岩波廃人文庫 第1幕「試験前夜祭」

1章は中身あまりありませんがお許しを…気長について来て頂けると幸いです。

1、
「問題は切るか切られるか」

そう誰につぶやくでもなく、腹の中で何度も呪文のように唱えていた
高校1年生、二橋カケルは「今何か言った?」と鏡の中で自分の後ろに立つ背の高い女に言われたとき、
びっくりしてくしゃみが出た。ついに知らず知らず言葉が実際に漏れてしまったわけだ。
「何でもないです!」
正面を向いたままカケルは言った。
いましがた飛び出した鼻水が鏡に映る自分の
顎のあたりまでべちょっとついているのがわかった。
今わざわざ後ろに振り向いて女に「何でもないです」という
必要はないのだ。
なぜならここは美容室の一席で、正面の鏡を首を動かさずに
見ていればこそ、同じ鏡の中の美容師のお姉さまと自動的に目が合った。
「鼻水ついちゃってるよ」
どこからか取り出したティッシュでさっと顔を拭いてくれた。
保湿性のちょっと‘いい”ティッシュだった。
「すいません」
「ふふふ」
お姉さまは大人の微笑みで返した。その次に、カケルの左右両方のもみ上げを指でつまんで
軽く下に引っ張り、切っている途中の髪の
全体のバランスを見ているのかカケルの両方の頬に手の平を当てた。
「あっ」
カケルはまたも思わず声を漏らしてしまった。今度こそ聞こえてなければいいと思ったが、
そんな冷静な判断もできなくなりそうな程、彼女のやわらかい手の平の感触に頭がぼんやりした。
美容室の名前が「ヘヴン」というのに今何となく納得がいった。
「もうちょっと横を軽くしてから、、、ぶつぶつぶつ」
天使のような声(案外低い)が何か説明して言っているが、髪がどんな風に切られるか
はこの際もうどうでもよかった。「はい」とか「わかりました」とかぼんやりと
3歳の子どものように答えた。
もう完全に彼女のペースなのだ。チョキチョキ切った髪を落とす度に頭を撫でられてる気がした。
(犬っぽくキツい顔、、、かわいい、、、絶対にS、、、低い声、、、かわいい、、、
自立心、、、おれはマザコン、、、告白、、、好きです、、、)
そんな言葉が頭に浮かんでは消えまた浮かんだ。

と、正面斜め向かいの席の方から何か飛んできて
カケルの鼻の穴に見事に入った。
消しゴムのかけらだった。
なんで美容室に消しゴム?
そしてこんなことをする大馬鹿野郎は一体どこのどいつだろうか。
ブツが飛来した方向を見ると、よく見知ったムスっとした女の顔があった。
紙巻だ。クラスメイトの紙巻千代だった。
紙巻の後ろにパーマ用の熱を出す大きいライトが当たっている。
暑いのか手に持っている本でおっさんのようにあおぎながら、
こちらを口をヘの字に閉じてにらんでいるのだった。
反射的にカケルの大脳は目を紙巻からそらし、今後赤の他人として
無視せよと促した。
カケルは困って何も興味の湧かない鏡のとりつけてある小さい机の上の
ファッション誌を適当に開いた。
とあるブランドの時計とスーツでキメている
紳士風のモデルの男が載っているページにたまたま当たったが、
父親の顔にそっくりじゃないかと思った。
自分もこのくらい美男子(イケメン)だったらよかったのに
と思った瞬間、ばさっと今切られた髪が大量に降ってきて
写真の父はその下に隠れた。
と、机の上に置いてある携帯がガタガタ鳴り出して、
いつも以上に激しく動いている心臓が急停止するかと思ったが、
思わずすぐに携帯を手につかんだ。
「だいじょうぶだった?」
切ろうとしているところを急にカケルが前に動いたので、
お姉さまが言った。鏡ごしに強く優しい目線でこっちを見ている
「はい」
「よしっ!」
お姉さまはまた髪を切り始めた。
何となくお姉さまに見られぬよう(たぶん髪を切っている最中の彼女に見られる心配はなかったが)
カケルの時代遅れなガラケーを半分だけ開くと、
一件のメールを「ウザイ」から受信したことがわかった。
ウザイとは紙巻のことである。
最初は「紙巻千代」と登録し、
いつか本人の手で強引に「ちよ(ハート)」に上書きされ、
またしばらくして自分で「ウザイ」という名前に登録し直した。
その理由はまぁこういうことであった、、、
「件名:oi-kora
本文:でれでれするな!少なくとも私の目の前ではそういうのはやめてチョウダイまし!!
これでもまだあたしの気持ちはアンタに伝わってないというのかしら??あたしの熱視線はパーマの機械に
だって負けな、、、」
カケルは途中で携帯を閉じた。
なんでそもそもやつが自分と同じ時間に美容室にきているのか。
「斜め前の子おともだち?」
お姉さまが尋ねた。
「いいえ」
「ウソばっかり。おともだちなんでしょ?あの子さっきからこっちの方をよく見ていらっしゃるから」
「本当です。きっとお姉さんがキレイだから気になってるんですよ」
「またまた」
思わず出たセリフに我ながら驚いたが、たかが高校生ふぜいの言ったことを気にも留めていないようだった。
というか髪を切るのに真剣で会話は二の次といった感じ。職人的なとこも魅力だ。と、次起こることはわかっていたが、
手の中でまたも携帯が震えた。やりとりを聞いていた紙巻によるものだろう。
カケルはもう電源を切ることにした。
さっきより一回りサイズの大きい
消しゴムのかけらが頬をかすめたが気にも留めなかった。
「はい。長さどう?」
お姉さまが手鏡で見せる見慣れない自分の後頭部の形に嫌になる。
「あ、はい」
「うん。じゃあシャンプーしますねー」
椅子がくるりと左に45度回転し、
紙巻の席に向く。
やつはこっちをわざと見ないように決め込んでるいるのか、
本を両手にもってに集中していた。
表紙を見ると「かゆいとこだけ手が届くインターネット学IA」
と書いてある。学校の授業の参考書だった。
あ、そうだ。今試験前の準備期間だったのを思い出した。
学校は午前中だけ。おれもやらなきゃ!
何かをやらなきゃいけないと思うときは、
他人がやってるのを見て焦るときに限るという若くして怠けきったカケルであったが、
そうなるのもわかって欲しいという気持ちがあった。
というのも、カケルや紙巻が通う「枝葉学園」は親学校に当たる「大樹学園」
と同じカリキュラムを実践しており、試験科目は半期で52科目にも渡るのであった。
そのカリキュラムとは中国の科挙を現代風にアレンジして実践したもので、学力が低下し、
いくところまでいってしまった無気力で就労しようとしない者が増えた若者を、今一度引き締めようという
国策の一端を試験的に実践して組まれたものであった。
で、紙巻が今勉強している(ふりだけかもしれないが、、、)
「インターネット学IA」もその52科目のうちの一つである(一つに過ぎない、、、)
というわけである。
「インターネット学」なんかあったっけ?
とカケルは思ったが、まぁまだダンボール箱に入りっぱなしの教科書が半分以上
カケルの部屋にあるのだから無理もない。
「枝葉学園」では大学生のような自由が尊重されているので
授業も必ずしも出席しなくてもいいのだ。
というわけで、カケルはそうした高尚な自由に甘んじて自分が好きな
「心理学」系の授業と、日本人であるからには「国語」、それに
最低限話のできないようなアホにならんようにと「論理」系の授業だけ
に絞って受けていた。あとは特に具体的な作戦もないまま、何とかなるもんだと
漠然と考えていた。52科目なんかどんな超人にも不可能に決まっている。
真面目なガリ勉野郎でもよくて全部2、30点とかに落ち着くんじゃないか。
今シャンプーのために移動するとき横を通ったが(その際肘鉄を腰に喰らったが)、
紙巻は赤や青や緑で参考書に色とりどりに線を引いて大層熱心なことだった。
というか、どういう基準でその線を引いた部分が重要だと判断したのだろうか。
参考書であらかじめ太いフォントで書かれている語句に、さらに赤で線を引いて
目立たせる意味があるのか?
もう線を引きすぎて、色ペンを塗ってない箇所の方が、たとえば「しかし」とか
「次のページにいってみよう」とかどうでもいいプレーンな部分が逆に
目立っているじゃないか。所詮紙巻は紙巻なのだ。
だけど、プレーンが一番目立つという皮肉、、、モテるのはふつうのやつばかり
、、、白は光の色、、、そう今自分は真っ暗闇の中で、、、眠りをさそうシャワーの一定の音、、、
頭皮が受けるやわらかい指の感触、、、はやく目隠しをとってくれ、、、息ができな
「かゆいところはありませんか」
「ふぁい」
ちくしょー試験勉強うぜー!

2、
「いてて…」
「その傷どうしたんだ?けっこう腫れてるぞ熱もってるんじゃないか?」
石橋正太郎はその体格にふさわしく農作業にでもむきそうなぶ厚い手の平を
二橋カケルの額に当てた。夏の日中の暑さで彼の手がじとっと汗をかいていること
額を通じてわかる。その手の平から伝わるのは、普段ボクシングをはじめ何事にも熱心な
男の中の男の、仮に今自分に熱があったとして余計熱が出そうな暑苦しさで、、
「やめい。気持ち悪い」
「あぁすまんかった、、、」
「落ち込んだように手を引っ込めるなよ。気持ち悪い」
「それより大丈夫なのかい?傷になってるぞ」
「あぁ傷に汗が染みたよ。」
「あぁ悪い、、、どうしたんだい?試験勉強しながら歩いて電柱に頭ぶつけでもしたのかい?」
「まさか外で本なんか読みながら歩くかよ。まぁ家にいても読まんけど。」
「学校の周りじゃ最近よく見かけるよ。今は試験前だからね」
「そこまでしてやるもんなのか?」
「そこまでしないと追いつかないんだよ。なにせ52科目だからね。
僕だって部活中ランニングしながら読んでるくらいだ」
「だったらまず迷わず部活をやめるよ。俺なら」
「かけがえのない高校生活だからな。無駄にしたくないんだ。勉強だけで終わらせたくない。
そういった経験は就職活動でも役立つと父さんが言ってた」
「まぁ人それぞれだよな。石橋の父さんって新聞記者だっけ?」
「そうだよ。自慢じゃないけどね。あの人はあの人で言うことは間違ってないけど
なんか違うんだよな」
「なんか違うのか?」
「なんか違うんだよ」
「なんか違うのか!それが何かわからんけど違うのか!ははは」
二人の笑いが響いて、となりのぴりぴりした真面目そうな学生(おそらく「枝葉学園」の生徒)
に一にらみもらったので二人は笑うのを途中でやめた。邪魔が入らなければもっと笑い続けて
いられそうな昼下がりだったが、
ここは「枝葉学園」近くのショッピングモール内にある書店「スターブックス」である。
静かに聴けといわんばかりに強弱をつけてくる、もったいぶった演奏のピアノ曲(クラシック)が流れ
静粛であることが当たり前に要求された。演奏者のエゴが現れたいい例である。たしか自分も父がレコードを
かけてたので聞いたことのある天才作曲家モザクーベンビッヒの曲だが、
このホ短調(イ短調かもしれないが忘れた)
に切り替わる部分はこんなに止めただろうか?軽く15秒は止まっていた。15秒後溜めたように気持ちを込めた
アルペジオがはじまったが、また止めた。
そうしてまた一息も二息も置いて再び曲がはじまるのだった。
「カケル血が落ちてきたよ」
「あ、わかったから触ろうとするなよ!」
「あ、本の上に落ちた」
「げっ」
いまカケルが開いていた雑誌の声優のグラビアの微妙な部分の上に
血が滴り落ちた。
「責任をとって買おう。大してかわいくもないのに買うはめになるとは、、、
それもこれも紙巻のせいだ、、、」
「紙巻さんは美人だよ」
「何をぬかすんだ。石橋の感性を疑うよ」
「美人じゃなくてかわいい系か」
「洋菓子か和菓子かの問題じゃない。トルテでも羊かんでもない」
「羊かんのようって洋菓子の洋だっけか?」
「ひつじだよ。試験に出るかもしれないぞ。今はそんなことはどうでもいいんだ。
でこのこの傷もあいつにやられたもんでね。髪を切ってさっぱり美容室を出たばかりの
おれの額をねらって三角定規を投げてきたんだ。
ちょうど運悪く最も鋭利な30度の角がささってね」
「紙巻さんがそんなことするかな」
「親友の言うことを信用しろよ。石橋は見たことがないかもしれないけど
あいつはそういうことをするんだよ。もっともサクッとささったのを見て
『二橋、、、ごめん、私そ、そんなつもりじゃ、、、ま、まさか刺さっちゃうなんて
、、、思ってなかったし、、ほんとにご、ごめん、、、グスン。もう知らないもん!』
とか言いながら大泣きして走り去っていったよ」
「作り話じゃないかな。どうせドアとかにぶつかって」
「もういいよ石橋、、、お前は巨大な艦隊が一斉に砲手を向けても
考えの揺るがないような某英国元首みたいな鉄の女(おっとこの表現はお前にはとくに危ない!)
じゃなく鉄の男だ。感心するよ」
「ありがとう。それよりおでこに絆創膏でも貼ったら?」
「そうだな。今もってないから、そうだ薬局は下の階にあったはず。ショッピングモールは本当になんでも揃う!」
「金で買えるものなら」
「深そうで意味のない発言をするな」
「またあとで参考書見にこようよ」
「そだね」
そもそも試験準備期間に入った僕ら二人は書店に参考書を探しにきたのだった。
もっとも「枝葉学園」の近くの書店となると参考書の蔵書数も半端じゃなく
書店というかショッピングモール全体の売り上げの主軸を担っているため、
3F以上のフロア全てが書店で、そのうち9割が参考書コーナーだった。
というか参考書屋の中に一部息抜き用の本のコーナーがあった。
で、頑固なのに流されやすい石橋をいつの間にか誘導して、カケルが
さっきまでいたのは1割の息抜き用の本のコーナーであった。と言ってもけっこう長めの棚一列分しか
息抜き用の本「漫画」「写真集」「ゲーム攻略本」「pixivハウツー本」「料理の本」等は置かれておらず、
背中合わせで参考書用の棚が並んでいるので、
先ほどの学生ふぜいにもカケルたちが騒いでいるとにらまれたわけだ。
カケルは参考書用に、と親からもらった小遣い、
52教科あって一科目1000円かかると説明し、
42000円渡されたが、
それをこっそり漫画や写真集に使おうとしていた。
親も52教科分の教科書がカケルの部屋にある時点(ダンボール8箱分)
で実際に何の本が何冊カケルの部屋にあるのかなど把握しておらず、
漫画や写真集がその中に混じっていようと
わからんだろうというのがカケルの予想だった。
親などというのは子の(社会的に)前向きでまっとうな行為に
お金を助力して支払ってくれているようなもので
実際にどんなものに使われているかカケルのようなそこまで
お金に困っていない家庭では、それほど感心がないのだ。
ただ52教科でカケルの説明通りだと52000円いるところを
42000円しか渡さなかったのは、
私たちの時代にもあった科目(国語や世界史)の分は
私たちも教科書で十分だったからとあんたにも必要ないはず
と説明したが、
実際は何に使われるかわかったものでもないので
その辺の猜疑もあって10000円しぶったのかもしれなかった。
まぁ本当のところがどうなのかは
知っていようがいまいが、
42000円は高校生のカケルにとって大金だった。
賢い使い方をしなきゃいけないとカケルは自分に言い聞かせた。
ただ賢い使い方が世の中的に正しい使い方とは限らないのだ。
しかし、本に限って言えばカケルはエロ本には使うまいと
決めていた。なぜかカケルには女に媚びたくないという変な決意があり、
エロ本を買わないというのもその現われなのだ。
先ほどの声優のグラビアも話題にのぼっていたので
ちょっと気になっていただけで、立ち読みで済ませるつもりだった。
第一顔が好みではなく、声だけ聞いてれば空想の中で永遠に美人な存在なのに
といったタイプの声優だったのだ。しかし血が出て買うはめになった。
不幸なことに雑誌のくせに1200円もするもので、早速出費してしまった。

