「水芭蕉の香水はありますか?」
 それが彼の姉が何本か買っていた内の一本だった。多く持っていたところで、自分一人だと使いきれないのは明白なのに。
彼の質問を受けた女性は目を丸く見開いた。「ほほぉ」と時代劇じみた感嘆を漏らして、面白そうに微笑む。
「よくそれが売ってるって知ってたね? 意外に通じゃない!」
「えぇと、姉によく話を聞かされていたので」
 彼の姉が言うには、本来、水芭蕉は花に囲まれていても条件が合わなければ匂いを嗅げないような、微かな香りの花だった。しかしこの店の店主は独自の製法で香りの淡さを上品さへと仕立てあげて、一個の商品として成り立たせているのである。
「買う人は珍しいんですか?」
 だとしたら幽霊の正体に近づきやすくなる。彼は興奮とも陰鬱ともつかない不思議な心地を噛み殺して返事を待った。
「そこそこかな。他では売ってない品物だから、固定客は多いし」
 言われる前からわかっていた話ではあった。供給が程々でも需要が極端に大きな商品なのだ。彼は少しばかり落胆しながら質問を重ねる。
「そうですか……。若い女の子だと、それ、気に入ってくれると思いますか?」
 いかにも、彼女への贈り物で悩んでいる風を装いながら。彼は次なる策に打って出る。これで客層を絞り込めたのならまだ、生前の霊に迫る望みがあった。
 思惑が見え透きそうになるので、彼は極力、己を宥めながら店員の様子を伺う。
「それは……そうだね、若い子にはあまり人気無いかな」
 木目が連なる机の天板にひじを突いて、女性は一応、考える素振りをしている。しかしながら返答までの間は短くて、思い出すまでもないことなのは明らかだった。
思わず彼は期待に胸を高鳴らせる。
水芭蕉の香水を買う若い人間はごく僅かしかいないのである。それならば女性が客の顔を覚えていることもあり得るだろうと思って、彼は次なる質問を連ねる。
「だったら、最近になって――」
 見かけなくなった少女はいないだろうか。
彼はそう訊ねるつもりだった。なのに喉に詰まった空気がそれを阻害する。不意に沸き上がった逡巡に喉が締め付けられる。
 こんなことを調べていって、何になる?
 これまでの日常を取り戻そうとして、彼は今も必死になっている。しかし、迷ってしまうのだ。果たしてこうして駆けずり回ってまでも自分は、閉塞した灰色の日々に戻っていきたいのだろうか、と。
 自分のそれまでの生活を省みれば、彼はどうして自分に幽霊が憑いたのか、その理由を明らかな確信を持って即答できた。単純な話だ、他よりもずっと、中身に欠けているからである。周りの意見に従い続けて自分の本音を見失い、異物が入り込むには十分な空洞が彼の内には穿たれてしまっていたからなのだと彼は考えていた。
もちろん彼だって、そんな自分の有様を肯定しているのではない。自虐と評されても仕方のない考えが過ぎる度に、彼は目の前が黒く染まっていく思いをした。今だって体が気怠く、意識が遠くなっていう。
「どうかしたの?」
 我に返る店員の女性の顔が目と鼻の先に近づいて、
「うわぁ!?」
 素っ頓狂な声を上げて彼は飛び退いた。背中が棚の一つにぶつかって、その最上段から小瓶が一本落ちてくる。それが彼の頭を強打して、さらなる悲鳴を絞り出した。だけどそのおかげで彼は瓶が落下していることに気づけた。咄嗟に痛みがした方を見ると、視界の頂点から、硝子製の瓢箪のような小瓶が流れて落ちていく。掴み取ろうとして延ばされた右手が、それを追いかける。
 指が、硝子の磨き上げられた表面と擦れた。
 彼はその頼りない摩擦に追い縋ろうと必死に指を引き戻し。
 しかしまるで力不足で、指が硝子の上を滑っていく。
 瓶は視界から流れて落ちていき、硝子が砕ける甲高き断末魔の悲鳴が飛び散った。
 散らばった破片の幾つかは爪先に当たり、跳ね返って静かになった。そして例の、じっと意識を研ぎ澄まさなければ嗅げないはずの仄かに甘い香りが、今は何倍にも濃縮されて死臭となり鼻につく。
「…………っ」
 それは否が応でも、彼に彼女のことを思い出させてしまう。夜明け前の薄闇に佇む、あの現実のものかも定かでない少女の影を。
 その様子を見ていた店員がきまずそうに苦笑いを浮かべた。
「えぇ……っと、あっと。その、ごめんね?」
 顔の前で小さく手を合わせて、謝罪の意を示してくる。それならば叱りつけてくれた方がずっと気楽でいられたのに。もう彼は落ち込む気にも慣れなかった。かぶりを振って店員の謝意を退け、彼の側から頭を下げる。
「すみませんでした。責任は僕にありますから。これっていくらなんですか? お代、払います」
 彼の発言を受けて店員は慌てて顔の前で大げさに手を振った。
「え、大丈夫だよ、そんな! その彼女さんにお店を紹介してくれたら――」
 店員の気遣いはありがたかった。紹介してくれたら、というのが彼に気を遣わせないためなのだと察してもいた。子供らしく大人の厚意に縋っていれば、それでよかったのだ。
だけど店員の発言で奥底に押し込めてあったものが沸々と沸き起こり出す。自制する間すらなく、彼の喉は息吹を紡ぎ、彼の歯と舌で言葉を刻んでいく。
「――――――、――――」
 最初、自分でも彼はなんと入ったのか理解するのに時間がかかった。
「え……、あ、あの……そうだったの」
 たった一言、彼が口走っただけ淀んだ、店員の目を見て、把握する。自分が声に出してしまったことの息も苦しくなるような重苦しさに。
「じゃ、じゃあ今日はその子へのお供えものを買いに?」
 もう死んでしまった、なんて吐き出された途端に広がって空気を濁らせる失言の後なのに、店員はすぐさま明るく言葉を取り繕う。彼は彼で失敗した反動から恐ろしく冷静になっていて、真実と区別のつかない深刻な声音で虚構を語っていた。
「ええと……はい。その子が香水はここで買ったらしいと聞いていたので、最近になって来なくなった子はいないのか、訊ねに来たんです。気に入っていた商品を知るために」
 今しか話せる時はないと思って、彼は必死に全てを吐き出した。自分でもどうやって口を動かしているのかわからなかったが、言葉はすらすらと彼の口から滑り出た。
「あぁ、そういうことか。そうだね、水芭蕉と合わせて買っていく人が多いのは……」
 店員は赤みがかっていたり、花びらが沈んでいたりする香水の入った瓶をいくらか彼に見繕ってくれた。彼はそれらを漏らさずに買い、店を出た。
 店の外は日溜まりになっていて、服の上からも温もりが滲んだ。吸い込む空気には葉の匂いが混じり、夏の訪れを感じさせる。
 そんな中にあっても、彼は自分の影に視線を落としていた。目映い輝きの中にあればあるほど黒々と澱む自らの影に。
 結局、値段を負けてもらってまで香水を購入しまった。こんなものはそれこそ、彼女への供え物にするしかないというのに。こんなものは助命の嘆願にすらなりはしないのだが。
 立ち止まって返品しようかとさえ考え、彼は店の方へと踵を返そうとした。だけど古びた木の枠にはめ込まれた、埃の付着する硝子が視界の端には入って首を止める。あんな出鱈目を言っておきながら、どの顔を下げて戻れば良いのだろうか。そんな器用で図太い生き方を彼は知らない。
 少し考えて、来た道とは違う方角へと歩き出した。
 でこぼこの石畳はやがて砂利道へと変わってくる。少し湿った焦げ茶色の砂に大小様々な小石が転がっている。道の両脇に木の板が連なって柵を成し、道と敷地を分断していた。曲がりくねった路地は行く先が見えないが、真昼の日光が直上から注がれて、さほどの閉塞感はない。汗まで滲み出したので、古着店で買った寸法の小さい長袖シャツで髪の生え際を拭った。どうも服がきつくて動きにくく、この上、汗などかいたら生地が張り付いて酷く無様な格好になるだろうことは予想できた。だけど彼はそうなった姿を想像して、陰鬱な気分になるよりもむしろその滑稽さに腹を抱えたくなった。今の彼に服装を気にするだけの余裕はない。
 暫く歩くと、無数のタイヤとアスファルトの擦れる音が忙しなく彼の耳にも届くようになってきていた。どうやら、大通りが近づいてきているらしい、と察するとどこか夢想めいていた時間にも現実の質量がまとわりついてくる。それから病院を断りなく抜け出してきた自分の立場を思い出し、待ち構えているだろう困難を想像した、とは言っても初めから目を逸らしていただけだ。ありありとその情景が思い浮かぶ。
 両親が、恐らくはいきり立ってやってくるだろう。或いは泣いているのかもしれない。
 そんなことを考えると、自分もまだ捨てたものではないように彼は思えた。誰かの愛を実感できて。同時にそれがのし掛かってくるようで気詰まりでもある。自分がそれに見合うほどの人間かと問われたら彼は答えを返せない。親が何と言おうとも、彼しか知らない自分自身がどうしようもなく無価値であることを教えてくれる。
 また思考の泥沼にはまっていると気づいて、彼は溜め息をついた。
この悲観的な考えを振り払うのだって、今まで挑んではきたことの一つである。自分より苦しんでいる人間は他にもっといる。自分にこんなことを思う資格はない、と。何度も言い聞かせ、その度に思いは挫折してきた。苦しみを絶つことだって、何の労力をかけずに、とはいかないのである。
 それが自分の中でだけ歯車を空転させるような行為だったのだとしても。
 いい加減に考え事をしていても気持ちが沈むだけだと思い至り、彼は足を早めた。できる限り無心に足を動かしていたくて、目指す指標が欲しくなって周囲に視線を行き交わせる。目の前の景色は代わり映えのしない路地で、気温は昼寝するならちょうど良さそうな陽気だった。どちらも欠伸が出るほど退屈で気を紛らわすには頼りない。味覚に関しては言わずもがな、となると残りは鼻か耳かしかない、そこまで考えて彼は感づく。
 まとわりついてくる異質に。
この気配は、この雰囲気は。
昼下がりの陽だまりと夜明け前の病室が重なる。
 何の感覚が働いたのか、そんなことはどうでも良かった。気が付いたとき彼はむち打たれたように走り出していた自分に気づく。その気配を追いかけて。
 来た道を少し戻って途中の辻を右へと曲がり、来たのとは違う道へと駆けていく。住宅の合間を通り抜け、本当に道なのか怪しくさえ思える狭い路地を抜け出す。
辿り着いた車一台がどうにか通れそうな道を左へと走っていく内に、いつの間にか気配は掻き消えていた。当惑した彼は周囲を見やる。瞼の裏にちらついた少女の姿など影も形もなく、彼は戸惑うばかりだった。
 だけど彼はそこで、不思議と目が引きつけられるものを発見していた。
 一件の店、と呼ぶには少々見窄らしい小さな小屋である。今にも崩れ落ちそうな庇の上には看板がかかっていて、彼はどうにかそこが茶と菓子を提供している店らしいことを知る。塗料が剥がれ落ちて剥き出しになった壁はどこか痛々しくさえあった。だけでなく窓と言うものが一つも見当たらなくて、酷く閉鎖的な印象も与える。
 それなのに彼が目を引き付けられたのはそこで、また、徐々に足が引き寄せられていくのもそこだった。
 荘重で分厚い木の扉に歩み寄り、真鍮の鍍金が剥がれかけた大きな取っ手を両手で握りしめる。ゆっくりと後ろへ体重をかけながら開くと、扉は軋みを上げてその奥を覗かせて彼をその内へ招き入れた。
 埃っぽいのとも違う、不思議と年代を感じさせる穏やかな暗中に天井からぶら下げられたランタンが頼りない明かりを投げかけている。そうして幽かに、四人掛けの机と椅子が三揃い、照らし出されている。およそ一般的な店で見るようなカウンターはなかったが、扉を入って正面から延びている廊下が足音に軋んだ。聞いていると床の木板の悲鳴は酷く、その内に抜け落ちはしないかと不安にさせられたが、何事もなく老婆が姿を現す。頭髪こそ白く老けきっていたが、こんな場所に似合わない背筋の延びた老人だった。くしゃりと相好を崩した顔が和やかでいて、その瞬間だけ、心が緩んだ彼は足下が覚束なく感じる。
「いらっしゃい。お茶にする? それともかき氷?」
 喉は乾いていない。かといって、この時期にかき氷は少し早いだろうかとも彼は考えた。しかしながら逡巡したのは一瞬のこと、理性的な判断など遠く思考の外へと弾き出される。
「なら、かき氷を」
「味は?」
「えっと、小豆金時で」
 知らずと甘みを欲した口が勝手に動く。味覚が失われて気づけなかったが体は糖分を欲しているのかもしれない、なんて推測をしていると否が応でも直視するしかなくなる。例え甘味を頼んだのだとしても、自分にはそれが楽しめないことに。
 しかし老婆はもう店の奥に引っ込んでしまっていた。今更、取り消すこともできず、彼は棒立ちになっているしかなくなる。
 程なくして老婆が線香と砂糖の匂いを着古された割烹着から振りまきつつ戻ってきた。
「待たせたね。小豆金時で合ってたよね」
 差し出されたのは底の浅い透明な器に降り積もった細かな氷の粉末だった。頂点から流れ、雪山の半ばほどで止まった滑らかな小豆からは甘い香りが漂う。
「えぇと、はい。ありがとうございます」
「そうかい。五百円だよ」
 既にいくらか硬貨を握っていた彼は、そこから一枚だけを老婆の手に載せた。
「どうぞ」
「うん、合ってるね」
 老婆が代金を確認するのを見届けてから、彼はかき氷の皿を持って手短な椅子に近づいた。小さくて安っぽいパイプ椅子だ。それが添えられた机も折りたたんで持ち運べるプラスチック製の簡易なものである。ここ以外は二揃いの机や椅子も積み重ねた時間が染み込み、木目の色が味わい深い代物なものだから明らかに浮いていた。
 座っても平気なのだろうか、なんて疑問が冗談でもなんでもなく彼を不安にさせた。耐久面でもそこの他にも懸念が多い。だけどこの時はどうしてか、彼は自然とそこに腰を下ろしていた。机の高さに彼の体格があっていなくて椅子も些か小さすぎたが、意外にも安定感はある。
 一息つくと、彼はスプーンでかき氷を一掬いしてみた。そっと口に運んで、氷の粉が一粒ずつ溶けていくのを感じる。冷たすぎて味が気にならないのは幸いだった。彼は気分が良くなって、次に掬った氷に小豆を乗せてしまう。
 そのまま、腕に染み着いた自然な動作として口に運んでいた。口を閉じ、舌と口蓋で押しつぶして、彼の頬は期待していたものに緩んだ。いつも通り過ぎて何も気づけず、舌ですりつぶした小豆の小粒と氷を飲み込む。
 仄かな砂糖の名残が吐き出した息から散っていった。
 さらにもう一口とスプーンを持った手を伸ばそうとして、彼は硬直する。腕が、思考が。
「甘い……!?」」
 らしくもなく声を上げて驚いていた。自分の舌が信じられなくて、彼はもう一口、口にする。だけど錯覚などではない。
 甘い。
 当たり前ではなくなった当たり前が彼を愕然とさせた。言葉さえ奪われて、意味を成さない震えた声が喉から漏れる。
 味覚が働いている。
 なぜだと、疑問が渦巻いて視界が捻れた。現実感はなくて、しかしもはや否定のしようがない。
 疑問に思うべきことは、もっと他にたくさんあった。だけどその時は、再び戻ってきた幸福からじわじわと発されだした熱に満たされて、理由などどうでも良くなる。無心に手を動かして、ほんの半日の間だが自分の内に穿たれてしまった空虚を彼は必死に埋める。皿から溢れんばかりに盛ってあった雪山はみるみる山肌が削られて小豆の流れは枯れ果てていく。どれだけ舌が冷えても彼の手は止まらなかった。
食べ進め、掘り進め。
 透明な皿の底を見たとき、彼は言いしれぬ虚脱感に襲われる。もう食べ終わりかけていることが信じられなくて、砂糖の残滓が混じった溶けかけの氷を何度も掬い、口に運んだ。その度に伝わる甘さは中々彼を離してくれない。
 だけどやがて、自分のしていることに虚しくなった頃に彼はスプーンを置いた。不思議な心持ちのまま、立ち上がる。それでも感覚の残滓は消えなくて、呆然としたまま食べ終わったことを老婆に告げて、扉の方へと向かう。
 店に入るときは重たく感じた分厚い扉も、このときばかりは中身をなくしたようだった。 足をもつれさせながら店を出ると、生温い風が頬を撫でていく。彼はもう一度あの味を思い出そうとして、舌の上に意識を束ねようとする。そうしてだけど、全ては幻だったとばかりに味覚はその存在すらも感じさせなかった。


 誰にだって耳を塞ぎたくなるときはある。そう信じないと現実は彼を見捨てて、遠く及ばない場所にまで飛んでいってしまうような気がした。向き合う度に、打ち付けられる無力感の一つ一つが痛くて堪らない。
「なんであんな場所へ来ていたんだ!? 母さんに来いと命じられていたのか!?」
 不必要に大きな声は同じ病室にいる他の患者から著しく視線を集める。そのことを憂いながら、だけどそれ以上に父親とはち合わせたときのことが思い出されて彼は気分が沈んだ。
 茶屋を出てから彼は、もう一つだけ寄った場所があった。言葉にできるほど確固とした理由はなく、出し抜けに湧いた衝動に駆られて赴いたのだが、そこに父親がいた。いつも彼に『正しい』道を示す厳格な人物である。
「今のお前に余裕があるのか? あんな場所へ行っているなら、するべきことが他にあるだろう!?」
「それは……」
 間違いではなかった。彼は今日まで、随分と時間を浪費してしまっている。
 今まで父親を納得させられるだけの成果が見せられていない彼に、刃向かう死角はなかった。
 方を強ばらせて浴びせかけられる叱咤の怒声に必死に耐える。体にいくつものひび割れが走り、軋みが上がるのを錯覚した。
 それでも耐えて、父親の気に障らないようにしていると、やがて少しずつだけど勢いが弱まる。怒鳴り声がぶつぶつとした「母さんも母さんだ……」なんて愚痴に変わっていった。
 だからといって肩は軽くなるどころか、重くて今にも抜けてしまいそうなのだが。
「――じゃあ、しっかりやれよ」
 丸椅子から立ち上がった彼の父は、急かされたように病室から立ち去っていった。骨の髄まで萎びた彼はベッドを囲うカーテンを締め切り、白々しいほどに洗い抜かれたシーツに倒れ込む。息を吐くと、僅かに残った気力に混じって気疲れも逃げていくように感じた。しかし空気を吸い込めば当然、体はまた少し重たくなる。
 ずっと吐き出し続けるだけでいられたら良いのにと、下らなくて馬鹿げた願いが一抹煌めき、肺の隙間に消えていった。体の中の全てを吐き出して、溶けて行けたのなら、もう何にも煩わされることはないだろうから。
 もう何度も彼が辿ってきた思考である。ここ数年間、一人でいても誰かといてもそんなことを度々考えさせられてきた。
しかし中でも、父と対面した後のそれは一際である。
父が期待しているものが彼にはわからなかったが――否、頭ではわかっていたのだが実行できていない彼を見て、父は会う度にその素行を厳しく戒めた。今回などはわかり易い。こんな時に何をしているのか、お前の為すべきことは療養と勉強だろうと、つまりはこんな内容である。
 どちらが合理的なのかは言うまでもなかった。
 問題は、合理的に動けない彼にあることは自覚している。
 ベッドの下に隠した古着のごわごわとした感触思い出しながら、小さな不満を集めて繋げる。本当は命じられたどんなことをしている最中でもこれで良いのかと疑問を拭えないでいた。若い気力を生かして為すべきことは他にあるのではないのかと自問自答し続けていた。
 冷静になって振り返って、彼は自分が持っているたった一つの趣味のことを考える。世界の縮図に見入るそれこそが彼のそんな心情を体現しているように思えた。誰にも告げず、広げた両腕よりも小さな世界に求めるのだ。どこかにあるかもしれない理想を。
 窓の外はもう暗い。じきに夜が深まるに連れて、病院の中の喧噪が少しずつ収まっていった。夕食をとった彼は頭まで布団を被り、早く次の朝が来ることを願う。
 明日は何をするのかも、残る五感のどれを捨てるかも決心はついていた。

三日目

 左手には民家や公民館のブロック塀や生垣が連なっている。そして歩道と車道の区別もない細い道路を挟んだ向かいにはまだ鮮やかな萌葱色の稲が風に煽られ揺れていた。
「もう少し、ゆっくり行こう?」
 ぽつりと漏れた少年の呟きは辺りを弾んで回るけたたましい蝉の声に塗りつぶされてしまう。そこに混じる、車輪のかき鳴らす調べだけがなけなしの涼しさを運んできてくれた。しかしながら熱気は依然として暑いままで、汗となりべっとりと肌に張り付いてくる。
 少年はシャツの袖で頬を拭い、前を行く少女の背中を見据えた。先ほどから躍起になってペダルを漕いでいるのだが、一向に距離が縮まる気配はない。
「沢蟹なんていつでも取れるでしょ。わざわざ、こんな熱い日に行かなくたって……」」
「そんなこと言ってないで。ほら、早くしないとおいてくわよ」
 振り向いた少女の、笑って震える小さな肩を覆っていた髪が晴天に舞う。少女は楽しげに、自分に遅れて自転車を走らせる少年に振り返っていた。その瞳は単に幼いからだけではない、今にも零れ出しそうな気力が満ち溢れている。輝くようなその笑みを崩さず、前を見ていない少女の自転車はしかし車輪を鳴らせて警戒に駆け抜けていく。置き去りにされそうになった少年は慌ててペダルを漕ぐ足に力を込めた。
「ま、待ってって……」
 車体と共に左右に揺れ動く視界の中で小さくて大きな背中が遠ざかっていく。少年が途切れ途切れの息の合間に訴えかけるけれども、少女の方には減速する気は一切ない。
 そのことを十分に承知していたから少年は噛みしめた歯の奥に思わず苦笑を漏らした。半ば呆れて、それでも必死に少女の背中に追い縋ろうと意を決する。
 彼女に連れられてなら、どこまでも行ける気がしていた。
 彼女と一緒だからどこまでも行ける気がしていた。
 夏の太陽は高く眩く、その色合いさえも騒々しいくらいに賑やかで。
 道の先には、道路を覆うように捻くれ曲がった松の木が延び、その向かいには金網で蓋をされた貯水池があり、そこを曲がった先、稲が茂る田の果てには夏を謳歌する山がある。彼は散り散りに光が乱反射する彼方、少女の向かう方角へとさらなる加速を試みて――

 
 眩しすぎるほどだった光が儚げに、或いは優しげに萎んでいった。残った小さな明かりが薄く開いた瞼の隙間から差し込む。目の奥がじんわりと温かい光で満ち、意識に炎が灯された。
 まだぼやけているところがあって、眠りから目覚めた意識が指先にまで行き届くには時間がかかりそうだった。体の感覚がまだ残っていることを確かめるように、彼は寝返りを打つ。
 そうして窓の方を向くと飛び込んでくる血の気のない顔。彼と共に横たわった少女の涼やかな美貌。
「ひぃ!?」
 海老もかくやといった勢いで彼はベッドの端まで跳ねる。
「何もそこまで怖がることないじゃない」
 愉快そうに霊がのっそりと体を起こした。
 無茶を言うなと彼は反射的に反駁しかけた。しかしこの身勝手な霊には意味がないだろうことに気づいて言葉を呑み込む。それにもっと、彼には気になることがあった。
 まずは一つ目。
「今日、茶屋に寄ってかき氷を食べたんだけど、無くしたはずの味覚で甘みを感じられた。なんで?」
 昨晩、眠るまで考えたが結論は出なかった。まさか答えを教えてもらえるとは思えなかったが、せめてヒントだけでも手に入れたい。
 そうして彼は一握りほどの期待を込めて彼女を見上げたのだけど、彼女はおかしそうに肩を揺らす。鈴を転がすような笑い声がして、彼女は口元を押さえていた手を離した。
「それくらいのことなら、いくらだって答えるわよ。わたしのことを見くびりすぎ」
 余裕たっぷりの彼女を前にして自分が卑小に思え、目を逸らす。そんな彼を、膝に肘を当てて頬杖をつき、眺めながら彼女は口を開いた。
「わたしが奪った感覚で認識できる『わたし』の中には、わたしと因縁深いものも含まれているだけ」
 霊が因縁だなんて言葉を使うと、憑代の話でもしているように聞こえる。するとあの茶屋でお祓いをしたら彼女も去っていくのだろうかとも考えたが、意味はないように思えた。彼女の言い方だと因縁深いものとやらは一つきりではないようだ。
「そうなんだ……わかった。じゃあ、あと一つだけ」
 彼が頼むと、彼女は夜明けの空を背景にして「何?」と首を傾げてくる。
「今の夢は君が見せたの?」
 おかしな夢だった。奇妙な実感があって太陽の熱がまだ肌に残っているようにすら感じる。それに記憶が正しければ、と彼は夢の中の光景を思い出す。
あの活発そうな少女は紛れもなく幼い頃の霊である。
そんなことを考えている内に彼は思い至る。自然に『昨日』のことだと感じていたがそもそも今が何時なのかわからない。窓を覆い隠すカーテンの隙間からは弱々しい黄金色の光が漏れ出ていたが、バケツ一杯の水に落ちた絵の具一滴のように夜闇を打ち消すにはほど遠かった。
 辛うじて物の位置だけが識別できる暗中で、肩をすくめた彼女だけがくっきりと見える。
「どうでしょうね?」
 彼は問い詰めたくなるのを堪えて顔を引きつらせるが、彼女はその様を面白がって笑うのを堪えている。時折吹き出しかけるのが余計に彼の怒りを煽った。
だが、そんなことで感情をぶつけていけるのならば彼は今頃自分だけの道を邁進している。気ままに生きられないから苦しんでいるのだ。
「はぁ……」
 答えるのも面倒で、彼は口を噤んだ。まともに相手にしては行けないと自分に言い聞かせる。
「あらら、いじけないでよ」
「誰がいじけてなんてっ!」
 思わず叫んで、しまったと彼は自らの口を押さえた。ここは病院で、ベッドを囲うカーテンの向こうには他の患者たちがいる。話し声が聞こえず、寝静まっているだろうことも明らかである。
 どうしてこの幽霊を相手にするとここまで感情を揺さぶられるのだろうか、嫌悪を通り越して奇妙にさえ感じつつ彼は冷たい目を彼女に向けた。
「からかいに来ただけなら帰ってくれない?」
 彼がぴしゃりと吐き捨てても彼女は含み笑いを返すだけである。
彼女と話していても疲弊するだけだとようやく結論付けた彼は用件だけを済ませることにした。
「……わかってるよ。どの感覚を捨てるか選べって言いに来たんでしょ?」
「なんだ。わかってるんなら余計に手間取らせないでよ」
 誰のせいでこうなったのかと叫び出したい彼ではあったが、ここで言い返しては同じことの繰り返しになる。だから怒鳴りつける代わりに、昨日から理解できないでいた疑問をぶつけた。
「何が目的で、こんなことするの?」
 訊ねると彼女は不思議そうに一つ、まばたきする。それが苛立たしくて彼は語気を荒げながら質問を重ねる。
「何のために、僕の体なんて奪おうとしているのかって訊ねてるんだ」
 納得したようでいて、それでもどこかぎこちなく、彼女は頷いた。一瞬、考えるようなそぶりを見せて、それでも次の一言を言い切るには迷わなかった。
「――世界を救うためよ」
 理解が追いつかなくて、彼は唖然とする。乾いてきた喉で唾を飲み込んだが、まだ意識は形にならずに疑問さえ湧いてこない。
 しかし彼女は違った。誇らしげに胸を張って、そのあり得ないほど現実から飛び出た大志を言葉にしていく。
「あなたが見るこの世界を、わたしは救ってみせるの。そのためには、こうすることが必要だった」
 呆れることもままならなかった。ちっぽけな彼の自意識などが立ち向かえる領域になく、彼女は遥かに高潔な佇まいで自分の夢を語り続ける。
「わたしはもう死んでしまっているけれど、いえ、死んでしまったからこそ納得できないの。変えてやるわ、そんな世界」
 言い切ってから、彼女は彼に視線を落とした。
 あなたはどう思う?
 意図は彼には計りかねたが、彼は彼女がそう訊ねてきているように思えた。
「それは……」
 彼にだって、世の中に思うところがないわけではなかった。きっと世間の人間の大多数がそうであるように。何の不満も抱かずにこんな世界を渡り歩けるわけがない。
「それは、僕にだって、不満はあるよ? でも……」
 結局、まともな人間は誰しも、はそういったことに耐えながら日々を過ごしている。ならば世界から弾き出されたのだとしても、その責任は自分にあるのだろう、と彼が抱えてきた不満はこのようにして彼自身を刺す刃になった。
 だがそれでも、そうすることでどうにか出る杭になることもなく、崖の先の中空と地べたとの境界を綱渡りしてきたというのに、彼女はそれを鼻で笑う。
「それで迷った挙げ句、そんな様になってるのなら哀れよね。わたしが理由なくあなたに憑いただなんて思ってないでしょ?」
「そんなの……っ!」
 喉元までせり上がってきていた何かを彼は押し戻す。酷く気分が悪くなって、だけどそれを堪えるしかない彼を彼女は侮蔑ではなく、憐憫の目で見つめた。
「あなたが一番、執着しなさそうだったからよ、この世に。だから奪いやすいだろうと思ってあなたに憑いた。ねぇ、違う? 嫌気が差してるんじゃないの、生きることに?」
 死へ誘い。死者からの囁き。情人からすればおぞましいだけのそれはその実、慈悲に溢れた、天使とも悪魔ともつかない者が差し伸べる救いでもある。その唇が紡ぐ言葉の一つずつが背筋をなぞって鳥肌が立つ。
「……今までの話は全部、本気で言ってるの?」
 思わず口をついて出たのは、そんな答えのわかり切った問いだった。
「当たり前でしょ?」
 否定とも肯定とも断言できる文句ではないのに、その一言が何よりも強く彼女の真意を明白にする。
「そうだよね……」
「わかったらさっさと、体を明け渡してちょうだい」
 俯いて、彼は何も返せなかった。
「ふん。その調子だと、まだ決心はつかないようね」
 体のことに限らず、彼はもっと広範に渡って決断を放棄したかったのだがわざわざ話して聞かせるのも手間である。ちらりと彼女を見上げて、目で訴えかけた。
 だけど彼女は睨むようにして彼の視線をはねつける。
「そんな目をしていたって変わらないわよ。わたしも、あなた自身も。昨日に宣言した通り、感覚は一つだけ貰っていくから」
 抵抗する気は元よりなかった。なくそうと決めていた感覚は既にある。
 彼がその名を告げると、彼女はずっと見ていなければ気づけないほど微かに目を見開いた。その驚きに込められた意思は彼が読みとれるものではなかったが、少しだけ胸の空く思いになる。
「わかったわ」
 告げた声は徐々に強まる曙光に溶けた。朝を告げるはずの小鳥のさえずりが、子守歌のように彼を眠りへと誘う――


 口の中で粘つく、咀嚼した里芋の煮物を彼は飲み込んだ。触覚はまだ生きているので、これはまだ、平気だ。しかし残る、イカの煮物を見て彼は表情を歪ませる。赤く茹であがって丸まった足、それにまとわりつく滑り気や奇妙な弾力の触感を思い出す。
 残すと看護師から何を言われるか、わかったものではない。既に昨日のことで、彼は目をつけられている。せめてもの抵抗として、げそに箸を突き立てて、二つに引き裂く。それを二回繰り返し、細切れになった三つを一つずつ口に運んだ。
 まず一つ。
「ん……」
 先端の一番小さなものだったこともあって難なく喉を通る。
 二つ目。
「……くっ……」
 吸盤が喉に引っかかって吐き出しそうになる。それをどうにか唾と気合いで胃の奥底へと送り込んだ。
 そして最後の三つ目。
「――!? げほっ、げほっ!!」
 どこかで詰まり、呼気が逆流した。息を吸っているのか吐いているのかがわからなくなり、視界が目まぐるしく荒れ狂う。咄嗟に彼は水が入ったコップに手を伸ばし、その半分以上は残っていた中身を全て舌の上に受け止めた。
「ぐぅ…………」
 なだれ込んでくる生温い感触が一度だけ大きな圧迫感を伴って、膨れ上がった。やがてしかし意識の届かない胃か腸のどこかへと流れていく。後には束の間、窒息の名残が息を詰まらせるのみだった。
 それさえも溶けていくと、入れ替わるように落ち着きが彼に戻ってくる。そのとき、ふと漂う香り――昨日消えたはずの感覚――に感づいて、知らず彼の表情が曇る。風が運んでくる草の青臭さにさえもみ消されてしまいそうなほど仄かで、単純に甘いのとも違う、ずっと嗅いでいたくなる香り。間違いなく、水芭蕉のもの。失われた彼の五感が唯一、感知できる少女の存在の片鱗だった。
 姿こそ見えないが、彼はあの少女の霊がすぐ傍から彼の醜態を笑っているように思えてならなかった。根拠はないが殆ど確実と言っても良いその想像に、歯ぎしりを堪えるだけでも多大な精神力を要する。昨晩は彼女の決意を聞かされた彼だが、本当は単に命ある者をからかいに来ただけではないかと、そんな根拠のない疑いさえ抱いていた。もちろんそれがあくまでも妄想に過ぎないことくらい、彼は理解しているのだが。
兎にも角にも、あの霊の鼻を明かしたければ名前を探り当てるしかない。そのためには少々癪だが、彼女自身の口から語られた情報を頼りにするしかない。
 あの幽霊は間接的に、昨日の茶屋が因縁深い場所なのだと話していた。死んでも断ち切れない繋がりが生まれていたとなると、まさか香水店のついでに立ち寄るだけだったとは考え難い。
 つまりは、生前の彼女があの近辺に住んでいて、日常的に通っていたと考えるのが自然だ。
 そうとなれば、次に取るべき行動は決まりきっている。彼は立ち上がろうとして、だけど少しだけ硬直した。 
 こんなことをする意味があるのか。
 彼女に投げかけられたその問いに、彼は未だ答えが出せていない。この生にそうまでして全うする価値があるのかはわからない。
 けれどひとまずは状況に流されようと思った。投げ出すのは行く先が見えなくなってからで良い。
「……よし」
 探るのならば、若い女性の死亡した事故か事件が適切に思えた。病死の可能性もなくはなかったが、そんな人間が社会に不満を持つのかと問われたら疑問が残る。死因に人為が絡んでいないのは不自然だ。
 布団をめくり上げてベッドを抜け出すと、彼は衣類を取り出しながら言い訳を考え始めた。外出申請をすれば許可は下りるらしいのだが、父親が納得できるだけの理由が欲しい。
 自分と社会とを結びつける糸で雁字搦めになりながら、彼は歩き出していく。行き先は本当に生きたいのか決心もつかない、皮肉な非日常だった。


