桃花物怪怪異奇譚 裸足童子とたぬきの姫君9

続きです。不思議ちゃんが頑張ります。

桃花物怪怪異奇譚 裸足童子とたぬきの姫君9

19
壁はすでに全面が黒く変色しており、ほぼ崩れ落ちていた。酷い臭気を放つ赤黒い汚泥が応接室に入り込めないのは、鹿王の放つ強い光が侵入を試みる汚泥の腕を撥ね返しているからに他ならない。
「阿狛、ようここまで持ち堪えた。もう少し頑張れるか」
「鹿王!」
壁際で一人、汚泥と戦っていた阿狛は、その豊かな黄金色の巻き毛が、黒く変色してしまっていた。
 鹿王はするりと滑るように壁際まで歩を進めると、阿狛の丸い頭にふわりと手を置く。すると、阿狛の巨躯が煌々と輝き、漲る力を持て余すかのように、阿狛が大きく身震いをした。その様は、まさに、水浴びをした後の犬の様だった。くるりと巻き上がった毛にこびりついていた黒い汚泥が、水のようにさらりとした透明の液体になって、飛び散った。
 その飛沫を浴びた鹿王は、飛沫の飛んだ着物の裾を不快そうに眺めた。
「ああ、濡れてしまった・・・」
鹿王は綺麗な眉を潜めて呟く。その間にも、居間を埋め尽くすほどに増殖した赤黒い汚泥が、生き物のように蠢きながら、土蔵の壁を越えて応接室への侵入を試みていた。金色の輝きを取り戻した阿狛が、炎に似た赤い息を吐いて撃退するも、いかんせん量が多すぎる。
ついに土蔵の壁が完全に崩れ落ちた。汚泥が狂喜したようにその動きを活発化させ、塊から延びる無数の腕がべちゃりべちゃりと醜悪な音を立ててついに応接室へ入ってきた。鹿王が着物の裾に気を捕らわれている分、放つ光が斑になっていた。光顕と桃井の喉の奥から、悲鳴にすらならない奇矯な音が漏れる。流石に鈴も青ざめ、そんな少女を勇気づけるように、彼女に寄り添った吽狛が低く威嚇のうなり声をあげた。
 しかし、鹿王は未だ、自分の衣に付着したわずかな汚れが気になるらしく、裾に目を落したまま、渋面を作っている。
「ああ、汚れてしまった・・・」
眼前に迫る危機を、意に介した様子もなく、珍しくご機嫌ななめのふくれっ面だった。
「バカっ、服くらい後でいくらでも買ってやるから、そこを離れろっ」
光顕が思わずそう叫ぶと鹿王は音がするほどの勢いで、光顕を振り返った。
「まことか、光顕。その言葉に二言はないな?」
瞳を輝かせる。
「ないない、ないから!早く逃げろ。死にたいのかっ」
「しかと。約束じゃ。しかし、私は逃げることはできぬ。逃げはせぬ」
鹿王は汚泥の本体と思われる最も赤黒く肉厚な部分に目を向けた。その塊は心臓のように規則的に脈打ち、まるで呼吸するかのように、所々から酷い臭気を伴う黒い噴煙をまき散らしている。
鹿王はそこに狙いを定めると、短く、強く息を吹きかけた。すると、あたりに満ちていた汚泥が、蒸発するようにじゅっという軽い音をたててみるみる消えていく。居間の床や壁を這うように伸びていたあまたの腕がもがくような無残な動きを見せて消え去っていく。最後には球根のような形をした歪な球形の本体らしきものだけが残った。居間は、最早見る影もなく、家具のすべてが何百年も放置され朽ち果てたかのように腐り落ちていた。
「榊、榊はどこや」
不意に桃井が声をあげた。そうだ、ここには榊が眠っていたはずだ。いないということはうまく逃げられたのだろうか。
「鹿王さん、鈴さん、ここに一人女学生がおったんです」
桃井が鈴の細い肩を掴む。本体を凝視する鈴の顔は、紙よりもなお白く、青ざめていた。
「・・・桃井さん。その女性というのは」
鈴が戸惑いながらも口を開く。
「若い人ですね。長い黒髪の、華奢な人。切れ長な目で・・・」
鈴はそこで一度言葉を切って、耳を澄ますように、目を細めた。
「オワダってなんでしょう。」
桃井は目を見開き、鈴を凝視した。
「小和田は、榊が、ここにいた女学生が付き合っていた男子学生ですが」
「その小和田さんは亡くなっているんですね。今回の件のせいですか」
「そんなことまでわかるんですか」
驚きの声を上げる桃井に、鈴の傍らを陣取っていた吽狛が、つぶれた鼻を呆れたように鳴らした。
「桃井、貴様にはあれが見えておらんのか。話にならんな」
「何の話です。何か見えるんですか。わかってるんなら教えてください」
「叔父さん、榊さん、あそこだ!ほら、あそこにいる!あの、球体の真ん中に」

20
震える声で、光顕は見えている光景を叔父に告げた。
桃井に告げられたのはそこまでだった。汚泥の球体には確かに榊の顔があった。しかも、それは球体から生えている。まるで球根に浮かび上がった人面祖のように、汚泥の一部をなしていた。
 光顕は吐き気を堪えるために幾度か生唾を飲み込まなくてはいけなかった。
 榊の顔には眼球がない。ただ黒い穴がぽっかりと開いており、その眼球のない目と口から絶えず、赤黒い汚泥を吐き出しながらか細い声で、オワダオワダオワダと繰り返していた。その声は、悲鳴のようでもあり、また呪詛のようにも聞こえた。
 鹿王はすっと手にしていた扇を榊の額の辺りに持っていった。
 「これ、そう泣くでない」
 「・・・しい、・・・しい。おわだおわだおわだ」
 「そう泣くでない。目が溶けてしまうぞ」
 いや、すでに眼球ごと溶けてるだろう
とは、さすがに光顕も口にできなかった。赤黒い肉色をした穴からごぽごぽと流れ出る汚泥は、確かに涙に見えなくもない。
 「おわだおわだおわだ、どうしてどうしてそうして」
 汚泥とともに吐き出される言葉は呪いのように禍々しい怨念と泥付いた妄執に塗れて、辺りに腐臭をまき散らしていた。
 「おい、光顕、お前にも見えてるんか。榊はどんな様子や」
 こんなにも生々しく眼前に広がっている光景が、桃井には見えていないようだ。 光顕は榊の様子を桃井に伝えることができなかった。
 「苦しい、苦しい」
 「そうかそうか。苦しいのじゃなあ。何がそんなにも苦しい?」
 鹿王は律儀に相槌を打ちながら、榊の訴えに耳を傾けている。
 「許せない、許せない、ゆるさないゆるさないゆるさないユルサナイ」
 不意に榊が憎悪に歪み、口から大量の黒い粘液を吐き出した。
 「あの人がいない。あの人を奪った。私から奪った。返して返して返して、返せ!!」
 金切り声とともに、その粘液が確かな攻撃の意思を持って鹿王に襲い掛かる。鹿王は流れるような動きで扇を開き、下から天井に向かって大きく振り仰いだ。長く垂れた袖がひらりと優雅に宙を舞う。すると、どす黒い粘液が強風に煽られたように飛び散り、散った端からキラキラと輝く金色の粉となって部屋中に舞い落ちた。

桃花物怪怪異奇譚 裸足童子とたぬきの姫君9

桃花物怪怪異奇譚 裸足童子とたぬきの姫君9

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • ホラー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-10-30

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