エイミー
エイミー
布団が好きだ。
二階へと続く階段を上がり、短い廊下を渡って自室のドアを開けると、向かいの壁際のど真ん中にグレーのパイプベッドがどっかり陣取っている。中学までは一階の寝室に置かれていたけれど、高校に入って自分の部屋を持つようになると同時に、ベッドもその場所へ移動された。
いつからそのベッドが家にあるのかは分からない。薄暗いクローゼットや、地味な柄の白い壁紙や、埃をかぶった地球儀なんかと同じように、とにかく小さな頃からあって、僕にとってはもはやこの家の一部のようなものだ。
僕はいつも高校から帰るなり、堅苦しいブレザーを脱ぎ捨てて勉強机の椅子に投げるように引っかけ、まずは厚い掛け布団の上にバサっと倒れ込む。
綿100%。さらさらとした肌触りのカバーが、ひんやりとしていて気持ち良い。布団に顔をうずめて、深く息を吸い込む。そしてゆっくりと吐き出す。するとみるみるうちに、学校で溜め込んだ数々の疲れが全身から抜け出て宙にただよい、開けっ放しの窓から外へと流れ出て行く。
そのままの状態で五分から十分。その後多くの場合はベッドから起き上がり、ゲームをするなり、本を読むなり、インターネットに勤しむのだが、そうでないとき——つまりよほど心身共にやっていられないようなときには、そのまま布団に潜り込んで眠ってしまう。
掛け布団は二枚重ねで、中はふかふかの毛布である。自分の毛布の匂いというのは、どうしてこんなにも落ち着くのだろう。お日様の匂い、という風にも言われるけれど、天日干しの際に死んだダニのにおいだと聞いたこともある。だけどそんなことはどうでもいい。とにかく僕は毛布にも同じように顔をうずめて、その心を落ち着かせる空気を胸いっぱいに吸い込み、一日の疲れを癒すように努めるのだ。しばらくして起き上がるつもりでいても、最後はそのまま無意識のうちに眠り込んでしまう。
そんな日は大抵、夜中に起きることになる。昼寝から目覚めたときは、必ずねばつくような不快感がつきまとう。制服のまま寝てしまうせいで、ひどく汗をかく。頭の後ろや脚などは無性に痒くて、それはなかなか治まらない。耳の奥に綿でも詰められたかのように周りの音が遠くなり、まぶたは重い。ひどいときには頭痛もする。
体がだるくて何をする気力も湧かないので、結局そういう日の残りは風呂に入り、夕食を食べて、歯を磨いて眠るだけの時間となる。
ある日、昼寝から目覚めた僕が重い体を起こしてデジタル表示の置き時計を手に取ったとき、時刻はもう夜の9時を回っていた。転がり落ちるようにしてベッドから降り、階段を下りながらシャツのボタンを外し始める。脱いだ服をかごに放り込み、シャワーを軽く浴びてどっぷりと風呂につかった。
もう今日も残り少ない。それを思うと、どうにもやるせなくなってくる。もうあと数時間もすれば、昨日や今日の朝と何も変わらない明日の朝がやってくるのだ。
家にいながらにして、早くも登校の準備をしているような心持ちになる。湯船につかっても気分はほとんど休まらない。
僕は一人、おっさんみたいなくたびれたため息をついた。それから湯船の内側についた水滴を人差し指で動かしながら、もう一度、今度は寒空の中に消え入りそうな切実なため息をついた。
「——帰りたい」
まるで他人の声のような淡白な呟きが風呂場の中に響いた。帰りたい。家にいながらにしてそんな文句が自然と口から出てきた。
それについて、自分にあえて突っ込みをいれる気にもなれない。今の気分を的確に表現する言葉といえば、「帰りたい」の四文字より他はなかった。
湯船から上がると、いきなり視界が真っ白になって意識が飛びかけた。まるでプライベート・ライアンの最初の場面みたいに、周りの音もほとんど聞こえなくなった。風呂上がりのめまいは日常茶飯事なので対処法は知っている。とにかく深呼吸をして、それでも危うければ頭に冷たい水をかける。そうすれば、大抵は無事に治まってくれる。その日のめまいはとくにひどかったけれど、慣れた方法で何とか意識を取り戻し、転倒して頭を打ち付ける事態は免れた。
夕食は自分の部屋で一人で食べた。僕は一人っ子だ。一緒にご飯を食べる兄弟はいないし、親とも大して仲は良くない。何か問題があるわけでもないけど、あまり友達のように気を許した会話をするわけでもない。家では一人でいる方がずっと気が楽だった。
「……部屋で食べるよ」