 図書館に行って勉強をする。
それが彼の父親に対する建前であった。病院では周囲が煩わしくて集中できない、なんて模範的すぎる回答が通じるのかは彼自身も甚だ疑問に思うところだったのだが、難なく了承が下りた。そのことに拍子抜けしつつも、彼の行く道を遮るものはない。目的地だけは建前の通りに、彼はそこを訪れていた。
 病院から徒歩で十分もかからないそこには、突如地面から逆巻いて目前に立つものを飲み込まんとする大波のように奇妙な形状をした建物が彼を待ちかまえている。設計者の名前など彼は興味もなかったが、この珍妙な構造物がこの市の図書館だった。
 そのガラス張りの断面に設けられた庇の下で彼は額に滲む汗を拭う。自動ドアが左右に開く冷風が押し寄せて、蒸し暑さに苦しんでいた彼は息をつく。どこにそんな予算があるのか、熱気と共に夏の気配が高まりつつある外と違って、館内は空調が行き届いていた。
 顔を手で仰ぎながら、入って手前のところにあるロビーを横断する。取り込まれた日光が健康的ながらも不規則に揺らめくそこを通り過ぎると、扉もない出入り口の先に人工の優しい光が溢れていた。
 彼は大量の蔵書が収納された本棚を一望し、漂ってくるインクの匂いを肺一杯に吸い込む。奇妙に強ばる意識を捨て置いて受付を探した。
 入って左手すぐのそこには長机に四台のパソコンが彼に背を向けて並んでいる。その内の一台を前にして椅子に腰かけ、白いブラウスに紺色のエプロンというありがちな図書館の制服姿の女性が文字を打ち込んでいた。
 彼が申し訳なさそうに近づいていくと女性は顔を上げる。平日の昼間に出歩いている彼を不審に思う表情など瞬く間に打ち消され、作り笑いで上塗りされた。
「何かお困りですか?」
 実に愛想のいい声でお決まりの文句を告げてくる。
「あぁっと……」
 最初から考えていたはずの用件が頭から消えて、何も返せない。知らぬ相手にあちらから話しかけられると会話の流れを見失って混乱する。昔からそんな悪癖があって、苦しめられてきた。彼はそれをどうにか息を落ち着けて、肺の空気が全て入れ替わる間に思考を整理する。
 問題ない。少し、焦っただけである。
「あの、地方紙ってどれくらいありますか?」
 紡ぎ出した言葉がまるで曖昧なことに気づいて、「何ヶ月分ありますか?」と補足した。受付の向こうから係員の女性は表情を崩さずに対応してくれる。
「おおよそ全て、二年分程度はありますよ。どの新聞をお探しですか? お教えいただければ具体的な期間まで調べられますが」
 二年分。どうでも良いことなのだが彼の想像を大きく上回っていて密かに驚嘆する。地方紙も含め、十やそこらなんて数ではない記事を二年も貯めたら、一体どれだけの空間が必要となるのだろうかと。
 何はともあれ、彼が探している地方紙の名前を告げた。女性はパソコンに向かって文字を打ち込み出す。なんとなしにその様を黙って眺めていると、彼の方が気まずくなってくる。仕方がないので入り口の方を見やった。
 地方紙ならば、どんな些細な事件でも実名を載せて報道したがる。おまけに相手が死んでいるとなれば、多くのメディアは実名報道を行う。悪くない手段だと彼は思っていた。
 そうして考え事をしながら女性と出入り口とに視線を彷徨わせていると「あの……」と声が掛けられる。たまたま顔を上げた女性と目が合って、彼は滲み出した冷や汗を気にしないようにしながら極力笑顔を装った。
「え……あっ? はい!」
「お探しの新聞は三年半分、残っているようです。探しているのはどの日の記事ですか?」
 狼狽する彼と相反して、事務的に淡々と告げてくる声音が冷たすぎて心の芯まで凍り付いてしまいそうだった。が、残る日々が少ないことを思い出して体面を取り繕うことも馬鹿らしくなり、彼はその足枷から解放される。
「キーワードで検索ってできますか?」
 彼が訊ねてみると女性は当初、何のことかと空っぽの目で彼を見上げてきた。しかし遅れて、その表情は苦々しく歪んでしまう。
「申し訳ありませんが、この図書館だと単語から調べられる目録を作っていなくて……」
 ならばここで、目当ての記事を見つけるのが難しいのは想像に難くない。だからそれまでは単に落胆しているだけだった彼だが、次に告げられた町の名前に目を見張った。
「×××なんかのところだと、できるそうなんですけど……」
 女性がこぼした町の名前を耳にした途端、重苦しいものが彼の胸に宿る。どうしようもない因果を感じて、或いは意識したら水芭蕉の香りを嗅ぎ取れてしまえるような気さえした。
 なぜなら女性が口にしたのは、昨日彼が訪れて、『彼女』と関わりがあるらしい、あの町の名前なのだから。
「……どうかしましたか? 顔色が……」
「あぁ、いえ」
 鏡なんてなくとも、彼は今の自分の顔が到底見られたものではないことくらい、わかっていた。喉の奥に絡まったものを吐き捨てたくて溜まらなくなる。吐き気がするのにこみ上げるものが喉につっかえて、果てしなく不快だった。
 この世界は彼に優しくない。
 気を取り直して、なんて容易く気分転換ができるはずもないのだが、彼は顔にだけは出さないようにと気を配る。感情を押し殺すつもりで、吐息を声に噛み分けた。
「×××ですよね?」
 聞き間違いではないが、注意深く訊ねておいた。こくりと頷く女性の姿を見て、曖昧なままにしておきたかった何かが姿形を得て彼の内に据えられる。進める先がただ一つしかないことを思い知らされ、逃げ出そうとする自分が膨れ上がっていくのを感じる。
 ずっと目を背けていることだってできるはずだった。三日後には全てに幕が閉じるのだから。
 だけど踏み留まってはいられない。生への執着は決して彼を逃そうとはしなかった。
「ありがとうございました」
 礼を告げはしたものの、彼はもう女性の顔を直視できなかった。その意識は呆然と、まだ見えない彼方に焦点を定める。


 逃げ出したいけれども、自分の内にそれを許さないものがある。指の先から神経の一本にまで糸を張り巡らされて、彼はそれに繰られていく。
 目前に聳えるのは、町の規模と比して不釣り合いに大きな建築物だった。遠くから見ると天に力強く伸びるそれは遙か青と蒼と藍の果てにまで知恵を求めて枝を茂らせ、その傲慢のために切り取られた大樹の切り株のようにその威容を誇っている。
その一角にくり抜かれたちっぽけな空洞へと彼は歩いていった。トンネルの中は頼りない電灯が頭上に点々と列を成し、その奥からは光が溢れている。その輝きのもとに出た彼の視界は、あまりの明暗の差に白一色へと染まり果てた。やがて充溢する光が目の端から流れ出していき、微かな虹色の残滓だけを置き去りにしていく。
 現れたのは天上から降り注ぐ光に照らされた円形のホールである。正面と左右に一つずつ、計三つの硝子の扉が訪問者を待ちかまえている。彼の目当ては真っ直ぐに進んだ先にあった。そこだけ自動ドアになった扉が低く呻きを上げて中央から切り開かれ、漏れ出した過剰気味な冷気が額や額を撫でていく。
 入ってまず目に入ったのは、いくつも連なった石の段差を流れていく人工の滝だった。不自然に透き通った水の奥で濡れた石材が黒光りしている。案内板に記されている図書館の入り口を示した矢印はその裏へと向かっていた。
 大きく回り込んで、盗難防止用のゲートの間を通り抜ける。左手の受付に軽く会釈をして、幅の広い通路を進んだ。書架の据えられている開けた空間に出ると、目の覚める蛍光灯の白い光が瞼の裏にまで入り込んでくる。彼は行く先にある階段を登り、二階に上がった。辺りを見回して壁につり下げられた無数の最新刊の新聞紙を目にした。
立ち止まって新聞紙が並べられた光景を大まかに眺める。全国紙も地方紙も取り揃えてあった。
 十分すぎるほどに取り揃えられてはいる。
 ここなら見つかるだろう。
 だがそこで、いっそ見つからないでくれたら、とまるで相反する願いが俄かに沸き起こる。それは期待とぶつかってせめぎ合い、彼の胸中に小さな葛藤を引き起こした。
あの少女の方が余程有意義に自分の命を活用していけるのではないか、なんて。
「…………」
 彼はこの段に至っても生きたいと確信できているわけではなく、しかし死ぬ踏ん切りなど尚更にできるはずもなかった。生半可な自分の有り様にどうしようもなく嫌気が差し、それでも自分の命が惜しい。
無論、今決断したのだとしてもこれから何度だって覆せてしまう。まだそのどちらを選ぶにしても時期が早すぎる。
 もう少し、もう少しだけ選択を引き延ばそうと思った。まだ選べない。だから目を瞑って何かに縋るように、彼は事態の流れのままに歩き出してしまう。
 そんな消極的とも違う思考の放棄を経て、彼は、二階に上がって右の手前にある雑誌類用のカウンターへ向かった。
 広く間隔を空けて並べられた椅子と奥の事務室をぐるりと囲むカウンターの向こう、制服姿の少女らが落ち着いた雰囲気の男性から指導を受けている。彼女らはそれぞれに相づちを打ち、或いは頷いて了承の意を表す。それらに満足そうに頷くと、男性は少女らの内の一人に視線を投げかけた。背中を向けられて顔つきは見て取れないが、小柄な体で背筋を伸ばしたその少女は生真面目そうに頷き返す。彼女はそれから、男性に連れられていく他の少女たちに手を振って見送っていた。
 どうにも、あの少女が受付を任せられたらしい、と今更になって彼は悟る。職業体験だとかその類だろうことは推測できたが大した意味はなかった。関心を寄せるべきはあの少女が職務を果たせるか否か、その一点のみである。しかし駄目だったなら他を当たれば良いと考え直し、彼はカウンターに赴いた。
 そんな彼の足音に気づいて、少女が振り返る。
 舞い上がった柔らかな黒髪が肩に落ちた。対照的に、強ばっていてどこか睨まれているようにも見えてしまう、緊張した目つきが彼を射抜く。
 上げそうになった狼狽の声を彼は辛いところで呑み込んだ。
「え、えぇと……」
 どうしたものかと思案する。訊ねるべき内容なんて最初から決まっているはずなのに、切り出す糸口を完全に見失ってしまっていた。
「どうかしましたか?」
 真剣すぎて鋭すぎる少女の視線がじっと彼を射抜き、貫いてくる。そんな彼の表情が引きつっていることに遅ればせながら気づいた少女は、思わず声なき声を上げて口元を押さえた。
「ご、ごめんなさい、睨んでいたわけじゃなくて……」
 慌てた表情はすぐに暗く塗り替えられて、申し訳なさそうに俯いてしまう。人次第ではこうした態度の方が睨まれる以上に声を掛けにくかっただろうが、幸いにして彼はそうでなかった。奇妙な共感を得て、その為かはたまた別の要因があったのか、臆することなく近づいていく。
「新聞を閲覧したいんですけど」
「あ、はい」
 気負わない調子で話しかけてきた彼に拍子抜けしつつも、肩の力の抜けた少女はまたすぐに例の生真面目そうな目で彼を見据えた。黒目がちの大きな瞳は眼力が凄まじく、彼は内心でたじろぎながらも自分の用件を淡々と告げる。
「一年分ほどのある地方紙を、キーワードで検索させて貰いたいんですけど」
「えっと、探している新聞の名前は何ですか?」
「それは……」
 キーボードからパソコンを操作する少女に、彼は五年後に存在するかもわからない零細な地方紙の名前を伝えた。振り返った少女がほんの僅かに頷いた後、「キーワードは?」とさらなる質問が飛んでくる。
「そうだな……」
 何とするべきだろうか、少々判断に悩むところではあった。『死亡』をキーワードにすれば人の少ない田舎でのことだからすぐさま目的の記事には行き当たるだろうが、人の目が気になる。怪しく思われやしないだろうかなんて、この期に及んで気に病んでも仕方のない煩悶がじりじりと彼の心を炙る。それが酷く鬱陶しくて、目の前が煙に覆われていくようだった。
 もう何度目になるのかも覚えてないが、今はそんなことで立ち止まっている場面ではないと自分に言い聞かせて彼は一歩を踏み出す。
「キーワードは『女性』と……それから、『自殺』で」
 口に出してから彼は、『自殺』だと思い描く目当ての記事からは遠のいてしまうように思えた。そんなことをするほどの脆弱さが世界を変えて見せるとまで豪語した彼女の後姿に重ならないのだ。
「あの、やっぱり――」
慌てて訂正しようとした彼はしかし、大きく跳ねた少女の肩に驚いて口を噤んでしまった。どうしたんだろうと動揺する彼を、傷口の抉られた猫のような俊敏さで少女が見上げる。彼をのぞき込む両の眼は、恐怖とも違う不自然な情動に揺れていて、ありありと見て取れる狼狽が痛々しいほどだった。
「どうか、しました、か?」
 訊ねてみるけど硬直したまま少女を眺めながら、まず彼は自分の認識の甘さを疑った。いくら自分の信頼をかなぐり捨てるつもりでいても、自殺した人間について嗅ぎ回るなど人として品位に欠けるのではないかと、そんな心配をしたのだ。
「ええっと、その、何て言えばいいんだろう……」
 だけど発言を取り消そうとして彼は、少女の眼差しの奇妙な色合いに気づいた。警戒しているのとは少し違う、より睨むように真っ直ぐで内面を見つめてくるような、そんな視線。警戒されているというよりはむしろ試されている、といった方が彼の受けた印象を適切に表していた。
 目があった彼は蛇に睨まれた蛙も同然の心持ちとなって動けないまま。少女との間に凝り固まった沈黙を共有する。
 共感しているようでいて、どこかが決定的に外れている。
 親近感を得られるほどに近くはなく、疎外感を与えられるほどに遠くもない。そんな身じろぎさえままならない不安定な距離感に、先に限界を感じ取ったのは彼の方だった。
 というよりはようやく、自分のなすべきことを思い出した。
「悪いんですが、やっぱりキーワードを訂正します。『自殺』を『死亡』で」
 彼が口火を切った途端に二人は現実に引き戻された。
「わかり、ました。少し待っていてください」
 少女の側からも事務的な内容を喉につっかえさせつつも、吐き出す。彼から目線を外すと、居心地の悪さを忘れようとでもしているように、作業に打ち込み出した。
 互いに言いたいことがあるのは明白だった。が、彼は一切を口に出すことなく椅子に腰掛ける。
 ここで余計な探りを入れても、掘り返せるのは骨だけに成り果てた人の心の燃え滓程度しかないことくらいわかっていた。そうでもなければ彼には、こんな集中しているだけでも卒倒してしまいそうな少女が職務を放棄してまで彼の趣旨を窺い知ろうとする理由を見つけられなかった。
 程なくして片手の指の数ほどディスプレイに表示された検索結果が彼女の瞳に映りこむ。
「出てきました」
「どれくらい……?」
「五件ありますね。この数なら、まとめて閲覧できますが」
 どうしますか?
 そう目で尋ねてくる少女に、彼は、
「なら、そうしてください」
 努めて短く、意向が伝わる最低限度の返事をする。
 少女の側も頷くともう口を開くこともなく、立ち上がって受付の奥にある事務室に入っていた。その中から紙と紙の擦れる音がして、さほどかからずに目当ての記事が運ばれてくる。
少女の両手に抱えられてきた記事は新品同然に汚れや見当たらない。机に置かれたそれを受け取りつつ、彼は礼を口にした。
「ありがとうございます」
 ついでに軽く頭を下げて、彼はそそくさと立ち去ろうとする。
「いえ……」
 と発された呟きは後に続く言葉もなく、肌寒いまでに冷房の効いた空気に消え入る寸前で、その飛沫だけが彼の背中に染み込んだ。
 また振り返ってまで頭を下げそうになる自分を戒めて、彼は記事の束を両の腕に持ち直す。どうにもこの場にいては居たたまれなかった。彼はカウンターからは死角になる机を探してそこに陣取り、新聞を重ねて置く。
「始めようか」
 探すのは十代後半から二十代前半、ちょうど大学生程度の死亡した女性。
 そのことを改めて思い出し、まず一枚目を広げる。この中だと若干の皺が目立つ記事には交通事故による死者の名が記されている。二人いる内の一人の女性が三十代であると知って次に移った。
 二枚目も同様。死亡した女性の年齢は二十代後半である。それとは対照的に四枚目は老婆が水路に転落して溺死したというもの。二枚目を折りたたむと広げた三枚目を机に叩きつけた。
ここまで内容のためにこれにも期待していなかった彼だが、三枚目は様子が違った。
 被害者は小学生の児童、三人と十九歳の女性、それからトラックの運転手。居眠り運転をしていたトラックの運転手が小学生の一団に突っ込んだところを女性が庇った、という内容の記事である。
 一目で彼は、それが彼女の記事なのだと思い動悸が乱れた。児童を暴走車から庇うなんて、いかにも彼女にありそうなことだったから。
 だけど、違う。
 違うのだ、死亡した人間が。
 記事によると、子供らを庇った女性は重態、事故を引き起こしたトラックの運転者は急停止した際に硝子を突き破って車外に投げ出され、死亡、とある。死んでいるのは女性ではない。しかしながら、彼女は幽霊として彼の前に姿を表しているのだ。
 彼は文章を隅から隅まで確認した。だけど被害者が生きているためなのか、未成年だったからなのか、或いはそのどちらも関係しているのかもしれないが、年齢以上に詳しい女性の情報は見つけられなかった。一応、加害者である男性の名前は載っていたものの、役に立つ場面が彼には想像できずに溜息を漏らしてしまう。
 得られるものはもうなかった。そうわかってはいたが、彼はどうしてか思い切ることができずに現場の位置だけを記憶してから新聞を畳み、読み終えたものの上に重ねた。
「見つかんないな……」
 脱力した肩の重みが彼にのしかかる。読み進めたところでめぼしい情報が手に入るとは思えなかった。だけど、わざわざここまで足を運んできたのだから、その労力も無駄にしたくない、というのも彼の本音である。
 仕方ない。
そう自分に言い聞かせて、次の記事を手にとってみた。『五十代女性、孤独死』の見出しを目にした途端に彼の手は自然と開いた記事を閉じていた。
結局のところ、見事に無駄足になってしまったわけである。
 気落ちしながらも借りていた新聞を重ねて両手に持ち、受付まで運んでいった。彼はさほど時間が経っているようには感じていなかったが、あの少女の姿は既に受付の向こうにはなかった。


 行く当てなどなかった。
 手がかりだって尽きている。
 それでも彼は収穫のないまま帰るのが嫌で町を彷徨っていた。
 時刻は太陽が頂点から僅かに傾き出した頃、一車線の道路の脇、道の片側にしかない歩道を彼は歩いていた。
 凹みばかりで欠片も転がるアスファルトは熱を放射し、足下から彼を灼く。おまけに車道のある左手も広大な駐車場になっている右手にも、日差しを遮るものがない。どこへと向かう当てもなく熱に晒されて呆けていると、歩道の中央に伸びた無遠慮な電柱に何度もぶつかりかける。熱のことは別にしても、自転車二台がすれ違うのも難しそうな道幅と言い、とても通学路に選ばれている道には思えない、というのが彼の感想だった。
しかし彼が歩くそこは、事故あったという日も今も、変わりなく通学路とされている。
 不便に思いながらも道を進んでいくと駐車場が途切れ、道の両脇に建物と塀がそびえ出す。そのさらに先、大きく道がうねった一帯が彼の目的地だった。
 歩道のない車道の左脇からせり出した山を迂回するように、道が急激な弧を描く。弧の円周の上を歩いてると、程なくしてそれは現れた。
 そこだけ道路との境界にある縁石が砕けている。そこに面するブロック塀にも穴が穿たれ木板で修繕されていた。それでも痛々しい事故の名残は消せずに、小石にしては大きすぎるコンクリの破片が散らばり、塀には擦れた痕が消えることなく白く刻まれている。
 そんな道の脇に捧げられている、黄や橙の花々の前で彼は膝を屈した。くるむビニールは土や泥の汚れが目に付いたが、まだ花は萎れていない。もう命はとうに絶たれたはずなのに、青い葉を天に向けて反り返らせ、細やか花びらに風を受けている。この場には場違いなくらいに色鮮やかだった。
 彼は新聞で見つけた例の交通事故の現場にまで来ていた。あるわけがないのに明快な答えが眠っていないかと、馬鹿馬鹿しくも切なる期待が拭えなかったからだ。
 だから彼はそうしてそこを訪れても、何もすることがない。できることなんて何もない。曖昧な希望に追い縋っただけの、意味のない愚行だった。
 急に自分がどうしてこんな事をしているのか、彼の中の空洞に寒々しく虚ろな風が通り抜けた。霊に怯え、意味がないと知りながらも死人さえ生まれた事故現場を訪れて。
何がしたかったのだろうかと、無駄に費やしてしまった時間を数える。それだけの時間があれば、まだもっと違った調べ方だってできただろう。でなければ徐々に遅れつつある勉強の時間を少しでも稼げたかもしれない。
 考えれば考えるほど、自分の愚かしさと怠惰は浮き彫りになった。
こんな場所で浪費している時間ないのだと自分を叱咤して、立ち上がろうとする。なのに気怠くて重たくて、彼の腕も足も動くことを拒絶していた。額を伝っていく汗の冷たさを感じながら、しばらくこうしていようかとさえ迷う。
だけど彼がどれだけ動きたくなくとも、体の方が悲鳴を上げていた。しゃがみ込んだ姿勢に耐えられず、腿と膝がじくじくとした痛みとも違う疼きを訴え出す。
耐え難くてすぐさま彼は立ち上がった。今にも軋みを上げて脆く崩れ去りそうな自分の膝に思わず苦笑させられる。
 立ち上がったからにはここでじっとしているのも嫌だった。病院に帰ろうと思い、振り返る。
しかしそこから彼が動くことはなく、目を見開くと体を硬直させてしまった。閉じることのできない口の奥で喉が震える。
「え……?」
 深い紺色の制服に身を包み、両手で肩掛け鞄の紐を握りしめる、小さな少女。透き通ったように艶やかな黒髪が初夏の日差しに照り映える。
「確か……」
 黒目がちの真面目そうな双眸を見つめて彼は思い出す。
 先ほど図書館で受付をしていた少女だった。
 偶然、にしては出来過ぎているようにも思えた。先刻のやり取りを思い出し、少女の姿を正面から見据えることすら躊躇ってしまう。だが逃げ出すわけにも行かず、彼は可能な限り素っ気なく「こんにちは」と挨拶をして、すぐにその脇をすり抜けようとした。
 だけど、
「待って」
 呼び止める声が彼をその場に縫い付ける。なんとなしにこうなることを予想してしまっていた彼は、自分の想像があったことに驚きながら肩越しに少女を見た。少女は彼とまともに目を合わせず、かといって他のどこかに視線を定めることもないまま右往左往させている。
 なるべく早くこの場から立ち去りたい、というのが彼の本音だった。どうしてかと問われても答えることはできないが、彼にはこの少女が面倒事を運ぼうとしてきているように見えた。
「用事がないのなら、僕は帰りますけど」
 ぶっきらぼうに告げた彼がもう一度踵を返して立ち去ろうとすると、今度ははっきりと彼を引き留めようとする意志の現れとして「待って!」と少女は叫ぶ。
 それから少し遅れて、申し訳なさそうに言い直してきた。
「待って……ください」
 懇願する声は切なる音が響きすぎて、しきりに何度も胸の奥の琴線を爪弾く。その度に胸が詰まって、彼は今度こそ立ち去ることができなかった。諦めて観念し、体ごと振り向く。
「どうかしましたか?」
 年上かどうか程度の素性さえもわからない相手だった。少しだけ迷ってから敬語を使うことにする。そこに突き放そうとする意図があったことを彼は否めなかった。
だけど普段気弱な彼がそんなことをしたくらいで、効果が表れるはずもなかった。 揺らいでいた瞳は彼を視界の中心に定めるともう微動だにしなくて、逃れられない。
「僕に何の用があるの?」
 恐怖からか諦めからか、自然と彼の敬語口調は崩れ去っていた。少女はそんな些細な変化になど構わず、質問に答える。
「教えて欲しいことがあるんです」
 少女の足下に落ちた言葉の一つ一つが彼には不発弾のように思えて、気が狂いそうになった。だけど少女の切迫した悲痛さが、訴えかけてくる目が彼に立ち去ることを許さない。
「どうして、なんであんなことを調べてるんですか?」
 やはり来たかと、彼はため息さえ出てこなかった。
「あんなこと、っていうのは?」 
 目を逸らしながらの白々しいほどにとぼける。あからさますぎて一瞬だけ険しいものが少女の表情に沸き立ち、しかし閉じた瞼の向こうにそれは葬られていった。
「この近くで死んだ女の人を調べてるんですよね、なんで、今更になってまた」
 言葉を区切る事に、一歩、また一歩と少女は詰め寄り始める。彼はもうどこにも行けない心地で、背一杯の嘘を紡いだ。
「実はその、知り合いの女性と連絡が付かなくて。死んだ、って噂まで聞いたから、その人の地元だって聞いていたこの土地を訪れていて……」
 自分がこうしている理由ですら虚構で塗り固めてしまえる己の白々しさは誰よりも彼自身が痛感していた。おまけにたった今だまそうとしている相手は、疑われても尚信じることで相手を説得してしまえそうな少女で、薄っぺらな自身の本性を殊更に彼は自覚させられる。
 だが。そうまででしてでも、彼は。
 この少女とは関わることだけは、避けたかった。その心根に思いを馳せたりなんてしたくなかった。
 例えば、少女が何気なく使った『今更』という言い回しにどんな意味があるのだろうか、なんて。
 考えれば考えるほど深みにはまっていくことが目に見えているから。
 しかし彼が近寄らまいとしても、何もかもが思い通りにいくとは限らない。そうできるのなら、彼はこんな町の中を行く先があるでもなしに彷徨ったりなんてしていない。
「その人ってどれくらいの年齢の人ですか?」
 少女のさらなる問いは着実に彼を追い詰めていた。選択を誤ったのだと気づいても、もう遅い。
「もしかして、若い、二十代になるかならないかくらいの女の人じゃないですか?」
 立て続けに繰り出される質問が少女の歩みのように着実に一歩ずつ彼に近づいてくる。
「それ、は……」
 間違いなどではない。恐ろしいほど迷いなく、一直線に少女は、彼が探す『彼女』の姿に迫ってくる。
「あたしは知ってるかも知れないんです、その人を」
 少女は胸に手を当てて自分を示した。
「どうでしょう? もし良かったら、その人の元まで案内しましょうか? その場合、交換条件っていうと変だけど……協力して欲しいことがあるのですが」
 一拍おいて、目を瞑り。空気を吸った少女は彼を見据える。不規則に移ろう訪れかけの日影が、その瞳の中で強い輝きを垣間見せる。
「その協力して欲しいことっていうのは?」
 やめろと自分を抑えつけようとしても、意味はなかった。その質問は思わず、口から零れたものだったから。
じっと目を瞑って首肯し、少女は答えた。
「はい。あたしの姉をちゃんと死なせてやってもらいたいのです」


 まだ若い葉も、寄り集まった樹木の枝に隙間なく茂れば色濃い木陰を描き出す。
 わずかに日差しの大人しくなった太陽を葉と葉の合間に見上げつつ、彼は少々傾斜の厳しい山路を歩いていた。一応、舗装はされてないわけではないのだが、でこぼこと小さな穴や突起が目立つ。
「……きついな」
 どうしてこんな道を平然と歩けるのだろうか、と彼は酷く辟易しながら、先を行く少女を見やった。
 ここまでの道中で最低限の自己紹介は済んでいる。瞳と名乗ったその少女は、彼より一つ年下の高校生だった。放送部に所属しているらしい。そんな、運動部員でもない年下の少女が、平坦だった町中の道と変わることのない速度で歩いている。
 単に慣れ、ということもあるのだろうが認め難い。平均よりも体力に劣ることは自覚していたものの、他愛ない矜持が折れる寸前で踏ん張っている。足取りを緩めるようにだなんてとても口に出せず、無心に足を動かした。
「この先に、あたしの家があります」
 きっと染めようだなんて考えたこともない漆黒の髪の少女は立ち止まり、振り返って坂の向こうを手で示す。
「そっか」
 瞳の勢いに流されてここまで来た彼の返事はまるで気の入ってないものだった。自分の発言を顧みて、似通った返事を姉にしたらどうなることだろうかと肝を冷やす。
 しかしながら少女は進む先にある目的にしか興味がなく、彼の口振りを一々気にかけたりはしなかった。
「姉の末期のことは、まだ話してませんよね?」
 前を向く少女の髪は翻らない。
「うん」
 もし話されていたら、忘れられるはずもなかった。
「だったら、そのときの状況だけは説明しておきます」
「わかった」
 とは言ってみたものの、彼女の話を受け止めきれる自信はない。ただ断ることもできずに彼は、木葉と雲の切れ間に見えないものを探し求める少女の眼差しを目で辿った。
 夏の空は騒々しすぎて、そこから降り注ぐ光を眺めると目が眩んでしまう。
「大学生だったあたしの姉は、ある日唐突に、実家に帰ってきたんです」
 となると普段は一人で生活していたことになる。故郷から離れた暮らしに共感する部分もあったが、抱く感情はどれも快いものではない。
「それで、帰ってきた日までは家族ともすごく明るく話していてたんです。わたしも少しだけ、大学でのお話とか聞かせてもらったりして」
 そこで言葉を切った瞳の、深く大きく森の空気を吸い込む音が彼の耳を撫でていくようだった。
「次の日になって母親が、姉は自室で首を吊っていた、って」
 結末は短く、直接の表現はなくとも一人の人間の終わりを濃く臭わせていた。言いきった瞳の、自らの影に沈み込んでしまいそうな様子を見かねて、というわけではなく自らが巻き込まれようとしていることの重みをようやく実感したから、彼は口を開く。
「自分で、自分を殺したの……?」
「はい」
 毅然と答える瞳は頑なな目をしていて、真意を読ませない。わかるのはその姉が、自身の手で人生に終止符を打ったことだけだ。
 彼は思わず、口走る。
「なんで、そんなことを、」
 してしまえたのか?
 その結末へと至らせた事情だって当然、気にはなってはいた。だけどそんな興味が及びつかないくらいに彼は引きつけられていた。自殺という、苦難から逃避する無二の手段へ踏み切れてしまえる心理に。
 それは彼が、どれだけ願い望んでも得られなかったものだから。
 そうして個人的な衝動に駆り立てられていたから、感づけなくなる。
「あなたこそ、どうしてそんなことが、訊けるんですか……?」
 振り返り、彼と目があった瞳の目つきは厳しい。その視線は氷を研いだ刃のように鋭く冷たく、今にも折れそうなほどに脆く、彼に突き刺さる。
 遅れてその目に感情の湿り気が滲み、瞼を閉じてそれを堪えた。溢れる激情を抑えつけながらそれでも黙って入られなくて、ぴしゃりと言い捨てる。
「そんなこと、知るわけ……ないじゃないですか……!? 勝手にっ、何も言わないで! お姉ちゃんはっ……姉は、独りでいなくなっちゃったんですから!!」
 言い切った直後に彼女は大きく見開かれている濡れた目で彼を見つめて、口を押さえる。
「あのっ! ……ごめんなさい」
 口早にそれだけを伝えると、瞳は前に向き直ってその表情すら彼に読ませようとはしなくなる。
 どう考えても迂闊な自分の責任で、彼はそこからさらに追求しようと言う気にはなれなかった。
 だから、黙々と歩くけれども、頭の中でこだまする。
 知るわけ、ないじゃないですか、と。痛切な瞳の声が。
 本当に理由も告げず、命を断ったのだろうか。彼にはそうは思えない。その切れ端が交わした言葉のどこかに紛れ込んでいたか、さもなくば最初からはっきりした理由なんてなかったかのどちらかだと思った。小さな傷や疲労だって積み重なったものが急に疼き出せば、耐えられない痛みに膨れ上がっても不思議ではない。
 それに、自分を殺したものの名さえ告げないで命をかなぐり捨てるなんて虚しすぎる。後には何も残らず、残せず。
 自分が死んだ後に、生きていた痕跡も残らないのだとしたらそれはどんな気分だろう?
 ふと思い浮かんだその考えを彼は反芻する。何かを残すこと。確かにここに自分はいたのだと主張すること。多くの人は、例えば子を遺してそれを行う。だけど配偶者も子を育てるだけの力もない彼にはまだ、そんな選択はとれない。
 今ここでできるのは、手が届く範囲。けれどももし、躓いている人が居て、その手を取り、立ち上がらせられたならば。ささやかでもその人の中で、手を差し伸べた自分が生きていくのだろう。
「ねぇ、ちょっと」
「何ですか?」
 瞳は振り返ることもせず、突っぱねるような返事ばかりが投げつけられる。我知らず声をかけていたに過ぎなかった彼は、口ごもって呼吸一つ分ほどの間、悩んだ。だが、やがて感情が纏まって、言葉が練り上げられる。
「ごめん、僕は何にもわかってなかったんだと思う。今になってやっと少しだけは、自分がしたら良いことを理解できた気がする」
 相変わらず彼の口振りには自信が欠けている。未だに何一つ、断言はできない、けれども。
「ちゃんとした返事できてなかったから、言っておくけど」
 肩越し彼を見やる少女の半眼は開かれて、彼の知らない色が覗いた。揺れ動いているものが驚きだとか期待だとか、そんな感情であることだけはわかった。
「僕なんかで良ければだけど……力になりたい」
 伝えたかったことがどれだけ話せたのか、彼にはあまり自信がない。だから、
「いえ、こちらこそよろしくお願いします」
 という瞳の返事が、想いの通じた結果であると信じておくことにした。
 上る坂道の傾斜は緩やかになり、日向と木陰の境界を何度も踏み越えて、目的地の家へと急ぐ。滲む汗がいくつか散って、ぼろぼろのアスファルトの隙間に染み込んでいった。
 息を切らしながら顔を上げると視界が開ける。その前方には生い茂った木々に陰る山道から、日当たりの良い空の下へとせり出す建物が見えった。小さな崖の上に建ったそこは、二階まである洋風の一軒家だった。