「まぁまぁ美人さんだと思うよ。その声優さん」
石橋がショッピングモール内の自販機前のベンチで豆乳を飲みながら言った。
「お前は飢えてるんだよ。飢えてたら紙でも食べたくなるんだ」
「そ、そんないやらしいことは考えてないよ、、、!二橋といっしょにするなよ」
真っ赤になった石橋が横で立ち上がった。立つとでかい、、、
それに加えいちいちリアクションもでかい男だ。
身振り手振りがまったくもって余計だ。
アメリカナイズドされ過ぎている。
警官に何かを一生懸命釈明するこんな黒人を昨日テレビでやってた映画の再放送で見たよ、、、
「あげようか?この本」
「血がついてなければもらうんだけどなぁ。けどお父さんにばれるとあれか、、、」
「親父さん厳しいんだな。で、真面目な石橋君はどんな参考書を買ったんだね?
それ1万円以上お買い上げの方だけもらえる店特製のトートバックじゃないか」
「あぁ。けっこう丈夫そうだからユニフォームいれてこれから学校にもってくのに使おうかなと思うんだ。」
「ボクシングってユニフォームあるのか?」
「あるっちゃあるさ」
「そうなのか」
「えっと、、、今日買った本は」
石橋が嬉しそうに参考書を取り出して誰もいないベンチに一冊ずつ並べだした。
「『京都に学ぶ交渉学入門』『舌がまわるフランス語』『負けないマンモス就職学』『ニコニコ経営学』
『エコ学で気持ちもすっきりリサイクル!』『かゆいとこだけ手が届くインターネット学IA』『かゆくないところこそ重要なインターネ

ット学IA』、、、」
「紙巻の読んでた本がある、、、人気なのか」
「あ、これ?京都人は本音をしゃべらないらしくて日常会話から建前で駆け引きの応酬だって言うからさ、そりゃあプロ中のプロみたいな
もんでプロに学ぶのが一番、、、」
「それじゃないよ、、、まぁいいや。ん、この分厚いのは何?」
「これは、、、えっと、あれ僕こんな本買ったかな?」
「表紙は真っさらでタイトルすら書いてない。」
「あっ!あれだよ二橋がこういうプレーン(真っ白)なのが
一番役立つんだよとか言って冗談でカートの中にいれたやつ!
あれ戻すの忘れて買っちゃったんだ」
「あっそうか!なんかそんなことあったようななかったような、、、
この本はおれがお金出すよ。
しかし何が書いてある本なんだろう、、、?」
カケルは本の表紙を開いてみた。石橋も横から本を覗き込んでいる。
表紙をめくると次のような文章ではじまった

『ようこそ!!我々はこの本を手にとった君のような人材を
求めていました。文字の形であるとは言え本当に長い時間をこのページで君を
待つために費やしたのですよ。待ちくたびれたという言葉がありますが、言葉が、文字が待ちくたびれたら
どうなるか?くたびれた字とはまさにこのことなんて言われませんように!
我々は誠心誠意を込めてまさに背筋を伸ばし、勇者を待ち受ける丘の上の太陽のごとく、、、』

閉じた、、、。
間違って買ったのだろう。あれからもう一回息抜き用の本のコーナーで
いろいろ漁ったのが間違いだった。
「ちょっと二橋捨てようとするなよ!それジュースの紙コップ用のゴミ箱だよ!
フタ開けなきゃ入らないよ!」
「フタ開けても本当は捨てちゃだめだけどな。でも今回は誰も見てないってことで
許しておくんなまし、、、」
「ちょっとまだ1頁目だよ。中の方見てみようよ。
役立つかもしれないよ!」
石橋の馬鹿力で止められ本を横取りされた。そこで石橋が適当にその分厚い本の
真ん中の方のページを開くと、
『、、、これを編集してるとき外では草木が芽生えはじめ、蝶が飛び交うとそこまで理想的な
風景とはいきゃあせんが、まぁそこのアンタ!これも何かの出会い。一期一会って言葉を知ってるかね?
今日会ったら最後明日は出会えないかもしんないよ?野に咲く一本一本の花だってよく見てみりゃあ
あんたの方さ顔向けてさー光合成だけのために生きとるってわけじゃないっちゅうこたぁみりゃあ一目瞭然でさぁ。
もしかしたら人間的な気持ちでアンタのこと近所の肉屋のおばさんの朝見送りの笑顔みたいにさぁ、、、
今日の出会いを大切にしてさぁ、、、』

まだ出会いについて書いてあった、、、
「石橋、もう215頁だがまだイントロダクションって感じがするが」
「この本は間違いなく間違いだ。二橋捨てよう」
「おう」
二人で本の片方の端をそれぞれ持って腕を上空に上げ、本を勢いよく
フタをとったゴミ箱の中に叩きつけようとした時だった
「すいませ~ん。ゴミ取り替えさせてもらいます。
あと一般ゴミは向こうにゴミ箱あるからそこにお願いしますね~」
やってきた清掃のおばさんに邪魔され捨てられなかった。
「ごめんなさい」
二人で素直に謝った。
仕方なく向こうのゴミ箱まで捨てにいこうとカケルが本を手に歩き始めたとき、
石橋が書店で受け取った長いレシートを手に言った。
「あ、この本参考書だ。ベンチの上に並べた本じゃないといったら
きっとこれ」
石橋が指差した行の一番下の本のタイトルを見ると
「『予言者への予言』なんだこれ?」
石橋がそのひときわ奇怪なタイトルに目を止めたまま言った。
「二橋この本4200円もするよ。あとでお金」
「高っ!、、、わかってるよ」

3、
夕刻。夕焼けが川辺を包み込む一日のうちのとても貴重で短い時間。
今日はきのうまでの雨から一転、一日中晴れ空だった。
こういった日は夕焼けが一際きれいなものだ。
西日が鉄橋の影を川の上に伸ばしている。
川のちょうど真ん中辺りの石が敷き詰めてある遊び場の上で
子供が今ずっこけた。
車の走る音にかき消されて聞こえないが、きっと近づけば
子供の泣き声が聞こえてくる。
ずっこけた子供の周りにいる他の2人子供だってつられて泣いているかもしれない。
そんなことに思いを馳せつつ、
川辺の斜めになった土手の上でさっきから膝を折りたたみ体育座りをしている紙巻千代は
またやり過ぎたという後悔というか反省というか自己嫌悪というか、
激情に駆られてしてしまった行動の後に、
ほとんど決まって必ずおそってくるそうした類の気持ちがドロドロに混ぜ合わさった
ミックスジュースの底のようなところにいた。

つまり、簡単に言って落ち込んでいた。
「(あーあ、ほんと何やってるんだろ私、、、こういう時は歌、歌よ。
誰かどんな曲でもいいの。心のこもった歌を聞いて癒されて、、、)」
と、夕焼けをバックに少しナルシスティックな心境の紙巻であったが、
なぜか落ち込むとどこかの王宮の閉じ込められたお姫様のような状況と自分を
重ね、他者の力によって救われていく過程を毎回決まって妄想した。
白馬の騎士よあらわれて!というやつである。
今回は気分で歌とか言っており、ハープをもったイケメン吟遊詩人の妖精さんでも
現れることを妄想したのだったが、実際に少しはなれから聞こえてきたのは、
ヘタクソな歌の弾き語りであった。しかもあろうことか90年代のグランジの曲で
激しくリフものかつテンポの速い曲をアコギでやっている。癒されるどころかそのまま川に飛び込んで
しまいたくなった。人をうらんだような暗い曲調のせいで余計に落ち込むし、
もっとも歌がヘタクソで聞く耳もたないということもその理由である。
どんな曲でもいいと言ったのを誰に表明するわけでもないが、心の内で訂正することにした。
「やぁ!こんにちは千代にゃん。夕方はこんばんはの一歩手前だからまだこんにちはだよ千代にゃん!」
出た。いつものうるさいやつがきて紙巻の横に座る。貝塚玉輝(かいづかたまき)。小学3年のときに紙巻の学校に
転校してきて以来高校まで同じという同級生の古なじみである。
「ねぇ挨拶は何でもいいから、あの曲止めてきてよ。お願いっ!(うるうる)」
「おーっと千代にゃんお得意の涙目うるうる攻撃がきても、幾多の戦闘を重ねて強くなった
この僕はそう簡単に動かされやしないぞぉ!というか千代にゃんだけは女子の中で唯一対等な僕の
味方でいてくれよ!(うるうる)わかったなーこのー子猫ちゃんめ!あ、猫ちゃんパーマ当てやがったなぁ」
貝塚が千代の髪の毛を指でつまんでぐりぐりやってみせた。
「はじめて気づいてくれて嬉しいぞーこのー今日はナイフのようにワックスで固められたあんたの頭!」
千代もお返しに手の平で貝塚の固められたピンクの髪の先端でちくちくやってみせた。
「ハードワックスにハードロックだぞーチクショー!あいつアコギで
ロックの歴史を塗り替えた1992年の名曲 i wanna die because she wanna die なんか
弾きやがって!しぶいぞコノヤロー!」
「さすがに私も失恋ソングは洋楽邦楽ボサノヴァ問わず押さえてるぞコノヤロー!」
二人とも拳を空に突きあげていた。
「千代にゃん」
「ん?」
「ボサノヴァは全部いっしょに聞こえるんだ僕」

…中略…

近くのトイレから戻った千代が尋ねた。
「ところでそのビジュアルに似合わない大きな登山用のリュックは何なのさ?」
「あぁこれ?中にはぎっしりだにゃん」
「何がぎっしりだよー玉キン?」
「玉キンはやめい。下品ですぞお嬢さん!」
「私はまだここぞとばかりに純潔を保ってるからその心配はないですぞオヤジさん!」
「おやじさんはまだ早い。壊れやすい16歳ですから。」
「だからカバンの中身は何デスゾ?壊れやすいものデスゾ?」
「あぁこれ?これはねこんな僕を犬扱いする悪い女子たちへの差し入れのお茶やジュースのペットボトルや
カップラーメンが詰まってるのデスゾ。」
「玉きんもう高校1年の夏にしてもうそのポジションに、、、
もう安定ね。大リーグでもきっと同ポジでやっていけるよ!」
「うるさいわーこの子ったら。もう猫らしく独りにしちゃうぞ!」
「私が安心するまでもうちょっといてよーおしゃべりしようよーわたしの玉キン?」
「だから玉キンはやめい」
「そこちょっと真剣な顔しない!あんたはいつでも調子がいいのが取り柄なんだから、
そんな顔しちゃもったいないぞー持ち腐れだぞー」
「そうだよな」
川が夕闇の中静かに流れた。子供たちは石で先ほどから水きりをはじめたのだった。
一番チビが10回連続で水を切った。その様子を友達のうちの一人がi-phoneで動画撮影している。
子供たちの間で石の水切りの携帯ゲームが流行しているのを千代は弟から聞いて知っていた。
現実の水切りの連鎖を動画撮影して送ると、ゲームの中の水切り腕前ポイントが上がるのだと言う。
ゲーム会社も子供たちが引きこもってゲームに熱中し、
身体を動かさない子供にならないようにとよく考えたものである。
「あんたのクラスの女子今日集まってなんかやるの?」
「女子会を兼ねた試験対策の勉強会ですってよ。たこやき機でベビーカステラつくりながら
やるんだって。勿論郊外の電気屋までたこ焼き機買わされにいったのはーパシリと引越しなら
どんとおまかせのこのイケメン貝塚ちゃんだよー」
「どこがイケメンだよ~うそつくとバチがあたってこの辺が痛いぞー」
千代が適当に貝塚の上腕をつかむと「やめて、やめて」と
貝塚はマジな顔で痛そうにした。おそらく昨日おとといも女子に酷使されて筋肉痛がひどいのだ。
「哀れな貝塚ちゃん、、、あんた自身は試験勉強はやらなくて大丈夫なの?」
「哀れといっちゃだめだよー!ビジュ系で夏に半袖の皮ジャンとかただでさえ痛い目線に
さらされてるこの僕ちゃんがもっと傷つくからいけないよー。」
貝塚は続けた
「ただねー僕ちゃんも日々走り回らされて何も対策してないってわけじゃないんだ。」
夕闇がやがて本当の夜の闇に変わる。ビルやマンションに電気がつくのがわかる。
「御局(おつぼね)。僕の予想では今日の女子会に、御局と呼ばれている学生に親しい人物が一人参加する」
「御局って長くこの学校にいるってこと?落第し続けてる人がいるって話は聞いたことがあるけど。それも本当かどうか
まだわからないし」
「違うんだ千代にゃん。その人、つまり御局はわざとこの学校に居座ってるんだよ。
内部の事情に大変詳しいようでさーすべての試験問題を把握しているという噂もあるくらいなんだじょー」
もう行くという合図だろう。貝塚は立ち上がってリュックを背負い直して言った。辺りはとっくに夜の闇に沈んだ。
「楽できるならそれに越したことはないだろ千代にゃん?」

4、
計7千円とちょっと。
本日二橋カケルのションピングモール内での出費である。
そのうち5千円以上が全く買うつもりもなかったし
買う必要もなかった本。
そのうち一冊は二橋カケルの額の出血のために汚れた、
(おそらくは私生活もけがれた)二流アニメ声優がトップで不恰好な水着グラビアを披露している
雑誌であり、それは丸顔好きのカケルにとっては全く価値のない代物であり、
もう一冊はと言えば、タイトルすら記載されてない真っさらな表紙で、何か現代の最先端をいくト
ップデザイナーによるスタイリッシュな建築かファッションの本かと一度は興味はひくものの、
開いて中を見れば、ひたすら400頁超その本を手にとった人間との出会いについて
興奮気味にその喜びを語った全くもってわけのわからん本であり、こっちに関しては先の雑誌以上に
実用価値(山羊か、暖をとるために紙を燃やす風習のあるテレビで見た遊牧民族以外にとっては)のないものであった。
カケルは読書が得意でなく何の本を読む場合でも、
よくて最初の15~20頁を読んだあと、とりゃ!と一息に終わりの頁を開いて
勝手に結末だけ知って満足するタイプであり、いたずら心から熱心に同じ本を読んでる途中の友達(例えば石橋)に
結末を喋ったりすることがあった。(一度石橋が二週間口を聞いてくれなくなって、それ以来石橋にはやってない、、、)
今回当たった本がいくら珍妙であっても
一度この本を捨てるタイミングを失った今となっては、
やはり最後のページを勢いよくめくることとなったわけである。

参考書も選び終わって、ベンチで一息つけたのかわからないが、
二人はその後、カケルが無理やり石橋を引っ張っていってゲーセンでゲームなどした後、小腹が空いたと石橋が言い出したので、
ショッピングモールの地下1Fに移動し、たまたま開催していた全国うまい物市で、
DK(男子高校生)らしく売り出してる食品の中でも、とりわけ値段の安いどっかの県の特産の唐揚げだけ
けっちく4個入りの1カップずつ買って、再び昼過ぎの2、3時頃、
石橋が嬉しそうに参考書を並べたベンチに戻って、爪楊枝で口に運んだ唐揚げを
モグモグして休憩していたときの話。

「さっきの本の存在忘れてたな。石橋覚えてるか?」
「忘れるわけないよ。インパクト大だよあれは。そう言えば二橋本のお金!」
「あっそうだった。万札しかないんだよ今。あとで、、、」
「嘘だ。今唐揚げ万札で買ってただろう?万券入りましたって店の人でかい声で言ってたよ」
「はいはい。ばれてたらしょうがありませんねーほら」
…(カケル、石橋にお金を渡す)…