鶏肉の煮付けとご飯と味噌汁が乗った盆を運びながら、僕は言った。聞こえても聞こえなくても別によかった。
「うん」と、母さんは料理に使った道具を片付けながら目もくれずに返事をした。父さんは真っ赤に酔った顔でテレビの野球中継を見ていた。
部屋ではよく音楽をかける。左手で鶏肉の骨をつまみながら、右手でパソコンを操り「Dinner」と題したプレイリストを選択した。
僕はプレイリストをたくさん作る。寝る時に聴くものとか、気分を盛り上げたい時用とか(本当に盛り上がった試しはない)、入浴用なんてものも作ってある。自分の感覚で色んな曲を並べるのは楽しい。色んな局面に合わせて曲を選んでいると、まるで自分の生活がどんどん色づいていくような気がする。一つ一つの何気ない日々の習慣に、はっきりとした区切りがつくような気がしてくる。だけどそれは勿論、そうしている間だけの虚しい錯覚でしかない。
窓の外からは蛍光灯の白い明かりが差し込んでくる。僕はこの明かりがあまり好きではない。それは羽虫が集って熱に触れて死んでいく様子や、深夜の交通事故や、何やら不穏な事件のイメージを僕に連想させた。それに、窓から星を覗くのにも、その光は邪魔で仕方がなかった。
卓上スピーカーから流れる『Amie』がサビに入ろうとしていた。僕は少しだけ音量を上げた。
ダミアン・ライスの歌声に合わせて、僕は自分にもよく聞こえないくらい小さくサビを口ずさんだ。なぜかサビの部分だけははっきりと歌うことが出来るし、言葉の意味も理解している。
初めてこれを聴いたのは深夜のラジオだった。とても繊細で綺麗な曲だと思った。何となく、どこか懐かしいような気分にもなった。
そして、なぜかその時は少しだけ泣いてしまった。夜中に感極まって泣くのは別に珍しいことではない。だけどその時の涙は、自分でも全く訳のわからない涙だった。自分の中に感傷的になりやすいもう一人の誰かがいて、そいつが勝手に泣いているみたいだった。
夕食を終え、食器を流しに運んだときには、一階はすでに暗くなっていた。僕は一通りの皿洗いを済ませてから洗面所に向かい、歯ブラシを手に取った。ペタンコのチューブから歯磨き粉をひねり出して歯ブラシにつけた。それを口に突っ込んで、適当に動かし始める。
歯磨きはいつもだらだら長くやる。少なくとも毎回十分以上は掛かっていると思う。その間にやることは様々だ。テレビを見たり、片手で漫画を読んだり、部屋に戻って「Brushing」のプレイリストを流したりと、その日によって違う。
その夜はと言えば、僕は特に何もしていなかった。左手で歯ブラシを動かしながら、暗い一階の廊下をただぶらぶらと歩いた。通路の幅は狭い。廊下の片半分には階段があって、その側面には壁がなく、ちょっとした空間が出来ている。そこには色々な掃除用具や、母さんが買ってきて以来全く使われていない健康器具や、殺虫剤や電池などを入れたプラスチックの小さなチェストなどが所狭しと置かれている。僕は何気なく、その雑多な空間へと目を向けた。空気に漂う殺虫剤のにおいが微かに鼻に入った。————
そのとき僕が「それ」に気がついたことには、何か特別な理由があったのだろうか。
その日、そのタイミングでなくてはならないような訳が、何かしらあったのだろうか。
多分無いと思う。
強いて言えば、たまたまその夜は目が冴えていて、歯を磨くという単調な動作以外にやることがなかったからだろう。静まり返った家の中で、僕はほんの些細なあるものの存在に気がついた。
階段の裏の狭い空間。掃除用具や健康器具の類でゴチャゴチャになったガラクタ置き場の奥の方に、「両開きの小さな扉」がある。目立たないので今まで分からなかったが、確かに扉の木縁や丸い取っ手の形が、暗闇の奥にちらりと覗いている。
こんなものが家にあっただろうか。あったといえばあった気がする。だけど、無かった——つまりつい最近その場所に取り付けられたんだと言われれば、それでも感覚としては違和感がない。だけど流石に後者はおかしいだろう。わざわざ今さら、あんな所に物置を造るはずはない。
僕はずっと暗い廊下に立ち尽くして、歯を磨きながらその扉をじっと見つめていた。
自分の住み慣れた家に知らない場所があるというのは不思議だった。ずっと昔からこの家に住みついている幽霊を見つけたような、不安と好奇心が入り乱れた気分になった。
その晩、僕は布団に包まれながら、眠りにつくまであの扉のことを考えていた。
中の広さはどのくらいだろう?