 開いたままの格子の門を抜けて、煉瓦で作られた階段を登る。日の届かない軒下まで来ると瞳が鍵を取り出して扉の右側についた錠前に差し込む。その間に彼は扉の脇に置かれた金魚鉢を眺めていた。
 水中にとぐろを巻く水草とふわりと放射状に広がった浮き草の根の隙間を縫い、メダカが五か六匹の小さな群れを成している。水底に積もった泥の模様まで曇りなく見える透き通った水の中で、ひれをたゆたわせていた。
 その銀色の鱗に包まれた小さな青白い体躯に見入る間もなく金属の擦れ合う音がした。遅れて勢いよくシリンダーが回り、あるべきもう一つの形にはめ込まれるのが聞こえてくる。
「空きましたよ」
 瞳は扉を左手で開け放ち、残る右手でその奥を示す。入れ、と言われているのは察しの良くない彼にでも明らかだったが、戸惑った。突然に訪問する他人の家、友人の少ない彼には何年ぶりのことかもわからない。極めつけに同年代の異性が住んでいると来た。
 気にしないつもりでも動作はぎこちなく、彼はびくついた様子で扉の内側に足を踏み入れる。
「お。お邪魔しまぁす」
 家の中は小綺麗に片づけられていて、埃一つない。玄関から真っ直ぐに伸びた廊下は今へと続き、その中途にはいくつかの扉が並び、右手の壁にはそれらの合間に階段があった。
「狭いんですからもっと奥へ入ってください」
 小さな両手と言葉に押されて彼は靴を脱ぎ、廊下に上がる。ちらりと背中越しに見えた少女が自宅なのに靴を揃えていて無礼を責められたような気分になり、彼もきびすを返して上がり框に腰掛けた。靴を揃えようと手を伸ばすと、狭い廊下に横に並んだ瞳と肩がぶつかる。制服の生地越しでも人の肌は柔らかく、温かくて、居たたまれなくなった彼は廊下のもう一方に身を寄せた。
「狭いって言ってるのに何で来るんですか」
「ごめん」
 他に返せる言葉もなく彼が自信なさげに顔を背けると、瞳の方が気まずくなる。彼女はなぜだか自分が悪いような気がしてくる。
「……別にいいですけど」
 瞳自身がその言葉の意図を理解していないのだから、彼にその真意を読めるはずはない。
「そ、それなら、良いんだけど」
 年長者としての尊厳が脆く崩れていくのを彼は幻視するようだった。
 どうしてかまた落ち込んでいる彼を怪訝そうな目で見つめながらも、瞳が先に立ち上がる。埃を払おうとはたいたスカートの裾が揺れた。
「こっちです」
 彼も慌てて立ち上がり、廊下から階段に消えていく背中を追う。瞳のすぐ後ろに並んだ彼は、機嫌を損ねてはいないだろうかと肩越しに彼女の表情を伺う。
 そして目撃する。
 酷く厳しい、そう形容しても差し支えのない瞳の目つきを。
 まるで階段を上った先にいる、あらがうことも容易ではない何か、それこそ幽霊でも相手取ろうとしているような態度だった。
「どうかしましたか?」
 瞳が彼の視線に気づいて顔だけ振り返る。
「いや、何でも……」
 安易に声を掛けるのも躊躇われた。
 今になって彼は、瞳が告げてきた「姉をちゃんと死なせる」という目的を思い出す。その意味に深く意識を潜り込ませていく。
 死に切れていないものに引導を渡そうとしているかのような言い草。きっとそうに違いないと思い、だったら、と瞳にその少女の名前を聞き出そうかとも迷う。もし『彼女』が瞳の姉なのだとすれば、少なくとも次の明け方には決着をつけられる。
 けれども、
「まだ早い、か……」
 どのみち今は、嗅覚でしか彼女の存在を知覚できない。急ぐ必要はなかった。
 ぬか喜びさせるのも申し訳ない、彼はもう少し、瞳から話を聞いて名前と霊の関わりを明かすことにした。
「広い家だね」
「そんなことありませんよ」
 廊下を上がり切った二階には一階のそれと比べると幾分か短い廊下があり、その両端と正面に扉が一つずつある。
「あたしの部屋はこっちです」
 瞳は真っ直ぐに進んで正面の扉を開き、その奥に入っていった。彼もそれに続くと、予想通りのような、或いは意外でもあるような様相の部屋にたどり着く。
 真っ先に抱いた印象は、
「これなら、落ち着けそう」
 というものだった。
 女性の部屋に装飾過多な印象を抱いていた彼である。
 けれども置かれているのは、観葉植物が植えられた鉢と飼っているもののわからない小さな水槽。よく見るとベッドの枕元に一つ、少年らしい天使のぬいぐるみが座り込んでいる。その不気味なまでに精巧なのに愛らしい表情もさることながら、彼は天使の右にしか生えていない翼が気になった。
 左の翼が千切れたようにも見えないがどういうことなのだろう?
 しかしそんな疑念はすぐさま打ち切られる。
「どうかしましたか? やっぱり、あたしの部屋ってどこかおかしかったりします?」
 彼の目をじっと見上げる瞳の双眸は、人付き合いに乏しい彼には近すぎた。
「いやっ……ううん、そんなことない」
 視線を逸らすために部屋を見回すと、他に飾り気のあるものは見あたらない。後は勉強机やベッド、簡素な箪笥など最低限のものだけが揃えられた部屋だった。
 少女趣味の部屋などに押し込められたら窒息死する自信さえあった彼なのでひとまず胸をなで下ろす。
「だけど……」
 気になって彼は、鼻から大きく息を吸ってみるが、何ともない。
 匂いに関してまで別段、まるで変わったところがないのはどうしてだろうか、などと考えている内に思い出した。彼は現在、嗅覚を失っているのだ。
 喜んで良いことなのか、判断に困る状況ではある。が、今回に限っては調子が狂わされないのだから、むしろありがたい。
 それならそれで良いだろうと割り切って、彼は瞳の部屋に踏み込んでいった。
「本当はもう少し整理しておきたかったんですが」
「これ以上は難しいんじゃないかな」
 瞳は机の脇に鞄を置くと、茶色の、やはり年頃らしくない絨毯に腰を下ろす。
「どうぞ、こちらへ」
「うん」
 彼は瞳が手で示した先、丸い机を挟んだ彼女の向かいにあぐらをかいた。行儀良く、もしくは堅苦しく膝を揃えて正座をしている瞳と、彼との目線の高さが合わさる。
 逃げ出したくなる衝動を彼は必死に抑え込んだ。
「細かい事情を説明します。……あまり気分の良くなる話じゃないのですが、大丈夫ですか?」
 どこか浮き足立っていた彼は問いかけられて、我に返った。今更になって、自分がしていることに疑問を抱く。
 こうして過ぎ行けば遠からず尽き果ててしまう時間を、見ず知らずの少女を助けることに費やしている。霊の名前を探るのならば、もっと効率の良いやり方がいくらだってあるはずなのに。手段を選べるほどに余裕もないはずなのに。
 考えればその数だけ、反省と後悔が生まれた。
 それでも、と彼のどこかが訴えかける。
 命と引き替えにしてでも、譲れないものがあるはずだと。
 ようやく自分自身で見つけだした一欠片の本音を両手に掴み、離さないように抱き抱えて、彼は瞳を見つめ返す。
「大丈夫。教えて」
「……わかりました」
 言葉を探そうと瞳の瞳孔が僅かに緩んで、深淵を覗かせる。その内なる視線が記憶の底を駆け巡った。
 彼がその思椎の終わりを待っていると瞳の目がゆっくりと伏せられて、悲哀や悔恨、他人が安易に触れることを許されない暗い影が過ぎっていく。
 それらを睫毛が二度、瞬かれてそれらを振り払った。
 もう一度、彼に焦点を合わせた双眸には強靱な意志が張りつめている。
「姉がこの世にいないことは先ほど説明したとおりです。そのことはもうどうしようもなくて……言葉にできないけど、普通じゃ、いられなくなるんです。わかりますか?」
 溢れそうになったものを呑み込んで、彼は頷く。
「ですよね。当然だけど、あたしの家もそうでした。避けることなんてできなかったと思います」
 家族を亡くした人間としては致し方ない反応だろう。ただ彼が気がかりだったのは、瞳の口振りが当事者らしくない点だった。まるで悲しむ家族を傍から見つめ続けていたかのように。
「だけど、わたしの母は少しおかしいんです。ついていけなくて……」
 どんな意味にでもとれてしまう、曖昧でありながら今にも破裂しそうな危うさを匂わせる物言いだった。瞳の暗い雰囲気も相まって、好ましくない方向にばかり想像が膨れ上がる。
 本音を言えば、彼とてどんなことが起きたのか、訊きたい気持ちは少なからずあった。だが、訊けない。訊けるはずがない。震える睫毛や、自分よりも遙かに強大な何者かへ抗おうとしているように強ばる口の端を見ていたら。
 それでも問題の解決に勤しもうとするのならば、真実に触れることのないまま解決法を探っていくしかない。それは傷に触れることなく傷を治療するくらいに無茶なことなのかもしれないけれども。
 どう訊ねたら良いものか、恐る恐る彼は、纏まらない疑問を慎重に言葉へと変えていく。
「だから、その、僕はお母さんを説得すれば良いの?」
 自分で言っておきながらも彼は思わずにはいられない。今ここで迂遠なことをしていたところで、真実も知らない人間がいくら説得を試みても言葉に重みが生まれない。それでは、相手の心に届かない。
 そのことを自覚して肩を落とす彼だけれども、やつれ、小さく縮こまっていた瞳の表情から多少なりとも憂いが抜け落ちている。もうそれを見てしまうと彼には、無意味だとわかっていても直接的な物言いはできそうになかった。救いようのない自分の性分にまたしても溜め息を漏らしつつ、彼は瞳と目を合わせる。
 どれだけ自分が馬鹿でも、逃げ出したらいけない場面もある。
 瞳は彼をじっと見つめてから、最小限の返事として、首肯を返した。その動作に、辛そうなところが混じっていないか彼は注意深く観察しつつ、手に入れた事実を整理し始める。
「そっか……」
 瞳が抱えている問題。姉の死が発端となったそれは、悲嘆に暮れた母親の異常として表れている。しかしそれがどのようなものかまではわからない。
 月並みながら彼が想像したのなら、重苦しい家庭の空気ということになる。瞳一人が空元気で他を賑わそうとしているのなら、きっとその光景は救いようもなく痛々しい。
 だが、それが事実だったとしても彼にできることなんてない。その母親を元気づけられるのなんて亡くなった姉本人にしかできないだろう。ましてや部外者である彼の言葉など空々しくしか響かない。
「僕は……僕は、何をしたら良いんだ?」
 気がついたらその問いは口から漏れていた。改めて自分の立場を見つめ直し、その異常性に思い至る。
 なぜ、初対面で、何ら身分の保証もない人間がここまで信頼されているのか。こんなところに導かれてきたのか。
 考えて、考えてから、一つだけ。
 やるせなさばかりが募る結論に至る。
 詰まるところ、それくらい瞳には余裕がなく、また頼れる当てもなく、死に物狂いで掴んだ藁が彼だったのだ。
「僕にも、どうにかなることなのかな?」
 怖じ気付いた、というのとは少し違う。まだ彼に尻尾を巻くつもりはなかったから。
 ただ背負っている期待に気づき、それに自分が相応しいのかが知りたかった。まさか、そんな絶望と背中合わせの希望に己が見合うとは彼自身が思えなかったのである。
 進もうとする足が竦んでしまう。
 だから、欲した。
 他人からの肯定を。
 自分が誰も傷つけないで済む、確信を。
「あなた、は……」
 苦しみが多少は和らいだ代わりに、泣き出しそうなほど脆い顔を見せていた瞳の目が見開かれる。驚いて、それから納得したように肩の力を抜く。
「もちろん……か、どうかはわかりませんけど、あなたなら、なんとかなると思います」
 そう伝える瞳の頬と目尻は優しい微笑に緩んでいた。
「それは、僕が似ているから?」
 君と、まで口に出しそうになって慌てて彼は自分を戒める。そんなのは彼だけが心のどこかで思ってきたことであり、瞳からすれば見当違いも良いところである。無闇に寄り添いすぎて不快に感じられるのではないかと、彼はそんなふうに危惧をした。
 だが瞳は、そんな彼の姿に少しだけ苦々しさを交えつつ微笑みながらも「それもあるかもしれません」と否定はしない。彼はその発言の細かな意味を計りかねて訊ねようかとも思ったが、瞳は目を伏せてしまっていた。
 彼が諦めて黙すると、彼女はそのままいつの間にか手元から消えていた宝物を探すように視線を巡らせる。その度に部屋の奥で揺れるカーテン越しの淡い白光が細やかな黒髪の上を踊った。
「……実は、自分でも、無茶苦茶なことを言っている自覚はあるんです」
 日差しの残滓は髪に染み渡り、不規則に波立っていた黒い瞳孔が静かに凪ぐ。その奥深く、底を見透かせない強かさは穏やかな冬の夜の海を思わせた。
「こんな頼みを真面目に受け止めて、しかも請け負ってくれる人なんて他にいません。あなたにできなかったら、そもそもできるはずがなかったんです。そもそもわたしのやり方が間違っていたんだって、それだけのことなんです」
 自分にしかできないこと。そんなものが存在しないことは知っている。社会を生きて、人の濁流に溺れて、誰しもがまざまざと見せつけられることだ。
 だが、現実にこの少女の悲鳴を聞き届けることになったのは彼である。もし彼よりあらゆる面で優れた人間がいたのだとしても、というよりは間違いなく存在するのだろうけれども、そいつに瞳の声は届いていない。
 可能性だったらいくらでも考えられる。
 だけど現実に、彼女を助けられるのは彼だけなのだ。
「無理強いはできませんけど、お願いです。どうかあたしを、助けてください。こうして話を聞いてくれる、その優しさだけが頼りなんです」
 優しさ。
 卑怯な言葉だと思った。
 惰性と自らの意志との間で揺れる葛藤さえもが、正しかったように言い換えられてしまう。打算も何もかもが、あやふやで形のない温情に書き換えられて、しかもそれをやめてしまうことに罪悪感を抱かせる。
 おまけに――
 目の前の少女に別の面影が重なりかけて、彼は口で表せない感情の有象無象を飲み干した。
 それでもまた、響いている。或いは自ら疼いている。彼の人格の柱を成す根幹の記憶に。
「そ、そう……」
 奇妙な感覚は徐々に収まっていった。しかしどうしようもないむずがゆさが後に残る。うまく正体はつかめないけれども、懐かしさも混じる感慨が消えようとしない。
 そこから湧くものが、ぼろぼろにひび割れていた彼の傷を埋めていった。崩れ落ちそうだった骨と皮膚とが今、一時ばかりの力を取り戻す。
「……できるかは、わからない」
 しかしながら、彼にも矜持がある。期待でも願望でもなく、懇願を向けられて、彼は退けない。ただそれだけで嬉しくて、前に出ようと歩を進められる。
「こんな僕じゃ、頼りないだろうけど、見捨てることだけはしないから」
 どれだけ気張っても、格好良く、とは行かないのが彼である。だがそれで良い、泥臭くたって構わない。そう心の中で、そのときに限っては頷くことができた。
 そんな彼が、どんなふうに見えていたのか、或いはどんなふうに見られていたのか。それを穏やかでありながら苦しんでいるようでもある瞳の表情から推察することはできない。ただ、小さく首を縦に振るその行為が彼の背中を押していた。
「わかった」
 彼がもう一度肯定すると、瞳は固く目を瞑った。それからまた開くとそこには、真面目そうな澄ました双眸が彼を映している。
「ごめんなさい、さっきまでの説明だとよくわかりませんよね。なので今から、具体的に何をしてもらいたいのか、あたしの作戦を説明します」
「うん」
 答えた彼は前のめりに身を乗り出すのだが、力みすぎて奇妙なまでに肩肘張っている。その様を見て、瞳は目を丸くした。
「えっと……どうかされましたか?」
「説明するんだから、ちゃんと聞かないとな、と思って」
 至極真面目に彼が言うものだから瞳は失笑してしまう。どうにも切り出しづらい空気に困惑しながらも、彼は真剣そうにしているか良いだろう、と結論づけて説明を始めた。
「それではまず。あなたには姉の彼氏に……それでもできたら同棲してるくらいに、深い関係になってもらいたいんです」
 今度は彼の方が唖然とする番だった。
「ええと……君の姉はもう死んでるんだよね? それで僕は、その人がしっかりその……成仏? できるようにって呼ばれたんだよね?」
 彼の確認にうんうんと頷いていた瞳は「だから」と付け加える。
「ちゃんと姉を死なせるためには、家族と同じくらい親しい間柄の人間になってもらわないといけないんです」
「うん?」
 まるで理解が追いつかず、彼の思考は混迷を極めていく。元々情報が余りにも少ないのである。そこに加えてこの少女の、色々と先走りすぎた説明が飛び込んでくるものだから、風が吹いて儲かった桶屋も真っ青の論理の飛躍が生まれる。
「ごめん、僕、馬鹿だからさ。一から説明してくれない?」
「はい」
 冗談など微塵も入る余地のない、真剣そのものと行った真顔で瞳は返すので、彼はもう何も言わずに解説を待った。
 彼女は彼の目を見て、しかしそこよりもずっと先にある今は遠いものを見つめる。心の中で星ほどの数の感情が遣り取りされ、それらの光跡が彼からも目に見えるようだった。
 やがて光は潰えて、深い闇色が訪れる。
「あたしの家族の問題点はとても単純です」
 ぽつぽつと瞳の口から、幾多もの心情と綯い交ぜになった記憶が吐露される。
「幸せな家庭なら、家族を失うと必ず苛まれる危機」
 俄に沈みだした瞳の声音と表情に彼も無用な口は挟めなくなくなる。
「つまるところ、受け入れられないんです」
 何が、とまで訊くほど酷なことができるのは本物の考えなしから人でなしだけだと彼は思った。
 そんな彼にも思うところがあって、瞳から目を逸らしてほんの一瞬だけ別のことが頭を過ぎる。
 その視界の隅で立ち上がった瞳の肌の白がちらついた。
 事情を飲み込めずに顔を上げた彼が呆けた顔をしていると「ついてきてください」と瞳が横を通り抜けていく。振り向くと、その背中は扉の影に消えていった。
 どうにも当初の予想からは外れて、この少女は猪突猛進するきらいがある。本日、何度目になるのかわからない溜め息をこぼす彼である。
 それから改めて、廊下を見据えた。日当たりの良い室内は光に溢れていたために際立って薄暗く感じられる。そこには結局、得体の知れなかった瞳の姉への不気味さも混じっていた。
「早く来てくださいよ」
「うん? ……あぁ」
 隠すことなく本音を言えば、彼の心の半分は怖じ気付いて立ち上がろうか迷っていた。だけどもう残りの半分が使命感や何かで奮い立ち、逃げ出すことを許さない。否、そんな上辺だけの部分ではなく、もっと根幹から彼は目を背けたくなかった。それは十数年間で培ってきた彼という人間がこれからも彼であるための闘いである。
 膝を立て、力を込めながらゆっくりと延ばして立ち上がった。きっとあの廊下よりも遙かに暗く湿った、瞳が宿す翳りに踏み込んでいく。その決意もする。
 廊下に出ると、瞳は向かって右手の突き当たりで進むことも退くこともできずに棒立ちになっていた。豊かな黒髪に覆われた肩は一際華奢に、そして儚げに彼の目には映る。
 彼が歩み寄ると、彼女は頭だけ振り返った。その仄白い横顔とこぼれ落ちそうなほど透明度を増した目に、これから自分が触れようとしているものの意味と価値とを思い知らされる。
 彼は瞳の顔から視線を下ろし、その手がドアのノブを握っていることに気づいた。
「僕が開けた方が良いかな?」
 恐らくそこは、姉の部屋。開こうとしているそれは、瞳にとってはトラウマの扉でもあるのかもしれない。少なくとも気軽に開けられるものでないだろうことぐらいは彼にだってわかった。
 だけど瞳はかぶりを振る。
「平気です。これくらいのことで躓いていたのでは、話になりません」
 唇は青ざめて、無理をしているのは目にも明らかだったが、瞳はゆっくりとドアノブを回した。微かに擦れた音が廊下に落とされて、抵抗なく、扉が開かれていく。
 粘つく闇に閉ざされている。
 そう室内に感想を抱いたのは錯覚ではなかった。僅かながら確実に光の届いていた廊下とは違い、瞳の姉の部屋はカーテンが締め切られている。瞳の頭越しに覗き見る室内はやたらと多い収納棚や一人掛けのソファー、そこに置かれた薔薇の形のクッションに、文様が彫り込まれた机などが見受けられる。実用性を重んじた瞳の自室とはあまりにも対照的な様相で、二人の性格の違いを如実に表していた。
 だが、壁掛け棚に置かれているそれがふと目に入る。
「あの天使のぬいぐるみは……」
 短い両足を投げ出して座る、笑って見える顔の天使の少女を目で示す。
 その背からは左だけの片翼が広げられていた。
「お揃いのですよ。元々は姉の趣味だったんですが、きっと気に入るはずだってあたしにもくれたんです」
 道理で、瞳の部屋の中でただ一つあったあのぬいぐるみは異彩を放っていたわけである。姉に振り回される境遇に彼はどこか親近感を覚え、直後、瞳からはもうそれが失われていることの虚しさに取り込まれた。
 ここには置き去りにされた言葉が降り積もって、足下がおぼつかない。その一々に感傷的になって躓く彼にはあまりにも似付かわしくないこの世とあの世の境目だった。
 その証明である、彼の視線を引き寄せて離さないものが部屋の隅に追いやられている。
 引きちぎられた電源コード。片づいた室内の中でそれだけが乱雑にカラーボックスの前でとぐろを巻いている。冗談でも何でもなしに、そいつは人を絞め殺していたのだ。
 なぜ瞳はこんなものを見せるのだろう?
 彼は当然、疑問に思った。通常なら発見次第、捨てていてしかるべきものなのに、どんな理屈で残されているのか。一瞬悩みかけて、しかしほとんど考えることもなく自分の中で納得のいく答えにたどり着く。
 通常、ならば捨てられているものなのだ。
 通常、でないから彼はここにいるのだ。
 そのことを知らしめるために、あれ以上、有力なものもない。
 瞳は後悔と懐古とが入り交じった難解な色に目を潤ませて、呟く。
「姉の部屋に入るのは、久しぶりです」
 まるで水面に爪先で波紋を立てるようのような慎重さで、踏み踏み入っていく。その度にみしみしと鳴る軋みが、不自然なまでに鼓膜に響き、耳に残った。
「全部が変わった日の前日に姉に呼ばれて入りました。それ以来、一度もここには入っていません」
 締め切られていた部屋の中心まで瞳は歩いていった。そしてそこで、白い表面に大輪が浮き上がったテーブルの隣で右の爪先を軸に身を翻し、彼と向き合う。
「姉はここで亡くなっていたそうです。首を吊って、それから机は蹴り飛ばしてあったとか」
 見ているだに痛ましい、必死になりすぎた笑みに彼はどうしようか、なんと言葉を掛けようか迷う。込める力の強すぎた頬は固く、なのに触れた途端に崩れだしてしまいそうだった。
 その笑みに触れるにはどんな言葉だっておそらく角張りすぎていて。
 だから彼も精一杯に微笑む。好きでもない同級生らに向けていたものと似ていて、だけど少しだけ力強い。他人のためになれば、という思いが彼を後押ししていた。
 大変だったね。
 大変でしたよ。
 そんなことを表情の裏でやり取りして、互いに笑みを打ち切る。意図したわけでもなしに、二人のその仕草は同時に行われていた。
 彼は湿っぽさに捕らわれないようにしながら、きっと核心に迫る質問を口にする。
「ここに入ることを許してくれなかったって、どういうこと……?」
 訊ねると瞳の表情が引き締まり、彼に向けられた目つきがきつくなる。
「それは――」
 階下から扉が開く音を聞いたのは、そんなときのことだった。


 ――ただいまぁ、お母さんよ。
 男性ほどではないが低い中年女性の声音。
 見知らぬ人間の登場に彼は危うく飛び上がりそうになる。落ち着いて気に病むべき事は何もないと自身に言い聞かせるが、そんな彼の動揺がずっと冷静に見えるくらい、瞳は取り乱していた。
「ま……まずいです、ど、どうしましょう!?」
 何かまずいのかさえさっぱりな彼には当然、的確な行動の指示などできるはずがない。瞳は捜し物でもしているのか頻りに辺りを見回し、彼は所在なく、ただじっとしていることもできずにあたふたしていた。
 そうこうしている内に階段が軋みを上げ、重たい足音が迫ってくる。
 なぜだかは知らないが、逃げるべきなのだと彼は悟った。それが最良の選択肢なのだと。だけどその『逃げる』という行為事態が彼に強い嫌悪感を抱かせる。
 決めていたのだ、今回ばかりは真正面から立ち向かうと。
 それは散々に情けないところを見せてまで瞳に作り上げてもらった決意があるからできたことであり、またそうであるからこそ、彼に他の選択は取れなかった。
 何よりもまずは、彼が頼ってくれた少女に自分の存在を、頼りなくとも助けがあることを教えなければならない。
 彼は瞳の元まで歩み寄るとその目を見て「僕が連れてこられた目的は?」とだけ質問した。慌てた様子の瞳は当初、質問の意を飲み込めず、怪訝そうに彼を見つめた。
 問い方を間違えただろうかと焦りが過ぎる。余計に瞳を焚きつけてしまったかもしれない。
 気が急いていた彼はこの後に不必要で回りくどいやり取りが待ちかまえていることを想像して悶えそうになった。だが、直後に返ってきた「ごめんなさい」の一言は落ち着きを取り戻していて、胸をなで下ろす。
「こうなればもう一か八か、一発勝負です。手短に説明するので聞いていてください」
 痛みや苦しみを必死に堪えて揺らぐ目で瞳は彼を見据え、語り出した。
「――これだけです」
 彼女が語った内容の、あまりもの平凡さに彼は息を飲み込む。だがすぐさま理解が追いついて、当たり前だからこそ、この家の異常を正す切り札となることに思い至る。
「そうですね、では事前に言っておいた通り、あなたは姉の彼氏だったってことにしてください」
 扉の枠の奥、階段と廊下とを隔てる手すりの向こうに外出していたとは思えない乱れた髪が覗く。その寸前にそっと瞳が耳元で囁きかけたのは簡単な口裏合わせだった。まだ言い残していたことがあったらしい。
 彼は無言で頷き、二人して来るべき困難に向かい合った。
 階段を上がってきた女性は、実年齢がわからないまでに老け込んで見えた。だけどそれは頬が痩けて顔色も悪く頭髪に白髪まで混じった有様だからだ。その眼窩の中で黒ずんだ目が蠢き、彼と瞳を視界に納める。直後、瞼が大きく開かれて彼はその目の黒色に呑み込まれるような心地がした。
「な、なに……してるの? 誰、あなた? なんでっ、なんでそこにいるの、瞳!?」
 前のめりに今にも倒れそうになりながら、瞳の母は迫ってくる。瞳はやりきれなさそうに苦いものを飲み下してから、母親を真正面に捉えた。目を逸らすことを辞めて。
「あたしが案内してきたの。もう死んじゃったのにお姉ちゃんは誰からも見送られてない。このままじゃずっと、お姉ちゃんは一人になっちゃう。だから、一緒に――」
 続く言葉を待たず、部屋に踏み込んできた母親が叫んだ。
「何度も言ってるでしょ!? まだあなたの姉は死んでない、一人で生活してるんだって。姉への僻みか何かは知らないけど、冗談でも、死んだ、なんて言わないでっ!!」
 その台詞に彼は、この家庭で起きたことの異常性を垣間見る。接してきた瞳の言葉や仕草の一つ一つが線で結ばれ、確かな輪郭を描き出す。
 実際に手に触れてみた真実は接したそこから体に入り込み、何度も彼を責め苛んだ。
「だから、お母さん! お姉ちゃんはもう死んでるんだよっ!」
 会ったときからは想像もできないくらいに熱く湿った声で瞳は訴えかける。その双眸に今にもこぼれ落ちそうな悲哀に潤み、まるで臓腑を吐き出すように言葉を紡ぎながらも、引き下がらない。
「あたしはもう、いやなの……死んだお姉ちゃんから目を逸らして生きているお母さんがぼろぼろになるのは! わかってるはずなのに、自分に嘘ついて、このままじゃ壊れちゃいそうで……!」
 瞳の告白に一瞬、母親の表情が歪むのを彼は見た。だけどすぐに険しく引き締められる。
「いい加減にして、瞳。それにその人は誰? なんで知らない人を勝手にお姉ちゃんの部屋なんかに連れ込んでるの?」
 溢れるものが多すぎて赤く血の昇った瞳の目が揺らぐ。反論する言葉を探していることは彼にもわかり、また身を引き裂かんばかりに本心をぶちまけた瞳にはもう吐き出せる言葉なんて残っていないことも痛いくらいにわかってしまった。
 だから彼は、瞳の眼前に手を掲げて制する。
「待って、お母さんは、あたしは……あたしが――」
 見上げてきた潤む眼に任せてくれるようにと無言で見つめる。瞬き一つの後、瞳は震えと見紛う小さな動作で頷いた。その意志を受け取って、小柄な少女と目を合わせていた彼は顔を上げる。
 そうして一対の目が向けられるのは少女の母親。そこに根を張る、少しだけ大きくなりすぎてしまっただけの悲しみ。
「僕は彼女の……瞳さんの姉と親しくさせてもらっていたものです。彼女の行方が知りたくて調べ回っていたら、ここにたどり着きました」
 初めから打ち合わせていた通りの内容を口にする。それ故に緊張はなく、だが、熱が籠もらない。
「だから何? 悪いけど娘はここにいないの! 今は一人で暮らしているだけっ! それに本人の許可もなく自室に入るなんて――」
「僕は……僕はここまで、お参りをしにやって来ました。別れを、彼女に別れを告げに来たんです」
 思いが先走って同じ語句を繰り返してしまう。それでも彼は、がむしゃらになってでも、瞳の母へと当たり前のことを伝えるためにここに来たのだ。
 強がりも体面も打ち捨てて泣けばいい。それしか、できることなんてないのだと。
 なぜかと言えば、聞いている瞳の表情があまりにも見ていられなかったから。まるで傷だらけの体で何も掴めない四肢を振り乱しながら暗い海の深淵へと沈んでいくようだったから。
 その痛ましさは関係のない彼にまで生々しい痛みを伴って突き刺さり、見て見ぬ振りなどできるはずがなかった。
「だから、あの子はまだ……!」
 食い下がる母に瞳がまたも吠えようとする。だけど今度も彼が目配せで抑え込んだ。それから改めて、瞳の母と向かい合う。
「無理ですよ」
 なんと切り出そうか言葉に迷い、いつの間にか漏れていたのはそんな台詞だった。彼自身、唐突に飛び出したそれに戸惑いながらも、しかし頭とは別のところから湧き出すものを必死に形にしていく。
「無理なんです、大切な人の死をなかったことにするなんて」
 前置きもなく語り出した彼に、瞳の母は「え?」と怪訝そうな顔をした。その表情が戸惑いから怒りや呆れへ成り下がる前に、彼は次なる情動を言葉にしていく。
「認めまいとしても、気づいてしまう。だっていないんですから」
「だけどあの子は、一人暮らしをしているだけで……」
 異常を平常で覆い隠す自己防衛。誰しもに潜んでいる弱さ。彼自身にも覚えがあって、だから責めることなんて到底できずに、とは言え瞳のことを思えば見過ごすこともできない。
 と、そこまで至って、疑問がつっかえてしまう。
 どうして瞳は、こんなことを受け入れようとしているのだろう。このままでも良いのではないか、と。
「ねぇ、でも、どうしてもしなくちゃならないことなのかな。無理にこんなことしなくても……」
 自分でもどこから滲んできたのかわからない言葉がぽつぽつと彼の口からこぼれた。その滴は床に当たって跳ね返り、微量ながら瞳にも届く。
「受け入れたりなんてしなくたって……」
 語る言葉の行く先が彼自身にも判然とせず、語尾は曖昧に震えるままとなった。けれども消え入った続きは、形になどしなくても通じてしまう。
 その最後までを聞き届けた瞳は、目を伏せてしばらく、考え事をしていた。やがて彼女が再び顔を上げ、彼を見上げる。
 その目の透明さに、彼はこの少女が疑いようのない願いを抱えていることを思い知らされてしまう。
「あたしが姉の部屋に呼び出された話、しましたよね?」
 漏れ出した声に、瞳の母親も黙し、その行く末を見守っていた。
「そのときにあたしは、別れる間際にこんなことを言われたんです」
 それから瞳の目が虚ろになり、ここでない場所を見つめる。曖昧な意識になって、その口から言葉がこぼれる。
 ――ごめんね。どうか許してほしい。
 まるで姉の霊が現れたかのように寒気さえ伴って首筋を駆け上る迫力に彼の肌は粟立った。戦慄なる感情を全身の皮膚に感じ、彼は、それだけでなく瞳の母も、横槍なんて入れられない。
「だけど、家がこんな状態じゃあ、あたしはお姉ちゃんを許せない! いきなり帰ってきて、いきなり死んで……何で何も言わないの!? 皆、お姉ちゃんを助けようとしてたのにっ」
 かつてはここにいた、そして今はどこにもいない姉への弾劾はやるせなく虚空を穿つだけだ。それでも彼はその、発露した感情の熱に当てられて鼓動が痛いほどに激しくなる。
 そんな感情の使い方を彼は知らなかった。そんな刺々しさが瞳の中にあることを彼は知らなかった。不器用で優しげな少女にどこか親近感を覚えていた彼は、だから思考停止に陥った。
 どうにか紡ぎ、吐き出す言葉にも力が籠もらない。
「でも、死んだのにだってきっと理由が……」
「あるんだと思いますよ、だけど! 相談くらい、してくれたって良いじゃないですか!! ……家がこんな風になることくらい、わかっていたはずなのに……」
 語気が萎み、身の丈に合わない激情を背負っていた肩が縮こまって、瞳はうなだれる。どうしようもなく弱々しくて、惨めな姿にようやく彼はこれまでと同じ瞳を見出していた。
 それは単に、彼女が敵意を失ったから、ではない。
 行き場のない悲しみが憤りに変質して、姉を非難しようとした少女。その、抑え込むことも叶わない怒りに戸惑って攻撃的にもなりきれず、それどころかもういない誰かに縋ろうとさえしている弱さに、だ。
 或いはこの世界の人間は、それを優しさと呼ぶのかもしれない、なんてそんな他愛ない考えが頭の片隅を過ぎる。そこに苦々しさを感じつつ、彼は「わかった」とだけ告げた。
「……はい」
 すっかり弱り切った瞳に、彼はもう声をかける気になんて到底なれず、もう一度その母親と向かい合った。
 何を言おうかなんて、決まってなかった。
 だから、どうしても批判的になりそうな口調に気をつけながら少しずつ偽らない思いを吐き出す。
「慰めたりなんて、難しいと思います。悲しみが消えることもないと思います。だからせめて一緒に、彼女と泣いて上げてくれませんか?」
 彼がそう言い切ったのを最後に、意味のある言葉が声となって部屋に響きわたり、空気を震わすことはなかった。ただ無言で母が彼の横を通り抜けていく。しばらくしてその咽び声だけが、娘のそれに寄り添い、重なった。


「お世話になりました」
 玄関前でお辞儀をする瞳に、彼は首を横に振る。
「僕が来なくても、瞳さんたちならどうにかなってたよ」
 そうでなければ彼が担った役割は、せいぜい、最初の切っ掛けを作ることだけだ。後はもう、誰の手を借りずとも然るべき結末へ流れたことだろう。謙遜でもなく彼は自分をそんなふうに評価していた。
 だけど瞳は横に首を振る。
「いいえ、他の誰もないあなたがいたおかげです」
 鮮やかに冴え渡る夕焼けの赤に溶けて目立たない、泣きはらした瞼を薄く閉じて、にこやかに微笑む。その風にそよぐ黒髪から照り返す茜色すら鮮烈すぎて、彼は目を細める。
「あたし一人じゃ、お母さんと向き合えませんでしたから。後のことはどうでも良いんです、だからどうか、お礼をさせてください」
 抱え込んでいたものを吐き出して晴れやかな表情になった少女は、風に煽られるスカートを両手で押さえつつそんなことを微苦笑混じりに言う。彼はそのたおやかな佇まいに、こんな一面もあったのかと嘆息しながら「まぁ、それなら」なんて曖昧な返事をしていた。
 しかしここに至ってようやく彼は、自分がここを訪れた目的を思い出す。
「あぁ……そうだった。えぇっと、最初に話していたこと、覚えてる?」
 これまでの出来事に感情を揺さぶられてきた瞳も、思い出す前に一瞬だけきょとんと笑顔を曇らせる。一呼吸分ほどの沈黙があって、そこで彼女も目を僅かに大きく開いて手を打ち、「そうでした」と自分のことで手一杯だったそれまでを恥じた。
「今更、になってしまいましたが、探していたのはあたしの姉で合っていましたか?」
 この質問には彼の方も、あの霊の少女に確かめないことにはどうすることもできないのでお茶を濁す。
「それは……そう、だと思う」
 せめて名前さえわかれば、なんて考えていた彼は重大すぎる自分の手落ちに気づいてしまう。
「あ。その、お姉さんの名前って何だっけ?」
 勢いのままに発言してしまった彼は、それが故人を探す人間としては不自然極まりない質問であることに思い至れなかった。
 夕方の薄い暗がりの中から、怪訝そうな目で瞳に見つめられ、彼はたじろぐ。
「し、知らなかったんですか、姉の名前?」
 ふと我に返って彼はさらなる自分の失態に頭を抱え込みたくなった。名前すらわからない人間を追ってこんな田舎町まで来るとは、生前、どんな関係だったのか。自分が作り出した状況でありながら、得心の行く説明がまるで思いつかない。
「いや、それは、……変な関係だったんだよ」
 観念した彼は、説明できないことを説明した。
「ふふっ」
 疲弊した様子の彼に、瞳は思わず声を漏らして笑ってしまう。すると恨めしそうな彼の視線を受けて、彼女は気恥ずかしそうに口を押さえた、
「す、すみません……落ち込んでいるさまが、なんだか可愛らしかったもので」
「ぐ……」
 あまり素直には喜べない。
 こちらの様子を覗く少しだけ不安そうで、でも楽しげな双眸にもはや彼は反論の言葉も出そうになかった。打ち解けた雰囲気に乗じて、さっさと名前を聞き出してしまうことにする。
「それで、じゃあ、お姉さんの名前はなんて言うの?」
 随分と迂遠な道のりを経て再び巡ってきた質問に、もう瞳も余計な疑問を口に出すことはなかった。
「さち、と言います」
 幸せと書いて『幸』です、と付け加える瞳はおどけた調子でいて、その裏で溢れ出しそうになる涙をうまく誤魔化していた。だから彼も無為な励ましはしないでその応酬に乗る。
「それじゃあ海の幸とか、山の幸みたいだね」
 言うだけ言っておきながら、我ながら酷い感想もあったものであると自重する彼である。そんな苦笑する彼を、責めるような口振りで「お姉ちゃんは食べ物じゃありません!」と憤慨する瞳は、どことなく楽しげだった。
「ところで、帰り道はわかりますか?」
「えっと……あぁ、わからない」
 意地を張ることなく彼が白状すると、くすりと笑う声が聞こえる。
「それじゃあ、駅まで案内しますね」
 冗談を言い合った調子のまま、瞳は跳ねるようにして彼の脇を通り抜け、門扉の外に飛び出した。
 頭上で木々がざわめく道路へと横殴りに投げかけられる夕映えはぞっとするほどに赤く燃えている。枝に生い茂った若葉から道ばたの雑草までが鮮やかに紅葉し、その色に世界が沈んでいく。
 そこへ躍り出た瞳はくるりと身を翻し、彼へ振り返った。飛び散った血よりも赤い煌めきが数滴、見えなくなる最後のときまで、色褪せることなく輝いていた。