「出したくない気持ちはすごくよくわかるよ。あの本だもんね」
「まぁ元はいたずらした俺が悪かったわけだし、、、」
「『予言者への予言』って一体何の本なんだろうね?参考書コーナーに置いてあったから参考書?
でも予言学なんて授業たしか僕が見たところなかったよ」
「あなたとの出会いを待っていたなんて言っちゃって
最後でどうせあなたもナントカ教に入りませんかとくるわけだ!」
と言ってカケルは最後の頁を勢いよくめくったが、
それらしい勧誘めいた文章は見当たらず、最後はじじい言葉に変わって
「出会えたこの日を忘れないのじゃ」とか結局本の最後に至るまで
金太郎飴的に似たようなことが延々と書かれていたことがわかった。
「宗教の勧誘にもなりきれてないな」
本と同時に目を閉じて疲れたようにカケルが言った。
「そもそも最初からこっちを誘ってすらいなかったね、、、ん?」
「どうした?何かそっちの角度から見たら浮き出る文字でも見えたか?ボクシングで鍛えた動体視力で何でもお見通し!、、、」
「いや、この本出版元とか、著者名とか一切書かれてないなって、、、最後の頁まで本文が続いてるし。
ふつうそういう情報って本の最後に記載するでしょ?」
「ふつうじゃないんだよ。内容もふつうの本じゃないんだから別に驚くことじゃないってー、、、」
カケルは伸びをしてからそのままベンチに横になった。
「寝ちゃうよ、、、何か食べるとすぐ二橋は眠そうになるなぁ、、、」
「そういうのを石橋が言うと気持ち悪いから勘弁してくれよー、、、」
「失礼な!ただ見たままを言っただけだよ僕は!」
「そこがだめなんだよ。考えて喋らないからお前はモテないんだよ。実直すぎるというか、、、」
ベンチの上で体勢は寝たまま、目をつぶりながらカケルはそう言った。
「失礼な!モテないのは二橋もいっしょだろう?」
石橋もどうやら隣接しているもう一つのベンチで横になりながら喋ってるらしい。
というのも声がする方向でなんとなくわかった
「おれはモテないこともないよ。部活勉強W漬けの真面目な石橋くんと違ってね!
本当はこんな風にベンチで横になってる暇だってないんだ、、、
すぐに女の子から呼び出しの電話がかかってきて、、、」
と、電話のバイブレーションが鳴った。思わずカケルは仰向けのまま肩掛けのポシェットの中から携帯をとりだしたが、
今携帯を見て時間も何も表示されていないのを見て気づいたが、
携帯の電源は美容室に紙巻千代に出くわしたときから消し放しであった。
とすると鳴った電話は、、、カケルが上半身だけ起こして隣のベンチを見ると
すでに石橋が起き上がって電話をとっていた
「鍋?夏に鍋ですか?、、、今は二橋とスーパーにいます。
この後予定は何もないです。えっ、、、本当ですか?はい!ぜひ行かせてください。
二橋もそこにいるんですけど、、、いいですか?わかりました。連れてきます!
はい、、、あと、砂糖とみりんですね、、、
いえいえそのくらい僕らでもちます。はい、わかりました。では、また」
通話は終わったらしい。明るい顔をして
「二橋。委員長の鷹富士刹那(たかふじせつな)さんから今晩鍋パーティやらないかってお誘いだ。
二橋も連れて行っていいってさ!いこうよ」
「連れていっていいって、おれは招かれてるのか招かれざる客なのか、、、」
「そんな誘ってるんだし気にしなくていいよ。試験対策の情報交換も兼ねてやるって言ってたし」
「どうせ俺には、、、」
「そんなことないって!ほら固いこと言わずに!19時からって言ってたからもうすぐいかなきゃ。
うまい物市で鍋の具材を買ってきたって言ってたし絶対鍋うまいよ。僕らには砂糖とみりんついでに買ってきてって」

「うまい物市ー?さっき唐揚げ買ったばっかりじゃないか」

5、
「醤油とみりんだった?」
「砂糖とみりんだよ。」
「どっちも甘くする調味料だよな。鍋相当甘くなるんじゃないか?にしても
みりん一つとっても物凄い品揃えだな。どれを選んだらいいかわからんよ」
委員長におつかいを頼まれた気楽なDK(男子高校生)の二人、
二橋と石橋は地下1階の全国うまいもの市があるコーナーと
中央のエスカレーターをはさんで逆側の、これまたスターブックスの参考書コーナー並みに
だだっ広い生鮮食品売り場にいた。二人とも親につれられてきた以外は調味料がずらりと並ぶ
この辺りにはきたことがなかったし、選び方もよくわからず戸惑っていた。
「大きさもばらばらだぞ。この『純米みりん物語』ってやつなんか5種類もある」
「二橋が今手にもってるのは小さすぎると思うな。それ多分携帯サイズの弁当用でしょ」
「そうかなー、、、」
「僕メールしてどんなのがいいか鷹富士さんに聞いてみるよ」
「石橋、委員長のアドレス知ってるのか?やるな!」
「名簿もらったでしょ?あれに載ってたよ。昨日勉強も一段落して暇だったし、
いつか役立つかなと思って全員登録したんだ」
「ふーん」
「今送ったよ」
「すぐに返ってくるかな。あ、そういや委員長の家飲み物とかあるのかな?」
「お茶くらい用意してもらってるんじゃない?」
「おれミルクティーがいいし、ペットボトル探してくるよ」
カケルはジュースのコーナーに向かってばっと走り出した。
ジュースや菓子のコーナーがどっちらにあるかは子供のころからきているためちゃっかりわかっているのだ。
石橋もこの自分の身長以上ある調味料や香辛料の置いてある棚に囲まれ若干不安だったので、
「二橋ちょっと待ってくれよ!」と言いながら、走ってカケルを追っかけた。
普段からランニング等で走り慣れているスポーツマンらしい、きれいな走りのフォームであった。
すぐにカケルは追いつかれたが、目指した方角に間違いないものの
なかなかジュースのコーナーまで遠く、到着したころにはカケルの息はぜぇぜぇ言っていた。
それに対して石橋は息ひとつ乱れていなかった。
「あった!みんなで飲むなら500mmじゃ足りないよな、1・5リットルは重いなしかし、、、」
「あ、メール返ってきたよ。『普段おうちのキッチンに置いてあるふつうのサイズでいいよ!』だって」
「それがわからないから困ってるんじゃないか、、、DKがキッチンに立つなんて今時というか今も昔も
めずらしいぞ。もっと人の立場に立てよ。委員長失格だ!」
「直接誘われなかったからって悪くいうもんじゃないよ二橋。まぁ例えばさっきの純米ナントカっていうみりんだったら真ん中のサイズを買っていけばいいんじゃない?」
「委員長のうちってたしか金持ちだろう?高いみりんの方がいいんじゃないか?」
「どうだろ?たしかにその方が無難かもね。調味料の分は委員長が出すって言ってたし」
「じゃあ一番高いみりんの中間のサイズを買っていこう!お、あれ何やってんの?」
「試供品の新しいお茶配ってるみたいだね。」
「ターバン巻いた黒人のおばさんが配ってるなんて!」
「スーパーもいろいろ工夫してるね。どうやら国旗からして南米のどっかの国のお茶みたいだよ。」
「あれ頂いてこうぜ。お茶の名前の字もわけわからん言語で読めないときた!」
「ほんとだ!すごいね」

6、
ショッッピングモール「アオキ」の何故かホテル式の回転ドアをくぐって
外へ出ると、空は夜になり始めの色の濃いジーパンのようなインディゴに染まっていた。
カケルたちが今日ここに来たときは、高い位置の太陽からそそがれる日差しが眩しく、
クーラーの効いた店内に入った瞬間の感動も大きかったものだが、いま外は半袖では肌寒く、
カケルは隣にいる準備のいい石橋のようにジャンパーでも持ってきておけばよかったと少しだけ後悔した。
せめて脇を固めて両腕をそれぞれ反対側の手の平ですりすりして少しでも体を温めたかったが、
カケルの両手は、わけのわからない南米産のお茶やみりんのボトルや、調子にのって買ったお菓子を詰めた買い物袋でふさがっていたためそうすることもかなわなかった。
寒さで肩が縮こまって上がるのと、それと逆向きの買い物袋の重力とでカケルの体は
身体的なジレンマにさらされていた。
普段からバーベルや何かを軽々持ち上げているであろう力自慢の石橋に、袋をもって頂きたいところだったが、
石橋の両手も自分の参考書10冊近くの入ったトートバックと、カケルの本の入った袋(もうすでにカケルは荷物を持たせていた!)
とに占領されていたので、そうもいかなかった。
店の外に出てすぐの薄桃色のレンガを敷き詰めたような通りに並ぶ背の低めの電灯には、
蛾をはじめとした夏の虫たちが集まり始めており、
そのうちの一匹がカケルの顔に向かって飛来し、口に入りそうになったが、
何とか首をひねってこれをよけた。
店前の広大な駐車場に止まっていた車も自宅へ帰っていくのか出口にある門から一台ずつ道路に出て行き、
昼とは一転して見たところすかすかになっていた。
実に駐車場を半円状に取り囲むようにレンガの通りが、敷地外の歩道まで続いており
店の敷地内から出るまでも一苦労である。
「うー寒い寒い」とカケルが言いながら、
とぼとぼ店の敷地の外に出る出口の付近まで二人が歩いていったとき、
そこにある花時計を見て石橋が言った。
「あ、もう19時10分前だよ!カケルが色々寄り道するからこんなことになったじゃないか」
「おれのせいにするなよ!委員長の家って急いだら間に合いそう?」
「うーん、、、委員長の家はたしかここからだと学校過ぎてさらに向こうだから、走っても
20分はかかるかも!」
「うー、、、やっぱ走るのか、、、そりゃあ走るよな。この荷物でも。よし10分遅刻ならまだセーフだな」
「とにかく急ごうよ!」
石橋は出口の門をビュンと飛び出して西へ走り出したが、到底運動不足のカケルが追いつけるスピードではなく、
あの荷物でこのスピード?と我が目を疑ったが、大声で「早すぎるー無理だってー」と叫び続けて、
ようやくカケルに合わせて減速してもらったのだった。
さて、石橋が委員長の鷹富士刹那の自宅の住所を知っており、
迷わずそちらの方向へ走り出したのも、
先ほどモール内で携帯のGPS検索を行ったためである。
というのも、鷹富士家は市街地にも関わらずこの地区に広大な土地をもっており、
ルイ王朝風の宮廷と中国の由緒ある巨大な寺院を足して二で割ったような構えの自宅と隣接して、
喫茶店やお土産屋、テニスコートや美術館などを土地の中に所有していたため、
聞いたことのない名前のアパートやマンションの住所を探すのと違って、
検索が容易であったのだ。
この「枝葉学園」周辺の地区では知らない者は誰一人いないのではないかという程だった。
ところが、二橋カケルは普段の自分の生活圏以外には、
市街にどんな建物があるかとか、誰がどこに住んでるかとか、
あまり興味がないため今回もぼんやりと「でかい家?たしかにあの辺にあったかもなー」
という程度しか把握しておらず、全て石橋まかせになったのだった。
ただし、漫画が置いてある書店の場所と、その書店の主力の出版社や漫画のジャンルなら
どんな小さい店についても言える自信があるのだった。
そんなことはさて置き、石橋正太郎と二橋カケルの二人は、
まだ完成されていない今日の夜の闇の中を、買い物袋をかかえながら駆けていく、、、
「走ったらやっぱりあったかいなぁなんてよろこべるか!」

7、
「やっと着いた!」
二橋カケルは石橋の説明にあった通りの、その外周に堀がめぐらされた
軽く自分の身長の3倍はある反り立つ鉄製の白いフェンスを
自らの視界にとらえたとき、思わずそのように叫んでしまった。
白いフェンスは下から上の方にいくにしたがって、外側に向かって斜めに反っており
海外生まれの最先端の建築という印象をあたえ、さらに威風を備えていた。
また白いフェンスは毎日手入れされてるのかほとんど全く汚れておらず、つるつるしていて、
周囲のマンションやコンビニやガソリンスタンドがあるどこにでもよくある風景の中にあって
ぽかんとテーマパークかアミューズメント施設でもが急にあらわれたというような感じであった。
フェンスの外周の堀にはどこからか水がひかれてきて川のように流れていた。
初め入り口が見当たらないことに二人は戸惑ったが、見上げると電灯の横に入り口へ誘導する
看板(入り口までの距離があと何メートルという風に書いてある)がつけてあり、
間隔を置いて並ぶ電灯5本につき一枚ずつあらわれる看板にしたがって、フェンスの横の堀に沿って進んでいくと、
やがて堀にかかる小さい橋が現れ、これを渡ると意外に狭い入り口の門と、それに隣接して詰め所のような小屋があった。
「今何時?」
カケルが石橋に聞いた。
「19時30分、、、けっこうかかっちゃたね。」
来る途中カケルのもっている片方の買い物袋が破けるというアクシデントに見舞われ、
ふくろの中の南米のお茶のペットボトルや、みりんのボトルが全部飛び出しアスファルトに転がってしまった。
すると自分の荷物を道路脇に置いた石橋が、迅速に車道に転がったお茶をまず拾い上げ、ほかのお茶のペットや
みりんもかかえて自分のもっていた荷物の横に立てたが、その間カケルは中に1本だけ入っていた炭酸飲料が
これで飲めたものじゃなくなったとわめいた。
ふくろから飛び出したペットボトルは結局それぞれが脇にはさんで運ぶこととなった。

そこから二人とも何となくやる気がなくなってきて
走っていくのをやめることにしたのである。
それでも決してとぼとぼ歩かず、その後二人がここまで無言で早歩きを
し続けたのは、自分たちが運ぶ調味料がなくては鍋自体が始めらないだろうという
使命感と、高校に入学し今のクラスになって初めて委員長がクラスの目立たぬ存在である
自分たちまで巻き込んで大々的な集まりを今日これから開催するということへの緊張と期待が
あったためであった。
真面目な石橋はともかく、何事にも投げやりなカケルまでが
この度はそうした気持ちを少なからず抱いていた。
学校の近くを通り過ぎたとき、今まで自習室や放課後の特講を受けていて帰りが遅くなったと
見られる1年生と何人もすれ違ったが、人が大勢いる集まりが好きじゃないカケルでも
「おれはこれから鍋だぞ、勉強ばかりの君たちと違って充実しているだろ!うひゃー」
と何か内心でそうした生徒たちより上に立ったようなた気分になったのだった。
今日の鍋パーティは試験対策の情報交換も兼ねているから何か有益な情報が手に入るかもしれない
という期待もあった。鷹富士委員長は委員長をやるくらいだから、真面目で勉強もできる才女であるはずだし
近づくだけで自分も点数が各教科20点ずつUPして、ほかの生徒より2、3歩リードできるような気がした。
カケルほどお気楽ではないが、石橋にしても委員長は顔が広いことで知られていて、
すでに生徒会系の人間との人脈を築いてるということは、いい印象を受けていた。
ただその人脈を利用させてもらうとかそこまでの考えは割と純粋な石橋には思いつかず、
ぼんやりと自分にとってプラスになるような気がするというだけであった。
この点ではカケルと一緒で、二人ともやはりまだまだお気楽で、お子様な高校1年生のDKだったのだ。
ちなみに自分たちの周囲で同い年であるにもかかわらず、
試験に成功しその後も続いていくの自分の人生が
うまくいくように虎視眈々と計画を練って黙々と実行している生徒が少なくないことなどは
思いもよらなかった。
二人の頭上には色ペンで絵に描いたようなお日様がいつでもぼわーんと浮かんでおり、
夜になってもそれは彼らにとって夜ではなかった。
身を切るような夜の寒さはお日様が吹き飛ばしてくれたのだ。