中にはどんなものが収納されているのだろうか?
そもそも、一度でも使われたことがあるのだろうか?
中に何も入っていないならいないで、少しワクワクする。僕は狭いところが好きだ。もしもあの扉の先が小さな個室だったなら、そこに寝転がって本を読んだり、音楽を聴いたりしてみたい。布団を敷いて、ミニランプやラジオを持ち込んで、自分だけの空間を作り上げるのだ。
誰にも干渉されない状態こそ本当の自由なのではないかと、僕は時々考える。だけどその度に、僕の中で、僕以外の多くの人々が反論する。
それはただの孤独で、君は逃げているだけでしかないと。
そう言われたら、そうかもしれないと思ってしまう。そうかもしれない。それは悲しい孤独だ。ただの逃げだ。僕は何かに立ち向かわなくてはならないのだ。
だけど一方で、僕の考えに賛同し、味方をしてくれるものがある。それは自然だ。
花や草木、あるいは月や雲は、いつだって僕が一人でいる自由を良しとしてくれる。それを孤独と呼んで哀れんだり、何かから逃げていると責めるようなことは絶対にしない。
外の道路を車の走り抜ける音が聞こえた。赤と白のライトが部屋の天井を滑るように照らして、消えていった。
僕は何となく、泣きたいような気分になっていた。それでも涙は出てこないので、あくびをかみ殺して泣いた振りをしてみた。すると少しだけ気持ちが楽になった。次に大きく口を開けてあくびをすると、だんだんと眠気が増してきて、そこから先はもう何も分からなくなった。
翌朝、僕は母さんにあの扉のことを訊いてみた。母さんは少し考えた後、何でもない風に答えた。
「ああ……そういえばあったっけ。もう何年も使ってないから、忘れてた」
それはほとんど答えにはなっていなかった。僕は僅かに語気を強めて質問した。
「あれは物置?中に何がある?」
「さあ、忘れちゃった」と母さんはあっさり言った。「それより、もうあまり時間ないでしょ?早めに行きなさいよ」
僕は暗雲のような疑問を頭に残したまま、半ば追い出されるような形で家を出て行った。
*
学校はいつもの通りだった。本当にいつも通りだ。
——全く同じ日なんてない。毎日必ず、何か新しいことが起きる。
そういう言葉をどこかで聞いたことがあるが、少なくともその「新しいこと」は、学校にいる間は起きてくれない。平日は大半を学校で過ごして、休日は大体家の中にいるので、実質ほとんど何も起きない。希に起きたとしても、大抵は忘れてしまった方が良いようなことばかりだ。
その日も僕は、何となく満たされない心持ちのまま、六時限の授業と五回の休み時間、そして二度のホームルームを終えて学校を後にした。帰り道は中学からの友人と一緒だった。
「……たまに、家にいるのに帰りたいって思うことがある」
僕が帰りの会話で始めに言った言葉はそれだった。昨日の風呂のことを思い出していた。
「ああ。なんか分かるよ。帰りてぇ、って言っちゃうよな」
彼はぶっきらぼうな口調で僕に同意した。彼は昔からスポーツに長けていて、今は野球部に所属している。だけど彼は体育会系の人たちが持ち合わせている、強い仲間意識の中に身を置くのがあまり好きなタイプではなかった。特定の誰かと仲良くするわけでもなく、いつもふらふらしていた。その日あったはずの練習も、どうやらサボったらしい。
だけど、だからこそ彼は、他のどの運動部員よりもより自由に近い存在だと思う。彼は自分の興味だけに従って生きている。僕はそのことを心からリスペクトしていた。
「あれ、なんでだろうね。もう帰ってるのに」
僕は田んぼの向こう側にぽつんと見える、古い洋風の一軒家を眺めながら続けた。僕はその家の、青い枠のついた大きな出窓が好きで、帰り道ではいつもそれを眺めていた。