四日目

 自室、というものが少年に与えられたのはその時が初めてだった。
 親は帰っていないようで、「ただいま」の声に返事はない。靴を脱いで玄関から上がり、自室へ向かった。
 少年の部屋は狭くて急な階段の先にあった。薄暗くて足下が見えないので手摺りに捕まりながら登り、短い廊下に出る。その左手に二つ並ぶ扉の内、手前にある彼の部屋へと通じていた。
 少年は歩いていって立ち止まるのだが、ドアノブに触れることに躊躇いを覚える。
 彼がこの家へ引っ越してきたのは、小学校の卒業が夢の世界で起きることのように遠く、しかし静かに迫りつつあった頃だった。住んでいる地域は変わらず、ただ安く広い物件が見つかったから、という理由だけで賃貸のアパートから越してきたのだ。
 この家を訪れた当初、少年はアパートにはありえない広さや古びた焦げ茶色の木材独特の趣、日当たりの良い縁側の全てに見ほれた。胸をときめかせた、と言い換えても良い。和室が多くて計三室もあり、雑草が生い茂ってはいたが走り回れるだけの庭もあった。
 その一々に感動しながら、最後に案内されたのが彼の自室だった。二階にはある二つの部屋はそれぞれ少年と姉の部屋だった。初めて入ったときにはその喜びに満たされていて、仄かに抱いた違和感など気にもならなかった。
 あのときにもっと、自分の頼りない直感を信じているべきだったのだ。
 それから迷いつつも結局、少年は自室に帰ってきた。勉強机に納められた椅子を引き出し、背もたれを回転させてそこに腰を下ろす。
 机の上に、閉じかけたカーテンの隙間から陽光が気怠く差し込んでくる。その移ろいを目で追いかけながら彼は押し黙る。聞こえてくるかもしれない、音に耳を澄まして。
 その耳が些末な異常を聞き取ったとき、少年は鼓膜が引っかかれたような不快な錯覚に見舞われた。
 おかしいと感じてすぐさまに顔を上げ、音の発生源を探す。その間にも鼓膜が何者かに爪弾かれる。微かに引っ掻く音が繰り返される。
 どうすればこんな音が出せるのだろうと疑問に思った。今度が初めてのことではない。前々から何度か繰り返されて、それでも手に負えずに無視し続けていた異変だった。
 今回もそうしておけば災難は避けられるのかもしれない。
 だけどもはや少年は耐えきれず、躍起になってその元凶に探し出した。それはさながら眼前で餌をちらつかされた子魚のように、誘われた先で身の丈を遙かに越えた大口が牙を覗かせているとも知らず。
 だが焦りと恐怖がさらに彼を急かして喚く。
 見つけろ、探し出せ、と。
 そうしている間にも恐怖が水位を上げて彼の膝までが沈んでいく。
 ほとんどが空の洋服箪笥。違う。放り出されたランドセル。違う。天井の照明。違う。玩具類が詰め込まれたカラーボックス。違う。布団が押し込まれた押入。そこでもない。
 彼はほぼ部屋を百八十度見回し、それでも見当たらずに振り返った。
 窓。
 音はずっと耳元近くから発されていたのだ。
 彼は息を呑んで、そこを凝視する。
 目の前にある、開きかけたカーテンの向こう。その奥で誰か、何かが窓を引っ掻いている。鍵もかけ、締め切られた窓に何度も尖った爪の先を擦り付けている。
 自然と手が伸びていた。
「やめろ」
 響く声は誰のものとも知れない。だが少年の手は少しずつ、着実にカーテンへと延びていく。
「や、やめっ……!」
 言葉とは裏腹に指はカーテンの端を摘み、一気に開いて――
「……っ、っ!」
 画面を見ていられなくなった少年が、テレビに背を向けて耳を塞いだ。
 学校は終業式を終え、夏休みに入ったばかりの頃。昼食もすまし、することのなくなった少年は少女と、日当たりの良い和室でテレビに見入っていた。毎年のこと、飽きたらず放送される怪談だが、幼い彼らの胸を高鳴らせるにはこの上ない。
 昼下がりの優しい日の明かりに照らされながら足下の畳を穴があくほどに見つめる少年を、その隣に座る少女が口元を押さえながら覗いている。堪えようとはしているのだが漏れ出す笑い声は隠しようがなかった。
「ふふ、ふっ……びびり過ぎなのよ、あれくらいで。あんなの単なる作り話なのに」
 テレビに映る、窓に張り付いた幽霊役の女性の顔を少女が目で示す。今にも剥がれ落ちそうなくらいに白い化粧が厚く塗られていて、どちらかというと笑いを狙う芸人にさえ見えかねない。
 そのことがわかっていた少年は恨めしそうに彼女に視線を寄越し、しかし抗議らしい抗議もできないままに俯いてしまう。
「いいよ、どうせ僕は、恐がりだよ……」
 沈んでいく少年の声に目を丸くした少女は頬を苦々しい笑みに強ばらせずにはいられなかった。少しだけ肩を寄せ、肩から背中へ流れる髪を日溜まりの色に溶かせつつ微笑みかける。
「ごめんごめん、からかうつもりじゃなかったから。だから、そんなこと言わないでってば」
 薄く閉じられた少女の瞳に、そこに宿る日光の残滓に彼は魅入られかける。我に返るとすぐさま目を逸らした。
 ずっと見ていたら、説得されてしまう。
「慰めなくて良いから。わかってるって、僕が格好悪いことくらい」
 どんよりとした目つきから放たれる度重なる自虐に、だけど少女はめげない。少年が不思議に思うほどの力強さで、立ち上がるまでその背を押してくれる。
「わたしと同じものなんて、求めなくて良いの。わたしにはない強さが君にはあるんだから」
 気取った物言いがおどけているのは少年の心を解すためで、何から何まで情けなくなるほどに少女は優しい。
 そのことを、
「なんでそんなふうにしていられるの?」
 と少年が訊ねると、少女は悪戯っぽく笑った。
「お手本が目の前にいるからだよぉ」


 カーテンに仕切られたベッドの周り一杯に満ちる、薄く淡く青白い霧のような光。徐々に退いていく夜の気配の中で、窓の方を向き胸ほどまで布団に入って、彼は横たわっていた。
 目覚めかけの意識は、とうに夢の世界から抜け出している。後はもう眠気を振り払い、体を起こすだけ。それなのに彼は起きることも、もう一度眠ることもしないで、ただただ横になっていた。
 気分は悪くない。むしろ、ここ数年間ではかつてなかったほどに体は軽い。今、外を走ればさぞ爽快に風の流れを感じられるだろう。
 眠たいのかと訊かれたらそれも違う。昨日、帰ってきてからすぐに彼は布団に入った。そのままぐっすりと寝て、今に至る。もう二度寝だってできそうにない。
 だから彼は、つまりはひたすらに寝たふりをしていたいだけだったのだ。堅く閉じた瞼の隙間から、それでも差し込んでくる朝焼けの欠片に必死になって目を瞑り。
「どうしてそんな顔してるの? 刻限が迫って、いよいよどうかしちゃった?」
 響いた声は澄んだ明け方の空気に違和感なく溶け込む。冷ややかに揶揄され、しかしなおも彼は目を開こうとはしなかった。
「ま、そうしたいならそうしても良いけど。どの感覚をなくすのかだけはちゃんと教えてね」
 じゃないと勝手に奪っちゃうぞ、とお茶目に言ってもまるで怖気しか走らない呟きを付け足してくる。真意の読み難い彼女に辟易しながらも、彼は乾いた唇を開いた。
「昨日はさ、色々見て回ったんだ」
「……そう」
 冷淡に聞こえる短い返事。だけどその言葉の端々に僅かな興味を覗かせていた。聞く気がないわけでもないらしい視聴者を前にして、しかしながら彼は自分でも伝えたいことがわからない。だから形にならない思考を見境なくかき集めた言葉で継ぎ接ぎしていく。
「本当に自殺した人の、家族にもあった」
 語っているとじわじわ、真面目で不器用で心優しい少女の姿が思い出される。泣き出しそうな表情もあれば、微笑んだ顔もあった。
「その人たちも結局、家族が死んだ理由はわからないみたいで」
 どうしてこんな話をしているのだろうと、疑問を囁く声が彼の中に生まれる。それに答えられるなら彼は、最初からこんな話はしていない。
「本当に自殺するのって、そんな人らなんだろうなって。僕みたいな人間はなんだかんだで自分から死にになんて行けないだろうから」
 うまく纏められないで、歪とまでは言わずとも半端な形のまま途切れて、彼の言葉は中空に置き去りにされる。漂ったそれは、ベッドの脇でパイプ椅子に座っていた彼女に当たり、砕け散った。
「うぅん、一つだけ訊きたいことがあるわ」
 白無垢の死に装束から衣擦れの音を立てて、彼女は彼の顔と正面に向き直る。揃えた膝に両手を置き、明け行く夜闇よりずっと深い色の黒髪を揺らして、首を傾げる。
「どうしてそうまでして、生きたがるの? わたしがわざわざ、楽に死ねる機会まで用意して上げてるのに」
 生きようとするのが当たり前だからだと答えるのは簡単だった。そして社会からは、そこで思考停止することが求められる質問でもあった。自殺を肯定する社会は存続しない。
 だからこそ、彼はいつの間にか開いていた瞼をさらに大きく広げて、硬直する。何一つ、彼女の疑念に立ち向かえるだけのものを見つけられずに眼球が右往左往する。
「考えたこともないって顔、してるわね」
 そうするように仕向けられてきたのだから、仕方がなかった。布団の中で自分の膝を抱き、寒さに堪える。まるで風邪でもひいているようだった。
「君は人が死んでも、良いって、本当にそう思ってるの?」
 訊ねると彼女は破顔して膝を叩いた。
「ふふっ、あはは! わたしはもう死んでるんだから、関係ないわよ、そんなこと」
「そうじゃなくて。だからもっと広い意味で、人間全体が自分から勝手に死んで良いだとか……!」
 普段ならば胸中に秘めたままでいるはずの言葉が、口をついで出てしまう。きっと夜明け前の薄闇のせいだった。
「そんなことしたら、社会が成り立たなくなるよ。それで良いの?」
 疑問の体裁を取っているだけで、彼の発言は明確に彼女を否定している。歯車として磨耗し、すりつぶされていく。自然に折れて、砕け散らない限りはそこから外れてはならないという歪み切った、だけどさほど特別でもない義務感が彼を縛り付けていた。
 なのにそれさえも彼女は、悪戯っぽい笑みで嘲る。
「そんなの、わたしが知ったことじゃないわ。個々人が自分で決めるだけ。死にたい奴がいたのなら、死ねば良いのよ」
 だって生きる権利はいつでも死んで良いっていう権利でもあるはずでしょ?
 白い死に装束に膝ほどまでを隠されて、それよりもずっと色の白い素足をばたばたさせながら彼女はそんなことを言う。彼は眉根に皺を寄せないではいられなかった。
「なんでそんな考え方ができるの?」
 彼女の世界には彼女自身しかいないと言い出さんばかりの個人主義的な態度だった。彼とは根本のところで、ずれている。
 そして何より、彼には最後の、死にたい人間、という呼び方が引っかかってしまう。
「そんなの、本当は誰だって……誰だって、幸せに生きることが理想なんじゃないの」
 皆、そうなることを夢見て、そうなる日が来ると信じているからこそ辛苦に満ちた日々も歩んでいける。ただ時折人は、強烈な憂鬱や衝動が絡み合って、踏みとどまるべき一線が見えなくなってしまうだけなのだと。
 それは彼が遭遇した、あの一家の悲劇のように。
「さっき話したでしょ、自殺した人のこと。その人は家族の誰にも相談してなかった。けれど、そうじゃなかったら結果は違ったかもしれない。ちゃんと瞳に相談していれば、幸さんは――」
 無理のある仮定、幻想だと知りながら意味のない理想を垂れ流す己の口を彼は止められそうになかった。その姿がどれだけ無様であろうと崩れかけの価値観にすがりつかないではいられなかった。
 そうして幸せだった世界を希う理由も動機も、いるかもわからない神に縋る信徒と大差なくて。
 すなわち、幸福はあるはずだ、と。手を伸ばせばいつかは手に入るはずなのだと。
 だけど彼の尽き果てることがないようにも思われた言葉が、あるときつっかえる。
「――今、なんて」
 唐突な少女の声が思考を遮って、自分の内から湧き出すものに翻弄されていた彼は現実へと引き上げられた。にわかに冷めていく熱を感じながら、枕の上で頭を動かして彼女の方を向く。
 そこで、目が合った。
 黒目がちで、それまでは笑みのために細められてばかりいた瞳と目が合った。だけど一瞬、彼はそれが彼女のそれだと気づけない。
 その弱々しさが、彼を直視できないでいる瞳孔の震えが、あまりにもこれまでの印象とはかけ離れていて。
「今、なんて」
 再び呟かれた声は掠れ気味で、夜明け前の静寂にすら飲み込まれてしまいそうになる。一回りも二回りも小さく、そして頼りなく彼女の肩が目に映る。
 どう見ても普通ではない、のに、
「どうした、の?」
 戸惑いが強すぎて、彼はそんな中身のない問いかけしかできない。
 彼女はその質問にさえ答えないで、膝の上に置いた手に死に装束を握りしめていた。俯いたその目元の、朝焼けを宿して煌めく玉の粒は錯覚などではない。夜を追い出され、しかし昼の明かりにも消し去られようとしている月のように、今の彼女は不確かで朧気だった。
「……ねぇ、大丈夫なの? 本当に」
 このままこうしていると彼女が消えてしまう気がして、彼は必死に沈黙を紛らわせる。しかしそんな努力も虚しく、彼女は薄らいでいってしまう。
「待って! どうしたの、少しで良いから、話を……!」
 布団をはね飛ばして彼は体を起こした。ベッドから身を乗り出し、触れられるかもわからないのに彼女に手を伸ばす。
 その腕を掴んで、引き留めようと考えて。
 咄嗟の行動でも、彼の動きは決して遅くなどなかった。だがその指が触れる前に徐々に周囲の明度が増していく。それにかき消されるようにして彼女の輪郭は崩れて――
「――あ」
 指が届いた頃には、光の残滓が僅かに散っていくのみだった。


 日差しが仄白く輝きを増して、焼けたアスファルトの匂いが漂いだした頃に彼は目を覚ました。
 仰向けに寝ころんで、頭の下には枕があり、足先から胸までに薄い掛け布団が掛かっている。意識が途絶える寸前にまでベッドから乗り出し、彼女に手を伸ばした、あの瞬間の全てが霧散してしまったかのように。
 それに加えてもう一つ、暁の空の下で彼女と交わした遣り取りが信じられなくなる要因があった。
 彼は起きあがって、自分の両の手の平を矯めつ眇めつする。見えていた。シーツに寄った皺をなぞる。縒り合わさった繊維の感触が擦れて心地よい、そんな当たり前の感覚に今はうそ寒いものしか感じられない。周囲の談話や廊下から聞こえる、駆けずり回る看護師たちの足音もうるさいくらいだった。
「まだ、どの感覚も奪われてない……」
 味覚と嗅覚を除いた残りの五感。夜明け前に彼女が現れたのなら、どれか一つを失っていなければおかしい。
「……夢、だったのかな」
 発した台詞に、だけど心のどこかが反駁していて、彼はかぶりを振る。
 そうじゃないだろう?
 胸の中で生まれた自分への問いかけに彼は頷き返す。
 明けきれない夜の頼りない薄明かりに照らされて、彼女へ抱いた感情も、彼女が見せた表情も、抉るようにして彼に刻み込まれている。その痛みだけは誤魔化しようがなく、本物だった。
「見つけ出さないと」
 決意した彼は掛け布団を脇に除けて、取り出した替えの服に着替える。彼女とはまだ、別れるわけにはいかないのだ。
 そうは言っても、どこから当たれば良いのだろう? 
 靴ひもを結びながら、彼はその自問に記憶が手がかりを引きずり出す。
 彼女が豹変した引き金は、瞳の姉の名前だった。
 彼としては、あの家族にまた姉の話をしに行くのは心苦しかったがやむを得ない。
 二度目とあっていい加減に慣れてきた手続きを済ましてから彼は病院を出た。降り注いできた日光の眩しさに目を細める。まだ空の頂点に達していなくとも、太陽の下には白んだ光が氾濫していた。
 手で庇を作りながら、彼は駅に続く道へと歩き出す。整備された町並みに朗らかな空模様と目映い陽光は絵になる構図だったが、今の彼には煩わしいばかりだ。早足で急ぎつつ、庇にしていない手で携帯電話をポケットから引っ張り出す。昨日の別れ際に、彼は瞳とメールアドレスと電話番号を交換していた。別段に下心はなかったが、どちらともなくその縁を惜しんだためだった。
 彼は電話をかけようかと考えてから、その日の曜日を思い返す。
「…………」
 学生が暇を持て余しているような日でも時間帯でもなかった。諦め、メールの編集画面を開く。だけど本文に、お姉さんと親しかった人に、とまで打って彼は躊躇してしまった。
 如何様な言葉遣いだろうが姉のことに触れるには瞳の傷を開いて、刺々しい外気に晒してしまうことは変わりない。
 それでも諦めるわけにもいかず、三十分をかけて文面を捻り出した。そんなことをしている内に駅前についていて、彼は人の視線に晒されながら悶々することさらに十分、送信ボタンに親指を重ねる。
 目を瞑って唾を飲み込み、指が白くなるほどに力を込めると何の飾り気もない送信画面が現れた。羽の生えた封筒のアイコンが飛んでいってしまう。
「……はぁ」
 無駄だとわかっていても割り切れないことだってある。
 完了しました、とのメッセージが表示されると、彼は券売機に向かった。改札を抜けてホームまで駆け、一人二人しか並ばない列に拍子抜けしている間にも、デフォルトのままの音声が着信を告げる。
『それでは、母を訊ねては?』
 瞳らしい簡潔で明快な文章に、彼はその日初めての笑い声を漏らした。


 昨日から引き続き訪れた瞳宅は、当然ながら外見に何ら変わったところなどなく、坂道からせり出した全貌に日の光を浴びせかけられていた。
 彼は坂道を、木陰の中を好んで選びながら歩いた。瞳の母との面識は、ないとまでは言わずとも限りなく薄く、なので瞳に約束を取り付けてもらっている。初対面の人間というだけで心臓が血の一滴も残さず絞られそうなほどに緊張する彼なので、立ちはだかる壁の高さが数段低く感じられた。瞳がそこまで想定していたとは考え難かったが、あいがたいことこの上ない。
「……情けないってことはわかってるんだけど」
 思わずこぼれた自分をなじる言葉は、だけど、今日はそれで最後にしようと彼は決める。無心に足を動かして、昨日も訪れた門の前で立ち止まった。慣れたとまでは言わずとも昨日と比べたらずっと軽い心持ちで門扉を通り抜けていける。
 玄関の前まで来ると、少しだけ躊躇してからチャイムのボタンに触れた。そこでさらに逡巡した後、人差し指の腹で押すのだが、
「え? あれ?」 
 反応がない。壊れたのだろうかと心配しながら一度手を離し、再び指の先が真っ赤に染まるまで押し込んでみるとようやく、ドア越しに鳴るくぐもったチャイムが聞こえた。
 程なくして、床を叩く足音が響いてくる。
「はいはーい」
 開いたドアから瞳の母が朗らかな表情を覗かせた。たった一日ぶりなのに別人同然に若々しくて、少々痩けた頬は気になるけれども娘の面影が重なる。
「えぇと、先ほど、瞳さんから……」
「わかってるわよ、いーの、そんなに緊張しないで」
 本当に、別人かと見紛うほど口振りも笑顔も明るくて彼の緊張もいくらかは解れた。そうして彼女が隠そうとしているものには触れず、彼は用件だけを切り出す。
「あぁっと……瞳さんのお姉さんの、友人の話を伺いたいんですが」
 やむを得ないとは言え間違っても幸の名前など口には出せず、彼は不器用なまでに遠回しな言い方をしてしまう。それでも自己嫌悪を捻りつぶして自分を奮い立たせる姿は十分に、見てる側にも伝わるものがあることを、本人は気づけない。
「ありがと」
 と謝意を言葉にして、瞳の母は不格好に微笑む。その無理にでも笑っていようとする様に彼は、なるほど、この女性が瞳の母であるということを印象強く思い知らされる。
「でもそんなに気を遣ってくれなくても大丈夫よ?」
 悪戯っぽく舌を出す彼女は親子ではなく姉妹だと言っても通じそうである。
「ありがとうございます。だったら改めて、幸さんの友人について、何か知っていませんか?」
「ふむ、そうね……」
 腕を組んで考え出したので、彼はしばらく待つことにした。
 そこで思い至る。
 こんなことをしている理由を訊ねられたら、彼には返せる答えがないことに。特別な事情がなければ、まだうら若き女性の名前を探る動機なんて下心抜きには語れそうにない。探していた女性が幸ではなかったと伝えるのも気が重たかった。
「あぁ……」
 うなだれて肩を落とす彼を、瞳の母は目を丸くしてみていた。
「どうしたの? 何か気がかりなことでもある?」
「そりゃあもう――」
 会話の流れとして全てを吐き出しそうになった彼は、すんでのところで踏みとどまる。怪しまれている様子がないかと気になって、瞳の母の顔色を伺った。
 不思議そうにしていたが、まだ煙に巻くこともできないわけではなさそうだ。
「ほ、ほら、この数日で急に熱くなりましたよねだからもうこれは溜まらないと……」
 似つかわしくない口八丁を使い、加速度的に早口になっていく彼を見て、瞳の母は失笑する。
「何か飲んでく?」
「え、いや、平気ですけども」
 夏の熱気以外のために彼の顔は赤く火照っていた。
「まぁ、いいわ」
 打って変わって若干ばかりに瞳の母は話題を切り替える。
「それで幸のお友達のことよね? わたしもあんまり、あの子の交友関係には詳しくなかったんだけど……一人、気になる子がいたわ」
 思わせぶりな言い草である。彼は確かな手触りも得られないまま、その話に飛びついた。というよりも気がついたときには前のめりになって口が勝手に動いていた。
「どんな人なんですか!? 今、どこに……!?」
 平常の大人しさからは想像できない熱意に瞳の母もただならぬものを察知する。昨夜に娘から聞き及んでいた話と目の前の人物像が重ならなくて、純粋な好奇心から勘ぐっていた。
「もしかして恋人でも探してるの?」
 的の中心を裏側から射抜いたような発言である。前のめりぎみに話を聞き出そうとしていた彼は冷や水でも浴びせかけられたがごとく顔の熱が引いていくのを感じた。
「いや、違いますよ。違いますからね。もうちょっと大切な目的のために動いてるのでっ!」
 瞳の母は片目だけ大きく見開いたが、すぐに驚きを打ち消して微笑んだ。
「そう。なら早く話しちゃわないとね」
 いまいち、発言の真意が読みとれなかった彼だが、最初からそうしてくれたら良いのに、という愚痴は心の中にしまっておく。彼が目で頷きかけると、瞳の母は首肯を返して話を始めた。
「その子は、高校に入ってからの友達だって言ってたわ。ほら、そのくらいの年頃になるとあんまり親には話してくれなくなるんだけど、随分と仲は良かったみたい」
「それは、どうして?」
 そうだと言い切れるんですか?
 問いかけられた瞳の母はぎこちなく目を背けて、頷く。
「その子はね、幸が自殺する前日まで、何度も幸に会おうとしてたの。幸が会いたがらなかったから、追い返していたんだけど」
 どんな記憶から導き出される心象を見つめているのか、瞳の母親は唇を噛んで何かを堪えていた。
「……今思えば、あの子が一番、幸のことわかっていたのかもしれない」
 その声に混じった自嘲はそれを聞いた誰しもから言葉を奪っていく。子を亡くした母が、それでも必死になって隠そうとしていたもの寂しさが噴出し、辺りに重く立ちこめる。
 息が詰まりながら彼は、相手にどうやって声を掛ければ良いのか、考えた。例えば、相手を慰撫させることはできないだろうかと。
 しかし彼はそこに違和感を覚える。
 本当に相手はそんな言葉を欲しているのだろうか?
 全くの部外者でしかない彼が何を言っても、上辺を取り繕うのが精一杯だ。ここは黙って、相手が落ち着くのを待った方が良い。
 そんなふうにして何かと理由をつけて、相手の側から沈黙が破られるのを待っているのが彼の常だった。
 だけど、偶には彼にだって退くに退けないときもある。
「その人の名前と、それからできるなら住所を教えてくださいませんか?」
「うん?」
 瞳の母は何とも意外そうな顔をして、彼に視線をくれた。彼がそれを、変わらぬ面立ちで見返すと彼女は「困ったわね」と表情を曇らせてしまう。
「名前も住所もわからないのよ……でも、あの子が通っていた学校ならわかるわ」
「本当ですか!?」
 それさえ知ることができたなら、手がかりとしては十分だった。彼は勢いづいて、瞳の母に頼み込む。
「教えてください、その人はどこの学校に――」


『はぁ……。わかりました。聞けるかどうかはわかりませんが、上級生の方々に話を伺ってきます』
「ん……迷惑かけてごめん、お願いするよ」
『いえいえ。あたしの方がお世話になったのは先ですから』
 では、という瞳の一言を最後に、つーつーと無機質な電子音を繰り返すのみとなった携帯電話を閉じる。いったん、立ち止まってポケットにしまい、もう一度歩き出した彼は木陰を抜けた。眩しい日差しが眼球に突き刺さるようで、目の中で白光が明滅する。
「……っぅ。どうしようか、瞳の連絡が来るまで」
 偶然なようでいて、彼にはありがちな話にも思えたが、幸の母校は現在瞳が通っている高校だった。曰く、姉に憧れて入ったらしい。その感情自体は彼にも理解できるもので、だから今回のことがさしたる幸運には感じられない。
 それよりも彼はこれからの時間の使い方に悩んでいた。
「あぁ、本当に、どうしようか」
 今のところ唯一の手がかりが幸だった。名前を聞いただけでも青ざめて逃げ出すのだから、霊との間に並々ならぬ絆があったのは明らかである。しかし現状だとその有効な道しるべは瞳に委ねるしかない。
 となれば彼はできるのは、当て所もなく町の中をほっつき歩く程度だった。
「一応、鼻は使えるし」
 無駄ではないだろうと考え、彼は比較的ではあるが土地勘の働く商店街に足を向ける。
 たどり着いたそこは、何度見ても古くさく、雑多だった。
 住宅地をそれなりの交通量の車道が分断し、そこに沿っていくつかの商店が立ち並んでいる。しかも店とは言っても埃を被った商品でさえ売りに出されている有様で、この商店街に賑わいという言葉はあまりにも縁遠い。ましてや平日の昼間となれば、その閑散ぶりは推して知るべしである。
「このあいだは……」
 香水店を訪れた際に通った道を彼は歩きながら探す。薄ぼんやりとした記憶を頼りにどうにか見つけ出したその入り口は、相変わらず苔むしていて、それが途切れても日当たりの悪い路地が続いている。両脇の建物の壁が途切れた先に続く木の柵は果てしなく途絶えない。
 歩いているとあの香水の店の前を通りがかった。立ち寄ろうかと迷いもしたが、彼女がそこを訪れることはもうないように思えた。きっともう彼女に、香水を買い足す必要はない。
 それに溢れる匂いの中から嗅覚だけを使って人を見つけ出せる自信もなかった。
 だから彼は先を行く。道中何度か、道に迷ったのではないかと自分の方向感覚を疑うこともあったが、直感を信じた。柵と塀が代わり映えすることなく続く道をひたすらに歩いて、彼はたどり着く。
 剥き出しになった壁と不釣り合いに重厚な扉が彼を待っていた。あまりにも小さなそこは密集した建物の中になければちょっとした台風にでも吹き飛ばされてしまいそうで、周囲に頼り切りの建物。
 どことなく自分と似通ったものを感じて、彼は少し落ち込んだ。一人で生きていくこともままならないほどに、自分は弱い。
 つまらない自虐に捕らわれながら、彼は扉を引いた。両手で握りしめた取っ手から質量が伝わり、一拍遅れてから開き出す分厚い扉。室内の仄かな闇に漂う冷気は空調もしていないのに心地よい温度を保っていた。
「おや、いらっしゃい」
 二日前と同じ老婆が二日前とは違った態度で顔を上げる。丸く小さな銀縁眼鏡の奥の目は穏やかに凪いでいて、寛容にそうにも人懐っこそうにも見えた。
 彼は後ろ手に扉を閉めながら、店に入る。挨拶代わりに頭を下げて、再び上げるとまだ老婆はにこにこと彼を見ていた。
「前にどこかで見かけた?」
 訊ねてくる老婆に、彼は二日前にも訪れたことを知らせる。
「覚えてませんか、僕、一昨日にここで小豆金時を頼んだんですけれど……?」
 忘れた、なんて返事を聞くのも怖くて、彼の言い草は恐々としたものになっていた。老婆は「んー?」と唸って考え込み出す。
「そう……だったかな、昔にも似たような子を見た気がするんだけど、なにせもう、歳だからね」
 否定も肯定も難しい内容だったので彼は返事に困り、ひきつった曖昧な笑みを浮かべてやり過ごした。それでも相槌を打つ形にはなったので老婆は満足そうに笑み、ようやく通常の営業に戻る。
「何の味のかき氷を食べる?」
 最初から選択肢がかき氷しかないのに失笑しつつ、彼はいつもの味を頼んだ。
「小豆金時で」
 聞き届けた老婆はまた少し唸っていたが、程なくして「待ってな」と言い残し、カウンターの後ろから通じる廊下へと消えていく。調理場がその奥にあるためだ。
 店の奥から響いてくる、涼しげな氷の砕ける音に身を委ねながら、彼はランタンが散らす夕映え色の光を見上げた。誘蛾灯にするならちょうど良さそうな、やや淡く頼りない色合いである。
 目が知らず、惹きつけられる。
 二日前はここで、かき氷の甘さを味わえた。喪失した感覚が反応したということは、ここに彼女と結びつく何かがあると見て、まず間違いない。
 だからここならば、と期待を胸に訪ねてみたのだが、手応えがない。少なくとも彼の嗅覚では、古臭くも懐かしくもある、心の安らぐ匂いとそこに混じる微かな砂糖の甘さしか感じられない。
 単に甘いのとも違う水芭蕉の香りとは似ても似つかなかった。
「……一体、どこに……」
 漏らした声が思いがけずうら寂しげに響いて、彼自身が驚嘆する。あんな霊なんて、煩わしいだけだというのに。
 これ以上、こんな、人を感傷的にする空間で沈黙していてはどうにかなってしまいそうだった。突っ立っているのをやめて意味もなく歩き回ろうかと足を揺さぶっていると、なんとも都合の良い頃合いに老婆の足音と軋む床板の悲鳴が聞こえてくる。
 かき氷の盛られた器を片手で運ぶ老婆の手つきは心なしか、危なげだった。
「はい、どうぞ」
 その声は間延びしていて、緩慢なのに聞き取りづらい。彼は声が途切れるのを見計らって頷くとかき氷を受け取り、握るもののなくなった老婆の手に料金を渡す。
 それから席の一つ、木製の机と長椅子の一組を借りて、腰を下ろした。
「ふぅ」
 随分な距離を歩き詰めてきたので、座った瞬間の心地よさはひとしおである。甘い痺れにも似た脱力感が駆け抜けていって、思わず息がこぼれた。
 一息つき、彼は氷に刺さったスプーン型のストローを手に抜き取る。ピンク色の線が走った透明な筒の先端には餡と氷が少しずつ詰まっていた。
 その僅かな量を吸い出し、山の頂点からかき氷を掬って舌の上に載せる。しっとりとした餡と細かく粉雪のように砕かれた氷が溶けていくのを感じていると、彼の背後から声がかかった。
「やっぱりあんた、この店に来てたんじゃないのかい?」
 その問いかけに、彼は咄嗟に否定を返せない。
「……それ、は」
 黙して彼は、説得の仕方を考える。ストローの先で氷を小さくかき回しながら熟考して、だけど、これと言ったやり口も思いつけない。彼は顔をしかめながらも押し黙っているしかなかった。
「ほら、答えれないってことは」
 どうにも言い取り繕わねばならないらしいと彼は悟る。
「……違うんですよ。ただ、他のことで頭が一杯で、良い説明が思いつかなくて」
 それからもう一度彼は器の中身を掬い、餡も氷もなくなるまでスプーンをくわえた。その沈黙を埋めるように老婆が趣旨を変えた質問を重ねる。
「ならその他のことってのは、うまく行きそうなのかい?」
 今度こそ決定的に彼は黙り込もうとした。だけどそんな決意は口の中の氷ほども保てずに崩れ去る。
 優しげな老婆の目は、彼の心情なんて自身でも気づけないほどまでに深く、見透かしているような気がした。
「あんまり、芳しくはありません」
「おや、それはどうして?」
 放って置いてくれれば良いのにと願いながらも、答えようとする口が止まらない。
「……いろいろと、嫌になってきたんですよ。得になんてならないことだとか、それなのに諦めきれない自分だとか」
 打ち明けても相手を困らせることしかできない話だとは彼もわかっていた。だけど、吐き出さなければいつまでも腹の底にあるものがくすぶり続けるように思えて、抱え込んでいられなくなる。
 果たして老婆は彼の告白をどんな意味に受け取ったのか、軽薄でも重苦しくもない口調で語り出した。
「昔、あんたみたいに小豆金時ばかり食うがきんちょがいたよ」
 突然何の話を始めたのだろうかと彼はかき氷を口に運びながら耳を傾ける。続く老婆の声は、誰にも届けるつもりなどないように静かで、なのに奇妙なまでに言葉の一つ一つが染み入ってきた。
「そいつは隣にいた奴を真似して、できるわけがないことに挑んでは挫折してた。ずっと憧れてたんだね」
 周りに憧れて模倣を繰り返し、何一つ成功せず。彼にはまるで中身がない人間にも思えてしまう。
「そんなのに意味があるんですか……」
 それだと老婆の話すその人間が得たものなんて、失敗と挫折の記憶ばかりになってしまう。そのために失ったものの方がずっと重かっただろうことは簡単に予想がついた。
 だけど放られてくる老婆の言葉は想像していたものと少しだけ違う。
「あれもまた、勉強だろうよ。得なのかどうかなんて、後になってもわからない。……あんたは、割り切れてないんだろ?」
 唐突に質問まで飛んできたので面食らいつつも、彼は「はい」と誤魔化しようのない気持ちで返事をする。
「なら、それが答えだ。何で迷ってるか知らないけど、もう少し、自分の気持ちに素直になってもいいんじゃないかい?」