というわけで、早歩きで入り口の門までたどり着いた二人は
ぽかぽかして首に汗をかいていた。石橋はショッピングモール「アオキ」を出たときに
羽織ったジャンパーをとっくに脱いでいた。
ここからが二人の先の会話の続きである。
「30分か、、、まだセーフ。いや、そろそろやばいかな?」
「やばいよ。今入り口の門に着きましたってメールを打って、、、」
「メール打ってる暇があったら急ぐぞ!どうせすぐに着くだろ。また走るぞ」
「たしかにそうだね。」
そうして二人は開け放たれた入り口の門を走ってくぐった。
フェンスの中は外と隔離されたひとつの街のようになっており。
赤や黄色のきれいな花がレンガの道の脇に植えられていたが、
今は足元に目を落として見ている暇はカケルたちになかった。
50メートルほど前には大きな噴水の広場がある。今の時間は水の出ていない噴水の横に、屋根のついた
あずまやがあり休憩スペースのようだが、カケルたちは今ここに用はない。
噴水の広場の前から道は、左右に別れていた。
右の道を進むとテニスコートや美術館があることが遠目にもわかったので、
逆の建物の密集している方に向かう左の道へ進もうということに一旦止まって相談した結果なった。
噴水の広場を離れようとして走り出したところ、
あずまやの方から「おーい!」という声と共に
警備員の格好をしたおっさんがやわらかな笑顔を浮かべながら小走りで近づいてきた。
今日はじめて体を動かしたというような走りだった。
「そこの坊やたち。勝手にいったらだめだよ。本当は入り口で入場料はらってもらうことに
なってるさかい。特別に今ここでお金もらってもいいから!中学生やね?一人1200円もらいます。」
カケルと石橋はお互いに目を合わせた。
ここで出費などとんでもない。それにこのおっさんは本来は入り口の門の横の
詰め所にいるべきじゃなかったのかと思ったが、その点については二人は黙ることにした。
「あのー僕ら鍋に呼ばれてまして、、、」
石橋がおどおどしながら喋り出した
「鍋?」
警備のおっさんが驚いた顔で、さっぱりわからんと言った調子の声で聞き返した。
まだ頭の中の冷静だったカケルがしどろもどろの石橋のかわりに説明した。
「僕たちは鷹富士刹那さんの高校のクラスメイトで今日ご自宅で集まって鍋をするということで
呼ばれてるんです。それで今ご自宅の方がどちらにあるかわからないので探しているとこなのですが、、、」
カケルはついでにちゃっかり今のやりとりで自宅の場所まで聞き出そうとした。
今このおっさんに聞けば近道になるかもしれない。
「今ご実家に問い合わせてみますわー!ちょっと待ってやー」
おっさんがはりきった声で言った。行動に移るまでは早く
すぐ右手の指を右耳に突っ込みながら携帯で電話をはじめた。
「もしもし警備の田中ですが?、、、あ、そうですか、、、あ、はーい。失礼しました。」
電話をきって、確信をもった顔でおっさんが今知った事実を告げてきた。
「刹那お嬢さんはまだ学校から帰ってきとらん言うてましたわーなんで今ご実家いかれても、、、」
おっさんは今起きてうる事態が飲み込めないのか、こちらを思いやってか困った顔をし出したが、
今の事実を知って実際もっと困ったのは二人だった。
「どういうこと?」
「もう直接委員長に電話して聞いてみよう」
おっさんには「ちょっと待っていただけますか?」とカケルが説明して、
ちょっとおっさんから離れて入り口の方に戻り石橋が電話をした。
「もしもし鷹富士さんですよね?遅れててすいません、、、
いまお家の方まで来てるんですが、、、はい、、、えっ!!!???あっそうだ」
なぜか通話途中にも関わらず石橋が電話を切って、カケルの方を向いた。
「二橋ごめん、、、委員長学校で鍋やるって言ってたの思い出した。
誘いの電話がきたときあがっちゃって学校って聞いたけど僕即効忘れてしまったみたいで、、、
実家でやるなんて一言も言ってなかったんだ、、、」

カケルは思わず手にもっていた買い物袋をそのまま地面に落とした。
脇にはさんでいたお茶も脇をはなれて地面を転がり、
警備員おっさんの足元にゆっくり辿り着いた。

8、
「どうするんだよ!全部お前のせいだぞ!」
カケルは急に湧き起こってきた怒りにまかせて石橋を怒鳴りつけた。
わざわざショッピングモールから重い荷物をもって、ここまで急いでやって来たのも徒労に終わったのだ。
「どうしよう、、、」
石橋は放心していた。それに対してまだ思考を保っていたカケルが石橋の手から携帯を奪って
「とにかく電話をして事情を説明しなきゃ!お前さっき電話を途中で切っただろう?」
と言って、発信履歴の一番上にある鷹富士刹那の番号を選択して
電話をかけようとしたその時、逆に携帯からデフォルトの着信音が鳴り響いて、
みると鷹富士刹那の方から着信があったので、カケルは間髪おかずに電話をとった。
「もしもし鷹富士委員長ですか?石橋に代わって二橋が電話してます。
先ほどは大変、、、」
「あ、もしもし二橋く~ん?」
カケルがまず最初に謝罪しようとしたのを、相手方はこっちが拍子抜けしそうな
だらだらした喋り方の高い声でさえぎった。
「はい、そうですが、、、」
何やら電話の向こうから、いったん携帯を耳元から離したらしき委員長を含めて、
何人かの女どうしの話し声が聞こえるのだが
「(ねぇ二橋くんだって~!)(まじですか?)(うそ!ふたつばしくん?
きゃあレアキャラ~!!)(いしばしは?いしばし~)」
などと言って騒いでるのがわかった。
急に鷹富士がガサガサっというどでかい音とともに
電話に戻ってきた。
「二橋くんですか~?ちょっと二橋くんたちに謝らなきゃいけないことがあるんだけど、
もう七時前に鍋はじめちゃってたんだー。早く集まった組みがお腹空いたって聞かないからね、
もう本当に薄情な子たち!あ、でも材料ならまだあるからね、、、白菜とかいっぱい余ってるし、えっ?
お肉ももう2パックあった?よかった!、、、ごめんごめん、二橋くんたちのためにちゃんとお肉も
残してあるから、今の今からでも鍋きてもらえますかっ!?」
「ぜひ行かせてください。ただ僕らみりんと砂糖頼まれてましたが
鍋大丈夫だったんですか?」
「あ、あのねー最初すき焼きがいいかなって私は思ったのね?でもやっぱり水炊きにしないかって
コラーゲン好きのゆうちゃんが言い出しまして、、、(ちょっとそんなこと言ってない~)(はっはっは)、、、
、、、結局ぐるっと一周まわって水炊きになりましたっ!みりんと砂糖代は石橋くん自分がもつって言ってたけど、
悪いのでこっちでもちます!ごめんなさい」
当然だ。とカケルは思ったが口には出さなかった。
それにすでに鍋が始まっていたのは好都合なように思えた。自分たちが運んでくる調味料待ちで
鍋がいつまでも始まっていなかったら、委員長をはじめとしてクラス全体から非難を浴びたからもしれなかったからだ。
「委員長そのことは気にしないでください。石橋も実家で親が料理に使うでしょうし石橋にそのままもって帰らせたら
いいと思います。」
「本当に?いいの?」
「大丈夫です。あとここから学校まで走っていっても着くまでまた少々時間がかかってしまいそうです。」
「あのちょっと待って!一つ聞いていい?水炊きは苦手じゃなかった?」
どうでもいいとカケルは思ったが、
「大好きですよ。ちょうど走ったんで今はすき焼きより水炊きの気分です」と適当に答えた。
「よかった!」
委員長はそれが生死を分かつ問題であったかのように、
大げさによろこびを表現した。
「あのですね、委員長。このあたりってバス停か地下鉄乗り場はありましたか?」
実際のところ疲れてもう走っていく気にはなれなかったので、カケルはそのように尋ねたのだ。
すでに鍋は始まっていて、大層な盛り上がりを見せているようだし、
いつ登場しても会場に着きさえすれば問題はないだろう。
それに疲れた足で走って向かうよりも交通機関に頼った方がだいぶ早いかもしれない。
「バス停あったかな~私乗ったことないからわからない、、、地下鉄は南の方に歩くからちょっと
遠くなるのかな、、、あ、そうだ!うちの近くにいるんだったらパパに言って車だしてもらうから、
それに乗ってきてくれる??パパは忙しいから運転しないけど、だれかいたはず!
山岡君とかきっと手空いてたと思う。とにかくそこで待ってて!すぐ迎えにいくから!てか、今どこら辺?」
「門をくぐって噴水の前のとこにいます」
「オッケー!了解!!ではお待ちしてまーす。またあとでねっ!」
カケルがわかりましたと返答する前に電話が切れた。
それとほぼ同時にテニスコートや美術館がある側の道路から一台の未来的な形状の車が
ほとんどエンジン音も出さずに現れた。
おそらく海外でしか手に入らないような最新モデルの高級車だろう。
基本的な外装の色はショッキングピンクで、その上に黄緑でラインが何本も
ひかれている気色悪いものだったが、この際文句は言ってられない。
すぐに迎えがきてよかったというものだ。
早速これまた未来的な白いレーサーのようなコスチュームをきた運転手が
運転席から出てきて今や地面に突っ伏していた大柄な石橋を
ひとりで歩けますかと聞きながら、負傷した選手のように肩をかついで後部座席に乗せた。
カケルは石橋の参考書が入ったバッグや、
地面に転がっていたお茶のボトルを全て拾って座席に放り込んだ後、自分もよくわからないまま
車に乗り込んだ。

9、
「本当に怒ってなかったんだね?」
「だから大丈夫だって」
石橋がこのようにカケルに質問したのはこの車内にいて
一体何回目になるだろうか?でかい図体のくせに気の小さいやつだと
少しは言いたくなるところだが、そんな言い方を中学時代苦手だった体育教師が
倒立前転を怖がってできない生徒に対してしていたのを覚えていたので、
実際に口にするのはやめたカケルだった。
またそのような考えが自分に浮かんだことを少々反省した。
「それは二橋の思い込みってことはないのかい?急きょ水炊きに変更したことを
電話口でわざわざ告げたのも、僕たちが来るのが遅いせいで変えざるを得なかったってことを
実は怒りを込めて、、、」
「どんな話か詳しくは存じませんが、お嬢様はきっとそんな風には
お思いになりませんよ。」
運転手が、かわいい思い違いをする奴だと言った具合に笑いながら
初めて二橋たちの会話に入ってきた。
「お嬢様は若くしてご立派なことに何が起こっても笑いとばして楽しく生きて行こうと
決意されておられるのです。」
運転手は慣れたハンドルさばきで曲がったと感じさせぬほどのスムーズさで、
今も交差点を曲がってから、話を続けた。
運転手の話のバックで高価そうなカーステからクラシックのピアノ曲が緩やかに流れて、
気持ちを静めるように促しているようだった。この曲はモザクーベンビッヒの曲ではないだろうか?
「ですからお二人が所定の時間に遅刻されたことも、お鍋の種類が変わったことも
ほとんど気にされておられないはずです。むしろお嬢様はお二人の遅刻やお鍋の種類の変更を
喜ばれているかもしれません。お嬢様は偶然は人生を豊かにするものだと考えていらっしゃる
ので、そうした種類の偶然は歓迎なさることが多いのです。ただ、だからと言って
全ての偶然を歓迎なさる訳ではありませんがね。
つい二週間ほど前に、お嬢様が飼われているインコが急に亡くなった際はとても
落ち込まれ、今日まで学校を休んでおられました。」
そう言えば委員長学校で最近見なかったな、と今運転手の話を聞いて初めてカケルは思った。
ただでさえ沢山教科の種類がある「枝葉学園」の学校の授業をさぼりがちなカケルにとっては
委員長の鷹富士に会う機会は滅多になかった。
今記憶をたどってみても入学後のオリエンテーションの後の茶話会において、
女性で甲高い声で何となくうるさかった人物
という以外は、鷹富士の顔がどんな顔かも思い出せなかった。
「その時ばかりはインちゃんを死なせた神の気まぐれを
恨むと涙ながらにおっしゃられたものです。」
一度喋り出すとよく喋るようになるものだなと思いながらも
カケルは運転手の話に相槌を合わせながら聞いた。
運転手が少しだけ運転席の車の窓を下げて開けたので、
夜の涼しい風が車内に入り込んできた。
「ですが今は新しいクラスメイトの皆様を呼んで
学校でお鍋をされるなど、お元気になられて本当によかった!
あとはお酒さえ飲み過ぎないようにして頂ければ、お嬢様にお仕えする私どもとしても
安心できるのですが、、、」
高校生になると普通はもう酒を自ら飲むものなのかなと、カケルは思った。
父親にすすめられたワインをクリスマスにちょびっと飲んだ以外は
酒を飲んだ経験がないのだ。

「そろそろ着きますね。」
運転手が言った。運転手の話に耳を傾けている間に
車はいつの間にか「枝葉学園」の敷地内にいたのだ。
車道は広くなり、道路の両脇には等間隔に背の高い木が植えられていた。
生徒が何人か間隔をあけてそれぞれ手にもった本に目を落としながら
木の下の歩道を歩いていた。
と言うか、正確に言えば歩いていなかった。
足を動かしていないのだ。というのも空港によく設置されているような
「歩く歩道」と同じ感じのベルトコンベアの上に生徒たちが乗っているためである。
下校中の学習を促すために設置されているものでコンベアの脇に立つ木の幹の
大人の身長より少し高い地面から2mくらいのところには、夜でも本の文字が読めるようにと
ライトが取りつけられていた。

さて、「枝葉学園」の校舎は会社人もびっくりの超高層のオフィスビルのようであり、
それが一つではなく、いくつもこの巨大な野球場でも普通はありそうな広々とした
敷地内に自然に囲まれて点在していた。
カケルが知る限りでも学年ごとに5、60階建てのそれぞれ違う3つのビルの校舎が割り当てられており、
カケルの校舎は職員ビルを過ぎて一番近いビル(と言っても信号二つ分ほど歩いたところにある)であった。
2年と3年の校舎ビルはまだ奥にあるらしいのだが、遠くていったことはなかったし
、それに他にも似たような高層ビルがまだいくつもあるので、どれが2、3年の校舎ビルか
判然としていなかった。
それら校舎間をコンベア状の「歩く歩道」がつないでいた。
多くの生徒は自転車で自分たちの学年の校舎ビルまで通うのが普通なので
、カケルも登下校は自転車で行っていたし利用した機会はまだなかった。
ただ1年の中でも半分以上が自習ビルに昼休みの時間や放課後通っていたので、
その際はもうすでに自習ビルに向かう途中から「歩く歩道」の上で自習を始めるという人が多く、
1年の校舎の玄関から「歩く歩道」に乗って本を読んだまま自習ビルへ向かう習慣が
自習ビル通いの大体の人にはあった。
中でも金のある者は折りたたみ移動用机と椅子のセットをもってきていて、
自習ビルまで座ったまま、元来机を置けるように設計された歩く歩道の上を移動し
カリカリやりながら自習ビルまで向かうのだった。
折りたたみの机を携帯してきた者に限らないが、中には「歩く歩道」の上で
勉強にいい具合に集中してしまった者がいるので、そう言った者はわざと移動先の各ビル
前に到着してもコンベアから降りずに、そのままスキーのリフトが戻っていくように
「歩く歩道」に乗ったままぐるぐる何周もするのだった。今カケルが見ている生徒たちも
皆が下校するかに見えて再び本に目を落としたまま校舎のビルの方へ引き返していく者が
あったが、その彼は今まさに歩道の上で勉強に集中してしまった人なのだ。

「本当にみんなよくやるよな、、、おい、石橋いつまで落ち込んでるんだ?
もう着くぞ。」
「いや、そうじゃなくて、、、いや、それもあるけど、酔った、、、」
「え?」
「もう喉まで出かかってる、、、から揚げ」
「あのうまいもの市のから揚げか?校舎までもう少しだけど我慢できるか?」
「袋ならありますよ」
運転手が親切心でさっと袋を差し出した。
「いや散々迷惑をかけて鷹富士さんが取り計らって出してくれた車内で
吐くわけにはいきません、、、僕だけここで降ろしてください。あそこに
運動場のトイレがありますから」
「おれ一人で行ってどうするんだよ?元はと言えば石橋が呼ばれたんだからさー、、、」
「僕も必ずあとで行く、、、もう無理、、、
鍋食べれないとさらに気まずいし、、、すまない」
と言うと石橋は走行中の車の後部座席のドアを急に開けて、
映画のアクションスターのように道路脇の草原に転がって飛び出し、
口を手で押さえながらものすごい速さでトイレに走って向かっていった。
カケルは呆気にとられ、しばらく空き放しのドアから小さくなっていく石橋を眺めていたが
運転手にうながされドアを閉めた。