洋風の家に気を取られているうちに、いつのまにか僕の目の前には一人の小さな女の子が立っていた。女の子は不思議そうな表情で僕の顔をじっと見上げていた。
「どこに隠れても無駄だよ」
女の子はそう言って、にっと僕に笑いかけた。僕も少しだけ微笑んだ。
「実は、帰ってなかったりして」
彼が滅茶苦茶わざとらしく含みを持たせてそう言った。僕はふと我に返って聞いた。
「えっと、つまり何?」
つまりだな、と言いながら彼は道路に転がる空き缶を蹴飛ばした。空き缶はからんころんと音を立てて、停車している軽トラックの下に入っていった。それと入れ替わるようにして、白黒の縞模様の猫が驚いたような鳴き声を上げて、トラックの下から出てきて走り去っていった。猫の目は青くて、宝石のように綺麗だった。
「……他に帰るところがあるんじゃないかってこと」
猫の後ろ姿を見届けてから、彼は続けた。僕はそれについてどう答えるべきかよく分からなかった。
それよりも、彼は本当にこんな話がしたいのだろうかとか、実は退屈しているんじゃないかとか、そんなことばかりが妙に気になっていた。
「聞いてた?」
彼が僕の顔を覗き込むようにして尋ねた。僕は慌てて「ああ。聞いてたよ」と言った。女子の三人組が楽しそうに会話をしながら、道の反対側を歩いていった。
「……俺、変なこと言ったかな」
彼は少しうつむいて、慣れない考え事をするような顔でつぶやいた。僕はそれを否定するべきだったけど、適当な台詞がどうしても思いつかなかった。
沈黙がしばらく続いた後、彼は「じゃあ、またな」とだけ言った。そしてくるりと背中を向けて、まだ何かを考えているような様子でとぼとぼと左の道を歩いていった。
「ああ。じゃあね」と僕が言うと、彼は背中を向けたまま手を挙げた。僕は何となく、取り残されたような気分になった。
それから家に帰って荷物を下ろし、ブレザーを脱ぎ捨ててベッドに倒れ込んでからも、僕はずっと拭いきれないもやもやとした感じを抱え続けていた。
布団に顔をうずめ、ゆっくりと呼吸をする。寝返りをうって、開けっ放しの窓から重たい曇り空を見上げる。
そのまましばらくボーッと時を過ごしていた。
するとその最中に、何か黄色いひらひらとしたものがいきなり僕の視界に飛び込んできた。僕は思わず起き上がり、そのひらひらの飛んで行く方に顔を向けた。
それは黄色い蝶々だった。蝶々は僕の鬱屈した心をまるで構うこともなく、幸せそうに部屋の中を飛び回った。
まるで誰かが蝶々になることを望んで、それがついさっき叶えられたみたいだった。そう考えると、何だかうらやましく思えた。
しばらく蝶々を眺めていると、それは窓から外に出ていくことなく、ドアの隙間から廊下へと出ていってしまった。僕は歩いて蝶々を追いかけた。蝶々は廊下でしばらく飛び続け、たまに階段の手すりに留まって休憩し、また飛び始めて、少しずつ一階へと降りていった。
妖精に導かれるようにして、僕は一階に降りた。蝶々は玄関の花瓶に挿してあるコスモスに留まって、蜜を吸い始めた。
蝶々は長いこと蜜を吸っていた。その間に僕はふと、昨日の「扉」のことを思い出した。それは薄暗い廊下の中に、確かな気配を漂わせ続けていた。
蝶々がコスモスの香りに吸い寄せられたように、僕はその非日常的な気配の渦に吸い寄せられていった。
扉はやはりあった。そこから消えてなくなっていたりはしていなかった。昨日よりも周囲が明るい分、さらにはっきりとそれは見えた。どうしてこれまで気がつかなかったのか、尚更不思議に思えるくらいだった。
次に僕は、その扉を開けたい衝動に駆られた。
