踊り子は藍色の夢から覚めた
一、赤角のフューリ
色とりどりの星屑が満天に散らばり瞬く夜空の真ん中で、月明かりのような澄んだ金色と陽だまりのような甘い蜜柑色の混じる艶めく髪を、鴉の濡れ羽のような闇色のビロードのリボンでゆるりと一つに束ねた誰かが、白金色に輝く三日月の縁にちょこんと腰掛け、星をむしゃむしゃと食べていました。
「ああ、なんて退屈」
少年は星の食べかすで汚れた口周りを、ヴァイオリンの弦のようにしなやかな指でそっと拭います。
「お月さんったら、今日も不細工な顔をしているね」
ふと少年の足下から、からからと笑う声がふわりと浮いて届きました。月と呼ばれた少年は気怠そうに声の主を見下ろします。
「やあ、赤角のフューリ。君はいつもいつも相も変わらずこんなくだらない夜の中楽しそうに笑っているね」
フューリと呼ばれた、血のように赤い二つの美しい角を持つ仔馬は、嬉しそうにヒヒンと嘶きました。
「だあって、お月さんが星をぼろぼろ零しながら食べているの、とってもおっかしいんだあ。おいしくないなら食べなきゃいいのにさ」
そう言って赤角のフューリはぱからぱからと足を踏みならしました。
月はそれを心底鬱陶しそうに眺め下ろし、頬杖をつきました。
「ねえねえお月さん。本当に、星を食べたら勇気が出るの?」
「そりゃあ僕は月で、これが星だからね。そういうものなのさ」
「ふうん。なんだかよくわからないなあ。お月さんったら、そんなにあの白鳥の娘さんに恋心を伝えたいの?」
「恋じゃないよ、馬鹿」
赤角のフューリの言葉に、月はかっと頬を染めて怒鳴りました。月はずうっと前から白鳥娘のオデットが大好きなのですが、未だに想いを伝えられずに悶々としているのです。赤角のフューリは不思議そうに首を傾げました。
「だってお月さん、あの子のこと愛してるんだっていってたじゃあないか」
「馬鹿。愛と恋は違うんだよ」
「どうちがうんだよう」
赤角のフューリは焦れたように鼻を鳴らします。
「恋は追いかけるものさ。愛は抱きしめるんだ」
「へえ。じゃあお月さんはあの子を抱きしめたの?」
「ああもう、本当に馬鹿。それがまだ出来てないから、こうして、星を食べてるんだよっ」
鼻の頭を真っ赤にしながら、月は星を食いちぎりました。
「まったく……自分の美貌にしか関心のないフューリのくせに、お前はどうしてそう僕に突っかかるかね」
「つっかかってなんかないやい。お月さんは自分の願い事は叶えられないくせに、他人の願い事は叶えられるってみんながうわさしてたんだよう。だからね、ぼくお月さんとちゃあんと仲良くしておこうと思って」
赤角のフューリはふるりと金色のしっぽを揺らしました。月は眉をひそめます。
「くせに、は余計だよ。大体、お前フューリの中でも一等美しい角を持っているじゃないか。それ以上何を望むって言うんだ。フューリってやつは、自分の角だけが大事じゃないか。お前、それ以上美しくなりたいわけでもないだろうに」
「もちろん。これ以上ぼくの角が赤くなってしまったら、他のフューリが絶望しちゃって自殺しちゃうんだよう。だからぼくは誰にも会わないようにね、ひっそりひそやかに月明かりの下で生きていくんだ」
赤角のフューリは無邪気さで覆い隠した仄暗い自尊心を染みのように滲ませて笑いました。
「はあ……ほんっとうに、お前達フューリってなんて奇妙な生き物だろうね」
月は呆れたように溜め息をつきます。
フューリは、世界から忘れ去られた生き物の一つです。元はユニコーンから生まれた異端者だとか、否々、心無い人間に片方の角を手折られてしまったフューリがユニコーンと呼ばれるようになったのだと伝える者もいるのでした。
けれども、フューリという種族は己のルーツがどうであろうとあまり気にしない性格なのでした。フューリ達は、自分の角が二本であるということだけをたいそう気に入っていました。ですから、彼らは星の上で他の生き物に――知性有る生き物に姿を見られることをひどく恐れたのです。
【僕達の角はあまりに美しく、立派だから、もしも角を手折られてしまったら生きていけない。僕達は誇りを失ってしまう。そうなるくらいなら、僕達は歴史から姿を消そう。誰の記憶も残らぬ、どの伝説にも伝わらぬ、幻さえ消えた存在無き者になろう。】