 両手に持って、購入したばかりの地図を掲げる。
 久しく眺めることなんてなかった、方形の図面。
 なだらかな山や、そこから流れ出す無数の源流が集った大河、数知れぬ人々が住まう市街までもが広げた両腕の中に収まっている。そこから広げていく想像は彼を飲み込むほどに広大で、莫大なのに。
 描き出されたこの市の全景から、彼は今日まで訪れた場所を感覚の中で繋いでいく。
「あっちにあれがあるから、ここは……」
 地図から見つけだした彼の現在地は、駅からやや距離がある国道沿いの書店だった。幾つか思い浮かべた目的地の候補と、そこまで道のりを目で辿っていく。
 どうしてこんなことをしているのか、結果はついてくるのか。はっきりしたことなんて何も言えないけれども、彼は昔、憧れた人の背中から教わったことがある。
 どんな苦難の中にいても、どれだけの無様を晒すことになっても、駆けずり回れば世界は変えていける。迷ったり考え込んだりしていても、心が重く、沈んでいくだけなのだと。
 その人は無茶苦茶で、理解のできない動機のために、ばか馬鹿馬鹿しいほどの労力をつぎ込んだ。彼女の周りでは着実に変化が積み重ねられて成果となり、結実した。
 その強さを、真似はできなくとも、追いかけたい。
 ひとまずの目印にしたのは雲に霞む、深緑に覆われた峰だった。遠く、そちらの方角を眺めてからすぐ目の前の国道を渡り、一昨日と同じ道順で商店街へ向かっていく。
 足取りは知らず、速まった。
 店が建ち並ぶ通りにまで到達すると地図を取り出し、再び自分の位置を確かめる。地図上の現在地と方向感覚を一致させて、商店街沿いに進み出した。
 硝子に蜘蛛の巣がこびり付いた薬局や廃屋と区別のつかない民家の前を通り過ぎる。
 やがて比較的広い道と交差するT字路に行き当たった。そこで彼は立ち止まると曲がり角の先へと向き、道の果てを遠目に眺める。しかしながら僅かにくねった道を縁取る生け垣や塀に視界を遮られて、遠くまでは見渡せない。
 そして、隠されているのならばそれだけ、惹きつけられるのが人の性だ。
 どのみち、行き先など決まってはいない。彼は好奇心に駆り立てられるまま、歩き出す。
 歩いてくとまず目に入ってきたのは、道の右手にある文化会館と、その正面の建つ幼稚園だった。そこから先は車線が減って道が細まり、進んでいくと正面に小学校の校舎がそびえている。彼が目印にしていたのはその学校の裏山だった。
 校区の関係から、あの小学校が彼女の母校だったと考えるのはそれほど無理のある推測でもない。探せば霊の足跡が見つかったのかもしれないが、今からそうする時間などなく、そんな気がそもそも彼にはなかった。
 文化会館の手前まで戻ってくると、そこで入っていける細い道へと曲がっていく。
 古い民家に挟まれ、一車線しかないその道路はやがて左側に連なる家屋が途絶えた。それに代わって、陽炎にぼやけた遠景にまで広がっていく景色がある。
 眩しいくらいに白い雲が流れていく空の下、夏の日を浴びて生気を漲らせる青々とした稲の葉が、風にざわめく。駆け抜けていく強風に煽られて稲は何度も波立ち、かき鳴らされる草の音は涼やかに彼の耳元を吹き抜けていく。
 けれども彼にはそんなもの、耳にも入らなかった。
「――……あぁ、これは……」
 彼は言葉を紡げずに立ち尽くし、目前の情景から目が離せなくなる。視覚と結びついた記憶が引き出されて、曖昧なそれを目の前の仔細と一つずつ照合していく。
 青い葉の稲がそよぐ水田、道路の上にまで枝を伸ばした松の木、金網が張られた下で鯉の泳ぐ貯水槽。
 そのどれもが、夢の中で見た光景そのもので。
 言葉にできるような感想は思い浮かばない。ただじっとそこに見入って、あの夢のことを思い出す。
 未だに彼女があんな夢を見せてくる目的が彼にはわからない。妙に思わせぶりでいて、意味のあるものを見せられているようには思えないのだ。
 ただ、彼女と関連深いことは確かである。何の当てもなく探し回るよりは建設的だろうと思って、彼は似通った場所に的を絞ったのだ。
 まさか、夢の中そのままの風景に出逢えるとまでは考えていなかったのだが。
 いずれにせよ、夜明け前でもない限りは水芭蕉の香りを追い求めるしかない。今は仕方がないと割り切り、彼は一歩ずつ踏み出していく。
 意識を嗅覚に集中すると、何よりも鼻につくのは日差しに灼けた土の臭いだった。彼はこれがそれほど嫌いでもないのだが、水芭蕉の微かな香りこれにだって打ち消されかねなかった。おまけに日差しが素肌から水分をそぎ取り、着実に集中力を奪っていく。
 止める理由は幾つだって思いついた
 それなのに、彼の内側に灯された得体の知れない活力が、放り出すことを頑なに拒絶する。田んぼが途切れるまで見つからなかったのなら折り返し、戻ってくる道中で、より念入りに見落としたものを暴き出そうと意識を張りつめていく。
 昼の光の眩しさがあの少女を覆い隠してしまったのだとしても諦めない。どれだけの時間をかけても見つけだそうと、それだけの覚悟で彼はいた。
 文化会館の脇まで彼は、肩から力を抜いて息をつく。
 結局、彼女は見つからなかった。
 けれども、彼は落胆したわけではなく、新しく吸い込んだ息をからっぽにした体に込める、気力へと変えていく。
 夢で見た少年と少女は、この道を通って虫だか蟹だかを取りに出かけていた。この先に、そんな目的で向かう場所があるのだとすれば、答えは一つだ。
 彼は田んぼを縦断して山へ向かう、たった一本の道へ歩を運んでいく。松の木の下をくぐり抜けたすぐ先がそこで、夢で見た少年らもそちらへ曲がろうとしていた覚えがあった。
 ふと、ここが現実なのか、感覚が揺らぐ。回想の世界に迷い込んでしまったような心地がする。
 ゆっくりと流れる時間も、穏やかに包み込むだけの陽光も、彼が繰り返していた日常とはほど遠い。外からの圧迫に潰されそうになることも、内からの焦燥に胸を焼かれることもない。
 もし仮に彼女の呪いから逃れたとして、自分は本当にあんな日々に戻りたいのだろうか?
 考えていても仕方のないことだった。それにこうして物思いに耽っていたら、いずれは足を止めてしまう。今は、ここまで諦めようとしなかった本音の一端だけに従っていようと思った。
 田んぼを抜けて密集した民家のただ中に入っていき、そこを抜けると小学校についた。回り込んで裏山の登山道に通じるに脇道に入っていく。
 左手に続く小学校の金網は早緑色のペンキも剥がれて錆が露呈していた。その向かいにある家屋のブロック塀は所々が崩れていて、防犯という概念は存在しないらしい。
 そんな建物たちの前を通り過ぎると、アスファルトが途切れて、頭上は鬱蒼と茂った木々の濃緑に覆い隠された。緩やかだった坂道の勾配が急になって、足下の湿った土は靴の先が僅かに沈む。
 彼は額に滲む汗を拭いながら、重たくなる足を一歩ずつ進めていく。
 やがて細い丸太を連ねた階段が現れた。その両脇には竹藪が生い茂り、右へと曲がりくねっていく道の先は果てが見えない。
「……ははは」
 元々体力がある方ではなく、運動もしてこなかった彼である。彼はひきつる頬を、だけどどうにか笑みに変えて、朽ちて崩れかけた丸太の階段の一段目に右足を乗せた。


 
 登ってみればどうということとはない、なんてことはなかった。汗だくになりながら彼は最後の一段を登り切る。
 階段と、空を遮っていた木々の枝が殆ど同時に途切れて光が差した。
 たどり着いたそこからは整備されたコンクリの道が頂上まで続いている。その道の横切る、控えめながら可憐な花々の咲く野原は、自然のままの姿を剥き出しにしていた登山道と違って色濃く人為の跡が見て取れた。
 その善し悪しは置いておくにしても、薄暗い森の中にいたときの不安は薄らぐ。人の立ち入りを拒絶する山の圧迫感が、こびり付いた人の手垢に上塗りされて、感じられない。
 整備された道に沿って彼はさらに山を登った。階段のような急斜面に出くわすこともなく、終いには駐車場へ通じる道路と合流してしまう。そんなことに安心感しか抱けない辺り、もう童心は手放してしまったのだと実感させられた。
 自動車の立ち入りを禁じる、風が吹いただけでも倒れそうな木製の柵を越えた先から単純な登り坂ではなくなった。山肌に沿って緩やかな下り坂を織り交ぜながら、勾配のきつくなった上りが続く。
 定まった目的地などなかった。彼女が見つかるまで、頂上までだって登り切ろうと考えていた。
 けれど彼は、ふとある広場の前で立ち止まってしまう。
 そこは傾斜が緩やかになった山道の傍らに開けていた。背の高い草が入り口を隠しているが、その向こうには人が立ち入って踏みならした草むらがある。
 自分でもそうして気を惹かれた理由が気になって、彼は夏の空気に意識を溶かした。植物に溢れたそこでは日差しに焦げ付くアスファルトよりずっと強く、草いきれが香り、その熱気の持つ青臭さに呑み込まれる。そこへさらに、土や名前もわからない花の香りが気づけるかどうかといった具合に溶け込んでいて、街中にいては感じられない生命の息づかいを確かに嗅ぎ取れた。
 だけど、幾多もの命がその存在を匂わせすぎて特定の花の香り、それもよりによって存在感の薄い水芭蕉の香りを探り当てるのは川に落ちた涙の一滴を探るようなものである。人ができる範疇にない。
 ここに至って彼の内面に、鼻でしか彼女を探せない自分が山に来たのは失敗だったろうかという後悔が押し寄せてくる。考えても事態は動かないのだからと駆けてきた道のりがどこにも通じていないのではないかという不安に襲われる。
 そんな煩わしい彼を呑み込みかけたとき、その意識を微かな音がそよ風のように撫でていった。
 何がこの音を発しているのか?
 どこにそれはあるのか?
 研ぎ澄まされていく意識に暑さは掻き消され、小鳥のさえずりも蝉の鳴き声も遠のいていき、代わりに垂れる滴と流れるせせらぎの囁きが世界に響く音の全てとなる。
 思い出していた、彼は。
 夢の中で二人が山に出かけていた理由を。
 あの二人は、その片割れの少年は「沢蟹を取りに行くなんて」と、そう発言していた。不意に甘いものや苦いものが過ぎって心なしか、どこかで嗅いだ泥の臭いさえもが鼻に蘇ってくる。
 道の真っ直中で棒立ちになっていても仕方がなかった。それでは彼の気持ちが少しも静まらない。
 彼は草をかき分けて飛び越え、あの広場に躍り出た。水音が僅かだが強まって、彼の予想を確信に塗り替える。
 ここには晴れた夏の昼間にも途絶えることのない小川が、生き物を育めるだけの水の流れがあるのだ。
 ぐるりと見回すと視界を覆い尽くさんばかりの緑と木陰と空が広がっていて、だけどそうした光景のある箇所に彼の目が止まった。斜面が崩れて、黄土や焦げ茶や赤茶色が折り重なった地層の断面が見える。近づいていくとそこでは土の表面を水が伝い、反射した日光を照り返している。
 そこから染み出した水は地べたまで流れ落ちると子供でも跨げそうなほどの小川に流れ込んでいた。近づいていった彼が屈み、見下ろしてみると、澄み切った水の奥底で泥の上を飛び交うように泳ぐ微生物がいる。種類など当然わからないそれらを眺めていると、長らく忘れていた好奇心が刺激された。
 他にもいるはずの生き物を見てみたい。
 そこで彼は思い立って、拳ほどの石を一つ持ち上げると、
「あ……」
 小指の爪よりもさらに小さい、だけど確かに蟹の形をした生き物が別の石の下へと逃げていった。
 せっかく隠れたそいつをもう一度驚かすのも気の毒なので、持ち上げた石だけを元の場所に戻し、彼は立ち上がる。
 見つけたここが、夢の二人が目指していた場所なのかは彼にもわからなかった。ここよりももっと生き物が豊かな遊び場を彼らが見つけていないとも限らない。
 だが、もし彼女が山を訪れ、生物に触れることを楽しみとしていたのならば、欲していたのは今の彼が感じている気持ちだと思った。もう随分と久しく感じていなかった高揚感。言葉にしてしまうとちっぽけに成り下がってしまいそうなときめき。
 彼女は遠く遙か、彼で果ての届きようもない場所を独り、走っているのだと思っていた。けれど今はその存在がずっと身近に感じる。夢の中を駆け回っていたあの少女が彼女だというのならば、彼女だって彼と、それほど大差はないのだと。
 きっとここにいる。
 何の根拠もなかったけれども、彼女はそばにいてくれるはずだと彼は確信していた。だから願う。この彼女の存在が感じ取れるように、その声が聞けるように。
 感じることも気づくこともできず、心を触れ合わせた人が追憶の彼方へと消え行くなんて受け入れられなかった。
 やがて風が吹き止み、草がざわめくことをやめる。水までもが流れを止めてしまったように沈黙し、鳥や虫の生命を歌い上げる詩も静まっていく。
 希うのは、あの声だった。まるで人の気も知らず、ずかずかと入り込んできては揶揄する、腹立たしいくらいにお節介なあの声。この世界からこぼれ落ちようとしている少女の最期の囁き。
 迎えるのがどんな結末であれ、彼女の問いに何一つ答えられず、別れていくのは悔しい。彼女が伝えようとしたことの一つも理解できず、終わってしまうのは寂しい。
 だから夜明け前のような二人の時間に彼女を引き戻して、語り合いたかった。まだ話せずにいたことはいくらでもあった。
「どこに……どこにいる? あれだけ大きな口を叩いて、人に好き勝手言って、それで嫌になったら突然いなくなって」
 もし彼女がこのままいなくなって、彼が生き延びたのだとしても、それでは本当に生きることにはならない。また『生かされて』いる日常に逆戻りするだけである。
 だから彼は選択したかった。生きるのか死ぬのか、それだけの誰しもが持っている自由を享受したくて、その答えを彼女の見届けてもらいたくて。
「戻ってよ……戻れよ! まだ僕は答えを見つけてさえいないんだ、それに……それに――!!」
 音が消えて、世界が静まって。
「何そんなに、泣きそうな顔してんのよ」
 探してみても、見えるのは変わりない夏の山の風景だけ。
 けれど、仄かに甘く、ただそう表現するにはあまりにも曖昧な、嗅ぐものを穏やかにさせる香りを彼は吸い込む。
「泣きそうな顔、してなんて……」
 ここ数年来、涙した覚えなどなかった彼なのに、感情はいつになく高ぶっていた。あるいはそんなこともあるのかもしれないと手の甲で目を拭う。
 濡れた感触はなかった。
「やっぱり何ともない」
「ふふっ、冗談にきまってるじゃない」
 全く、人を小馬鹿にしていて、今にも笑い出しそうでも穏和そうでもある不思議な声。終焉を告げる、悲しい音色。
 間違いなく、
「幽霊、って太陽の下でも活動できるの?」
「ちょっとせっかく呼ばれたから来てあげたのに、そんな下らない質問?」
 どうしようもなく身勝手で変わりない彼女の声だった。
「出会い頭にからかわれたら、誰だって真面目になんかなれないよ……」
 溜息をついて、肩を落としながら、それでも内心で胸を撫で下ろす。まだ終わっていない。まだ終わりではない。この最後の五日間に知らずに賭けてしまっていた思いはまだ繋がっている。
 自分の命が体を奪われかけているというのに、彼の注意はその一点に尽きていた。
 だから次に投げかけられる質問にも迷いなく答えられる。
「良かったの、私を呼び戻したりなんてして? 放っておけば助かったかも知れないのに」
「これで良かった。まだ、色々と決心がついてないから。もう少しだけ、待っていて」
 それまでには決意する。生きるのか、死ぬのか。
 そう言外に伝えて、だが彼は表情を曇らせる。残る時間は今日と明日、それから明後日の夜明けまでだ。終わればどうなるのかは知れないが、そこまでに全てを終わらせないといけない。
「どうして、五日間にしたの?」
 それは彼が初めてする、不可解な幽霊の行動に対する問いだった。一日に一つ、五感を奪う。それが精一杯振り絞った力の限界なのだと言われてしまえばそれまでなのだが、そんなこととは関係なしに彼は疑問に思っていた。
「人の命がかかっているのに、すぐに終わらせるんでもなく、わざわざ五日間なんて……」
 その日数に伝わらなかった思いは、届くことのなかった感情は、どうなってしまうのか? 掃き溜めに集められて、全てなかったことにされるのだとしたら、残酷に過ぎる。
 だけど彼女は相変わらず容赦がなくて、冷徹に真実だけを穿った。
「何日経っても、同じことしか知らないのなら考えは変わらない。空を見上げて、ぼうっとして、そうしている間にたどり着いた答えが一年後にだって変わらずにあるわ」
 見えない彼女がそれをどんな色の瞳で語って、どこに向けて話しているのかわからなかった。ただ、「だけどね」という呟きの直後に彼は、視線が頬を撫でていく気がした。
「五日間くらいはあってもらわないと、わたしの方が困るの。本当はそれでも足りないかもしれない。だからこの猶予の期間はわたしのため」
 抽象的で、言いたいことが掴みきれなかった。何一つ彼女ははっきりした話をしてくれていない。しかしだからと言って、訊ねても答えてくれるようには思えなかった。
 それに訊ねずとも、彼女はとうにそのことを彼に伝えているようにも、そんなふうに思えた。
「わかった。もう訊かない」
 これ以上の追求を諦めて彼が呟くと、
「そう」
 返事をした彼女の悪戯っぽい笑みが日差しに透けて見える。そう幻視した微笑みは音もなく光の中に消えていった。

五日目


「あっ……」
 指の関節に細いビニールの糸のすり抜ける感触が走っていく。咄嗟に手を閉じようとしたけれど間に合わず、彼の手から紐が、その先につながれている水で膨れ上がった袋が損なわれる。固いアスファルトにたたきつけられたそれは弾けて、中身からまき散らされる水に混じって赤みがかった黄金の小魚が三匹飛び出し、地面に跳ねた。
「あぁっ!」
 太陽はとうに消え去って、連なる提灯から滲む赤らんだ光に照らされている夜空の下、少年は手を伸ばす。だけど指先で触れる魚は彼の手を必死に逃れて、棘だらけの地べたで鱗と、それが守る皮膚を傷つけていく。
「う、ぁ……なんで、どうして」
 目の前で傷つき、そして死んでいこうとする魚と彼らを見つめていることしかできない自分に、ただただ少年の中で疑問が沸き上がる。
 なぜこんなに自分は無力なのか? 
 どうして、こんな小さな命がすぐそこで消え失せようとしているのに、見ていることしかできないのか?
 嫌だ、死なせたくない。
 そんな思いに答えるが如く、救う言葉がさしのべられた。
「何してんの、すぐ捕まえてっ!!」
 荒らげられた少女の声が、震えて固まりそうになっていた少年を鼓舞する。その瞬間に彼は我に返り、跳ねる金魚をすぐさま手の平に掬い始める。
 まずは一匹。
 手の肉に張り付いてぐったりとするそいつの傍に、ペットボトルの白い口が寄せられる。
「早く入れてっ!」
 そうすることが正しいのかもわからず、少年はただ反射だけでその手の上にいる金魚をペットボトルの中に送り込んだ。流し入れられ、露を纏って曇った容器の中にいるそれは動かない。だけど彼は構わずに残りの二匹を掬い、ペットボトルの中へ流し入れた。
「ふぅ……これで大丈夫、かな」
 丸く白い膝小僧に手を押いていた少女が立ち上がって、ペットボトルに蓋をする。中々動き出そうとしない金魚達が不安で少年が「なんで動かないの?」と少年が疑問をぶつけると、少女は動じることのない余裕そのものといった笑みで彼を見つめ返した。
「水温が低いからよ。安心して、多少の殺菌剤が入っているかもしれないけど死ぬことなんてありえないわ」
 少女が話していることは当時、小学生の中学年であった少年には飲み込めなかったが、関係はなかった。ただそのことを少女が語っていると言うだけで、少年はその発言の内容を全肯定できた。
「そっか……」
 胸を撫で下ろし、知らぬ間にしゃがみ込んでいた彼は少女と同じように立ち上がって、ほっと息を吐く。
「えぇ」
 白いワンピースのスカートを舞わせ、自信たっぷり頷いた彼女は少年の頭を楽しそうに撫でた。
「……ねぇ。バカにしないでよ」
 そんな、少女以外には決して口に出せないだろう憎まれ口を叩きながらも、少年の口元には笑みが浮かんでいる。そんなことも全て見通した上で、少女は柔らかな微笑みを浮かべた。
「わたしに任せとけば良いのよ」
 自信たっぷりに言ったのは少年を安心させるためでもあり、少女自身が抱く自信の裏付けでもある高らかな宣言だった。そんな彼女が頼もしくて、同時に他のどんな人間よりも憧れて、思わず彼はこんなことを口走ってしまう。
「だけどね、×××。もし×××に何かあったら、僕は頑張るから。×××の分まで、×××も幸せになるまで」
 偽ることのない、偽りようのない少年の本音。誰も彼もに幸せになって欲しいという、童心だからこそ抱けた幻想。それがどれだけ馬鹿馬鹿しくても少女はわらわない。
 ただ少年の心配だけをした。
「あんたに心配されなくたってわたしは平気よ。何があったって、悲しんだり、そんなこと、わたしにはあり得ないんだから。だからあんたは自分の心配だけをしなさい」
 少女の言葉を否定するのは気が引けたが、少年としても引き下がりたくはなかった。
 暗い暗い、夜の下。表の通りで明るい賑わいと屋台が立ち並ぶ町の片隅、裏路地に迷い込んだ少年はその傍らの少女に告げる。
「それでも僕は、心配なんだ。嫌なんだよ、自分一人が幸せになるなんて」
 皆で、幸せになりたい。
 そんな誰しもが一度はふと心に抱く、どうしようもなく愚かしくて、例えようもなく尊い願いを少年は口にする。例えそれが、類似した遺伝子を助けるために種に植え付けられた遺伝子の命令だとしても、利他性など偽善者の幻想でしかないのだとしても、少年が願うその瞬間は本物だった。
「僕のために誰かが傷つくなんて嫌なんだ」
 そんなことになるくらいなら自分がいっそのこと、どうにかなってしまえば良い。
 少年のそんな、好ましくも危うい願いが透けて見てしまって、少女は容易に注意もできず、かといって見過ごすことなど尚更にできない。
 幼いながらに端正な色白の面差しに苦渋の色を覗かせて、呟く。
「あんたのそういうのは良いと思う。だけど覚えていて。あんたに幸せでいてもらいたい人だって、この世の中にはいるの」
 まさかそれが自分自身だということなどできず、頬に少しだけ赤い血の色を、感情が滲み出たそれを恥じらいながらも少女ははにかむ。単なる誤魔化しであるはずのそれが、しかし少年には何よりも美しく、何よりも尊いものに見えた。
「わかったよ」
 肯定しながらも少年は自らに誓う。この少女が幸せでいられるように自分は走り続けようと。いつか言っていた願いを少年が叶え抜いて見せようと。
 一歩上手の少女は、少年のそんな微笑ましくも頼もしい純粋さを見抜き、身を預けたくなりながらも首を振った。そして精一杯の強がりを込めて微笑み、少年の腕を引く。
「さぁ、祭りに戻りましょう」
「え、ちょっと、待って」
 制止する彼の声も聞かず、「ほらほら」とこの上なく楽しそうにしながら少女は顔だけ振り返る。その強引で少し我が儘ながら、無邪気で明るい笑顔に彼も毒気を抜かれる。諦めて引っ張られるままに暗い路地の闇から飛び出して、まず光に見舞われた。視界に溢れると無数に散らばり、赤や黄に世界を彩ったそれらが眩しくて彼は目を細める。そこへ遅れて、人いきれと歓声とが肌にまとわりつき、耳鼻から流れ込んできて彼は身震いした。
「ほら、何してるの?」
 一瞬、力強く生きる人々の名残に立ち尽くしていた彼の肩を小さな手が叩いた。
 普段は古ぼけた商店街がその両脇に吊された提灯の列で夜から切り取られ、その下の屋台や道ばたに集う人々が一様に一点を見ている。赤く照らし出された彼らの視線を浴び、そして少女の細い指が示した先にはかけ声と共に練り歩く人の群があった。
「わたしたちも、一緒に声出そっ! えぇと……せぇの、よーいよいやーさーさー!」
 そんな掛け声を上げる彼らが担ぐのは神社の本殿を縮小したような御輿だった。金箔で彩られたそれは遠目からでも煌びやかで、夜の町に華やぐ。
 だが少年はそちらに見とれてはいられなかった。
「……何で声出さないの」
 不機嫌さを隠しもせず、じっとりと少女が睨んでくる。
「そ、れは……ほら、やっぱり恥ずかしくて……」
 言い訳さえも尻すぼみになり、彼は自分の立場や性格の諸々が情けなくなった。その目が我知らずどんよりとしていると、「まったく」という声が溜息混じりに吐き出される。
 だけどそれは今にも笑い出しそうな調子でいて。
「いいわ、じゃあついてきなさい。きっと御輿を担ぐ人たちに混じったらあんただって黙ってられないでしょ」
 そんなことを悪魔の笑みで囁いてくる。今度こそ本気で逃げ出そうとした彼の手を捕まえて、少女は走り出した。
「行くわよっ!」


 先を行く御輿は石の階段を登って大理石の鳥居を抜けていく。その目指す先には木々のざわめく山があり、暗く大きな影となったそこを走る長い階段がある。
 いよいよ祭りは佳境だった。これから階段の上まで御輿を運んで、それが終わったら盛大に宴を開く。祭りの熱気が残る境内には酒と汗と持ち寄った馳走の臭いが満ちる。
 少年と少女は人々の集まりの後ろをついて行った。道中に何度か担がせてもらったが、力になれたのかは甚だ怪しい。しかし盛り上げるのに一役買ったのは確かだった。
 今はそこから外れつつも熱気に巻かれ、二人の頭もどこかぼんやりとしている。最後の階段にさしかかって傾く御輿を微睡んだような目で眺めていた。
「もうすぐ、終わりか」
 呟いた彼に少女が微笑みかける。
「また来年……ううん、その次も、十年後だってまだあるじゃない」
 わたしたちは若いんだからさ、とありふれた歌の一節のようなことを少女は口ずさむ。彼だってそう思っていた。ずっと変わることのない日々が続くのだと。だけどそのときは違うことに心を切なくしていた。
「でもほら、この祭りはこれで終わりでしょ。もう後戻りはできないから、その……なんだろう」
 うまく言葉にはできなかった。だけど形にならなかった部分を少女は聞き取って、やっぱり楽しそうに笑った。二人だけの秘密を呟くほどしめやかに。
「ふふふ」
「あはは」
 何だか陽気になって少年も笑い声を返す。その声は、藍と紺色の混じった夜空まで届くことはなく、最後の威勢を上げだした祭り囃子に紛れていった。


『じゃあ、その人が幸さんを助けようとした友人ってことで間違いないの?』
 それは高校で姉の友人について調べていた瞳からの報告ついてその内容を確認するために綴ったメールだった。もう何時間も前に送ったその文面を読み返した彼は、それからこちらも何度目になるのかわからないが、そのメールに対する返信を開く。
『間違いありません。ですが、その姓って――』
 彼は続きを読むのを中断して携帯電話を閉じた。
 時刻は午前三時半頃。あと三十分も経てば東の彼方に朝焼けが滲む。この時間になるまで結局寝付けずに彼は思考を弄していた。
 すなわち、なぜ彼女は霊になったのかと。
 それは二つの意味を内包した疑念だった。まずはどんな経緯で彼女が死に至ったのか。これは何ら変哲のない言葉通りの疑問だった。しかし、そこに加えてもう一つ、彼には答えを見つけ出せていない要素がある。
 つまりは、何が彼女をこの夜に引き留めているのか。
 彼は死んだことがないから、命を失った人間の末路など知らない。けれども、この世に霊が溢れていないことが証明している。殆どの人間は死んでまで世界に居残るような覚悟や動機などないのだ、と。
 どうしても疑問に思ってしまう。何のために、誰のために、彼女はこんな世界にしがみつこうとしているのか。
「誰のため、か……」
 幸が関わっていることは想像に難くない。問題なのは、そんなことを訊ねたらまた彼女が取り乱して姿を消してしまうかも知れないことだった。
「訊けない、よなぁ」
 体を起こし、ベッドの上で自らの右膝だけを抱え、そんなことについて悩む。夜明け前のの薄闇に沈んでいても答えは掴め取れそうになかった。
「せめてもう少し、今日の一日だけでも……」
 彼女のことを知って、その真情に迫れたら、なんて考えていると左のこめかみをつつかれる。
「考え事?」
 カーテンの隙間から漏れる朝焼けの欠片に細い肩と長い髪の人影が浮き上がっている。目が慣れてくると見えてきた彼女はひとつまみほどの優しさを笑みに溶かして、こめかみをつついた指を伸ばしていた。
「まぁ――」
 今訊ねなければ機会を見逃す。流れに負けてしまう、そのことをわかってはいたのだが、
「……色々と」
 彼の思考も口も喉も舌先も全速力で後退して、例の疑念から顔を背けてしまう。どうしようもなく臆病で、そんな自分に呆れ果てるしかなかった。
「隠し事?」
 見抜かれて、だけど彼は何も返せない。隠しているのが彼にとってやましいだけならば無様に慌てて誤魔化そうとするも失敗に終わっていたのだろうが、今回は違う。隠し通せなければ傷ついてしまうのかもしれないのは、彼女の側なのだから。
 彼が俯いていると彼女も並々ならぬ事情があることだけは察して「ま、良いけど」と軽い口調で話題を流す。
「それより、今日はどうするの? これから感覚を一つ奪われて、わたしの名前を探して回ったら、もうそれで終わりだよ」
 言われずともそんなことはわかっていたが、彼はそこで口調を荒げるような人間でもなかった。
「少し、考えさせて」
 そう伝えたのは本当に考え事がしたかったから、というよりはただ耐え難かったからである。平気そうな顔を装って、今日で終わりだなんて言ってくる彼女と向かい合っているのが。
「ごめん、どうすれば良いのかわからない」
 口に出してしまってから彼はこの発言に酷く後悔させられる。いくら本音とは言え、彼女はこう命じるに違いないのに。
 自分で考えろ、と。
 だけども彼が耳にしたのは想像していたよりもずっと穏やかで抱きしめるような声音だった。
「じゃあ、今日はわたしが君を連れだしてあげようか」
 その意図が読めず、彼は彼女を真顔で見つめる。だけど彼女は何かもがわかったようでいて、そして彼女自身のことは何も読みとらせない微笑で彼を見つめ返すのみだった。
「そんなに警戒しなくても良いじゃない。大した狙いがあるわけじゃないわよ」
「いや、警戒してるんじゃなくて……」
 ただ知りたかった。彼女にそう言わせたものの正体を。
 でもそれだけのことを言うにも彼は臆病すぎて、それ以上に慎重すぎだった。予想できてしまう何もかもが恐ろしくて、言葉を濁さないではいられない。
 そうした自制で、それでも抑えつけられなかった思いだけが彼の口からこぼれた。
「どこに連れて行くつもりなの?」
 訊ねられると彼女は、細い顎に指を当てて考え込む。そのために上を向いた瞳がもう一度彼を捉えたとき、その相好が崩れた。
「ふふっ。秘密よ。だけど私の思い出の場所だ、とだけは教えておくわね」
 深まる疑問は際限がなかった。溜まらず問いを、きっと真実を答えられたらこの夜明け前に終幕が訪れるだろうそれを、口に出してしまう。
「そんなことしたら、僕は君の名前を知ってしまうかも知れないのに、なのにどうしてそんなことをするの?」
 黙っていれば良かったと、繰り返し駆けめぐっていくを後悔をじっと固まって彼はやり過ごす。身震いして、けれども答えようとする彼女の唇の動きに、そこから紡がれる言葉と声に目が引き寄せられて意識が張りつめる。
「気分よ、気分。ほら、スリルがあった方が楽しいじゃない?」
 そんな考えられる中では一番他愛ない返答に落胆するのと同時に彼は胸をなで下ろしてしまう。まだ彼の側に答えを聞き果たす覚悟ができていなかったから。
「わかった」
 そこが彼に踏み込んでいける限界だった。言葉を選ぶのにさえ目眩すら伴うやりとりから顔を背け、退散してしまう。
「もう良いから、早く感覚を奪ってくれ」
 どうせそれだけがお前の目当てなのだろう?
 そんな押しつけがましい確認を言外にする物言いで、彼は言い捨てる。それを聞いた彼女はほんの僅かに、それでも彼を驚かすには十分すぎるほどの悲しみを瞳に溜まらせる。たった一度の瞬きで消されてしまったそれに彼が目を見張らせていると、彼女は慰めるようにして例の悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「その通りよ。私がここにいるのはあなたから体を奪うため。わかってるならさっさと選びなさい。今日あなたが捨てる感覚を」
 これまでになされた中で最も仰々しい宣言と共に指か突きつけられる。
 鳥のさえずりさえもが耳に痛く感じられるほど静寂に支配された朝だった。床から満ちて徐々に部屋を満たしつつある曙光を喰尽かさんばかりに漆黒の長髪が広がって、一瞬だけ彼の視界を覆う。超常の存在にしかありえない威圧感が彼を呑み込み、無力故の恐怖とまぜこぜになって、彼をその場に磔にする。
 だけど。
「なんでこんなに怖いんだろう……」
 自分に対する疑問の方が先行してしまう。
 それは足りない何かを補おうとした死者の空回りであり、それが生けるものに与えた感情であって。
 そのことに気づいても彼は予め定められた返事をするのみだった。
「僕が、捨てることを望むのは――」


