龍笛
「九十番、川崎繭子。」
と、刑務官は言った。繭子は、緊張した面持ちで、はいと、返答した。
「十五年間よくやったわね。外へ出てからも、しっかりやるのよ。もう、あれやこれやと、指示する人は、いないのだから。」
「わかりました。更生して、真人間になります。長い間、ありがとうございました。」
そういって、彼女はわずかばかりの荷物をもって、刑務所の正面玄関を出た。外は驚くほど、陽がぎらぎらしていた。十五年ぶりに外へ出て、素直に嬉しいと思った。刑務所に送られたときに、父母は、いつまでも待っていると言ってくれた。彼女は慣れない足で駅に向かった。家に帰る手段もちゃんと覚えていた。昼だったから、電車は空いていた。
繭子は、車窓から外の世界をしげしげと見た。電車は山道を走って、よく肝試しと言っていたトンネルを抜けた。そのすぐにある駅で、繭子は降りた。
道を歩いていくにつれ、繭子は不安になってきた。いつまでも、砂浜ばかりで、実家のある、光景にたどり着けない。実家どころか、知り合いの家でさえも見つからない。ある意味。浦島太郎のようだった。
「あの。」
繭子は、通りかかった人に聞いた。
「この辺りに、川崎という家は、、、。」
「あんた、何も知らないの?」
その人は素っ頓狂に言った。
「知らないって何をですか?」
繭子の顔が青白くなった。
「ここは、四年前に、大きな地震があったところだよ。ここにあった、家はみんな、あの時の大津波で、流されちまった。そんなことも知らないなんて、あんたは、記憶喪失じゃ、ないのかね。」
その人は、冷たく言って、去ってしまった。そんなこと、刑務所にいた繭子には知る由もない。津波で流されたということは、父も母も、もういないということだ。神が、罪を犯した自分を罰したのだと思った。
「もう、死ぬしかないか。」
彼女は、笑いながら言った。刑務所に入っても、自分が殺人者という自覚はなかったが、ここでやっと、わかったような気がしてきた。海の音が聞こえる。長年母は、海のそばに住みたいといっていた。しかし、家を支配していた祖父のおかげで、それが実現するのに、十年以上かかった。あれほど喜んでいた母も、もう、いないのか。繭子は、海へ向かって歩いて行った。
砂浜には、あれやこれやと、瓦礫が散乱していて、大地震ということを物語っていた。目に、いっぱい涙をためた繭子は、海の中へ足を踏み入れた。
不思議な音が聞こえてきた。フルートではないし、尺八でもない。その音は、死ぬのにはふさわしくない音であった。苛立った繭子は、音の主を探しに行った。瓦礫だらけの砂浜を歩くのはかなり苦労した。音はさらに大きく強くなる。しばらく歩くと、一人のおばあさんが立っていた。音の主は彼女だった。それは、雅楽に使用する、龍笛という笛だと、繭子はすぐに分かった。
「すみません。」
おばあさんは、まだ吹いていた。よく知られている映画音楽であったが、顔つきや、着物の色とよく協和しており、自殺したい気持ちなど、どこかに消し飛んでいった。
「素敵。とても、よかったわ。」
繭子は、拍手をした。
「ありがとうございます。」
白髪に、紫の着物を着た、きれいなおばあさんであった。
「憧れの笛でしたけど、生で見たのは初めてです。」
「まあ、お若いのに珍しい。」
「いえいえ、私、もう三十五なんです。」
「そうは見えないわね。どこかから、旅行に来たの?よかったら、うちに来ない?」
繭子は、ほかに行くところもないので、そうすることにした。龍笛を鞄にしまったおばあさんは、砂浜を歩き始めた。長く足を使っていなかった繭子には、きつい移動であり、左足に少しまめができた。小高い丘の階段を上ると、小さなログハウスのような家に来た。おばあさんは、すぐその戸を開けて、繭子を中へ招き入れた。
本当に小さな家だった。台所には何枚も皿が、置かれている。
おばあさんは、ハーブ茶を作ってくれた。生まれて初めて、繭子はハーブ茶を飲んだ。
「今日はどちらからいらしたの?」
繭子は返答に困ってしまった。きっと、自分の名を言ったら、追い出されると思った。頭で一生懸命考えていると、子供のころに読んでもらった、絵本が沢山おいてある。著者名はすべて、鈴木重子と、書かれていた。