――そう言って、フューリは世界の果てへと逃げ出しました。神様が瞬きを始めるよりもずっとずっと昔のことです。やがて時は砂時計のように流れ降り積もり、彼らの存在を知る者は今や空を毎日律儀にぐるりと散歩する眩めく太陽と、退屈に辟易しながら星を食べるしかすることのない月くらいのものです。
実際に、フューリの角はまるで磨かれた宝石のような、見事な輝きを放つのでした。角の色も硬さも、個体によって大きく違うのです。特に美しいとされるのが、血のような紅――そう、月と話しているこのフューリの角のような――色なのでした。
フューリはとても馬鹿な生き物です。調子に乗って野を駆け、岩に激突しては角を折ってしまうことのなんと多いことか! そうすると彼らは、もう僕なんて生きている価値がないと嘆き悲しむのです。そうして谷底へと潔く身を投げてしまうのでした。それ程に、フューリにとっては角が全てであり、美であり、己の美しさこそが生きる意味なのでした。『美しくないのは苦しいよう』と嘆いてはらりと木の葉が舞い落ちるかのように自殺する――そんな生き物を、月は他に知りません。彼らの角の美しさも、その澄んだ金色の瞳もしんと冷えるように輝く金の鬣も、フューリの狂気に他ならないのです。
「もう少しおつむが良ければなあ。月の眷属にするんだが」
月は溜め息を零しました。月の漏らした息は白金色に輝いて、ちらちらと夜空の藍に溶けていきました。
「心外だなあ。ぼくは赤角だから、ほかのフューリよりもあたまはいいよ!」
「知っているよ。ただね、お前には心がないからね。それこそ恋だの愛だのに悩んでるような僕の手に余るんだ」
「こころ?」
赤角のフューリは首を傾げました。月光を浴びた鬣が、絹のように揺れて彼の背中から零れます。
「あっ、そうだぁ、こころといえば、あのね、あのねお月さん。ぼくは今日生まれて初めてあなたが昔言っていた『心が躍る』ということがわかったんだよ。心って本当に踊るんだね! ぼくびっくりだよ!」
赤角のフューリは白い鼻息を零して前足をぱからと挙げました。
「お前はそれの正しい意味をわかって言っているのかしら」
月は何度めになるかわからない夜の息を吐きますが赤角のフューリは頓着しません。
「あのね、あのね、今日の昼間に人間を見たんだよ! 踊っていたんだ。くるくると、楽しそうに、小枝みたいに細っこい体をくるくる花のように回してね、踊っていたんだ! それを見ていてぼくはとてもわくわくして、ぼくの心も踊ったんだ!」
「この森に人間が来たって?」
鼻息荒く目を輝かせる赤角のフューリを見つめながら、月は呟きました。
「お前達、人間を避けてここへ流れ着いたろう。脳みそまで腐ったかい? こうして僕と話している暇があったらさっさとお逃げ」
「だいじょうぶだよう! 他のフューリはね、一目散に逃げ出したの。でもぼくはお月さんに挨拶したくて残ったんだよう」
月は口元が緩みそうになるのを必死で堪えました。嬉しいと思ってしまった月は悪くないでしょう。けれど月は心をきゅっと閉じて赤角のフューリを冷えた目で見下ろしたのです。
「そうじゃないだろう? 小狡いお前が、ただ僕のためだけに残ったわけがないじゃないか。お前のことは赤ん坊だった頃からよく知っているんだ。どうせ自分のためだろう」
「ふふ。よくわかったねえ、さすがお月さん」
赤角のフューリは笑いました。どこまでも無邪気を粧って白い息を吐くのでした。
「あのねお月さん、ぼく、人間になりたいなあ。人間になって、あんな風に軽やかに踊りたいんだぁ。この体は美しいけれど、重たくっていけないや。せっかく人間の真似をしようとしたのにね、全然あんな風に踊れないんだよう。だからぼくは小枝のような人間に生まれ変わりたいんだ。どのみちぼくはフューリでは美しすぎてみんなが死んじゃう。だからぼくって爪弾きものだったでしょう? あんまり未練はないんだあ」
ふふふ、と赤角のフューリは笑います。
「その潔さが一体どこから来るのか不思議だね。馬鹿だからなのかな」
月は吐き捨てるように言いました。