10、
「お嬢様どちらまで客人をお送りして差し上げれば?、、、
かしこまりました。失礼いたします」
運転手はカケルたちの前に姿をあらわした当初から装着していたらしい
イヤホンとマイクだけの無線機のようなもので鷹富士刹那と連絡をとり終えると、
車を1年校舎のビルのカケルが普段利用する玄関の裏側にある
車用のゲートに向かって走らせた。ゲートをくぐるとビルの地下へつながる
スロープになっており、運転手はそのままスロープを下りて
車をビル地下の駐車場に止めた。
「ここから校舎に入るには学内の人間である認証が必要なので、
私はここまでしかお付き合いできません。申し訳ございません」
「いえいえ。こちらこそ本当に助かりました。」
「荷物がたくさんおありのようですが、全部お持ちになれますか?」
そう言えば途中で車酔いした石橋を下ろしたので、石橋がもっていた分の荷物も
持たなければならなくなった。みりんと醤油のボトル、お茶のペットボトルと大量の菓子に石橋の参考書。
たしかに全て持てそうにはなかった。
「よろしければ一度こちらでお預かりしといて後日お渡しいたしましょうか?」
「そうしてもらえると有り難いです!」
では、今必要ないものは置いていくことにしよう。
「この調味料と本の入ったバックをお願いします」

置いていくことに決めたのは全て石橋の持ち物であった。
カケルは車に酔って途中で下りたやつが悪いということにした。
「ではこれが私の連絡先です。お受け取りの際はご連絡して下さい。
それまで大切に保管いたしましょう。」
運転手は名刺を渡した。
「本当にありがとうございます」
「それでは失礼いたします。どうぞよいお鍋を、、、」
車はカケルを下ろしてスロープを上って引き返していった。
カケルは地下鉄の改札のような人ひとり分通ることのできる幅のゲート
を、学生証を特定の場所にかざして通った。
すると自動ドアがあり中に入っていくと、正面にエレベーター4台と
左右には長く廊下が伸びていた。左手の奥の方には階段があるらしかった。
そこでカケルは自分がこのビルのどの教室なり部屋に行けばいいのか
把握していないことに気がついた。
鍋なんてやる場所すらこの勉強一辺倒のくそ真面目な学園の校舎に存在するのか疑わしかった。
先ほど前もって石橋に聞いておくか、運転手がいるうちに
鷹富士本人に連絡をしてもらうかすればよかったのだ。
携帯をとりだして電話帳を調べても鷹富士刹那の番号はなかった。
石橋とは違ってカケルは名簿を見て番号を前もって登録などしていなかったのだ。
ため息をつきながら携帯を閉じると携帯のデジタル時計は
19時47分を知らせていた。
「(これ以上遅れるわけにもいかないしどうすべきか、、、)」
次第に何となく焦ってきたカケルであったが、とりあえずこんな人気のない
地下にいてもしょうがないと考え、まずは自分の教室を当たってみようと考えた。
あんな場所で鍋などできそうにもなかったが、まだ誰かいてもおかしくないし
その人物は何か鍋に関しての情報をもっているかもしれない。
そのように考え、上りしかないエレベーターのボタン(つまりこの地下2階が最下層であった)
を押してエレベーターを待つと、しばらくして4台とも下りてきて
4台いっぺんにドアが開いた。ドアが開く際それぞれ高さの違う「チン!」という音が
一斉になって4声でハモった。生徒の間では四葉のクローバーを見つけたように、
このドアが開くときの4声のハーモニーが聞けると直近のテストの点数がよくなるという
ジンクスがあった。もっともそれはエレベーターの利用者の少ない夜間にエレベーターを
4台とも同時に止められる確率は昼に比べて俄然上がるので、単に夜まで学校に残って学習
している者がそのような状況に出くわしやすいわけで、単に勉強熱心な生徒の点数が高い
と言っているだけのことかもしれなかった。

「(今日はどれに乗ろうか、、、)」
カケルはいつも利用する一番右の「世界の歴史エレベーター」
に乗った。乗ってから自分の教室がある10階を押した。
ドアが閉じると、エレベーター内は少し暗くなり、
ドアの上の液晶パネルの左側半分に歴史上の今日と同じ日に
生まれた偉人が、右半分に今日と同じ日に没した偉人の顔と上半身が浮かび上がった。
どちらも歴史という科目に関しても当然手つかずであるカケルの知らない人物だったが、
左の人物の「わし鼻」は市役所に勤めており労働組合の会長をしているおじさんにそっくりだなと思った。
天井を見るとオスマン=トルコの将軍であったらしく生没年と
業績とその人物に関連した単語が記されていた。
これを見てひとつ勉強になったと皆思うらしいが、
カケルは単純に人の顔が浮かぶのが楽しくてこのエレベーターに
毎回好んで乗った。カケルの家庭では人の顔についてあれこれ言うのが常なのだ。
というのも両親ともに顔に関してはそこそこ自信があるらしく、
カケル自身も自分の顔は上の下くらいで悪くないと考えていた。

このエレベーターが来ずにとなりの「世界の単語」エレベーターが迎えに来たときなどは
気が滅入ったものだ。例えば「雑巾」という単語の日に乗れば、目的の階に着くまで
各国語で順に「雑巾」という単語をネイティブの発音で連続して聞かされる。
初めのうちは笑ったものだが、毎回同じ真面目腐った声でしかもけっこうな音量で
聞かされるので最近はうんざりしていたのだ。天井のスペルを見ながら
いちいちメモをとる生徒などと同乗したときは、とくにうんざりした。
そんなエレベーターよりずっとこっちの「世界の歴史エレベーター」の方が、
見方によっては絵がぼんやりドア全面に映る様子が美的に見えてオシャレだった。
それに静かであるのもよかった。

「オスマン=トルコの女性解放に勤めた、か。」
そうこうしているうちに10階に着いてエレベーターのドアが開いた。
と、エレベーターから出てみると左右に伸びた廊下は日中と違ってほとんど真っ暗だった。
近くの筆記用具の自販機の前がほの明るく照らされていた。小さい羽虫が自販機の商品のディスプレイの
前を飛んでいた。自販機の前を過ぎてさらにトイレより奥にいった
ところにカケルがいる1年15組の教室があるのだが実際に前まで行ってみると
誰も教室にはいなかった。
「(まさかこんなところで鍋はできないよな。つゆがこぼれただけで
精密機械満載のデスクが壊れちまうし、、、)」
教室には飲み物さえ持ち込み禁止なのだ。
教室でやるはずがないと頭ではわかっていても
こういう時は不安で慣れた場所にきてしまうものである。

周囲は静まり返っていてそれがますます焦りをつのらせた。
電話のひとつでもくれればいいものだが。
石橋がもう回復して向かっているかもしれないと思い、
石橋に電話をかけてみたが「電波の届かないところにいます」と音声ガイダンスが伝えた。
「困ったな、、、」
エレベーターの方に引き返すカケルであったが、
トイレから水を勢いよく流す音が聞こえた。
のぞくとどうやら男子トイレだけ電気がついていた。
さっきはついていなかったはずだが、記憶が間違っていたのだろうか、
誰かが個室から出てきて手を洗う音が聞こえた。
トイレの前でその人物を何となく待っていると、
哨戒途中の警備のおっさんだった。
おっさんはカケルを見るなり一旦びっくりして、
それから懐中電灯をカケルの顔に向かって当てた。
「まだおったのかね?今日は校内での自習は節電の関係でできない日だよ。
早く自習ビルに移ってくださいね」
「あ、はい。今移動するところです、、、」
そのつもりはないが咄嗟にそう言ってしまった。
この人にどこかで鍋をやっていないかと聞くのは
まずいことだろうと何となくわかった。
もしかしたら鷹富士たちは学校には隠して鍋をやってるかもしれないと
そのような予感がしたからだ。
節電の日に校舎の内部で校舎で鍋などやっていいものだろうか?
少なくとも堂々とはやっていないだろう。
どこか隠し部屋のようなところがあるのかもしれない。
それなら尚更、鷹富士自身から部屋の情報を石橋を通してでも
聞いておくべきだった。
鷹富士も「水炊きが好きかどうか」なんてどうでもいいことを気にかける前に
こっちが無事たどり着けるように場所を知らせてくれるべきじゃなかったか?
ますます委員長失格だとカケルは思ったが、
その辺のずぼらさがまとめ役には必要なのかもしれないとも思った。
それにしてもカケルはわけもわからず振り回されて陥っている今のような状況に
対して苛立っていた。
「プレテストが近いからね。残って自習したい気持ちはわかるけども、今日は
すまないが場所を変えてくれ。わしも今日は当番で警備にあたっているが普段は教師だ。
君に教えたことはないから君のことは詳しく知らないがおおよその気持ちはわかるつもりだよ。
プレテストの前で焦っているんだろう?まぁ肝心なのは焦らないことだよ。
今日は家に帰って沢山食べて滋養をとって休息するのもよし!
とにかくここにいても何もいいことはないよ。」

焦っているのは当たっているが全く焦る理由が違う。
プレテストがあるなんて聞いたことなかったぞ。まぁそんなもんが近々
行われるのなら嫌でもこれからその情報は耳に入ってくるだろう。
鍋の場だってその話題で持ちきりかもしれない。
とにかく今はどうでもいいことだ。

そうしてカケルはカケルが下りた時からこの階に止まったままエレベーターに
再び乗り込んだ。次は60階まで階層あるこの校舎のどこを当たってみるべきだろうか。
自分がよく受けている21階の論理学の教室を訪れても仕方がないだろう。
「今何時だろう?」
行き先の階のボタンを選んで押さないまま
エレベーターの中で携帯を見ると、デジタル時計は19時52分を指していた。
「52分か、、、こういう時は52階だ。」
エレベーターが動き出すと、
再びオスマン=トルコの将軍がドアに浮かび上がり
不敵な笑いを浮かべたように思えた。

11、
「はぁはぁ、、、あー疲れた」
「大丈夫?お茶飲む?」
「あそこにあったお茶?」
「あ、うん。1本だけもってきた。」
「そのお茶見たことない。なんかおいしくなさそう、、、プレジャーの新商品?」
「南米産のお茶らしいけど、、、」
「いい。飲まない。喉は渇いてるけどなんか飲みたくない!」
「えぇっ、、、飲めばいいじゃん。プレジャーボトルスが商品化してるくらいだし
飲めないこともないと思うよ」
「いいのっ!ゆいにゃんはそんなのきっと飲まないに決まってるし!」
と言いながらも、向岸ハナレ(苗字はむこうぎしと読むそうだ)
が今彼らの話題に挙がっている500mmのお茶のペットボトルを
パソコンの横に一旦置いて、彼らがいる教室の内側からドアの鍵を掛け、
外から中を覗かれても何をしているか見られないようにドアの窓を隠す暗幕を
引っ張っている間、吹芽草子(ふきめくさこ)は向岸の目を盗んでこっそりお茶を
口に含んだのだった。向岸の言う通りまずくはなかったが、後味が微妙で、
自分でもう一度買って飲むことは今後まずないだろうと思った。
だが初めて飲んだお酒(結局吹芽は「苦い、、、」と言ってグラスの4分の1程度しか
飲むことができなかったが)のあとに、初めて飲むアルコール以外の飲み物で
からからの喉が潤されて生き返った気分だった。
もうひとつの遠くのドアの方も念入りに暗幕を閉めにいった向岸の背中を
一目見ると、もう一口のつもりでお茶をごくごくとやって
結局二口で半分くらいは飲んでしまった。先ほどまでの量なら何とかなったかもしれないものの、
これではごまかしきれないと思い、向岸がこっちを振り返り戻ってこようとする前、咄嗟に
お茶を自分の足元に置いて隠したのだった。

吹芽が座っているデスクまで戻ってくるなり向岸がいつもと変わらない
平坦な声のトーンで言った。
「吹芽、ここにあったお茶は?飲まないなら僕が飲む。」
「え、えっとね、、、あのお茶はめぐちゃん先生がね、視聴覚室には飲み物
持ち込み禁止よぉ!って言ってね、、、」
吹芽の妙な弁解が終わる前に向岸は吹芽の足元からお茶のペットを
拾い上げ、拾い上げるだけじゃなくフタを空けて飲みだした。
「ちょ、、、ちょっとー!間接キス禁止なんだからっ~!!
堂々と間接キスは恥ずかしいからやめなさいよ~!!」
「こっそりやれば許されるの?」
「こっそりはもっとだめー!このえっちー!!ぶ~!!!」
吹芽が目を閉じてわざとらしく膨れた顔をした。
「…。」
向岸が何も返答せずに1分間ほっとくと、吹芽はその間ずっと膨れた顔のまま静止
し40秒経ったくらいから、やがてその顔を維持したままぷるぷるし出して
真っ赤になって苦しそうだったので、向岸は吹芽があわれに見えてきて何かコメントすることにした。
「こっそりお茶飲んだのは吹芽だろ?」
「わ、わたしがえっちみたいな言い方するなー!」
吹芽がわざとらしく向岸の腹をぽかすか殴ってきた。、
まったく痛くはなかったが、殴られながら暗幕を引っ張ったために
部屋が真っ暗なのに向岸は今になって気づいた。かろうじて吹芽の膨れっ面や、お茶の位置が
わかったのは吹芽が今腰掛けてる椅子と一セットのデスクの上にあるパソコンを
この教室に来て何よりも早く立ち上げていたので、その画面から発せられる光に
それらが照らし出されていたためである。
で、暗い教室で鍵をかって二人(というか吹芽だけだが)で「えっち」がどうこう言って
これから一体何をし出すか、彼らの保護者の世代は心配になるところだが、
全くそんな心配は無用で、むしろ彼らは世の中的にその年齢の世代においても性から最も遠いかもしれず、
まぁ一概にそうとも言い切れないかもしれないが、彼らがわざわざ人目を盗んで
今共同でしようとしていることは、きのう録画した萌えアニメ「たっきゅう!」
の鑑賞会in枝葉学園だった。
二人とも本日クラス代表の急な招集を受け、言われるがままに自分たち以外のその他大勢が
集まる慣れないパーティ(そこでは鍋が無料で振舞わされたようであるが)に参加し、
見事にそのノリについていけず、誰かに無理やりに話に混ぜられ、酒を飲まされ、
端のほうでおとなしくしていることも許されず、隙をうかがって
逃げるようにして会場の教室から2つ上のフロアにある、ここ視聴覚室に来たのだった。
向岸の予想通り案の定この部屋にも鍵はかかっていなかったし、節電期間にも関わらず
この部屋も電気がついた。廊下も下の階同様省エネモードではあるが、天井で何本かに
一本間隔をあけて電気がついていた。
どうも自分たちが普段通っている教室がある10階などとは異なって、
このあたりのフロアは生徒の自治が認められていて、夜間の活動も自由に行われているようであった。
鍋パーティをやっている教室のフロアも、視聴覚室があるこのフロアも、
節電の対象からはもれないが、どうやら話によると生徒会が自家発電用の機械を提供しているとのこと
だった。鍋をやっている自分たち以外にも会場の教室から少し離れた教室で、生徒会系の人間が
何かポスターづくりか立て看板づくりのようなことをペンキまみれになってやっている様子を
向岸と吹芽たちはさっき見かけた。必ず生徒会系の誰かが活動で教室を使っているもので、
今使われていないがら空きの教室などさすがにないように思えたが、鍋の会場のフロアから
階段を駆け上がって2個上のフロアまでくると、しんとしていて電気はついているが
ほとんど人の気配がしないような状況であった。
やっと喧騒から離れて落ち着けそうな場所を見つけた!とばかりに二人は喜んだが、
それに加えてさらにラッキーだったのは階段から廊下に出て、誰かに見つからないかドキドキしながら
廊下を歩いていくと(このときなぜか向岸が吹芽を引っ張る形で二人は手をつないでいたが)
ちょうどエレベーターから斜め向かいの教室のドアの上に「視聴覚室」という札を
見つけたことである。生徒会用の「視聴覚室」のようで、教室の中は連中が普段使っているらしき
書類や本やトランプが散乱して散らかっていたが、使い勝手は26階にある向岸が「メディア学」の
授業でつかったことのある視聴覚室とほぼ同じであった。そこで向岸は授業中もこっそり
やっているように(というか「メディア学」の先生はその場にいるわけではなく、
教室前の大画面モニター上にあらわれる海を跨いだどっかの外国の講師なので
ばれる心配は初めからないのだが)アニメのDVDをポシェットから出してパソコンで
今まさに見ようとしていたのだ。
それでいつもは一人で見て隣の生徒にばれない程度にニヤニヤしているわけだが、今は
吹芽草子がいっしょにいた。
当然普段から学校にアニメのDVDを持ってくるような向岸は相当なアニメファン
(アニオタではないと自分では主張)なわけだが、
吹芽草子も向岸ほど広範に色々観ているわけではないものの、
自分が好きなアニメに関しては相当に入れ込んでおり、もっている知識も並大抵では
済まないタイプだった。
そのアニメの一つが今彼らがドライブにDVDを挿入して見始めた
卓球部のJKの日常を描いた萌えアニメ
「たっきゅう!」である。