「ちゃんと歩きなさいよ日が暮れちゃうでしょ?」
 晴れ上がった青空がどこまでも遠く突き抜けていく夏の日だった。
 彼は霊だからなのか単にせっかちなだけなのか、足取りの速い彼女に腕を引かれていた。その今にも折れてしまいそうな指の、腕に食い込んだ感触は不思議と温かい。まるで生前のようでいて、死者のことをそんなふうに感じてしまう辺り、彼は急に死が間近に迫って感じる。
「どうしたのよ? 陰気くさい顔して」
 誰のせいでこんなことになっているのだと怒りが湧きはしたが、彼はそれを胸にしまい込んでおいた。どうせ何を言ったところで、最後は言い負かされる。感情の発露は、溜息をついて少女がいるであろう中空を見やるに留めた。
「何か言いたそうな顔ね」
 相手しか表情が読みとれないことに不服さえ覚えてしまう彼である。
 無論、昼の眩しすぎる日差しに照らし出された彼女の顔を見たければ、視覚を捨て去るしかない。残っていた触覚も既に失った今、それはつまり、そういうことである。そうならないために彼は奔走してきたのだが、からかわれる一方となる現状には苛立ちもした。
 尤も、表情がわかったところで形勢が逆転するようにも思えないのだが。
「はぁ……なんで僕、こんなに立場弱いんだろ」
 我知らず彼は二度目の溜息をこぼした。
「あんたが自己主張しなさすぎるからよ」
 最もな指摘に彼は何ら反応を返せない。そんな彼を見て、彼女は呆れと心配がない交ぜになった苦笑――彼には見えない感情の顕れ――を浮かべながら彼の手を握る。止まることもなくどこまでも、駆けていこうとするように。
 二人の足の向かう先には、高らかに鳥居がそびえていた。
 その手前にある三段の石階段は浴びた日光の熱を蓄えて、それが靴の裏越しにまで伝わりそうな勢いである。同様に熱された石畳が玉砂利の中で真っ直ぐに境内へと伸びていた。
 ここに来るまでにも随分と汗をかいていた彼である。光を照り返して強く輝くような白い石に辟易せずにはいられない。
 しかし死んで暑いという概念すら消失した彼女には、関係のないことだった。彼の腕を離すと鳥居の周りを走って、風もないそこから熱気が押し寄せる。
「ほらここ見て。アンモナイトの化石があるわよ」
 ここと言われてもどこを指しているのか彼には見えない。
 曖昧な表情を浮かべて立ち尽くしていると急に腕が引かれた。大きな弧を描き、鳥居の右の柱へと近づいていく。遠心力に振り回され、揺さぶられていた彼の視界に突如として石柱が出現し、しかも減速もなく突っ込んでいく。
「うわああああ!!」
 溜まらず悲鳴を上げた彼は両手を突き出した。迫る来るざらついた石の表面に手のひらを押し当て、腕に伝った衝撃が霧散するまでやり過ごす。
 それでも容赦なく彼女が引っ張って額をぶつけることすら覚悟していた彼は、あっさりと止まったことに拍子抜けさえしてしまった。恐る恐る目を開けると、耳元を声にくすぐられる。
「手と手の間を見て」
 不覚にも言われたとおり、そこに注目してしまった彼は、
「あ、ほんとだ」
 渦巻く貝殻の文様を見つける。
「まぁ、本当にアンモナイトの化石なのかは知らないけどね。似たような生き物はいっぱいいるし」
 オウム貝とかね、なんてことを呟きながら彼女はまた彼の腕を引っ張りだす。
「早く生きましょ。こんなところでじっとしてる時間はないわ」
 そのあまりの身勝手さ加減にもう笑うことしかできない彼だったが、抵抗はしなかった。少女のはしゃぐ姿が見えた気がしたから。
「それじゃあ、登るの?」
 引かれる腕のままに歩いていく彼の目の前には小高い山が立ちはだかる。山肌を覆い尽くすように膨れ上がった濃緑の中へと、頂上まで至る階段が石畳の道から続いていた。
「用がないんだったら、登りたくないんだけどなぁ……」
 見上げても眼前の階段は首が痛くなるまで途切れない。鬱屈とした色合いに目を沈めながら彼は力なく笑い声を上げたが、絶望的に暗い声音にしかならなかった。
 頼んだところで、彼女が聞き入れないことなど明らかだったからである。
「さぁ、行くわよ」
 まるっきり彼の発言など黙殺されて、少女に掴まれた腕が彼を前方へと引きずり出す。


 重たい足は苔に覆われた階段の石にへばりつくようだった。体力に限度のある彼は上ることに腐心した、というより、余計なことを考える余裕がなかった。
 階段の左右から伸びた木々の葉が重なり合って厳しいはずの夏の日は和らいでいた。たまに風に揺れた木々の枝から差し込む木漏れ日を浴びて、石に張り付いた苔の緑が照り映える。きらきらと揺らめく小さな日溜まりに見入っていると肉体の疲労に引きずられた心も幾分か安らいだ。
「なんでそんなに年寄り臭いのよ」
 石の段を蹴っていく軽やかな足音の持ち主は見えない。やはり霊になったら疲れることもなくなるのかもしれないと思いながら、彼は次の段へと踏み出していった。
 やがて終わりがないようにも思えた階段の果てに陽光の溢れる境内が見えてくる。草臥れきっていたはずの体に自然と力が湧いた。
 彼は残る段数を駆け上がり、最後の一段に足を掛けると体重を載せてゆっくり体を持ち上げていく。
 頭上の木々が途切れて、目の中が日光で白く染まり。
「はぁはぁ……ようやく上りきった……」
 荒ららぐ息を整えるべく、むせかえりそうな熱気を何度も吸い込んで肺に酸素を送り込んだ。目眩を伴ってそれが全身に行き渡り、視界がはっきり開けてくる。
「あぁ……」
 石畳が続く先、日を浴びているのは一軒家ほどの小さなお社。塗り重ねられた漆のためか、はたまた降り積もった年季のためか、その木材の茶色は底の見えない深さをしている。思わず引き寄せられてしまう、そんな色合いだった。
 そちらへと歩み寄る彼の頭の中で、再生を始める。
 昨晩の夢で見た、最後の場面が。
 祭りの終局に御輿がかつぎ込まれていたここは、あたかも彼自身が通い慣れたような錯覚さえ引き起こし、回想の中へと酩酊させる。気を抜くと蝉の声さえ聞こえてしまいそうで、などと考えていると本当に喧しいあの鳴き声が、繰り返し何度も、夏だけの生命を訴えだした。
 聴覚は消えているはずなのに、なぜ?
 その答えにふと思い当たって、彼は訊ねてみる。
「もしかしてここに、昔何度も蝉を取りに来たりした?」
 少し間があって、彼女の意外そうな声が聞こえた。
「……えぇ、でも、なんで、わかったの?」
「蝉の鳴き声がしたから」
 そして今の彼の耳では、彼女と縁のあるものが発する音しか聞き取れない。言い換えれば、視覚以外で彼が感じられる全ては彼女との間に因縁がある。
「なるほど、ね」
 納得したらしい彼女の声音にはしかし、まるで落胆でもしたような含みがあった。そのことを怪訝に思いながらも彼は口に出さない。聞かなかった振りをして、ただただ社殿へと歩いていく。
 社殿の軒下に溜まった薄闇は見るからに涼しそうで、彼は木の板の段を一つずつ上っていった。小気味良い音を立てて上り切り、訳もなく賽銭箱の中を覗く。目を凝らしても硬貨の輝きは見つけられず、降り積もった埃ばかりが目に付いた。参拝目的でこんな場所を訪れる人間など、彼が生まれた頃には絶え果てているからだった。
 けれど彼の背後で、小振りな鐘が鳴り響いて、鼓膜を叩く。振り向くと垂れ下がった綱は揺れていて、周りにそれをなした人間は見当たらなかった。
 まさか狐狸の類が現れたはずもなく。
「なんで突然……幽霊がお祈りなんて」
 一体、こんな小さな神社の神様に何を祈ろうというのか。
 自分にも他人にも頼れはしない彼ではあったが、それでも神様に頼れるほどに不確かなものの力など信じられない。世界を救うとさえ言い切る強さを持ちながらなぜ神になど頼るのか、彼には理解できなかった。
「そんなことしたって、何も変わることなんか……」
「何かが変わるからこうしてるのよ。神様にお祈りすれば、成功するかもって思えて気が楽になる。それは大きな変化じゃない?」
 そんなものなんだろうか、と疑問を募らせることしか彼にはできなかった。だが、彼女らしくもないことに神妙なその声には説得させられてしまう部分もある。
 もしかしたらその通りなのかも知れない、なんて。
「なんで僕は、こんな幽霊のことを信じてるんだ……」
 あっさり感化されそうになる自分に呆れる。それを撥ねつけるよう首を横に振っていると、背後から声がした。
「さて! お祈りも済んだことだし、それじゃあわたしの秘密の場所に案内するわ」
 彼が下らない悩みに振り回されていた間に階段を下り、意識は次の目的地へと引き寄せられているらしい。
 どうしてここまで楽しそうにしていられるのか、疑問が尽きない彼だが、溜め息をつきながらも彼女の後を追う。 再び社殿前の石畳に下りてくると、右腕を握られる感触があって視界が揺れた。無鉄砲な少女に腕を引かれて、石畳を外れ、砂地を駆けて社殿の裏へと回り込んでいく。境内と森を区切る欄干が後方へ流れていった。建物の陰に入ると僅かな木漏れ日が降り注ぐのみとなって、足下を苔が覆い始める。
 やがて彼は暗い色合いの草が群生する中を突っ切った。やがて途切れる欄干の先、密集する樹木の幹の向こうに遠く光を眺める。
「ちょっと、今度はどこに連れて行くつもりなの?」
「ついてからのお楽しみ!」
 語る声は弾んでいて、なんだか腹を立てている自分が無粋さえに感じられてしまう。彼女が腕を引く力は強まって、彼は社殿の背後に茂る木々の奥へと引き込まれた。外からだと何もないように見えたそこには獣道が続いていて、彼を山の奥地へと誘う。
 一握りの好奇心に支えられ、彼は無数の根や落ちた枝に躓きかけながら必死に駆けた。
 程なくして葉と木々が晴れていき、日の当たる場所が見えてくる。そこにあるものを目にして、彼は微かに「おぉ」と感嘆を漏らした。
 目指す先の周辺でだけは蜻蛉が飛び回り、照り返された光は木の幹の上で波立ち、揺らめいている。
 森にくり抜かれた、水と光と風の集う小さな聖域。
「池だ……」
 水の透き通った池が彼の視界に収まっていた。見つけて、走っていくとそこが湛える水はより一層に澄んでくる。
 浅瀬では水中の岩肌に、生気に満ちた緑色の水草が群生していた。たゆたうそれらの隙間には小さな海老が飛び交うように泳いでいる。それからより深くに目をやると、水底の泥に奇蹟を残して這いずっていく巻き貝、まだ体の透けた稚魚やその親が見て取れた。
 彼らは誰しもが、少なくとも電車で学校と自宅を行き来していた彼よりは、自らの生を全うしていた。
「ここがわたしの秘密の場所。見ているとなんでか、心が安らぐの」
 屈み込んでいた彼は顔を上げて声の主の姿を追い求める。しかしいくら視線を行き交わしても見つけられないでいる内に、彼女の姿はまだ見えないことを思い出した。
 というよりはもう、見えないはずの存在であることを思い出した。
「他に知っている人は?」
 訊ねると曰くありげに「ふふふ」と笑う声が耳元を掠める。
「いたわよ。一人だけ、ね。昔はもっと、それこそ数え切れないくらいにいたのかもしれないけど」
 突拍子も根拠もなさそうな推測に彼は首を傾げる。だけど、枝や蔓に隠されていた池の対岸に差された木の看板を目にして頷く。
 殆ど文字の掠れて読めないそこには辛うじて、沼という字が見て取れた。今更になって彼は、池だと勘違いしていたそこが沼だと知る。
「そっか、昔はお社からこっちまで道が続いてたんだ」
 それがどれほど時代を遡った過去のことなのかは当然、彼にもわからない。だがそこにあっただろう人の往来を思い浮かべるだけでも、二人きりの道のりが見知らぬ多くの人々の足跡と重なって、くたびれていた彼のどこかに癒しを与えた。
「昔の人だってわたし達と同じことしてたんだものね。そう考えると、なんだかドキドキしない?」
 それは自分が孤独などではないことに安心していた彼とは似通っているようで正反対の、そして非常に彼女らしい感想だった。


「さて、下りてきたけど」
 慣れない運動に打ちひしがれてぐったりとしている彼とは対照的に、彼女の声からは威勢が衰えていく兆しさえない。尤も幽霊に元気だなんて概念があるのか自体、疑問ではあるのだが。
「どうする?」
 訊ねる声の調子から察するに彼女はまだ帰るつもりがないらしいと彼は察する。本音を言えば病院のベッドでずっと眠っていたい彼ではあるのだが、まだ知らなければいけないことがこの町には残っていた。或いは彼女に付き合っていればそこへ至れるのかもしれないと考えて、告げる。
「行きたいところがあるのならついて行くけど」
 何とも曖昧な言い草であったが、これが彼の精一杯だった。だから仕方ないのだと自分に言い聞かせて、自らの不甲斐なさからは目を背けておくことにする。
「思い出の場所って、あの池以外にもあるでしょ?」
「そうね……」
 それっきり考え込んで彼の言葉に反応しなくなる。上昇と下降の激しい態度に、呆れるのも通り越してただただ彼が乾いた笑みを浮かべていると、「あっちも良いけどこっちも……」なんて呟きがしきりに漏らした。
 しばらくは放っておくしかない。ようやく得たその結論に従って、彼は夏の灼ける空を見上げる。まだ天上に登り切っていない太陽が暴力的なまでに強烈な明かりを振りまいていた。棚引く雲は東の果てに流れていって、雲のない空の青さが目に染みる。
「夏だなぁ……」
 ほんの数日前までは雨が降りしきる梅雨に閉ざされていて、こんなに騒がしく賑わしい季節の匂いなんて感じさせもしなかったのに。
 視覚を覗いた全ての五感は消え去っているはずだけど、目から飛び込んでくる光だけでもこの季節を満たす活気と生気に彼は呑み込まれ、溺れた。
「なんで、こんなに眩しいんだろうな……」
 呟いた彼の声を、高らかな少女の声が打ち切る。
「決まったわ。ついてきなさい」
 そう告げる彼女は彼に許可さえとらない。ただ腕を引き、風を裂いて彼を遠く散り果てた夢の彼方にまで連れて行く。
「ちょ……ちょっと、待って!」
 だが叫んでも彼女が聞く耳を持つはずもない。
「待たないっ!!」
 少女の霊はどこまでも彼を引き連れていく。
 彼は風に目が乾いて思わず目を閉じた。意識すると頬を撫でていくそよ風のくすぐったさに口元が弛んでしまう。
 あまりにも腕を引く手が強引すぎて、彼は自分の足を前へ前へと動かすことに必死となる。気を抜いて転ぶ姿が容易に想像できるから。
 それは彼が彼女に振り回される度に感じていたことで、彼女が動こうとすればするほどに加速していく彼の経験だった。募った思い出だと、言い換えても良いようにも思える。
 左右の林が過ぎ去って、電柱の横を何度も通り過ぎ、遙か後方へと上ってきた道は置き去りにされていった。瞳と初めて出会った図書館は視界の片隅に消え、商店街を駆け抜けると香水店も茶屋も遙か後方に見えなくなってしまう。
 彼がこれまで辿ってきた訪れた場所を見せつけるように経由する旅路だった。
 息も絶え絶えになり、とても素肌では触れられないまでに熱されたアスファルトを踏みしめていく。やがて風に吹かれれば消し飛ばされてしまいそうな建物が見えてきた。
 彼はその名を知らなかった。だけどそこがどんな場所なのか、何を売りどう思われてきた場所なのかは訪れた誰しものように知っている。
 尽き果てない体力のままに彼を引きずってきた彼女が立ち止まった。
「駄菓子屋よ」
「知ってるよ。見ればわかる」
 彼が口答えしても、彼女は不機嫌そうな声など返さない。それどころか彼は彼女から機嫌の良さそうな雰囲気さえ感じ取った。
「なんだ、知ってるのか。だったらわたしがここで何をいつも買っていたのか、当てられる?」
 そんなことは知るはずがないと、断ることだってできたはずだった。けれど往々にして、地方の駄菓子屋における人気商品など直感に頼っても当てられるほどに限られている。
 彼は自分の幼い頃を思い出して、そこから最適な解答を二つに絞り込んだ。無論、それが当たる保証などないのだが、きっとどちらかは正解だと信じてそのどちらが正解なのかを判別する質問だけを訊ねる。
「それは今も売っているものなの?」
 彼女は自販機の方をちらりと見やって、それから残念そうに首を振った、ように彼は見えた。
「売ってないわね、悲しいことに」
 沈んだ声が彼女の心情を何よりも表す。
「だったらいつだか売っていた、振らないといけないゼリー入りの炭酸飲料じゃない?」
 かつての夏の記憶を辿りながら、彼はそう答えを述べる。夏休み中に開かれた小学校の自習室が終わると、母親は帰り道に彼と姉にそれを買い与えてくれた。今でもその冷たさは記憶のどこかに染み着いている。
「どうかな?」
 問いを重ねるとかなりの間が開いて、それから少なからず悔しそうに答えが開かされた。
「――そうよ」
 正解を告げる声を聞いて、堪えようもなく彼はにやつく。
「何よ、当てずっぽうじゃない!」
 その通りだったのだが彼の笑みは曇らなかった。そんな様がよほど気に入らなかったらしく、彼女の不満が詰まった問いかけがなされる。
「ところで、『売ってる』って答えてたら何て言うつもりだったわけ?」
 彼はそれぞれ一本ずつ両手に割り箸を握ってその先端に固まる溶けた砂糖の固まりと格闘した日々を思い出した。
「練り飴だよ」
 たかがピンポン球にも満たない固まりかけの飴に、他の飴玉の倍近い小銭を払っていた日々を思い出す。当時の記憶を当てにするのならばおいしかったのは確かだが、値段に釣り合っていたかと問われると口ごもる他ない。
「うぅ……そっちも確かに人気あったかも……」
 彼女のやりきれなさそうな声など初めて聞いて、むしろ彼は戸惑った。弁舌における戦いで勝利したのだが、しかしむしろ困惑しつつ彼女に慰めの言葉をかけてしまう。
「た、偶々だからっ」


 その後、彼女の側から行きたい場所についての提案が為されることはなかった。かといって彼に考えがあるはずもない。二人は目的地を定めないままに町を散策していた。
 時間はまだ有り余っている。どこまでだって行くことができただろう。彼女の名前を探すのに、訪れるべき場所だっていくらでもあったように思える。
 だけど、彼が覚えている道なんて限られていて。
 太陽の明かりが空の頂に輝く頃、坂を下って角を曲がると見知った道に出た。彼はそこがどんな場所だったか、まともに思い起こすこともなく歩いていく。
 そしてたどり着く、突き出た山の斜面を迂回するように弧を描いた細い道路の半ば。砕けたコンクリと石の欠片が飛び散ったそこ。
 一昨日の図書館で記事から見つけた事故の一つ、最後まで彼が頭から振り払えなかった一件の現場である。
 何も考えずに通り過ぎれば或いは、彼も彼女も反応することはなかったかもしれない。
 だけどそこには人影があった。
 砕けたブロック塀の近くで膝を折って、花を手向けている。その女性がそっと熱された地面に横たえた花束は彼が目を見張るほどに大きく華々しく、そこに込められた思いが咲き誇ったようだった。
 女性は派手ではないものの上品に纏まった風貌をしていて、その佇まいは落ち着いている。少なくとも彼よりは年上に見えた。
 俯いていてどこか憂鬱そうで、だけど瞳が抱えていたような打ち消しようのない悲哀は見受けられない。その微かに影の差す面差しを横から眺めながら彼は声を掛けようか迷う。
 何も知らない彼だけれども察せることだってあった。
 いくつもの命が死に肉薄し、そのまま帰ってこないものもいた事故。女性はそんな、ここで起きた悲劇の関係者だ。
 だからあんな、死の色合いを手で触れて確かめた人間にしかできない表情で花を捧げている。同情でも建前でもない悲しみに、身を包むことができる。
 しかし同時に、彼はその女性が恐らくは遺族でないことも悟っていた。取り乱し、悲痛な涙を流すしかなかった瞳やその家族と違って、女性は落ち着き払っている。
 でもそうだとすると一つだけ、疑問が残った。
 だったらどうして、あんな苦しそうな顔をしているのだろう? まるで事故の日の痛みを引きずっているみたいに。
 そのことが疑問で、気になって仕方がなく、彼は見過ごすことができなかった。そうして立ち止まって話しかけることも通り過ぎることも選べずに立ち尽くしていると、女性が顔を上げる。
 目があったその人は口を開いた。
「――――?」
 訊ねられ、だけど彼も答えようがない。
「今、なんて言った?」
 彼の耳はもう彼女の声しか聞こえない。
 彼に頼まれると、目には見えなくて、だけど傍らにいる少女の霊は彼に耳打ちした。
「あなたは誰、って訊いてきたのよ」
「……なるほど」
 だけど何れにせよ、彼には答えようがない。ここで起きた事件と結びつきがないから、自己紹介のしようがないのだ。
「なんて言ったら言いのかな」
 居たたまれなさに苛まれながらも、どうにか考えようとする。あの女性から話を聞き出せるような説明の仕方を。
 どうしてか彼には、この出会いが大きな好機に思えたから。
 だが硬直して黙り込む彼に、なんと女性の方から近づいてきた。彼の額に暑さが原因でない汗が滲んでも構わず、その大きな双眸に彼を映して顔を寄せてくる。
「え……? あの、何か……?」
 立ち退くこともできず、対応しかねた彼は目を逸らすしかなかった。それでも相手が近すぎて、視界の隅に映ってしまう。
 そんな彼の不規則な瞳孔の動きに気づいて女性は慌てて一歩たじろいだ。気恥ずかしそうな笑みを浮かべ、頬を掻く。
「――――」
 女性の口の動きは見えるのだが、やはり彼の世界からは音が抜け落ちている。やむを得ず、傍らの彼女に通訳を頼もうかと考えていると、さざ波のような囁きが震えないはずの鼓膜に広がっていった。
「ごめんなさい。あまりにもそっくりだったから、だそうよ」
 伝わった声に体の奥底までが冷えていく。昼間の日差しに焼かれていても、彼女の声音を聞くと夜明け前の病室に意識が飛んだ。
「あ、あぁ……はい……」
 どちらへの返事なのかは自分でもわからず、彼はしどろもどろに返事をする。それから改めて女性の質問の意味を反芻したのだが、理解できなかった。
 そっくりだった、とは一体、誰が?
 どうしようもなくなった彼が曖昧な笑みで誤魔化すと相手の表情もにこやかになる。不審には思われていないと見て、まず間違いない。
 女性の言葉の真意を問いただすのは諦めて、もう一方の疑問を解決することにした。というより、勝手に口が動いていた。
 自制もままならず、直接的な質問が飛び出す。
「もしかして、あなたはここで起きた事故の関係者なんですか?」
 我に返ったのは言い切ってからで、自分の言動に呆れ果てないではいられない。しかし、そうして自重する反面で気がかりだったことも否めず、彼の興味は多分に女性の答えへと割かれていた。
 その視線の先にいる手弱女は嘆げいているようでいて、どことなく安堵した本音も垣間見せつつ、はにかむ。
「えぇ。わたしは、あの事故でトラックに巻き込まれそうになった息子の、母です」
 などと彼に耳に届いたのは当然ながら霊の声で、どうにも女性の口調を真似ているらしい。揶揄して翻訳をやめられても困るので、彼は黙って女性が紡いだ言葉をかみ砕く。
 事故に遭った子供の母。
 女性の明かした自らの立場は納得の行くものだった。あの新聞で見た記事だと、子供たち誰一人死ぬことなく女性に救われている。きっとそうして身内に死者が出なかったからこそ、この女性には立ち上がれなくなるほどの悲しみが感じられないのだ。
「それで、あなたはどうしてここにいるの?」
 芝居をする霊の声は見事なまでに女性の姿と噛み合っている。ふざけているのだとしたら些か不謹慎にも思える彼だったが、今はそれが女性の言葉なのだと受け止めた。
「僕がどうしてここにいるのか、ですか?」
 念のため確認をとると、女性は頷き肯定してくる。
 当然の質問で、偶然にここに通りがかっただけだと言えば相手は納得する。しかしながら彼がした返事はこのようなものだった。
「それが、事故のときに子供たちを助けた女性と僕は……」
 まさか、呪い、とり憑かれている関係なのだ、とまでは口に出せず。
 なのではっきりとしたことは何も伝えていないのだが、「そう、そうだったの」と女性に了承されてしまう。意外に思う反面、こうなることを期待してもいた彼は、立ち止まることなくもう一歩踏み込んでいた。
「あの、もし良かったら、事故の当時の話をお聞かせ願えませんか? なるべく具体的に、それからできるなら、実際に目の当たりにした人の話が聞きたくて」
 口に出してから彼自身、自分の発言が信じられなくて自らの正気を疑う。だけど何度振り返ったところで発した言葉も、そして知りたいという欲望も、彼にとっての真実だった。
「無理に、とまでは言いませんけど」
 今更になってそんな気遣いを付け加えたところで、何かが変わるはずもない。そもそも断られた程度では潰えることのない切実な欲求が、彼の目には漲っていた。
「ですけど、だから、どうにか……」
 地べたに擦る勢いで頭を下げて、なりふり構わず頼み込んで。
 彼の懇願を受けた女性は目を瞑り、何か思案する仕草をした。それは自らに言い聞かせるようであり、問いかけるようでもあった。彼はその裏に飛び交っているであろう幾多もの言葉に望みをかけ、瞑目した女性の細面から目を離せなくなる。
 さしたる時間はかかっていないのに彼の背中は汗に濡れてシャツが張り付いていた。そしてそれに気づいたのさえ女性が目を開いてからのことだった。静かな眼に重く沈み込む結論を覗かせて、女性は彼を見据える。
 傍らの霊が呼気を吸う音が、女性の息を吐き出す動作に重なった。
「わたし自身は事故に出くわしたわけではありません。……確かにわたしが見ていた限りだと、こんな女の人、いなかったな」
 唐突に霊が自分の発言を交えたので彼は戸惑う。狼狽を押し隠しつつ、事故の現場にいたことを白状した霊には問い詰めたいこともあったが、今はするべきことがあった。彼女が通訳する、女性の発言に耳を傾ける。
 穏やかだった女性の表情が歪んでいくのを目を離すことなく見つめていた。
「……息子は一番そばから、全てを見ていました。そしてまだたくさんのものを抱えています。だからどうか、聞いて上げてください。あなたならあの子の話を受け止められる気がする」
 根拠なんてもちろんない話だし、女性が彼のどこにそんな価値を見いだしたのかもわからない。それでも頷こうとした彼の腕を、しかし何者かが強く、皮膚に指が食い込み鬱血するまで掴んできた。あまりにも突拍子のない行動に彼は驚いて飛び上がりそうになるのだが、臆病な体を全力で抑えつける。
 冷や汗をかきながら彼は地図を取り出した。
「えっと実は、この後に少しだけ寄っていかないといけない場所がありまして。だから申し訳ないんですけど、ご自宅の場所をお教え願えませんか? 後で訪れるので」
 意識しなければ気づかれない程度ではあるが早まってしまう自分の口調に彼は焦った。危ういところで最後まで噛まずに言い切ると、女性は僅かな間ながら呆けるので、蚤ほどもない彼の心臓は潰れそうになる。しばらくして、凍り付いた川の表面が砕け流れ出すように女性が笑みを浮かべたので、彼はひとまず、胸を撫で下ろした。
 それから女性が何か喋り始めたのを、霊がすかさず拾って要約する。
「良いみたいよ。けれどこんな炎天下で長話するのは嫌だって。だから家に招待するみたいなんだけど、その前に部屋を片づけておきたいみたい」
 ちょうど彼女が訳し終えた頃に女性は彼が広げた地図の一点を指さした。そこに口頭で住居の外観や番地までを教えてくれて、彼と後で落ち合う約束をする。
 最後に互いの名を告げ、女性と頷き合った彼は、
「それでは」
 手を振り上げて、同じように別れの挨拶をする女性に一礼し、踵を返す。
 女性が曲がり角の向こうに遠のくと、彼は小走りで外れの小道まで駆け込み、振り向いた。
「どうかしたの?」
 彼が質問をした相手の姿は見て取れない。だけど構うことなく、問いを重ねる。
「なんで、僕があの人についていくのを止めようとしたの?」
 彼女が例の交通事故と関わっているはずはなかった。なぜならあの事故で死んだのはトラックのドライバー唯一人だけなのだから。
 記事の内容を思い返しながら、彼は疑念を口にしていく。
「あの事故で、子供を助けた若い女の子って――」
「――後悔、することになるから」
 彼の声を遮って、彼女は言い放つ。その声音は鋭くなく、また決して怒鳴ってもいないのだが、彼の胸には突き刺さった。
「後悔……って?」
 前後関係がまるで結びつかず、理解しがたい彼女の言葉が宙ぶらりんになって彼の注意を引きつける。
 どうして今、そんな言葉が出てくるのか?
 だけど彼女は彼が質問する暇さえ与えずに、次の言葉を投げつけてきた。
「覚悟だけはしておきなさい、わたしはあなたを止めたりはしないから。そこで失うものがきっとあるけど、そんなのは忘れて新しい道を自分で見つけるの。良い?」
 観念的で、おまけに脈絡のない発言ばかりだったから、彼にはうまく飲み込めない。だけどいくら彼がその意図を問い質そうとも、その声は夏の生ぬるい空気に虚しく吸い込まれていくだけだった。