「やだなあ、だからぼくは馬鹿じゃないやい」
赤角のフューリはつぶらな目をきらりと輝かせました。
「馬鹿だよ。僕だって……少しは、寂しい、のに、」
月は俯きます。
「わかったよ。じゃあお前の望みを叶えてあげよう。ただし物事は等価交換だ。人間になるためにお前は何を捨てる? 何を僕にくれる?」
「ええ、フューリの姿と引き換えじゃだめなの?」
「だめに決まってる。それは捨てたことにはならないんだよ、馬鹿。さあ、どうする。僕の願いを叶えるために——僕がオデットへ想いを伝えるための勇気の糧に、お前は何をくれるんだ」
「ええ、お月さんだったら何が欲しい?」
「そうだな、お前の見事な鬣を飾ってる、その忌々しい血の色、とか」
月の言葉に赤角のフューリはびくりと肩を震わせ鼻をぶるんと鳴らしました。
「ぼ、ぼくの……ぼくのこの赤角だけは、あげられない。例えぼく…が死んでも、それだけは。たとえお月さんにでも」
怯えたように、捨てられた子供のように震える赤角のフューリの姿に、月は血を吐くように息を零します。
「ほらね、それが紛れもない証拠さ。僕にでも、だなんてよく言えるよ」
月は小さく燃える青い炎のような心を持て余しました。そんな月の思いなんてわからない赤角のフューリは、素敵なことを思いついたとでもいうように興奮した様子でぱからぱからと前足で地を打ちました。
「そうだ、この四本足のどれかじゃだめ? 邪魔だしさあ。人間になった時、踊れさえすればぼくは嬉しいんだ。だから人間の足とこの赤角さえあればぼくは満足かなあ」
「言ったね」
月は笑いました。
「言ったね、そのお前の言葉、ゆめゆめ忘れるなよ。僕は言ったはずだ。愛ってのは愛する人を抱きしめることだってさ。それがどういうことかも知らないで、寄り添う心さえないままに、人間なんかに――【愛】そのものに生まれ変わりたい? それなのに腕なんかいらないだって。笑わせるね。せいぜい後で泣くがいい。僕はお前を見捨てるよ」
月の言葉の意味に赤角のフューリは小首を傾げます。金色の睫毛が瞬きと共にぱちぱちと揺れました。月は顔を覆って手のひらの中に白金色の息を集めました。そうして集まった月の光の粒を、ぱらぱらぽろぽろと赤角のフューリにふりかけたのです。赤角のフューリは、それをまるで月夜に舞う白蛾の羽粉のようだと思いながら、光の粉の向こう側で俯く月の斑色の前髪を見つめていました。
やがてふんわりと輝く光の繭が赤角のフューリをすっかり包んでしまいました。月は目を伏せたまま息を詰めて夜明けを待ちました。次第に空はラベンダーの花粉が舞うように紫色を滲ませていき、鳥達が清かに囀りを山に反響させた頃、月の零した溜息を合図に繭ははらはらほろりと解けていきます。絹のような光の糸は解けるごとに星屑のような瞬く粒となって夜明けの風に溶けていきました。そうして現れたのは、美しい黄金色の長い髪をふさふさと揺らす、腕のない華奢な人間の少年でした。
二、少年とお嬢さん
少年は金の蹄の残る細くて長い柳のような人間の肌色の両足を不思議そうに見つめてぷらぷらと揺らしました。黄金色の長いまつげの奥で、目覚めの太陽の吐息のような金色の瞳が無垢に揺れます。少年の両のこめかみには、宝石のように固く美しい見事な角が朝の光を浴びて誇らしげにきらりと輝きを放つのでした。
「あれえ? お月さん、蹄が残っているぢゃあないか。こんなの人間の足じゃあないやい」
「両腕がないと、人間の体はバランスが取り辛いだろうからね。それは僕の思いやりだよお馬鹿さん。それだとうまく走れるだろう?」
少年の漏らした不服そうな拗ねた声に、月は反響する声だけで答えました。朝が訪れた空で、月は形を保ってはいられないのです。
「なんだあ、そっか。すごいや、ぼくって人間になっても美人だなあ」
「腕はないけどね」
「今ならうんと軽やかに踊れそうな気がするよ! 試してみてもいいかい、お月さん」
少年は顔を輝かせ、うずうずとしたように足をかつかつと踏み鳴らしました。
「どうぞ、行っておいで。広い世界を見ておいで」