「ちょっとストップ!一時停止して」
「なに!?どうかしたの」
「あっちょっと戻して!いいから!ゆいにゃんの着てるTシャツのプリントが一瞬だけ見えたのっ」
「全然進まないじゃん、、、僕もう3回見たからいいけど」
「これ何?宇宙人かな」
「クリオネでしょ多分」
「何それ?動物?」
「動物だよ。魚かな?タツノオトシゴ的なやつ。水族館にいる。たまに。」
「えっ!どこにいけばこのTシャツ売ってるの?」
「水族館にいけば買えるんでない?」
「ええっ、、、!どうしよう!!プレテストでそんな暇ない。。それに何、、あっ!
あずちゃん髪おろしてる~かわいい~!!!」
「これはかわいいわ、、、たしかに」
「あっ!こういう場面でゆいにゃんはあずちゃんに抱きつくのねっ!そして
蹴られたらこのリアクション!さすがゆいにゃん!!このリアクションは
ちょっと思いつかないぞ~。そして、ここでてへぺろと!
よーし私も明日からやってみよっ!(やる気)」
「だから二次元の真似を三次元でやっても無駄。
どんなにやっても現実の女が二次元に追いつけるわけないって」
「追いつくとか追いつかないとかそういう問題じゃないもん!」
「じゃあどんな問題なの?」
「わかんないっ!ゆいにゃんは天才キャラだけどそういう難しいことは考えないのっ。
でもきっとほとんどの男子はゆいにゃんが絶対好きだしこれで間違ってないはずっ!
あとは吹芽は努力あるのみなのっ」
「いやいや、三次元の女はそもそもが間違ってるから。
とくに昨今の三次元の女は、、、」
「向岸君が女に弱いというか女性恐怖症なだけでしょ!わたしも三次元の女の子たちの間でうまく
やれないけど、、、なんか女を悪く言われると腹立つ~!!

でもゆいにゃんやりっつやあずちゃんはいい子だし、こっちの味方だよ?」
「うん、、、それは間違ってない」
と、結局クラスで一緒になった当初から
なんだかんだで意気投合している二人であったが、
とくに二人の間にこれと言って恋愛感情みたいなものはなかった。
まだなかったと言うべきかもしれないが、それは現在を生きる誰もが
知らないことである。画面の中のキャラたちは勿論のこと。

ともかくもストレスフルな鍋の席から離れていつもの趣味の楽しみに
、しかも二人きりでまるでおかしな場所で高じていた向岸と吹芽であったが、
「ドンドン!誰かいますか?」とドアの外で、けっこうな大きさで壁をたたく音に
加え男の声が響いたときには、二人びっくりして一瞬抱きつき合ってしまったが
すぐにはなれてデスクの下に潜り込んだ。
何も悪いことはしてないのだからその必要はないわけだが、
こわがって震えている吹芽(これはわざとでなくてまじだ!)を置いて、
少し冷静になった向岸は足音を消してドアの側まで近づいてみる。
騒ぎ過ぎたことを後悔したが、ドアの向こうの相手は意外にも丁寧に
「誰かいらっしゃったら出てきて話を聞いてもらえませんか?
お願いします!迷ってしまったのです。」
と言っている。
ここを普段から利用している生徒会系の人物ではなさそうだし、鍋パーティにいた
めんどくさい連中とも違うだろう。それに相手はこちらが騒いでいたことを
咎めてはいない。
出ていっても問題はなさそうだと考えた向岸は、
「こわいよ~あずちゃんー助けて、、、」とデスクの下で
本気で怖がって言っている吹芽の近くに一度引き返し
「ちょっと出てみるからあっちのデスクの下に隠れて
静かにしてて。多分大丈夫だと思う」
と告げて、声のするドアの方に向かった。

いきなり鍵をあける前に暗幕の端を軽くめくってみる。
どんな相手か見極めるためだ。うまくいけば向こう方に勘付かれずに
相手を知ることができる。やばそうだったら準備室に隠れて朝まで、、、
いやそこまでは考えなくていいはず!
そうして勇気を出して軽く暗幕をめくると、、、

あれ、見た顔だ。クラスメイトの石橋君とたまに一緒にいるやつ!
名前は何だっけ?

12、
「…はい。どうかされました?」
スライド式のドアを開けて教室の中から出てきたのは、眼光の鋭い
自分と同じくらいの身長の男だった。眼光が鋭いと言っても目つきが悪いわけではなく、
大きな目でこちらを見ていて子供のような印象も受けた。
ただし口元はニコリとも笑っていない。

そんな男が電気のついていない暗い教室の、しかも暗幕のかかったドアを自分の顔の
幅の分だけ開いて、顔だけ覗かせて応対している。
教室内で何かの実験か変わった作業を行っている途中であったのかもしれない。
邪魔をするなと暗に言っているのかもしれないし、
実際にそのつもりもこちらにはなかったので、できれば何か必要な情報だけ
聞き出してとっととこの場から去ろうと決めた。

何と質問するのが手っとりばやいだろうか?
それにしても一言発するのにもやけにプレッシャーを感じさせる男だ!

「お取り込み中申し訳ないのですが、このあたりで食べ物のニオイは
しませんでしたか?」
「…。」
男は一度目を床に落として考えてから答えた。
「…ニオイはほとんどしてませんけど、さっき2個下のフロアへ寄ったら
なにか集まって食べたりしてたみたいですね。」

そこに違いないとカケルは思った。水炊きならニオイもほとんどしないわけだ。
「ありがとうござ、、、」
と男に礼を言いかけたとき階段の方からドタドタともの凄い音が近づいてきて、
カケル思わずそちらを振り向くと、瞬間今度はつい今まで話していた男が
顔を出していた教室のドアがガタガタンと勢いよく閉まって、
ガチャッと鍵をかける音がした。
男と話を続ける必要はもうなかったものの、
急にドアが閉められたので何故か反射的にカケルはドアを開けようと
全体重をかけて両手でドアを開けようとし、ダンダンと開かないドアを
叩いた。
その時には時すでに遅く、カケルは雄たけびをあげて
走ってきたラガーシャツの屈強な男にふっとばされ、
次に後ろから続々と追いかけてきた同じような屈強な男たちに
回数にして何度も踏みつけられた。
何が起こったかわからないまま床に転がって、のた打ち回るカケルの周辺で
撒きあがったほこりが全て床に落ちて、視界が晴れると、
カケルの目の前に自分同様踏みつけられた買い物袋の中身、
つぶれたお茶のペットボトルや粉々になった緑のキャラメルコーンの袋があらわれた。

「みんな食後の運動にしてはやり過ぎよ~!生徒会の人たちに
迷惑かかるんだからやめなさいよね!ん?、、、ちょっと大丈夫?」
張りのある女の声が響いた。その声のもとをたどって見上げると、
化粧の濃い女性がカケルの方を立ったまま見下ろしている。寝たままの姿勢で見上げて
得たカケルの視覚情報をもとに推定すると、その女性は茶髪で背は低いが巨乳で
高校生らしからぬ丈の短い豹柄のワンピースを着ていた。
ファッションにそこまで関心のないカケルでもこの女性が一時代昔の格好を
堂々としているらしいことが何となくわかった。
「あのバカたちに踏まれたんでしょ?ごめんね!私が代わりに謝るから許して下さい。」

(謝られてもしょうがない。菓子はもう粉々だし、お茶は不細工極まりない状態になって
しまってこれじゃとてもじゃないが鷹富士の前に、、、あっ!)
カケルは鍋をやっているであろう50Fに急いでいかなければいけないことを
思い出した。しかし、立ち上がろうにも右足のふくらはぎを思い切り踏まれたせいで
立ち上がれそうにない。
女の謝罪に返答をしないで、カケルが苦労して立とうとしていると女が手をかしてくれた。
女の物理的な手の力というよりも、
女の見た目通りの柔らかな手を握ったことによりカケルに湧いた力によって
楽に立ち上がれた。
「立ててよかった!」
「いえいえもう平気です。」
「あのバカたちには私から怒っておくから任せて!あと君の名前は何ですか?」
「二橋カケルと言います。」
「これからどこかに行くつもり?」
「50Fで僕のクラスの人たちが集まっているかもしれないので
そこに行ってみるつもりです。」
「二橋さんも刹那さんのクラスの人なの?」
別なクラスの人だろうか?
「はい。そうですが、、、」
「じゃあ来週からよろしくだね!私二橋さんと今度からいっしょのクラスになる
日捲今日子(ひめくりきょうこ)です。」

どういうことだろうか?転校生?
それではさっきのラグビー部員のような男たちとつながりがあるように見えたのは何だ?
目の前の女がただの転校生では説明がつかないとわかりながらも、
カケルは彼女の素性に近づくためにそう質問するしかなかった。
「枝葉学園に転校してきたんですか?」
「う~ん、転校とはちょっと違うかな。来週からここ『枝葉学園』と私が今までいた
同じ大樹学園グループの『末節高校』のクラスが統合になるんだ~。だからさっきのおバカ
ちゃんたちも含めてみんなで転校っていうか編入って感じ?」
「ほんとですか?そんなことは学校側から知らされてませんでしたよ」
「知らない子が多いみたいだね~。『枝葉文化ホール』の掲示板には統合のことが書いてある紙が
張り出されてるらしいよ。刹那さんはさすが委員長だけあって知ってた」

「枝葉文化ホール」だと?あんな11月の合唱コンクール以外で生徒が使うことはほとんどない
と聞いている場所にそんな重大なことを掲示して誰が11月前に気づくと言うんだろうか?
してみると学園側にまんまとやられたわけだ。
「末節高校」は「大樹学園」グループの中でもスポーツ推薦で入ってくる生徒ばかりの
相当バカな学校だとうわさで聞いたことがある。
勉強一辺倒ではなく「文武両道」であると
スポーツ学校の「末節高校」を統合、合併することでバランスをとって示したつもりだろうか?
だとすれば学園長の発想はお世辞にも優れているとは言えないものだ。
まだ統合の一週間前だと言うのに早速ラグビー部が
張り切って廊下で鬼ごっこをしている有様だ。
今後石橋のような真面目な生徒の勉強は妨げられ放題だろうし、
今に自習ビルへ続く「歩く歩道」の上をスケボーが走っていることだろう。

「ちょっとー苦い顔しちゃって嬉しくなかった?そりゃそうだよね~二橋さん末節高の生徒に
比べて真面目そうだし、バカ嫌いそうだもん。でもあー見えていいやつばっかりだし、ノリも
いいし、勉強以外では前より楽しくなると思うし、だから二橋さんにもこれから何かいいこと
あると思う!私も二橋さんといっしょのクラスになれて嬉しい!」
と言って日捲今日子はカケルの腕を両手でつかんで、上目遣いにカケルの顔を
覗き込んだ。つけまつ毛がはがれかかっている。
けれども今や今日子の体に引き寄せられたカケルの肘あたりに当たる
柔らかい感触は何とも耐え難い魅力があり、一時的にでもカケルに思わず
思ってもいないことを言わせるように仕向けた。
「僕も嬉しい気持ちはいっしょです」
「うん。嬉しい」
いつの間にか今日子はカケルの片腕に抱きついていたが、
カケルが50Fに下りる階段の方に向かって早歩きをすると
いっしょの速度でもたれたまま早歩きをしてきた。
早歩きと言っても、彼女を振り切りたいのかわからない
速度であって、早歩きになってないかもしれなかったが、
このまま鍋の会場に顔を出しても鷹富士をはじめとしてそこにいる
クラスの面子に対して決していい印象を与えるということはないだろう。
しかもこういうタイプの女には実はめんどくさい男がついているということは
色恋沙汰に興味のないカケルであっても何となく知っていることで、
その男が末節高の男でクラスがいっしょになっている可能性も十分あり、
その場合見つかったらややこしいことになりそうだった。
空き教室の中にこのまま二人で潜り込んでしまいたい気持ちも
なきにしもあらずだったが、カケルは今自分が早く到着しなければいけないという
ことを再度肝に命じた。
「今日子さん腕時計を見たいので腕はなしてもらっていいですか」
「うそばっかり。時計してないでしょ?」
今日子が何をぬかすとばかりにカケルの冗談に笑ったので、その隙に腕を抜いた
「あ、しまった!時計忘れてきた。ちょっと探してきます」
と言ってカケルは階段を下りようとしたがその時、今日子が後ろから叫んだ。
「ちょっと待って!二橋さん今度また学食でもいっしょにいこう!」
「はい。暇が合えばごいっしょしましょう」
「やった、、、!あと私軽そうに見られるけど全然そんなことなくて
二十歳にもなって男とまだ付き合ったこともないの、、、恥ずかしいからじゃあね!」
と言って、今日子は廊下の方へ走り去っていった。
「(二十歳?一体何を言ってるんだ?それにヒールであんな走れるもんなのか、、、?)」
ぽかんとして走り去る今日子を眺めていたカケルは
我に返ると50Fへ急いだ。

13,
「そこの!それこっちに蹴ってくれよ」
階段を下りて50階の廊下に出てきたカケルを迎えたのは、
足元に転がってきたタオルを丸めてつくったらしきオレンジ色のボールだった。
声をかけてきた男はひげ面でタバコを片手にこちらを見ている。
50階にきた途端空気が変わって煙たい気がした。
どうやら廊下で丸めたタオルでサッカーをやっているらしく
その男がキーパーのようであった。さらに奥にもう一人長髪の
ユニフォーム姿の男が立っていてやはりこちらを見ている。
ひげ面の男が止められずにボールが階段近くにいるカケルの足元まで
転がってきたというわけだ。
カケルは蹴ってコントロールよくひげ面の男の元まで届くか
自信がなかったので、手で拾い上げてからその男の近くまで歩いていき
直接手渡した。
「メルシー」
と言いながらひげ面の男はカケルに手渡されたタオルのボールを
足元に落としてさらに奥に立つ男と蹴りあいをはじめた。
カケルは足元で行われれるボールのやりとりの邪魔にならないよう壁にぴったり沿う形で
奥へ進んだが、それにしてもキーパーをやってる男を
随分大人びた顔をした男だなと思った。
メルシーと言ったせいか本当にフランス映画の俳優のように思えた。
この二人は見たことがなかったし、ということは「末節高校」の生徒だろうが、
高校1年の顔には見えなかった。
経験が顔つきを大人っぽくさせるものなのだろうか?
それはそうとして学校の廊下で堂々とタバコを吸っている。
よく見ると廊下に少なからず吸殻が落ちていた。
もうやりたい放題だなとカケルは思った。
奥に進むと廊下で何人かの男が寝そべっている。
そのうちの一人は満腹だと言った具合に腹を手でぽんぽん叩いていた。
隣の男は天井を見ながら爪楊枝で歯をほじっている。
今寝ている男の近くで急にドアが開いて、爪楊枝の男の頭を直撃したらしい。
中からは大声で電話をしながら女が廊下に出てきて
小走りでカケルがきた方に向かって走っていった。
内容は大したことなさげなのにやけに真剣な話し方で
そして声がでかかった。
頭をドアが直撃した男は爪楊枝が歯茎にささって血が出たらしく横で寝ている
二人が起き上がって大声で指をさして笑った。
「ちわす」
カケルに向かってドアの正面に立っていたらしき男が言ってきた
「鍋すか?今きたんすか?枝葉の生徒さんすよね?
今からでも全然オッケーっすよ」
わざとらしい愛想のよさが鼻についた。
にしてもどうやら鍋はやはりこの教室でやっているらしい。
ドアの横で寝ている満腹の太った男を見て何となくここだとわかったのだ。
「じゃあ失礼します」
「うっす」
カケルはドアを開けて中に入った。
すると思いがけず室内はだだ広い畳の部屋であった。
カケルはこういう部屋を今よりずっと小さいとき
葬式の会場かなにかで見たことがあった。
当然土足禁止のようで部屋に対して狭いように感じる
この靴を履き替える玄関的なスペースで
カケルは靴を脱いで棚に突っ込んだが、その際
最近買ったばかりの白いスニーカーが今日一日で随分汚れたなという気がした。
だいぶ遠くの方で畳にして60枚以上向こうで小さく人が円になっていた
きっとあそこで鍋をやっているのだろう。
とすれば鷹富士刹那もあの円の中にいるということだ。
そう考えると急に心拍数があがってきた。
それにしても荷物や本や割り箸などのゴミはそこら中に転がっているものの、
人はあの中央の円以外にいなくて意外にも静かであった。
もうとっくにお開きになって皆帰ったのだろうか。
でも荷物はまだこの教室に置いてあるようだ。
カケルが近づいていくと、誰か男が立ち上がった。
遠くてよく見えないが片手に白い容器と、もう一方の手に割り箸をもっているのか、、、
割り箸をもっている方の手をこちらに振ってきた。
随分体格がでかい。