「それはね、私が書いた本なのよ。でも、何一つ、その本の通りに行動できていないのよ。私って、ダメな人ね。」
おばあさんは笑っていた。鈴木重子の本は、
他人への思いやりを描いたものが多く、学校
でも、道徳教材として、使用されることが、
多かった。つまり、このおばあさんは、鈴木
重子さんということになる。
「ダメね。他人を助けようとして犠牲にな
った人の事を書いておきながら、自分の息子一人、助けてあげられなかったのよ。」
おばあさんはさらに続けた。
「ここで、大きな地震があったの。私は、ここに住んでいたから、津波は来なかったけど、息子は、海の近くに住んでいたから、もろに来てしまった。前日、すごい喧嘩をしてしまって、謝ろうと思った矢先にこれだったから、私が殺したようなものね。娘は、それ以来、東京に引っ越してしまったし、息子が吹いていた龍笛だけが残ったの。
だから、償いの為に、これを毎日吹いているのよ。」
そういって、おばあさんは涙を拭いた。
「ごめんなさい。私、私は、」
と、繭子は言いかけたが、
「いいのよ、だれでもうしろめたさって物はあるんだから。」
「だって私は、人殺しです。」
「誰でも、間違うことってあるわよ。貴女、行くところないんでしょう?それなら、ここにいてもいいわ。長く生きているとね、そういうこともよくわかってくるから。貴女は、本当につらかったのね。」
繭子は両手で顔を覆って泣き出した。
「いいのよ、いいのよ。一人ぼっちなのは私も同じだから。」
おばあさんは、彼女の背をさすってくれた。
「これからは、重子さんと呼んで頂戴。」
「はい、私は繭子です。本当に、ありがとうございます。」
繭子はその日、いつまでもなきじゃくってい
た。
翌日、繭子は重子さんの手伝いをするよう
になった。大きな洗濯機にたっぷりの水をい
れて、下着一枚を洗ったり、ガスコンロにお
湯をかけてと言われて、意味がわからずに水
をかけてしまったこともあったが、重子さん
は、決して感情的にはならなかったし、こん
な簡単なこともできないのかと、嫌がらせを
することもなく、親切に教えてくれた。その
ため、繭子は簡単な料理や洗濯、掃除ができ
るようになった。
日中は外へ散策に出かけた。広い公園を散
歩したり、雨の日は図書館に出かけた。重子
さんに勧められて、繭子は数多くの本を読ん
だ。土佐日記、源氏物語、どれも点数をとる
ための、手段としか感じていなかったが、そ
こから離れると、古代の人たちが、どのよう
にして、困難を乗り越えることができたのか
を、静かに語ってくれるのだった。繭子は、
重子さんに、本を読んだ感想などをよく口に
したが、重子さんはよかったねと言って、共
感してくれたため、繭子は毎日が楽しくなっ
た。
重子さんは、ガーデナーでもあった。知ら
ない花の苗をたくさん買ってきて、玄関前に
植えていた。それは薔薇のような、立派な物
ではなく、何気なくさいている、小さな花達
だった。名前は知らないけれど、高級な花よ
り、ずっと美しいな、と、繭子は思った。
夜は、重子さんに龍笛を教えてもらった。
龍の鳴き声を真似た音なので、この名が付い
たそうだが、龍がこんなに美しい鳴き声をす
るのであれば、そう怖い生き物でもないのか
もしれない。龍の子太郎のような、物語もあ
るのだし。音楽の知識はないが、繭子はそう
感じていた。
そんなある日。
どさ。
不意に鈍い音。台所で料理していた繭子は、
急いで火を止め、外にでた。
「重子さん!」
重子さんは、物干し棹の前で座り込んでいる。
「大丈夫?」
「大丈夫よ。ちょっと、疲れただけ。」
しかし、その日を境に、重子さんは急に物忘
れするようになった、買物にいっても、財布
を忘れてきたり、カレーを作るといいながら、
ビーフシチューのルーを買ってきてしまった
り、きちんと着ていた着物も乱れてきた。繭
子はそれを見て、なんとなくある人物と似て
いるな、と思い、不安になってきた。その人
は、高齢者であればだれでもかかり得るが、
周りの人には、ものすごい心労を与える病気
をもっていた。同じだったらどうしよう、同
じだったらどうしよう、おなじだったらどう
しよう、繭子は不安を募らせるばかりだった。
「私、なんだかおかしいのかしら。」