掃除機や何かを全部廊下に押しのけて、あの中がどんな風なのか見てみようか。それとも開けずに、色々な想像を楽しんだ方が良いのだろうか。今は両親とも家にいない。実行するには絶好の環境だ。
僕は長く迷ったりはせずに、当然のように障害物を取り除く作業に着手していた。モップや掃除機や自転車のような形の器具などを廊下に引っ張り出すと、ついにそれは全体を露わにした。
少し屈まないと入れないくらいの、横長の両開き扉。その真ん中に二つ並んだ丸い木の取っ手を、僕は両の掌にしっかりと握り込んだ。
自分でも驚くくらいに、心臓がどきどきしていた。一呼吸の後、僕は両腕に力を込めて、一気にその扉を開け放った。
そして僕は絶句した。フランス人形のようにぱっくりと目を見開いた。頭の中の言葉すらも完全に失った。
突然僕の目の前に広がったのは、見渡す限りに続く広大なアスファルトの地面だった。
その地平線上にあるものは、かすかに灰色がかった白い透明な空気。それはとても空と呼べるような代物ではなかった。それ以外には山も建物も、何もありはしない。
呼吸が勝手に荒くなる。だけど僕は、その場所から引き返すことだけはどうしても出来なかった。今ここで扉を閉め、全てを元通りにして無かったことにしようとしても、この恐ろしい光景はいつまでも僕の頭の中に巣食って、一生に渡って僕を怯えさせ続けるだろう。僕はそれを無意識の内に確信していた。
やむを得ず、僕はその恐ろしく空虚な世界へと足を踏み入れた。
わずかに寒い。時折吹いてくる冷たい風に、身体を震わせた。
僕はあてもなくそこをさまよった。何も目的はなかった。
その場所の正体が何であって、一体どんな意味があるのかすらも、考えることはなかった。扉はもう見えない。引き返してみても、元の位置にまで辿り着ける自信はなかった。
僕はもう、何もかもがそれで終わってしまったのだとさえ感じていた。ここから見出せるものなど何も無くて、与えられるものも、失うものだってありはしない。
僕は死んだのだと思った。
きっとあの時、扉の裏側にもたれていた鋼鉄のパイプか何かが頭の上に倒れてきて、僕は今、死後の世界に立っているのだと。
それは悲しいけれど、一番安心できる説明だった。そうでなければ、僕はこの足下が崩れ落ちるような恐怖の現実を認めなければならない。世界が自分に嘘をついていた怖さを、受け止めなければならない。
そんなことが出来るはずはなかった。歩くたびに恐怖心は増幅し、それは身体を動かす気力さえも奪っていった。そして僕はほとんど動くことができなくなった。
アスファルトに右手と両膝をついて、左手で必死に自分の心臓を押さえた。ひどいめまいがした。風呂上がりのときとは比べ物にならない、何もかもが歪んで溶けるようなめまいだった。
「誰か」
心の中の叫びが声になって出てきた。僕は確かに人を求めていた。孤独がこんなにも苦しいと思ったのはそれが初めてだった。
「誰か」
まるで惨めな気分だった。今まで愛してきたはずの孤独が、冷たい爪を立てて僕をずたずたに切り裂いていく。そして僕は手のひらを返したように、必死に自分以外の誰かを求めて叫んでいる。こんなにも惨めで、情けなくて、残酷なことが他にあるだろうか。
しばらくの間、僕はうずくまって泣き続けた。寝転がって、身を捩り、すすり泣きに泣き続けた。それからどのくらい経っただろうか。僕はいくらか落ち着きを取り戻し、涙を拭った。
遠くの方に、黒いものが一つポツンと立っているのが見えた。さらによく見ると、それは二つ、三つと徐々に多く姿を現していった。
僕は身体を起こし、ふらふらとそれに近寄った。段々と鮮明に見えてきたそれらは全て、サラリーマン風のスーツを着た人間の大人達だった。