月の弱々しい反響音が途切れてしまう前に、少年は待ちきれず走り出していました。少年には月の寂しげな別れの言葉も耳に届きませんでした。花の香りをまとった風を前進に感じながら少年はひたすら森を湖の畔を川辺を花畑を雪野原を荒地を駆け抜けました。なんと体の軽いことでしょう! 少年はからからと心から幸せいっぱいに笑いました。人間の喉のなんと不思議なことでしょうか。どれだけ大きな声で笑っても、体は震えることなく弓のようにしなやかです。ふと、少年は、不思議な色の街並みを見つけました。くすんだ赤茶の街並みは、少年がフューリであった頃何度も踏みしめた瑞々しい土のようでした。少年は急に泣きたい心地になって、立ち止まろうとしました。ところが勢いのついた体は、足は、なかなか思うように止まってくれません。
「あれっ。困ったよう。お月さん、困ったよう。これどうやって止めればいいのお」
少年は半べそで月を呼びましたが、その声を耳にとめた太陽は不思議そうに首を傾げ、再び散歩を続けただけでした。
ようやく足の回転が目減りした頃、少年はよろけるように林の中へ入って行きました。眼前に大きな湖が見えます。少年は青ざめました。このままだと少年は、湖の底に沈んでしまうかもしれません。少年は必死で止まろうとしました。がむしゃらにあたりの岩や木々や切株を蹴飛ばしました。不意に、「いたい」と小さな声が聞こえ、少年は振り返ろうと首を反らしたところでバランスを崩し、背中からどさりと菫の咲く湿った地面に倒れました。影絵のような梢の先に、覚めるような青空が広がっています。少年は小さな声の主が気になって、身体を起こそうとしました。
「あらっ。どうしよう。体の起こし方がわからないよう」
少年は細い足をじたばたと動かしましたが、どうすることもできません。案外泣き虫な少年は、すんすんとべそをかきはじめました。すると寝そべる少年の頭の向こう側で、かさりと草を踏む音が聞こえました。
「あなた、腕がないのね。お腹に力を入れたらいいわ」
小鳥が囀るようなその声を、少年はとても心地よいと思いました。
「おなかに力を入れるだなんて、どうやるのさ。わからないよ」
「こうするの」
声の主は――女の子でした。少年はなぜだかとてもどきりとしました。体が仔馬が嘶くように震えました。
その少女は亜麻色の長い髪を一つの三つ編みに束ねて右の肩に垂らし、毛先で作った輪っかを銀色のサテンのリボンで結び止めていました。前髪は斜めに編み込まれ、左の眼をすっぽり覆い隠しています。湖の水面を思わせるような優しい水色の眼がとても印象的で、左の眼も見せてくれたらいいのに、と少年は勿体無く感じました。彼女の薔薇色の小さな口はきゅっと閉じられていました。眼差しはとても穏やかで優しそうなのに、顔の表情がまるで蝋人形のようにわずかも動かないのです。少年は彼女を不思議そうな目で見つめることしか出来ません。
少女は少年の隣にごろんと寝そべると、胸の前で両腕を組みました。その腕は雪のように白く柔らかで、少年はまたびくりと肩を震わせました。一体僕はどうしてしまったのかしら。とっても心の臓が痛いんだ。少女は倒した上体をもぞもぞと小さく左右に揺らしながら、腕を使うことなくどうにかこうにかたどたどしく体を起こしました。おなかの筋肉があまり強くないのかもしれません。起き上がった彼女は額にじわりと汗を浮かべていました。やはりまったく笑ってくれないのでした。よほど、あの皮肉屋の月の方が笑っていたようにも思います。
「ね? こうすれば起き上がれるわ。やってみて」
少女の声は本当に、泣きたくなる程に優しかったのです。少年はまだ人間のことなんてこれっぽっちも知りませんでしたが、この女の子はきっと心が優しい人だろうと思いました。きっと、自分がフューリの姿であったとしても、この女の子とは友達になれた気がしました。
少女を真似して、少年はもぞもぞと体を揺らしました。その間、少女は絶対に手伝ってくれはしませんでした。少年はそのことにちょっぴり拗ねたのですが、腕はいらないと月に言ったのは自分です。これから何度も転んでしまうかもしれません。その度に誰かの助けを待っているようでは日が暮れてしまいます。馬だって、もし転んでも誰も助けてはくれないのです。それは意地悪だからじゃあありません。ようやっと体を起こした頃、少年は少女にとても感謝していました。彼女がここにいてくれなかったら、きっと自分はずっと起き上がることなんて出来なかったでしょう。そしてふと、自分が転んでしまったきっかけを思い出したのです。