重子さんはそういった。その顔はとてもつら
そうだった。繭子は勇気を出して、
「よかったら、検査を受けてみませんか?」
と、提案した。
「そうね。やってみようかな。」
あの人物は、決してそうは言わなかった。娘
が懇願してやっと受けてくれた。
しかし、どうやって手配すればいいのだろ
う。この家にはテレビもなく、パソコンもな
い。重子さんは年寄りには必要ないと、いっ
ていたからだ。それに、服役生活で、病院の
名前も忘れている。繭子はとりあえず電話ボ
ックスに行き、電話帳を拝借して、総合病院
に電話した。一通り重子さんの症状を言うと、
「ご不安であれば、ここで診察を受けられ
たらどうですか?」
と、オペレーターの人は言った。そして、昨年にオープンしたばかりだという、脳神経外科の番号を教えてくれた。繭子は早速そこへ
電話をかけた。
「はい、磯部病院です。」
「あの、認知症の検査をお願いしたいのですが。」
優しそうなオペレーターだった。
「ご家族のかたですか?」
答えを出すのに詰まってしまった。自分の名
は、散々ワイドショーなどで、報じられてい
るだろう。
「当院では、ご家族と一緒でなければ、来院できないことに、なっているのですが。」
オペレーターはそういう。
「はい、孫です。孫の鈴木繭子です。」
繭子は、とっさにそういってしまった。次に
患者の氏名を聞かれたので、祖母の鈴木重子
が、物忘れがひどいので、認知症の検査を頼
みたいと申し出た。オペレーターは、今日は
予約で一杯なので、明日の午前中に来てくれ
と言った。
翌日、繭子はオペレーターに教えてもらっ
た道順で、重子さんを連れて行った。その病
院は、オープンしたばかりでもあり、立派な
ホテルのように見えた。中は年寄りたちでご
ったがえしていた。テレビがいやだとか、パ
ソコンがいやだとか、年寄りたちはそればか
りしゃべっていた。中には病気ではないのに、
それを言いたいがために、病院に来ている者
もいる。重子さんは、保険証などは全部もっ
ていた。
「鈴木重子さん、お待たせしました。」
三十分ほど待って、看護師が呼んだ。繭子が
問診表を丁寧に書いたため、診察はすぐに終
わり、重子さんは検査室に移った、付添は不
要と言われたため、繭子は待合室で、コーヒ
ーを飲みながら待った。砂糖の利きすぎた、
まずいコーヒーであった。
「終りました。」
長い長い時間であった。
「ど、どうなんでしょうか?」
繭子は、診察室に入って、恐る恐る聞いた。
「そうですね。」
医師は、穏やかだった。
「長谷川式知能検査をしてみましたが、三十点満点で、十八点しかとれていませんね。
さらに、MRIを撮りましたが、脳が少し萎縮しておりました。なので、」
ああ、やっぱりか。予感は当たっていた。
何てことだ、何てことだ。自分が殺害した人
物と同じ病気に、重子さんがかかっていたな
んて。
テレビドラマなどでは、ここで泣き出す人
もいる。しかし繭子は泣くことはできない。
もし、名前をきかれたら、大変なことになる。
「介護するのは、まだお若いですし、大変だと思いますので、どうでしょうか、特養を手配いたしましょうか?」
他の人だったら、文句なくはいというだろう。
経済的に特養は無理だし、自分は社会に出て
働くこともできない。罪の重さというものが、
大きく圧し掛かってきた。結局繭子は、自分
で介護するからと申し出た。そのあと、自分
は、何をしていたか記憶していない。気が付
いたときは、病院の支払いを済ませ、重子さ
んと一緒に家に帰っていた。いつも、重子さ
んの物置部屋で寝起きさせてもらっていたが、
その日は出て行ってしまいたい気持ちになっ
た。
ふと、家族のことが思い出された。幼い頃
から、自分の家は同級生の家とは違う、と、
なんとなく感じていた。流行りのテレビ番組
も、テレビゲームもない。父は仕事でいつも
不在だし、母は、びくびくおびえながら暮ら
していた。母が一人っ子であったため、跡取
りが必要ということで、婿とりだったのだ。
しかし、父は店の従業員とは不仲だったから、
祖父に冷遇されていくようになり、家のこと
は、一切構わなくなって、別の職場に行って
しまった。母は、祖父に対抗し、テレビを繭
