蟻と雲

 初めて蟻を踏んだのは、そうですね・・・・・・。きっと私が歩けるようになって、母に靴を履かせてもらって、外に出てはしゃいでいたときにはもう踏んでいたかもしれません。蟻を踏む感覚なんて、当たり前のことですがないでしょう? 子どものときなんて下を向いて歩かないじゃないですか。前だけを見て、純粋で無垢で。足下で命が失われていくことなんて考えません。だから明確には覚えていませんよ。逆に覚えている方がいらっしゃるのならお会いしたいものです。ええ、もちろん少し大きくなってからなら、蟻が私の足下にいることを確認したことはあります。しかし、その蟻が私に踏まれて死んでいく様子は見たことも、気にしたこともありませんでしたね。
 先生は気にしたことがあるのでしょうか。もし気にしているのなら、それは先生の中のサディスティックな部分の表れなのですか? なぜって、蟻が自分に踏まれて死んでいく姿を見ようとしているということではないのですか? あら。これは失礼いたしました。ただ、先生には慈悲の心があるだけでしたか。・・・・・・ごめんなさい。なんだか意地悪な言い方をしてしまいましたね。分かっていますよ。今のは私が悪いです。
 そんな小さな存在にも気を遣う先生が私は好きですよ。ただ、そうして足下の蟻ばかりを見て、目の前の想いに気付いてくれないところは嫌いです。
 ふふっ。ちょっとだけ私の話を聞いていただけないでしょうか。先生、私は今まで誰にとってもまるで蟻のようでした。相手が気付かないうちに踏んでいて、私一人だけが激しい恨みを持つ。相手はたとえ踏んだかもしれないと思っても、見返りもしない。「蟻」が相手ならそんなことが日常なのも納得です。私は蟻にはもうなりたくなかった。なのに、今すごく先生の足下を彷徨う蟻になりたいと思ってしまっているのです。
 なぜそんなに首を振るのです? 先生は、蟻を踏まないのでしょう? それともやっぱり気付いたときには命を奪っているのですか? ああ、蟻は私に相応しくないとおっしゃるのですね。それはどのような点においてでしょうか。・・・・・・・いけない。また悪い癖が出てしまいました。今は楽しい食事の時間であるのに、先生と話しているとどうしても生徒としての性格をだしてしまいます。ええ、そりゃ気にしますよ。だって私が先生とこうして一緒にお食事をさせていただくことがもう非日常的でありますし、私はなるべくこの時間では「先生」と「生徒」という関係を気にしたくないのです。先生を「先生」以外で呼ぶことはさすがにできませんが。
 すみません。話が逸れてしまいましたね。でも、私は蟻自体に悪いイメージは持っていませんよ。働き者ですし。先生。ねえ、先生? 私はあなたの足下の蟻よりも大きな存在になれますかね。あら、なんで笑うのです? ・・・・・・それは嘘ですよ。先生が私のことを想っているわけないでしょう。そんなの態度で分かります。なんです? 先生が、私の足下の蟻ですって? それはあり得ません。私は足下の蟻を踏んでしまいますもん。もう踏んでるって、先生はそんな冗談をおっしゃるのですか。もういいです。ごちそうさまでした。ちょっと散歩でもしましょうか。



 先生、蟻がいます。私も気が付きましたよ。先生も、当然気付きましたよね。踏まないでくださいよ。ええ、もちろん私だって踏みませんよ。これからは気を付けます。いいえ、違います。勘違いしないでください。先生は私にとって蟻ではありませんから、今のは先生と向き合うという意味ではありません。
 ごめんなさい。私は素直ではありませんね。本当はすごく嬉しいのです。でも、あなたは蟻ではありません。しいて言うなら、先生は、そうですね・・・・・・雲ですかね。遠く上にあって、到底届かない。でもそこに体を預けてみたくなる。見ていて心が安らいだり、時に騒いだり。ね? 先生にぴったりじゃないですか。
 雲に憧れる蟻。なんだか素敵じゃありません? いいのです。私は本当に先生にとっての蟻になりたいのですから。そうですね。確かに雲の方も蟻を想っているのって、なんだかおかしな話ですね。でもいいじゃないですか。なんだかとても素敵。そうだ。いいことを思いつきました。この話、小説にしましょう? 出来たら必ず先生に見せますよ。それは嫌です。厳しくはしないでください。評価の方はお手柔らかにお願いしますよ? ふふっ。大好きです、先生。では、また。 

蟻と雲

蟻と雲

小説家の卵である「私」と師である「先生」の会話。 先生の台詞は読み取ってみてください。

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-10-31

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