「あっ、そうだ。さっき痛いって誰かが言っていたんだけど、それって——」
少年は少女を振り返って、それ以上先の言葉を紡ぐことが出来ませんでした。彼女のこめかみの辺りから赤いものが滲んで、雫となって零れていました。赤い角は美しさの象徴。それは、赤が血の色だからです。血の色は生と死を思い起こさせる色なのです。美しさは常に死と隣り合わせでした。少年はあの雫を何度も見てきました。崖に身を投げた同胞達を染め上げた色。角の折れた同胞達の流した涙の色。
——僕がこの子を蹴ったんだ。
少年は少女を見つめることしか出来ませんでした。孤独と高慢に生きて来た少年は、謝り方さえ知りませんでした。おろおろと、怯えたように少女を窺うことしか出来ないのでした。けれど少女は小首を傾げただけで、何も言いません。笑顔のないその顔が少年の罪を責め苛んでいるように、少年の目には見えました。
「あなた、腕もないけれど、足もまるでお馬さんのようね。角もあるのね」
少女は静かに言いました。
「そ、そうだよう。ぼくはね、フューリだったんだ! 踊りたくて、人間になったの!」
少年は水を得た魚のように大きな声を上げました。
「フューリ?」
「あっ、そうか、だあれも知らないか」
少年ははたと気づいて肩をすくめました。そして少女にフューリのこと、自分の角のこと、お月さんのこと、人間になったこと、走って来たこと、止まり方がわからなかったこと、全て話しました。
「あのね、あのね……悪気はなかったんだよう。君を蹴るつもりはなかったんだ。あのね、もし君がいるって知ってたら、君を蹴って立ち止まるくらいなら、僕は湖に飛び込んだよ。ほんとだよ」
「それはもういいわ」
少女は遮るように、静かに言って、血を手の甲で拭いました。
「あなた、お名前は?」
「名前?」
少年は首をこてりと傾げました。
「ぼくは赤角のフューリだよ! みんなそう呼んでいるよ!」
「それは種族の名前でしょう? そうじゃないわ。あなただけの名前は……ないのね」
「ううん?」
少年は訳が分からなくて、薄い金の眉をひそめました。
「名もない人、よく聞いて。あなたは故郷へ帰るの。いい? ここでわたしに出会ったことは忘れて、一目散に走っていって。誰にも会わないように、誰にも見つからないように。絶対よ。お願い、約束してね」
「いやだよう。せっかくあなたと会えたのに、もっとお話ししたいんだよう」
「だめ。言うことを聞いて」
少女は焦りを滲ませて強く言いました。
「あのね、あまり言いたくはないのだけれど、あなたにとっては宝物であるその赤角も、綺麗な金の蹄も、腕がないことだって、人間にとっては珍しいもの以外の何でもないの。そうしてね、フューリとは違って、あなたのお月様とも違って、人間は珍しいものを見せ物にするの。見せ物にされて、いつか死んでしまうでしょう。だからね、お願い。悲しいことを知りたくなかったら、どうかここから逃げ出して。ここはあなたがいる場所じゃないの。さあ、あなたの優しいお友達のところへ帰ってちょうだい」
「いやだよう。悲しいことってなんだよう。ぼくは今まで悲しくなったことなんてないんだよう。だから悲しい気持ちを知りたいの」
「ああ」
少女は顔を掌で覆いました。
「なんて聞き分けのない仔馬なんでしょう」
「ねえねえ、ぼくの踊りを見てよう。ぼく、練習したんだよ? あなたは可愛らしいから、あなたになら見せてもいいよう」
「わたしは可愛くなんかないわ」
少女は静かに言いました。
「笑えない人形が、可愛いはずがないの」
「そんなことないよう」
「ええ、そうね。みんなそう言うわ。わたしのことを、可愛いと言うの。愛らしいお人形さんだって。でも、わたしは、そう言われるのが、つらい」
少女の表情はぴくりとも動きません。それなのにその声色には、諦めと深い哀しみが滲んでいました。少年はごくりの喉を鳴らして、震える声で呟きました。