良かった。人だ。
頭ではそう思った。だけど心はほとんど安心していなかった。
確かにそこにはたくさんの人々がいる。だけどそれらは皆、まるで生気がなかった。中には携帯で通話をしたり、何かの書類に目を通している人もいた。そしてその一人一人が、まるでゾンビのように哀れに見えた。ゾンビが人間の真似をしているみたいだった。声を掛けてみても、ちらとこちらに目をくれたきり、誰も彼も顔を背けてしまう。中には睨みつけるような怖い目を向けてくる人もいた。
僕は先ほどまでとはまるで違う、それでいて全く同じ種類の不安を胸に募らせていた。せっかく出会えた人々は、敵でも味方でもなかった。だけど一歩間違えればすぐに敵になって、僕の立場を脅かしかねない危険さも併せ持っていた。
そこにいるのに、どんな干渉を持つことも許されない。僕は依然として孤独だった。実物としての人がそこにいる分、余計に孤独が引き立てられた。
それにそこには、草も木も花もない。月もないし、雲もないし、鳥も虫もいない。
強烈な寂しさに怯えが止まらなくなった。きっとこのまま、僕は気が狂うのだと思った。
僕は今まで、自然が自分の孤独を許してくれているのだとばかり思っていた。だけどそれは大きく違った。自然がそこにあるおかげで、孤独が癒されていただけだったのだ。こんな状態にまで追い込まれて、僕は生まれて初めてそのことに気付いた。
いつのまにか、視線がさっきよりも高くなっていることに気がついた。周りの大人達の顔が同じくらいに見える高さだった。
次に僕は自分の両手を見た。見るからに大きくなって、毛穴の数が増えていた。恐怖に漏れた吐息は、まるで他人の声のように低くくぐもっていた。
最後に僕は全身を見下ろした。明らかに背丈は伸び、体中真っ黒いスーツにびっしりと包まれていた。
僕は思わず叫んだ。そして駆け出した。空虚で孤独なアスファルトの世界をひたすらに走った。だけどすぐに激しい息切れとめまいに襲われて、ばったりと倒れ込んでしまった。それは自分の身体とは思えないほどにやわだった。
僕は再び泣いた。嗚咽や咳を漏らして泣いた。巨大なものの存在に怯え、無限に続く洞穴のような孤独に震え、涙は止まらなかった。僕は泣き疲れるまで泣いた。徐々に意識が薄れ、白い世界は深い暗闇に浸食されていった。今度こそ死ぬんだと思った。僕が最期に見た悪夢は、今まで僕が信じてきたことを何もかも覆して、最上級の恐怖を僕に叩き付けた。これ以上の罰はきっとありはしないだろう。
出来ることなら、誰かに寄り添いたい。僕はそう心から願った。もしも死後の世界があるならば、どうかこの永遠の孤独から解放して欲しい。暗く閉じていく意識の中で、僕は儚く願った。そして暗闇は、僕の視界と意識とを完全に覆い尽くしてしまった。
*
僕はどこか狭くて暗いところで、窮屈に縮こまっていた。
今までの壮絶で恐ろしい記憶は、なんだか遠い昔の出来事のように思えていた。
小さな子どもがフローリングの床をドタバタと走り回っている音が聞こえる。そう——これは確かに妹の足音だ。
「どこへいったの?もう晩御飯の時間だよ」
妹は困ったような声を上げながら僕を探している。僕はふっと微笑んだ。その直後、ひねり出したような猫の叫び声が聞こえて、僕は思わず声を立てて笑ってしまった。あの子はまたしても彼の尻尾を思いっきり踏んづけたのだ。これでもう何度目だろう。僕が笑い声を押し殺そうとしているうちに、扉はさっさと妹の手によって開け放たれてしまった。
「見つけた!」
僕は笑いながら観念した。母さんが夕食をテーブルに運びながら、無邪気な調子で僕らに話し掛けた。