「いらっしゃい」
 年下の彼に丁寧なお辞儀をした女性の言葉を、霊の少女が彼に告げる。その人の名前は読みがケイなのだが、珍しい漢字を使われていた。
「いえ。お邪魔します、蛍さん」
 迎えられ、家の中に踏み込んでいく。
 敷地は広い上に階層を積まない贅沢な建築だった。彼女からの警告を受け取った後にここを訪れた彼は地図を見間違えたのではないかと何度も見直したほどである。だけど人の一生よりも長くそびえてきた日本家屋が、彼の目的地であり終着点だった。
「お、お邪魔します」
 後から取り替えたらしい真新しい檜の引き戸の奥へと進んでいく。広い三和土は濡れたように艶のある石材が使われていて、その冷たい感触は靴を履いた足にまで伝わる気がした。
 彼はその家の厳かな雰囲気に気を引き締められて、ぎこちなく脱いだ靴を揃える。
 廊下は長く、向かう先は薄闇に溶けていた。窓のないそこへと彼は蛍に引き連れられて歩いていく。角を計五回は曲がった。本当に民家の中にいるのかと疑いたくなる果てしない道のりを踏破して、彼は日当たりの良い居間にたどり着く。敷かれた畳から若草の匂いが漂うそこは大人でも十数人は余裕で横になれるだろう広さがあった。
 小学校の教室がちょうどこれくらいの広さだったろうかと思い返しながら部屋の中央に招かれる。そこに置かれた卓袱台の上には、中身から湯気の立つ湯飲みに茶菓子が添えられてあった。
「あぁっと……」
 彼がどうすれば良いのかわからずに浮き足立っていると、蛍が卓袱台を囲む座布団の一枚を手で示す。
 こちらへ、どうぞ。
 唇の動きから蛍はそんなことを言ったのだろうかと予想しながら、指示の通りにする。その座布団の尻を受け止めて衝撃を返さず床の堅さも感じさせない力強い柔らかさに彼が内心で感嘆していると、蛍も向かいの一枚に腰を下ろした。
 目線を同じ高さに合わせて、改めて部屋の内装を見回す。
 部屋の障子にはよく見ると細やかな揚羽蝶の絵が描かれていた。絵の中の蝶は、或いは実物さえ上回る躍動感と煌びやかな模様を纏って草むらを舞っている。部屋の隅には白い和紙で蝋燭の四方を囲った照明器具があり、見慣れないそれらに彼は嘆息するばかりだった。
 別世界の雰囲気に中てられて、柄にもなく彼は正座になる。
 そんな彼の緊張しきった姿を目にすると女性は手を口で隠して楚々と笑った。その口が何か呟いている。
 すかさず霊が、
「もっと肩の力を抜いても良い、だそうよ」
 と彼に耳打ちした。
「は、はい」
 先ほどとまるで同じ台詞を返しながら、彼は俯く。熱くなった頬はできることなら隠していたい。
 そんな仕草も含めて彼の緊張が解れそうにない蛍はようやく悟った。少しでも息子のためになるようにと蛍はある提案をする。
「――――」
 蛍の口が開閉するのを見て、彼は傍らにいるだろう少女の声を待った。
「まだ子供が帰ってくるまでに時間があるから、あの人が知っている範囲で話をしてくれるみたいよ」
 幽霊自身の口から、彼女に迫っていく道筋を目と鼻の先に示されて、彼の意識は急速にさえ渡っていく。緊張からではなく、ただ少しでも正確に多くの情報を得ようと姿勢を正した。
「お願いします」
 それは霊の少女に告げる懇願でもあった。だから小声で、なるべくそのまま教えてくれ、と付け足す。
 彼の様変わりに蛍は僅かながら目を見開いたが、すぐさま頷いてその意思を受け止めてくれた。
「あの日、事故があったと病院から連絡のあったわたしはすぐさまそこへ駆けつけました。息子のことだもの」
 そのときの気分を思い出しているのか、語る蛍の顔は青ざめていた。
「随分と取り乱していったのだけど、顔を合わせた息子は平気そうな顔をしていました」
 回想は安堵するところまで至ったようで、それが表情にまで出ていた。
「驚くよりも何よりも安心したわ。念のため、その日は精密検査も行ったのだけど異常は見つからなかった。神様が助けてくれたのだと、あのときは本気でそう思っていたわね」
 だけどそれから蛍は聞かされたのだ。事故から九死に一生を得た息子の口より、彼を助けた少女の存在を。
「身を張って助けてくれたんだって、あの子は言っていた。警察の方も後から訪れてきて息子に質問していったけれども答えは同じ。信じられなかった、そんな人がいただなんて」
 それから息子より伝え聞いた事故の瞬間のことを詳らかに説明する。トラックがほとんど減速せずに歩道に乗り上げてきたこと、ぶつかる寸前に駆け込んできた女性の表情、そして自らを盾にしつつ、子供たちだけを押し退けた彼女の腕の感触。
「そう……ですか」
 当事者でないことを考慮に入れれば、これだけの話を聞ければ十分だった。より具体的な事故の現場に起きた出来事、リアルな生と死の有様は蛍の息子に尋ねていくしかない。
 ただ、既に彼の脳裏ではその光景が浮かんでいたのだ。
 夜明け前の薄明かりに照らされている姿しか見たことのない、濡れ羽色の髪の霊。彼女が昼の太陽の下で子供を助けようと長い髪を振り乱し駆けている、その横顔が。
「現場を見に行ったのはいつ頃ですか?」
「そうね……通りがかることは何度もあったけど、落ち着いて見に行けたのは息子が学校に通え出してからだった」
 となると最低でも二日はかかっていることになる。その間に雨が降っていたかにもよるが、人の目と足で食い荒らされた現場に事故の生々しさが残っているとは思えない。彼の欲求はまだ満たされずに行き場をなくして疼いていたが、詳細は女性の息子に聞けば良いことだ。
「なるほど。ありがとうございました」
「いいえ、わたしも人に話せて、少し楽になったかもしれない」
 そんな感想の部分まで律義に演技して伝える霊は、真面目なのかふざけているのか判然としなかった。
 ともかく、後は蛍の息子が帰ってくるのを待つのみだ。
 時間の経過を待とうと彼がお茶に手を伸ばしたら、女性の肩がぴくりと震えた。
「……え?」
 まずかったのだろうかと彼が蛍の顔を見上げると、その眉根が露骨に顰められて表情は苦しそうに歪んでいる。
 どうしてそんな顔をしている? 今ここで何が起きた?
 聴覚も嗅覚も触覚も味覚も喪失した彼にはどんな異変があったかも掴めず、ただ戸惑っているしかない。だけどたった一つ、残っている視覚がその些細な変化を捉える。
 机の上にある湯飲みに注がれた茶が、小刻みに揺れていた。それが一度きりではなく、季節外れの寒風にでも震え上がるように短く何度も水面が揺れては静まっていくことを繰り返す。
 地震にしては断続的だったし、風も吹いていない。顔を離してみたが鼻息でもなかった。
 だったら一体、何が茶を震わせているのか?
 立ち上がり、彼は異変を探ろうと周囲に目を配る。けれどもそれらしい原因など一人しか心当たりがなく彼が訊ねようとしたら「わたしじゃないわよ」と質問さえ許されずに否定された。
「だったら、何が起きてるの?」
 気を取り直して小声で問いかけるとつまらなそうな彼女の声が、張りつめた部屋の空気を鈍く震わす。
「ん~、おもしろい話じゃないわよ。今なら気づかない振りもできるけど、良いの?」
 囁きかけてくる彼女は明け透けすぎた。思わず抗議しようとしたが、それが誰のための台詞なのかを感づいてしまい、反駁の言葉は喉の奥で潰れてしまう。
 代わりに彼の内側に広がる深淵から、こみ上げてくるものがあった。
「……もし、そんなふうに心配したのが別の人間だったら引き下がって……いや、逃げていたのかも知れない、けど」
 区切った言葉の合間に迷う思いも欲する願いも肺の奥に押し込めて、吐き出す。
「もう一度言うから。……僕に何があったのか、教えてくれない?」
 勢いに背中を押されて叫んだことは否めない。だけどそれは彼の偽らざる本心だった。そうすることが、これまでの人生の中で彼が信じ続けたものに報いる唯一の方法だと思い、疑わなかった。
「……馬鹿ね、あんたは。いいわ、なら好きに傷ついてきなさい。わたしがその道先案内人になってあげる」
 芝居がかった口調にほのめかされた皮肉も、彼は意に介さない。彼女は本当に諦めて、自嘲の意味で声を上げて笑った。
 それから告げてくる。
「どこの誰かは知らないけど、そこの女を誰かが呼んでいる。扉を叩きながらね。出てこい、出てこいって」
 予想できていたことではあるが人の敵意や悪意や、そんな醜いものがこの場に絡み付いているのだ。
「一体、何があったのかしらね? その人は悪い人間には見えないけれども」
 事実として、何やら恨みを買っているらしいことは明らかである。彼は沈みそうになる気分を引っ張り上げて、この場から逃げ出さないように心を縛り付け、口を開く。
「知らないことが多いから何とも言えないけど、思うんだよね」
「何を?」
 訊ねられ、返答に困りながらも彼は口を止めない。
「もっと皆が、笑顔になれるやり方があるはずだって」
 呟くと彼女からの軽口が消えた。彼が不安になるほどの沈黙を経て、彼女の口から信じられないくらいに微かで、掠れて消えてしまいそうな声が漏れる。
「……わたしにはできない考え方、ね」
 彼女のよう強い人間ならばこんな理想を掲げずとも力任せに目に見える人を救えるだろうとは思ったのだが、黙っておく。
 このときほど彼は、彼女の姿が見えないことに感謝したことはなかった。鬱ぎ込んだ面差しも、憂いの渦巻く眼差しも、直視してしまったら彼には耐えられそうにないから。
「それじゃあ――」
 どうすれば良いのかはわからなかったがともかく腰を上げようとした彼の正面で立ち上がる人影があった。霊ばかりを意識していた彼がそちらへ振り向くと、蛍が今にも崩れそうな作り笑いを向けてくる。
 呆然とする彼に、蛍は一言だけ、言い置いた。
「出迎えに言ってきます、だって」
 彼女が通訳し終えた頃には、女性は居間を出てしまっていて、彼はすっかり置き去りにされる。
 この先にどんな人間が待っているのか、どれだけの量や色合いの感情が行き交っているのか?
 わからないことばかりの彼だけれども、たった一つだけ言い切れることがある。
「行こう」
 頼りない自分を支えてきた、信じるものを守るために彼は蛍の背中を追う。
 間を開けずに動き出したつもりではいたが、蛍の後ろ姿は日の差し込まない廊下の翳りに薄れるほど遠くを歩いていた。その内面に燃え広がる焦燥が彼にまで感じられる、なりふり構わない早足で廊下を突っ切っていく。
 その背中が、他人からの干渉を拒絶している気がして、彼は思わず立ち止まりそうになった。
 だけど、
「何してんの! あんたが決めたんでしょう?」
 彼女の叱咤を受けて、彼は廊下を踏みしめていく足に力を込める。
 急ぎ足で彼が駆け寄っていくと、開かれた扉の光の中に、身を竦める蛍の姿が見える。その向こうで、怒りに目を剥いたもう一人の女性の顔も確認できた。
 蛍よりも随分と所帯じみていて、身に纏った青いワンピースは色あせている。だけど、その佇まいがやつれているのも目の下に隈ができているのも、事情がなければ納得できない。
 その疲れ切った顔が憤怒に歪められていた。
「――――っ、――――!!」
 叫んだ内容まではわからずとも、家中の空気を振るわすその勢いだけは十二分に伝わった。声が聞こえない彼でさえ溜まらずに怯え、たじろぎそうになる。すぐ隣に彼女の存在を感じられなければ、間違いなく逃げ出していた。
 だが彼はなけなしの威勢を振り絞り近づいていく。
「今、蛍さんが『お客さん』に出てくるのが遅かったって文句を言われてるところ。申し訳ありませんって謝ってるわ」
 実況する彼女の声には緊張感がなくて、もっと言い方があるだろうと抗議したかったが黙っておいた。自分が単に気を逸らそうとしたがっているだけのように思えてならなかったからだ。
「わかった」
 頷き、向かい合うべき前方を見据え直す。年齢はさほど変わらなそうに見える二人の内、一方からの糾弾が続いている。声などなくとも、相手の女性の目にぬらりと光る敵意と憎悪は理解できる。そしてその一方で小さく肩を縮こまらせた蛍の姿を目の当たりにすれば、導き出せる結論は一つだった。
 止めなければ。
 自分でもそんなことを思った自分に、彼は驚いた。だけど自分の見えていなかった一面も受け入れて、彼は彼女に呼びかける。説得するためには二人の話を聞かないといけなかった。彼の耳はもう働かない。
 なのに――
「ね……ねぇ、ちょっと。どうしたの、何か問題でも……?」
 いくら呼び出そうとしても、彼女からの返事がない。前触れもない彼女の失踪に彼が戸惑っていると、怒りを鋭利な言葉に変えて蛍に突き刺していた女性が彼を睨みつける。
「う……あ……」
 正面から見つめた訪問者の女性は思っていたよりも若々しい顔つきをしていた。だがそこから思考を発展させることもできずに、棒立ちになる。
「――――!?」
 彼に向かって決して美辞には当てはまらない言葉が吐き捨てられたのを肌で感じた。しかしながら耳の聞こえない彼との間に会話は成立しない。けれども、二つの目を黒々と染め上げる怒りや憎しみは視線となって容赦なく彼を貫いた。
 頭から考えていた全てが抜け落ち、五体がそれぞれ別々の意思を持ったかのようにちぐはぐになって、現実感が失せる。薄い膜に隔てられて女性の視線を一身に受けながら、彼はどうすることもできない。
 だけど無防備に責め苦を受ける彼を庇う人影があった。
 やめて下さい、彼は関係ないですよね?
 それは彼には聞こえない声だったけれども、女性の素振りや唇の動きから読み取れた。
 紛れもなく自分が守られているのだと彼は思い至る。
 こんなはずではないのだと前に進み出ようして、けれどそこで固まってしまった。
 気づいてしまったからだ、まるで邪魔者にしかなっていない自分に。
 ここにいても無駄だ、下がれば良い、余計な苦しみを背負うことはない。
 数え切れないほどの弱音が過ぎって、彼の腕や足や肩を掴み、引き下がらせようと試みた。
 身を任せたらきっと楽で、そうすることが賢い選択で。
 それなのに、足は下がろうとしない。否、前進しようと力を振り絞っている。全身全霊で、目の前の壁を打ち崩そうと雄叫びを上げて、抱いていた想いを、願いを、声に変えて解き放つ。
「あなた方が話してるのは、あの交通事故の話なんですか!?」
 ため込んでいた息を精一杯に喉で震わせて、この場に渦巻くしがらみを振り切る。そうして、二人の女性が揃って彼の顔を見て、蛍だけが悲しげな表情をしながらも頷くのを認める。
 やはり、そうなのだ。だから彼女が突然、姿を消したのだ。
 恐らくは、自分の今際の話など聞きたくなくて。
「あの事故で子供たちを守ろうとした女の子は……女の子は……」
 説明できないことはいくらでもあった。例えばどうして、新聞の記事では死亡とされていなかった彼女が霊になっているのか。被害者の家族でしかないはずの蛍がどんな理由で責められているのか。
 だけど、そのどちらが理解できていなくとも大事なことは変わらない。彼が伝えたい核心は揺るがない。
「なんで自分を犠牲にした人までが生まれているのに、どうして他人を憎めるんです!? 生きているのにっ、まだ笑えるのにっ、それならまだ手を取り合えるでしょう!?」
 怒り、とも違うけれども抑えつけ難い激情を血を吐くような心持ちで絞り出した。訪問者の女性を責めてしまいそうになる自分は嫌だったけれど、止められなかった。
「そんなの、亡くなった誰も望んでないですよ……」
 吐き出せるものは全て出尽くして、彼は俯く。しかし思いも言葉も一方通行ではなかった。
「――夫は――」
 もう彼には聞けないはずの霊以外の肉声が音のない世界に落ちて、波紋を広げていく。
「夫は――――、――――で、――――なトラック運転手で……なのに、あの事故で死んだのっ! 助けようとする子がいなければ、もしかしたら……!!」
 それが聞こえたのは、あまりにも彼女の喪失と深く関わる話だからだった。同時にそれは、彼は最も聞きたくない話でもあった。
「だけど、そんなの、言いがかりじゃあ……?」
「だったら絶対、あの子がいなくても夫は死んだってあなたは言うの?」
 反問はどうしようもなく詭弁で、卑怯な論理で、それでも理屈の上では太刀打ちできない論法だった。彼女の介入が具体的にどんな形でなされたのか、彼は見てきたわけではない。そしてその詳細を語れないものに、具体的な彼女の影響を解き明かすこともできない。
 だから言えなかった。
 彼女の存在が死を引き起こしたのだと。
「ほら、言い切れないでしょう? だったら、やっぱり――」
 こんなにも醜い人間の、どうしようもなく切実な本性。納得のいく逃げ道、目にも明らかな敵を求めて這いずり回る。
 そんなものを前にして、それが起きたのが偶然でないとしたら皮肉に過ぎた。
 開かれた扉、玄関に差し込む光、その中心には小さな人影が立っている。
「――死んだのは、お姉ちゃんのせいじゃないよ」
 意味の知れない英単語が印刷された青いTシャツとジーンズ生地の半ズボンを着た少年が訪問者を見上げている。
「その子は……」
 ここに帰ってくる少年の正体など問うまでもない。
 そしてその母は当然ながら、
「あ……こら、自分の部屋に……」
 救いようのない大人の諍いなど見せたがらなかった。だけどどれだけ強く腕を引かれても少年は動じず、その恩人の名誉を貶める訪問者に向き合う。
 少年は決して人を責める口調ではなく、どこか自慢するような色合いさえ見せて語り出した。
「お姉ちゃんはトラックが変なのに一番早く気づいて、走ってきたんだ。お姉ちゃんがトラックのタイヤに鞄を投げたのを見て、やっと僕らはトラックに気づいた」
 語る目には恐怖と、それからもう一つ、彼にも見に覚えのある感情が満ちている。
「みんなどうすれば良いかわからなかったのに、お姉ちゃんは違った。鞄でトラックが止まらないと、すぐに僕らの方に来た」
 彼はその情景を想像する。
 暴走するトラック、速度を落とさないそれに、駆け込んできた少女が鞄を投げつける。だけどタイヤはそんなものをあっさりと呑み込んで噛み砕き、減速さえしない。
 だから少女は、あの夜明け前の薄闇のように透き通った黒髪を振り乱して、また駆け出す。
「僕は一番前を歩いていたんだけど、だからトラックのおじちゃんの顔もお姉ちゃんの顔も見た。おじちゃんはずっと眠ってて、お姉ちゃんは凄く強く僕やトラックを見ていた」
 その時の彼女がどんな気持ちで終焉を駆け抜けていたのかまでは彼に語れない。だけども彼にも誰かを助けようとするときの彼女の瞳は、その鋭さと凛とした目つきと不安なんて微塵も抱かせない力強さには見覚えがあった。
「お姉ちゃんは少しも止まらないで僕らの方まで走ってきた。それでトラックの前まで来ると僕らを押しのけたんだ」
 少しも止まろうとはしなかった、と少年は付け加える。躊躇いはしなかったのだと。高らかに澄んだ理想を振りかざして立ち向かう、迷いない少女の威容は、彼にだって想像できた。世の中にそんな人間がいることを彼は誰よりも知っていた。
「そこからは何が起きたのかわからなかったけど、僕も後ろにいた皆もいて、それで、僕らは気づいた。助けられたんだって、お姉ちゃんに」
 少年が物語るあの事故のリアルを前にして、誰も口出しはできなかった。ましてやそれを否定できるものなどなく、圧倒されている。
 だけど一人、彼だけは震える声に耳を傾けていた。
 トラックに立ち向かっていった少女の、残り滓のように掠れた声を。
「違う……こんな、はずじゃ……」
 どうにか耳を澄ませていた彼だけど、か弱すぎて呑み込まれてしまう。少年の純粋な憧憬への訴えに。
「凄かったんだ、お姉ちゃんは。みんな、みんな死んじゃうかもしれなかったのにバッって現れて僕らを庇った。自分も死んじゃうかもしれないのに、凄く強かった」
 もはや少年の双眸からは恐怖が押し出されて、そこを満たすのは曇りのない憧れだけだった。彼女の振る舞いを自分のことみたいに誇り、ほめたたえる。
 その次に発される台詞を、彼は一字一句違うことなく予想できた。
「僕もあんなふうになりたい」
 きっと少年の目にも記憶にも、或いは人格にさえ彼女の姿が刻まれ、生きていくことになる。それを予想よりも確信よりも確かに知っていた彼は、思わず彼女の方を見つめていた。目には見えないのだけれど、それでも視線を向けないではいられなかった。
 そうして、言いたいことがあったから。
 何も失うものなんてなかったじゃないか、と。
 ここに至っても彼は、彼女の忠告の正確な意味も動機も掴めていない。わかっているのは彼女の目論見が外れたであろうことだけだ。
 そんな救いようもなく無知な彼だけど、もう一つ言えることがあった
 たぶん、これで良かったのだと。彼のためにも、彼女のためにも。


 空が赤く燃えている、世界の終わりのような夕方だった。視界を斜陽の茜色に蝕まれながら、彼は黙々と足を動かす。
 彼が行くのは、道幅が狭く歩道も片側にしかない割には車通りの多い道だった。道の両脇には生け垣の緑が絶えることなく続いていき、崩れかけの縁石がなけなしの安全を歩道に確保している。
 そんないつ事故に見舞われるかもわからない道なのだが、この一帯の住人は親切で、注意深く歩行者を避けていた。自動車に道を譲ることが習慣になっていた彼は、目の前で止まった車のドライバーから先に行くように促される度、くすぐったい気持ちになる。
「慣れないなぁ、どうして道なんか譲ってくれるんだろう」
 深い意味はなかったその問いにも、霊の少女は丁寧に答えてくる。
「そうしないと、その内に轢いちゃうからよ。だってほら、ぼーっとしてたら歩道からはみ出したりしちゃわない?」
「それは……僕はしないと思うけど」
「ここじゃあんたがいた街みたいに、いつも気を引き締めていたりなんてしないの」
「そう、なんだ」
 証拠なんて何もないけれども、彼は納得させられていた。なるほど、だなんて呟きながら頷いて、思わず口走ってしまう。
「だったら、わざわざどうして、人は都会に集まるんだろう。こういうところにいた方が気楽だと思うんだけど」
 かれが愚痴のように漏らした言葉を彼女はささやかに笑い飛ばした。
「ふふっ。決まってるじゃない。行ってみないとそこが、どんな場所なんかなんてわからないからよ。もしかしたらこんなことが起こるんじゃないかって、希望ばかりを抱いて新しい地へ向かうの」
 そこに行ったところで幸せになれる保証なんてないのにね。
 そんな皮肉を悪戯っぽく囁きながら彼女は彼の後についてくる。
 緩やかに曲がりくねる道。一件の八百屋と両手の指の数ほどもある一戸建てが軒を連ねて、二人を目的地に導いている。
 歩いていくと、広い道路へ合流する手前から脇道が延びていた。車に乗っていれば見逃してしまうかもしれないそこを曲がると、自動車一台が辛うじて通れる道の両脇に相変わらず生け垣が続いている。
 彼はふと、道を間違えているか不安になって、足を止めそうになった。彼女がいるのならば道を尋ねたいところだったが、彼にはその姿が見えない。
「合ってるわよ」
 かけられた言葉は、視線を右往左往させる彼を安心させるためのものだった。
「……うん」
 やはりこちらから顔が見えないのはどうにも不便に思う彼である。
 やがて途切れて、左手に砂地の駐車場が見えてくる。砂利や小石がいくつも転がってはいたが、今のように、昼間にはが止まっていることはほとんどない。だから近所の子供の遊び場に使われていた、そんな場所だった。
 その前を通り過ぎると、右手に畑が、その向かいにはアパートが現れる。
 その白い壁面は斑模様に薄黒く汚れ、道の脇に備え付けられ、『入居者募集』の看板を照らしていたはずの電灯は支柱しか残っていない。
「まだ誰か住んでるの?」
 返される声はくたくたに草臥れきっているようだった。
「ううん。もう誰も住んでない」
「じゃあ、廃墟ってこと?」
「いいえ、入居者がいないだけよ。……尤も、これからここに住もうって人が現れるようには思えないのだけれど」
 そうなったらきっと、いつまでも放置されるのよ。
 そう捨て鉢になったように彼女が吐き捨てたのは、言葉だけではない気がした。
 ここに関与していた何もかもが、遠くへ立ち去ろうとしている。夕焼けに燃やし尽くされるまでもなく、酷く虚ろな建物だった。
「さぁ、こっちよ」
 置き去りにされた自転車も打ち捨てられたアパートも二人いるはずの人間も、一つきりの影が尾を長く引いている。この世の終末が訪れたように血の色に染め抜かれて、煌めく駐車場へと彼女に手を引かれて踏み入った。
 連れだって、風化したアスファルトの隙間から雑草がひしめくそこを駆け抜ける。正視すれば目が焼き付いてしまいそうな夕日から目を伏せつつ、アパートの二階に続く外階段の前まで導かれた。
「ここの二階、向かって右にある部屋よ」
「……えぇっと、つまりは、この階段を上るの?」
 滑り止めは剥がれ、鉄骨は満遍なく錆に食い尽くされている。上っている最中に階段が崩れ行く様を彼は想像してしまい、足を掛けることは躊躇われた。
「危ないでしょ?」
 彼はほとんど拒否する意味で言ったのだが、「そんなことないわ!」と威勢のいい声で背中を押される。
「大丈夫。つい最近、わたしが一度上ってみたもの」
 当然ながら、生前に、という意味である。
「ねぇ、ほら、早く行きましょっ!」
 その声がどこか、あどけなく感じられる。それはもしかしたらここにいると幼かった頃を思い出すからなのかも知れないと考えて、彼は訊ねてみた。
「ここに……ここってどれくらいまで住んでたの?」
 質問の形を何度も口の中で変えながら、不自然に吐き出す。頬に感じる彼女の視線は居心地を悪くしたが、見えないのだからと自分に言い聞かせた。
 彼のそんな有様に呆れたのか諦めたのか、溜め息を吐きつつも彼女は呟く。
「確か、二年前。わたしが高校の三年に進級したくらい」
 拗ねたような声音を彼女はしていて、彼も作り笑いさえ満足にできずに出来損ないの表情を浮かべる。
 そうしてしかいられないのが気まずくて、彼は思い切ると最初の一段目に右足で踏みつけた。感触を確かめながら体重を乗せていくと僅かにたわんで、軋みも上がったが不安定ではない。
「ん……思ってたよりは頑丈そう」
 これならば問題はあるまいと踏み、左足を地べたから離して次の段に運ぶ。階段は彼の体重を難なく受け止めた。もう怖がっているのも馬鹿らしくなって、淡々と段を上っていく。
「どうよ、だから言ったじゃない。大人しくわたしを信じてればいいのよ」
 上り切った途端に偉ぶった彼女の声に出迎えられた。
「…………」
 どこまで本気なのかがわからないし、彼女が正しかったのも事実だ。けれど、素直に受け止められないこともある。
「あれは、僕が自分でいけると思ったから上ったんであって、決めたのは僕自身だ」
 それだけの責めていると言うには柔らかすぎる物言い。
 だけど不思議と、彼女は静かになった。訝しみながらも右の通路の突き当たりまで歩いていく。そこに扉を構える角部屋の前で立ち止まった。
「ここか……」
 アパート全体の壁と同様にに白くペンキが塗られた扉の表面は細かな埃がしみのようにこびりついていた。ここはもう朽ちていくいくだけの場所なのだと、無言の内に告げられているようだった。
 不意に、苦しくてかきむしりたくなり、彼は胸を押さえつけた。終わっていく何もかもが息苦しくて、だけど正直に気持ちを吐き出せない。
 膝に手をついて、動悸が去り行くのを待った。その間に彼女は一言も声を掛けてこない。
 彼の疑念、というよりは不安が膨れ上がり、顔を上げる。川の中で溺れて喘ぎ、息継ぎを求めるように口を開く。
「どうしたの? まさか、消えちゃったの?」
 思い返してみれば自分でも惨めに思えるほど、声が震えていた。けれど恥じることさえできないでいる彼の耳に間髪なく、落ち着いた少女の返事が届く。
「そんなわけ、ないじゃない」
 だけどその言葉つきは酷く、弱々しかった。唸る夏の山風に巻き込まれて、欠片も残さずに擦り切れていく。
 そのことがなぜか誤魔化しようもないくらいに不安を呼び起こして、彼の表情が歪んだ。堪えようとはしたけれども徒労に終わってしまう。何一つ抑えきれずに、端からぼろぼろと決壊していく。
「……っあぁ、もう」
 それでも噛みしめて、目にこみ上げてきたものは閉じた瞼の奥に押し込んだ。五日間もこの霊に憑かれていたからどうにかしてしまったのだと自分に言い聞かせる。瞑目している間に目の熱は引いていったけど、それぐらいしか、消えていくものは何もなかった。
 そうして動けなくなってしまいそうな彼を、その気持ちなんて知りもしない声が鼓舞する。
「ぼうっとしてないで! 鍵はもう開いてるわよ!」
 彼の内心を安易に掬い取らないからこそ、却って彼の力になった。
 或いはそれさえも、彼女は想定していたのかも知れない。
「なんでそんなこと……何でもない。わかった」
 問いつめてみたくなることは多々あったが、ひとまず彼はドアノブを回す。
 鉄が錆を擦り付け合って、若干堅い。だかそれは施錠されているときの何もかもを寄せ付けない頑なさとは違って、力込めれば。
「うわ、ほんとだ……」
 回ってしまう。
 いくら居住者がいないからといって、問題の多い管理体制である。しかし今は都合が良いので、その杜撰さをありがたく思っておいた。
「……開けるよ」
「えぇ、好きになさい」
 扉を引くと、蝶番が耳をつんざく悲鳴を上げる。彼は顔をしかめながらも扉をじわじわと引き寄せた。廃墟らしい今にもどこかが折れてしまいそうな建材の軋みは止まなかったが、辛うじて人が通れるだけの隙間は確保する。
「よし」
 彼は素早く身を滑り込ませると、また極力ゆっくりと、音を立てないように扉を閉め始める。こんなことをしている今、目立つわけにはいかない。
 多少は慣れた力の配分で、手早く動かした扉とその枠がぶつかる。そして、細い線になっていた光も途絶えて。
 彼は振り返る。決して広くはない室内。玄関は廊下を挟まず居間に繋がっていて、台所もそこにある。
 靴を脱いで上がり、居間の中央に居座る木製の大きなテーブルの傍で立ち止まった。
 見回すと台所の脇から順に和室、寝室、そして奥まった便所と浴室の入り口がある。さらに玄関を挟んでもう一つ寝室があったが、彼はそこに目もくれなかった。というよりも、その興味は和室にばかり集中していた。
「あそこって、確か……」
 近づいていき、中途半端に開きかけた格子の引き戸を掴んで揺れ動かす。もう最後に開閉されたのがいつかも知れない割に、差し支えなく動きそうだった。力を込めると扉はレールを滑っていき、向かいの壁にぶつかってはめ込まれていた化粧硝子が小刻みに震える。
 割れやしないかと肝の潰れる思いをしたが、硝子も彼の心臓も無事だった。
「はぁ……」
 彼は胸をなで下ろしながら、自分の手を見下ろす。
「ちょっとは加減しなさいよ。子供じゃないんだから、そんなに力込めて動かしたら壊れちゃうじゃない」
「わかってるけど、もっと劣化してると思ってたんだ」
 自分で言っておきながらも言い訳にしか聞こえない。十八にもなってそんな物言いをする自分に、嘲笑すら催す。
「なんでにやついてるのよ」
「え!? そんなこと……」
 あくまでも今の自分が浮かべているのは自分を嘲る笑みなのだと、自身に諭そうとする。だけど疑念を御しきれずに自分の頬に指で触れる。触覚が消えていたことを思い出すだけだった。
「僕、本当に笑ってるの……?」
 惨めにも彼女に縋るしかない彼の肩を指の細い手が勢い良く叩いた。
「ばーか。大人しくできないのなら、もっと思いっきり騒ぎなさいよ。そんな、しけた顔してないで」
「そんな……」
 それこそ、そんな馬鹿なことはないだろうとも思ったのだが、思い至る。どうせ、この場で彼を馬鹿にするのなんて自分だけなのだと。だから自分で自分を肯定できさえすれば良いのだ、と。
「そう……かも、ね」
 叩かれた肩越しに彼は背後を見やり、僅かに差し込む残照に埃が赤く光るばかりの虚空へ笑いかける。見えないけれども、同じ意味合いの表情で見つめ返されている気がした。
「少しは良い顔するようになったじゃない」
 そんな、どこか素直でない言葉も自分が肯定されているようで、心穏やかに聞いていられた。いつになく安らいでいく心地の裏側で、だけど膨れ上がる不安がある。
「明日の今頃は、僕か君かのどちらかが消えているの?」
 声になり、音になった本音はもう両手でかき集めても戻らない。知らずこぼしてしまったそれに彼自身の呼吸が乱れて、耳の奥から早まった動悸が聞こえてくるようにさえ錯覚する。
「当たり前でしょ、そんなの。まさか自分を呪い殺しにきた幽霊に、情でも移っちゃったの?」
 指摘されてひときわ痛切に、彼の心臓が脈打った。否定する言葉は出てこない。
 だから霊が、
「……本気?」
 訝しむのは至極当然である、はずなのに彼はそんな彼女の態度にぎしぎしと軋みを上げる違和感を抱いた。どこかが噛み合っていない。
 どこが、とは?
 その答えへとたどり着きそうになる思考を、彼は咄嗟に封じ込めた。まだ早い、ここで至ってしまうのは。
「それより」
 それまでの会話の流れを強引にねじ切って、彼は目の前の部屋を見渡す。
 狭い部屋だった。寝転がって手と足の指を伸ばせば、向かい合った壁の双方に届くかも知れない。
 カーテンや装飾品の類は一切なかった。右手にある猫が一匹通れるかどうか、といった程度の小さな窓と正面のベランダに通じる掃き出し窓は仄かに赤く光を帯びている。薄汚れたベランダの欄干の向こうには、遠い空で掠れて消えていく茜色がよく見えた。それでも夕陽の姿は望めず、部屋は夜に侵されて隅や角にわだかまる影は色を強めている。
「思っていたより、綺麗だ」
 敷かれている畳はいくらかの傷を見て取れはしたものの、気になるほどではなかった。入ってすぐ左にある押入の奥を覗いてみると、なぜか一人分の布団と寝具が残されている。
「あれって、使える……の?」
 長らく放置されていたのなら、埃や虫にまみれていてもおかしくない。彼が触れようか触れまいか迷っていると、耳元で押し殺したような笑い声がした。
「大丈夫よ。あれ、わたしが持ち込んだものだもの。たまにここで昼寝したりしてたの」
「……やっぱり、昔に住んでいた家だから?」
「もちろん」
 肯定する声は弾んでいて、わかり切ったことを訊ねてくるなと言われているような気がする。彼は表情を誤魔化しながら、ここで一人膝を抱え込む少女の背中を想像した。その両肩は小さすぎて、夏の夜明けに風の運んでくる些末な冷気にだって耐えられそうにない。
 そんなうら淋しい光景を瞼の裏に眺めていたせいなのだろう、彼の顔に沈鬱な色合いが表れる。それは隠しようもなくて、傍から確かに彼を見つめている彼女にだって伝わらないはずがなかった。
「平気よ、今は一人じゃないんだから」
 こんな台詞を労うように投げ掛けられて、なぜか彼の方が慰められてしまう。あくまでも彼は同情しているに過ぎないのに。
 こんな気遣いをしながら、人の体を乗っ取るつもりでいるというのだから、彼女の心根は推し量れない。どちらも心からの言動だというには、無理があるようにも思えてしまう。
「どうせ、暇でしょ? 最後なんだから今日くらい、付き合いなさいよ」
「……まさか、そんなことのために僕をここに連れてきたの?」
 一人でいるの嫌だったから。
 彼自身、ありえない可能性だとは思う。
 だけど、声にしていない意味までも過不足無く理解した上で、彼女は「どうでしょうね」と言葉を濁すばかりだった。
「あ、もちろんここにあなたを閉じこめておくのが一番の目的よ。今晩が終わったら、あなたの体はわたしのものになるんだから」
「その言い方って、どうなの……」
 時と場面が違ったのなら、意味深長に聞こえていたことだろう。少なくとも彼と彼女が逆の立場だったならば間違っても口にしてはならない。
「そんな馬鹿な話、してられる状況じゃないでしょ。残りの時間は今日の夜だけなのよ?」
 その通りだったが、敢えて触れないでいた。考えたくない事柄がまだ多くあったし、何より生きることを選ぶのだとしてもすぐにはこの時間を終わらせたくない。
 せめて、夜が明けるその時まで。
 だが、はっきりさせておきたいことはあった。
「だったら、質問したら答えてくれるの?」
「内容によるわね」
 当然だった。彼だって名前を直に聞き出そうとは考えていない。
「じゃあ、するだけしてみようかな。一つ目は確認なんだけど」
 自分から訊ねると言っておきながら、いざその場面が迫ってくると選ぶ言葉に困窮する。いきなり訊ねるには重苦しく切迫したないようかもしれない。
 だけど彼はもう、決めていた。ここで止まりはしないのだと。
「……あの事故でトラックから子供を庇ったのってやっぱり……そうなの?」
 相手の呼び名に困って、どうにもはっきりとしない物言いになってしまう。だけどこれで伝えるべきは伝わっていた。
「えぇ、わたしよ。あの子たちを助けたのは」
「そうして、死んでしまった、と?」
「それは見ての通り……って今は見えないんだっけ?」
 やだ、わたしったら、なんて冗談をこんなときに言えてしまう神経は理解に苦しむ。彼はそのことには触れずに、事実の整理だけに勤しんだ。
 彼が読んだ記事は事故が起きた直後に書かれた。少なくともその時点まで彼女は生きており、時間を経てからこんな霊になってしまった。
「実は、」
 生き霊だったりしないのか、と聞きかけて彼は口を噤んだ。知ったところで意味のないことだ。いずれにせよ、彼女は新しい肉体を求めているのだから。
「どうしたの?」
 そう不思議そうにしている彼女に彼はかぶりを振った。
「いいや、何でもない。それよりまだ聞きたいことがあるんだけど」
「えぇ、今した程度の質問だったらいくらでも答えてやるわよ。どんときなさい!」
 迷いなんて母親の腹に置き忘れたように彼女は言い放つ。これが本気で実名を知られないと思っているからこその発言なのだとしたら、油断しすぎている、とは思えなかった。だって彼女は、彼に生きる気力がないこと、例え名前を突き止められても体を差し出すだろうことを見越してとり憑いたのだから。
 この霊を追い払う上で一番大切なのは、彼自身に自ら人生を背負っていく覚悟があるかどうか、それだけだ。
 その覚悟を示せなければ、どのみち彼にはその命を全うすることなんてできない。
 そうして、死と隣り合わせに物事を考えていたから、彼はふと思い出す。その末期の心情に手を伸ばす。
 一昨日出会った姉妹の片割れ、自ら命を断った彼女はどんなつもりでその結末に望んだのだろう? 
 残された妹に、見せてもらった遺影を思い出しながら彼は訊ねる。
「幸さんを救おうとしていたのも?」
 口にするまでに逡巡がなかったかと言えば嘘になる。既に一度、幸という名を耳にした彼女が取り乱す様を彼は目撃しているのだから。
 けれど、これは訊ねずに終わることもできない事柄だった。憂慮を引きずりながらも彼は彼女の答えを待つ。
「……結局、わたしは力になれなかった……」
 彼自身に迷いや悩みがあったからこそ、か細くとも彼女の声を聞けた彼は胸をなで下ろす。そして、窓の外で吹きすさぶ風の音にさえすりつぶされてしまいそうな少女の言葉の続きを必死に追いかける。
「きっとどうにかなる、助けられるって思ってた。わたしならあの子を助けられるんだ、ってね」
 だけど現実は違ったのだと、首を振る姿があまりにも生々しく繊細に想像される。例え、目では見えなくとも彼にはもう彼女の体温も、息づかいも、微かに香る水芭蕉の香りだって感じられてしまうのだから。
「だから……死んだ、って聞いたときは驚いたわよ。それに憎らしかった。誰も彼も助けられるだなんて思いこんでいた自分が」
「そこまで言わなくても……」
「ううん。それくらい、わたしは馬鹿だったの」
 何にも幸のことをわかっていなかった。
 こぼした呟きは床に落ち、小さな滴を散らして爆ぜる。
「なんのためにこんなこと、してるんだろうって。自分でもよくわからなくなったわ。友達の一人も助けられないで、わたしがここにいる意味なんてないんじゃないかって」
 それは違うと言いたかった。目の前の少女がしたことはきっと無駄ではないのだと。だけどそのことを伝える言葉が彼にはない。今の彼女はあまりにも遠く、ちっぽけな彼の手では届かない。
「……わかってるわよ、あんたに言われなくたって。わたしだって今日、気づけたんだから」
「どういうこと?」
 彼女が救った少年との邂逅が変化をもたらしたことまでは理解が及ぶ。だけどもあれから得たものは彼女自身にしかわからない。
「あのね、あの子は、幸を助けられなかったわたしが本当に誰の役にも立てないのか知りたくて、助けようとしたの。わたしの崩れかけの正義が打って出た、最後の悪足掻き」
 彼女は信じたものに命を捧げたのだった。彼にはそこまでして貫こうと思える信念はなくて、だから馬鹿げているだとか、そんな冷静な批判よりも心に浮かぶ感情がある。出会ったときからずっと、感じないではいられなかったことが。
 ただただ、羨ましかった。そうまでして、求められるもののあることが。
「結果は散々だったわ。トラックの運転手さんを死なせてしまったし、何より、わたし自身が死んでしまった」
「それは……」
 最後の発言が気になって、我知らず彼は反問してしまう。
 わたし自身が死んでしまった。
「それが駄目だったの?」 
 彼女は理想のために、命を投げ出すことも厭わない人物に思えた。だからそんな少女から、自らの命を惜しむ発言が飛び出したことは単純に意外だった。
 彼女がどことなく、苛立たしげな気配を帯びる。
「……あんたに言ったってどうせわかりはしないだろうけど、こうして化けて出てから気づいた。このやり方はいけないって」
 その言い草には少なからず、彼の疑念をはねつける意図が見て取れた。気にはなったが、拒絶する意思をはねのけてまで誰かの内側に踏み込む勇気が彼にはない。臆病で、情けなくて、だけど知ってしまえばもう取り返しがつかない予感がしたから。
 どんなふうにして向き合えば良いのか。
 彼が黙りこくって考え込み、彼女に話しかけあぐねていると不意に柔らかな声がかけられた。
「まぁ、それが全てってわけでもなかったけどね」
 見えないけれども、今の彼女が微笑んでいることは彼にもわかった。
「全部、無駄だったって思っていたけど。そんなに大きなことじゃなかったとしても、わたしは目の前の誰かのためになれた」
 呟きが途切れて、微かに漏れた少女の笑い声が挟まる。
「ふふっ。きっと成仏しちゃっても、わたしが助けたあの子の世界でわたしはヒーローとして生きていくのよね」
 独特な言い回しだった。まるで人それぞれに、自分のための世界があるようである。
「僕らは同じ世界に住んでるんじゃないの?」
「それはわからないわ。わたしはあなたではないもの」
「……なんだか、難しそうな話だね」
 言って、彼はこの話題を断ち切ろうと試みる。哲学に価値を感じられる性分ではない、こともないのだが。
 今は深く考えたくない。
「ところで、僕を病院に帰すつもりはあるの?」
「ないわね」
 即答だった。概ね彼の予想通り、だからというわけでもないが、不満は生まれない。ただ、今日は疲れた。全身の骨が鉛に入れ替わったように体が重く、今にも溶け落ちそうな筋肉では持ち上がらない。
 思えばこの四日間、随分と街を奔走した。おまけに慣れない病院のベッドで寝ていたのなら疲弊しても無理はない。
「そろそろおねむ?」
「からかわないでよ」
 押入から引っ張り出した布団に入った。こんな、誰からも見捨てられた住居の一角なのに、抜けていく。息が、緊張だとか重圧だとか、そんな心に張り付くものを取り払い、引き連れて。
 いつの間にか日は落ちて、室内は紛うことなき濃密な夜闇に満たされていた。上下の感覚も狂い、だけどそんな闇に抱かれて彼は意識を手放す。睡魔と疲労、それに安心感が入り交じって、彼を夢の中へと誘っていった。