子に見せてもよいのではないかといったが、
教育上よくないとして、跳ね返されてしまっ
た。事実、繭子は、友人ができなかった。そ
んな祖父を、祖母はなだめていたものの、精
神力の強い人ではなかったから、繭子が高校
生の時に自殺した。
繭子は、こんな家から早く出たかった。し
かし運命というものは、彼女がそうすること
を、許さなかった。祖父が、あまりにも怒り
っぽくなったり、ひどく落ち込む様になった。
鬱病か、と思われたが、トイレで用を足した
あとに、水を流すのを忘れたり、家族の名前
を忘れたりするようになったのだ。医者は、
認知症という、診断を下した。祖父が、家で
死にたいというので、母が介護して、繭子は
大学受験をあきらめ、地元の企業に就職した。
ところが、介護疲れで母が倒れてしまった。
父は、長年家を放置したお詫びとして、海の
見えるところに住みたいという、母の希望を
かなえてあげた。しかし、祖父は、環境が変
わったために、さらに怒りっぽくなり、自分
のことを蔑ろにしていると、警察に訴えよ
うとしたため、繭子は、その深夜に、包丁で、
祖父の心臓を刺して殺害したのである。その
ときは、ナポレオンになったようだった。し
かし、警察に逮捕されても、弁護士にしても、
自分のこの辛さをわかってくれる人は誰もお
らず、ただ、悪人呼ばわりするだけだった。
その感覚が、蘇ってきた。また、同じ目にあ
わなければいけないのか。そうなると、刑務
所のほうが、まだ楽かもしれなかった。
どこかで龍笛の音が聞こえてきた。時計を
見ると、午前四時。近所迷惑になる時間だ。
繭子は布団から起きて、部屋を出た。
居間の電気をつけた。重子さんが龍笛を吹
いている。目には涙があふれていた。
「重子さん、こんな朝早くから龍笛はよしてよ。近所迷惑になるでしょうが。」
重子さんは、龍笛を下ろした。
「これも、忘れていくのかしら。」
何か、美しい響きがあった。
「今は吹けるけど、何れは忘れていくの。命の次に大切なものだったけど、忘れていくのね。そうでしょ。」
「そうでしょうって、」
「仕方ないかもしれなけど。」
重子さんは、着物の袖で涙を拭いた。
「彼女の名前も、彼女の存在も忘れていく。
私、なんて言ったかしら。もう、思い出せ
せないわ。」
「重子さん、、、。」
「ずっと一人ぼっちだった私に、神様はこ
れを通して、私に大切な人をプレゼントしてくれたのに、私はそれも忘れていくんだわ。」
その言葉は、衝撃的だった。
「重子さん!その人ならここにいるわ!
私よ!繭子!」
繭子は重子さんの前に立った。次の瞬間、
「どなた?ああ、もう、思い出せない。」
「私、川崎繭子と申します。鈴木重子先生
に、龍笛の指導を賜りたくて、こちらに、
まいりました。」
繭子は、初対面の人のように、重子さんに言った。そうか、そういうことにもなるのだ。
「ええ、うれしいわ。」
重子さんは、嬉しそうな顔で、龍笛を吹き始めた。語彙が少なくなるのも症状の一つと聞いていたから、繭子は気にはしなかった。
「この音も、聞けなくなるんだ。」
繭子は、一つわかったような気がした。
と、同時に、刑務所上がりの自分に、こうして龍笛を教えてくれたこと、古代の文学に触れさせてもらったことが、まるで、昨日のように思い出された。こうした思い出も、認知症というものは奪ってしまうのだ。何の特技のなかった自分が、龍笛というものを吹けるようになるなんて。それを教えてくれた人は、言うまでもなくこの人だ。
「ありがとう、私、ずっと一人ぼっちだか
ら、うれしいわ。」
「一人ぼっち?」
繭子は問い返した。
「そうよ、年をとるとね。いろんなところ
が弱っていくから、お荷物さんになるの
よ。もう、子供は独立して忙しいし、寂し
いなんて口に出したら、倍以上の叱責が返
ってくるわ。煩わしいとして、相手にはし
てくれない。仕事もなくなって、社会から
孤立したようになるのよ。それまでの私の
苦労なんて何も知らないで。
そういえば、龍笛を習いたいとして、誰
かが来てくれたんだけど、なんて名前だっ
たかしら。うーん、思い出せないわ。」
「重子さん!」
繭子は思わず叫んだ。
「お願い!私に龍笛を教えて!私も、重子
さんに、忘れられたら、本当に悲しいわ!