「あら。そんなところに隠れてたの?お庭で隠れんぼしてたのに、ちょっとずるいんじゃない?」
「そうだよ」
妹が不服そうな顔で僕に言った。僕はなおも愉快に笑い続けた。
「だからって、なにも夜までかかって探すことはないだろ?あんまり見つからないから、途中で寝ちゃったよ」
それを聞いて、テーブルで大ジョッキのビールを飲んでいた父さんが豪快に笑った。
「ずーっとそこで寝ていたのか」
向かいに座ってミートパイを食べていた父さんの友人も笑っていた。
僕は狭い物置から這い出して、思いっきり伸びをした。ずっと体を丸めていたのに、全く痛みはなかった。妹は猫を抱いて窓際に座り「もうそろそろだよ!」と言った。すると他の皆も一様に、窓の外に目を向けた。
我が家の大きな出窓からは、広々とした丘が見下ろせる。丘の上にはよくカンガルーが跳ね回っていて、妹はそれを見てはいつも喜んでいた。今も一匹のカンガルーが草の上にぐうたら寝そべっているが、今はそれよりも重要なイベントが、それよりも遥か向こうの方で起きようとしていた。
ごおと大きな唸りを上げて、スペースシャトルが火を噴いた。もくもくと、ものすごい量の煙が上がって、スペースシャトルは夜空をぐんぐんと上っていく。
「上がったな」と、父さんが言った。
「うん」と、妹も嬉しそうに応えた。「あれはどこにいくの?」
「あれは衛星を載せているんだよ。宇宙にいって、地球の周りに衛星を飛ばして、色んな通信に使ったりするんだ」
僕は妹に教えてあげた。妹はなにも言わずに、目を輝かせてスペースシャトルを見送った。スペースシャトルは希望の眼差しに見送られながら、夜空の向こうへと消えていった。
「行っちゃったね」と妹が言った。
「ああ」と僕は、少し寂しい声音で応えた。
スペースシャトルが去った後、しばらくすると煙が晴れて、満天の星空が姿を現した。いつ見ても綺麗な星空だ。
皆は少し静かになって、各自で打ち上げの余韻に浸っていた。
僕は壁際に座って、窓の外の星空を眺めていた。何となく心がもやもやとしていた。僕が少しうつむくと、妹は傍らに腰掛けて、そっと僕の顔を覗き込んだ。
「どうしたの?」
そう言われたとき、僕はやっと彼女が隣にいるのに気がついた。
「ああ。ちょっと、変な夢を見てたんだ」
隣の家の庭から、陽気な音楽と人々の笑い声が聴こえてきた。きっとさっきの打ち上げを見ながら酒でも飲み交わしていたんだろう。
「夢……怖い夢?」
妹は心配そうに聞いた。
「ああ。すごく怖い夢だよ」
そう。それはとてつもなく長くて、とてつもなく恐ろしい夢だった。それは間違いない。だけど、その恐ろしさを今の僕が理解するのはちょっと難しい。とにかく捉えようのない、得体の知れない怖さとしか言いようがなかった。
窓から見える弓なりの地平線を越えた、もっともっと遠くの方で、あの恐怖は今でも続いているような気がした。気がしただけに過ぎなかった。それは貧しい国の争いや犠牲を思い浮かべるみたいに、あまり現実感はなかった。
「じゃあ、今度は楽しいお話をしてあげる」
母さんの真似をするような口調で、妹が言った。微笑む彼女の肩の向こうに、一筋の流れ星が光った。
「ありがとう。エイミー」と、僕は言った。なぜかすこぶる幸せな心地だった。
いつも通りのありふれた夜が、こんなにも幸せに思えるのはなぜだろう。まるで人類の危機を乗り越えた後の、最初の晩の宴みたいだ。
窓の外から一匹の黄色い蝶々が入ってきて、ミートパイの上で羽を休めた。
父さんが「こら」と声を上げて蝶々を追い払った。
それを見た僕は心底愉快に大笑いした。
皆はちょっと不思議そうな顔つきで、僕が笑うのを見つめていた。
エイミー