「どうしてそんなに、ぼくに逃げてほしいの? ぼくと一緒にいるのは……いやなの?」
少年はそう尋ねてみて初めて、答えを聞くことがとても怖いと思いました。少女は眉一つ動かすことなく静かに答えます。
「あなたのためよ」
「ぼくはあなたに踊りを見てほしいんだい。せめて一回りだけでも見てちょうだい」
「いいえ、そんな暇はないの。いいから、逃げて……お願い」
「いやだい、いやだい!」
「ああ……ほんとうに子供だわ。あなたのその角がいつか折られてしまってもいいの!」
少女は声を張り上げました。その蝋のような顔には怒りさえも浮かびません。
少年は口ごもりました。
少年は戸惑っていました。自分は今なんと言おうとしたでしょう? 角なんてどうでもいいやい、あなたにぼくの練習した踊りを見てほしいんだい、そのために人間になったのに——だなんて。
あれだけ大事だと思ったこの赤角を、折られても構わないかもしれないだなんて、そんなことを一寸考えかけたのでした。けれどそれはほんの星の瞬き程の一瞬でした。少年にとっては、やはり自分の命より大切な角が折られてしまうかもしれないことは、たいへんな恐怖でした。ああ、そう言えばフューリの祖は、角を折られたくなくて人間の目に届かない地に逃げ延びたと言うのに。
「い、いつか」
少年は震える声で言いました。
「いつか、踊りを見てくれる? そうしたらぼくは、めいっぱい練習するよ。お月さんの側でたくさん練習するよ。だからいつか、見てくれる?」
「わたしがその時まで生きていたなら」
少女は優しい眼差しで言いました。それがとても悲しくて、少年はすんすんと鼻を鳴らして泣きました。
「どうしてそんな悲しいことを言うんだよう!」
「さあ、はやく逃げて。見つからないうちに……」
「いやだよう! ちゃんとまともな約束をしてよう! せっかく会えたのに! せっかくぼくたち会えたのに!」
「ああ……」
少女は再び頭を振って顔を覆いました。少年は、少女の背後から聞こえる、草を乱暴に踏み荒らす足音に気づきませんでした。
「アンタークチカァ!!」
野太く低い声が木々の隙間を縫って響き渡ります。少年はびくりと肩を震わせ、恐ろしくてぱからぱからと両足を踏みならしました。
「アンタークチカァ!! 戻ってこい!!」
「今戻るわ!」
少女は叫びました。少女は目で、少年に逃げてと訴えましたが、怯えた少年には少女の哀しみを読み取ることなんてできませんでした。
少女の声を聞きつけて、のしのしと音をたて、少年や少女の五倍はあるかというような、背の高い屈強な浅黒い肌の男が姿を見せました。銀色の髪を短く切りそろえ露になった頬や額には、痛々しい傷痕がありました。
「アンタークチカ……こんなところにいたか。まったくお前さんはいくら言っても放浪癖が直らない……おや」
アンタークチカと呼ばれた少女は顔を覆うばかりでした。男は少年をまじまじと見つめて、にやりと笑いました。
「お前さんの放浪癖も捨てたもんじゃねえなあ、アンタークチカ。こいつぁ上物だ」
「角だけは折らないで!」
少年はぶるぶると震えながら叫びました。男は値踏みするように少年を頭から蹄まで眺め、顎の髭をじょりじょりと掻きました。
「ふむ。そいつぁお前さん次第だなあ。ついて来な」
「いやだい! 角を折るならついてかないよ!」
「がっはっは」
男は豪快に笑いました。木々の枝の先に止まっていた小鳥達が、驚いて一斉に羽ばたきます。
「これはなかなか気概のいい兄ちゃんだ。わかったわかった、角は折らねえよ。だがこんなところで立ち話もなんだ、どうだ? 腹はすいてないか?」
「おなかは……すいてるよ」
少年の小さなお腹がきゅう、と鳴きます。
男は吹き出しました。少年はじいっと男の濃い青の瞳を見つめました。顔は恐いけれど、眼差しはどこか優しそうにも思えました。アンタークチカは一言も喋りませんでした。男の背を追って着いていく道中、少年はアンタークチカの顔を何度も覗き込みましたが、彼女はただ悲しそうな眼差しで人形のように俯くだけで、一言も話してはくれなかったのです。
踊り子は藍色の夢から覚めた