それに、いろんなものを教えてもらったの
よ!」
重子さんは、にっこりして、龍笛を繭子に
手渡した。龍笛が一本しかないので、一々歌口を拭かなければならなかったのだが、日頃から、そのやり方であったため、繭子は気にしなかった。外の人たちが、うるさいと言っているのもわからなかった。
辛いのは自分だけではない。
この世界は、本来尊敬すべきお年寄りが、このように、寂しい思いをしている。
大きな教訓だった。
どこからか、陽がさしてきた。
「夜明け前って、一番寒いのよね。」
と、重子さんは言った。
「そして、すごく明るくなるんですね。」
繭子もにっこりした。
「ありがとう。」
重子さんが右手を差し出した。
「ありがとう。」
繭子は、重子さんの手を握り返した。
太陽が、一番高くなるころだった。重子さんは、龍笛を吹き、繭子は大量の皿を洗っていた。重子さんがいくら食事を忘れても、気にらなかった。
突然、玄関のインターフォンがなった。
「はい、どちら様ですか?」
繭子は、ドアを開けた。すると、中年の男性と、若い女性が立っている。
「あなたは、どちら様?ここは、母の家ですよね。」
その女性はつっけんどんに言った。龍笛の音
が急に止まった。
「お母さん、変なものばっかり吹いてないで、こっちに来てよ。昨日は朝早く吹いていてうるさいって、苦情が来て、私、大変だったんだから。いいグループホームとか探すから、お兄ちゃんの思い出に逃げるのはやめてもらいたいわね。それに、勝手に磯部先生のところに行くなんて、検査のお金だって、私の仕送りなんだから!」
つまり、この人は、重子さんの娘さんである。
しかし、他人のように見えるのであった。
「いやだよ!都会には行きたくない。私は、ここで静かに暮らしたい。」
重子さんはそういった。
「我儘もいい加減にして!いつまでもグズグズしていないで病院にでも、入ってよ!
そんなんだから、私たちはいつまでも楽に
なれないんじゃない!」
娘さんはきつかった。隣にいた、名札をぶら
下げた男性が、娘さんをなだめながら、
「鈴木さん、もう娘さんに任せようよ。きっと、素敵なところを調べてくれるだろう
だろうから。大丈夫だよ。」
と、言った。口調だけは優しいが、それはう
わべだと、繭子にもわかった。この人はおそ
らく、ケアマネージャーさんか何かだろう。
優しい口調は商売道具であり、本当に親切に
はしていないのだ、という意図がはっきりと
感じられた。
「いやなものは嫌だ!私はそんなところよりも、」
「やめてちょうだい。一番迷惑がかかるのは、娘である私なんだから!もう、介護タクシーもとったのよ。お代、高いんだから、来てちょうだい!」
娘さんは、ケアマネさんと一緒に、土足の
まま部屋に入って、重子さんを抱えこみ、外
にあった、大きな車に乗せてしまった。
「待ってください!お母様のお話を聞いてあげてください!それにこの笛は、変な物
ではありません!」
繭子は床に落ちた龍笛を拾い上げた。
「母をどうもありがとう。わたしにとっては、要らないものよ。」
娘さんはそういい、車に乗り込んでしまった。
中で、重子さんが泣いているのが聞こえてき
たが、車は爆音を立てて走り去っていった。
龍笛は繭子の手の中にあった。目の前では
植物たちが、けなげに花を咲かせていた。
「私が、龍笛も、この庭も守る!」
繭子は歌口を唇に当てて、龍笛を吹き始めた。
植物たちは、上達した彼女の音に、拍手して
いるように揺れていた。
龍笛