早起きは三文のなんとやら

以前ツイッターでお題をいただいて書いたもの。

 その日の朝食は昨日隣の家の安田さんがくれた卵で作った目玉焼きに、沢庵をふた切れと、地元名産の白米と、それから父親お手製の味噌を使った味噌汁だった。いつもとなん変わりない、当たり前のご飯だ。
 朝だけはどうも奮発してしまう。この町は何もないが、唯一いい事は食べ物が美味しい事だ。朝は活力を付けるためによく食べるんだよ。そう祖母に言われていた事を思い出した。
 しかし今日の朝食は違う。皿の並べ方も、皿の種類も、米も、味噌汁も、何もかも同じである。ただ、食べる時間だけが違った。
 早起きは三文の徳であると言うが、寝ている事が一番の幸せである私にとって、早起きなどというのはもはや冒涜に近いそれである。あの至福のひと時を自ら削るなど、草の根を分けても考えられないことだ。その私は今日、足の生えた茄子――お盆によく見るような――に追いかけられる悪夢を見た私はは、うなされていつもよりも数時間早く目が覚めた。人間の体とは不思議なもので、朝起きると何が何でも腹がなってしまうらしい。
 一度は二度寝、あるいは三度寝を考えたが、鳴り出した腹は止む気配がなく、私はその余りのうるささに耳を塞ぎ、止むを得ず台所に立った。そして今に至る。
 三文の徳とは一体なんだろうか。寝ぼけているとどうも体が思うように動かず、ベットから出てすぐ一度転んだ。さや豆を切っている最中に誤って指先を少し切った。コップに入れたコーヒーは盛大にこぼした。これでは徳というよりも損である。
 今日の私に、何か徳などあるのだろうか。ひどく、憂鬱な朝だ。

○○○

 二時間ほど経って私は会社へ出勤した。今日の仕事は相手先に出向き先日の上司三浦のミスを謝罪して回ることだ。本来ならばいつも通りの筈が、急遽その上司が風邪を引き、審議は定かでは無いにしろ代わりに同じ部署の隣の席である私が行くことになった。
 集団責任という理屈が分からない訳ではないが、上司が胸を張り任せろというので任せていたら知らないうちに起きたミスを、風邪をひいているから代わりに、まず直接の原因ではない自分が謝罪しなければならないというのは、いささか妙な気持ちになる。
「この度、大変なご迷惑を……」
「そんなことは構いません。ただ、こういう時は本人が来るべきではないのでしょうか」
「申し訳ございません。三浦は風邪を引いてしまいまして」
「本当なのですか?」
「はい。大変申し訳ございません」
 相手方の視線が突き刺さるのが分かった。私ですら本来、本人が来るべきであることぐらい分かっている。しかし私も上司、それも部長の指示に逆らうことなど出来ないため、やむを得ないのだ。
 就職難の中入社したこの会社を、そんな些細な理由で退社など意地でもするものか、というプライドが私の体の中を2周3周している。それと同時に、やはり今日の私は徳などしていないという事を受け止めきれない意識がぐるぐると回り出した。
 二つ目の会社は、温厚そうな男性が対応してくれた。普段優しい人が怒るとあまりに恐ろしいものだと言うが、まさにその通りである。彼の笑顔から垣間見える怒りがひどく恐ろしかった。
 今日この日、やはり徳など見当たらない。せめて昼食くらいは美味いものを食べようと、私は会社まで戻り社員食堂でとんかつを食べることにした。この会社の唯一の利点は、社員食堂が広く、安く、尚且つ美味いことである。正直なところ、私はこれに惹かれ面接を受けた。
 相変わらず人とは思えないばかりの人で溢れている。昼食ばかりは皆活力が有り余るため、食堂はいつも活気に充ち満ちている。
 食券機からとんかつを買い、次に待ち受ける受け取り口は第一の難関である。列などあったものではないため、気がつけばカレー用の列に紛れていたり、はたまた薬膳用列に並んでいたりすることが多々ある。これをなんとか抜けると、最大の難関席探しがある。何故かこの食堂は事前に席を取ることを禁止している。以前窃盗があったなどと聞いたが、その防止だろうか。
 一人で座れそうな席は見つからない。相席でも構わないかと思い、近くの一人で食事している女性に声をかけた。同じ部署の小泉さんである。
 彼女は我らの部署の紅一点だが、それを気にもせず、尚且つ仕事熱心で、向上心を忘れることがない。しかもこの整った顔だ。私が声をかけたのは、知らないうちの私の下心が彼女に掴まれてしまったからなのだろう。
「相席、いいですか?」
「あ、はい。構いませんよ」
 彼女はとんかつを食べていた。
「小泉さんもとんかつですか」
「……なんだか無性に食べたくなりまして」
 ただそれだけなのに妙な親近感を感じてしまった私は、今朝の出来事を彼女に話すことにした。茄子の夢は格好がつかないので省略したが、それを静かに聞いていた彼女はとある一言を呟いた。
「同じだ」
「同じ?」
 何が同じなのだろうか。そう思い彼女に聞き返すと、返ってきたのはあまりに衝撃的な言葉だった。
「同じなんです。今日、なんだか不気味な夢を見て、いつも通りの朝ごはんを少し早めに食べて。早起きしたのに良いことなんて見事にないものですから、徳ってなんだろうなあって」
「へぇ」
「何か夢、見ていたりしませんか?」
「茄子に追い掛けられる夢を」
「私も」
 驚いているからなのか、それともただ混乱しているからなのか、とんかつを摘んでいた箸は止まっていた。彼女の皿には既にとんかつは乗っていないため、かわりにトマトが摘まれている。ここは違うのかなどと妙に冷静私は彼女の箸先を眺めていた。
「あの」
「はい」
 小泉さんはそれは綺麗な笑顔をした。彼女が笑ったのを見たのはいつぶりだっただろうか。新年会か、忘年会か、それとも入社直後に飲みに行った居酒屋だったか――ともかく、随分と久しぶりのことになる。
「これはもしかしたら、運命だったりするのかもしれないですね」
「は」
「それでは私は先に。ごちそうさまでした」
 そそくさと去っていった彼女を横目に私はとんかつを口に入れた。味はしない。彼女の後ろ姿と共に揺れるひとつ結びがとても愛らしく見えた。
(なるほど。これは確かに、徳かもしれない)

おわり

早起きは三文のなんとやら

早起きするとちょっとだけ得した気分になれるよね。そんな話でした。

早起きは三文のなんとやら

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-10-28

CC BY
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