「おーいふたつばしー!早く来いよー!鍋うまいぞー!」

石橋だった。

先ほどまでの悲惨な状態から打って変わって完全回復したような
様子だ。しかも何だろうか。この調子出てますよーみたいな様子は?
石橋がこっちに手を振ったのを合図に
こちら側に背を向けていた女性が振り向いて立ち上がった。
「ふたつばしくん!待ってたよ~無事にたどりつけてほんっっっとによかった!」
鷹富士刹那だ。
日本で見かけないようなヴィヴィッドな色どうしの配色のコーディネートで
他の娘とは差をつけてますと言わんばかりの服装だった。
着ている服も高いのだろう。
ただ身長があって髪も長いストレートできれいなので
似合わないことはない。
カケルは「遅れてすいません、、」と言いながら
おじぎをして近づいた。
前にも見たことがあったがこうしてちゃんと見ると
顔もきれいじゃないか。
こちらに見せている出迎えの笑顔に
お嬢様らしい繊細さが垣間見えた気がした。
カケルの遅刻に怒っているという感じもないし、
優しそうな笑顔を見ていると来てよかったという気が少ししてきた。
「ふたつばしくん、よくここでやってるってよくわかったね。ほんといくら電話しても
つながらないし心配したんだから」
鷹富士がカケルの上腕に手を置いてきた。
何とも微妙な力加減だった。
さっきの末節高のけばい子もそうだが、
よくボディータッチをする女が多いもんだなと思った。
そんな風に思っても男はこういう時にやけそうになってしまうものである。
「本当ですか?」
「おれもさっき二橋にかけたんだけどなー」

携帯を見ると電源はちゃんとついているしアンテナも立っている。
何故だろうか?でも無事着けたんだしまぁいいや。
「…わたしもでんわかけたのに。」
「ん?、、、     げっ!」

「げっ!て何なの?」

紙巻千代だった、、、そうかこいつも鍋に呼ばれていたのか、、、誤算だった!
鷹富士が手を置いてにやけてたのを到着した直後の挨拶的な笑顔として
ごまかしきれなかったとこを見られたのか、紙巻はカケル方をにらんでいた。
高校1年の女子のくせにひねくれじじいみたいな視線だ。
確かこいつの実家は和紙を製造する町工場で親父も祖父も代々職人だったはず、、、
それも納得の目つきだ。
鷹富士と比べたら地味な格好だなぁ、、、
どうせショッピングモール「アオキ」の洋服屋のセールで買い揃えたんだろう。
まぁ自分もそうなのでカケルも文句は言えなかった。
それに紙巻に似合ってないわけでなかった。
鍋を囲んで石橋、鷹富士、紙巻と
あとクラスで見たことのある名前の忘れた二人がいたが、
紙巻以外の一同は紙巻の「げっ!て何なの」が何故かうけたらしく
笑っていた。石橋などは腹をかかえて床の畳を手で叩いてまで笑いを表現した。
鷹富士が笑っているのを見て自分もつられて笑っている感じがあった。
石橋が畳を叩く度に周辺の畳何枚か分の地面が揺れて
コンロの上の土鍋が今にも落っこちそうになっていた。
「二橋くん。そのおでこの絆創膏どうしたの?」
鷹富士の横の赤いメガネをかけた女子が言った。
向こうはもう自分のことをとっくに知っているといった感じで今カケルの名前を呼んだ
が二橋は相手の名前を忘れていた。
この人とは名前を呼ばなくていいように会話をしよう。
「これはあの、そこにいる紙巻に、、、」
言いかけたとき紙巻がおっさんのようなでかい音で咳払いをして
カケルの主張をさえぎった。またもこちらをにらんでいるが
「千代ちゃん、女の子なのにはしたないよ~」
と鷹富士が言って一同がまた爆笑した。
紙巻は真っ赤になっている。
爆笑した石橋がチンパンジーのように再び畳を叩いて揺らした。
紙コップのオレンジジュースや何から全てが揺れて中身がこぼれそうになっている!
「お肉がもう下に沈んでる分しか残ってないんだけど、あとはうどんなら
いっぱいあるから、ふたつばしくん好きなだけ食べていいよ!」
肉はおそらく石橋がほとんど食ったのだろう。まぁどうでもいいことだ。
「ありがとうございます。ところで委員長。クラスのほかの人とかは
もう帰ったんですか?」
「今日ね、来週からクラスいっしょになる『末節高校』の子たちも
呼んでるんだけどね、その子たちが花火をやりたいって言い出しまして、
大体の子はついていったみたい」
「委員長はついて行かなかったんですか?」
「私たちは石橋くんがさっき来たし、ふたつばし君も待ってたから
残ることにしたの。」
「あぁすいません僕らが遅れたせいで」
「本当に申し訳ないです」
石橋も箸を置いて急に真面目な面持ちになって謝罪した。
「いいの、いいの。私ついていきたくなかったし。
私今度いっしょのクラスになる末節高の子で生徒会やってた神楽岡君って子は
昔から知り合いで仲良くて、いっしょのクラスになれて本当嬉しかったんだけど、
あとの子たちが今日会っててみたらあんまりノリが合いそうにない、、、」
運転手の話ではたしか鷹富士は何でも楽しむと腹に決めていると
のことだったが、見たところ遊びまくっている末節高の連中と
合わないと言っているのは意外だった。

みんな誰も返答しなかった。すると鷹富士が続けた、
「でもあの子たちもまとめてうまくやっていかなきゃね。
あの子たちだって枝葉学園に統合になった以上、遊んでばっかりいないで
テストに向けて勉強も頑張らなきゃいけないわけだし。私はもうあきらめてるから
どうでもいいんだけどね」
「えっ委員長さん、あきらめてるってどういうことですか?」
紙巻が質問した。
「私実はねみんなよりお姉さんで21歳なんだ。5年留年してて1年休学してるの。
ここの学校テスト大変だから進級できなくって!(てへぺろ)」

21歳?留年??
一同が鍋のスープとともに凍りついた.

14、
もう教室の外はしばらく前から静かになったようだ。
サバンナの動物たちの大群が駆け抜けたようなけたたましい音だった。
向岸がもう大丈夫だと言うので、外の様子がちょっとだけ
気になった吹芽草子はおそるおそるドアを開けて
小動物のように廊下に跳ねて出た。
実際に吹芽はおチビちゃんなのだ。
同じく小動物のようにつぶらな瞳で左右をきょろきょろ見ると真ん中がつぶれて変形した
ペットボトルが転がっているのをまず見つけた。
拾いにいくと近くには色々な種類のお菓子が落ちている。
お菓子を見つけて吹芽は眼をきらきらさせながら、
それらの中でも袋が破けて中の菓子が飛び出していたり、
粉々になったりしていない、
まだ食べられそうなものだけちゃっかりと選別して拾い上げると
教室の中にすぐ戻った。
吹芽が戻ると、向岸は再びドアに鍵をかけた。
外が落ち着いた今となってはもうかける必要はなかったかもしれないが、
かけた方が外界から自分たちが今いる空間を分け隔てることで、
何となく二人とも穏やかな気持ちになれたのだ。

「じゃ~ん。お菓子いっぱい拾っちゃったぁ!」
吹芽がデスクの上に収穫した全部をあげて言った。
「さっきのあいつが袋にさげて持ってたやつかな」
「こむぎちゃんがいれてくれるお茶の代わりにこのお茶でガマンするのだ!」
吹芽が拾ってきたお茶のペットボトルを立てようとしたが
バランス悪くてこけてしまった。
「立たないね、、、」
「またさっきのと同じ南米産のお茶?あちゃーって感じ」
「おもしくないぞ~向岸!」
「ねらって言ってないよ。むしろそう思った吹芽の発想があちゃーって感じ」
「もう!あぁ言えばこう言ういやな子なんだからっ。
お母さんはそんな風に育てたつもりはありません!」
「あ、ちょっと待てよ。この流れでそのセリフがくるの『たっきゅう!』の何話だっけ?」
「よく覚えてたなー向岸ー!何話か忘れたけど二期の合宿にいく回だお」
「あっそうか。勉強熱心だな」
「もっとこのゆいにゃんを褒めて~はい褒めてくれたお礼にひとつぶあげるっ!」
吹芽がアーモンドキャラメルの小箱をあけて、取り出した一粒の包装紙を
とると、向岸の口に近づけた。
向岸は恥ずかしくなって思わず顔をひいてしまった。
「いいよ。自分であけるよ」
「せっかくあげようとしてるのに~傷ついたぞー!」
吹芽は仕方なく自分の口にもっていたキャラメルを放り込んだ。
膨れたままキャラメルを噛むという随分器用なことをするなと向岸は思った。
「結局口に入れればいっしょさ」
と言って向岸は急いでキャラメルを一粒とって、皮をとって、自分の口に放り込んだ。
さりげないが甘い味が広がる。
「あ、ちょっと何あれー?」
と言った吹芽の驚いた顔が青い光に照らし出された。
というか向岸が吹芽の顔ばかり見ていただけで見れば教室全体が照らされている。
光源は窓の外だ。
遅れて音が轟音が鳴った。
「花火だ」
二人で窓まで近づいていった。
ちょうど目の前の高さではじける大小まちまちの花火の
極彩色の光が暗い教室に次から次へと入り込む。
「きれいだね。みんなで夏卓球フェスにいったときのシーンみたい!」
「また『たっきゅう!』か、、、このビルの30階のベランダに出てやってるみたいだな」
「きっと委員長が用意してくれてたんでしょー?うちと違ってお金持ちでうらやましー!」
「金なんて漫画とフィギュアを買う分だけあれば十分だって」
「それけっこうかかるよね、あずちゃん?」
「あー。、、、かかる」
「あそこにみんないるのかなぁ?新しくきた『末節高』の人も。」
「そうじゃないか。あんなかに混ざりたくなった?」
「そんなわけないよ~私あの中だと変な目で見られちゃうし。。
混ざりたくないから今ここにいるんでしょっ!」
「そうだったな。」
外から一拍ずつ呼吸を置いて光と音が入り込んでくる。あと残り何発あるんだろう?
今さら教室の電気をつけるタイミングは失ってしまったと向岸は思った。
「きれい、、、あそこにいないでここにいて正解だね!」
「あぁ。ほんといいとこだけもらってるよ」
「(ふたりっきりだし、、、)」
最後のセリフは花火の音にかき消されたようだが、
どちらが口にしたものかわからないし、あるいはどちらも口にしていないかも
しれないし、ともかくもわざわざ耳に入らなくても伝わる言葉というものがあるという
ことをパソコンのモニターがぼんやりついているだけの暗い教室ののやわらかな
空気が証明していた。

15、
「委員長!5年も留年ってそんなことあるんですか??」
凍りついた場の空気を破ってまず最初に切り出したのは
紙巻千代であった。
「うん、あるの。事実私がこうして延々と留年してるわけだから。
学年は高校1年だけど去年成人式に出ちゃったりなんかしちゃっり、、、」
鷹富士は顔を紅くしてニコニコしながら言った。本人にとっちゃ留年はそんな
シリアスなことでもないのかもしれなかった。
「高校は中学校までとちがって留年があるってお父さんに聞いてましたけど、
教師も誰もそんなこと言ってなかったし、、、私クラスのみんなと話したわけじゃない
ですけど、留年してるような人はひとりも、、、」
「隠してるとか、、、?」
メガネの子が言った。
「あかりちゃんそれは違ってね、隠してる人なんか一人もいない。私はまぁ隠すつもりは
なかったんだけどいつかみんなと打ち解けたときに言おうかなって思ってて、、、
毎年こうやって夏に鍋をやるんだけどその時には周りの子の何人にかには喋ってるんだ。」
「留年している人がいながら、ぼ、僕らが今までき、気づかなかっただけでしょうか、、、?」
石橋が震えながら聞いた。留年の事実を知っておびえてるのか混乱しているのか
話している目線はどこを見ているか、もうわからなかった。
「留年した子は普通は翌年からどこかの学習寮に移されると聞いたことがあるけど
詳しいことはわからない、、、私はちょっと特殊で、生徒会ではないんだけど、
生徒会の仕事のお手伝いをしてたりそういう関係もあって、
生徒会に頼まれて委員長を毎年任されてるから移らなくていいみたい。
実際の理由はよくわからない、、、もしかしたらお父さんが学校側に口を利いてくれてるの
かもしれない。ずるいと言われるかもしれないけど、毎年フレッシュな新入生の子たちに
囲まれるのもこの年ではなかなか辛いことなのはわかって欲しい。自分が年だなって
感じる場面も多いし、、、その代わり私にはこの学校にずっといて培った経験があるから、
それを活かして少しでも新入生のために何かしてあげられたらなって思ってる。」
感極まって鷹富士は泣き出した。あかりと呼ばれた子が脇に置いてあるバッグから
箱ティッシュを出してそれごと鷹富士に渡した。その後自分も「失礼します」と言って
2、3枚ティッシュを抜いて鼻をかんだ。この子は鼻炎もちらしい。

色々聞きたいところだが、これ以上追求できそうにない空気になってしまった。
鷹富士は真面目で繊細な女性なのだ。しかし、今や頭を抱えてうずくまっている石橋や、
気を失った名の知らないクラスメイトや、「委員長だいじょうぶですか?」と口では言いながら、
色ペンを片手に「かゆいとこだけ手が届くインターネット学IA」の参考書を読み出した紙巻のように
周囲にも鷹富士を気遣ってる余裕はほとんどなくなってしまった。

一体どうするべきだろうか?情報を集める必要がありそうだ。
学園側はほとんど情報を公開していないこともわかった。
留年したら寮に移されるなど生徒に最初にことわっておかなければならないことではないか?
「末節高校」との統合の件もそうだが、物議を醸すであろうことはほとんど表に出さずに、
さらっと既成の事実にしてしまうことで疑問を抱かせないように仕向けている。
52教科にも及ぶ膨大な試験はあるが、それについては日本の先を行く国策の一環であり、
いずれどこの学校でも行われることであるからして、あまり不満を言うものはいないし、
表面的には最新の学習施設も充実しているし、とてもイメージのよい学校なのだ。
だがもし仮に強制で寮に移されるなどと言うことが行われるのであれば、話は違ってくる。
「末節高」からきた生徒などは、失礼な話だが、厳しい試験に合格できず
ほとんど寮に入れられることになるだろう。
あと生徒会が特別なのか?無事進級できる者は何人いるのか?試験の実態とはどのようなものか?
警備の教師が言っていたプレテストとは何か?
等々、カケルには知らないことがまだありすぎた。
疑問を持たずに自習ビルに通い試験勉強をただ続ける者もいるだろう。
試験勉強よりも情報収集に熱心なやつも実は表に出てこないだけで
多いのかもしれない。
ともかくもぼーっとしているようでは何か巨大な怪物に
食われてしまうなと何となくではあるが、そのような気がした。
昼の美容室に行ってからショッピングモールで石橋と過ごした時間が
今となっては遠い平和に思えた。
しかし、努力しだいではうまいこと平和を保てるかもしれない。

とにかく今日一日でカケルは疲れ過ぎた。

このまま一人で帰ってしまっていいだろうか?