彼は誰時に

 アパートの脇には小さく開けた空き地がある。汚れの目立つ壁面とブロック塀の上を走る折れた欄干に区切られて、車も入り込めないそこは滅多に大人の目に晒されない。周囲の藪だとか植木だとかが巧妙に死角を作り、近辺の子供らからは遊び場所の一つとして好まれていた。
 そこで、何をするわけでもなく空を見上げていた少年の背中に声が掛けられる。
「ねぇ見て、これ!」
 今日も今日とて慌ただしく、足音とともに少女が駆け寄ってきた。
「どうしたの?」
 欄干の途切れたブロック塀に座っていた彼は、空き地の反対に足を向けたまま、肩越しに少女へと振り返る。
 この頃になって急に背の延びてきた少女の両手には、胸から上が隠れるほどに大きな方形の紙が掲げられていた。それでは前が見えないだろうに、一直線に走ってくる。けれど少女が転ぶ様など見たことのない少年は慌てることなく、彼女の到着を待った。
 彼の前で急静止した少女は紙を裏返してその表面を見せ、端から顔を覗かせる。
「じゃじゃーん、良いもの貰ってきたわ」
 彼女が広げてるそこには七つの海に六つの大陸が浮かんでいた。その中心には彼らの住むちっぽけな列島が、指で摘むのにも苦労しそうなまでに小さく描かれている。
「地図? 誰から貰ったの」
「お父さんよ!」
 この答えは既に予想できていたはずなのにと、我ながら浅慮を嘆く少年である。少女の父親はどうしようもなく彼女に甘いのだ。
 無感動に地図を眺める彼を見て、少女の頬が膨らんだ。
「なによ、もう少し楽しそうにしてもいいじゃない」
「え? ……あぁ、この地図に変な部分でもあるんだろうかって探してて」
 わざわざ、こうして地図を見せびらかしに来たぐらいなのだ。少年は黄土色の大地も青い海も色あせているありふれた地図のどこかに、特別な何かが秘められているのだと思っていた。それはちょうど、彼の目の前で楽しげに地図をかざす少女のように。
 そんな少年の考えを読みとったのか、少女は表情を陰らしてこんなことを言う。
「……あんたは変なところに拘りすぎなのよ。大事なのは普通かどうかじゃないでしょ? あんたがどう見るかよ」
 少女の話すことは頭では理解できるけれども、その通りに実行できる場面になんてほとんど出くわさない。彼自身にもその周りにも、求められているのは均一さであり、頑ななまでに一面的な優秀さだった。
 個性を発揮すれば、瞬く間に嫉みや妬みや押しつけがましい仲間意識が絡みついて、出る杭を打とうと降り注いでくる。
「僕がどう思ってるかなんて関係ないよ。皆の考え方に合わせているのが一番良い。そうすれば誰とも喧嘩にならないし……」
 誰も傷つけないでいられる。
 そういう真意が自身の言葉に潜んでいたのを少年自身も気づけていなかった。曇りのない、透き通る黒の瞳で彼を見つめていた少女だけが彼の中のそれに感づいていた。
 少年の宿す、誰も及びつかない価値に。
 だけど少女は、できることなら自分でそれに気づいてほしかった。だから風に煽られて微かに揺れる、艶めく自らの前髪をじっと目で追うことしかしない。
 じれた少年が自ら歩み寄ってきた。
「それで、その地図がどうかしたの?」
 地図の方に注目すべき点がないのであれば、いよいよ少女の目的がわからない。
「それはねぇ……」
 またしても地図を裏返すと、身軽な動作で身を翻し、彼の横に寄り添った。翻った黒髪の先端が手の甲に触れて、少年は少しだけくすぐったい。
「これを見ていると、沸々と湧いてくるのよね」
 横に並んだ少年と少女は、ほぼ変わりない距離と向きから地図を見つめている。それでも少年には特段の感想も感慨も浮かばなかった。
「やっぱり暗号でも隠されてるんじゃ……」
 愉快そうに微笑む少女に、彼は秘密を隠しているのではないだろうかと疑う。だけど彼女はいきり立って、
「違うと行ったからには違うのっ!」
 少年の疑いを切り捨てた。少女の勢いを押されて彼はすごすごと「ごめん」だなんて謝罪の言葉を口にする。
 小さい頃から少年は、自分の主張よりも相手の考えを優先する人間だった。傍目から見れば情けなく思えることもあるのだけれど、少女はそれに呆れたりしない。それこそが、少年なりの強さなのだと彼女は思っていたから。
 少女は少年が自分らしく成長するようにと、ただ風に靡く長髪を撫でつけながら、微笑みかける。
「この地図に描かれている全ての町には人が生きているの。わたしが知っている人も、知らない人も」
 語る少女の双眸は輝くようで、地図の上に記された町の名前に、そこで住む人々を透かして見ている。そこに生き、夢や子を育む誰かの姿が彼女の瞳に映り込んでいる気さえした。
「わたしはここに書かれている全部の町の人たちを幸せにするの」
 言葉に勢いがあるわけではなく、声だって大きくはなくとも断言する少女の言葉は力強い。微塵も臆することなく、少年には外郭すら掴めない夢を叶えると宣言している。
「あんたも手伝ってくれる?」
 首を傾げた少女の瞳は間近から、少年に目を逸らすこと許さず、訊ね掛けてくる。軽い調子を装っていても奇妙な迫力があるのは、少女が内心で緊張しているからだった。そのことをうまく言葉にはできなくとも少年は察して、だから精一杯に快く頷く。
 彼女に笑っていて欲しかったから。
「うん! もちろんそうするよ」
 彼の反応を目の当たりにした少女は瞬く間にはにかんだ。そうしてできあがった笑顔は少年が予想していたよりもずっと幸福そうでいて、だから少年の中の何かが定まった。
 思いつき、それを目指そうと決めてしまうと、話さずにはいられない。
「だったら僕は、目の前の人から一人ずつ笑顔にしていこうかな」
 それでどれだけの人の力になれるのかはわからない。
 だけど、
「ちっぽけでも、世界は変わっていくだろうし」
 積み上げる一つ一つの変化の振り幅が小さくとも、作り出した笑顔は本物だ。少女と比べると、どうにも小さな夢なのだけれど。
 珍しく克明に、自分の意思を宣言した少年を彼女は神妙そうな顔を向けた。それから俯いて「ん……そっか」とこれもまた珍しい、曖昧な声で少女が相づちを打つ。
「調子悪いの? 怪我でもした?」
 先刻までの彼女にあった威勢がすっかり消沈していて、少年に声を掛けずにいられなかった。今の少女は不意の風にも吹き飛ばされてしまいそうなほど、か細く見える。
「ううん、なんでもない」
 そんなことを言いながら浮かべる笑みだって心なしかぎこちなく、そして弱々しかった。
「本当に?」
「体の調子がおかしいとか、そういうんじゃないの。ちょっと考え事があって」
 目を伏せたままの少女の態度は、誤魔化しや強がりの部類ではなさそうだった。どちらにせよ、無理に聞き出そうとすれば頑固に黙秘を貫く少女である。少年は向かい合って彼女の話に付き合うことにした。
「それで、考え事って?」
「それはね、ほら、自分でこんなことを言うのもどうかと思うけど、あんたはわたしを追いかけてるんでしょ?」
「うん」
 事実、ずっと昔からの憧れだった。あんなふうに自分もなりたい、と。
「だけど、あんたにはわたしにないものが備わっる。だから思うんだ、無理にわたしに付き合わなくても、自分なりに動けば良いんじゃないかなって」
 少女の話すことは時々難しい。意味が把握しきれないときがある。だから今回だって彼が意味をはき違えているだけなのかもしれない。
 けれども、伝えないではいられなかった。
 昔から今に至るまで、ずっと思っていたことなのだから。
 少なくとも彼女にだけは勘違いしていて欲しくなかった。一緒に過ごしてきた時間、二人で為したことを少年が息苦しく思っていたなんて。だから彼は思いつくがままに言葉を練り、それを形にするための息を吸い込んで――


「――姉ちゃん!」
 カーテンのない窓から見える空は、深い夜闇に山の陰から染み渡る朝焼けの赤が入り交じっている。その色は紫と呼ぶには暗すぎて、それでも光であることに変わりはない。
 朝が、終わりが、近づきつつあった。
 室内はまだまだ闇に支配されていて、手探りでないと床の高さも把握できない。けれども窓際で膝を抱える少女の影は、その輪郭まで浮かび上がっていた。
 逆光で読めないはずの表情が、仄かな笑みに溶ける。
「やっと呼んでくれた」
 声音はいたわるように柔らかで、彼をそっと掻き抱く。なのに死刑宣告でも下されたが如く、取り返しのつかない衝撃と後悔に彼は打たれていた。
 ついに口に出してしまった。
 ずっと、心の奥底に閉じこめてこようとしてきたのに。
 だが、どんなに悔いることになっても、どれだけ嘆く未来が待ちかまえているのだとしても、このままでは終わらせられないことがあったのだ。
「僕は確かに、姉ちゃんみたいになりたかった。だけど違う。それだけじゃない!」
 叫んだ意思は長き星霜を越えて、彼自身も忘れかけていた純な願望に火を灯す。それは小さい頃から変わらずにちっぽけで、他愛なくて、それでも――
「僕は何よりも、姉ちゃんに笑顔でいて欲しかったんだ! 少しでも姉ちゃんのためになりたかったんだ!!」
 代わり映えのない日々の中で風雨と砂塵にまみれても、それは色褪せることなく彼の奥底で息づいていた。
「だって僕は、姉ちゃんみたいに強くないから、自分のことに手一杯で、目の前にいるほんの一部の人の力にしかなれなくて、その最初の一人が姉ちゃんなんだ……!」
 だから無理をして付き合っていたわけでもないし、姉の真似をしていたわけでもない。
「……僕は弱すぎて、自分のことで手一杯になってる間に全部、取り返しがつかなくなってしまったけれども」
 微かに透けた少女の体躯を見やる。目を離してしまった間に、全ては彼の指の隙間からこぼれ落ちてしまった。四日前の夜明けに自分の愚かしさを思い知って、なのにここまで何もしてやれなかった。それどころか直視さえできずに今に至ってしまった。
 いくら考えても最善を見つけられない、自分の無能は十分に見せつけられた。嘆くことさえもう疲れて、呟いてしまう。
「たぶん、生きている価値があるのは僕じゃなくて……」
 最後の一線を越えようとしていた彼は、だけどせき込むような笑い声に口を噤む。それは床の上に散らばって、発した本人と同様にそこからどこにも飛び立てない。
「わたしの手抜かりね……もう時間がないのに。まだ、大切なことを、伝え切れていない」
 声の合間にする息継ぎは彼女がどう取り繕おうとしても苦しげだった。掃き出し窓に寄りかかった少女の髪がガラスに広がって、弱々しい光の中に幾つもの黒い筋を走らせる。
 しかし直後に彼女の発した言葉は、彼からあらゆる有象無象を吹き飛ばした。
「わかってないようだから言うけどもね。わたしは、そんなあんたに憧れていたの」
 思考が消し飛んで、白く染まった中に文字が浮かび上がる。
 憧れていた?
 誰が、誰に?
 空と大地がが逆転していた。黒が白へと染め抜かれた。価値観を根底からひっくり返されて、再び、「あんたみたいになりたかった」と言い含められても頭に染み込んでこない。
「まったくこんなこと、三度目なんて言わないから」
 続く彼女の言葉さえも、いまいち現実のものには思えなかった。彼はひたすらに呆然としていて、ただその胸中では少しずつ彼女の口にした事実が解れていく。意味を一つずつ呑み込んでいく。
 そう、時間が経てば確かに、受け入れられるのだ。
 理解してしまうと、彼女の発言は霧が立ちこめる夜明けを照らし出す曙光のようにじわじわと目の奥へ広がった。ぼやけていた意識が研ぎ澄まされて、疲れていた彼を立ち上がらせる。
 立ち上がって、問いかけずには気が済まなくなる。
「僕なんかの……どこに……?」
 こんなにも自分は弱くて惨めなのに。
 一歩距離を詰めて、彼女に問いつめる。だけど彼を見上げた少女の瞳は眠たげで、今にも閉じてしまいそうだった。まるで霊にも寿命があるのだ、とでも言いたげで、思わぬ形で幕が閉じようとしているのを彼は察する。
「待って、まだ消えないで……」
 喉元まで出掛かった、自分の体を奪ってくれという懇願を彼はどうにか飲み下す。死にたいと言い張る弟に、最期を看取られたくはないだろうから。
 けれどそれ以前に、彼はまだ悪足掻きし切れていない。
「どうすれば元に戻るの? 僕に、僕にできることだったら何だってするからっ!」
 諦められないから、どうにかこの二人だけの時間を引き延ばそうと彼は必死に頭を巡らす。だというのに、その目の前で少女の首は横に振られる。何もかもが、もうじき終わりなのだと。二人の力ではどうすることもできないのだと、彼に言い聞かせるように。
「実はね、わたしは生き霊って奴なのよ。体はもう死にかけでぜんぜん動かないんだけど、こんなよくわからない状態で意識だけあんたのところに飛んできてるの」
 それはもう、ずっと前から知っていた。母親が実家近くの病院に移らないかと相談してきたのもそこに姉がいたからだし、それから四日前に一度、立ち寄ろうともしている。その結果、父親とはち合わせて以来、彼はその病院に寄りつかなくなったのだが。
 だけど、となると、彼女が消えそうになっているということは限界が迫りつつあるのだ。子供らを庇い意識が途絶えた日より、今日まであの世とこの世の境界で持ちこたえてきた彼女の肉体に。
「死んじゃうの?」
 答えは一つしかあり得ないのに、そんな質問をしてしまう。あるはずはないと知りながら、姉が自らの死を否定する、そんな展開を期待して。
 けれども、もう彼女は夜に居残ることも昼に進んでいくこともできないのだ。笑おうとして失敗したぎこちない表情で彼女は言う。
「そうよ。元々、今日までだってわかってたの。だからあんたにもそういうふうに時間制限を課したのだけれども、どうしよっか。思ってたよりも少し早いみたい」
 心なしか窓の外に見える暁光が強まっている。初日などとは比べるべくもなく薄まっていた彼女を、散り散りにして消し去るように朝焼けが燃えたぎって赤みがかった黄金に輝く。
「だから待って! まだ、まだ話さなきゃいけないことが……!」
 彼女がそこにいて、この五日間は幻ではなかったのだと信じたくて彼は手を伸ばす。その腕を掴み、その手と握り合えば彼女の存在が実感できるのではないかと、淡い希望を抱いて。
 だけど――
 彼の手は呆気なくすり抜け、冷え冷えとした空気さえ掴むことができず。
「え……?」
 何にも触れられなかった自分の手が信じられなくて顔を上げるけど、いない。彼女の黒髪が広がっていた窓からは夜が駆逐されつつある空が遮られることなく覗けてしまう。
 見つけられなかった、たった今までそこに、体を丸めてしゃがみ込んでいた少女の姿が。
 まさか既に、彼女は息を引き取ったのだろうか。この五日間はこんなにも唐突に、何の感触も得られないまま終わってしまったのだろうか。
 無数の邪推が脳内を駆け巡って、だけどたった一つだけ確かなことが彼の思考を停止させた。
 病院に行ってみれば良い。ここに立ち尽くしていても虚しく過ぎ去っていくだけのことだって、動いてみれば変わることもあるかもしれない。動かなければ、何も変えられない。
 そのためには、考える頭なんて不要だった。
 力を充填するために一度だけ彼は深く長い息を吐く。
 それから。
 余計なものは全て置き去りにし、部屋を駆け抜けた勢いのまま足をねじ込んだ靴の裏で扉を蹴り飛ばして。
 階段が抜け落ちようが構うものかと荒々しく音を立てて駆け下りると、彼は疾走した。
 靴底を貫いて膝にかかる反発も、地べたから跳ねた体を引き戻す重力も体に容赦なく爪を立てて、生々しい。かつては彼が目を背けてきた痛みだった。けれども、今はどれも進んでいくための力なのだとわかる。
 その全てを前進することに注いで、彼は終わりかけの夜気を切り裂いていく。


 開きっぱなしだった一階の窓から侵入し、のっぺりとした病院のリノリウムに降り立った。そこは人のいない病室で、無人のベッドが四つ、各種機器や子供ほどの背丈の棚を伴い備え付けてある。彼はそれらを見回して、もう電灯がなくとも視界が隈無く開けていることに気づいた。青白く部屋を照らしつつある暁光に追われて、彼は部屋を抜け出す。日が昇りきるともう、彼女が目を覚ますことはない予感がした。
 だからその前に、駆けつけないとならない。
 忍び足で廊下を行くが、階段にたどり着いた頃には焦りが勝った。力の限り段差を蹴って三段を飛ばし、たどり着いた次の段を勢いが死にきらない内にまた踏みつける。その度に足音が、無遠慮に反響するけれども、今の彼に感じられるのは引き寄せる目の前の光景のみだった。
 体力の限界を振り切って、頬と肩で風を切った。視界の隅へと手すりも壁も過ぎ去り、動いているのが自分なのか世界なのかも曖昧になる。だが母親から姉がいると聞いていた『四階』の表示を見ると、頭より早く体が動いて、廊下に転がり出た。
 壁に肩をぶつけながらも、視線の廊下の最奥を睨む。その左手にある部屋の前まで走っていくと、扉にへばりつく。ぐしゃりと、音を立てたのが自分のようにも扉のようにも思えた。
 ここに来るまでは感づけなかったが、シャツもジーンズも汗でぐしょぐしょに濡れている。頭に熱が籠もってうまく物事を考えられず、意識も視界も朦朧としていた。
 しかし先刻から耳鳴りばかりしかもたらさなかった音の世界に、冷たい滴が落ちてくる。それが池に落ちた一滴のように波紋を広げて、彼の意識を洗練していく。
「……入って」
 短かった。意図してのものではなく、精一杯の力を振り絞って発せたがその一言だけのようだった。ざらざらとした手触りのその声は触れた途端に崩れて灰となり、風に散らされてしまいそうで、動悸が早まる。喪失の予感が彼の内に疼き出す。
 このままここから逃げ出して目も耳も塞げば痛みに悶えることもないのにと、不甲斐ない願望が首をもたげた。
 だがそれを遙かに上回る、喪失の瞬間にすら立ち会えない恐怖が彼を縫い止める。そうなれば彼は、追憶の最中にでさえ二度と彼女に逢えなくなる気がした。
「入るよ」
 汗に濡れた手で、引き戸を左へと開け放つ。薄い暗闇の中で、四角に切り取られた仄かな明かりが目立つ。
 姉の病室はカーテンが開かれていた。彼方に鎮座する山のぼやけた輪郭が目映く縁取られて、煌めいている。
 もう朝日の一部は顔を覗かせていた。
「……ごめん、遅くなっちゃって」
 謝りながら、彼はくたびれた体を引きずって姉の元まで歩いていく。首もとまで布団を被った彼女は、彼がたどり着くと薄目を開けた。
「ひさしぶり」
 見上げる瞳は灰色に濁っているようで、光が遠い。にこやかに相好を崩しても、どこか痛々しさがつきまとう。そのどれもが彼にそれからの顛末を語っていて、本音を言うのならば見ていられなかった。
「ごめんね、こんな格好で」
 堪えて苦しむのが表情に出てしまって、だから彼女に謝られる。けれども彼の首はその言葉を理解しきらない内に横に振られていた。
「ここに来たかったのは僕自身の意思だから。謝るよりは」
 誉めて欲しい。
 十八にもなって思わず、そんなことを口に出してしまいそうになり、慌てて口を噤む。何を言おうとしているんだ自分は、と後悔やら羞恥やらが止めどなくが溢れた。
 どうにもここまで支えにしてきた威勢が途絶えて、彼は膝をつく。ベッドに手をついて、溜め息をついた。
「なんで僕は――」
 陰惨な気分に沈んでいこうとした彼の頭に、熱が触れる。意識しなければ感じられないほどに儚げで、柔らかな温もりが。それは優しげな手つきで彼を撫でる。
 暗かった彼の表情が晴れるまで、何度も、何度でも。
「良いじゃない、少しくらい、甘えてよ」
 わたしはお姉さんなんだから、とぼろぼろの彼女が目一杯におどけた口振りで言ってみせる。その声すら、こんな夜明けの静けさの中でなければ聞こえそうにない。死にかけの少女の囁きなんて昼の雑踏や夜の猥雑にだってもみ消されてしまうだろう。
 だから彼女はこんな、誰しもが寝静まる朝と夜の境界しかに現れることができなかったのだ。苦難から耳を塞いでいた彼にならばなおさら、彼女の声だけが響く時間でないとならない。
「僕は結局、姉ちゃんに助けられてきたんだね」
 だとするならば、
「姉ちゃんがいなくなっても、僕は生きていけるのかな。ずっと生きていく目標だったのに。そんな姉ちゃんをなくして、僕は……」
 夏の朝の空気は熱くも冷たくもなく、重たい彼の声はただ沈んでいく。彼自身の膝元に落ちて、そのまま誰にも届くことがなく砕け散るはずだった思いだった。
 だけど、それをすくおうと手が差し伸べられる。自分の膝を潰れそうなほどに握るしかなかった彼の手が、その上に重ねられる。
 この世の残酷に晒されて、朽ち果てかけた姉の手から伝わる体温は心許ない。意識しなければ忘れしまいそうなまでに、儚い。
「あんまり、今のわたしじゃあ慰めになれなさそうね」
「そんなことは……」
 はっきりとした否定も返せずに、彼は薄目を開けた姉の面差しを見つめていることしかできない。快活としていた姿からは想像もできない柔和な目元には滴を溜まっている。しどけなく広がる髪はそれでも艶を失わないでいて、橙に輝く朝焼けの眩しさに照り映えていた。
「そうねぇ……」
 乾き、今にもひび割れそうな姉の唇が言葉と声を噛み分け紡ぐ。
「あんたはわたしよりも強いわ。それにあんたになら、助けてくれる人だっていくらでも現れる。ねぇ、覚えてる? あなたはどれだけ人に意地悪く傷つけられても、ずっと耐えた」
 姉に話されて思い出す、情けない記憶。小学校でも中学校でも誰かから悪意を向けられて、その度に反撃に出れない彼を途方もなく強い意志と人格を振りかざした姉が助け出した。どんな相手の前にでも立ちはだかるその背中に、憧れた。
 自分には、決してあんなことはできない。
「あんたはどうせ、正反対のことを考えてるんだろうけどもね。わたしはあんたの方が強いと思ってた。わたしには何もしないで耐えているなんてできない」
 少女の言葉は彼の価値観を裏返したように相反していて、彼は意見することもできない。根本的に彼とは最良の価値が逆転しているのだ。
 それは互いに、当たり前のように持っているものを持っていないからで。
「……でも、僕みたいな人間じゃあ、どんなに嫌なことをされても、されるがままだよ?」
「だけど反撃することは、和解の道を捨てることになるわ」
 彼女は目を細め、彼を慈しむように見つめると力なく微笑みながら言う。
「悪いのはあんたじゃない。だって誰も傷つけていないんだから。そんな人間が報われないのだとしたら、悪いのはこんな社会。誰かの悪意に満ちたここ」
 苦々しそうに彼女は、だからわたしは社会を変えたかったのだけれども、と付け足す。もう行き場のないその願望は、夜明け前の静寂にすら容易に打ち消される。
「それじゃあ結局、僕はただの弱虫でしかないんじゃないの?」
 溜まらなくなって彼は問いかける。返ってくる答えは無情だった。
「そうね。ただただ耐えているいるだけしかできないあなたは貪られるだけの存在なのかもしれない」
 あまりにも容赦なく、彼女は彼の心の中に抱えていた劣等感を暴き出す。被害妄想なのだと自分に言い聞かせても誤魔化せなかったその結論。誰かを傷つけることでしか生きていけない世界では、汚れも悪意も呑み込まないと生きていけない。
「……やっぱり、僕はどうしようもない」
 教えられずとも立ちはだかる現実に立ち尽くす彼に、少女は呟く。彼の眼前にほんの一粒の明かりが舞い落ちてくる。
 だけどね。
 その一言が、彼の目を塞ぐ暗闇の全てを照らし出す。
「だからこそわたしは、あんたに憧れた。本当に苦しんでいる、弱い人にだって寄り添えるあんたに。だから死ぬ前にせめて、少しでも違った世界を見せたくて、あんたにとり憑いた」
 わたしの勝手だったのかもしないけど。
 そんな後ろ向きな不安の表れに、彼は首を振る。
「そんなこと、ないよ」
 変わらない繰り返しを演じていた日々から引き剥がされたこの五日間。彼の世界は少しだけ精彩を取り戻した。
 彼女の最後に救う人間が、本当に自分で良かったのかは断言できない、けれども。
「少なくとも僕は、助けられたよ。姉ちゃんに」
 これだけは伝えないと、不義理に過ぎる。
 彼が身を乗り出してそう告げると、彼女の笑みが一層深くなった。
 それから、その表情がゆるやかに解けて、閉じかけられいた目が僅かに大きく見開かれる。薄明かりの染み通った夜明け前の夜空色の瞳が彼を見つめる。触れることも躊躇われる無垢な肌は、白む空からの曙光に溶けて輝く。
 近づいている、それが、目に見えるようで。
 彼はシーツに両手をつき、姉の顔を見つめる。手に触れても心に触れられない、声でしか胸中を交わし合えない自分がもどかしい。
 もっと、伝えたいことも、教えてもらいたいことだって、いくらでもあるのに。
「待って……よ、姉ちゃん、待って、まだ、僕はッ!!」
 血の気のない少女の手が彼の頬に添えられる。温もりが失われようとしているはずの彼女の手は、細い指の一本ずつから熱を染み込んでくる。熱く、温かく、それに名前なんてつけられそうもなくて彼は言葉を失う。
 もう何年も流したことなんてなかったのに、目に熱が集って瞼が滴を溜め込み、抑えていられなくなる。頬を伝い流れ落ちていった奇蹟はほんの一時の温もりを残し、冷えていってしまう。
 見つめる彼女の双眸を、彼は躍起になって涙を拭い、歪みを取り去って見入った。
 泣き笑う彼女は彼を笑わそうと首をかしげて微笑みかけ、光の中に煌めきが飛び散る。
「頑張れよ。一番強くて、誰よりも優しい、わたしの大切な弟……!!」
 掠れ気味の声はかつて耳にしたどんな響きよりも全身を震わせる。目も喉も溢れる感情のままに、こみ上げるものを吐き出す。
「ねぇ……ちゃん……っ!」
「……うん。それじゃあ、おやすみ……」
 彼は人が逝くときの、安らかに弛んでいく表情を、そのとき初めて目にした。

エピローグ

 それから数週間、彼は人の悲しみがどれだけの涙を流しても尽き果てないものなのだということを学んだ。
 姉を看取った朝、看護婦が泣き疲れて昏睡した姿の彼を発見した。駆けつけた父と母は当然姉の死に泣き崩れて、父親はそれからしばらく口もまともに利けなくなった。
 母と彼で各種の手続きは済ませたものの、通夜や葬式で彼女の死に顔を目にする度に彼は涙した。時折、不意に彼女の今際の言葉を思い出して、しばらく立ち上がれなくなることもあった。
 それでも時間は無情に流れて、受験は着実に迫ってくる。何もしないと姉の顔が浮かんだ彼は、手持ち無沙汰な時間の全てを勉強に費やした。すぐに結果に表れるはずもなかったが、本番の直前になって急激な成績の上昇に繋がった。そうした日々の終着点として志望校には受かったものの、とても素直に喜ぶ気分にはなれなかった。
 あの五日間の中で生まれた、唯一形のある瞳との関係は徐々に深まった。姉を喪った者同士、二人の間でしか理解し合えない苦しみがあって、受験中には何度も励ましの言葉を貰った。一年が経過して瞳が受験を迎える今年は、彼の側から助言のメールを送っている。
 そんな瞳との遣り取りの中で彼は、あのアパートが取り壊されるという話も聞いた。
 時が少しずつ世界を押し流し、幾多もの人を呑み込んだ感傷ですら過去の彼方へ追いやられていく。
 やがて訪れた一周忌。
 心の洗われる高らかな青空の下、始まったばかりの夏は蝉の鳴き声がうるさかった。
 まだ真新しい墓石の元まで歩いてきた彼は、背負っていた荷物をおろす。黒いリュックサックは熱を帯びて、触れた皮膚が灼けるような錯覚を引き起こす。ファスナーを開いて、小さめのアイスボックスを引っ張り出した。そこからドライアイスの詰まったビニール袋をつまみ上げる。
「……うわ、冷たっ!」
 ドライアイスに触れないよう、四苦八苦しながら袋の中身を墓石の脇の玉砂利にぶちまける。いずれ昇華するドライアイスは放置し、そこ紛れているアイスのカップを拾い上げた。
 数は二つ。中身はもちろん、
「かき氷だよ、姉ちゃん」
 ちなみに味は宇治抹茶である。小豆金時は見つからなかった。
 二つ取り出した使い捨てのスプーンの片方を、紙の袋から引き抜いて、
「はい、これ」
 蓋を開けたカップと共に墓前に据える。それから自分も墓石の前に座り込み、カップとスプーンを開封した。
 深緑のかき氷をスプーンでつついて、固さを確かめる。凍っていて、安っぽい木のスプーンでは太刀打ちできない。溶けるまで待つしかないようだった。
 けれどそれもまた都合がよいと彼は思って、空を見上げる。
「姉ちゃん。受験はきつかったけど、大学も楽じゃないよ」
 受験が終わり油断していた彼を襲った、散々な成績を思い出しながら呟く。
「大学に入ったら、もっと遊びほうけられるんだって思ってたのに」
 下らない愚痴だったけれども、姉に語りかけられるのならば話題は何でも良かった。
「その割には、暇な時間も多いんだよなぁ……」
 けれど今は暇な時間になると姉のことを思い出して、鬱ぎ込む回数も減った。単純に自堕落な時間が増えた、とも言い換えられる。
 気兼ねなく喜んで良いことなのか、この頃の悩み事だった。
「それから、瞳……幸さんの妹さんは数学が苦手なんだって。僕と同じことを言ってるよ」
 僕が駄目なのは数学だけじゃなかったけど、だなんて冗談めかして言えるのも、受験が終わってしまったからである。去年の今頃はその一つ一つに悩み、苦しんでいた。
「あの子は立派だよ。特別な理由がなくても勉強できるんだから」
 姉の記憶から逃げ出したくて勉強に苦心していた日々を思い出す。楽しければ楽しい思い出ほど、頭の中に蘇れば辛い思いをした。
「あぁ、でも普段は真面目そうなのに、突然冗談を言ったりするんだけどね」
 彼と瞳は互いの時間の都合を合わせて、月に一回か二回、顔を合わせていた。そうして二人で食事をしていたりすると飛び出す瞳の冗談は彼が想定する範囲の斜め上を突き抜けて、微妙に会話が滞る。
「たぶん、普段からストレスが溜まってるんだろうね。姉ちゃんはそっちで、幸さんと仲良くやってるのかな?」
 訊ねかけながら、墓石の方を見やる。
 光沢のある大理石、その麓に置かれたカップが目についたのだが、
「あれ?」
 自分の目が信じられなくなった。
 彼は慌てて身を乗り出し、カップの中を覗き込もうとして膝に冷たい感触が広がる。見ると傾いた自分のカップから、液体がこぼれていた。
「溶けてる! というか、冷たい!」
 やむを得ずに姿勢を戻して、自分のカップの中身をすすり上げる。風味のある砂糖水に成り下がったかき氷は、生ぬるくて粘つくようにさえ感じてしまう。
「……あぁ、もう」
 意を決して、スプーンで残りを掻き込んだ。それから改めて、供えたカップの中を覗く。
「……やっぱり、ない」
 先の濡れたスプーンが入っているのみである。周りには盗み食いをしたと思しき人影もない。
「で、出たぁ! ……のかな?」
 今更、この程度のことが起きたくらいでは彼も失笑するしかない。
「姉ちゃん、食べるの早いよ……」
 こみ上げてくる笑みを堪えたりはしないで、墓石に刻まれた姉の名前を見つめる。
 遙か遠くを意味する漢字二文字。
「すぐそこにいるじゃないか」
 それから一息ついて、立ち上がった彼は尻を払った。急に動いたためなのか、じわりと全身に汗が滲む。かき氷のカップやスプーンをビニール袋に回収して、アイスボックス諸共リュックサックに詰め込んだ。
 最後に荷物を背負って墓石に背を向けた。
「それじゃあ、また今度来るよ。それまでまたしばらく、おやすみ、姉ちゃん」
 振り返ることはしない。けれど慌てず、のんびりとした歩調で彼は立ち去っていく。
 そこにいた少女はもう、誰の目にも映らない。だけど彼女は精一杯の笑顔で彼を見送った。
                                     (終)

彼は誰時に

 人生の何もかもが疲れたような友人宛てに書いた小説です。かなり長々と書いてしまいましたが、読んでいただけると筆者が大変に喜びます。

彼は誰時に

「これから一日に一つずつ、あなたの五感を奪う。その全てが乗っ取られた時、その体はわたしのものとなるわ」 鬱屈な日常に押し潰されようとしていた主人公の前に彼女は現れた。与えられた猶予は五日間。彼女の名前を探す中で、彼は自他の『生』に向き合う。 若干のホラー要素はないこともありません。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-11-01

Copyrighted
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Copyrighted
  1. プロローグ
  2. 一日目
  3. 二日目
  4. 三日目
  5. 四日目
  6. 五日目
  7. 彼は誰時に
  8. エピローグ