しかし、そのような質問を口に出せば、それは許されないと
今横でカケルの服を引っ張ってエレベーターで30Fまで連れていこうとしている紙巻が
即答するだろう。いや、そのようなセリフを言うことで、
ナイフで腹でも刺されて即倒するのはカケルの方かもしれない。
「…委員長はあかりちゃんが見てくれてるから問題なし。」
紙巻がカケルを見ずに直進しながら、前の方だけ見て行った。
「やっぱりあの場にいた方がいいんじゃないの~?ちょっと冷たい気が、、いででっ!」
紙巻が前方を見たまま足でカケルのすねを蹴ったのでカケルはこけそうになった。
「…人間なにが冷たく感じるなんて人それぞれ。こうする方が愛って
場合もあるのっ。おわかり?」
「都合がいいような、、いででっ!」
「さぁお鍋のあとはどのエレベーターかな~るんるん♪」

(チン)

「うわ、最悪!」
4台のエレベーターのうち世界の単語エレベーターが止まった。
「紙巻もやっぱ嫌い?」
「…これ用の耳栓もってるし。二橋30F!」
「はいはい。押しますよ」
ドアが閉まって少し暗くなると音声ガイダンスが伝える。
それと同時に閉まったドアの上の液晶に文字が浮かぶ
(今日の単語:花火)
「ええっまじ?わかってるぅ!今日は千代、キミのことほめちゃうよっ」
「これから花火見に行くってときに『花火』とはな、こういうの最近多いような、、、」

まず英語から。ネイティブの流暢な発音で「firework」

「fireworkか!へぇ、、、花火って英訳したらフラワーなんとかじゃないんだ」

天井を見上げてめずらしくひとつ勉強になったと思ったカケルであった。

16、
「枝葉学園」の1年校舎ビルの30Fには「ベランダ」がある。
ベランダと言っても広さは相当なもので、真上から見れば外側の一辺が100mほどある
ほぼ正方形の四角の真ん中に噴水があり、ちょうどデパートの屋上にたまにある
ベンチが設置された憩いのスペースのようなようなものを想像してもらえるとよい。
ただビルの30階の外となると強風にさらされるので、ベンチに座る生徒の
帽子でもマフラーでも吹っ飛ばされておちおち休憩もしていられないのではないかと
思われるかもしれないが、そうならないために10m以上ある特殊な強化ガラスが外周を
囲う形で取り付けられているのだ。これで生徒たちは教科書のページを吹く風に強引に
めくられることなくベンチに掛けながら学習に集中できるというわけである。
雨の日には開閉式のガラスの屋根が外周の強化ガラスの10m上で左右から現れて、
ビニールハウスのようにこの「ベランダ」を覆うので本が濡れる心配もなく、また
地面のタイルは小さい穴が無数についていてその下に隠れたファンによって換気が
徹底して行われ、湿気が逃げていくように設計されているので、晴れた日のような快適
な空気をガラスで覆われたベランダ内に保てるように工夫されていた。
しかして、天候に関係なく「ベランダ」はいつでも生徒たちの憩いの場であった。
ベランダが憩いの場である理由はそれだけではない。
学校公認で外から夏はアイスクリーム屋の車やクレープの屋台、昼には280円弁当屋、
夜にはインスタントラーメン屋台、その他にも焼きそば屋、たこ焼き屋、出張イタリアン
レストラン(その場で茹でるパスタが売り)、林檎飴、金魚すくい、手相占い等の
店が日替わりでこのベランダで商売をしに出入りするのだ。
これらの店の出店がある日はいくつも重なって何店も出店する日があったりするのだが、
一見したところ見た目はお祭りのようになるが、「枝葉学園」生徒の学習の妨げにならないこと
が店を出す業社の守らなければならない第一の義務であるため、呼び込みの声や売り文句が
飛び交うことはなく、ふつうのお祭りよりももっとサイレントでマナーモードなお祭りな感が
あった。だが生徒がやはり騒ぐのでそのルールもほとんど形骸化していて店側の呼び込みの声
さえないものの、普段からベランダは割とにぎやかな空間となっていた。
にぎやかな中にいる方が逆に勉強ができるという生徒(家ではテレビをつけながら居間で
勉強しているタイプ)は自習ビルには行かずによく好んでここに来るらしい。
自習ビルにもそういったタイプの生徒のためにわざとハードロックや
スラッシュハードコアのCDをかけたり、バンドに生演奏をさせている防音の自習教室がある
のだが、そっちよりも人が集まって作り出す自然なにぎやかさの方がやはり人気で
こちらの「ベランダ」の方に集まるのが常で、自習ビルの防音教室の方は練習用のスタジオ
をその日とることのできなかった軽音部員の練習場所に使われているのが現状だった。

カケルも石橋と何度か280円弁当目当てに「ベランダ」に来たことがあり、ある日は
そのままベンチで弁当をお茶片手に二人で食べて、カケルに至ってはベンチの上で
昼寝までしてしまったことがあった。

さて、本日は30Fも節電の対象からもれないのでカケルと紙巻がエレベーターを下りて
出てみると廊下は真っ暗だったが、そこからちょっと歩いてベランダの入り口の
ガラス製のドアの前までいくと、ベランダはいつも通り夜間用のライトがつけられており、
中には鍋の会場から移動してきたクラスの生徒たちと来週からクラスに編入してくる
末節高の生徒でにぎわっていた。
ドアを開けて二人は中に入ったが、それぞれに盛り上がっていて誰もこちらには
気づかなかった。そこいら中にバケツが置いてあり、ほとんどの生徒が手に線香花火を
もっていた。いつ着替えたのか浴衣を着てキャーキャー言っている数人の女子がいる。
じんべえを来た男子生徒が両方の鼻の穴に線香花火をつっこんで阿波踊りのような動きを
して周囲の笑いをとっていた。どちらとも末節高の編入してくる生徒だろう。
こんなことをしそうな輩は元々いなかったからだ。花火をやるつもりでどうやら
浴衣やじんべえを最初から用意していたようだ。こういうことに関しては抜けがない。
またもカケルの手首を引っ張っている紙巻は中央の噴水に近づきたいようであったが、
人だかりが邪魔で真ん中を通り抜けていくことはできなかったので外周のガラスの壁沿いに
迂回しながら近づいているらしかった。さっきは紙巻に服を引っ張られたので気づかなかった
が、手首を握られて紙巻の手の平がちょっとだけ汗をかいていることに気づいた。
カケルは一瞬だけすごく自分が夏の青春の中にいるなーという感じがした。
しかし、相手が紙巻じゃなぁ、、、
今度は床に肩をつけたりなんなりしてダンスを披露しているものがいた。
誰も関心していないはずだが、周りの枝葉学園の生徒が「おー!」
と言いながらパフォーマンスの区切りにに拍手をした。
この床に置いてあるラジカセみたいのもダンサーは準備してきたんだろうか。
紙巻に引っ張られながらもラジカセを倒さないようにカケルは注意して歩いた。
「枝葉学園」に元々いたクラスの生徒たちもみんながみんな嫌がってるとは
限らないようだ。明日からはまた勉強に戻るのだろうが、今日は祝祭と
割り切って楽しんでいる者も少なからずいるようだ。
してみれば日捲今日子の言った末節高の子がきて楽しくなるとは
一部の者にとってみれば間違ってないのかもしれない。
おれはそこの噴水の周りいるラグビー部員に踏んだり蹴ったりされたから
いい印象は未だもつことができないが、、、とカケルは内心思った。

「ここらへんがいいかなっ!よしここに決定!」
紙巻が噴水から斜めにちょっとはなれた位置に体育座りをした。
「ほら、わんわんもここにお座り!」
強制的にカケルは紙巻の横に座らされた。
わざわざ噴水の近くまできて何を見るかと言えば、
この打ち上げ花火だ。噴水の中に肩と膝までシャツとジーパンをまくって入った
ラグビー部員の2、3人が間隔をあけて次々打ち上げ花火を天に向かってあげている。
生徒たちのざわつきの中にほとんど一定の間隔でピュ~とかドンとかそれらしい
音が鳴っていた。そう言えばさっき30Fに着いたぐらいから鳴ってたなこの音。
「わーきれい!(パチパチ)」
と言って体育座りをしたまま紙巻は小さく手を拍手してみせた。
「わんわんも見て何も思わないの?もしかして犬になって早くも人間の心を
うしなっちゃったのかな?」
「だれが犬だよ、、、」
「ふたつばし」
「もう何でもいいよ」
「ふてくされないの!もしかしてまだ痛かったのかな~?」
と言って額に手を当てた。今日カケルのでこに手をあてたのは
二人目だが一人目(石橋)の手の何分の一だろうか?体型さながら小さい手だ!とカケルは思った。
「もうだいじょうぶだよ」
「…ごめん」
素直に謝った。カケルの経験では絶対今紙巻はちょっとしゅんとしてるはずだ。めんどくさい!
「いいよ。おかげで体内の悪い血が流せたし」
「変わったフォローするね」
「そう?」
「おう。で、聞くけどあんたは千代に謝ることなんかないのかな?、、、」
紙巻がカケルの顔を覗き込んできた。「何もない」が答えに決まってるだろ!
何をぬかしてるんだこいつは!?
「何のことだろ、、、鍋に遅れたこと?」
「ち・が・う!」
最後の「う」のところでカケルはデコピンを食らったがお気づきだろうか?
「と言うか、いくら噴水の水の中でやってるったって打ち上げ花火を
あんな素人が打ちあげて危なくないのかな。
転んで人が大勢いる真横にでも飛んだら大惨事じゃ、、、」
「あれって火薬をつかってない素人でも簡単にできる最新の打ち上げ花火らしいよ。
委員長がお家で買ったのをもってきたんだって。照明弾みたいで眩しいから
危険なのは変わりないかもだけどね~」
「そんなのあるんだー感心」
「感心するのは勝手だけどさーごまかしてないでさー
そろそろ言ってみようか、わんわん?」
「いででっ…鼻の穴に指を突っ込むなよ!だから何もしてないって!」
「うそつくな~!美容室のときとか、さっき委員長にさわられたときとか
でれでれしてたくせに~傷ついてる千代にもう一回言わせるなんてどこのどいつだ~!」
「よせ紙巻!それ以上奥へは…!鼻血が、鼻血が出てる…
あとそのくらいで泣くな!」

「うえ~ん、、、!!」

紙巻千代が泣きじゃくりながら左手の人差し指と右手の親指を
カケルのそれぞれ左右対称鼻の穴に突っ込んでいると、
「まさか二橋さん?こんなに早く会えるなんて!わ、わたし嬉しい!」
口を両手で押さえて感動を表現しながらそうギャル特有のでかい声で言ったのは
噴水の側からあらわれた日捲今日子だった。
ラグビー部員たちに「今日子あの人の腕にさっき抱きついたりして~…」
とカケルのことをけっこうな音声で説明している、、、
当然その説明は紙巻の耳にも入り、、、

「…ふたつばし?このままあんたのカラダごと持ち上げちゃったら、もっと血が
出るかな?千代、力ないけど今ならあんた一人くらい軽々もちあげられる気がする…!
途中で鼻が裂けちゃったりしちゃたりなんかしちゃったり…」

「う、うえ~ん、、!!!!!!!!!」

と泣きじゃくりながら頭をさっと紙巻の指からよけて、
その場を逃げ出したのはカケルだ!
血と鼻水と涙と(失禁はしてないと願いたいが)
いろいろな液体を垂れ流しながら二橋カケルは入り口を目指して走る。
思い出したように絆創膏のはがれた額も出血をはじめた。

「ちょっと待てやぁぁぁぁぁ!!!!!!」
「二橋さぁん!!!!!」
追いかける紙巻と日捲のツートップ。

そんな惨事もつゆ知らず、
52Fの視聴覚室では
「見て見て!今の真っ赤な花火血しぶきみた~い」と吹芽。
「待て。そんなグロテスクなことゆいは言わないぞ。よってミス」と向岸。

「えぇっ!みんなゆいにゃんにきびしいよー!
ゆいにゃんだって一人の人間だよ?」
と言う吹芽であったが、果たしてこんなんでいいのか?

17、
 「枝葉学園」一年諸君へ 

来たる2012年7月7日(土曜日)より同月14日(土曜日)までの期間で
プレテストを行う。本試験は諸君の成績には直接関係しないものである。
本試験を実施する趣旨は、8月に行われる一ヶ月間の中間試験(通称「院試」)
に向けて、諸君がこれまでの義務教育課程では体験したことがないであろう
「枝葉学園」の試験というものを一部肌で感じ体験することを通じ、院試
をはじめとする本番の試験で、ある面で特殊な「枝葉学園」試験実施過程
に臆することなく全力を発揮してもらおうというものである。本番の試験が
終わってから、思ったように成績が出なかったことを、「枝葉学園」の
特殊な試験過程のせいにしてしまうような惨めなことにならないように、
プレテストという前もって諸君に与えられた遊泳訓練の機会を存分に活かし、
学園に入学してから諸君がそれぞれに努力をして積み上げた学習の成果を
如何なく発揮されたいものと我々「枝葉学園」の理事長をはじめとして、
教師一同は考えている。また、諸君が試験実施過程に「慣れる」という
目的は勿論だが、プレテストのテストそのものについても直接成績に関わら
ないからと言って手を抜かないように挑戦して頂きたい。「機会を活かす者
は自分を生かす」という言葉がある。感受性豊かな時期の只中に生きる諸君
こそ是非参考にして欲しい。

                 2012年7月2日
                    「枝葉学園」理事長  大木幹雄

 
   プレテスト実施要綱
(1) 科目について8月実施予定の院試と同様に52科目とする。但し、問題の
  量はプレテスト実施期間が院試の4分の1であることに鑑みて、期間と同様
  4分の1とする。また、それに付随して点数も各々、配点が100点の教科
  については25点満点。200点の試験に関しては50点満点とする。
  (その他の例外的な配点の科目があれば、その科目についても満点を同様に
  4分の1とする。)
(2) 試験を実施する場所について、1年校舎ビルとは異なる、テスト棟
  (通称「万里の長城」)を使用する。
  テスト棟の割り当ては掲示板またはforest(枝葉学園ホームページ)に追って
  記載する。(予定では例年と同じく1号館から8号館を3クラスずつに割り当
  てる予定)
(3) 寝具について。枕、毛布、掛け布団、敷布団の一組を各個人の個室に用意
  するのでとくに持ち込む必要はない。
(4) 持込みについて。原則 一切の本、資料、ノートの持込みは可能とするが
  教科主任によっては各教科ごとに禁止している場合もあるので注意すること。
  (カンニングした者はその教科または、全教科について無得点となる。)
(5) パソコン、携帯電話のテスト棟への持ち込みも可能である。
(6) 食事については用意しないので各自持ち込むか購買を利用すること。
(7) 風呂はテスト棟に付属の個室シャワーを使うか、学内銭湯を利用すること。
(8) 施錠について。各個人の、、、、、、、、、

岩波廃人文庫 第1幕「試験前夜祭」

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岩波廃人文庫 第1幕「試験前夜祭」

人生という長大な試験よ、、、もういい加減にして頂戴!

  • 小説
  • 中編
  • 青春
  • ミステリー
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-04-16

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